Story O
風鈴とラムネ
久しぶりだった。たぶん、最後に来たのは中学生ぐらい。そんな前になるのか。そう思いながら鳥居をくぐった。小さい頃から行きなれた場所。生まれ育った街のその神社はそれほど広くないものの、この夏祭りの時だけは所狭しと屋台が立ち並ぶ。
今はかなり変わってしまった屋台の風景。ヨーヨー掬いも昔よく見た水風船ではなくて光るゴムでできた何かのアニメのキャラクターだったりする。昔は500円握りしめて遊びに行けば、何か食べて遊んで、子供ながらに楽しめたものだけど今ではすっかり料金も高くなっている。
そんな中で、懐かしいものを見かけた。
古い屋台で、メインはかき氷なのだが、その横の方に氷いっぱいのケースが置かれ、中にラムネが冷やされていた。
「ラムネか…。」
たしかあれは、小学4年生くらいの頃の夏祭りだったと思う。その頃はお面ばっかり並べた屋台や、色鮮やかなたくさんの種類の飴ばかりを置いた屋台なんかも多くあった。その中に、風鈴を扱う屋台があった。テントに吊り下げられた風鈴は鮮やかな色や柄で、風が吹くたびにせせこましいくらいに音を立てる。その店の端で、風鈴の絵付けができたのだ。
当時、おじいちゃんに貰ったお小遣いの1000円札を握りしめて出かけて、その絵付けをするだけで1000円を使い切ってしまった。ほとんど絵付けをする人なんていなかった。風鈴を買う人もほとんどいなかった。友達はみんな、スーパーボール掬いに亀釣り、タコせんを食べてかき氷も食べて…そんな感じだった。みんながそうやって屋台を歩き回っている間、僕はひとり、その風鈴の屋台で絵付けをした。
白と水色の絵の具を使って、大小いろんなサイズの丸を書いた。塗りつぶしたもの、線だけのもの。隙間がなくなるくらい、いっぱいの水玉の柄にした。屋台のおっちゃんは、何の絵だ?って不思議そうに出来上がるのを見ていた。なんせ暇そうな屋台だったから、時間をかけてゆっくりひたすらと丸を書き続ける僕を笑顔で見ていた。
「出来た!」
その不思議な水玉だらけの風鈴を見ておっちゃんは笑う。
「丸だらけだな。」
「丸じゃないよ、泡だよ。」
「泡?」
「そう、ラムネの泡!」
僕は風鈴の屋台のすぐ隣にあるかき氷の屋台を指さした。そのかき氷の屋台の隅に、氷がいっぱい入ったケースに冷やされたラムネが入っている。
「お、あれか。ラムネか。」
その声を聞いてかき氷の屋台のおっちゃんが顔を覗かせる。
「ラムネがどうかしたか?」
「あぁ、この子が絵付けしたんだけどさ、ラムネの泡の絵なんだとよ。」
僕は誇らしげにそのラムネの泡を描いた風鈴を差し出した。風がすうっと吹いて、涼しげに音が鳴る。それを見てかき氷の屋台のおっちゃんが氷に埋もれた冷たいラムネをそっと取り出した。それは薄い水色の瓶で、くびれた部分に真っ白のビー玉が入っていた。
「ほんとだ、ラムネだな。」
僕は機嫌よく、その風鈴の短冊部分に水色の絵の具で文字を書いた。
" ラムネ "
カタカナで一言、ラムネと。ふたりのおっちゃん達はいいじゃないか!と僕の肩に手をやって笑った。
「これ、あげるよ。」
僕はその風鈴をかき氷の屋台のおっちゃんに差し出した。
「え?だってボクが書いたんだろう?持って帰りなよ。お金も払ったんだろ?」
「だってラムネ売ってるお店にあるほうがいいでしょ?この風鈴。」
「うーーーん。」
おっちゃんは悩んだ挙句、僕が絵付けをした風鈴をゆっくりと受け取った。
「じゃあお礼はラムネでいいかい?ちょっと安すぎるか。かき氷もつけよう!」
そうして僕は、ラムネの泡を描いた風鈴をかき氷の屋台のおっちゃんに渡し、かき氷とラムネを貰って家に帰った。よくよく考えると1000円を使ってかき氷とラムネ、というのは割が合わない気がするが、僕にはそんなことはどうでもよかった。ただ、自分の描いたものを喜んでもらえたのが嬉しかったんだ。
「おっちゃん、ラムネ1本ちょうだい。」
僕は、数年ぶりに来たこの神社の夏祭りで1番最初にラムネを買った。初老のおっちゃんがゆっくりと氷のいっぱい入ったケースのほうに行き、手を突っ込んでラムネを取り出す。横ではお孫さんだろうか、僕よりも若い兄ちゃんが威勢よくかき氷を作っている。
「200円だよ。」
よく冷えたラムネを僕に差し出すとおっちゃんはそう言った。
「ありがとう。」
そう言って200円を僕はおっちゃんに差し出した。屋台のテントにぶら下がる" ラムネ "と書かれたラムネの泡の柄の風鈴の涼しげな音を耳に聴きながら。
※二宮愛衣 2013-07-29
はじまりの日
「馨、早く準備しなさいよ。」
かーちゃんに呼ばれた。真っ白な壁、真っ白なソファ、親族用の待合室でゆっくりお茶を飲んでいた。
とてもいい天気で。穏やかな気候で。
かーちゃんは朝から親戚のおばちゃんやらに挨拶しまわってた。とーちゃんは、散々嫌だと断ってたねーちゃんとのバージンロードを歩くのに緊張しきっていて、窓の外を見たりぶつぶつ何か言ってみたり、そわそわした気持ちを隠せないかのように部屋の中を歩き回ってた。そんな両親を横目に、俺はずっとソファで何杯目かのお茶を飲んでいた。
「ほら、かーおーるー、あんたのんびりしすぎ。」
飲んでたお茶のカップを無理やりテーブルに置いて俺をソファから立たせようとする。かーちゃんも結局落ち着いてないんだ。
「わかってるよ。ちょっとトイレ。」
「もぉ、先にチャペルに行ってるからね。」
かーちゃんに背中をバシッと叩かれて、俺はしぶしぶ席を立った。
ねーちゃんは、2コ上だ。小さい時から俺を言いなりにしたいのか、偉そうで指図ばっかりしてた。そんなやりとりは嫌いだったけど、のんびりしていてすぐにいじめられる俺をいつもかばってくれた。ねーちゃんと俺、女と男、逆だったらよかったのに、なんてのはよくかーちゃんが口にしてた。
しっかり者のそんなねーちゃんが、今日結婚式を挙げる。
複雑だった。兄貴になる相手のやつは嫌いじゃない。ほんとにねーちゃんのこと大事にしてくれそうな人だし。何がこんなにしっくりこないんだろう。別に嫁にでもなんでも行ってくれていいのにさ。
そう思いながら廊下を歩いていると、ねーちゃんの笑い声が聞こえてきた。控室だった。数名の友人と笑いながら話してた。そこで俺は足を止めた。向こうからは気付かれない程度の位置で、そっと中を見ていた。幸せそうって、こういうのを言うんだろうか。純白のウエディングドレスが、外からの日差しに反射してキラキラ光ってた。それに負けないくらい、ねーちゃんの笑顔も光ってた。
結婚てそんなにいいもんなのかな。俺にはまだわかんねえや。
バージンロードを歩いてくるとーちゃんとねーちゃんを、俺はかーちゃんと一緒に1番前の席で待っていた。もうすでに半泣き状態のとーちゃんを情けないなあって思いながら、隣でしっかり逆にとーちゃんをエスコートしてるねーちゃんに笑えた。
そこからはあんまり覚えてねえなあ。いろいろ予定通り進んだみたいで、気付けば披露宴も終わりになっていた。俺は親族だけど、少し離れたところで来客を見送っているみんなを見ていた。うちの家族と、兄貴になる人の家族と。
少し来客が途切れた瞬間にねーちゃんが足早にこっちに近づいてきた。
「どしたの?」
俺がそう言うか言い終わるかの間に、ねーちゃんは俺にギュッと大きくハグをした。
「なんだよ、ねーちゃん。」
「うるさい。今日はありがとね、馨。」
「なんもしてねーよ、俺は。」
「ううん。居てくれるだけでいいのよ、あんたは。安心するから。」
「なんだよ、そういうのは結婚相手に言えよ。」
「いいの。また別口なの。」
「なんだそれ。」
また披露宴会場から来客が出てくる、ねーちゃんはすぐに元の立ち位置に戻ろうとした。
「あ、ねーちゃん。」
「ん?」
「今日はめちゃくちゃキレイだぜ。」
そう言うと、くすっと笑って急いで兄貴になる人の横に戻った。そして一粒、ねーちゃんの頬に涙が伝った。
※二宮愛衣 2013-11-26
はじめましての日
その日は梅雨の真っ只中だったけど、午後から雨はやんでいて。邪魔だなと思いながら今朝家を出る時に差していた傘を片手に俺は会社を出た。飲みに誘われたけど、今日は急いでるんでって断った。そう、俺は急いでるんだ。早く、逢いたいんだ。
定時なんて時間に会社を出たのは久しぶりだ。まだ外は明るくて、すれ違うのは高校生が多い。場所はよく知ってる。家の近所。俺も生まれた産院だ。1年半前に結婚したねーちゃんが2週間ほど前から実家に戻っていた。パンパンになったおなかを重そうにゆっくり撫でながら、よく、子供の頃走り回った家の近所を散歩してた。都会に出るにはちょっと不便なこの街だけど、そんなねーちゃんを見てると、のんびりした街でよかったのかなあなんて思ったりした。
「男の子が生まれたよ」
連絡だけは入っていた。けど、前からずっと念を押してあった。ぜったい写メだけは送らないでねって。「なんで?」って不思議そうにするねーちゃんに、俺は小さな声で言った。
「はじめましては、ちゃんとこの目でしたいから」
小さな産院だけど、人気があって。いつもここは人が多い。2階の202ね。1階の受付で教えて貰った部屋番号を声に出しながら、西日の射しこむ階段を上ると、すぐのところにかーちゃんがいた。
「あれ?どうしたの?」
「あぁ、馨。今ちょっとね」
「なんかあったの?」
「違うわよ、授乳中なの」
「あ、そっか。びっくりした」
「初めてだから、看護士さんと一緒にね、今、中で」
そう言われて俺は、202号室のドアに目をやった。階段をあがってすぐが201、その隣が202、その隣が203・・・。順に目をやっていると、202のドアが開いた。出てきたのはかーちゃんぐらいの年代のベテランっぽい看護士だった。頭をちょこんと下げるとにっこり笑った。
「どうぞ」
そう言って部屋を後にした看護士を見送ると、俺はあらためて部屋のドアに目をやった。何の迷いもなく部屋に入るかーちゃんの後について、ゆっくりドアの中を覗いた。小さな個室で、カーテンをしてあるわりには明るくて。ベッドに座るねーちゃんが俺に気づいて声をかけた。
「馨!早かったね」
「う・・・ん、早く終われたから、仕事」
たまたま、今日は早く終われたんだよ、って顔をしてみたけど、きっとねーちゃんにはバレてんだろうな、急いで会社出てきたこと。クスッて笑って胸に抱く赤ちゃんに視線を落とした。
「抱く?」
「え?」
「ほら、はい。馨おじちゃん」
「おじちゃんとか言うなよ」
ゆっくり近づくと、まだ小さな彼は目を開けたいのか閉じたいのか、微妙な開け具合の目で、頬をつつくねーちゃんの指に反応していた。
「ほら」
「無理だよ、怖いもん」
「怖くないよ」
「いいよ、ねーちゃん抱いてなよ」
少しバタバタと動かした手に、俺はそっと人差し指を差し出した。なんとなく触れて、少しすると彼は俺の指をじんわりと握った。
「お、握った」
「握ってないよ、触れてるだけだよ」
「握ってるよ、そうか、おまえ俺のこと好きかあ~」
横でかーちゃんが笑ってるのも気づいてた。だってさ、可愛いんだよ。見てほら、指がすっごい細くて小さくて、でもちゃんと手、繋いでくれんだよ。
ねーちゃんとは、よく手を繋いだ。決まって俺が泣いてた時だ。
「だから、家の外に持って出ちゃダメって言ったじゃん」
「だって、一緒に滑り台、滑りたかったんだもん」
あれは、いくつん時だろう。左手はねーちゃんが繋いでくれていて、右手には、片腕の取れてしまったウルトラマンの人形を握りしめていた。友達が見せてって言うから、いいよって渡そうとしたら引っ張られて。そしたらなんだか急に、何処かに持って行かれちゃうんじゃないかと思ってウルトラマンの体をギュっと握りしめた。友達はウルトラマンの腕をかろうじて掴んでいたようで、お互いが引っ張った勢いで腕が取れてしまったのだ。泣き出した俺を見て友達は逃げてしまうし、どれだけ押し込んでも腕は、取れてしまった部分に入らない。よく売ってる、硬めのゴム製の樹脂でできたウルトラマンだった。今の俺なら簡単に入れられるその腕が、あの頃の俺にはどうにもできなくて。何度も何度も押し込んでは跳ね返される腕の付け根を見ながら泣いた。
「ごめんね、ウルトラマン」
また馨が泣いてる。そんなことを聞きつけて走って来てくれたねーちゃんが、同じように腕を付けようとしたけどやっぱり入らなくて。だってまだ、ねーちゃんも小学校入ったばっかぐらいかな。器用な人だけど、無理で。
「あたしからも謝ってあげるから」
そう言われて、ふたり揃って怒られる覚悟で家に帰ったんだ。ウルトラマンの腕は、あっさりととーちゃんがはめ込んでくれた。そんな簡単に入るの?ってくらい、とーちゃんはウルトラマンの恩人だと心から思った。また涙が溢れて、俺はウルトラマンの腕をそっと撫でた。そんな俺の頭を、ねーちゃんもゆっくり撫でてくれた。
今、目の前にいる小さな彼の手のひらを、ゆっくりと撫でながら俺はただニッコリと笑う。赤ちゃんって、もっとサルみたいにしわしわしてるもんだと思ってた。おなか一杯になって眠る彼は頬がとてもきれいで、時々口をゆっくり開ける。
「これ、これこれ」
「ん?何?」
「馨も生まれた時これよくやったのよ」
「何?これって」
俺の隣で覗きこむかーちゃんに、俺は問いかけた。
「口をね、よく開けるの。”お”って言ってるみたいな感じで」
「あぁ、わかる。馨って今でもやらない?”お”の口」
「生まれた時に限らないか、今でもか」
「うん、たまにやってるよ、”お”の口」
ねーちゃんも参加しながらそんなことを言うから、俺はなんだか照れくさくなってきた。彼を見ると、やっぱり彼も”お”って言ってるみたいな感じでよく口を開ける。
「俺こんなんじゃねーよ」
「いや、そんなんだよ」
「”お”だよ?」
「あーそれ!それそれ!」
「”お”でしょ?」
「めっちゃよくやってるよ。何かぼーっと見てる時とか、集中して何かやってる時とか、しょっちゅう口が”お”になってんの、馨って」
じゃあ、お揃いじゃねーかよ、俺と彼は。やっぱり、可愛いじゃねーか、こいつ。また手のひらをゆっくり撫でると、彼が俺のほうを向いた。
「あ、俺を見た。ほら、見てるよ。見えてんのかな?目は開いてるけど」
「まだ見えてはないかな」
「そうなの?」
「うん、らしいよ」
「そうなのか」
だけどいいや。これからいっぱい、いろんな世界を見て楽しんでくれよ。俺はね、馨ってんだよ。おまえのおじさんだよ。でも、おじさんってのはちょっとあれだから、馨って呼んでいいよ。呼び捨て許してやるよ。同じ”お”仲間だからさ。
そんなことを心の中で呟いて、俺はまたにっこり笑った。今度は声に出して言った。
「はじめまして、これからよろしくな」
※二宮愛衣 2015-06-19
梨衣子さんの菜の花畑
雑誌の取材は今日既に5件目だった。個人的に個展を開くのは初めてではないけれど、こんなに注目されたのは初めてだし、戸惑っていた。有名な画家でもないし、ただの個人の個展なのに。ある有名な美術監督が僕の絵を評価してくれたのが事の始まりで、普通ならそんな事態を喜べもしたんだろうが、僕は今それどころではなかった。取材を受けるロビーの向こうの彼女の姿が見えたからだ。
僕がこの不思議な個展を開いた、いや、この不思議な絵を描くきっかけになったのが彼女だった。数年前に北海道を訪れた時だった。絵を描きながら日本中を回っていた、貧乏な社会人の頃だ。仕事の長期休暇や有給休暇を利用してはこうやって絵を描く旅をしていた。同僚にはよく呆れられたものだ。給料をほぼそれに注ぎ込んでいたからだ。その年は僕はあまり思うように絵が描けずにいた。描いてはスケッチブックを塗りつぶす、そんな旅が続いていた。
その北海道でも同じだった。どの風景を描こうとしてもうまく描けない。そんな時に声をかけてきたのが梨衣子さんだった。
「絵を描いてらっしゃるっていうのは、あなたですか?」
泊まった民宿の裏手の菜の花畑をスケッチしている時だった。振り向くと、そこにデニムのワンピースに茶色いブーツ、髪を赤いリボンでまとめた女性がいた。それが梨衣子さんだ。最初は不思議に思った。スケッチブックに、そのときは色鉛筆で絵を描いていた。手元を見ればすぐにわかるはずだ。なのにその女性はそれを覗き込みながらそう聞いたのだ。
「あ、はい、僕ですけど。」
「今年は菜の花が満開と聞きました。すごくきれいでしょう?」
「そう、ですね。すごくきれいです。」
視線を女性の方から前に戻すと、一面の菜の花畑が広がる。
「今年の香りからすると、たぶんちょっと濃い目の黄色ですよね。」
そう言われて菜の花畑を見渡した。そう言われれば濃い気がする。
「そうですね、そう言われたら濃い気がします。」
「やっぱり。ちょっと香りがきついから。」
「きつい?」
僕は思い切りくんくんと香りを嗅いでみた。それできついとか僕にはわかるはずもないのに。
「色が薄い年はちょっと柔らかい香りになるんです。今年はすごく色鮮やかなんでしょうね。」
そのへんまで話をしてやっとわかった。この人、目が見えないんだ、と。
それから僕は、その、濃い黄色の菜の花をぜひ描き上げたいと、宿泊費用がなくなりその民宿を利用せずに野宿に切り替えてもなお、その菜の花畑に足を運んだ。それを知ってか、毎日梨衣子さんも僕の様子を見に来てくれていた。うちに泊まればいいのに、父に費用の方は話しておくから。と何度も声をかけてくれたが、それはさすがに断った。ただ、僕が描いている横に座って、見えない菜の花畑を見つめる梨衣子さんを見ているだけでよかった。何かが描ける気がして、楽しくてしようがなかった。
もう東京へ帰らなければならない、そんな日にやっと僕は菜の花畑の絵を描きあげた。納得のできる1枚だった。
「見て、やっと描けたんだ。」
そう言って梨衣子さんにスケッチブックを渡そうとして、僕は固まった。
「ごめん。」
謝るしかできずに、僕はスケッチブックを持った手を下ろそうとした。そんな僕にそっと手を伸ばして、梨衣子さんは僕の左胸あたりに自分の手を当てた。それから両手でゆっくりと僕の腕を確かめるようになぞると、そのまま僕が手にしたスケッチブックに確認するように触れた。
「これ、見せてもらってもいい?」
「え?」
戸惑う僕の手からスケッチブックを受け取ると、彼女は指先でそれをなぞりだした。絵の描いてあるページをちゃんと理解しているみたいだった。
「あ、ここが菜の花?」
そう言って触れた場所は、僕が黄色く描き記した場所だった。
「そう。わかるの?」
「うん。なんとなく、触れたカタチで。」
「え?すごい。」
僕も同じようにして触れてみるけれどさっぱりわからない。ザラつき具合もまんべんなく同じに感じるし、たかが色鉛筆の筆圧では大した凹凸もわからない。どっちが空でどっちが地面かさえも目を瞑るとわかるはずもなかった。だけどそれがわかるのだ、と梨衣子さんは言った。子供の頃は目が見えていたというその記憶を辿って、梨衣子さんは僕の描いた絵とそれとを頭の中で合わせているのだ。
それからだ。僕が不思議な絵と言われるそれを描き始めたのは。それは油絵で。とにかく絵の具を盛って描く。ある意味3Dみたいな不思議なもので、いや、3Dほど飛び出しているわけではないのだけれど、手で触れるとなんとなくカタチが見えてくるという絵だった。いつか梨衣子さんに触れてほしいと願って描き始めたそれは、どんどん数を増して個展が開けるほどになった。
「目の見えない人にも触れて絵を楽しんでほしいとおっしゃっていましたが。」
「はい、1度も何かを見たことのない人にも、日常の生活で触れたことのあるものがこのキャンバスの中にもあるんだよ、という、ちょっとした楽しみとして触れてみていただけたらと思っています。触れたからといって色が見えるわけではないですし、目が見える僕の単純な発想なので賛否両論はあるかも知れませんが。もちろん、これから絵を描く楽しみを知って欲しいと思うので、小さな子供とか、いっぱい触って楽しんで欲しいと思います。」
インタビューされて僕はそう答えた。
[触れて楽しむ絵画展]は1週間だけの個展だったが、結局話題となってその後、美術館からの依頼が殺到することになる。そして何より、僕の絵に触れて欲しいと願っていた梨衣子さんを、個展初日に見つけた。取材を受けている最中に、ロビーに家族と現れた彼女を見て思わず僕は取材を放り出して駆け寄った。目が見えなくなってからは旅行などしたことがないと言っていた梨衣子さんを、来てくれるかもわからないけれど招待してあったのだ。
1番メインに飾った1枚は僕の最高傑作だ。タイトルは、[梨衣子さんの菜の花畑]。どの絵も、"触れないように"なんて注意書きはない。むしろ、"触れてください"とアナウンスしている。そして梨衣子さんはゆっくりとその絵に触れる。そっと絵をなぞると僕の目の前で笑顔になった。
※二宮愛衣 2014-02-17
とーちゃんのパン
とーちゃんがずっと経営してきたパン屋を他人に譲ることにした。決めたのはとーちゃんだった。去年の暮れに突然倒れたとーちゃんは、命こそは助かったものの、体が少し不自由になった。生活はそれなりに普通にできる。だけどね、職人としてパンを作るのは困難になった。歳もそこそこいってる。それでとーちゃんがそう決断したのだ。
従業人が4人のパン屋。その従業員の1番古くからいるおっちゃんがパン屋を継いでくれることになった。俺が子供ん時からずっといるおっちゃんで、店のことも1番よく知る人物だ。
俺はそのパン屋で配達の仕事をしていた。プラプラと就職しては辞める、そんな俺を見かねて親父がその仕事を俺にさせるようになった。主に小学校への配達をしていた、給食のパンだ。それも、親父が店を手放すと同時に終了することになった。最近では給食自体もメインはご飯に切り替わっている、週に1回や2回のパンなら他のパン工場の方が実際融通も利くし安いだろう。
パン屋を継いでくれることになったおっちゃんには就職を勧められた。もちろんそのままパン屋を手伝うこともできるが、俺はパンは作れない。今から勉強するっていうのも一瞬考えたが、親父がそれを嫌がった。大変な仕事だから、お前には継いで欲しくないと。それで店が他人の手に渡ることになったのだ。
どちらにしても親父の分も俺が稼がなきゃいけないことになる。この歳での再就職は難しい、とにかく面接してくれるとこまでたどり着けた会社には死に物狂いで足を運んだ。まだ決まらないけど。
今日は小学校へのパン配達の最後の日だった。今学期最後の給食ってことになる。新年度からはもううちのパンじゃなくなるってことだ。いつもの、店の名前の入った白い軽のバンにパンを積み込む。店のみんなも見送ってくれる、今日で最後だなって。そして俺は数箇所の学校を回った。店から半径数キロ以内のいくつかの小学校だ。それぞれ小学校では給食室で準備をしてる馴染みのおばちゃんが、声をかけてくれた。それだけでも嬉しかった。けど、ある学校でプレゼントをもらった。
それはその学校の校長先生の計らいだった。今までお世話になったパンを作ってくれていた人に手紙を書きましょう、と、授業の中でそれぞれが手紙を書いてくれたというものだった。各学年数十名程度になってしまっている今の小学校だけど、6学年合わせるとそれはそこそこの枚数だ。原稿用紙みたいなものに1人1枚ずつメッセージが書かれている。それをホチキスで止めて学年ごとにまとめてくれてあった。それを校長先生から受け取る。
「今までありがとうございました。うちは完全にご飯の給食に変わるんで、パンは今日で最後だったんですよ。本当にお世話になりました、お父さまに宜しくお伝えください。」
「こちらこそ、こんな素敵なものを。父きっと喜びます。」
車に戻ると、受け取ったそれをパラパラと開いて見た。簡単に短く終わってるものからたくさん思いを書いてくれている子までいろいろだった。ただ一言、今までありがとうございました、とだけのそんな短い言葉でもきっと、とーちゃんにとっては大きな重みのある言葉だ。そう思った。
それを助手席に置いて車を走らせた。店でも家でもなく、とーちゃんが入院する病院へ。早く見せたかった。俺が小学生の頃も食べてたとーちゃんの給食のパン。もうパンがなくなる学校まで出てくるとはね。案の定、とーちゃんは小学生からのプレゼントを目にした途端、涙を流しながら読み始めた。
その時思った。俺もこんな仕事がしたいって。今まで何も考えずに、バイトでも何でもうまくいかなかったら辞めるってことを繰り返してきたけど、仕事をするってこういうことなのかって。病院のベッドで弱々しくしてるそんなとーちゃんがさ、とてもカッコよく見えたんだ。
※二宮愛衣 2014-01-26
路傍の花
子供の頃、本気で鳥になりたいと思っていた。大きくなったら何になりたい?って聞かれて、鳥って答えていた。それを聞いた大人たちは優しく笑っていた。僕は本気だったのに。よく、戦隊モノのヒーローの名前とか言う子供いるだろ?あれと同じと思ってるんだ、大人たちは。だけど違うよ、本気で鳥になりたかったんだ。空を飛んでみたかったんだ。
そんな僕は飛行機に乗ったことがない。言ってることがめちゃくちゃだけど、高所恐怖症で。国内なら飛行機を使わない場所しか行かない。海外は、行ったことないな。
それでも1度は夢を見たんだ。飛行機のパイロットになりたいって。空を飛びたいって。それももちろん、子供の頃の話だけれど。だけどあっさりと諦めた。ある時親にラジコンヘリを買ってもらったんだ。ほんのおもちゃだけどそこそこ高く飛ぶやつで。天気のいい日に団地の公園に行ってはそれを飛ばしてた。ある程度運転が慣れてきた頃に、僕はラジコンの操作をミスってしまった。慣れからくるミスっていうのは怖い。自分の自信を一気に失くしてしまうんだ。修理をすればまた飛ばすことができたであろうラジコンヘリを、その後飛ばすことはなかった。箱にしまって、出すことはなかった。地上から空を見上げて、あんなにきれいに飛んでいたのに、もう僕には無理だと思った。いつか、高い所が苦手な僕でも、どうにか頑張ればパイロットになれるんじゃないかって思っていた。そんな思いまでもが一気に失われてしまったんだ。
だけどね、その公園で空を見るのを辛くなってしまった僕の目に映ったのは、空とは逆の、足元に咲く小さな薄いピンクの花だった。何の花かはわからないまま、僕はその花を見ていた。壊れたラジコンヘリを思うと涙が出てくる。その花を見ているとまた、涙が出てくる。僕は何ならできるんだろうって。こんなに空を飛びたいのにって。涙を拭きながら、その花の前に座り込んだ。路の端で、誰にも踏まれることのないギリギリの場所で、公園を走り回る子供たちを見守っているみたいだった。
学校の図書室で借りた植物図鑑で見つけたその花は姫風露だった。面白い名前だなぁ、そう思って説明文を読んだ。そしてその説明の中に絶滅危惧類種と書かれているのを見つけた。絶滅危惧って、貴重な花なんじゃないの?子供心になんとなくそれくらいのことはわかった。あんな所にそんなのが咲いてるんだ?嘘だろ?僕の勘違いかもしれない。借りた植物図鑑を手に団地の公園に向かった。そしてあの花の前に座り込んで本と花とを比べてみる。でもやっぱり、これなんだよなあ。それとも何か似てる違う花なのかな。
結局その花が姫風露なのかはわからないまま。だけど、そこには新しい違う僕がいた。
「あ、いたいた。やっぱりここだった。」
「どうした?」
「あなたが見当たらない時は、必ず、100%ここだよね。」
呆れるようにそう言う。そんな妻に何とも言えず、笑顔で返した。
「大学から電話あったよ。新しい花の芽が付いたって。」
「ほんとに?新しい品種なんだ、牡丹蔓を改良したもので。牡丹蔓っていうのはキンポウゲ科の植物なんだけど、1つ1つの花はそれほど大きくないけど1つのつるに花がたくさん付くから、まとめて咲いた時に特にキレイなんだ。白が主流で暖かい地方に多く見られるんだけど、研究室で今それの違う色のを咲かせてみようってプロジェクトをしているチームがいて、僕が面倒を見てるチームなんだけど、たぶんそのどれかの色の1つだと思うんだよね。何種類か、他の色のついた花の成分を組み合わせてね、植物自体の姿を壊さないように研究してさ…。」
話しているそんな僕を制止するように、妻は手を前に差し出した。
「いいよ、わかったから。行って来れば?」
「あぁ、そうするよ。」
植物の話になると一気に喋りだしてしまう。面白いくらいその魅力を伝えたくて、つい長々とまるで説教でもする親みたいにひたすら一方的に語ってしまう。
空を諦めた。と言うと大袈裟かもしれないけれど。僕は今大学教授として仕事をしている。農芸大学の学生たちのチームをサポートをしながら、まだまだ知られていない何かを見つけたい一心で常に花や草や、あらゆる植物と向き合ってる。
結婚して、家を買おうと決めた時に条件は1つだった。屋上のある家。それ以外はすべて妻の希望を重ねて家を探した。屋上ではたくさんの植物を育てている。その一角にちょっとしたテラスのようなスペースを作って。そこに座っているのが好きなんだ。家の中を探しても僕が何処にもいなかったらいつもここ。妻はわかっていて、こうやって僕に声をかけにくる。
大学に向かうために、屋上から下階へと続く階段のあるドアを開けようとしながら、傍にあるプランターが目に入った。昨日蕾だった花が咲いていた。季節外れの姫風露だ。大きく空を見上げるように。そして僕も空を見上げた。
この植物たちのスペースを、高所恐怖症の僕が庭ではなくわざわざ屋上にしたかったのにはもう1つ、理由があるんだ。ほら、見えた。空港から飛び立った飛行機がちょうど見える場所に立っているんだ、この家は。僕は鳥にはなれない。空も飛べなかった。だけど、ここからいつも、見ているんだ。大好きな空を、大好きな花と一緒に。
※二宮愛衣 2014-10-24
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