幸福に問うた。
日陰の湿った土の中にいる。
風が吹いては、ありもしない体温が奪われて、きっと、真夏の霜柱が蓋をするから、誰も見つけてはくれない。足を引っ張るだけの〈泥濘〉は、寡黙に昼を逃げ延びる。太陽に、憧れはしていたんだ。けれどきっと、それは僕を焼き殺すから。乾くと死んでしまうミミズのような僕には、忌々しいだけの光。手を伸ばせば、死んでしまうのだ。イカロスだっけ、空を目指してロウで固めた翼を羽ばたかせたのは。空を掴みたいのに、やっぱり足を引くのだろう。
〈泥濘〉。沈みこんで、浸っていれば、これ以上悪いことにはならないかな。何処にもいけないまま、進めないまま。僕の時間は土に埋もれて止まってしまったのだと思っていた。
あの日出逢ったのは、太陽と見間違うほどに輝く、海の月だった。
何か知っているなら教えて欲しいと、少年に縋りついた。放課後の廊下で出会った彼。【虚ろ】を宿す者は、どうしても見ればわかり合ってしまう。同じように暗闇の瞳の奥に、秘められた色彩が怪しく揺れるのだ。鏡でも見ているようで、何処か気持ち悪くなる。彼といる間はこの気持ち悪さに耐えなければならない。
色素の薄い髪と肌で、儚く今にも消えてしまいそうな彼はきっと、そういう【虚ろ】を抱えているのだろう。声をかけたとき、ちょっと疲れたような顔をしていたから、迷惑だったかなと思うと、ドロドロと胸の奥に沈殿していく何かの残渣を知る。
いいですよ、と言って笑うくせに、その笑顔に感情は見えない。造られたものだ。悟った瞬間、地面に足が取られるような錯覚を覚えていた。けれど、彼は場所を移しましょうかと言って、何処かへ向かっていく。僕を置いて、ペースの早い歩行。なんだか、泥に嵌って抜け出せないままの僕を置いていくみたいな足取り。
──どうして皆、僕を忘れて行くのだろう。沸々と浮かび上がる感情は、行き場がないまま。僕と同じだね。皮肉っぽく告げた言葉が僕を蝕んだ。
何処、とは聞かなかったが、まさか彼の家に連れて行かれるとは思わなかった。お洒落なカフェで話すような事でもないでしょう? そうやって笑いながら、彼は僕を自室に案内した。そこそこ大きい家で、彼の家族の趣味なのか内装も小洒落た家具で統一されていて、なのに彼の部屋には、なんの面白味もなかった。勉強机、本棚、クローゼット、ベッド。同じ年齢の学生の部屋として必要最低限のものだけ。彼の人間性が一つも見えてこない。作り物なのは笑顔だけじゃなくて、彼自身もそうなんじゃないかと感じた。そうすると、怖くなる。僕は今、作り物と対峙しているのだろうか。
「自己紹介がまだだった。僕は鯨坂。君の名前は?」
「Y」
迷い無く自分を意味する記号を伝えると、彼はほんの一瞬だけ、瞳を見開いた──ように見えたけど、また、作り物の笑顔を貼り付ける。芸術品のように笑う。この部屋に来るときに廊下で見た絵画の中で微笑んでい女性を彷彿させる。まるで絵の中から出てきたみたい。
「それじゃあ、Yくんの知りたいことはなんですか」
知りたいこと。
〈泥濘〉のこと。だったはずだ。僕が【虚蝉】になってしまった原因と理由の探求。そればかりを考えていたのに、どういうわけか、今は彼の事を知りたかった。似ていると思ったから。彼女に。でも、彼女はもう死んだのだ。海の月になって死んだ。だからもういないのに。似てない。なのに、彼と重ね掛けた自分がいた。
そうだ。彼女も今にでも消えてしまいそうな頼りなくて不安な空気を纏っていた。そのくせ、その存在感は月とも太陽とも相違ない。そんな彼女に、この少年が本当に似ているいうのか。僕は、おかしい。
僕が思考する間、彼は待っていてくれた。薄い笑顔を浮かべながら。嗚呼。その顔だ。儚い笑顔の中に、彼女を見た気がしたのは。でも、それは作り物、紛い物、偽物なのに。神聖な彼女の記憶を蝕むように、そこにそれがある。
似ているはずが無い。あってはいけないのだ。頭が痛い。だって、その笑顔と彼女の笑顔が一致してしまえば、彼女の笑顔までもが紛い物になってしまうから。彼女の存在が空虚な妄想だとしても、僕の中で絶対的な光を放つ海の月でいなければならないのだ。だから、否定しなければならない。
「その笑顔、止めろ」
痛む額を抑えつつ、僕は呻くように言う。彼は微笑のまま、首を傾げてみせた。
「……海月(みつく)。海月が、汚れてしま」
「お前どうして彼女のことを知ってるんだ?」
僕は思わず肩を震わせた。急に、今までの彼がいなくなって、別の彼がそこにいるように感じた。あの笑顔はもうそこには無くて、代わりに、凍てつく無表情があるばかり。声にも温度は感じられない。
僕の言うとおり、彼の紛い物の笑顔は消え去った。それと同時に、多分、見てはならない彼を目の当たりにした。暗い瞳は、海底のように何処までも続く底無し色をしているのに、深淵の奥で確かに蒼玉の青が揺れている。同じ色なのだ。
海月の瞳の奥にも、蒼玉があったのを思い出す。
幸せの時間を知ったから、今がこんなに苦しい。幸福は毒薬だ。海月がいたあの日が、こんなに幸せで。でも、彼女は消えてしまった。〈泡沫〉の帰す瞬間を見たわけではないけれど、もう逢えないことは、なんとなくわかっていて。
それなのに、この少年の中に海の月は存在した。
狼狽して後退ったとき、ふと、殺風景な部屋の中、ある意味場違いな存在を見た。机の上の写真立て。その中に閉じ込められた海の月。鎖骨の下ぐらいまで伸ばされた黒髪と、紺色のワンピースの女の子。病的に白い肌は、その下に内蔵された骨髄まで透かしてしまいそうで。その肌を覆う湿布や包帯は、彼女が本当に消えてしまうのを引き止めているみたいだ。
海月の隣に映りこむのは、揃いの蒼玉を携えた、彼。
「なん、で」
幸せを、奪われた。そう、思った。
そこにいたのは僕なのに。海月の隣は、僕がいたはずなのに。なんで、奪う。僕の。僕の。僕の、みつくを。
わかってる。わかってはいる。君に嫉妬してなんになるのか。嫉妬したところで、解決しない。しない?
本当に?
「大丈夫です?」
彼は先程の冷たさなど毛ほども感じさせない、普通の口調で僕を労る。安定しないフローリングが突然泥濘んで、僕の脚を掴んで引きずり込もうとしているみたいだ。
呼吸を荒げて、返事もできずに僕は一度、強く目を閉じた。
たとえば、邪魔な存在を消し去ってしまえば?
多分そうだ。こいつの中に海月を見なければ、幸福は薬になれど毒にはならなかった。毒に変えたのは彼の瞳の奥の蒼玉だ。思い出さなければ、知らなければ、彼と出会わなければ、海月の記憶は綺麗なまま。手に届かないと知っていても、それはショーケースに閉じ込めたままの美しい欠片のままだった。
「ねえ、死んでよ」
お前がいなければ、僕の気持ちは救われた。海月の幻想を抱いたまま、幸福でいられた。この苦痛が、苦しさが、妬ましさが。酷く不快な〈泥濘〉となって、僕の中に募っていく。僕の幸せを、返せ。
鋭利な刃物か何かで貫くような気持ちで、彼を見た。儚い微笑も、氷の無表情もそこには無く、呆けたような少年が突っ立っている。
「死ね。お前が、いなければ。僕は」
「殺してくれるなら、死んであげますよ?」
彼は嗤った。それすらも海月と重なって。
否。海月はこんな顔しない。じゃあどうして、重なる。おかしい。海月はこんな表情。
三日月の口元と、侮蔑の視線が、どうして懐かしいのだろう。
「ほら。消してみなよ、ボクを」
「……出来もしないくせに、海月を求めるな」
「海月が欲しいなら、」
「“前に進め”」
視界と音に、ノイズが走ったように錯覚する。違う。それは水中で見るような、泡銭だ。空気の粒が視界に生じて、ゆっくりと上に消えてゆく。溺れているみたいだ。
「君の【虚ろ】を淘汰してみなよ、多々羅 幸路(タタラ ユキジ)」
ごぽ、と泡沫の音に混じって、彼女の言葉を思い出した。
「幸せの路で、幸路くんかあ。いい名前なのに。嫌いなんだ? 私達、似てるのかもね。幸が薄い感じがさ」
黄昏を背に笑う彼女は、本当に消えてしまいそうで、けれど、一枚の絵のように、そこに永遠に存在する作品のようだった。
「また会おうね、幸福になれない幸路くん」
消えたくない泡沫が、僕を嘲るように手を振っていた。
幸福に問うた。
***
自己満足で書いただけなので、何かを伝える気は殆ど無いです。でもまあ、雰囲気だけなんかいいなっと思っていただければ。バニラエッセンスみたいなもんです。風味と香りは最高だけど、味は最悪、みたいな。