しあわせのみつば 1/四季を咲かす大樹の章
どこまでも遠い空、伸ばした手は余りに細すぎて。
銀の色した太陽、花の守人が見た夢。
かえる場所はどこか。しあわせはどこか。
プロローグ
1.風の黄金丘
「しあわせだなって、思う時はある?」
背の高い草がどこまでも続く丘の上で、子供の声がした。
人影は、見えない。
「ただ空を眺めていられる事が幸せだな」
風が草原を撫でる様な、穏やかな青年の声が流れて来る。声につられて、秋の枯草がさらさらと音をたてた。音が静まるのを待ち、もう一人が口を開く。
「幸せとは何か、立ち止まって考えた事は、風のように消えていくわ」
少女の声だ。何かを確かめるように、大切に紡ぐ。黄金に染まった大地の中。相変わらず誰の姿も見えないまま。子供が雲を目で追いながら返事をする。
「幸せとは風の尾のようなものなんだね」
「そう、そのようなもの」
答えた二人はそれぞれに肯定する。寝転がって見上げる空に、彼らが言う幸せが泳いでいる。いつから幸せを追っていただろう。草でちくちくとくすぐったい背中が、冷たくなってくる。草の屋根を抜けた風のにおいが変わる。その日の疲れを癒すため、太陽が沈もうとしている。労うように、丘は茜色をなびかせて太陽を送る。黄昏時。太陽を見送る言葉は無い。
一つ、黄を敷き詰めた中に、異なる黄が姿を見せる。立ち上がりざま、青年は枯れ草色の髪をくしゃりと撫でた。自分の背丈まで茂った草を分けて、友の姿を探す。
「そろそろ行こうか。いつまでも寝転がっていられないや」
「そうだね、スイ。暖かいうちに行かなくては」
子供は青年の名前を呼んで探す。草の壁に阻まれ、小さな彼女は行き先を知れやしない。蛇行する線を草原に描いていると、妖精の輪を目指した探し人が手の届く場所にやって来る。
「シェミネはどこかな」
「んー」
未だ見えぬ場所にいる少女を、探す。視界は枯草に埋められていて、うかうかしていたら冬になってしまいそう。
「おいで、リピア」
青年は、小さな手を取り歩き出す。
「わかるの?」
かくれんぼをしたまま眠りについてしまっては、取り残されて鬼も消える。
「黄金の道を辿るのさ」
乾いて弦のように張られた風は、草に擦られて音を立てる。軋む船底の音。骨が鳴る。うねる海原の中、二人の影は漂う。太陽は地平に近付くと一本の道を描く。草原ならばよく見えるだろう。黄金の航路。
「声がした方へ。きみはどこへ」
ぽつり呟くリピアの頭を、スイは一度くしゃりと撫で、大丈夫だと笑顔を見せた。
「スイの笑顔には敵わないなあ」
2.安らぎの陽
風の吹いて来る方に、少女はいた。草の中に寝転んだままの姿勢で、二人の友を迎える。あまりにも心地よさそうに冷たい風に吹かれていたから、リピアは横にごろんと転がった。なるほど、少女の周りは風も避け、時間も止まる静かな空白だった。もうすこしだけこのまま。横で息をひそめたリピアに少女が微笑む。
「思ったの。このままいつまでも寝転んでいたらどうなるかって」
青年の金の髪が揺れる。少女に近付き、手を差し出した。
「シェミネ、ここは寒いよ」
「そうね、スイ」
「行こう」
「あなたはいつも私を探してくれているのよね」
「そうだよ」
「幸せな事ね」
「うん」
「リピア、根付いて木になってしまうよ」
「それもいい。けれどシェミネが行くならば私も行こう」
互いの温もりを感じながら、存在を手の平に受けながら、歩き出す。壁に阻まれながらも、今度はしっかりとした足取りで、人で賑わう方へ向かって行った。
金の波はさらさらと、三人を導き、いつもと変わらぬ談笑の声に、しばし太陽も耳を傾けていた。
四季を咲かす大樹の章
森へと誘う道標
1.いざなう
「スイ」
「はい?」
少女の突然の呼び掛けに、遥か後方を歩いていた青年は間の抜けた返事をした。振り返り立ち止まった少女は、誰もいない森に声を響かせて一言。
「ここはどこ?」
出会ってから数日、二人はただ歩き続けた。気ままな少女はいつしか街道を外れ、獣道を歩き、今は森の道無き道を歩いていた。軽い散歩のような気分なのかもしれないし、確かにそれは二人の目的でもあった。
「少し休もうか」
さして疲れた様子も見せない青年は、返事を待たずに土の上に腰を下ろした。湿った土は程よく体を冷やす。声を聞いた少女が、木々の間を縫いながら戻って来る。木漏れ日に隠れ、木の肌を撫で、木の葉の色を映し、獣の足音のリズムで、森の音の一つとなって上手く歩く。スイは、ぼんやりとした頭で空を仰いだ。
ひどく遠い空だと思った。重なる葉脈の間を器用にすり抜けてここまで届いた日の光も、力無く見える。過去の現実、見えない明日、そして今居る場所……。目を閉じる。風になびき千の色をばらまく木の葉のように巡る思考をなだめた。間も無く、間近でかさかさという小さな音を聞いたスイは、今は旅の仲間となった少女がそばに戻って来た事を知らされた。音は座り込んだ青年の後ろを通り、それから少し離れて横に落ち着く。
目を開いたスイは、隣の少女がまるで見知らぬ顔の妖精や森の獣でない事を確認した。樹間を行く鳥に目を向けている少女の横顔は、午後の白色の日差しと慣れない道のおかげでうっすら赤い。
2.ことのは
「疲れてないかい」
静かな声は野宿を重ねた新米の旅人にかけられた。その声は、鳥の羽ばたきも風の通り道も乱しはしない。一拍の後に「大丈夫」と短く返った答えの後には、沈黙が続いた。少女は続く言葉を探したが、結局見付からず、口を閉じた。無数の葉の囁きの中、二人は言葉を探す。話さなくてもいい気がした。川に映った影に話しかけなくてもいいように。木の洞から覗く目に挨拶を引っこめるように。しかしスイは口を開いた。
「ここは迷い込んだ森の中さ」
何気なく掴んだ物を言葉にしてみた。それは質問に対する答えだったが、問いはずいぶん前に忘れ去られてしまったのではなかったか。思わぬタイミングで返った木霊に、シェミネは聞き返す事になる。
言葉を探す間止まっていた時計が動き出す。沈黙をふり払うようにゆっくりと、和やかにくずれるスイの表情。
「聞いただろ、さっき。ここは何処かってね」
なるほどと大きくはきだされた少女の息が、空に昇って雲になる程の間を置いてから「そう言えばそうね」と声が追う。微かな笑いを含んだ声だった。出会ってからこちら、大きく変わることが無かった少女の顔が僅かに綻ぶのを見たスイは、これは人の子との旅路なのだと安堵する。迷ってはいられない。行く先を知りはしないけれども。
「庭から続く道を知りはしない。この森の名前を知る人はいるのかしら」
「いたら、会ってみるべきだ」
「そうね。その人は正しく森を抜ける道も知っているかしら」
「そう、とは限らない」
「ここはどこ」
「どこへでも行けるよ」
ひそひそと笑う声が徐々に重なるようになり、木々もほっとした様子を見せる。都合良く真直ぐ射した太陽は、辺りに鮮やかな朱を塗りたくって行った。夕暮れである。
3.それは深刻、切実な
「ところで」と切り出したスイの表情は、真剣そのものだった。真直ぐに目の前の少女を見つめ、ためらい少し間を空ける。暮れかけの世界の光を浴びた金髪が眩しい。
「なにか」
素っ気なく答えたシェミネだが、「食料が底を尽きました」という言葉を聞いて動揺を見せた。まあ、と無意識の内に呟いた声が空しく響く。
「明日街に出られるかしら」
深い森の中で、小さな声は何処へも行き着けず。
「飛んで出た兎が切り株に頭をぶつけて食料に……なんて話は転がっていないわよね」
「頬づえついて、待ってみようか」
「いいえ、いいえ。兎がいるかさえわからないものね」
そうして二人で静かに笑いあう。ため息と遣る瀬無さを隅に追いやる。
「食料調達に行こうか。日が暮れたら動けなくなる」
かくして二人は食料を探しに出たのだが、兎に巡り会えたのは一晩を空腹で過ごした後のことである。
4.兎が隠れた月夜に
昇る湯気が、白く輝く月を包んだ。月はほくほくと幸せそうに光を放ち、旅人に降り注ぐ。
「でも月光は食べられない」
使い込まれた小さな鍋の中では、木の実や草、それから上手い具合に映りこんだ月が、ふつふつと音をたてていた。
「煮込んだ月のスープ」
鍋の中で健気に輝く月を見て、二人は思い思いの感想を述べた。
「月の魔力が溶けているわ」
「明日になれば魔法を理解出来るようになるのだろう」
「今度は兎も逃がさないわね」
魔法は確かに存在するが、生活の中で遭遇する機会はほとんど無い。遥か昔、少女らの祖先は魔法を操る術を失った。それまでは大気から水を取り出し、草木から刃を受け取り、自然を体の内に循環させて暮らしていたが、今は単なる隣人であった。
持たない力に明日のご飯を託すことは出来ない。彼らはそれ以上魔法についての幻想を追うことはなかった。代わりに準備不足を反省する。器の底から、月は既に抜け出した。空きっ腹が空虚を膨らませる。器を軽く払う。焚き木を放り込む。シェミネがぽつりと口を開いた。
「昔々、魔法の力を欲した王さまがおりました」
スイがはたと顔を上げる。青い瞳が燃え上がった炎に遮られる。結んだ口から、言葉が出かかる。しかし、声にはしない。シェミネは焚き火を見つめたままだ。魔法の力を欲した王がおり、魔法と共にある種属を力として手の内に置いた。あるいは脅威として集落を焼き払い、隣人や隠れ住む同族を殺める。王は子供たちが産まれる前に火種を各地に撒いた。街や森は戦火を抱えている。
シェミネが顔を上げる。語りを続ける気配は無い。言葉として紡げない物語がある。二人は焚き火を挟んで遠い岸に立つ。
「器を洗って来ましょう」
「あ、俺も行く」
「ではご一緒に」
月明かりは全てを照らすような事はしない。いつかは陽光にさらされようと、今はまだ、温かく低い場所を漂う夜闇が支配する時間なのだ。
5.夜明け前の霞
少女の朝は早い。日の出の少し前には目を覚まし、巡って来た新しい日に体を慣れさせるのだ。ただ、その日はいつものようにはいかなかった。寝ぼけた頭で周囲を見回す。旅の連れがいない。
夜明けに眠る動物は寝床に戻る時間だ。これから起き出す動物は身体を伸ばして支度をしている頃だ。森は緩慢に昼夜を入れ替える。夜から朝への乗り換えの便に遅れると、暁の時間に取り残される。夜明け前の霞がどこまでも続くようになる。生物の無い森をさまようことになる。
ぼんやり霞み掛かる頭と現実が一つの器に流し込まれる前に、少女は立ちあがった。悪い夢でも見ているのだろうか。ならば一歩きして来ようか。少女はすたすたと森に分け入る。
6.モノトーンの森
大きな荷物は置いて来た。持ち物は腰のポシェットのみで身は軽い。そのためか独り森を行く心許無さからか、シェミネの歩みは早かった。日の出前。色彩ではなく陰影に支配された森を行く。背の低い木や段差に引っ掛かりながら歩く。音は森の目覚めを促すように響いた。響いて、どこかに消えていった。吸い込まれて、きっと彼らは霞の向こうに行ったのだ。今日はいつまで経っても夜が明けない。落ち葉を踏んだ。虫の一匹も、道を尋ねに来やしない。朝が来る方角を知らないのは私だけなのだろう。迷い子に道を尋ねる者はいない。導く者もいない。少女は重い息をつく。スクリーンが不吉な黒煙を映し出す。暁から朝に辿り着けない。勢い付く炎、止まらぬ赤い川。記憶へと帰り着いてしまった。そちらには行きたくない。炎に背を向けて、また霞の中に踏み込む。木が焼けるにおいと、熱風が漂っていたはずだった。しかしここにはなにもない。いっそ寒いくらいの冷気が足元を通る。たたずむ青磁の木々は、梢が見えないほどに背が高い。彼らは領域に踏み入る何者をも歓迎しない。少女は存在をモノトーンの中に押し込められる。抜け出せなくなってしまった。それは一人だからか。いいや、一人でも抜け出せるはずだ。
青磁の森から、手を引かれて抜け出した。一度辿った道だから、覚えているはず。どちらに向かえば良かったか。手を引いてくれた人の背中を思い出す。兄と慕った人だった。彼はいなくなってしまったけれど、私はここにいて、ここは記憶の森ではない。
幾度目かの空気を震わす音が、意識を現在に引っ張り上げた。周囲はかなりはっきりと見える明るさになっている。自分の居場所を確かめたシェミネは、野営地からそう遠く離れていないことに気が付く。戻らなくてはならない。ぼんやりとしてしまった。立ち止まってはいられないのだと、気持ちを奮い起こす。周囲の音が耳に入るようになり、川の流れる微かな音も聞き取る。野営地は川の付近にとっていた。散々歩き回り、元の地点まで戻ったらしい。魚が跳ねた。森の生物が起き出した。朝に戻って来た。乗り遅れてはいなかったようだ。太陽が気遣わしげに顔を出して、畳まれた毛布と二人分の旅具を照らした。旅の連れはまだ戻っていない。いなくなってしまったのだろうか。いいや、荷物がある。食料を探しにもう一度出掛けようか。ゆったりとした足取りで、歩き出す。
7.ひとまずの夜明け、そして今日も
ぱしゃり、冷たい水が跳ねた。清らかな川の流れは雫を包容し、もとある姿と時の流れに戻してやった。少女は水面に映る自分の顔にもう一度手を伸ばし、すくい上げ、顔を洗う。不意に、無防備な背を晒す森の茂みが大きく揺れた。驚き咄嗟に振り向く。大きく開かれた瞳が映したのは、探していた人物である。血が煮えるほどに激しく鳴る心臓を押さえ付けてはき出した息に、その人の名が交じる。
「……スイ」
「シェミネ」
彼もまた探し人の名を呼ぶ。水が煌めく。少しの間を置いて、彼はもう一度口を開いた。
「シェミネ、少し心配したよ。荷物は置いてあったから……近くにいるとは分かっていたのだけれども」
「ごめんなさい、少し森を歩いていたの」
歩く間に拾い集めた食材を指す。決まり悪そうに彷徨った視線が、スイの手元で止まる。
「その袋は?」
麻袋はごろりと重く膨れていた。ひょいと目の高さに上げたスイは、こちらも遅くなって悪かったと律義に謝ってから、「朝御飯にしよう」といつもの笑顔で微笑んだ。絶妙なタイミングでころころと鳴った腹の音は、せせらぎが消してくれた。
「兎」
本当に狩って来るとは思わなかったと感心する少女の横で、スイはぽんと両手の平を合わせた。血抜きは既に済んでおり、切り分けるだけだ。獲物の皮を剥ぐ為に刃を当てる。と、シェミネがそれを止めた。
「私がやりましょう」
スイは一瞬反応を遅らせたが「お願いしようかな」とナイフを渡した。
白い煙がたちのぼる。ゆるり、ゆるりと、日常の一端を気侭にただよっていた。始まりを告げる鳥が心地良さげに羽を伸ばし、お早う、お早う、森の木々に挨拶をして回る。にぎわいを取り戻した森の中、道無き道を行く旅人は、しばしの平穏に身を任す。森を行く風は、今日も新しくも懐かしい時間を送り出す。
赤い花びら
1.あの日の続きに
夕暮れ時だっただろうか。紅に染まる家々。花が咲き乱れる時期だっただろうか。木々が花びらを散らしている。記憶に残るもの。それは赤。地平の果てよりやって来た紅の、終わらない夕暮れ。流れる川は空が垂れ込み赤黒く。熱で景色が溶けていく。そう、これは繰り返される夢だから、早く覚めてしまえ。全てを包む炎。
さらり。紅い花びらが、少女の頬を撫でる。一瞬びくりと身を震わせ、赤い大地に身を埋めていた少女が目を覚ました。記憶に残り続ける色に囲まれて、呼吸も忘れるほどの混乱に染まる。強張る体を起こすと名前を呼ばれた。聞き慣れた優しい声が過去の残像を払拭し、現実へと引き戻した。
「どうかした?」
空色の青年が、ぽつり、一面に広がる花の群に囲まれている。そうだ、ここは旅の途中で見つけた、もとい迷い込んだ森の中の開けた場所。赤い花畑。
「夢を……。どのくらい眠ってた?」
はっきりとしてきた頭で今とさっきを結び付け、シェミネは答えた。青年が、一拍置いてから冗談交じりに言う。
「それほどでもなかった。猫が通って見えなくなる程度」
「猫?」
「鶏でも良い」
「あ、人」
「うむ、人でも良い」
シェミネは森の一点を見つめたまま立ち上がる。それから直ぐにでも駆け出しそうな顔を青年に向けた。
「違うのスイ、綺麗な女の人よ」
「うむ……?」
あいまいな返事をしてから、青年は少女の視線を追う。しかし彼の反応は遅すぎる。蒼天を抱える木々と赤い花の群れの他には、動く物は探せない。
「海のように広くて深くて青い森だ。魚が木々の間を泳いでいてもおかしくないな。しかし女の人となると、ちょっと話が違ってくる」
樹間に顔を向けたまま、頭の中をよぎったのは森に住まう民の話。
「スイがそんな言い方をするとなると何かあるって事よね」
「よく解ってらっしゃる」
「一つの季節を一緒に越したわけだから、それなりに」
そう言ってからシェミネは歩き出す。もちろん追うのは樹海に姿を消した人影である。そしてよっこらせと立ち上がったスイもまた、当然のように少女の後を追った。かさかさと音を立てて行く二人の足元で、花びらが火の粉のように舞う。
2.遠い花園
花の香りは風に乗り、思ったよりも遠くまで流れていた。二人の足音も同様だったのだろうか。木陰に女性が佇んでいた。二人を迎える姿勢で。
間もなく頂きに達する太陽は、迷ううちにすぐに沈んでしまう薄情者。迷った先で出会った人は何者だ。天に届く背丈の樹木。起伏の激しい地表。歩けども果てが無い広さの古い森。集落などあるものだろうか。重く湿った空気に、咲き始めた花の匂いが混じった。親密で厳格な舞台の上でその女性は、旅人たちに柔らかに微笑みかけた。言葉を発しはしなかったが、挨拶の声を受けた気がして「こんにちは」とシェミネが口を開く。さり気ない警戒を見せるスイの様子を気にしてか、不用意に近付きはしない。ただ、やはりことことと戸を叩き続ける好奇心は抑えきれない。彼女の声は少しだけ大きく、しんとした森の中でやけによく響いた。
「あの……道を外れたら森に迷い込んでしまったみたいで」
続く言葉を探す少女と、耳を澄ませる女性の目が合った。しばし見つめ合った後、女性は口よりも雄弁な瞳を緩めて少し首を傾げ、それから森の奥に向かい歩き出した。
「付いて来い、ということかな」
「追いかけましょう。どのみち私たち迷っているんだから、奥へ行こうと戻ろうと同じだわ」
「わかった行こう」
女性の歩調はゆっくりではあるが、歩き難い道にも関わらず一定の速さを保ち続ける。対して木の根や目の前の枝に引っ掛かり歩く二人の足取りは危なげだ。彼女は迷い込んでこんな場所に居る訳ではないらしいと考えつつ行くスイの足元を、何かが掬った。
「わぷっ」
突然の事に対処出来ずよろける。あても無く投げ出された手をシェミネが掴むより早く、斜め前方の枝に頭をぶつけた。
「スイ! 大丈夫なの」
「大丈夫だよ。木の根に足を取られたかな」
「珍しいわね、何かある場所で転ぶなんて……」
確かにその通りだと笑って頷くスイの様子を見て、女性がくすりと笑った。それに気付くと、スイは警戒を緩めて笑った。
「それにしても痛い」
3.響くのはきみの声
「森の妖精を知っている?」
それが尚も前方を行く女性の声だと気付くのには時間を要した。見た目よりも幼く聞こえる声に、二人は戸惑う。返事を求めて振り返り、真直ぐ見つめる仕草で、その人の声だと判断する。
「妖精、ですか」
妖精という言葉が指すものは、三種類考えられる。物語の中のもの、些細で不思議な現象、遥か昔に姿を消したいたずらな種族。何を指すのかと首をひねるスイの横で、シェミネは楽しげな声を上げた。名も知らぬ存在の呼吸が聞こえる。
「素敵な森だわ」
嬉しげな表情を見せた女性は、満足そうに前を向くと、足取り軽やかに歩き出す。そして一瞬にして姿を消す。二人は顔を見合わせる。声も出ない。消えた? まさか妖精だったのだろうか。危うくお伽噺に結論を持って行きそうになるが、ぶんぶんと頭を振るシェミネ。同時にスイは女性がいた場所まで走り寄る。草を掻き分け行くと果たして、段差の下でひっくり返っている彼女がそこに居た。
「シェミネ、気をつけて降りておいで」
先立ってスイが、彼の身長より少し高い段差の下に消えた。
「妖精……ではなかったわね」
何かに期待していた少女は、残念そうに溜め息をついてから滑り降りようとした。そんな時である。
「触れてはだめだよ!」
大きな声が木々の葉を振動させた。遠くで鹿の跳ねる音がした。
4.散る、散る、紅の
突然上がった声は正に青天の霹靂。驚きぐらりとバランスを崩したシェミネは着地に失敗し、草と低木に顔を埋めた。顔を上げた先で、場違いなほど綺麗な白い影が揺れる。それから赤い花の香り。こんなところまで流れてくるのか。ぼんやり花の香りを気にしていると、ぐるりと勢い良く振り向いた白い影が顔を近付けてきた。何者だ。子供だ。銀髪に、同じく銀の大きな瞳を持つ子供。光に染め抜かれた雲の色に目が眩んだ。
「妖精のお通りだよ」
突然の乱入者が跳ね回る。子供の声は、今し方聞いた女性のそれと全く同じで、シェミネを混乱させた。動かないでねと制されると、ぴたりと体が動かなくなった。木々が重なり深い陰となった窪地に降った、小玉の太陽。子供は女性の様子を見、助け起こしてやりながら状態を確認した。
「大丈夫そうだね」
よく分からないがそれは良かったと言いかけたシェミネが声を上げる。
「スイ、その左腕はなに?」
半ば叫びかけたのも無理はない。スイの左腕は固い氷に覆われ、小さな氷柱をぶら下げていたのだ。
「噛みつかれたようなものだな。この氷は、さて……うん、彼女に聞いてみるのがいいな」
声は普段通り穏やかだが、表情が硬い。痛みを堪えて僅かに力が籠っている。スイが妖精に目をやる。女性を後ろに下げて、子供が二人との間に立つ。
「ごめん、氷は私の魔法のせいだ。力加減を間違えたんだ」
魔法、と聞き返す。
「氷の魔法。つまり、その、彼女に触れられるとまずいんだ。きみたち、街の人だろ?」
子供の話す内容は耳慣れない単語や意味を孕んでいる。妖精という言葉が再び過ぎる。どうも太陽が落ちて来たらしい。優先事項は何か。事態の収拾。そうだ。シェミネは呻くように言った。
「まずは彼の腕に噛みついた氷をどうにかしなくては」
氷は周囲の空気を冷やしていく。寒さを感じた子供が、確かにまずいからなんとかすると引き受ける。
「火はすぐに起こせる?」
木に寄り掛かるスイを横目で見てから、シェミネは鞄からマッチを取り出す。どうやって火をおこすの? と子供が聞くので一本擦って見せる。「いいね」と短く答えた子供は、シェミネを伴いスイに近付いた。
子供と青年が向かい合う。もう一本マッチを擦らせて、腕に近付けてから、銀髪の子供は一点に意識を集中させ始めた。頼り無く燃えるマッチは、どんどん炭化していく。黒く、黒く。燃え尽きる直前、子供が火に息を吹きかけた。音を立てて揺らいだ炎は消える。静寂。
見守る少女が不安を顔に出した直後、かっと眼前が橙に染まった。荒々しい炎の音に混じるのは知らぬ言語の呪文。渦巻く熱風は猛る龍となり周辺を取り囲む。口も開けぬその場に、青年と少女は息をつめて耐えた。確信と不安が風に揉まれ、そして消えた。
終わりはあっけなく訪れた。熱風に包まれ音を無くした森も、次第にざわめきを取り戻す。長く細く息を吐き出したシェミネは、溶けた氷が水溜りを作ったのを見た。
「動かしてみて」
子供が促す。くるくると腕を回し、手を握ろうとしたところで動きが止まる。
「痺れは暫く残る。でも大丈夫そうだね。女の子の方は。手に火傷してない?」
「冷やせば治るから、大丈夫よ」
小声で呟いた少女の声は震えていた。そして良かったと言って座り込んだ。子供もほっとしたように息をつき、こう言った。
「リピア様の手にかかればこんなもんさ!」
少し焦がした銀髪を気にして整える。
5.銀の色した太陽の
「きみたちはなに?」
子供が面白そうに青年少女の周りを回る。妖精になにと聞かれてどう答えようか。シェミネはひとまず保存食として持ち歩いていたクッキーを渡した。「これはなに?」と子供が聞くので齧ってみせる。もう一枚を渡す。ほほうと難しい顔で顎を撫でてみせてから受け取り頬張る。すぐに美味しい! と手足をばたつかせてジェスチャーで感想を伝えられる。もう一枚とせがまれる。味わってから、サクサクしていてほんの少しだけ甘い。花の蜜が入っているのだろうかと興味を示す。いかがと女性に聞くと、首を振られた。
「彼女は食べないんだ。でも、美味しそうですねって。花畑の蜜も、きみたちはきっと好きなんだろうね」
「赤い花の?」
「うん。根元にちょっとだけ溜まっているんだよ」
行こうかと子供が手を引くままに、再び赤い花畑へ。自分たちはなにに該当するだろうかと、スイが考え続けている。
道中会話は無かったが、樹の間から光が差して子供の髪と瞳を光らせた時、スイはおもむろに口を開いた。
「銀色の髪と瞳。魔法を操るきみは『森のひと』なのかな」
その口調は問うのではなく確認している。子供を見つめる。子供は青年を見上げ、後ろ歩きで観察する。女性にあぶないよと肩を叩かれて、くるりと前を向く。
「リピアさんと呼んでくれて構わない。ええと、きみは……スイ君」
「リピアさんは『森のひと』なんだね?」
「そうだよ、『街の人』」
なにと聞きはするけれど、子供も旅人たちを表現する言葉を持っていた。姿は同じでも、成り立ちが違う。異なる種であることを知っているから、区別する言葉で呼び合う。
森のひとは木々から発生し、種が落ちた場所に住まう。その土地にしか咲かない花があるように、住処でひっそりと生を楽しむ。森のあらゆる場所を散策し、変わらぬように守る。
森を選んだひとの話は、お伽噺だとか、ふと生活が交わる点で語られるのみで、森のひとという呼称に出会わずに生活する者も多い。名と存在を忌避し、忌まずとも無闇に触れぬように口に出さない場面もある。呼び名を耳にしたシェミネは、改めて子供を見た。銀の髪が光を呼ぶ。子供が森を背に胸を張る。街に住む者にとって、『ひと』と呼ぶ者たちは畏敬の存在でもある。異なる理の中に生きる隣人は、神様や妖精に並ぶ幻想に包まれている。街に住む人々や動物たちと、大地の子等を分ける大きな境界がある。ひとは森や川、土や花と言葉を交わし、魔法を操る。
「元は同じだと言われているんだけれどもね……。つまり、我々や動物たちの遠い遠いご先祖様も、魔法を使えたと。街の人は魔法を失ったとされているけれども、どこまでが昔話なのかな?」
元から魔法の力とは縁が無かったのではないか。また、魔法を手にするとなるとそれはもう街の人ではなくなるのではないか。次元の違いは埋められそうにないと、スイは言葉の端に表した。それに対してリピアは、昔をこの目で見たわけではないがと断りを入れてから答える。
「私達は確かにきみ達とは違うよ。同じ言語を用い、同じ姿を持つけれどね。森から生まれ、森に喰われて死ぬのが森のひと。生き方から終わり方まで、なにやらちょっとずつ違うんだ。それでも元々の根っこが同じと言えるだろうね。同じ木から、イチョウやカエデの葉が生えている感じかな」
「冬に葉を落とす事は変わらない?」
「そう。最後にはみんないっしょにね」
「常緑樹は?」
「世界の終わりにはみんな葉を落とすさ」
「世界が終わらなくても、木の寿命というものが」
「それもそう」
「ややこしくなってきた」
「正しい答えを知らないのだからこんなものだ」
三人がそれぞれに口を開く。シェミネが一息ついてから「同じ木だったのね」としみじみ言うと、リピアがそういうことだと笑った。この世界に零れ落ちた理由を知りはしないが、言葉を交わして戯れることが出来る隣人として、同じであると受け取って貰えたことを喜んだ。
「他にも岩間のひと、月の民……沢山の枝が存在するんだ。会ったことはある?」
無いとシェミネが答える。
「私も実際に会ったことはないんだ」
「交流は最低限だから、会う機会は少ないね。旅をしていると、彼らの領域に知らず踏み込んでしまう日もある」
今日みたいに、とスイが森のひとをもう一度見た。それから触ってはいけないと言われる女性のことも。女性は相変わらずゆっくりと歩き続けており、先導する背中で長い髪が揺れている。ふと、リピアがきみたちはなに? と聞いた理由に行き着いた。互いは未知である。不透明な淵を覗きこんで尋ねなくてはいけない。どんな出自であろうとも。その種として生きる意味は知らないけれども、何かであると答えを出して、銀色の太陽は隣をぴょこぴょこと跳ね歩くのだろう。呼び合うには名前が必要で、そういえばとリピアが少女の方を向く。
「シェミネだっけ?」
名乗り損ねていたことに気付いたシェミネは、よろしくねと右手を差し出す。彼女の笑顔につられてリピアは警戒も無く手を握り返し、ぶんぶんと振り回した。
「シェミネ、よろしく!」
その後、見知らぬものたちの間に挟まったリピアの、満足そうな歌声が響いた。
6.愛しき隣人よ
目指した赤い揺らめきが見えてくる。緑の中に現れる赤い土地は、天がこの森に降り立った痕跡か。近付くほどに花の香りもはっきりと感じられるようになる。迷い歩いた末に、雲のように冷たい香りに呼び寄せられて花畑に迷い込んだのだった。少女が花畑の美しさを称えると、前を行く女性が振り返る。そしてどこか照れたような、誇らしげな笑顔を見せた。
「ありがとう。花たちも喜んでいます」
感謝の言葉を紡いだのは何故かリピアである。シェミネとスイの視線を受けて、言葉を付け足した。
「……と、彼女が言っているのさ。花畑の訪問者を歓迎しているよ」
今度は顔を見合わせて、翻訳なのか、聞き取れない音域なのかと目で相談し始める二人の様子に、リピアが再び付け足して言うには。
「聞こえないでしょ、彼女の声」
当然の事を言うような口調で返された。街の外に溢れる未知に向き合うために、そろそろ何か言わねばならない。
「すると、森の中で聞いた声もきみの声なのかい?」
「そうだよ、スイ。でも勘違いしないでね、言葉は彼女のものだから」
うむ、と唸った後、スイが聞く。
「いたずら好きの妖精?」
「妖精ではないけどね」
その会話を大人しく聞いていた女性が、隣を歩くリピアをこつりと小突いた。その仕草は、め、と子供をたしなめる母親に近い。ひょいと肩を竦めたリピアは素直に謝る。
「あの時スイを転ばせたのは私だよ。悪かった。彼女に連れられて森の奥まで入って来るから、気になったんだ。迷わせてやろうか、遊んでやろうかって」
やれやれとスイが苦笑した。横でシェミネも笑う。
「見えないものは、確かに存在しているのね」
花畑に戻って来た。迷い込んだ時には風に一つの声も上げなかった花たちが、今はざわざわと雑談をしている。リピアが花の群れにひらり飛び込んだ。後に続く三人も腰を降ろす。中天から日が下り始めていた。空を見たシェミネが、軽く昼食でもと食べ物を広げる。リピアが何の儀式かと聞く。森のひとに食事は不要だ。たまに木の実を齧る楽しみは知っていると言う。食べられない物は無いと言うから、クッキーや味気ない保存食など、手持ちの物を並べて見せる。森を彷徨う間にだいぶ減っていたけれど、豊かな森だから食い繋ぐには十分だ。
花を分けてとリピアが女性に頼む。女性はどうぞと何輪かを摘み、ハンカチの上に並べた。口にしてみろということだろう。彼女は相変わらず見守るだけだが、いただきますと手を合わせるスイとシェミネに倣った。物の形や、行動の輪郭をなぞりながら食事を進める。蜜の香りが広がって、花々の声を聞く。身体が森に馴染んでいく。一方、街の食べ物を初めて食べたリピアの心は外に向き、「森の外も素敵だね」と夢見るように日差しを受けている。それから四人は花に埋もれて雲を数えた。太陽が降りてくるのを見守る。太陽が雲に目隠しされた一瞬、ふと声が途切れる。
7.物語はいつから始まったのだろう
「ちょっとごめんね、迷子になりたいらしい人がまた来ている」
少しの間黙り、耳をそばだてていたリピアは眉根を寄せた。立ち上がる。
「やれやれしつこいったらない」
止める間も無く走り出したリピアだが、直ぐに舞い戻る。そして女性の肩に手を置き、律義に説明を始めた。
「どこぞの兵士が来ているんだ。街からの。私達の力が羨ましいらしくてね。しつこい彼らを追い払いに行く。邪魔をしないでね」
街からの来客は、最近は珍しくもないのだと言う。望まぬ来客が。金属の音を聞き分けて、猛獣の目を見せた子供にかける言葉を探せない。
「この人にはくれぐれも触れないで、消えちゃうから」
スイとシェミネの顔を交互に見る。女性の肩から手を放し、また走り出した。背中を見ながらスイが苦い表情で呟く。
「どうも王都の兵士らしい」
青い顔を見せたシェミネに、待っていてと静かな声をかけて立ち上がる。森に向かう背中が、気をつけてとの少女の言葉を受け取る。そして彼の言葉は、空と翻る外套が残さずさらって行った。少女の耳まで届いたかどうかは、分からない。
昔々、魔法の力を欲した小国の王がいた。王は巧みな戦術と用兵で近隣の国を打ち負かし、少しずつ、確実に力をつけていった。国を大きく育てる王が目を付けたのは、街の人が持たない力。隣人たる他種族の魔術。放っておくにはあまりに強大で、更に惜しい。だから、そう、ここは一つ、協力を仰ごうと。保ってきた距離を詰めた先に血溜まりが出来た。触れず踏み込まずの距離を築くまでに、どれほどの時間がかかったのだろう。崩すために必要なのは野心の一歩。
街の人は魔法を失いひとの『環』から外された。循環から外れて以来異なる思想を育てる街は、異物と見做され繋がりを断たれた。何故安寧と魔法を捨てたのか。向けられる視線は冷たかった。それまで同じ道にあった者に対しての線引きは時に無慈悲と言われたが、生命として決定的に分かたれてしまったことをそれぞれが理解しなくてはならない。環の中は遥かな故郷となり、今や故郷にいた頃の心も分からない。境界を跨いで触れ合えるというのに、戻る術は知られていない。
戻れやしなくても、知識のやり取りは出来た。行商人は調合した薬草や食物を行き来させ、森の迷い人は歓迎を受ける。細く確かな生活の繋がりは、切れはしない。強かな生活に支えられてはいるが、小舟は少しの波で大きく揺れる。小国の王が投げ込んだ石は波紋を描いた。誰も知らぬ場所で見知らぬ者が水に投げ出されていても、平穏を保つ事は出来るけれど。個人の力では抗えない流れに呑まれていく者たちの声は、増える一方。
昔々に小国を率いていた王様は、今は王都の城の高くにおわす。
8.流れるもの
「スイ!」
駆ける子供の動きは軽く、小振りの獣にも見えた。やっと追い付いた青年が何事か喋ろうとする前に、リピアが牽制する。
「私は森を守る為に命を削る。相手と、自分の、ね。邪魔をするとさっきみたいに氷付けにする」
「協力する」
途切れる息の中、先ずはと伝える。
「理由も無いのに!」
「放っておけない。兵士に加勢する理由も無い。きみに協力する」
「むちゃくちゃ、だ」
盛大なリピアの笑い声と一緒に、何人かの男の声が聞こえた。近い。こちらにも気付かれている。
「そんなもんさ」
呟いたスイは、ひとまず剣を抜かず、森の番人よろしく男たちの前に立つことにした。旅装を掻き寄せ申し訳程度に顔を覆う。横ではリピアがするりと木に登って姿を隠した。樹上で声を張り上げる。
「遣いの方々、用件は!」
むせかえる緑が眩しい森に、目立つ枯れ草色の髪。兵士が引き寄せられてやって来る。軽装だが、腰に吊った大きな剣は、今にも飛び出しそうな番犬のようで。戦わずに帰るつもりの者など、この場には居合わせない。張り詰めた空気が漂う中、兵士の一人がお前、と声を上げた。半ば間が抜けた声だったので視線を集める。意識が散ったところに、森の妖精が返答を促す。
「用件は!」
兵は森のひとを求めてここまでやって来るのだ。リピアは何度目のやり取りだったかと数えてみる。生かして帰したこともあったが、殺しても同じだった。
「交渉」
一方的な交渉に、この森に住んでいた同胞はどれほど痛い思いをしただろう。狩りの間違いだろ、とぼやくのも忘れぬリピアは、さらに声を大きくして言う。隠れているのに位置を特定されてしまいそうだ。
「私たちは自然の力をきみ達の争いの為には使わない! 何度言わせるんだ。帰る?」
また血が流されるのか。
誰の呟きだったか。争いとはそんなものだ。高みを夢見て解き放たれた剣が、未知なる魔法の力への恐れと苛立ちを吸って輝きを放つ。目指す栄華の先に帰る場所はあるのか? 街の人として生きる理由は知らないが。兵らは血を求めているだけにも見えた。それならば素直だ。一斉に周囲に広がる輝きに、スイは一呼吸遅れて、短剣を構えた。先鋒の兵士を迎え撃ったのは、最も近い位置に立つスイではない。樹々が手を伸ばし、リピアの声に応えた。竹串に具材を刺すように貫く。断末魔は聞こえず、人が崩れる音のみが不気味にこだまする。舞う木の葉は地に付く前に刃となり、スイの眼前の一人も倒れる。見よ、これが魔法の力。子供の腕の一振りで武装した兵がやすやすと葬られた。
9.隔てるもの
見えぬ場所からの攻撃は恐怖だ。魔法を初めて目の当たりにした新米が、見えない標的から狙いを変える。魔術師の足元で、乗り気でないため突っ立っている森の番人はすっかり囮になっている。金髪の番人は、手にかけたくないなあと躊躇するが、新米とて帰らせては貰えないだろう。目前に迫る危険として排する。短剣を突き刺すと苦悶の声が横に流れていった。引き抜かずに別の短剣を構える。横から飛び出した大男の相手をするためだ。それなりの強さを認められた者らしいが、乱れた刃に捉えられるスイではない。身を捻りかわして、大きな背中に蹴りを入れる。本来の力では倒すには至らないが、足跡は予約の刻印。樹の腕が、刻印目指して振るわれる。大きな兵士は前のめりに倒れた。露わになった首元に、スイが短剣を突き立てる。深く刺さった剣を抜かぬうちに、一度に二人が襲い来る。回収は諦めて、屈んだ体勢からころりと回避してみせた。兵らの連携は見事だが、型通りだ。呟き息を吐いたスイは、低い位置から左に肘打ち、もう片方に足払いをかけてやった。次の魔法はいつ放たれるのか、樹上を見たスイの一瞬の隙に、襲い来る影。ナイフを抜いて応戦の構えを取るも、少し遅れたので一撃を覚悟する。ところが振りかざされた剣はそのままだ。腹に響く怒鳴り声。
「お前、何をやっている!」
スイはこれ幸いと低い姿勢から体当たり。言葉の意味を噛み砕いている場合ではない。剣の間合いの内側に潜り込むようにしてナイフを一振り。軽鎧に阻まれて傷を与えられない。逆に突き飛ばされて体勢を崩す。立て直す間に鈍い痛みを上腕に受けた。血だ。久しぶりに見た自分の血は鮮やかで。視界の端に広がる赤。赤い花が舞うようで、襲撃者はここに居る者で全てだろうかと残して来た二人を心配する。早く終わらせねば。狙われているのは彼らでは無く、あくまでも『森のひと』なのだが、取り逃がしてはならないと急く。目が眩み、もう一太刀腕にくらう。今度の傷は深め。しかし何故急所を狙わない? 敵意の薄さに僅かに気を留めたが、これ以上くらう訳にはいかない。ナイフを持ち替えた。迫り来る相手はやはり急所を外そうとしている。もう一度真直ぐぶつかって行けば仕留められそうだ。交錯する、その前に、横槍が入った。文字通りの樹の槍だ。リピアの魔法で、森の木々は再び凶刃と化した。対峙していた者が最後の一人。これで、全てか。
「スイ! まだだ」
樹に貫かれ、倒れ込みながらも斬りかかって来た男に、脇腹を裂かれる。血に濡れた相手の顔を見て、ああ、と呟く。見知った顔じゃないか。死力を振り絞った男の勢いと体重を受け切れず、押し倒される形で地面に背中を付けた。
10.凪
登る時の身軽さはどこへ行ったのか、リピアは木から転がり落ちて来た。倒れ込んだまま動かぬ青年に走り寄る。
「しっかり!」
目は閉じられているが、肩が上下している。生きていると確認し、わずかに安堵の色を浮かべた。傷口から流れる血を布と草が吸っていく。なおも溢れる血は、どちらのものだろう。兵士が動かなくなったことを確認して、スイの頬を叩くとごそりと動いて微かな声で戦況を確認する。
「他には」
「兵士は……今日は多かったな。これで全部」
下敷きになり抜け出せないスイを手伝ってやりながら、近くに薬になりそうな草は無いかと探す。見当たらない。焦りを溜め息で紛らわす。緑の大地を侵す赤は、勢いを増す。赤い水溜まりに、ただ二人。
「片付けるかい」
一方が周囲を眺めながら、抑揚の無い声で聞く。起き上がってから軽く止血をする。子供は慣れない手付きではあったが手を貸した。
「構わない、森がやってくれる。それより手当てだね。花畑まで戻ろう」
青年は立ち上がる。刺さったままの二振りの短剣を回収した。滴る血を近くの草で拭えば、化粧された大地は更にかおりたつ。目が眩んだのは気のせいだ。間をおいて、彼が答えた。
「痛い。でも、致命傷ではないよ。行こう」
二人の後を追って、血の匂いは森の中に広がった。暫くすれば肉を好んで食する鳥獣がやって来るだろう。辺りの木々は、澄ました顔で指揮官を見送る。
一層に輝く花畑は、ひっそりと静まり返っていた。そこに居る筈の二人はと言えば、淡い光が作る森の道の上。見ると彼女達は、立ち止まっては草を摘んでいる。草は無造作に麻袋に放られていった。そのうち一人が、唐突に振り返る。花の香りに被さる僅かな鉄のにおい。森を住家とする女性は、少しの変化も見逃さなかった。穏やかだった口元はいつしかきゅっと結ばれている。その表情は窺えないが、緊張を感じ取ったシェミネもまた遠くを見やる。
「薬草は……十分かしら」
先刻から集め回っていた物を抱え直す。女性は小さく頷くと変わらぬ足取りで歩き出し、シェミネはそれに従う。
11.花の守人の見た夢は
四人は合流し、今は風そよぐ赤い花畑の中だ。
このような姿を見せるとは不覚とスイが嘆く前に、シェミネは手早く傷の手当てをした。薬草の類はシェミネが管理しており、消毒液、飲み薬から塗り薬まで小さな鞄に詰め込まれている。薬草の知識が豊富で、小さな症状ならば魔法のように解決する。森に詳しい者から賜った知識だ。これまでの道中、争い事は無かったが細かな怪我は付き纏う。スイも何度か彼女の世話を受けていたので、大人しく身を任せている。
「安静にしてくださいね」
ゆっくりとシェミネが言って、患者はありがとうございますと深々頭を下げた。動作が脇腹の傷に障ったらしく、腹に手を当てて横になり、沈黙した。その横にリピアも倒れ込み、ああ、つかれたと寝息を立て始めた。
「どれくらい寝てた」
スイは飛び起きようとしたところを「ゆっくり」とシェミネに押さえられた。
「それほどでもなかった。リピアの寝言を三回聞いて、アヒルとペンギンが空を横切るくらい」
薬草を磨り潰していたらしい。花と草の匂いが目覚めに優しい。
「ああ、なんだか草の懐かしい香りが」
起き上がって作業の続きを見ているうちにリピアも目を覚まし、同じ事を言った。日暮れが近付いている。
「安全な寝床を提供するから、一緒に来ない?」
リピアの提案を、二人の迷い人は有り難く受けることにした。
「少し森の奥に入る事になる、構わない?」
「歩けるよ」
それじゃあ、と言ってリピアが立ち上がる。ぱたぱたと服を払ってから歩き出した。慌てて追いかけるのは二人。のんびりと見送るのは、女性の優しい視線。遠く離れてから気付いて、彼女はどうするのかと先を行くリピアに尋ねる。リピアが方向を変えた。危うく背後のシェミネにぶつかりそうになる。よろけながら女性に向かい叫んだ。
「お花、もう一輪貰って行ってもいいかなあ? かあさんに持って行くよ」
頷くように揺れる花に囲まれて、女性が笑ったように見えた。礼を言ってから、足元の赤い花を摘む。朝露のようにみずみずしく、零れる生命の色。リピアは両手で包んで、寝床に向かい歩く。
「彼女は……」
花の香りを楽しんでいたリピアが顔を上げる。花びらを撫でる。
「彼女は、今は花の守人。花畑が彼女の家。家の周りからは、ほとんど動かない」
「彼女はどこから来たの」
「始まりから花畑にいたよ」
いたずらっぽい笑みをスイに向けて、花を丁寧に腰のポシェットに入れた。花は姿を隠してもほんのりと薫る。記憶の中に染み込む香りだ。
「触れるな、と言ったよね。それは何故だい」
「彼女はひとの形をしている。でもそれは見た目だけなんだ」
「解らない」
「そう、解らない。認識出来ていない人が触れると、現実と物の間に誤差が生じる」
その意味に、二人の迷い人は考え込んでしまう。
「彼女はね。昔の誰かさんの願いと、彼女の夢で出来ているんだよ」
「現実、願い、夢……。お伽噺や魔法のようで、しかし彼女は本を閉じても消えはしない」
そのとおり、とリピアが頭の上で丸を作った。妖精のサークルを幾つも潜り、自分とは何かを問い直す度に、存在が曖昧になる。いいや、異種の領域に踏み込んだと知らされる。異なる理の中で頭をまっさらにして問う。
「彼女とはなに」
「そうだね、昔々に私が見た答えを言おう。街の子たちは信じるかい」
問答の果てに正体が明かされる。
「彼女は花だ。枯れる事を忘れた、ね」
笑いは出来ない。現実として二人は呑み込む。触れられなくとも、在るのだから。
「世界は広いが、彼女に限って言えば、広いだけが世界だろうか。植物は根を張った地にあり続けるものだ。彼女が意味を見出すものがあるならば、それは世界ではなく命にある。彼女の目に映る私の姿を知ること出来ない。映るのはただ一人で、時に盲目とも揶揄される……さて、目的地だ。お疲れさま」
唐突に話題を転換したリピアが指す先で樹木が背を反らしている。続きを促す前に、開けた空間に目を奪われる。暮れ色がおとぎの森を染めていく。吹き渡る風も薄桃色かと思いきや、そぐわぬ重い匂い。空気の変化に身を硬くしたシェミネ。円形に近い空間に導かれる。舞台中央には逆光で陰を纏う巨人の玉座。リピアが選ぶにしてはシルエットが禍々しい。胸の重さが増していく。この匂いは、木を焼いた匂いだ。風雨と時間で薄れてはいるものの、土地にはまだ染みついている。近付くと玉座は森の主そのものであると知る。胴周りからして立派な大樹だったに違いない。淡い光に照らされた木は陰を纏うのではない。上部が焼け焦げていた。広場の柱や椅子は切り株で、空間はそのまま火災の範囲を示しているのだろう。躓かないようにとリピアに声をかけられる。森の主に近付くとそれでも見上げるほどの高さだ。焼失から時間は経っているようだが、新たに伸びる枝は見られない。木が疲れきっているとでも言えようか。近付くと下部にも焼けが見られる。組織が欠損した個所は痛々しく、内部壁にもところどころ炭化部分がある。洞は焼けて出来たものか、元からあるものか、一目では判断できない。根元の草が無邪気に手を伸ばしている。
「ただいま、かあさん」
幹に手を触れ、リピアは語りかけた。
12.赤の焦点
かあさんと呼んだ大樹の根本に、小さな太陽が戻る。暫くの間幹に頬を寄せ、リピアは何事かを報告しているように見えた。そこには親密な会話があり、繋がりがあった。木の様子を観察しながらシェミネは鳶色の瞳を細める。
赤い花が根元に置かれた。映える色だ。こうして見ると、全ての風景がこの花の為に在るように見える。焦点は赤にあり、何もかもがゆっくりと吸い込まれていく。
「かあさん、今日も森は元気だよ」
リピアは木を背にして客人を見上げ、改めて自分と一族について語る。
「森は呼吸し、吐息は人の形となった」
しんとした生の中に生み出された動、『森のひと』。
「私たちはそれぞれの母から生まれる。この木が私を生んだ。木の温もりは私の肌の温もりなんだ」
「木を母と呼ぶ?」
「木が母である」
森のひとは母木と共に生きる。母木より智を授かり、動物と駆け、草木から道徳を学ぶ。木から雫が落ちるように、森のひとはほろりと発生して大地に立つ。森を庭に遊び、森の維持に力を発揮する。ひとの姿を持った花。ひとの姿を望んだ木。それぞれが長い記憶の中でふと、ひとを恋しく思うときがあるのだという。老木が夢見る。若木が旅人に手を差し伸べる。
「私は木である。ひとでもある。握手もできる」
花の彼女よりは、きみたちに近い生命なのさ。隣人の手を取る。異種ではあるが、ひとである。恐れることはないぞと。お互いに。シェミネが握り返す。三人は根に腰を下ろす。森の円形劇場の中央。声がよく響きそうだが、動物を観客として呼ぶつもりはない。この場所はまだ眠らせておくべきだ。
「これほど広く深い森。名のある木はまだありそうだが……」
「森のひとは他にも住んでいたけれど、一部は街に運ばれてしまったよ。その他は土に。一時期よりもやかましく兵士が来ないところを見ると、今は私一人が残るだけだろう」
「先刻の兵士たち、狙いはリピア一人か?」
「彼らが把握しているのは私一人であるにしても、森がまだ私たちを隠していると思っているんじゃないかな。たまに違う道に逸れていく隊があるんだよ。彼らに森の全土を焼く力はないけれど、無駄に火を点けられたらいやだなあ」
「リピアのかあさんは、つまり」
「街の人に焼かれたよ。きみたちはずいぶん大きな炎を持つようになったんだね。私の母木は森一番の古木だった。真っ先に朽ちる命ではあったかもしれないね」
同胞が気掛かりだとリピアが声を落とした。森のひとの生は、母たる木に喰われる事により終わる。それは死と呼ぶものではないという。単純な終わりなのだ。転生の教えは無く、母胎への帰還を果たす。事情により「死」を迎える場合もあるが、彼らの生命に関わる事故などごく少数だ。身体の損傷により尽きた場合は体を遺すことになる。回帰を終着点とする森のひとにとって好ましい事では無い。彼らが必要以上に静かに慎重に日々を生きるのも、木に返す身を思ってのこと。
身を返還する先、それぞれの母木を失った森のひとは、ではどうなるか。返還先を失い、身体が自然に朽ちることもない森のひとは、身体を絶つ他に生を手放す術が無い。森のひとの性質を知った王都は、木を切り、焼いて森のひとを炙り出す。
「リピアも、生命を返す術を失った」
「うん、渡り鳥になってしまった」
母木を失いさ迷う者を彼らは『渡り鳥』と呼ぶ。永遠の時間を、あても無く季節と渡る。
「人が鳥になる瞬間って、どんなものだろうね?」
リピアは問を投げ掛けるが、答は誰にも分かりやしないのだ。問を発した本人でさえも。
「さあて、殺風景で驚いたかもしれないけれど」
リピアは手を打った。自分の話はおしまいだと。
「ここには獣も来ないんだ。休めそうかな」
「ありがとう」
13.月の焦点
その晩、シェミネはふと目を覚ました。焼かれた木を見上げる。ぽっかりと空いた天窓から月が見え、月明かりの下にリピアがいた。短く切られた枝の上で、足がぶらぶら揺れている。ぼんやり目をやっていると、リピアが振り向いた。目を丸く開いてからにっと笑う。隣においでよと手で示す。
よじ登ってみると、闇も手伝ってか、かなりの高さに感じられた。宙に投げ出した足を動かせば地面の無い空間を歩くようで。
「どこまで行けるかしら」
「ここまでだよ。落ちないでね」
「どこまでが体なのか分からなくなりそうね」
「森も土も雲も、夜は皆同じものになってしまうね。シェミネも私も」
「鳥も」
どこまで行けただろう。リピアは在りし日の木を暗闇に描く。鳥の視点を借りて、かつて登った天辺まで行く。森の果ては見えない。高所から見下ろすと、木々の頭が絶えず刻む詩が聞こえてくる。空には木々が編んだ黙示の層がある。街からの客人に森の歌を聞かせたくなって目を向ける。シェミネは月の向こうの透明な闇を見ていた。ふむんと頷き、視線を戻して今日は星が少ないなどと考える。
「月の口は大きく、何もかもを呑み込む。光の梯子は、呑まれる言葉が放つ最後の意味だ」
「シェミネ、それは何?」
文字を辿るかのような口調にリピアは尋ねたが、それも月の口が咥えていった。全てが吸い込まれる。焦点だ。
「森のうたが聞こえる?」
沈黙の重さ軽さをお手玉していたリピアが尋ねる。
「それはなに?」
今度はシェミネが聞き返したので、リピアは幾千の詩から一節を引き出して、森の言葉で歌ってみせた。「懐かしいような旋律だわ」と言ったシェミネが、似た音を途切れ途切れに紡いでみせると、リピアは喜んだ。
「きみは、森の親戚?」
シェミネは首を振りかけたが、「親しいひとが、もしかしたら魔法使いだったかもしれない」と呟いた。
「飛んでみない?」
リピアは咄嗟にシェミネの服を掴む。存外やんちゃで飛び降りるのかと思ったのだが、違うようだ。動く様子も無い。
「どこまで行けるかしら」
「そうか、鳥か」
一つの場所に留まらぬ渡り鳥、方角を失った迷鳥に言葉をかけられているのだと気付く。
「森はずいぶん静かになってしまったけれど、いずれ慣れると思っていたんだ」
「いずれ」
「いずれ」
「時間の感覚が違うからかしら、妙な誤差があるわね」
「……ありがとう、シェミネ。実を言うと今の暮らしには風が無い。羽が腐り落ちそうだ」
「リピアの森はまだ燃えているの」
「火消しの風を呼びに行くことにするよ」
遠い残照が消えない。森の果てが赤く染まっている。落ちない陽が一筋の道を作っている。待てども暮れない夕刻に惑わされてはいけない。虚像に向かって歩くと落ちる。大樹の膝に置かれた赤い花も、月に色を食われてしまった。今は夜。草木も眠る時刻なのだから、行く先は朝になってから確かめるとしよう。
「落ちないでね」
「シェミネもね」
肩を寄せて小さく笑い、お休みと挨拶を交わす。
14.それでも若芽は空に伸び
「うん、よし、私も一緒に行きます。ごはんおいしい」
リピアが朝ご飯にと渡された保存食を頬張りながら宣言をした。呆気にとられているのはスイである。もぐもぐと口を動かしながら、瞬きはせずリピアを凝視する。飲み込むのにいくらか時間を取られる。彼は昨日の傷も気に留めず、いつもと変わらぬ時間に起き出していた。何も無かったかの様な振る舞いで朝食の席に着いたのだが、リピアの意外な一言のせいだろうか、喋ろうとしたその時、「うぐっ」と呻いて傷口を押さえた。隣のシェミネが薬草を差し出す。
「大丈夫、だけど、一体どこまで行こうって言うんだい、リピア」
「渡り鳥はどこに居ようと渡り鳥なんだよ」
「渡りの季節は見ないのか?」
「良い風が吹いているよ」
「風向きが変わるかもしれない」
「スイ、私はきみたちのことが好きだよ」
「俺が裏切らないだなんて保証は無いよ、どこにもね。街に出たら売り飛ばす」
「そりゃ王都の兵士より残酷だ」
「そうだよ」
「……ふ、はははは」
「これ、笑うでないよリピア」
やれやれとスイも苦笑する。横で笑いを堪えるシェミネが何も言わないので、一枚噛んでいるなと察する。リピアはもうひと押し。
「きみたち、森で迷っているんだろ。案内無しに出られるのかい」
シェミネはスイを見て、出られない、まことに困った、という顔をする。森もいいけれど、いつか街の布団が恋しくなるわよと聞こえてくる。気のせいだ。するとリピアは布団というものはさぞ良いものなのだろうなというそぶりで遠くを見る。気のせいだ! スイは頷かない。返事を渋っていると、やっとシェミネが口を開いた。
「父さん、どうでしょう?」
「父さん、街に連れてって」
真面目な顔の二人を制してお父さんがゆっくりと笑う。
「まず俺はきみたちみたいな大きい子供を持つ年齢じゃない」
「父さん!」
「分かっているよ、川の流れに委ねよう、風の行く道も遮らない。一緒に行こう、リピア」
時には逆らう気力も必要だが、流れる方が自然で楽なのだ。なるようになるさ、スイは思う。川は支流を受け入れながら、主流に交じりながら、旅路を行く。どの判断が自分の意思だったのかも分からず、目指す先も無いままに行くのだろうか。確かな過去でさえも注ぐ流れに薄められていく。なるようになるさと繰り返して、食事の残りを腹に収めた。
「改めてよろしく」
リピアの銀髪が風に流され、川面の一瞬の煌めきを再現する。青年と少女は眩しく見つめる。よろしくと握手をする。挨拶を交わした朝を、焼けた大樹が記憶する。根元で赤い花が別れを告げる。伸びる若芽が記憶の炎に焼かれないように、炎を内に収めて燃える。 森の中の赤い花、夜の月。何もかもを呑み込む焦点。光点が灯台となり、森を離れる舟を見送る。三人の旅路はここから宛てなく延びていく。
透明な手
1.迷いの森から見た光
古くから続いているその森は、土地に染み込んでいる。地にも空にも深く根を張っている。緑の染みは、住まう生物や生み落とされた子らに透り、より複雑な網となる。
森が生んだ子が今日、呟きを置いて沼の深みから出て行った。沈み緑の歴史になる筈だった木の葉が、風に乗っていった。
「大樹の枝を渡りに行こう」
旅人は森から抜けた。入る日は二人、出る日は三人。
一人が、ほっとためていた息を吐いた。背の高い姿が心なしか萎む。今は焼けた大樹の膝元の森は、森の住人の案内無しには抜けられなかった。二人は迷い子だったのだ。いつから迷っていたのかと考えると、道を歩く気も無い少女について歩き出した日からではあるのだが。何を目指しているのだろう。少女の背中に問う。しかし答えは要らない。だから尋ねもしない。旅路を守るだけ、それが一貫した姿勢だった。少女がどこに向かおうとも、青年は背中を追いかける。
「シェミネは何に向かっている?」
青年の胸の問いを、小さな銀髪がいとも簡単に放った。青年は驚きも困りもしない。聞いて当たり前の質問だ。
「軌跡を辿っているの。パンの欠片を拾って行く様に」
「私はどこに行きたいとも思わない。だからシェミネについて行くね」
「リピアは知らないだけよ。地図を開きましょう」
「地図はいらない。私は自分で地図を作るよ。ここは未知の世界だから。私は吹いた風に乗っただけさ。別な風が必要になれば、そちらに乗るよ」
リピアには森の終わりが地平線だった。果てを自らの意思で広げていく。手探りの中で掴み取るのが誰かが書いた地図では味気無いのだろう。
やり取りの終わりにスイは肩をすくめた。やっぱり、と。萎んだ背中が、それでも楽しそうに揺れている。
2.光の中の迷い道
「触れられるもの、触れられないもの」
上の空に想いを馳せていたシェミネが、リピアに尋ねる。
「……赤い花畑の彼女、森の中の花園で今は独り。リピア、良かったの?」
リピアは頷く。
「また帰るとだけ言って来た。約束だけに命を入れてきたよ。また会える。生きているならば」
「生きているならば」
スイが繰り返した。
「きみを狙う兵士は、また森に来るだろう」
「彼らは何をするか分からない。だからといって同じ場所に居続けては消耗するだけだ。彼らの相手ばかりをしてはいられない。それから、彼女も大丈夫。彼女には怖い魔術師がついているから!」
大袈裟に天に振られた手の周囲に、一瞬赤い花が散ったように見えた。それは見る者の幻影か、実際リピアが魔法で光を反射させる可愛い演出をしたのか。
「魔術師とは、リピアの仲間のかい」
「それが違うんだ。さあ驚け、その魔術師とはきみたちの同族だ」
「……何?」
短いがはっきりと、スイが驚きを声に出した。無理も無い。魔術を操る街の人の話などは、遥か昔や伝説の話。
「存在するんだよ。環に戻った街の人が」
異種の縄張りの森に入り込んだ時からだ。何かが変わった。それは交わされる言葉なのだろうか。魔法、森のひと、王都、兵士、花の守人、母さん、そして環に戻った同胞……。異種に出会う恐れは無い。だが危うい。呑気な旅路にかかった霞に、スイは進路を変えるべきか悩む。
「触れられるもの、触れられないもの。私たちはどっち?」
スイの難しい顔を、シェミネが覗きこんだ。目を合わせれば彼女は微笑んでいる。避けられない流れも、種族間の塀の上を歩く旅路も怖くない。どこまでも行ける。
靄の中の進路に、スイは表情を崩した。
「どっちだったかな」
触れられるもの、触れられないもの。花の守人の存在に概念は崩れる。守人を存在とする事は出来るのか。自分は他に触れる手を本当に持つのか。
身一つの旅路である。
3.霧散
透明な手を伸ばした。幻影の赤い花は舞わないが、代わりに光が飛び散っていった。弾かれた光はやはり透明だから、自分が飛散したのかどうか悩んだ。ふ、ともう一つの手が伸びてきて光をかきまぜる。隣に座る少女が同じように空に手を伸ばしていた。雲が渦を巻いていく。
「スイ、これは真実」
「空が白い。虚実も無く綺麗だと思う」
二人を真似てリピアも手をかざした。興味深げな視線を得ると、目を閉じる。飛散したものをかき集めるようにしながら小さな手を握る。目を開き、握った手を解くと、小さな水玉がそこにあった。
「魔法は場にあるものを掻き集めて初めて使える。無からは生めない。この水玉も、風の刃も木の槍も、赤い花も。……今はけっこう空気が湿っているね。雨、降りそう」
白い空が湿気に霞んでいる。渦巻く雲が森の中のような暗さを落としていく。まだ緑の迷い路の上にいるのか。雨の霞はやがて旅人の周りに溢れていった。白がぽつぽつと増し埋めていく中で、何もかもはただ、透明だった。
空縫いの時計塔
1.示された塔
その日の夕暮れ、スイは
「塔に登ろうか」
と言った。これからの行き先である。
「雲より高い?」
「天より高いよ」
「良いね」
これで決まり。
雨霞の塔の裾野の村は、しんとしていた。雨を跳ねさせる平屋の屋根はどこも低い。尖塔もアーチも無い、ただ平らな村。漂う白い雨粒はその平らな屋根さえ掻き消して、天井の見えない塔とともに妙な遠近感を作っていた。旅人三人もまた静々と村を歩いていく。長く続いた霧雨で、足が重い。塔を見上げると重力を感じた。家々も重力で平らかになったのだと思えてくる。吹く風だけ、軽やかだった。
「見よ、天からの救いの糸だ」
「空よりも高い。とすると天でもこの塔を救いの糸と言っているに、違いないわ」
「では何が手を差し延べているのかな」
「星さ」
「どの星かしら」
「この星さ」
「まあ、手を引かれたら塔から真っ逆様」
「空か地か。どちらが救いをくれるかなあ」
「或いは救いは無いかもしれない。さあ、でも、行こう。もう目の前だから」
2.塔の示す方
目的の塔は、ゆうらりと小高い丘と低い雲の間に、ぴったりと嵌まっている。
塔に正式な名前は無い。塔は未だ建設途中、そして気の遠くなる昔に始められたものだから、名前があったとしてもすっかり記憶から掃除されているに違いない。正式な名はいつまでも分からないが、『時計塔』と呼ぶ者は一握り存在する。そしてこちらの通称は正式な名に代わり広まっていた。塔の麓の住人から旅人に、旅人から街の人に。雲に埋まる大きな塔の存在は、さして話題になるでもなく神話と文献の中にある。
壮大な塔の外観はと言うと実に質素なものだった。淡々と素材が詰まれていて、飾り気は一欠片も無い。が、塔の内部を見た一行はその荘厳な様子に息を飲んだ。足元に地下の闇が広がっていたからだ。
「天地どちらに救いを求めるか、お任せってことだね」
塔の扉より一歩進入した場所は、せいぜい階段の踊り場といったところ。そこから上にも下にも階段が伸びている。階段は円形の塔の壁に沿って螺旋に続く。
「一応言うが、落ちないようにね」
上下に広がった暗闇に気を取られたシェミネの意識を呼び止めるように、スイが囁いた。
「率直に言うと怖いわね」
「私も、怖い」
「見せたいものはこの上なんだ。……多分」
「多分ときたけど上ろうよ」
「そこに階段がある限り、ね」
僅かな明かりを頼りに、空の一歩を踏み出すのであった。
3.螺旋の階段
「時計塔の大工様、今朝も良い音で鳴っているよな」
仕事をする麓の村人が、塔を仰ぐ。微かに音がする。一定のリズムで刻まれる音は鼓動。塔がなお伸び続ける証。大工は果てなく仕事を続ける。
階段を上る音が何重にも聞こえる。塔の内部にも響く大工のリズムと靴音が、鳴り合う。時計塔と呼ばれるもう一つの理由がこの螺旋階段を上る音だった。自らが時計の部品となったように段を踏み続ける。時間を作っていく。
光源は塔の隙間から漏れた薄明かり。しかし窓と呼べる大きさのものは足場の近くには無い。視覚ではなく聴覚が楽しむ塔の音。始まりも終わりも知れない螺旋。
「歩き続けなくては、と思ってしまうよ」
耐えかねたリピアが口を開く。階段を上り始めて暫くの間、三人はそれぞれに音を楽しみ、塔の一部になっていた。しかし安定が過ぎると不安と疑問が出てくる。
何の為に?
どこまで?
いつから?
「自分が限りなく薄くなっていく」
「登るごとに重くなるというのに」
「ではこの身体とはなにか」
「ただ重いだけだ」
「重いけれども持って行かなくてはならないわ」
シェミネが一休みを提案した。登りはこたえる。時間はある。身体を連れて、ゆっくり進めばいい。
「話しましょう。それぞれのこと。旅のこと。お昼ごはんのこと」
4.風、吹き抜け
地平線を割る時計塔。世界には天と奈落を繋ぐ場所が限りなく存在する。この恐ろしく巨大な建造物もその中の一つでしかない。奉られも攻められもしないのは、これが一介の大工の趣味の工作だから。
仕事は密やかに延々と、無意味に。
その無意味な建造物に、スイは何を求めて来たのか。よもや彼もまた何となく塔に足を運んだわけではなかろう。
三人が塔の階段を踏み始めてから何時間、何日。耳から入った時を刻む音が血液に染み付きそうになるが、スイの許しはまだ出ていなかった。リピアの負けん気は螺旋をぐるぐる周り続け、シェミネの考え事はとりとめもなく天から降り奈落に流れていった。辛いとの声は上がらない。食料もあった。
「何日か寝泊まりして分かった。凄い塔だね」
「樹木が育つ方が凄いさ。限度を知っている」
「スイ、限度なんて知りたい?」
「知り過ぎていて寂しくはあるけれどさ」
「ねえ、ねえ。私たちはこのまま歯車になっちゃうの?」
「うむ、ここらに、しようか」
言うやスイは壁を叩き破った。
「スイ、眩しい!」
声が更に穴を広げる音に被る。反逆の歯車達は気持ち良く風を受けた。一瞬、仕事の音が止んだ。三人が見えもしない先端を見る。何事も無かったかのように規則正しい音が続いている。風穴に目を戻す。
「ああ……綺麗」
視線は遥か高みの風景に釘付け。夕暮れ前の黄色く燃え上がる空があった。人の顔程度の大きさの穴から射す、突然の強い光と一瞬の発光に眩む。目も、神経も。
午後四時過ぎの殺傷力が、感動に揉まれたリピアを転げさせた。壁に向かっていたから、退く体は塔の中央、吹き抜けを落ちる。
5.刻印の窓
「リピア!」
シェミネの伸ばした手も僅かに遅かった。強い光が少女の顔を照らす。蒼白。今にも後を追いそうな彼女を掴みながら、スイもリピアを呼ぶ。二度、三度……。
「降りよう」
鼓動が早まる。
靴音が何重にもなる。どれほど降りたのか分からなくなる。
トントン、タンタン。
おーい。
音に消されそうな声が響いた。反響で正確な位置は掴めないが、遠い。それでも返事があったことに二人は微かに笑みを交わした。なお走る。昼の光が弱まる中で息を切らす。また声が響く。声の主にはまだ遠い。途切れ途切れの大声は、愉快そうに壁を跳ねてやって来る。
「あんまり綺麗で、びっくりしてしまったよ ー 。ごめんねえ!でも、見たのが一瞬で、良かったあ。長いこと見ていたら、忘れてしまうからね!」
スイは今度は苦笑する。
「呑気に感想を叫んでいるが、返事が遅かったのはどこかを打ったか失神していたか……」
「ふふ、リピアの感想は最もね。私もあの一瞬が刻まれた。頭は酷く打っていないようだから一先ず安心したわ。行きましょう」
「リピア!落ちて入口まで戻ろうと考えず、そこで待っているんだよ」
「痛い思いは、したくないしね。少し打っちゃったんだ。 休んでるよー」
リピアは掴み損ねた階段に引っ掛けた手をさすった。落ちる勢いを殺せず手を擦り剥き、ついでにまだ少し落ちた。着地にも失敗し、体だか頭をしたたか打って一瞬記憶も飛んだ。不覚に心が痛むが、思わず転げてしまったほどの風景を細部まで必死に思い出しながら満足そうに笑っていた。
「随分落ちたね。無事かい」
僅かな太陽さえも射さなくなった月明りの時間帯に、リピアは発見された。カンテラを置き、息を整え座る。そして心底ほっとしたと、口にするにも息が上がっているので、スイもシェミネもただごろんと寝転がった。
「スイはあれを見せたかったんだね。ありがとう。地図を見るより明確に、世界を知れた。果てなく、白い」
「微塵の景色に求めるものは探せないけれど、沢山の行先を見たわ」
「うむ」
落下の衝撃にも勝る感動を提供出来た事を喜ぶべきか、少女二人の逞しさに頭を下げるべきか迷ったスイ。感動を語り合う二人の笑顔を照らすカンテラを見た。それから一つあくびをして、笑い声とまどろみに浸る。これからどこへ行こうか。空から行先を探してみる。鳥の視点を持って。
5+.天と未来に筒抜けの悪戯
「穴を開けてしまって、大丈夫だったかしら」
階段を下る。音がついて来る。時を刻み、その中に一瞬の思い出が刻まれた時計塔。帰り道も長い。
足を止めたスイが、困り顔でシェミネを見、空洞を仰いだ。いたずらに若干の罪悪感を持つ子供のよう。
「まあ、その」
聞いてみよう、とスイは言うと、めいっぱい声を張り上げた。
「すみませんでした!!」
怒ってなきゃ良いね、いたずらに笑うリピアだが、びくりと息を飲んだ。
おーうよ。
勢いの良い返事が、どこかも分からぬとりあえず上から聞こえたからだ。
「立派な建設者なのね」
シェミネだけが、感心したように微笑むのであった。
しあわせのみつば 1/四季を咲かす大樹の章