お猫さま 第四話ー猫惚薬
猫の人情小噺です。笑ってください。PDF縦書きでお読みください。
卓袱台(ちゃぶだい)の前にあぐらをかいたじいさんが、きょろきょろ回りを見渡しましてな、
「ばあさん、三毛の玉がいないがどこいったんだ」
と、ソファーの上に話しかけます。
「あらやだ、おじいさんのあぐらの上にいるじゃないですか」
おばあさんが言ったように思ったのでしょう、じいさんは自分の股の上に目をやると、子猫の玉が丸くなっています。
そんな様子を六十になる娘が見ていまして、
「お父さん、隣にいるのは玉のお母さん猫の黒ですよ。お母さんは十年前に亡くなったのですよ」
猫の黒がソファーの上にいます。黒は「ニャーと」鳴いて、ソファーを下りると、台所に向かって歩いていきます。
おじいさんは、「おや、ばあさんどこにいくのだい」
そう言いながら子猫の玉を膝の上から下ろすと、自分も立ち上がってついていきます。
台所に行った黒は皿に口を突っ込んでかりかりと餌を食べています。
そこで、やっとおじいさんは、
「猫の餌が少なくなったようだね、後で買いに行きましょう」と、正気に戻ったりいたします。
このおじいさん、世に知られた脳の研究者で、昔はある有名大学の教授をなさっておりました。大学の中でも猫好きで知られておりまして、猫が病気をすると看病のために教授会を欠席までいたしました。
これは寿命が延びた人間の世界の止むに止まれぬ惚けでございます。これからのお話は、猫の世界でございます。
「おい、鉄五郎じゃないか、久しぶりだな」
猫の白が庭を通りかかった猫に声をかけました。
白は長屋の大家の飼い猫です。猫語で「にゃあにゃあひにゃしぶりだにゃあ」とでも申したのでございましょう。
すると、鉄は尾っぽをだらんと下げて、ニャーとは言わず、「ワン」と吠えたのです。
白がびっくりして尾っぽを太くして、背を丸くしました。
「鉄、どうしたんだ」
鉄五郎は、「ワン」ともう一度鳴くと、白に飛び掛って、首根っこに噛み付きました。
「犬に向かって猫のぶんざいでなんだ」
鉄五郎は「ワンワン」と吠えまくります。
白も黙っていません。
「親分に向かってくるたあ、強気な野郎だ」
白が鉄五郎の耳に噛み付きます。
白と鉄五郎の取っ組み合いが始まりました。
にゃごにゃおワンワン、きゃんきゃん騒々しく争いが続きます。
といっても、あっという間に両者とも疲れてまいりました。白は二十歳、鉄五郎は十九になります。猫の二十歳は人では百に近い歳といってよいようで、大変な年寄りでございす。
そこで、鉄五郎はワンと鳴いて退散し、白は庭にへたばってしまいました。
鉄五郎は庭から出ますと、首を傾げております。
「あの白は、雌だったのに雄みてえだ」
白は、白で首を傾げております。
「鉄のやつ子犬みてえに吠えやがる」
とまあ、そんな具合です。
そこへ大工の熊八の猫、斑(ぶち)が庭に入ってまいりました。
「白ばあさん、どうしたんだい」
へたばっていた白が首を持ち上げました。
「おや、斑かい、どうもこうも、鉄五郎のやつ犬になっちまったようだ」
白の首のところが少し赤くなっております。
「鉄に噛み付かれたのかい」
「うん」
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うぜ、ばあさん」
「夫婦なんてそりゃなんだい」
「おや、白ばあさん、鉄五郎とは長い間連れ添っていたじゃないの、いったい何匹鉄の子どもを産んだのだい、俺が知ってるだけだって、俺と同い年の、春、夏、秋、冬、クロ、こだま、みけ、もう数え切れねえ」
「冗談だろう、あたしゃこの辺の頭だよ」
白はだいぶ薄くなった毛を舐めつけております。
「年なんだから気を付けてな」
斑はおったまげた顔をして、庭を出て行きました。
道すがら、白ばあさん、自分を雄だと思っているとはなあ、と首を傾げることしきりでございます。猫にも惚けはあるようでございます。
満月の夜でございました。
真夜中になりますと、近くの公園で、このあたりのボス猫の座禅が茂みから顔を出しました。寺の縁の下で暮らしておりまして、そんな名前で呼ばれるようになったのです。
玉、三毛、黒べえ、斑、茶々、じゃじゃ丸、虎いつもの猫が集まってまいります。
輪になって座っている猫たちの後姿に月の光が輝きます。
いつもの猫の集会が開かれようとしているわけでございます。
「鉄五郎じいさんと白ばあさんはどうした」
座禅がみんなを見渡しました。欠席したことのない鉄五郎と白がおりません。
斑が昨日のできごとを披露しました。
「白ばあさんが猫の頭だと言って、鉄じいさんは犬になっちまった」
「なんでい、そりゃあ」
「いやね、庭でね、鉄がワンワンと吠えて白ばあさんに噛み付き、白ばあさんが、頭らに向かって何をすると、鉄の耳に噛み付いたんでさ」
「夫婦喧嘩か」
「それがそうでもなさそうで」
「じゃ、なんだ」
「どっちもおかしくなっちまったんだ」
「そりゃ、惚けたのよ」
と、三味線のお師匠さんちの三毛猫のミケが口をはさみました。おっ母さんが惚けて、お師匠さんはお嫁にいけません。
惚けってえのは、痴呆症といいましたが、近頃は認知症というようですな。漢字変えてよくなりゃいいのですが、そんなことはありませんで、どんどん増えるようでございます。
「惚けってのは、人から猫にうつるかい」
「うつるかもしれないわねえ」
「でもな、みー公、白ばあさんは雄みていになって、鉄のやつは犬になっちまった、それが惚けかい」
「惚けると自分が誰だかわからなくなるのよ」
「へー、そんなら、うちの主人なんかしょっちゅう惚け症だ」
玉の主人の大工の八五郎のことでございます。大酒飲みでございます。
「夜になると、素っ裸で寝ちまうよ。朝になるとなんにも覚えていないから惚け症だ」
「そういやあ、うちの熊八も酒を飲むと、何にも覚えてないなんていってらあ」
「そりゃ違うぜ、酒飲んで酔っ払うと、忘れちまうだけだ」
酒屋の猫の黒べえは酒のことを良く知っています。
「そんじゃ、酒は惚け薬というわけだ」
猫たちは頷きました。
「人間は惚けたいのかい」
「みんな忘れちまいたいことがあるのさ、惚けりゃ楽しいのさ、しかも、酒で惚けても元に戻る」
「それで人間はよく酒を飲むんだ」
みなも合点し、こうして、酒というのは人間が惚けになりたくて飲むものということになってしまいました。
「俺たちも一度惚けてみようじゃないか」
ということで、次の満月の晩は、惚けパーティーということにあいなりました。
猫の世は楽しけりゃなんでもいいという世界でございます。
酒を都合するのは酒屋の黒べえということになりました。
再び満月の夜がやってまいります。
公園には猫たちが輪になって集まっております。
黒べえが一升徳利を抱えております。
大将の座禅が匂いを嗅ぎました。
「つーんとくら、こいつのどこがいいのかね」
猫は基本的にアルコールを飲みません。
「しょうがねえ、飲んでみるか」
ってんで、座禅が茶碗に酒を並々と注ぎますと、一口飲んでみます。
「ふー、旨かねえが、慣れると癖になりそうな」
周りの猫も、回し飲みをいたしました。
なぜかみんなしーんとしております。
座禅がまた、ぐぐぐぐいっと立て続けにあおりますと、周りの猫もくいくいと始めます。
あっという間に一升がなくなります。、
「酒もってこい」
玉が八五郎のまねをして叫びます。
酒をとりにいって戻ってきた黒べえが座禅に酒をつぎます。
「おっとっと、もったいねえ」
座禅がくいーいと杯を空けます。
「うまいにゃ、安酒でも」
斑は鼻の頭を真っ赤にして、もう寝てしまっています。
三毛が踊りだしました
「いよ、まってました。弁天様」
そう声をかけたのは、見世物小屋で飼われているお茶茶です。
三味線屋に飼われている、きじ虎猫のきちべえが「皮を脱げ」と叫びます。
黒べえがまたしても一升瓶を抱えてくると、酒盛りが再開します。
そこへ白が顔を出しました。
「よー白ばあさん、久ぶりだなあ」
ところが、白ばあさんは、そう言った寺猫の座禅の頭をいきなり叩きました。
「いてえ、ばあさん、ひでえな」
「木魚はたたくものだ、口を利くな」.
惚けた白にとって猫も木魚も違いが無いようでございます。
「ひでえ惚けだ」
鉄五郎もやってきました。酔っ払って騒いでいる猫たちに向かってワンワンワン、と吠えたてます。
「おい、鉄じいさん、いっぺえやれや」
座禅が申しますと、鉄五郎は歯をむいて、ますますワンワンと吠えたてます。こう吠えますと、不思議なもので、鉄五郎が犬に見えてまいります。酔っ払った猫たちは、犬はあだ敵と、鉄爺さんに向かって、飛び掛ります。鉄爺さんは多勢に無勢、きゃんきゃんと鳴きながら逃げていきました。
「犬なんて弱いものよ」
酔っ払った猫たちは、つぶれて、草の上でひっくり返りました。
座禅がよろよろと立ち上がりました。
「いや、鉄爺さんは大したもんだ、本物の惚けは犬になる、酒で惚けても虎にしかなれねえ」
こうして惚けパーティーはお開きになり、公園は静かになりました。
猫小咄集「お猫さま」所収 2017年 55部限定 自費出版(一粒書房)
2017年度(第20回)日本自費出版文化賞、小説部門賞受賞
お猫さま 第四話ー猫惚薬