Story M

Story M

防波堤

 海沿いの、とても路地の多いこの街がわたしの生まれ育った場所。子供の頃、野良猫を追いかけて、通ったことのない路地に迷い込んで泣いたことがあった。ほんの少し先に進めば知っている場所に出るような、そんな路地だったのに。小さいわたしはそれに気付けずに立ち尽くして泣いてしまった。今なら、迷いそうになったら海のほうに目をやる。目印の灯台と神社のある丘、わたしの通った高校の場所を見つければだいたい分かる。ただ、今のわたしでも迷ってしまうくらい、迷いやすい路地。延々と似た風景。大好きな風景。
 単線の電車のある駅を降りると最寄り駅で、そこから海に向かって歩く。駅前はのどかな平野なのに、だんだんと住宅が密集してくる。古い家屋。大通りから少し入っただけで、車も通れない路が増えてくる。にゃあと子猫が鳴いた。近づこうとしたらすっと逃げてしまった。そして海の香り。懐かしい。
「ミズホじゃない?」
 声が聞こえたのは上のほうだった。立ち止まって声を探す。左手の家の2階の窓から顔を出している人がいた。
「やっぱり!ミズホじゃん!俺だよ、シュウマ!」
「シュウマ?うそ?ほんとに?」
「嘘ついてどーすんだよ、ちょっと待って降りるから」
 返事をする間もなく窓から顔を引っ込めると、何やら話し声が聞こえてくる。元気な声。昔と変わらない、元気な声。「じゃあ、ばーちゃん、また来るから!」そう声がして、家の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「どうしたの?帰って来たの?」
「あ・・・うん」
「そっか。同級生ことごとくここ離れちゃってて、今俺だけ」
「そうなの?」
「うん」
「ここは・・・」
「あぁ、一人暮らししてるばーちゃんがいて。たまに様子見に来てるんだ」
「おばあちゃん?」
「けど身内じゃないよ。俺今行政センターで働いてて、それでこういうのも仕事」
「そうなんだ」
「ミズホは?仕事休み?」
「うん・・・えと」
「言えない感じ?」
「そうじゃないけど」
 愛想笑いをした。けどシュウマにはすぐにバレた。
「相変わらずだねぇ、すぐ顔に出る。まだ家には帰ってないの?これから?」
「うん、でも帰りづらくて」
「なんで?」
「ちょっと、いろいろ」
「そっか」
 白いワイシャツの袖をめくって、黒いパンツを履いてる。ネクタイはしてないけど、制服の頃と違う感じの白いワイシャツ。シュウマは明らかに仕事中だ。
「ごめん、仕事中なんだよね?」
「いいよ、仕事のようで散歩みたいなもんだから。それに声かけたの俺だし」
 そう言われてちょっと笑った。ホッとした。安心した。ここは、帰ってくる場所ではない気がしていたから。
「お父さんとね・・・ちょっとあって」
 話し始めようと思ったら、シュウマに急に手を握られた。持っていた手荷物をシュウマが持ってくれる。
「ちょっと来て。時間ある?」
「え?あ、うん。荷物・・・」
「持つよ。結構重いじゃん、何詰めて帰って来たの?」
 路地を早足で歩いて行く。誰ともすれ違わない、暑い夏の終わりの小路。歩くたびに乾いた砂が足元で小さく砂ぼこりを上げる。少し階段を降りてまた路地を歩く。あ、知ってるこの路。高校の傍の信号のある通りに繋がっていて、そしたらその先に海が・・・。広がっていた。学校の帰りによく歩いた。シュウマもわたしも一緒に、同級生のメンバーで。
「懐かしい」
 繋いでいたシュウマの手が離れた。それで急に照れくさくなった。手を繋いでいたことに。
「で?おやじがどうしたって?」
「あ、えと。わたし、高校卒業して東京の大学に行ったでしょ?そこまでは了解を得てたんだけど、その後就職は地元に帰ってくるって約束してたのに、東京で就職しちゃったんだ。それで喧嘩になっちゃって。そのままわたし家を出たから」
「おやじさん、それだけで怒ったの?」
「確かにそれだけ、なことかもしれないけど、うち、おじいちゃんもおばあちゃんも同居してるし、お母さんも病気がちだったから、たぶん頼りにされてたんだと思うんだよね。ひとり娘だし」
「そっか。でもミズホも理由があったから東京で就職したんでしょ?」
「うん、どうしてもやりたかった仕事をさせてくれる会社があって。それはここでは無理な仕事だったし。採用してくれる貴重な会社だったから、どうしても東京に残りたかったんだ」
「そっか、大変だったんだ。けど、なんで今日は帰って来たの?ほんと、同級生は全く誰も帰ってこないからさ。男連中は嫁さん連れてたまにゴールデンウィークだ、正月だって帰ってくることあるけど、女の子はさ、ミズホも含めてここ出て行った子ばかりだから。すごく久しぶりにミズホ見かけて、嬉しくて声かけちゃった」
「そうなんだ?」
 海を眺めて一息ついた。
「けっきょくね、そこまでしてやりたかった仕事、うまくいかなくて」
 そこで、言葉が詰まってしまった。うまくいかなくて、それでどうにもできなくなって、バイトで生活繋いでたけど、なかなか再就職も決まらなくて。それで帰ってきたなんて言えなくて、笑ってごまかした。
「お父さんになんて言おうかなあ、困っちゃった、ほんと」
「何があったのかは知らないけど。でも、家族なんだから。ちゃんと思ってるままに話せば大丈夫なんじゃない?」
「そうかな」
「頼れる娘が帰って来たんだろ?一言めになんて言われるかは俺にもわかんないけどさ。ちゃんと、ただいまってどうどうと帰って行けばいいんじゃない?」
「うん・・・」
 笑顔のシュウマが羨ましかった。「俺はぜってーここを離れない!」って高校を卒業して離れていくみんなに話してた。そしてその通り、ここにいる。どれが正解とか間違いとかわかんないけど、思った通りの道を進んでるのかな。
「なあ、ミズホ」
「ん?」
「声かけてこんなとこ連れてきといてあれなんだけど」
「大丈夫だよ、なに?」
「家帰って、家族と話ちゃんとして」
「うん」
「そしたらその後で、逢える?」
「後で?」
「うん。何時でもいいよ。時間作れたら連絡ちょうだい?携帯教えとくから」
「いいけど、何時でも?」
「うん、大丈夫。仕事中でも抜けられるし、終わってからならいつでも家出れるように待機してるから、またこの場所で、逢える?」
「わかった」
 バッグからスマートフォンを取り出すと、シュウマの番号を登録した。
「じゃあ、がんばって思ってること伝えてこいよ」
「うん」
 背中を押された気がした。久しぶりにあったのに。もう何年も逢ってなかったのに。高校生の頃に戻ったみたいだった。いつも悩んでる誰かの背中を押していた。自分もきっと何か悩みはあるはずなのに、それよりも誰かのために動いてた。そんな人だった。さっきの、シュウマが訪問していた家のおばあちゃんだって、シュウマは大切に思ってるんだろうな。あの頃と変わらずに。

 実家に戻ると、第一声で怒られた。長く逢っていなかった父は少し痩せて、背が小さく見えた。それでも怒鳴る声は変わらず大きくて、高校生の頃のわたしはよく「うるさいなあ」と言い返していた。今は、それを素直に聞いた。父の言葉を全て聞いたうえで、大きく頭を下げた。
「ごめんなさい、勝手ばかりの娘で」
 そうしていると、頭を下げたままのわたしの傍に寄った母が背中をそっと撫でた。「おかえり」って言いながら。
 おじいちゃんもおばあちゃんも、動きはずいぶんゆっくりになったけど元気だった。よかったって心から思った。母とおばあちゃんが夕食にわたしの好物を作ってくれるとはりきってくれて。バツが悪そうに怒った顔のままの父は縁側で腰をおろしてこちらを見てはくれなかった。だけど出ていけとは言われなかった。
「お母さん、ちょっと、夕食の前に友達に逢ってくる」
「友達?」
「うん、帰ってくる途中でシュウマに逢って」
「あぁ、そう。行っておいで」
 スマートフォンのロックを解除して名前を開いた。そのまま電話をかけた。少しして、電話にシュウマが出た。
「もしもし?今から逢える?」
「逢いたいって言ったの俺なのに、なんでミズホが逢えるか聞くんだよ?」
 そう言って笑うと、シュウマは「逢えるよ」って答えた。さっきの場所で。約束をして、わたしは路地を歩いた。灯台がちらっと見えた。あの傍にあるさっきの場所。スマートフォンだけを手に逢いに行った。シュウマは先についていて、防波堤に腰かけていた。さっきと違う服装だった。そっか、もう仕事終わってる時間なのか。スマートフォンの時計を見ると18時を過ぎていた。まだ外は明るい。
「その様子だと、大丈夫だったみたいだね」
 シュウマが先に声をかけた。
「うん、ありがとう。家に帰る前にシュウマに逢えてよかった」
「ほんと?」
「うん、ちゃんと話そうって思えたから」
「そりゃよかった」
「だから、逢いたかった。ありがとう」
「どういたしまして」
 湿った海風が少し暑く感じた。それでも風が髪をかき上げると心地いい。シュウマの前髪も時々ふわふわ揺れていた。
「東京、どうだった?」
「え?」
「いろいろあったんでしょ?東京で。それでも楽しいこともあった?」
「うん、それなりに」
「友達とか、できた?」
「うん」
「恋人は?」
「え、うん。いたんだけど、少し前にフラれた」
「へぇ、なんで?」
「なんでって・・・。いろいろ」
「ミズホってそんな、なんでもかんでも”いろいろ”って言葉で片づけるようなやつだったっけ?」
「だって、シュウマが質問ばっかするから」
「そりゃ、聞きたいでしょ?久々に逢うんだから」
「そうだけど、それならわたしだってシュウマの話聞きたいよ」
「例えばどんな?」
「シュウマこそ、みんなここを出て行ってしまって、ひとりじゃなかったの?」
「まあ、ね。ひとりに近いようなもんだったけどね。違う学年のやつらなら、何人かは残ってるやつもいたし」
「恋人は?」
「1回付き合ったけど」
「誰と?」
「チハル。わかる?2コ下の、家がパン屋やってる」
「あぁ、知ってる。付き合ってたの?」
「ちょっとだけね、すぐ別れた」
「なんで?」
「俺もフラれた」
「マジで?」
「なんだ。フラれたもん同士じゃん」
 クスクス笑っていたけれど、シュウマの顔はこっちを向いていなかった。海のほうに目をやって、そのままこっちを見なかった。波の音が急に大きく聞こえてきたような気がして、わたしもそのまま海を眺めた。みんなで並んで歩いたこの防波堤も、ここから見える海の景色も変わらない。わたしは、どうなんだろう。いろいろ。そう、いろいろあったけど、変わらないでいられてるのかな。それとも、別人みたいに変わってしまってるんだろうか。
「なぁ、ミズホ」
「ん?」
「今は、好きな人っている?フラれたそいつのこと、まだ好きだったりする?」
「ううん、好きじゃない。好きな人はいない」
「じゃあ、さ。もう、俺にしとけば?」
 ちょっとびっくりした。シュウマとは、同級生の間で噂になったことがある。お互い好きなんだろう?って周りに言われた。言われれば言われるほど、お互いに否定して、でも微妙な感じで。できるだけ普通でいたいから、わざとわたしはシュウマに悪戯したりした。シュウマもわたしを男友達みたいに扱って。そんなことを思い出していたら、目の前のシュウマが突然手を差し出した。
「俺はずっと好きだったよ、高校ん時から」
 女の子扱いなんてしてくれたことなかったのに。
「だから今日ミズホのこと見かけて、声をかけずにいられなかった」
 だからわたしも、シュウマのことは1番気にしないようにしてたのに。
「ね、ミズホ」
 優しい笑顔に惹かれるように、わたしは頷いた。東京は、楽しいこともあったよ。うん、それなりに。あったけど、わたしにはここが合ってるのかな。わたしは、差し出されたシュウマの手を握り返した。大好きなこの街で、また笑顔で暮らせるようにと願いをこめて。


※二宮愛衣 2015-08-31

You've forgotten this!


「ちょっと!これ忘れもの!」
 太左衛門橋の橋の淵にそっと置かれていたその紙袋を手に取ると、俺はゆっくりと走り出した。少し前のことだ、この紙袋を足元に置いてスマートフォンをいじっていた女性は、その紙袋を置いたままでその場を去ってしまったのだ。
「ちょっと!そこの白いコートの人!」
 平日でもミナミはそこそこ人が多い。追いかけようとすると不規則に歩く人だかりにすぐに捕まる。しかも、紙袋を置いた女性は急に走り出したのだ。それを俺は今度は全力で追いかけた。御堂筋の方へ向かってまっすぐに。かに道楽を過ぎたあたりで女性が右に曲がるのが前方で見えた。急いで追いかける。同じように右に曲がると今度は信号が青になったのと同時に御堂筋を横切るのが見える。無理やり曲がってくるタクシーを交わして俺も道路を横切った。女性の腕を掴めたのは、アルマーニの店の前でだった。
「どんだけ走るんだよ。これ、忘れもの。」
 白いコートの女性は大きく肩で息をして、腕を掴んだ俺を見上げた。
「何なん?あんた。」
「何なん?じゃねーよ。忘れもんだ、っつーの。」
 ずっと走りながら手にしていた紙袋を彼女の目の前に差し出す。その時初めて気づいた。
「え?ヴィトン?」
 紙袋にはLOUIS VUITTONと書かれている。そっと中を覗き見てみると、綺麗に包装され、リボンのついた、まさにヴィトンの新品のモノだった。
「ダメでしょ?こんな高価なもん忘れちゃ。」
「忘れたんとちゃうわ。捨ててん。なんで持ってくるかな?」
「捨てた?だってヴィトンだよ?」
「わかってるわ。要らんから捨ててん。持ってくんなよ。」
 呆れ果てたように話しながら女性はまだ息を整えようと大きく息をしている。彼女もきっと、全力で走っていたのだ。
「なんで要らないの?買ったんじゃないの?」
「違うわ。あんた欲しいねんやったらあげるで。うん、貰ったってよ、それ。」
「貰えるわけないでしょ、俺あんたのこと知らないし。」
「えぇやん。あたし要らんねんから、貰いぃや。」
 そう言って今度は紙袋を無理やり俺に押し付けてくる。
「そういうわけにいかないでしょ?どうして要らないの?」
「もぉ、ウザイなあ。手切れ金みたいなもんや。これやるから別れろ、もう俺の前に現れんな、言われてん。」
「へ?彼氏から?」
「そんなん、はい貰います、じゃあサヨナラ。って受け取れるか?こっちにもプライドあるっちゅうねん。」
 まるで俺が怒られてるかのように、彼女は片手を腰に当ててそう俺に言い捨てた。
「けどさ、あんなところに置いていくってのはどうかと思うよ?何か思いがあって最後にプレゼント買ってくれたのかもしれないでしょ?こんな高価なもの。」
「何がやねん。レストランとかいくつも経営してるような金持ちやん。それくらい小銭で買えるような人やし。女もペットみたいなもんやねん。そんなやつから受け取れるかっちゅーねん。」
「じゃあ、なんで貰ってきたの?受け取らなければよかったじゃん。」
 そう言うと彼女は少し切なそうに黙ってしまった。もう息は落ち着いてきている。行き交う人が、カップルの痴話喧嘩でも見るようにチラッと視線を送っては歩き過ぎて行く。
「とにかく、別れるにしてもこれは持ってたくないねん。」
 彼女の真面目な表情に、それ以上は言えなかった。だけど、このまま俺が受け取るわけにもいかない。
「でもどうすんだよ、これ。俺だって貰うわけにいかないから。」
「だから捨てたんやん。欲しい人が勝手に持っていったら良かってん。ほんま何なん、あんた。」
 困って俺は少し考えた。で、出た答えがこれだった。
「じゃああれは?買取してもらうとか。新品なんだし、これ。」
「あんたなぁ、それお金に替えてもらったところでそのお金使いたくないやろ?結局あいつの金やで?」
「そしたらどうすんのさ、これ。あ、お金に替えて、募金すればいいじゃん。」
「募金?」
「だっていつでも受付してるでしょ。小銭ならコンビニとかでいいけど、銀行とかでいつでも募金とか寄付って預けられるんじゃないの?自然災害とかで困ってる人とかに使ってもらおうよ。もともとその別れた相手のお金なんだし、手元に残らないほうがいいんでしょ?」
「まぁ、それやったら別に困れへんけど…。何なん、ほんまあんた。」
 少し笑いながら彼女はそう言った。傷んだ茶色の長い髪をいじりながら、少し派手なそのメイクも、笑うとなんだか可愛らしかった。大人ぶろうとしてるけど、きっとまだ若い。
「なぁ、ついてきてくれへん?」
「え?」
「買取の店は行ったことあるし、大丈夫やけど、銀行?あんなとこあたしがひとりで行って募金しますー言うたら逆に怪しまれるわ。どこで作った悪い金やねん!みたいな。」
 なんとなく、納得できた。たしかに怪しい。
「おっけー。行こう。」
 そしてそのヴィトンはそこそこの現金と交換された。相手の人に返さなくていいんだね?お金に替えてほんとにいいんだよね?と何度も確認したけれど、彼女は黙って頷いた。
「こちらはお返ししておきますね。」
 買取店で現金を受け取った後に、小さな封筒を1つ手渡された。
「箱の中に入っておりました。」
 そういえば、包装されたそれは1度も開けられた形跡はなかった。それが中に入っていたことは彼女は知らないかもしれない。
「いいの?先に見たら?今ならまだ交換止めれるかもよ?」
 そう言うと彼女は封筒をゆっくりと開いた。そしてそれを俺にそっと手渡した。
「見て、いいの?」
「うん。」
 薄い水色のカードに書かれた小さめの文字。

-誰かいいやつとしあわせになれよ-

 気づくと彼女は静かに泣いていた。買取店の店先で、店員の目も気にせずに泣いていた。
「どうする?止めとく?」
 だけど彼女は大きく首を振った。俺がカードを返すと、封筒にしまって大事にバッグにしまった。そして手にした現金もバッグにしまった。
「行こう、銀行。」
「だって。いいの?ほんとに?」
「ええねん。これで本当に終わり。」
 俺の腕を取ってどんどん歩き出す彼女に俺はついていくしかできなかった。今日初めて会ったのに、前から知ってるやつみたいに世話がやけるなあって思えてきて、俺は掴まれた腕をゆっくり外すと手を繋いだ。銀行では確かにちょっと怪しまれたけど、募金として受付をしてもらった。
「あーすっきりした。」
 銀行を出ると彼女を大きく手を広げて伸びをする。
「ほんとに良かったのね?募金で。」
「あんたが言うたんやんか。それに、気持ちよく次にいけそうな気がするし。」
「ほんと?」
「うん。ありがとう、ほんまに。」
「こちらこそ。最初は”何なん?”を連発されたけどね。」
「ほんまやわ。何なん?あんたほんまに。でも心から感謝してる。」
「俺はなんもしてないよ。忘れもの拾っただけ。」
「忘れもん、ねぇ。」
 そう言って彼女は笑った。
「じゃあ、俺、行くね。」
「あの。」
「ん?」
「全然知らんあたしのために、付き合ってくれてありがとう。」
「どういたしまして。もう会わないかもしれないけど、また。」
「うん、また。」
「誰かいいやつと、しあわせになれよ。」
「あんたもな!」
 彼女は笑顔で手を振った。そして忙しなくミナミの街の人混みに消えていった。俺はそれを見送ると、彼女と反対のほうへ歩いて行った。また次に大阪に来ることがあったら、誰か違ういいやつと、笑顔で歩いている彼女に会えればいいなと思いながら。



※二宮愛衣 2014-02-02

桜カフェ

 春になるとオープンするカフェがある。桜が芽吹き始めた頃に準備が始まって、すべて散りゆく頃にその年の営業は終わる。夏の、海の家のような、そんな期間限定のカフェ。東京から車で数時間、田畑の景色が増えてくる頃には民家の数も減ってくる。山が随分近くなって人とはすれ違わなくなってくる。そしたら浅い、澄んだ川が見えてくる。川沿いのかろうじて舗装された道路をまっすぐ行くと、その古民家はある。
 俺が2年前に買った。少し、父に助けてもらったけど。
 こんな場所の古民家を買って、春だけ限定のカフェをオープンしたのには訳がある。母の夢だったからだ。両親と俺の3人家族の我が家は、それはもうごく平凡な家庭だった。とりわけ贅沢ができる暮らしではないけれど、そこには幸せってものは確かにあったと思う。
 だけど2年前に母が病気になった。大きく命に関わる病気ではない。だけど、あまり無理はできなくなった。家でゆっくりしている日が増えた。友達と出かけたり、趣味の手作り教室に通ったり。けっこうアクティブな母だったけれど、家にいる時間が増えた。そしてある日ポツリと俺に言ったんだ。
「カフェをね、やりたかったんだよね。」
 って。俺の運転する車の助手席で。ずっと前を向いて話していた母だけど、そこには都会の景色ではなく、母がやりたかったカフェの絵が見えていた。
「桜のね、大きな木の植わった民家があるの。あなたのおじいちゃんが住んでいた村の外れで。不便だから空家になってそのまま。あそこを買い取ってカフェをやりたいねってお父さんと話してたことがあってね。」
「親父と?」
「そう。あなたがね、生まれる前だったと思う。」
「へぇ、初耳。」
 父方の祖父の家のそばにある桜の木の植わった民家。俺はそこを見たいと思った。カフェをやりたいっていう夢を持つって、まぁ、よくある話だ。今だったらそういう、田舎の古民家を買い取って店にしたり、定年を迎えてから住み移ったりとか聞くけど、俺が生まれる前って言うと30年近く前になる。そんな頃に買い取って店にしたかった場所ってどんななんだろう。とても興味があった。
 祖父の住んでいた場所と、桜の木のある民家。頼りはそれだけだったけど、意外にもそこは簡単に見つかった。地元で有名な場所だったんだ。もう誰も住んでない、荒れ果てた古民家の手前に立派な大きな桜の木があった。樹齢とかそういうのさっぱりわからないけど、とても古いものだっていうのは俺の目でもわかった。桜の季節になると、その古民家の先にある神社にお参りに行く人たちがここで桜を見てから行くという話を聞いて、家に帰るとすぐにそれを母に言った。その周辺を撮ってきた写真を見せると母がパッと笑顔になる。
「そうそう、ここ。私が知ってる時でももう空家になってたから、もうだいぶ痛んでるでしょうね。でも桜の木は元気なんだ?」
「うん。季節的に葉しかなかったけどね。すごい立派だったよ。この家の先に神社があるんだって?」
「そう。行った?」
「ううん。行ってない。」
「そこでね、お参りした後にわかったのよ。」
「何が?」
「あなたがおなかにいること。」
 母の思い出の場所を見てみたかっただけなのに。気づいたらあの古民家をどうにかしたいと思う自分がいた。今でも誰も手を付けることのない空家なんだったら、俺が買いたいって思った。そしてカフェができれば1番いい。考えてみるけれど、俺は普通のサラリーマンだ。移り住むのはさすがにきつい。毎日あそこから出勤するとか、考えられない。カフェだって、やったところであんな場所に毎日客が入るとも思えない。リスクがあまりにも大きすぎた。
 そこで思いついたのが、春だけ限定のカフェだった。
「それだけのためにあそこを買うっていうのは無駄なんじゃないの?」
 母はそう言った。だけど予想外に父が乗り気だった。母のカフェの夢を実は父もずっと気にかけていたのだ。それに、父の故郷にあたる場所だ。
「あの桜はほんとに見事だ。口コミで最近では春になったらハイキングがてら訪れる人が多いらしい。聞いたことがあるよ。」
「でしょ?あそこでカフェっていいと思うんだ。なんせ古いし不便なところだから、家だけで考えるとけっこう安いんだ。安いって言ってもまぁ、それなりにはするけど。」
「なんだ、もうそんなとこまで調べてるのか?」
「まあね。」
 そうやって話はどんどん盛り上がって、俺ら家族は決めたんだ、春だけオープンする店にしようって。定年を迎えている父がその期間だけならと店に立つと言い出した。毎日だときついけど、期間限定なら気が楽だって言ってね。そしたら母が、楽しみだと言い出した。俺が子供の頃なら、3人で出かけたり、3人で何かを決めたり、こんなこと日常的だったけど、俺が中学生くらいからは別行動も増えて、みんなで作戦会議みたいなこんな楽しい時間はなくなっていた。そして母が笑顔なのがとても嬉しかった。

 少しして古民家を買った。もちろん桜の木付き。あまりに傷んでいたので、仕事が休みのたびにそこへ通って少しずつ修復した。親父の知り合いだっていう地元の人も手伝いに来てくれた。それで去年、初めてオープンしたんだ。我が家の『桜カフェ』が。
 もちろん最初は暇だった。知り合いしか来ない。だけど、奥の神社へはそこそこお参りの人が来る。ここいら一帯の桜は立派なものが多いからだ。神社の桜もそれは見事で、オープン前に繁盛祈願のお参りに行った時にはたくさんの蕾が膨らんでいた。その神社への参拝客が寄ってくれるようになった。少しずつ人が増えて、インターネットでここを知ったという人も出てきた。
「ネットですか?」
「はい、ほら。」
 そう言ってスマホで写真を見せてくれたのはOL風な女性二人組だった。誰かのblog投稿だった。『桜カフェ』の看板の写真や古民家の写真、目印の大きな桜の木の写真。そしてうちのコーヒーの写真。本人の写真がないから、誰かはわからない。だけど、blogは、足を運んだ地のいろんな店や名所のおすすめを紹介しているようなものだった。
「桜の咲いている時期限定って聞いて、それで仕事休みの日に来たんです。」
「そうですか。ありがとうございます。」
 そうか、店のblogを始めればいいんだ。桜の見頃が終わればカフェは閉店する、そんなお知らせもできるし、それはいい案だって父が言った。オープン1年目はそんな感じであっという間に桜の季節は終わった。そして今年が『桜カフェ』の2年目だ。

 blogにはカフェを運営していない時期でも記事を書いた。時々足を運んで、季節の写真を撮ってUPしたりした。アクセス数はごくわずかだけど、春が待ち遠しいです、といったコメントが入ったりもした。会社の同僚にも宣伝した。
 さぁ、今年もオープン間近だ。運転席の窓を開けると、少し暖かくなってきた風が車内へと入ってくる。川沿いの道の先に見えてくる、まだ少し寂し気な桜の木。その木のそばに建てられた『桜カフェ』の看板。俺たち家族の夢の場所です。桜が咲いたら、ぜひコーヒーを飲みに来てくださいね、待っています。


※二宮愛衣 2014-03-20

がんばれ


「クソっ!なんだよ!」
 うちに帰るなり俺は通勤バッグを床に叩きつけた。転げた黒いバッグから、資料や手帳がバサっと飛び出した。自信満々だったつもりの資料も記入ミスだらけ、プレゼンテーションも失敗した。自分の不甲斐なさにイライラしていた。いつもだったらあんなミスはしないのに。
「今回のキミのプレゼンテーションは残念だったよ。期待しすぎた。」
 会議が終わって部屋を出るときに言われた上司からの言葉だった。
「もうちょっと完璧な人間のはずだ。俺なんかがあんな失敗するはずない。」
 そう、心の中で叫んでみるけれど、だったら誰のせいなんだ?思い当たるはずもない犯人をひたすら頭の中で考えていた。そうやって誰かのせいにしようとしている自分にも腹立たしかった。今俺は自分と向き合えてない・・・。励ましてくれてるはずの同僚の言葉が逆にイヤミにしか聞こえなかった。

 なんてやつだ、今日の俺は。

 散らかった資料と手帳を拾い上げると、転がった黒いバッグにそっとしまう。その時にポケットのスマホが震えた。まだ暗いままだった部屋の電気のスイッチを押しながらスマホを手にした。親父からだった。そういや、今日は昼間にも1度着信があった。ちょうどプレゼンテーションの最中で出れなかったけど。
「もしもし?」
「あ、尚樹か?今日時間あるか?」
「は?ごめん、悪いけどないよ。」
「仕事中だったか?」
「いや、違うけど。今日はちょっと。」
「そうか。ちょっと近くまで来たもんだからさ。」
「近く?」
「あぁ、こっちに出張で来てるんだ。ちょっと飯にでも付き合ってもらおうかと思ったんだが。」
「そう。悪いけど次の時にしてくれる?」
「すまないな、忙しい時に電話して。」
「うん。」
 無愛想な返事だったからか、親父の電話はあっさりそれで切れた。もともと口数は少ないけどね、あんま喋らないっていうか。そのくせ携帯のメールってやつが苦手とかで、文字を打つのが面倒だそうだ。だから話すの好きじゃないくせに用があるときはいつも電話をかけてくる。そんな人だから留守電とかにもメッセージを残さない。あ、1度挑戦してたことあったかな、けど、なんか小さい声でボソボソ言ってるだけで何言ってんのかわかんなかった。そんな人だ。出張でこの時間にまだ東京に居て食事に付き合えってことは、今夜は泊まりか。実家は岩手だから。
 スマホを充電器に繋いで、スーツを脱いだ。そのままシャワーをしようと風呂場へ向かった。イライラしているせいか腹が減った気もしない。高い位置にセットしたシャワーヘッドから落ちる雫がみるみる髪を濡らしていく。これで全部洗い流せればいいのに、今日のミスも全部。思い返しているとまたイライラしてくる。俺は濡れた右手を拳にして、自分の左手に叩きつけた。本来なら風呂場の壁をぶん殴りたい気分だったけど、さすがにやめた。
 濡れた体を拭いてタオルで髪を拭きかけた時にチャイムが鳴った気がした。だけど気がしただけだろうとそのまま髪を拭き続けた。そしたらまた、チャイムが鳴った。
「誰だよ。」
 モニターを覗くとそこに居たのは親父だった。
「マジかよ。勘弁してよ。」
 返事をせずにそのまま玄関に向かった。髪の雫が上半身裸の背中に時々落ちる。俺は勢いよくドアを開けた。
「なんだよ。今日は無理だって言っただろ?」
「悪い、誰か来客か?」
「ひとりだけど?」
「いや、これを渡しておこうと思って。」
 そう言って親父が細長い紙袋をそっと胸のあたりの高さまで上げた。知ってる紙袋だった。岩手の、有名な造り酒屋の紙袋。
「持って来てたんだ。また持って帰るのもあれだと思ってな。」
 そう言って俺にほらっと言わんばかりに差し出す。俺はその紙袋を受け取った。ずっしりと重い。
「じゃあ。たまには帰ってこい。母さん寂しがってるから。」
 そう言って自分から玄関のドアを閉めて親父は帰って行った。徐に紙袋の中を見てみると日本酒の箱が入っていた。あ、これ。俺が二十歳の誕生日を迎えた日も親父がこれを買ってきてくれた。初めて親父と一緒に飲んだ酒だ。ビールとかじゃなくて、地元の旨い酒で乾杯しようって言って親父が仕事帰りに買ってきた。その後、2年後、俺は岩手の大学を卒業してこっちに就職した。
 急になんだか我に返った感じがした。一度その紙袋を足元に置くと、慌てて部屋に戻ってシャツを手に取る。袖に手を通しながら俺はもう靴を履いていた。急いで親父を追いかけた。ハイツを出てすぐのところにまだ親父は居た。

「父さん!」

 呼ぶと一瞬戸惑ったみたいに周りを見て、親父は振り返った。
「ごめん。今日ちょっと仕事でミスって、イライラしてただけなんだ。」
「ミス?仕事で?」
「うん。ごめん。そんで、あれ、ありがとう。酒。」
「ああ、友人とでも呑め。仕事でミスったことを愚痴れる友達ぐらい居るんだろ?」
「え?ああ、まあ。」
「ミスしたことでイライラするってことはそれなりに反省もしてるんだろ?それすらもしないようじゃ問題外だ。」
「え?」
「じゃあな。がんばれよ。」
 親父はそのまま振り返らなかった。俺ももう、呼び止められなかった。駅に向かって歩く親父の背中が見えなくなってから、俺は部屋に戻った。玄関に置いたままの紙袋をもう1度手に取るとそのままソファに座った。
「ありがとう。いただきます。がんばるよ、俺。」
 取り出した日本酒に向かってそう言うと、スマホを手にとった。そしてLINEで友人何名かに呼びかけた。

---親父が旨い酒を持ってきてくれたんだ、一緒に飲まない?ちょっと聞いて欲しい話もあるからさ。---

 うん。イライラしてる場合でもない。明日も仕事はあるんだから。俺にはまだまだやることあるんだから。


※二宮愛衣 2014-04-27

僕の在り方。

 すっかり冷めたコーヒー。昼前に入ったその店は、いつしかランチの客で賑わっていた。たぶん、2時間弱ずっとここにいる。窓際の奥の席で、店内が見渡せるその場所は入ってきた客がよく見える。そして、窓のガラス越しに外の景色もよく見える。それでいつも、待ち合わせはこの店のこの席にしていた。何年それを続けているだろう。
 いい加減出なきゃ、コーヒー1杯で居座りすぎだな。
 飲みかけのコーヒーはそのままに、僕は席を立った。
 待ち合わせの相手はもう来ないだろう。月に1回の約束だけど、たぶんそろそろ、終わりにしなきゃいけないんだろう。そんなことを思いながら店を出ると、僕はスマートホンを取り出した。ある番号を選んで電話をかける。別れた元妻だ。
「はい。」
「あ、俺だけど。」
「ごめん。静保がぐずって。」
「あぁ、いいよ。」
 娘の静保が4歳の頃に僕たちは離婚した。娘は妻が引き取った。当時僕に与えられたのは2週間に1回娘と会うという約束だった。だけど、それはあまり叶えられなかった。


 もともと僕は、仕事で家を空けることの多い人間だった。海外出張が多かったのだ。妻とふたりの時はそれでよかった。僕がいない間は好きなことして過ごすからと言ってくれていた妻は、僕が出張から帰ってくるといつも一緒に行動して、うまく調整してくれていた。
 それからすぐ、静保が生まれた。そこからはやっぱり娘中心の生活になった。それでも僕は家を空けることが多く、可愛い娘には海外であらゆるぬいぐるみやおもちゃを買って帰った。喜んでもらえるのが嬉しかったんだ。ただ、ただそれだけの僕に、妻が少しずつ不満を抱くようになった。妻が助けて欲しい時に僕はいない。帰ってきたところで、僕は娘をどう扱えばいいのかわからない。結局すべて妻頼み、だ。夫でもなく父親でもなく、ただそこにいるだけの1人の男でしかいられなかった。
 それでも数年、僕たちはそんな生活を続け、離婚したのは静保が4歳の頃というわけだ。何もできない僕は、全てを妻に託したけれど、それでも2週間に1回娘に会うという約束をした。だけど、僕の生活は変わらない。相変わらずの海外出張。2週間に1回、という約束を自ら守ることができなかった。会いたくてもタイミングが合わず、次に会うまでに2ヶ月空いたりというのはザラだった。
 そんな僕に静保が懐くはずもない。それでも会ってはいたけれど、それは親子という感じではなかった。わかっていた。そんなこと1番自分で感じていた。今は静保はもう小学2年生だ。もうすぐ誕生日で8歳になる。
「明日行きたくないって言ってて。私がそう思ってるわけじゃないよ?静保が、面倒くさいって言って…。」
 昨夜そう、電話をもらっていた。
 離婚して4年、2週間に1回会うという約束も1ヶ月に1回という約束に変わっていた。僕の時間がなかなか合わなかったのが原因だった。だけど去年役職が1つ上がって、僕には少し余裕ができた。部下が新しくできて、出張が減ったのだ。また2週間に1回に戻せないだろうか?そう相談したのも虚しく、断られた。元妻に、ではなく、静保にだ。
 小学生ともなれば、時間の過ごし方は親に合わせるでもなく自分自身へと少しずつ変わっていく。自分時間が増えるのだ。そんな中、たまにしか会わない父親に会わなければいけない。それが静保には苦痛になってきたのだろう。会っても実際、僕も何を話していいかわからない。いつも決まって、最近は何しているの?どんなものが好きなの?何を見るのが好き?友達とはどんなことして遊ぶの?そんなことだった。毎度聞かれるそれに、飽き飽きもしてくるだろう。
 そして昨夜、静保は決めたんだろう。もう、会いたくないって。
「静保に、今までお父さんの相手をさせて悪かったねって伝えてくれる?」
「え?」
「もう、会うのやめるよ。嫌がってるだろ?」
「え、でも…。」
「もうすぐ誕生日でしょ?今日欲しいもの聞いて一緒に買おうと思ってたんだけど、買って送るよ。欲しいもの、聞いといてくれない?」
「いいけど。いいの?」
「俺にできること、もう何もないし。」
 街には雪がチラホラと待っていた。空を見上げると静保が産まれた日のことを思い出す。
 すっげぇ寒い日だった。雪が降りしきる中を、タイミングよく日本に帰国してそのままタクシーで病院に向かった。まだ、静保は産まれてなくて、妻が分娩室で苦しんでいた。許可をもらって僕は中でずっと、妻の手を握っていた。強く握り返してくる妻の手をずっと握っていた。静保が産まれた瞬間っていうのはもう、一生忘れないと思う。嬉しくて。感動して。静保を抱く妻を2人まとめて抱きしめた。

「あのさ、お願いがあるんだけど。」
「なに?」
「毎年、誕生日にはプレゼント送らせて?欲しいものこっそり聞いて教えてくれない?」
「プレゼント?」
「うん、それだけはさせて欲しいんだ。お願い。」
「うん、わかった。ちゃんと連絡入れるよ。」
「ありがとう。それだけでいいから、俺に連絡入れるのは。あとはもう、いいから。」
 雪の中、僕はひとりで家に帰った。

 20年後に静保から、結婚式に父親として出席して欲しいと連絡があるなんて、その時は思いもせずにね。



※二宮愛衣 2014-02-08

雨の降らない梅雨の日に


 暑いな。空を見上げた。

「梅雨入りしたんじゃねーのかよ」

 梅雨の間はまた寒くなったりするから、気を付けなさいよ。毎年母親からそんな電話が入る。今年も、テレビで梅雨入りが発表されているのを見て、母親から電話があった。その日以降、雨は降っていない。Tシャツの胸のとこをつまんでパタパタとやると、俺は何か飲もうかと自販機を探した。待ち合わせ、もっと違う場所にすればよかった。昼前の時間帯。太陽が元気にてっぺんに上がっていて、日陰を探すことすらできない。ここの駅前はあまり太陽からの逃げ場がなかった。少し先の歩道橋の下に自販機があって、ペットボトルを1本買った。ブラックのコーヒー。よく冷えたそれは手で持っているだけで気持ちが良かった。缶コーヒーを手で遊ばせながら元の待ち合わせ場所に戻ると、彼女が来ていた。俺を見つけて手を振る。俺はそれに、軽く手を上げて返した。
「カフェに行こうって言ってたのにコーヒー買ってる」
 指差しながら彼女にそう言われて、うわ、ほんとだ、と気づいた。
「ごめん、暑かったからのど乾いて」
「カフェあとにする?」
「いや、いいよ、腹減ったし」
「それはどうすんの?」
 目でそっと缶コーヒーを指差された気分だった。
「持って帰るよ」
「じゃあ、持っとくよ、かして」
 バッグからハンカチを取り出すと、水滴の付いた缶コーヒーにふわっと巻いて、彼女はそれをバッグにしまった。

 彼女と居ると楽だ。安心する。10コ年上の女性。元バイト仲間。大学生の頃にバイトで入ったカフェレストランで、俺より先に彼女は働いていた。所謂パートってやつで。俺が出勤する夕方に、彼女は仕事を終えて帰っていく。子どもを迎えに行くんだ、保育園に。そう、結婚していた。まるで俺を弟みたいに面倒みてくれた。まぁ、それは、俺だけに対してだけではないけれど。大学を卒業するのと同時に俺はそこのバイトを辞めた。そしてそれから少しして、彼女もパートを辞めたと聞いた。それで終わりだと思っていた。
 1年程前。そうだ、あの頃も梅雨入りしたところで。今年とは違って雨ばっかりだった。商談に行った企業からの帰り。風がとても強くて、傘をさしたところであまり変わらない。斜めに振りつける雨はアスファルトで山のように跳ねていた。大きな風が吹き上げた瞬間、俺の傘はあっという間にひっくり返った。戻そうと思ったけど、骨が曲がってしまっていてどうにもならない。コンビニの安いビニール傘だとこんなもんだ。諦めて、ひっくり返ったかっこ悪い傘を手に、駅まで走った。スーツはすっかりずぶ濡れで、この後もう1件得意先に行かなきゃいけないのに、と溜息をついた。
「もしかして、笠間くん?」
 声をかけられてびっくりした。
「大谷さん?うそ。マジで?」
「マジで。マジで。びっくりしたーぁ、久しぶり」
 笑顔はあの頃と変わらなかった。どんな客でも笑顔で対応するプロだって思ってた彼女の、それ以上に自然な優しい笑顔だった。
「大学生の頃は可愛いって感じだったけど、かっこよくなったねー」
「辞めてくださいよ。可愛いもかっこいいも照れますから」
「いや、ほんとに。何度か就活でスーツ姿のままバイト来たこととかあったけどあの頃は着られてる感じだったもんねー。今はすっかりスーツ着こなしてる」
「そうですか?でももうずぶ濡れで。そういう大谷さんも、変わりませんね」
「うっそだぁ、歳とったよ。アラフォーだよ?もう」
「見えませんって。前より若い感じする。あ、お子さんは?もう・・・えっと10年以上経つから、中学生とか高校生とかですか?」
「あ、う・・・ん。高校生」
「そっかぁ、なんかすごいな、こうやってまた逢えるなんて」
「そうだね。仕事中だった?」
「そうなんです、また別の得意先に行かなきゃいけなくて」
「びしょ濡れじゃん」
 彼女はバッグからタオル地で出来たハンカチを取り出して、背伸びをして俺の髪を拭いた。
「あ、すいません。それに、俺自分で・・・」
 そう言うと、にっこり笑ってハンカチを俺に手渡した。
「傘、壊れちゃった?」
「風やばいっすね、今日」
「待って。まだ時間ある?そこのショッピングモールに傘置いてる店あったと思う」
「え?ちょっと大谷さん!」
 俺の返事を待つこともなく、走って行ってしまった。ハンカチだけを残して。俺はそれで、軽く濡れたスーツの水けをはらった。はらったところでもうびしょ濡れなんだけど。通り過ぎる人の邪魔にならないように端のほうに移動すると、俺は彼女が走って行ったほうを見ていた。それから手にしていた、すっかり骨の曲がってしまったビニール傘を半分に力任せに折り曲げた。雨は朝から降っていたけれど、午後になって急に強くなった。駅を行きかう人の速度はいつもよりせかせかしていた。
 少しして、彼女は走って帰ってくると、傘を差しだした。
「お得意先にビニール傘はどっちにしても印象よくないよ。これ使いなさい」
 淡い茶色の傘。しっかりとしたグリップで握りやすく、いつもビニール傘の俺にとっては、自分では買わない傘だ。。
「あ、えっと、お金」
「いいよ。それでしっかり仕事してきなさい。壊れたほうの傘は私が処分しとくから」
 そう言って、俺の手にある壊れた傘をサラッと自分で手にする。あの頃と変わらない明るい笑顔で言う。
「でも、そういう訳には」
「いいってば。こういう話してる余裕あんの?取引先行くんでしょ?私が傘買いに行ってた時間でもロスしてんだから。遅刻は雨のせいにはできないよ?電車遅れてるみたいだし」
「あ、まずい」
 時計を見て、その時間に少し焦った。
「あの、このお礼はいつか。あの、絶対に」
「わかった、楽しみにしてるね。がんばって」
 彼女に背中をポンッと押されて、俺はそのまま改札を通った。
 いつか、お礼を。そう言ったけど、連絡先は変わってないんだろうか。ちょうど到着した電車に乗って、俺は携帯を開いた。整理していないままの携帯のアドレス帳を見て思った。もう10年以上も前に、バイト先の仲良いメンバーで、年齢も性別も関係なく連絡先を交換した。何度か飲み会とかやって、そのやりとりに使ったアドレス。一か八か送ってみる。

 [傘、ありがとうございます。仕事がんばってきます]

 そしたら少しして返事が来た。

 [がんばって!行ってらっしゃい!]

 アドレス、変わってなかった。それだけでなんだか奇跡みたいな気分だったんだ。手にした茶色い傘と、一緒に持ってきてしまったタオルのハンカチ。それを見てニヤついている自分にふと気づいて、吊革に隠れるようにして、誰にも見られてないか電車の中で我に返った。

 それから、彼女とは何度も逢うようになった。
 数年前に離婚したことを知った。子供の親権も同居の権利も何ももらえなかったことを知った。たくさん泣いて、それでもひとりで生きていくと決めたってことを知った。あんなにも、いつも笑顔で明るくて、悩んでいる人を見つけたら声をかけて、自分のことみたいに一緒に悩んで励ましてくれる。太陽みたいな人だった彼女が、1番辛い状況の時に、支えてあげられる位置に居なかった自分がとても悔しかった。
 そうだ、俺は彼女のことが好きなんだって、逢っているうちに気付いたんだ。そして今日、俺は彼女にプロポーズしようと決めている。涙の似合わない彼女に、笑顔でいられる毎日を俺が届けたいんだ。


※二宮愛衣 2017-07-03

Story M

Story M

短編集 Story M。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 防波堤
  2. You've forgotten this!
  3. 桜カフェ
  4. がんばれ
  5. 僕の在り方。
  6. 雨の降らない梅雨の日に