Story N

Story N

波の音は彼の心音。

 知らない誰かに、また逢いたいなんて思うことは滅多にない。だって、知らない人だもん。名前も、年齢も、何処に住んでいるのかも、何の仕事しているのかも。ただ、1度だけ逢った事があるだけなんだから。


 その日は5月の終わりの、とても暑い日だった。海岸の傍のサーフショップに車を停めて、慣れた友人たちは準備を始める。ボードなんてやったことない。そう話したら大学時代の友人が連れて来てくれた。だけど、その日の私は砂浜でお留守番だった。「やめとく?」って言われたけど、海なんて行くことがないから行くよって、ついて来た。何もすることもないのに。
 暑いと言っても砂浜はまだ心地いい熱さで、大きなパラソルをサーフショップで借りて設置した。順番に海に入って行く友人を見送って、そこで私はシートの上に座った。ショートパンツから出た足を陽から避けるように小さくなって。海にはけっこう人が来ていて、まだまだ海開き前だっていうのに賑わっていた。ただ海を眺めて、ただ波の音を聞いているのが、いつもの日常から逃れられているみたいで少しホッとする。手を大きく広げて砂を掴む。指の間から擦り抜けていく砂が足元に落ちるのが面白くて何度もやった。子どもみたいな自分になんだか笑えてくるけど、そんなことで気持ちがゆったりするんだ。
 スマートフォンを取り出して、写真を撮った。海ってやっぱりいいなぁって思って、パラソルから出ると海をバックに自撮りなんてしてみる。ひとりでピースしている自分も残念だけど。
「撮ろうか?」
 声がして、見ると隣のパラソルの人だった。
「貸しなよ、撮ってやるよ」
 返事もしてないのに、その人は立ち上がって私の前に手を差し出した。スマートフォンにそっと触れて、私の手の中からするっと抜き取った。
「いくよ、笑って」
 笑って、と言われても、ぎこちない笑い方しかできなかった。
「なぁ、知ってる?」
「え?」
「ドラえもんってドラだけカタカナで書くじゃん?あれって、ロボットの戸籍調査があった時に、名前を書かされたんだけど、ドラまではカタカナで書けたんだけど、えもんの部分だけカタカナが思い出せなくて、ひらがなで書いちゃったんだって。それがそのまま戸籍に残って、ドラだけカタカナ、えもんはひらがなになったんだってさ。ドラえもんって頭良いのかと思ったら意外と抜けてるとこあるんだな」
 急に何かと思ったけど、「え?」って笑ったところをスマートフォンで撮られた。
「いい笑顔、げっと。ほら」
 そう言うと、スマートフォンを返してくれた。
「あ・・・りがとう」
「どういたしまして」
 そうしてまた、彼はパラソルの下に戻ると、敷いた大きなタオルの上にゴロンと横になった。そして置いてあったゲーム機を手にした。
「ゲーム?海で?」
 彼は上目づかいで私を見上げた。
「暇だから」
「入らないの?」
「俺はただの運転手。借り出されただけ」
「それで、こんなところでゲーム?」
「どこでもできるっしょ?」
「そう・・・だけど」
「あんたは?生理かなんか?」
「は?違います!」
「あ、そう」
 違わないんだけど。私だってボードやる予定だったのに、入れなくなったから。気を付ければ入れないわけないのかも知れないけど、なんかいろいろ気になるし。私は自分のパラソルの下に戻ると、タオルで足元を覆った。なんだか恥ずかしかった。

 それからその人と話すこともなく。私も結局スマートフォンをいじったり、途中のコンビニで買ってきた雑誌をパラパラめくったり。最初は波に乗る友人たちを見たりしていたけれど、時間が経つにつれ少し退屈になってくる。暑さも少しつらい。
「はい」
 隣のパラソルから急にペットボトルの水が差しだされた。さっきの人だった。
「あんたさっきから何も飲んでないでしょ。水分はとった方がいいよ。トイレ気になるなら行って来なよ、荷物見ててやるよ。けど貴重品は持ってけよ。後で失くなったとか言って疑われんのごめんだから」
「ありがとう。荷物、見ててもらっていい?」
「いいよ」
 軽く会釈して、サーフショップにトイレを借りに戻った。あの人、いつもここに来ては、あぁやってゲームばっかやってんのかな。海には入らないのかな。全然焼けてない、色も白かったもんなぁ。そしてサーフショップを出て、私は海に戻る。道路を横切ると陽射しが随分強い。自分がもと居たパラソルの隣のパラソルが気になった。ピンクの可愛いやつ。
 戻ると、横になったままゲームをしていた彼がそっと視線を上げた。
「おかえり」
「ただ、いま」
 そしてまた視線はゲーム機に戻す。途端に「あぁっ!」って言ったかと思うとゲーム機をポンとシートの上に置いた。
「死んだ」
 小さく呟くと、ペットボトルの蓋を開けて彼は水をぐっと飲んだ。私も、さっきもらったペットボトルを思い出して、蓋を開けて飲んだ。
「海は好きなんだよね」
 話しかけられたと思って見てみると、彼はこちらを見ずに海をじっと見ていた。
「けど面倒くさいんだよね、入るの」
「ちょっと、わかる」
「だからここでこうやってるだけでいいかなーって。来たのに入らなきゃ意味ないとか言われるけど。結局はみんな遊び疲れるから、荷物持ってくれるやつって扱いで誘われるし」
「なのに来るの?」
「たまには来たくなるでしょ?ちょっとした解放感?やってることは家ん中にいる時と変わんないけど」
 そこまで話すと彼はまたゲーム機を手に取った。また音がしはじめた。ゲームをSTARTしたんだ、きっと。何も話さずに、また指を小さく動かして遊んでる。でも、なんかいいなぁって思ったんだ。私も、さっきパラパラとしかめくらなかった雑誌を、ゆっくりと読むことにした。微かに耳に入るゲーム音と、一定のリズムのような、だけど時々揺らぐ波の音が心地よかった。

 時間が経って、友人たちが戻ってくる。この後昼食を何処かで食べて帰ることになっていた。隣のパラソルを見ると、彼はまだゲーム機と遊んでいた。こちらが帰る準備していることとか気にもしていない。途中、彼のピンクのパラソルには誰一人戻っても来なかったけど。本当に誰かと来てんのかな。けど少し荷物置いてあるし。なんとなくじっと見たその荷物が、女性物だって気付いた。大きなバッグのデザインとか色とか。そっか、彼女を待ってるのか。さっき少しお世話になったし、パラソルを覗き込んで声だけかけた。
「お先に。今日はありがとう」
 そしたら彼はちらっとだけ視線を動かして私を見た。
「今度来るときは海に入るの?」
「たぶん・・・」
「そっか。お気を付けて」
 そしてまた視線をゲーム機に戻した。
 私たちは荷物をまとめて、車を停めてあるサーフショップに向かった。みんなが着替えたりしている間、そこで少し店長と話をしたり、次の予定を決めたりして。次のタイミングはぜったい海に入りたいと思ったから、ボードも少し見せてもらった。その後、いつも友人たちが行くと言うレストランに向かった。レストランは海が見えるテラスの席を予約してあって、そこに長居した。夕陽を見てから帰ろうかなんて話になり、きれいな夕陽に盛り上がった。

 車で海沿いを走る。もう暗くなる寸前の時間。私は助手席で海を眺めたりしていた。少し走ると、道路の前方、道端を走る自転車が目に入った。スポーツタイプの自転車。気になったのは自転車の側面に取り付けられたサーフボードとパラソル。昼間に隣に居たあの人のピンクのパラソルに似ている。白いTシャツにブルーの膝丈のパンツ。もしかしてと思って通り過ぎる瞬間に顔を見た。間違いなくあの人だ。借り出された運転手だって言っていたから車だと思っていたのに、自転車だった。そしてあのバッグを背中に背負っていた。
 何をしに来ていたんだろう。たったひとりで?こんな時間までずっと?・・・本当にひとり、だったのかな。助手席に座っているので、振り向いてももう見えないのに。ずっと後ろを見ている私に友人が声をかけた。
「どしたの?」
「あ、ううん、昼間に隣のパラソルに居た人が自転車で走ってたから」
「昼間?あぁ、・・・あの人ね」
「知ってる人?」
「よく来てるよ」
「そうなんだ?」
「うん、彼女が海に入ったきり帰ってこないって噂の」
「あぁ、知ってる、しょっちゅう海に来て彼女が帰ってくるのを待ってるって」
 他の友人も便乗して話に入ってくる。
「なにそれ?」
 有名な人、なの?
「一緒にサーフィンやりにきてて、気付いたら彼女がいなくなったって」
「そうそう、探したけど見つかってなくて。でも死体上がってないんだよね?」
「死体って、そんな・・・」
「だってもう死んでるでしょ?」
「2ヶ月くらい前の話だもんねぇ」
「そうそう、どれだけ捜索しても見つからなかったって」
「あぁやってしょっちゅう来られるとちょっと気味が悪くなってくるよね」
 笑いながら話す友人に少しイラっとした。もしそれが本当だったら、せつないじゃん、それって。

「死んだ・・・」
 ゲームオーバーになった時のあの人の言葉が耳にふっと戻って来た気がした。

「でも噂なんでしょ?それ」
「女の子が海に入ったまま行方不明なのは本当の話だよ。あれからみんな、けっこう海に入る時には気を付けるようにしてるから」
「ちょっとした波の隙間、怖いからね。実際にそういう事故の話聞くと緊張感出るよね」
 本当なんだったら、そんなのってないよ。あの人とても優しい人だったもん。写真撮ってくれた時の悪戯っぽい笑顔も、海が好きだって話してた時の横顔も、なんだか頭から消えなかった。また逢いたいって、思ったんだ。スマートフォンをバッグから取り出して、データフォルダを開く。海をバックに写る私の写真。いい笑顔って言ってくれた、あの人が撮ってくれた写真。


 だけどね、それから何度か友人にまた海に連れて来てもらったけれど、あの人には逢えなかった。きっと彼女が見つかったんだよ。もう、あそこで待たなくてもよくなったんだよ。そう思うことにした。そう言い聞かせることにした。みんなは、あれから海に現れなくなったあの人の話なんてしない。たぶん、もう気にもしていないし、忘れてる。でも私は忘れられなかった。
 ボードはなかなか上手くならない。難しい。私の運動神経では時間がかかりそうだ。でも楽しい。そして今日も、友人たちとこの海に来た。梅雨の合間の晴れ間。
「今日は少し波が荒いから気を付けて」
 友人が入る前に私に声をかけた。大きく頷いて海にゆっくりと向かっていく。静かだけど強い波の音が胸にざわざわする。あの日、あの人が帰り際に私に言った、「お気を付けて」って言葉を思い出しながら。今日も私は海に入る。



※二宮愛衣 2017-06-19

新世紀のラブソング

 仕事の合間、昼休み。ノートパソコンを開いて、あるYouTubeの映像を見ていた。流れてくるのはASIAN KUNG-FU GENERATIONの「君の街まで」。ただし、演奏しているのはASIAN KUNG-FU GENERATIONではない。たったひとり、男性が歌っている映像。再生回数はまぁ、そこそこ。ギターを弾きながらマイクに向かって歌う映像。スタジオのように見えるそこは、彼の部屋だってことを私は知ってる。
「また見てんの?汐澤のやつ」
「これめちゃくちゃ練習してたから。再生回数少し増えてて嬉しいなと思って」
「ただのアジカンヲタクじゃん。そうじゃなかったら仕事もできるしそこそこカッコいいのにさ」
 周囲はそう言うけれど、私はそんな彼が好きだ。

 普段はうちの会社のプログラマー。最近は携帯アプリの仕事が多いみたいだけれど、元々はパソコンのシステムのバグを見つけたり新しく進化させたり、研究するのが好きだと聞いたことがある。汐澤要。同じコンピューター学院の先輩で、その頃から私は先輩のことが好きだった。同じ会社の面接を受けたのも一緒に仕事がしたいと思ったからだった。私は全然、先輩の腕には追いつけないけれど。さっき話していたのは先輩と同期の、やっぱり同じくプログラマーをしている女性社員で。
「汐澤の仕事の腕は認めるけど、私生活はついていけない」
 そう言って自分の席に戻った。

 20代前半の頃からコンピューター学院の外でも会うようになった。主にライブハウス。その頃先輩はバンドを組んでいた。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのコピーバンドで、先輩はギター兼ボーカルだった。今でもそうだけど、歌うときは必ず眼鏡をかける。視力なんて全然悪くないけど、度の入っていない黒縁の眼鏡をかける。歌ってる瞬間だけはASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル、後藤正文さんになっているのだ。最初は大絶賛された。バンドのクオリティはすごいものだった。ただ、飽きられるのは早かった。オリジナリティは全くない。自分たちのオリジナル曲はやらない。それが先輩の信念だった。あくまで、アジカンになりたいのだ。他のメンバーとの衝突も多かった。時々メンバーが変わりながら、それでも数年続いたそのコピーバンドは、気づけばライブハウスで演奏することはなくなっていた。
 それをインターネットで見つけたのは数年前のことだ。私がここに就職が決まった頃。聞いたことのある声だった。すぐに汐澤先輩だとわかった。だけどその映像はかつてライブハウスで見たものとは少し違っていた。映っているのは汐澤先輩だけだったんだ。
「あぁ、あれ、俺だよ」
 久しぶりに連絡を取ったのは、映像を見たという私からのメールで。返信はあっさりとしたものだった。他にも数件、映像がUPされていた。どれも懐かしい、何度もライブハウスで聴いたアジカンの曲だった。汐澤先輩の会社に就職すると話すとえらく喜んでくれて、会う約束をした。ご飯食べに行こうって誘ってくれて。久々に会った先輩は相変わらずだった。大き目ヘッドフォンで周囲の音を遮断した状態でスマートフォンをいじりながら渋谷の駅前で待っていた。私の顔を見つけると手を挙げてそっと歩み寄ってくる。ブルートゥースヘッドフォンの電源を落とすとヘッドフォンをそっと首元に引っ掛けた。
「アジカンですか?」
 私が最初に先輩にかけた言葉は、「お久りぶりです」でも、「お元気でしたか?」でもなかった。その質問に、広角をキュッと上げながら微笑むと先輩は私の頭に手を乗せた。
「元気だった?」
「はい!」
 迷彩柄の黒いビニール加工のトートバッグが先輩のトレードマークで。あ、学生の頃はリュックだったんだけど。
「ノートパソコンがしっかり入るいいのを見つけたから、それからずっとこれで」
 何も変わらない。何気に開くスマートフォンの壁紙は中村佑介さんのイラストで。それも変わらない。ずっと携帯の待受画面は中村佑介さんのイラストだった。その変わらなさに、やっぱり好きだって気持ちが舞い戻ってくる。だけどね、就職してから先輩の周囲からの立ち位置に違和感を感じて仕方がなかった。

 仕事はできるのに、私生活はただのアジカンヲタク。

 でもそれはただ好きなだけで。誰だって憧れとかあるじゃない?かつて学生の頃に先輩が言っていた。

 誰だって好きなものってあるでしょう?それが俺はアジカンなわけ。ほら、アニメとかゲームのキャラクターのコスプレやってる人たちいるじゃない?あれに似てるかなって自分では思う。後藤さんになりたいんだよね。俺の口からもあの声が出るといいなと思うけどそれは無理だから。せめてそれ以外の音は真似たいとか。言葉のチョイスとかメロディの構成とか俺にはできないけど、それを借りることはできるじゃない?だからアジカンを歌いたいって思うし演奏したいって思うんだ。コピーばっかのバンドだって言われるけど、それの何が悪い?って。聴くだけでいいとかライブ見に行くだけでいいってとこで収まんないからやってんだよ、バンド。
「今は、バンドじゃなくてYouTubeなんですね」
「誰も一緒にやってくんないし。でもよく考えたらひとりでやるのが1番楽だなって思ったんだ」
「ひとりで?」
「そう。ドラム叩いて録音して。合わせるようにベース弾いて、録音して。それに乗せるようにギター弾きながら歌う。それをUPしてるだけ」
「簡単に言いますけど大変ですよね?それって」
「まぁ、簡単ではないよね。けど楽しいよ」
 何度見ても、その映像はASIAN KUNG-FU GENERATIONのコピーなんだけど。同じ声は出ないと言った先輩の声は、歌い方は、だんだんと似通ってきてはいる。眼鏡をかけて動きも似ている。
 でも私にとってはやっぱりそれは汐澤要なんだ。
 そう言うと怒るんだろうから言わないけれど。その瞬間先輩は先輩でないつもりなんだ。世間の人が見ても、ものまねしてるみたいな、そんな風なんだ。けど私にはやっぱり、大好きなものを楽しんでる汐澤要がそこにいる。
 たまに仕事終わりでご飯でもと誘うと時間がないと言う。今ベース録ってる途中なんだよね。そう言って断られる。
「あ、でも頼めるんなら何か食うもん買ってきてくれる?」
 そう言われて遊びに行ってから、私はなんだか先輩のマネージャーみたいに行動するようになった。知らない間に部屋の鍵をひとつ渡され。録り終えた映像を1番最初に見せられるようになった。いいと思う。素直に思うからそう答えるのに、ダメなところを素直に言ってくれないと困ると言われて、真剣に考えるようになった。全然参加してない私なのに、一緒に作っている感覚。それがYouTubeにUPされ、再生回数が増えているとやっぱり嬉しいのだ。
「ありがとな」
 いつもそう言って頭に手をやって抱きしめられるだけ、それだけだけど、私にはそれが1番の感謝の言葉で。先輩が1番大好きなアジカンを超えられる日なんて一生来ないんだろうけれど、2番目くらいにはなれたらいいなと思いながら、毎日を生きているんだ。スタジオみたいに作られたリビングの横の小さな4畳半くらいの部屋で。開かれたバンドスコアには「新世紀のラブソング」の文字。今録っている曲だ。音楽機材しかない部屋にひとつだけ、休憩用に置かれたソファ。そこに横になりながら朝日に眩しそうにしている先輩を、愛おしいと思いながら。



※二宮愛衣 2015-10-10


 子供の頃、ノアの方舟という物語を聞いた。

 あるとき神は、堕落し始めた人間に怒りを覚え、大洪水を起こして人間を絶滅させようと考えました。ですが、とても真面目に働いているノアの一家だけは助けてあげようと思いました。そして神はノアに言いました。洪水が起こるので今から私が言う船を作りなさい。言われたとおりノアは船を作りました。そしてその船にノアの家族とあらゆる動物のつがいを乗せました。神の言う言葉を信じ真面目に船を作り出したノアを人々は笑いました。ですが実際に神の手によって大洪水が起こります。そして、神の言うとおりにしたノアの一家だけがこの世に生き延びたのです。大洪水が終わった印として神は空に虹をかけました。
 虹はその後、ある国では"世界が救われた"という象徴になります。それを聞いて子供の頃のわたしは思ったんだ。空に虹がかかると、きっとこの世界のどこかで誰かが、今何かから救われたんだ、と。

 カフェ「rainbow」は2年半前にオープンした。古い民家を買い取って改装した小さな店で、店内には妻が書いたイラストを飾っている。近頃やっと、可愛らしい店があるよ、と評判になってきた。朝7時にオープンして、昼の2時に閉店する。1日7時間だけ。モーニングの時間は近所のサラリーマンが、お昼のランチには主婦やOLたちが、そして合間の時間にはのんびりと本を読んだり勉強しに来たりと、ゆっくり時間を過ごす人が訪れる。だいたいみんな顔なじみ、同じメンバーが多い。
 わたしはというと、2時に店を片付けると夕暮れの時間までを近所の川沿いの土手で過ごす。よほど荒れた天気でない限り、晴れの日はもちろん、雨の日も雪の日も土手で過ごす。お天気が良ければ土手の草むらに腰掛けて。店で作ってきたサンドイッチを片手にのんびりと。土日なら近所の野球チームが川原で練習してるのを眺める。時々通り過ぎる人に声をかけられては少し話をし、そしてまた、川のほうに目をやる。雨の日は雨音を聴きながら散歩したり、子供みたいに水たまりを蹴り上げてみたり。

 そして虹が出たら思うんだ。きっとこの世界のどこかで誰かが、今何かから救われたんだ、と。何かいいことがあった人がいる。

 わたしが妻を亡くした次の日も、空には虹がかかっていた。それは何処かの誰かが救われた虹ではなく、わたしの虹だ、と思った。わたしは妻も、妻のお腹にいた子供も、ノアのように助けることはできなかった。悲しいけれど、だけど前を向かなくてはならない。だからこうやって、空に虹がかかったのだ、と。空を見上げなさい。そう言われている気がして、笑顔で顔を上げて涙を流した。
 それでわたしは、ペアで一緒にイラストレーターとして仕事をしていた妻の書いた「虹」のイラストを店にいっぱい飾った、「rainbow」というカフェをオープンさせた。この店にきた人が、どんな状況の人でも顔を上げて帰れるような店にしたいと思った。きまって初めてきたお客さまは、席に座って店の絵を見上げる。いろんな、あらゆる「虹」のイラストをまず、ゆっくりと見る。それからわたしにメニューを頼むのだ。それがわたしは嬉しいのだ。

 そうそう、少しだけ話を戻して。カフェを閉じて土手をぶらぶらとしたら夕食の買い物をして家に帰る。少し多いんだけど、軽くふたり分。毎日食事はふたり分作る。実際には多めのひとり分、なんだけど、それをわざと2つに分けて皿に盛り分ける。わたしと、あなたの分。ちゃんと全部わたしが責任を持って食べてるよ。じゃないと、残すと勿体無いって怒られちゃうからね。
 それから夜には自分の仕事をする。カフェを始めたけれど、イラストレーターとしての仕事はそのまま一人でも続けてる。依頼があれば冊子やちらし、ポスターなんかに添えるイラストを描いている。あとは、いつか出版できればいいなと思って絵本を描いている。赤いカッパに赤いながぐつをはいた女の子が主人公のお話。生まれてくる予定だったわたしとあなたの子供のお話。

 これがわたしのだいたいの1日のできごと。365日ほとんど同じ。

 友人はそんなわたしを哀しいという。わたしの生き方が、あまりにも妻に縛られすぎていると。だけどわたしはそんな風には思わない。妻にそうしろと言われたこともない。ただ、わたしがそうしたいのだ。それがとても嬉しくて、幸せなのだ。
 わたしがいつか妻に話したノアの方舟の話が妻も大好きだった。それからは、いつも妻は虹の入ったイラストを書いていた。それをカフェで使うカップにも皿にも、いろんなものにプリントした。うちの、カフェ「rainbow」のオリジナルだ。もともと妻のイラストは業界でも人気だったから、それ目当てで来る人ももちろんいる。それがとても自慢なんだ、「わたしのね、妻のイラストなんだよ」、とね。だからそれに見合わさった料理を作らなくちゃ。毎晩作るふたり分の食事は、いつも試食会みたいなもんだ。味見をするのはわたししかいないけど。新しいメニューをどんどん増やさなきゃ。あなたの「虹」を見ながら笑顔で美味しいと言ってくれる人を増やさなきゃ。
 だから大変なんだ、これからも毎日。だけど楽しくてしかたがない。あぁ、あらためてこうやって話していたらなんだかまた嬉しくなったよ。さっきから少し雨が降っているから、雨上がりには虹が出るといいな。そしたらそれはきっと、わたしの虹だよ。



※二宮愛衣 2014-02-14

虹に手が届いたら

///// After story of "虹"

 あなたは嘘つきだ。ずっと一緒に居ようねって言ったのはあなたのほうなのに。わたしじゃないのに。いつの間にかわたしの心の中に入り込んで、いつの間にかわたしの前から居なくなった。どうしてくれんのさ。
 目が覚めた時、外は雨だった。起きてすぐ、そんなことを思ったのは初めてだ。寝過ごしたのも初めてだった。目覚ましを止めてまた寝てしまったらしい。そして、起きてすぐに涙が出てきたのも初めてだった。

 それは昨日のこと。カフェ「rainbow」にひとりの女性がやってきた。最初は客だと思って、ドアも閉めずに入口に立ち尽くしているその女性に声をかけた。
「いらっしゃい」
 そう言って手元のコーヒーミルに視線を落とした。普通に豆を挽いて、自然と視線を女性に戻すと、その人はじっとわたしの顔を見たまま動くこともなく立ち尽くしていた。
「どうぞ、お好きな席に」
 わたしは笑顔で再度そう声をかけた。そしたら女性はやっと入り口のドアを閉めてわたしのいるカウンターの方に歩み寄ってきた。30代、くらいだろうか。自分と近しい感じがした。肩までの茶色い髪。くるんと丸められてきれいに揃っている。上下ともにゆったりとした服が印象的だった。
 その女性はカウンター席に座った。たった3つしかない小さなカウンター席。わたしはグラスを1つ手に取ると、レモンの香りが少しする自慢のウォーターをグラスに注いだ。
「あの・・・」
「はい?何にいたしますか?」
「あ」
 わたしの顔をじっと見ると、思い出したように目の前のメニューを手に取った。注文ではなく、わたしに声をかけようとしていることにわたしは気づいていなかったのだ。女性は指でそっとメニューの表紙に印刷した虹のイラストをなぞった。3年前に亡くなった妻が書いたイラストだ。
「虹、好きなんですか?」
 問いかけると、その女性は顔を上げてまたじっとわたしの顔を見た。そしてこう言った。
「夏帆さんの、絵ですか?」
 思わず手元のグラスを落としそうだった。
「夏帆を、ご存じなんですか?」
「あ、はい、ちょっと」
「そう、ですか。お知り合い?」
「いえ。知り合いというほどでも」
 なんだかたどたどしい会話のあとで、わたしはウォーターを注いだグラスをカウンター席に出した。
「その虹の絵は、夏帆のものです。この店にある虹のイラストは全部。マグカップや皿にプリントしたものもそうです」
 そう言ってわたしはカウンターの中から、まだ何も入っていないマグカップの虹のイラストが見えるように、その女性に向けてマグカップを見せた。だけどその女性はカップを、というよりわたしをやはりじっと見る。何故だろうと思いながらわたしはマグカップを元に戻した。
「これを、お返ししようと思って来たんです」
 ふいにその女性がそう言った。それまでわたしからは見えない位置に隠していたのか、紙袋をカウンターの上にそっと出した。何も書かれていない白い紙袋。そこにちらっと見えたのはキャンバスだった。
「なん、ですか?」
「これ、夏帆さんから預かっていたものなんです」
「夏帆から?」
「はい」
 わたしは、濡れた手をカフェエプロンでそっと拭うと、カウンターの中から店のほうに移動した。店内には一人だけ常連の客がいた。わたしと女性のことなど気にもせずに、いつものように窓際で本を読んでいる。
「夏帆さんとは、産院が同じでした」
「産院?」
「はい、同じ時期に私も妊娠していて」
「そうですか。じゃあ、お子さんは、えーと、3歳くらい?」
「はい、3歳になりました。予定日が近かったので夏帆さんには仲良くしていただいてて」
「そうですか。男の子ですか?女の子ですか?」
「男の子です」
「へえ。うちは女の子の予定でした」
「はい、聞いてました。夏帆さん、楽しみにされてて」
「そっか」
 座る女性の脇にそっと立ち、先ほどの紙袋に視線をやった。すると女性は中に入っているキャンバスをそっと取り出した。
「これって、あなたですよね?」
 そう言って見せられた絵は、わたしの知らないものだった。草むらで寝転がる男性の絵。男性、というか、わたしだ。
「誕生日までに完成させたいって言って、ご主人には内緒でって描いてたんです。そしていつも私が預かって持って帰っていました」
「これ、を、夏帆が?」
「はい。梅雨の頃がご主人のお誕生日だと言っていて。それまでに出産予定日を迎えることになるから、仕上げてしまいたいって描いていて。一応完成したって聞いてます。子供が産まれてから貰いに来るからって言われていて。それでずっと預かっていたんです」
「そう・・・ですか」
 キャンバスを手に取った。6号、いや、8号くらいのサイズだろうか。自分の目の高さにそのキャンバスを持ってくる。夏帆のサイン。寝転がるわたしに架かる虹。初めて見るのに、懐かしい感覚がした。絵を描いていたなんて知らなかった。わたしの誕生日に。そんなの聞いたことなかった。プレゼントのつもりだったんだろうか。
「本当はもっと早くに渡せたらと思っていたんですけど、何処に住んでいるのかがわからなかったので。病院では個人情報だから、と教えてもらえなくて。いつまで経っても取りに来られないし、携帯にかけても繋がらないし。そしたらこのカフェのことを知って。虹の話をよくされてたからもしかしたら、って思って。けどまさか亡くなってたなんて知らなくて・・・」
 そこで女性は言葉を詰まらせた。ゆっくりと店内に流れる曲が一瞬耳に残った。タイトルが思い出せなかった。夏帆の好きだった曲だ、ということは思い出せた。落ち着いてるふりをして、頭の中が混乱していた。この女性もきっと今どうしていいものか悩んでいるんだろう、落ち着きがない。最近知ったんだろうね、夏帆があの日亡くなったってことも。
「これ。貰ってもいいですか?」
「貰うなんて、もともとは夏帆さんがあなたに渡すために描いていたものですから。本当にごめんなさい、遅くなってしまって」
「謝らないでください。逆に感謝してます、届けてくださって。ここを見つけてくださって」
 キャンバスを胸に抱きしめた。夏帆を抱きしめてる気分だった。そしてわたしは、その女性に大きくお辞儀をした。頭がなかなか上げられなかった。いろんなものが込みあげてきて。

 その次の日の、今日だ。寝過ごした。そしてベッドの脇に置いたその絵を見るなり涙が出てきたのだ。わたしを描いた絵なのに、夏帆が帰ってきたみたいな気分だった。どうして居なくなったんだよ。寂しかったんだよ。ずっと独りで、死にそうだったんだ。笑顔で毎日頑張ってる自分なんてのは嘘だ。大丈夫だよ、って。わたしは大丈夫だよ、って。毎日川沿いの土手で空を見上げてそう心の中で呟いているわたしは嘘だ。
 本当はね、とても、寂しいんだ。全然大丈夫じゃない。あなたが居ないとだめなんだよ。
 ベッドのシーツをぎゅっと掴んで、わたしは顔をうずめるようにして泣いた。どれくらいだろう。かなり長い時間、泣いた。

 店には遅れて行った。いつも開店すぐに店にやってくる常連のおじいちゃんが心配そうに傘をさしてドアの脇で待っていた。貧乏ゆすりみたいに足をカタカタ鳴らして立っている。カフェがオープンしてから遅れたのは初めてだったから、着くなりおじいちゃんに声をかけられた。
「具合でも悪いのかと思ったぞ」
「すみません、寝過ごしてしまって」
「まあ、生きてればそんな日もある。でも寝過ごすとはな、心配させるな」
 普段は話すことなんてない。オーダーを聞いて、でもいつも珈琲なんだけど。それをテーブルに持っていくと、本を読みながらその珈琲を飲む。それだけのやりとりしかしないそのおじいちゃんがその日初めてわたしにそんな風に声をかけた。もしかして、昨日居合わせたあの時間、わたしと女性の会話を聞いていたからだろうか、なんて思ったりした。実はそれ以降も、話すことはなかったんだけどね。名前も知らない、特に話すこともない。だけどわたしの店を気に入って通ってくれている、「rainbow」の常連客だ。

 その日、雨は昼過ぎに止んだ。今日もわたしは2時に店を片付けると川沿いの土手を歩いた。虹が出ないかな、そう願いながら閉じた傘を手にして空を見上げた。虹に手が届いたら、あなたにも手が届く気がする。
「逢いたいよ」
 空に向かって呟いた。この声くらいは届いただろうか。ねえ、聞こえたかな。素敵な絵をありがとう。あなただと思って大切にするよ。


※二宮愛衣 2014-06-04

promenade

 >今日だけ我儘いいでしょうか?

 連絡が入った。LINEで、えらく丁寧な文章。まだ明るくなり始めたばかりの窓の外を見ながら、スマートフォンを開くと時刻は5時を回ったところだった。

 >ちょっと付き合ってもらえませんか?

 彼からそんなことを言ってくるのは珍しかった。いつも別にやりたいこともなくて、行きたい場所もなくて、食べたいものもなくて、好き嫌いも特になくて。私とあなたは恋人同士であることに間違いはないのだけれど、それでも付き合ってんのか付き合ってないのかもわからないそんな面白い関係で。だけど思うのは、私はあなたが好きだってこと。

 <どうしたの?何かあった?
 >眠れなくてずっと起きてる
 <付き合うって何に?
 >車運転してもらえますか?
 <私が?
 >寝てないから運転するの危険かなと思って

 入ってくる返信はとても早くて。こちらから送るよりもどんどん文字が画面に入ってくる。

 >あなた今日休みよね?
 >違ったっけ?
 >無理にとは言わないけどできれば
 <わかったから、何処行くの?
 >今日だけ
 >あ、よかった
 <行く場所によってはメイクとか服装とかいろいろ準備が
 >海沿いドライブしたい
 >メイクいいよ
 >あなたすっぴんのほうが好きだから
 >少し外出ることはあるかも
 <メイクいいってww
 >いつ頃これそう?
 >そのままのが可愛いから
 <30分くれる?
 >わかりました、お待ちしております

 文字を打つのと読むのに必死で、結局簡単に目が覚めた。そのままのが可愛いとか、さらりと照れるワードを入れないでもらえるかな。何があったのかわからないけど、ちょっと心配だけど、最終的にあなたに逢える口実が嬉しくて仕方ないのだ。
 簡単に身支度をして。すっぴんのほうが好きと言われるとあまりメイクしづらくなる。だけど薄らとだけ。照れを隠すようにメイクをした。何も食べずに、ペットボトルのミネラルウォーターを麻のバッグに入れた。どうして海沿いなんだろう?どうしてドライブなんだろう?着替えるのも楽で、動くのも楽で、を考えて、すとんとしたデザインの膝下丈のワンピースを着た。柔らかいスウェット素材のもの。胸の所にサングラスを添えて。寝癖のせいでうねりの残ってしまった髪は、柔らかくひとつにまとめた。いざとなればかぶればいいやと大振りのハットを1つ手に準備した。車のキーを最後に手に取ると、私は家を出た。

 <着いたよ

 LINEを入れると、少ししてドアがあいた。マンションの前の道路に車を停めて、見上げるとちょうどあなたの家のドアが見える。ドアに向かって背を向けていた。鍵をかけてるんだきっと。それからあなたはこちらを見て、いるな、と確認するとエレベーターのあるほうに向かった。

「おはよ、ごめんね」
「おはよう。何かあったの?」
「それはね、まあ、いいじゃない」
「う・・・ん、何処行く?」
「海、だよね」
「たしかにそう言ってたけど、何処行く?」
「適当、に」
 助手席に深く座ると、瞳だけで私を見てそう言った。
「適当って言われても」
「行き先表示見ながら適当に行こうよ、楽しいでしょ、そういうのも。とりあえず高速」
 ストライプのシャツにデニムパンツ。眠れなくてずっと起きてたというわりには彼の服装はきちんとしている。エンジンをかけて車をなんとなく走らせた。
「ずっと起きてたって?」
「ん」
「横にもなってないの?」
「風呂入ってー・・・」
「うん」
「酒飲んで」
「うん」
「それから起きてた」
「寝なかった、じゃなくて寝れなかったの?」
「そう」
「あ、篠崎で高速乗る?それとも湾岸市川まで行く?」
「うん、そうね、市川で。あなたは何してたの?」
「何って?」
「昨日の晩」
「えっと、友達とちょっとLINEで話して」
「うん」
「なんか深夜番組見てたけど寝ちゃった、途中で」
「なんだ、だったら行けばよかった」
「うち?」
「すっごい逢いたかったのに」
 やっぱり今日は変だ。そういうのも口にしないのに。いつもだったら、ね。
「最近、ないね」
「なにが?」
「寝る前に。今すぐ逢いたいよーとかいうメール」
 信号がちょうど赤になって、ブレーキを踏むと私は彼の方を見た。彼は窓の所に肘を引っかけて外を見ていた。
「言ったって来てくんないじゃん」
「わかんないよ?昨日だったら行ったかも」
「気まぐれ」
「そういうことじゃないでしょ」
「ねえ、今日はなんで、我儘なの?」
「え?」
 そう言って彼はこちらを向いた。
「今日だけ我儘いいでしょうか?だったでしょ?一発目のLINE」
「あぁ・・・」
 そしてまた彼は窓の外を向いた。それから返事はなかった。信号が青になって、私はまたアクセルを踏んだ。ゆっくりと加速していく車の静かな音と共に、聞こえるはずのない彼の鼓動が聞こえてくるような感じがした。それくらい、今日はいつもの彼と違った。今日だけ我儘、だからなのかな。それとも私が勝手に、鼓動を早くしているだけなのかもしれない。

 高速に入ると、少しして海が見えた。ちらっと視線をやると、やっぱり彼は窓の外を見たままで。海沿いのドライブをしたいと言っていたので、まあいい。私もこの空間が嫌いじゃなかった。特に音楽もかけなかった。私たちの車を追い抜いていく車の音がたまにして、それでも私は特にスピードを出さずに海が見れるように走った。
「何処か降りれるとこ行ったら、高速降りて外出る?」
「そう、だねえ」
 面倒くさそうに答えるので、いいやと思ったら続けて返事が来た。
「たまには散歩でもする?」
 近頃あまり一緒に歩くってことがなくなったかな。車でちょこっと出かけてご飯食べたり。どちらかの家でのんびりしたり。旅行とかするってタイプでもなく、そんな話題が彼から出ることもないから。
「あー、ねえ、今、片手で運転できる?」
「え?片手」
「右手だけでも平気?」
「なんで?」
「スピード少し落ちてもいいから、安全運転で、右手でいける?」
「うん、たぶん」
 返事をすると、私の左手はそっと彼の右手に捕まれた。
「え?」
 チラッと彼を見ると注意される。
「前見て、前。危ないでしょ」
 危ないのはあなたのこの手でしょう。なんで手を繋ぐんだろう。繋ぎたいからと思っていいのかな。私の体がずれないように、少し運転席寄りに体を寄せると、彼は私の座席の横あたりで優しく手を繋いだ。
 そこからはあまり話すこともなく。片手運転になった私に甘えるように、手を繋いだ彼の指が私の指を撫でていた。何があったのかは、聞かないことにした。いいんだ、話したくなければ彼は話さないだろうし。誰かに自分のことを話すことの少ない人だってことはわかってる。それでも伝えたいことはちゃんと伝えてくれるから。

 途中で高速を降りると、海沿いの遊歩道を見つけてふたりで歩いた。手を繋いで。
「私のこと好きぃ?とかも聞かなくなったね」
「聞くと怒るじゃん」
「まあね」

「なに?聞かないとそれはそれで寂しいとか?」
「そんなことはないよ、楽でいいよ、聞かれないほうが」
「あ、そぉ」
 少し拗ねたようにすると、彼は手を離した。あ、怒ったかな。そう思って彼を見ると、遊歩道の手すりに体を預けるようにもたれて、じっと私を見た。朝陽がキラキラ海に反射して、彼の後ろで光ってた。彼の髪を風が撫でていく、私のワンピースの裾も同じように揺らして通り過ぎていく。何気なく私も遊歩道の手すりに手を添えて立った。

 どうしてだろう。すごく好きだと思った。彼のこと。

 そしたら彼も一言、口にした。

「好きですよ、あなたのこと」

 5秒くらい。10秒くらいかな。目が合ったまま何もお互い言わなくて。そしたら彼はふっと笑って、意地悪そうに言った。

「とうぶん言わない」
「ええ?」
「今言ったからもう、とうぶんは、言わないから」
「なんで?」
「何度も言うもんじゃないでしょう?」
「何度でもいいよ」
「じゃあ、あなたは?」
「私?」
「好きですか?わたしのこと」
 そう言われて頷いた。
「ひどいな、俺には言わせといて自分は頷くだけなんだ」
「違うよ。好き・・・だよ」
「ほら、照れるでしょ?だからね、次はとうぶん言わないの」
 ばかじゃないの?我儘になるのは、今日はあなただったんじゃないの?だけど私の方が我儘になってしまう。
「もっかい聞きたい」
「いやぁだよ」
「だめ、今すぐもう1回言って」
「いやぁだって」
「言ってよ」
「・・・なんで泣くかなあ」
「すぐ泣き止むから、だから聞かせて?」
 彼の腕を自然と掴んでいた私の手を彼がそっと握り返す。覗き込むように優しい笑顔が視界に入る。涙は止まらなかった。
「すぐ泣き止むんじゃなかったの?」
 そう言って彼の空いたほうの手が私の涙を拭った。
「好きだよ」
 彼の腕の中に招き入れられた私は、約束とは違ってなかなか泣き止めなくて。胸元に顔を埋めて、すっかり慣れていたつもりの彼の香りにとてもドキドキした。
「もう少し散歩したら、何か食べに行こう。腹減った」
「うん」
「何食べる?」
「なんでもいいよ」
「だめだよ、俺決められないから、あなた決めてくれないと」
「うん・・・」
 そこからはいつものあなただった。あなたの我儘はもう終わってた。私のほうが我儘で、行きたい所や食べたいものや、あなたが付き合ってくれた。ちょっと付き合ってもらえませんか?って言われて出てきたのに、ほんとにあなたらしいんだから。



※二宮愛衣 2015-06-27

群青色の器とシエル

 頬にゆっくりとふれたそれは、ふわっと俺の目を覚まさせた。近い距離にいる灰色の柔らかいそれ。毛並にそっと触れると、俺は笑って声をかけた。
「シエルおはよう」
 そしたらきみは、返事をした。にゃぁと一言。
 腕を大きく伸ばして、自然とんんーーっと声が出る。体も目を覚ます。自分のぬくもりの残るブランケット、その上でシエルも身体を伸ばした。かと思うと、ベッドからすとんと降りた。首元に付いた小さな鈴がチリンと鳴る。
「なに?もうごはんなの?」
 俺も後についてベッドから起き上がった。髪をごそごそと引っ掻き回しながら裸足で床を歩く。ひんやりと冷たい。もう、そんな季節なのか。キッチンの脇の棚の前で待つきみに、またにっこりと微笑む。ちゃんと知ってるんだ、自分の食事の場所をさ。
「いい子だね、シエルは」
 棚の1番下にあるホーローの白い蓋付きキャニスターがシエルのキャットフード。そこの前でちゃんと待ってる。重みがあるから自分でひっくり返せないんだ。何度か格闘してたことはあったけどね、無理だとわかったんでしょうよ。もうやらなくなった。その代り、ちゃんとここで待ってる。俺もその前に座り込んだ。
 キャットフードを取り出して群青色の器に入れてやる。シエルはゆっくりとそれを食べだした。それを見ながら俺は、そのすぐ傍に寝転がった。深い味のある床の色にところどころ傷が見える。キャニスターと格闘していた頃にシエルが付けた傷だ。それを指でなぞった。冷たい床。身体の体温は一気に奪われる。耳元では、シエルのかじるキャットフードが、カリカリって心地いい音を立てる。目を閉じるとそれがいっそう気持ちいい。
「シエル美味しい?本当にいい子だね、なのにどうして置いていかれちゃったんだろうね。シエルも、俺も」
 問いかけに答えることもなく、シエルはカリカリと音を立てた。ゴロンと仰向けになると、キッチンの窓から差し込む光が眩しかった。キラキラってすんの。自分が動くと、たまーにだけど、部屋の塵が光を吸い込んで光ることがあるんだ。普段はあまり見えないけど、ごくたまに、こうやってキラキラって。床の冷たさと反して、入ってくる陽は温かい。
「いいお天気だね」
 そう言ってまた俺は目を閉じた。しばらくすると、シエルのカリカリって音が聞こえなくなって。もう食べたの?と思って目を開けると、シエルがすぐ傍で俺を見ていた。そしたら急に俺の頬をゆっくり舐めた。
「え?泣いてたの?俺」
 頬に手をやるとしっとりと掌が濡れる。そんな俺を確認すると、シエルはまたチリンと鈴の音を立てて群青色の器に顔を突っ込んだ。
「ありがとね。優しいね、シエルは」
 どうしてだろうね。こんなにもシエルはいい子なのに。優しいのに。温かいのに。置いていかれたんだろうね。俺に懐きすぎたからかな。だめだよ、ご主人よりも懐いちゃ。頭から背中にかけてそっと撫でてやると、カリカリをやめてにゃぁと鳴いた。
 じゃあ俺はどうして置いていかれたんだろうね。社交的ではないから?無口だから?静かすぎるのかな。暗いってことなのかな。重いのかな。こんなにも好きな俺の気持ちがさ。でもだって。
「ねえ。大好きなのにね」
 何も残さずに、いなくなったあなたが置いていったのは、元或るこの俺の家の物たちと俺。そしてあなたが連れてきたシエルと、シエルの群青色の器だけ。何か少しくらい残してくれたらいいのに。まるでそこにあなたが存在しなかったかのように、全て無くなっていた。一緒に買ったマグカップも、残っていたのはひとつだけ。俺のだけ。じゃあどうして自分の分は持って行ったの?一緒に買ったって想い出は大切にしてくれるの?要らないなら置いていけばよかったのに、どうして持って行っちゃうんだよ?もしかして、全てを捨てようとはできなかったの?って、考えてしまうんだよ。何処かに好きが残ってるんでしょう?そう思ってしまうんだよ。女々しいくらいに、小さな期待にすがってしまうんだよ。
 大きく深呼吸をすると、心臓がドクンと自分に響いた。シエルの首元の鈴のように、俺の居場所を確認する。
「俺もごはんにしようかな、シエル」



※二宮愛衣 2014-10-09

あなたと俺とシエルがいたころ

 喧嘩なんてのは日常茶飯事だ。歯磨き粉の蓋を閉めてなかったとか、スニーカーを脱いだ後、散らかったままだとか。
「なんでせっかく味付けしてあるのに、上にドレッシングかけちゃうかな?味変わっちゃうじゃん?」
 これは昨夜言われた台詞だ。だって、見た目にどうも味ついてそうに見えなかったから。一緒にテーブルに出してあったドレッシングをかけた。したらそれはサラダ用のだって言って、準備して冷蔵庫で冷やしてあったサラダをあなたは取り出した。だったらサラダとセットでドレッシング出してよ。先に出してあったから、メイン料理のソースにでもするのかと思った。

 そんなつまんない内容の喧嘩だ。

 昨夜の夕食は無言だった。時々箸が茶碗に当たる音がするぐらいで。俺のぶっかけたドレッシングのせいなのか、あんまりよくわからない味だったのを覚えてる。何をするでもなく、ソファでゲームを始めた俺をよそ目に、あなたは手際よく洗い物を片付けると、ベランダに出た。いつもの、ことなんだ。

 それは昨日の話で。今日はまた別口だった。

 土曜日は、俺は休みだけどあなたは出勤日で。朝あなたが出かけたのは何となく知ってるけどそのままずっと眠ってた。お昼前にゆっくり起きて、なんだか気持ちが良かったので散歩でもしようかなーって。Tシャツに膝パンツ。足元はいつもサンダルで。まだ5月の半ばだってのに、見た目だけは夏みたいなそれが、その日は少し寒くって。俺は目に入った、ソファに置いたままの上着を着て出かけた。
 なんとなくぶらっと商店街を歩いて。土曜日はそんなだから、夕食の準備は俺の担当で。だからって料理ができるわけではない。なので、土曜日にセールをやってるお惣菜屋さんで何かしら買い込む。もちろん、先週は揚げ物を買ったから、今週は煮物にしようかなあとか、俺なりのそう、なんていうか気配りもしているつもりのわけで。裕福な生活ができてるわけでもないから、よく知るお店のおばちゃんには「まけてよー」なんて言っておまけを貰ったりとかさ。けっこう楽しいのよ。そうやってぶらぶら散歩と買い物を一緒にする土曜日ってのがさ。
 機嫌よく家に帰って、何もする気になれずにゲーム機の電源を入れた。いつもの音楽が流れてくる。別に必死になってやろうって気分でもなくて。ゆっくりやれたらいいかなーって、ソファに横になってコントローラーを握ってた。ちょうどベランダが目に入るんだ、この位置で横になると。あなたが可愛いと言って飾った、ガラス玉をアレンジした一輪挿しが4つ、麻ひもでベランダの脇に吊られていて。風が吹くと軽く揺れてプリズムみたいにキラキラ光が入ってくるんだ。一輪挿しなのに中に入っているのはビー玉で、俺はまたご機嫌に、それを見ながらその日は過ごした。
 そこからの、あなたの帰宅で一気に部屋の空気が変わった。
「なんで?なんでそれ着てるの?」
「え?あったから、ここに」
 まだ着たままの上着をそっと手に取ると、俺はそれをゆっくり脱いだ。
「だって、カーディガンだよ?あたしの。なんで勝手に着るの?」
「勝手にって、いつもあなただって俺のパーカーとか着るでしょうが」
「パーカーはいいの。カーディガンはまた別」
「別ってなんだよ。どっちも同じ、上着でしょう?寒いから着たのになんで怒らんなきゃいけないんだよ」
「伸びちゃうじゃん、肩のとことか。ほらあ」
そう言ってあなたは、少しびろんとなったカーディガンの肩の部分を見せた。
「お気に入りだったのに」
「だったらちゃんとしまっとけばよかったんじゃん。ここにあったからさ」
 その後、あなたは何も言わなくなった。あなたとの喧嘩中断で、コンティニューにしたままだったゲームは電源ごと落とした。急に静かになった部屋で、あなたは小さなキッチンに向かうと、俺が買っておいた煮物を手に取ると、別の器に入れ始めた。お鍋に湯を沸かして、いつもみたいにお味噌汁の香りがしてくる。

 そしたらなんかさ、すごく悪いことしたみたいな気分になるんだ。

 何も言わずに淡々と準備をするあなたが、「できたよ」と声だけはかける。食べてはいい、ってことだ。「いただきます」ってちゃんと手を合わせて、俺が買ってきただけの煮物が、ひと手間加えられて可愛く盛りづけされてるのを箸でつまんだ。お味噌汁は、いつもの味だった。優しかった。何も言わずに、食べ終わると後片付けを始める。昨日と同じパターンだ。
 テレビを付ける気にもなれなくて。どうしたもんかとソファに座っていると、セシルがそっと俺の隣でじゃれてきた。
「ねえ、なんであんな機嫌悪いのかな」
 小さな小さな声でセシルに問いかけると、これまた小さく、にゃあと鳴いた。
「あれかな、女子の毎月しんどいやつ。あれなのかな?」
 セシルは体を丸めるようにして、俺の腰のあたりでぐるんと回ると、俺を見上げてまた、にゃあと鳴いた。ゆっくり撫でてやると気持ちよさそうに目を瞑る。
 そんなことをしていると、洗い物を済ませたあなたがベランダに出た。
 いつもの。そう、いつものそれ。

 「ごめんね」を言いたいほうの人が、ベランダに出る。言いたいのに言いづらかったり、言いたいのに頑固になってしまった時。俺よりもあなたのほうがベランダに出る頻度は高い。もうとっくに洗濯物を取り込んだ後のベランダは、狭いんだけどゆったり感じられて。さっきみたいにガラス玉はキラキラ光らない時間帯だけど。星が出始めたその場所は、けっこう俺のお気に入りなんだ。

ゆったりした生活できないから。キッチンとリビングと、寝室しかないこの古いアパートで。古いから家賃も安いんだけど、でも好きにいじってくれていいって言われてあなたが気に入って俺の住んでたここに転がり込んできた。ふたりでペンキを塗った白壁も、タイルを貼りつけたキッチンも、何処も彼処もふたり共通の趣味が揃っていて、居心地はいいけれど、こんな時に居心地は悪くなる。寝る場所も一緒。ベッドもひとつ。ソファもふたり掛け。それ以外に部屋はない。逃げる場所もなく。でも、喧嘩した日も、どうしても外に出る気にはなれない。1度出たらもう戻ってはいけないような気がして。それはあなたも感じているのかもしれないけれど、ふたりとも、どんなに空気が悪くなっても部屋を出て行かない。そして行きつくのがこの、小さなベランダなんだ。
 特に景色もない。細い路地に面して、たまーに人が通るだけ。ちょうど前はビルの壁で。向かいの窓と目を合わすこともない。だからかな、開放的な気持ちになれるのは。
 そこで小さな、木で出来た丸椅子に腰かけていたあなたに、俺は声をかけた。
「風邪ひくよ、まだ朝晩は冷えるから」
 そう言って差し出した。さっきのカーディガン。あなたは何となく振り向くと、それをゆっくりと手に取った。
「ごめんね」
 「ごめんね」を言いたい方の人がベランダに出る、暗黙の了解のはずなのに。何故かいつも、後から声をかけるほうが謝るんだ。これも暗黙の了解。もう1度「ごめんね」って言って俺は、ゆっくり後ろから抱きしめる。したら、あなたは小さな声で言った。
「しようか。そんな気分なんだけど」
「うん、いいよ」
 どうやら、女子の毎月しんどいやつ、あれではないらしい。単にやっぱり、カーディガンが伸びちゃうのが嫌だったのか。だったら洗濯する時、俺のTシャツがびろーんってなっちゃうのも、気にしてくれたらいいのに。
 そう思ったけど、そんなことはまぁいいや。俺はその日、狭いシングルのベッドであなたを優しく抱いた。シエルには、ちょっとの間静かにしててね、って人差し指を立ててしぃーってして。そしたらにゃぁと鳴いて、キッチンの床に寝そべりに行った。

 俺の生活は、こんな感じだったんだ。あなたがいたころはね。ねえ、シエル。



※二宮愛衣 2015-05-23

シエルのしっぽとカーディガン

 今日も家から出ることはなかった。世間はいろいろと忙しい。マスクが息苦しくて気づいたら家から出なくなっていた。仕事はリモートで依頼を受けて済ませていた。パソコンでできる仕事でよかったと思う。それでも生活をしていると、部屋の中のいろんなものが底尽きて来るから、またパソコンの前に座って必要なものをカートに入れていく。あ、シエルのご飯がそろそろやばいんだった。
「シエル?あと何日分くらいあったっけ?君のご飯」
 そう言って部屋を見回した。
「返事くらいしろよ」
 席を立ってキッチンへと向かう。キャニスターの缶を開けるとキャットフードは入ってはいるが、缶を少し斜めに傾けると底が見えた。
「こんな時期だしなあ、すぐ届くかなあ」
 キャニスターを元に戻すと、自分もまた、パソコンの前に戻った。カートに入れたものを確認して購入手続きを済ませる。そして俺は、あらためて部屋を見回した。
「シエル?」
「なあ、シエル?」
 床にゴロンとしてみてもいない。棚の上を見てもいなかった。
「シエル?」
 何分かそんなことを繰り返して、気付いたんだ。
「出てった?」
 目に入ったのはベランダだった。少し換気しようと思ってベランダに出る硝子戸を開けて網戸を締めてあった。・・・はずが、網戸が開いていた。下のほうが少し破れて。シエルが何度もひっかいていたような跡があった。
「いつから?気が付かなかった」
 それよりも不安が一気に押し寄せてきた。ここ、3階なんだけど・・・。網戸を大きく開けてベランダに出ると、俺は下をのぞき込んだ。1階の家には小さな庭がある。あそこに着地したんだろうか。3階から?猫ってこの高さ大丈夫なの?それとも隣の家?ボードで仕切られただけのベランダは、猫なら簡単に行き来できるだろう。だけど隣家から声をかけられた覚えはない。

 いつか、あなたがシエルを連れて俺んちに転がり込んできた日、言っていたことを思い出した。しっかりと丈夫な骨組みの、布製のバッグを開けると猫が顔を出した。グレーの毛色に黄色い瞳。
「猫?」
「うん、シエルと言います、どうぞよろしく」
「シエル?」
「生まれてからずっと家の中育ちで、ほとんど外に出たことないんだよね」
「え?外に出たことないの?猫って自由に出て行くもんなんじゃないの?」
「それは猫の飼い方にもよるんじゃない?シエルは病院以外では、今日初めて外に出たの、産まれたのもうちだからずっと家の中で。まあ、ずっとこのバッグの中にいたからここに来ることも外って言っていいのかわかんないけど」
 あなたが事前に運んであった荷物は衣類や日用品程度で家具はほとんどなかったけど、人間が使うのではないであろう荷物があるなってのは思ってたんだ。そっか、こいつのか。
「だから、戸締りだけは気をつけてね」

 そうだ。戸締りだけは、気をつけてたんだ。なんで?ここ・・・。俺はベランダに座り込んで、破れている網戸を指でなぞった。そこから目に入ったのはソファだった。シエルが好きでいつも座っていたソファ。俺は部屋に入ってそのソファの周りを探した。声をかけながら棚を少しずらしたりして。
「あ・・・」
 ソファを少しずらすと、普段作らないその隙間に見覚えのあるものがあった。隙間に手を入れて取り出した。え・・・それはいつか、肩の部分を伸ばしてしまってあなたに怒られたカーディガンだった。自分のものは全部持って出て行ったくせに、これは置いていってたのかよ。カーディガンは埃、というよりは、シエルの毛でいっぱいだった。
「ごめん、シエル。大好きだったんだな、シエルも」
 もしかしてあなたのところに行ったのかもしれないと連絡を取ろうと一瞬思ったけれど、やめた。もしそうなら、シエルの希望通りなのかもしれない。もともとご主人は俺ではなかったわけで。シエルはあなたと居たかったんだろう、この6年。そっか、もう6年も経つんだね、シエルとの暮らしも。
 網戸はそのままにした。何かをする気にならなかった。次の日も仕事の連絡はあるし。世間はバタバタしているのに、俺の心もバタバタしているのに、そういうのは休まることはなかった。早々に届いたシエルのキャットフード。シエルのカーディガンもそのまま、ソファの上に置いたままだった。俺のそういうとこなんだろな。きっぱりしてないというか、行動力もないというか。
 洗面所の棚にあったと思うんだ。俺は棚から箱を取り出し、そこからマスクを手に取った。リビングのサイドテーブルの上にあった鍵と携帯と、それだけ持って家を出た。マスクした状態で「シエル」って声かけても俺のこと気づいてくれるんだろうか。わからないけど、探すことをしていない自分がイヤになった。俺にとっては非常事態なんだよ。今日ぐらいは出歩いてること許してよ。何に許しを請おうとしているのか、そんなことを考えながら狭い建物の間とか声をかけながら歩いた。
 だけど、暗くなっても知らない猫にしか会わなかった。
 願わくば、あなたのところにシエルが辿り着いていますように。

 それから、シエルが帰ってきたのは4日後のことだった。ベランダの硝子が大きく引っかかれた。耳障りな音がして、それがシエルの俺への合図だった。ベランダの硝子戸の向こうにシエルが居た。それを開けてもシエルは中に入ろうとしなかった。
「シエル?帰ってきてくれたの?どこ行ってたの?」
 何も言わずに自分の足元を舐めたシエルの耳の後ろはケガをして血が出ていた。
「どこでケガしたんだよ、これ。痛そう・・・あー、病院行かなきゃな。首輪・・・首輪どうしたんだよ。鈴落っことしてきたのかよ。仕方ないなあ。他にはケガしてないの?」
 そっと抱きかかえると、シエルは小さくにゃあと鳴いた。
「おかえり、シエル」
 そしたらシエルのしっぽがふわっと大きく立ち上がって、優しく揺れながら俺の腕を撫でた。

 とにかく、とにかく、だ。嬉しかったんだ。シエル。


※二宮愛衣 2020-05-22

Story N

Story N

短編集 Story N。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 波の音は彼の心音。
  2. 新世紀のラブソング
  3. 虹に手が届いたら
  4. promenade
  5. 群青色の器とシエル
  6. あなたと俺とシエルがいたころ
  7. シエルのしっぽとカーディガン