旅人の森

 お前は誰だ、と声がする。暗い森の中、自分はだれだったかとおぼつかない意識と視界にながされて、今までの記憶、少しまえの記憶までみあたらなくなる、手探りで前方の木々を注意しながら進んだ、背後から中世の騎士でも追いかけて来そうな幻想的な雰囲気があった。ずさ、ずさ、ずさ、お前は誰だ?声は足音の合間に聞こえる、それは人々の嘲笑にも似た軽く中身のない響きだった、ぬかるんだ地面に足をとられそうになる、紅葉と霧がまるで地獄や異世界であるかのような雰囲気を持っていた。自分はだれだったのだろう。自分は何者かをとがめるものだった記憶がある、そのことに一定の安心感を得ていたつもりもある。自分は誰だろう、あえて自分が誰であるか疑問であるかのような他者への問いかけをする自分は、一体だれだろう。森をぬけた、自分は一人のうわさ好きの旅人であることを思い出した。日はひどく照っていて、未だに山岳地帯が視界の向うまでひろがっている、開けた場所が見えない、こういうとき疲ればかりがたまってしまう、それでも人の世界よりはいい、人の世界には常に上下に縛られた作用が加わっている、いつでも数が強い。旅人はどちらにも所属しないかわりに、自分の選択に自分で責任を持つ。自分は旅をするうちに何度か自分に有利になる嘘をはいた、そのことで不利になる人間を想像しながら、それを持ち、歩き回り自由に生きる事の糧にしている。暗い場所、木々の生い茂る場所に入るといつもそういう朦朧とした意識の中に閉じ込められれる感じがして頭がひどく痛んでくる。
 また少し早しにはいった、ずさ、ずさ、ずさ、お前は誰だ、と声がする、自分が嘘をつく理由は、自分が有利になろうとするから、そして人はときに自分が不利であるのに、自分が有利である嘘をつくことさえある。頭上でカラスがないた、何とも知れない動物や虫の声を聴いた、それだけでその時の後悔があたまを駆け巡る、自分は自分が旅人である事を、自分で選んだのに、その嘘を選ぶことに快楽を覚える。

旅人の森

旅人の森

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted