シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) 五十嵐飛水

 五十嵐飛水は、殺風景なキッチンの片隅に座り、ファッション雑誌を眺めていた。
  艶のある長めの黒髪は後ろで一つに束ね、白いワイシャツの腕をまくり上げ、スリムのデニムを穿く。
  そこまでは普段着だが、この時間はその上に歌麿の美人画がプリントされたエプロンを着け、黒縁眼鏡をかけていた。
  左頬の十文字の傷があっても、その風采を損なうことはない。
  視線と同じ高さにあるオーブンからは、甘い香りが漂っている。
  流しに洗い物は残っていない。カウンターも整然としていた。部屋の一角はダイニングテーブルと背もたれのついた椅子が四脚。重ねられる椅子が多め。壁際にカウチ。どこにも汚れ一つありそうにない。
  ここは真行寺の敷地内だが、本宅とは別棟になっている。真行寺一家に属している若い衆が使う事務所の隣にある、食事や休憩をするスペースだ。
  その一角に台所を備えていた。
  以前は申し訳ない程度の狭い流しとコンロが一口。作業台も狭く、とても料理をするスペースではなかったが、飛水の一声で住宅メーカーのモデルルーム並みのシステムキッチンが備え付けられ、むさ苦しい男どもがゴロゴロと転がるばかりだった共有スペースが、すっきりとしたダイニングテーブルと休憩スペースに変貌した。
  真行寺は古くからこの界隈の土地を守り、代々受け継いできた。
  大所帯を賄うのに本宅に主な厨房があり、そちらは専属の料理人がいる。
  飛水も普段はそちらで食事をしているが、何故か最近、仕事が一段落した後のこの遅い時間、この場所で過ごすことが日課となっている。
  ここで毎夜、お菓子を焼いているのだ。
  もうすぐ午後十時だ。
  そろそろ誰かが帰って来る頃だろう。
  雑誌の一ページを見つめながら、腕時計に目を移し、何かに気付いたように苦笑で顔を上げた。
  戸口に万里子が立っている。
「敷地内とは言え、こんな時間に一人でウロウロしているのは感心しませんね」
  雑誌を伏せておもむろに立ち上がった飛水は、棚からコーヒーメーカーを下すと、コーヒーを淹れる準備を始めた。合間にコンロにケトルをかける。
  万里子は無表情のまま、ダイニングテーブルを通り過ぎて、カウンター越しに飛水の前に立った。
  柔らかなウェーブのある長い髪を左の肩口で一つに結び、シルクのブラウスの上に薄いストールを掛けている。
  穏やかな微笑を浮かべて手を動かす飛水とは対照的に、万里子の表情は少し硬い。
「今日も、何か焼いているのですか、飛水」
「タルトですよ。今日はリンゴにしてみました。お嬢さんも食べますか」
  慣れた手つきでコーヒーをセットし、大きめのマグカップを幾つかカウンターに置き、それとは別にコーヒーカップとソーサーに手を伸ばしながら、答えを待つ。
  その長い指先と脇に置かれた雑誌を見比べながら、万里子は憮然として答えた。
「いいえ、結構よ。何時だと思っているのですか。おやつの時間ではないでしょ」
  どこか不機嫌な様子なのは明らかだが、飛水はまったく気にしていないようだ。
「では、ミルクでも温めましょうか。よく眠れますよ」
  冷蔵庫に手を伸ばすふりを見せる飛水に、短く、
「いいえ」
  と一言答え、無造作に置かれた雑誌を取ろうとして、――制止された。
  雑誌を開こうとして伸ばした万里子の指と、雑誌を抑えて阻む飛水の指が、触れる寸前で止まり、お互いを見つめた。
  万里子の瞳は、多少の怒気を含んでいる。
  飛水は臆することなく見つめ返した。
「何故、見てはいけないのですか。飛水」
「お嬢さん、一応オトコの本ですので、ご遠慮願えますか」
  ありふれたファッション雑誌だ。敢えて隠さなければならないようなモノが載っているとは思えず、どうしても覗かなければならないような記事が書かれているとも思えない。
「何を隠しているのですか」
「何も――。それとも何か、気になることでもあるんですか」
  そう問い返されて、万里子は次の言葉を継ごうとして、黙った。
  戸口がにわかに騒がしくなった。
  何やら喧々囂々とした会話が大きくなり、そのままの音量で二人がノックもせず入って来た。
「兄貴、やっとつかみましたよ。褒めて――あ、お嬢さん」
  先にドアを開けた清水泰二が、万里子を見て凍り付いた。
  愛嬌のある丸顔とツンツン頭、ヨレヨレのスーツからも細身だと分かる清水は、背中を丸めた状態で口が半開きだ。
  その後ろから覆いかぶさるように顔を覗かせた田坂慎平が、丸眼鏡を鼻先にずらして状況を確認し、飛水の表情を見つめながら清水の首に腕を回して締め上げた。
「何を言いかけたのですか」
  万里子の視線が容赦なく清水と田坂を見据え、低音が響く。
  清水は田坂の腕にもがきながらも後ずさりし、田坂は清水のモゾモゾを押さえつけるのに必死な様子を見せてはぐらかす。
「えっと・・・」
  万里子の冷たい流し目が、飛水に移った。
「飛水、私に内緒の話ですか」
  先程までのやり取りが再燃する。
  飛水は少しおどけるような表情を見せ、万里子の指先から雑誌を引き離すと、視線を逸らせて明るく返した。
「えぇ、お嬢さんは、男同士の野暮な話は聞きたくないでしょう。気を遣っているんですよ、これでも」
  なおも戸口で焦っている二人に声をかけて中に入るように示し、開けっ放しの戸口を万里子に示す。
「さ、お嬢さんはお戻りください。若いもんが緊張してくつろげませんので」
  ちょうどタルトが焼きあがったようだ。飛水はオーブンの中を確認し、手際よく中から天板を取り出した。甘いリンゴの香りが部屋に漂う。
「お嬢さん、明日、学校へ持って行きますか。取り置きしますよ」
  あくまでも明るく話す飛水を静観しながら、万里子は無表情を作った。
「そうね・・・。そうしましょう」
  言いたいことはまだまだあるのにと言わんばかりの表情のまま、万里子は小さくなってテーブルに伏し、存在を消そうと躍起になっている二人を一瞥すると、それ以上は何も言わず真っ直ぐ戸口へ向かい、後ろ手に戸を閉めた。
  身を縮めてくっついていた清水と田坂が、大きく息をついて離れた。
「すみませんでした、飛水さん。おい、泰二、気を付けろよ」
  飛水に平身低頭謝りながら、傍の清水の頭を一つ叩いて、田坂が椅子を出して座る。
  やんちゃ坊主が背伸びした格好の清水に対し、田坂は少し大人びた様子で丸眼鏡をかけ直し、大きく深呼吸して飛水を見た。
  カウンター越しに、飛水は無言で大きめのマグカップ二つに湯を注いで温める。
「だって、お嬢さんがまさかこんな所に来られるたぁ思わないじゃないですか――」
  清水泰二は叩かれた頭を撫でながら、口を尖らせて反論する。
「しかも、こんな夜遅くに――」
「考えろ。兄貴がここにいるんだ。来るだろ」
「そうなんですか、俺は思いもしませんです」
  とことん不満そうに答える。
「それで、情報は」
  淹れたてのコーヒーを温まったカップに注ぎ、二人の前にタルトとマグカップを置くと、飛水は先程のファッション雑誌を開いた。
  敢えて万里子から遠ざけたページ。
  そこには、咲久耶市周辺の地図が一枚挟んである。一見、雑誌を読んでいるように見せかけて、実際はそこに書かれた情報を見つめていたようだ。
  地図には幾つもの印がついており、その番号に合わせて地域や場所、建物の名前らしい文字が一覧になっている。
  その中の幾つかを指で示しながら、田坂は続けた。
「幾つか目ぼしい場所は把握しました。一つは別のグループがたむろしているようですが、他の数か所については、確実に常磐井配下の者が管理していました。警備も半端ないです」
  そう報告しながら、大きめのリンゴのタルトを几帳面に一口大に切り分けている。性格なのか、極力形を壊さないようにフォークを入れる手つきが細かい。
  その横で、清水は手掴みでタルトを頬張る。
  飛水は、早々と飲み干されたマグカップに、またコーヒーをなみなみと注ぐ。
「そのうち、一番大きな建物の一角が工場のようですね。人の出入りは少ないようですが――」
  田坂が言いかけて、止まった。
  飛水の視線が戸口へ向かい、会話を制してドアに向かうと、無言で扉を開けると、その傍らに視線を流した。
「お嬢さん、立ち聞きはお行儀が悪いですよ」
  まだ日中は汗ばむこともあるとは言え、夜間は冷え込む。今夜はもう上弦の月が西の空に沈む頃だ。羽織るものがなければ冷えてしまう。
  万里子は薄いストールを握りしめるようにして気配を消し、戸口に立ち尽くしていた。
  時間にすればほんの一瞬のことなのかもしれない。
  万里子は無言で飛水を見返している。問いたいことは色々あるが、おそらく答えは返らないだろう。
  だから何も言えなかった。
  それを見透かすように飛水の口元がほころび、片手で眼鏡を外すと笑って見せる。
「大丈夫ですよ。誰も怪我などさせません」
  その言葉で良いのかどうか分からないが、恐らくどんな言葉よりも確かだろう。
  万里子は少し視線を逸らし、小さく問うた。
「――貴方もですか」
「はい」
「――そう」
  それで納得したのか、万里子はそれ以上何も言わず、本宅の方へと戻って行った。
  その後ろ姿が本宅への扉の向こうに消えるまで、飛水は無言で見送った。
  表向きは単純にお菓子作りを趣味にした形だが、内実は、こうして直接若い衆からの情報を聞く為、この場所に入り浸る不自然さを排除し、つなぎをスムーズにするのが狙いだ。
  恐らく万里子は、何かに気付いているのだろう。
  だが、その意味を説明する気はなかった。出来れば、密かに進めたかった。
  戸口に寄り掛かるようにして見送る飛水に、背後から筋肉質の太い腕が伸びる。
「よう、飛水。お前、店、始めたんだってな」
  長身の飛水よりも丈高く、ボディビルで鍛えた身体を多少持て余し気味の天宮元が、羽交い絞め寸前の恰好で飛水の背後に立った。分厚い胸板を飛水の背中に押し付ける。
「お前の作った菓子だって言って、子分どもがオンナ引っかけるのにばら撒いてるらしいじゃん」
「ミヤさん、暑苦しいですよ。また筋肉ついたんじゃないですか」
  喉元に食い込む天宮の腕をほどきながら、飛水は天宮の横に立っている初老の男に礼をした。
「広郷さん、こんな時間にどうされたんですか」
「いや、なに、お前の顔が見たくなったから来たんだ。店をやってるって聞いたからな。元、ここで脱ぐなよ。てめぇはすぐに脱ぎたがる。わざわざ筋肉つけたからって見せなくていいんだ」
  吉川広郷(きっかわひろさと)は飛水に笑って見せながら、飛水に褒められたと勘違いしておもむろにシャツを脱ごうとしている天宮をたしなめると、本宅の方へ視線を向けた。
「さっき、お嬢がいたな。どうした、また心配させてんのか」
  飛水や天宮に比べればはるかに小柄で風采の上がらない吉川だが、貫禄という点ではまったく格が違う。
  吉川広郷は万里子の祖母の弟、大叔父にあたる。年齢が当代より十歳上で、そろそろ隠居と思っているが、そろばん勘定に長けており、また若い衆の人望も厚いことから、隠居の話は流れに流れていた。
  天宮元は、そんな吉川の直属の部下だ。こちらは数字もデスクワークもとんと弱いが、上下関係なく面倒見が良く、誰とも壁を作らない気安さがあった。ボディビルで鍛えた身体を見せたがるのが玉に瑕というところか。
  部屋の中でタルトを頬張っていた田坂と清水の二人も、戸口まで出て直立不動を保っていた。
  吉川の鋭い中にもどこか柔らかい視線を受け止めて、飛水が恐縮して中へ促す。
「別に店を出した訳ではないですよ、広郷さん。さ、どうぞ」


「うまいっすよ、これ。広郷さんもどうです」
  ダイニングテーブルで、田坂と清水の間に陣取り、出されたタルトを頬張る天宮に、吉川が呆れる。
「馬鹿野郎、こんな時間にそんな重いもんが食えるか。胃がもたれらぁ」
  吉川はカウンターに座り、アルコールを要求した。
  残念ながらいい酒は置いていないと説明しながら、飛水はブランデーを出した。
「何か、つまみがいりますね」
  そう言うと、クラッカーにチーズとジャムを簡単に乗せたものを三つほど作って勧める。
「お前は、マメな男だな」
「お口汚しですよ」
  一つつまんで口に放り込む吉川に笑って見せ、自分用に冷蔵庫から炭酸水を取り出すと、飛水はカウンター越しに吉川の正面に座った。
  ダイニングテーブルの三人は、飛水が追加で出した焼き菓子の盛り合わせとゼリー系のスイーツを肴に、他愛のない話をしている。専ら筋肉に関わることのようだ。
「ところで、飛水。なんで菓子なんか作ってんだ」
「若い者に聞いたら、外では食べにくいと言うので。作ってみると結構楽しいですよ」
「で――、何を調べてる」
  吉川が問う。
  飛水は苦笑で流そうとしたが、吉川は畳み掛ける。
「常磐井のボウズだろ」
「――」
「隠してることにならねぇんだよ、お前の面は。常磐井が絡むと、お前もお嬢も顔つきから変わる。おまけに当代までが落ち着かねぇ。ま、分からねぇこともねぇがな」
  最後の言葉は、飛水の左頬に視線を向けた。
  吉川も、その傷のことを忘れることはなかった。
「先日、常磐井との賭けに勝ったとは聞いたが――」
「えぇ、鷹千穂学園と聖蘭学園とのバスケの練習試合ですよ。案の定、常磐井の社長が話に乗ってきたので」
「ま、息子が胴元の賭けが裏目に出るとは思わなかっただろうよ。懲りるってことを知らない野郎だからな、親子揃って」
「そうですね」
  はしゃぎながら胸筋をピクピクと動かして見せる天宮と、煽っている二人の若者を遠目に、吉川がブランデーで口を湿らせる。
「常磐井のボウズ、アメリカ留学とか言いやがって、お勉強とは程遠いもんを持って帰りやがったようだな」
「ご存じで」
「あぁ、色々な。ガキが扱うもんじゃない。おまけにあの性質だ。関わる者はそれだけで不憫な気がするぜ」
  まるで苦い薬でも飲み込むようにブランデーを飲み干し、グラスを飛水に差し出す。
「そうですね」
  呟くように同意しながら、ブランデーを注ぐ。
  報告は受けていた。
  すべてが思い通りにならなければ気が済まない者の傍にいれば、その意から少しでも外れれば排除される。実際、常磐井鼎の周囲では事件にならないまでも、きな臭い噂や動きが次々とわいて出てくる。
  そして必ず、数名の者が危害を加えられているのだ。
  それを飛水がどうこうすることはできない。真行寺も手が出せない。ただ、そんな危険な人間に近づかないで欲しいと願うばかりだが、その蜘蛛の巣に引っかかる者が後を絶たないのも事実だった。
  飛水は、何とか被害を止めたかった。
  先日の賭けに勝ったとは言え、相手は約束を反故にするのも厭わない人間だ。
  放っておけば必ず真行寺に危害を及ぼしてくる。
  とりわけ万里子は絶好の標的となるだろう。
  無表情を装いながら、手元の炭酸水のグラスをもてあそぶ。思考は定まらず、焦りばかりが沸々と湧いた。
  不意に、クラッカーが割れる音がして顔を上げた。
  吉川広郷が飛水の顔を見つめていた。背後では、天宮元の賑やかな声がしているが、二人の周囲は不気味なほど静かだった。
  故意に音を立てて食べたのだろう。
  視線は飛水に固定したまま、吉川は口ばかり動かした。初老とは言え、眼光鋭いその瞳が、すべてを見透かすように瞬き一つしない。
  暫く何も言えなかった。
「お前が気にするのも分かるが、あんまり表立って動くなよ。あのボウズは、昔からお前を殺したくて仕方ないんだ」
  小さく、飛水のみに届くように吉川が呟いた。
「知っています」
  淡々とした口調で答える飛水の言葉に一度目を閉じて息をついた後、顔を上げ、吉川は小さなため息をついた。
「よくその傷一つで済んだことだよ」
  飛水の左頬を見つめた。
  十年前のあの日、吉川も屋敷にいた。
  鮮血の飛び散る部屋の中で、血塗られた顔半分を抑えてうずくまる飛水の前に立ちはだかる万里子を凝視し、返り血を浴びた常磐井鼎は尚もナイフを構えるようにして立ち、全身を震わせて、今にも飛び掛からんばかりの形相だ。
  それを遠目に見つめていた吉川には、常磐井の憎悪が必ずしも飛水一人に向けられたものではないように感じた。
  おそらく、意のままにならない者に対する地獄の底からの憎悪。飲み込まなくては気が済まない際限のない欲望。
  親同士は、十年間二人を引き離すことで同意した。
  十年という歳月が、どういう意味を持つのか、吉川は密かに考えていた。
  十年あれば成長する。良い悪いは別として、実際に真行寺もそして常磐井も十年前とは違う。
  そして今、その十年がこようとしている。
「で、お嬢に内緒で調べてるのか」
「知らせる必要はないかと――」
  飛水は特に気のない様子で、天宮の飲み物がなくなったと取りに近づいて来た田坂に、持っていたブランデーを渡した。
  万里子の話になったと思ったのか、田坂が二人に声をかけた。
「そういえば先日、学生がお嬢さんを訪ねて来てましたよね。どこのモンだったんですか」
「何だと、飛水。どこのどいつだ」
  天宮が聞きつけて、空のコップを田坂に差し出しながら口を挟む。
「ただの高校生ですよ。ミヤさん」
「身元はわかっているのか」
「えぇ、広郷さん。玄武館高校二年生です。玄幽会という学生組織の幹部らしいですが、お嬢さんに害を加える様子はありませんよ」
「そうなのか」
  半信半疑の吉川に、控えている田坂が同調するような不安な表情を見せる。
「ですが、飛水さん。俺の高校の後輩から聞いた話じゃ、その玄幽会ってのが最近、咲久耶市内の高校に接触してるって感じらしいっスよ」
  一番年下の清水泰二が、心配そうに口を挟んだ。
  余裕のある微笑を浮かべる飛水とは反対に、天宮が眉をひそめる。
「学校は大丈夫なのか、飛水」
  とっととブランデーを飲み干してポーズを取りながら動かせる筋肉をピクピクさせ、天宮が続ける。上半身はTシャツ一枚だ。着ていたはずのスーツとワイシャツは脱ぎ捨てられていた。
「ミヤさん、それ以上脱いではいけませんよ。鷹千穂は鷹沢が守りを固めています。学校は心配ないでしょう」
  吉川を見てそう答えると、神妙な顔が返ってくる。
「確かに学校は大丈夫かもしれないが、用心に越したことはない。飛水、お嬢にも必要な情報はしっかりと伝えておけ。自分の身は自分で守れるようにさせておくんだ。お前がどこにいようともな。傍にいたくても、いられない時だってある」
「・・・・・・」
「失くす前に守ってくれよ。失くした後でいくら嘆いても、取り返せないからな。特に、命はな」
  黙って聞いている若い者にも届くように、吉川は静かな声で諭す。
  その真意が分かるのか、しばらく誰も何も言えなかった。
  そこへまた騒々しい声が近づいて来て、勢いよく扉を開ける。
「遅くなりました、飛水さん。あ――、広郷さんがいる」
「あ、ミヤさんだ」
「わぁ、広郷さんだ。お久しぶりっす」
  と、五人の若者が前後ろ入れ替わりながら騒々しく入って来た。田坂と清水同様、飛水に報告の為に帰って来た者たちだ。
「うるせぇぞ、てめぇら。何時だと思ってる。静かにしろぃ」
  吉川が声を落として諫めるが、些か効果は薄い。
  五人は一応音量を下げたつもりだろうが、テンションは高いままだ。
  吉川と天宮の周りをまとわりつくように取り囲み、てんでに質問攻めになる。この騒々しさに田坂と清水も参戦する。
「やれやれ、元気だな」
  全員、天宮に押し付けて、吉川は傍観している飛水に呟いた。
「相変わらずモテますね、広郷さん」
「こんなむさ苦しいガキどもにモテても、嬉しくねぇぞ」
  口調は素っ気無いが、まんざらでもなさそうだ。
「まったく、いいところだよ、ウチは。誰も欠けずにいてくれる。しっかりメシも食えて、笑える場所がある。守ってやらにゃあと思うわな」
  遠く優しい眼差しで見つめている吉川を、飛水は眩しそうに目を細めて見つめた。
「そうですね」
  しばらく他愛のない宴会が続いた。
「これを、どうぞ」
  眠くなったとひとりごちて、吉川が飛水に合図すると、飛水はおもむろに手作りの焼き菓子を個包装にしたものを沢山詰めた紙袋を吉川に渡し、威儀を正す。
「今日は、わざわざありがとうございます。身体には気を付けてくださいよ、広郷さん」
「つくづく、マメな男だな、お前は」
  手渡された紙袋の中を覗いて傍の天宮に持たせると、空いた手を少し高い位置にある飛水の頬に伸ばした。
「年寄りに心配ばかりさせるんじゃないぞ。ついでに、お嬢にもな。いいな」
  そう言いながら、頬の傷をペンペンと弾かれて、飛水は困ったような顔をした。
「広郷さん、何も心配させるようなことはしてないですよ。ご安心を」
  恭しく頭を下げる飛水に、ワザと怒ったような顔を見せた。
「馬鹿野郎。ジジイは勝手に心配するんだよ。知っとけ」
  高みにある飛水の頭を引き寄せるように鷲掴みにして、ワシワシと撫でると、
「頼りにしてるのも、覚えとけよ」
  と小さく付け足すと、周りで直立不動の若い者一人ひとりに声をかけていく。
  天宮がスーツの上着とシャツを肩からかけ、Tシャツのまま帰ろうとしていた。
「飛水、この菓子、オンナに配ってもいいよな」
  紙袋の中に顔を突っ込まんばかりにしている天宮に、吉川が裏拳を放つ。
「馬鹿野郎、元。そりゃ、俺が孫にやるんだよ」
  ゴツンと大きな音を立てた頭をかきながら、天宮が残念そうにのけぞる。
「え、そうなんですか」
「当たり前だろう。飛水の手作りといやぁ、愛想のねぇ孫も手の平返して寄ってくるだろう。利用しないテはないだろが」
「ずるいッスよ、広郷さん。俺にも分けてくださいって」
  いつもと変わらず最敬礼の若い衆に見送られ、漫才を延々と続けながら吉川広郷と天宮元は去って行った。
「いつお会いしても優しいですね、広郷さんは」
  田坂が飛水に話しかけると、先程戻って来たうちの数名が顔を曇らせる。
  飛水が気付いて促すと、調べたことを報告する中で一言、誰とはなく付け足した。
「俺、真行寺に拾われてよかったです」
  同じようにヤンチャをやって道を外した幼馴染が常磐井と関わったばかりにどうなったのか知った一人が、心底から絞り出すように呟いたのだ。
「本当に、そう思います」
  飛水は敢えて無言で聞きながら、ありったけの飲み物と食べ物をテーブルに並べた。
  空腹を満たしていく者から上がってくる報告を時折用紙に書き込みながら、飛水は心のどこかで吉川広郷の言葉を繰り返していた。
『失くす前に守れ。特に、命は』
  これは、飛水の実父の話だ。
  飛水の父親は、十年前、飛水がこの屋敷に入る前、組同士の抗争のとばっちりを受ける形で命を落とした。完全に隙をつかれた形であった。
  真行寺も、そしてその直属の上司であった吉川広郷も、飛水の父親を守れなかったのだ。
  そのことについて、飛水は真行寺の体制が間違っていたとは思っていない。原因は、勝手に相手を憎悪し反目し合った他の組同士が取った、軽はずみな行動だ。
  単なる勘違いを、まったく関係のない男を殺すことで示そうとしただけだ。
  だが、失くした命は戻らない。
  そして、その危うさが、常磐井の中にあるのを、飛水は見過ごすことはできなかった。
  自由に食べて飲んで、それぞれの報告を突き合わせている者たちを遠くに見つめながら、飛水は無言でその命の重さを骨に刻んだ。

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) 五十嵐飛水

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) 五十嵐飛水

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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