幻日の春
自分の書いた小説は回りの方から見られたときにどう思われるのか、純粋に知りたく投稿しました。始めて書いた話ですので至らない点が多々あると思います。ご指摘、よろしくお願いいたします。
抜けるような青空。頬を優しく撫でる風。色とりどりの草花が咲き乱れる大地。あまりにも美しすぎるこの空間は、まるで作り物のようだ。そして、それは恐らく事実なのだろう。
「一体どうすれば良かったのかな。」
誰もいなかったはずの背後からいきなり声がしたからだ。声の主を確かめようと首を動かそうとするが、ピクリとも動いてくれない。声は続ける。
「もう遅いよ。」
「全部全部全部。」
何の話か分からない。でも否定してあげたかった。後悔を染み込ませたようなこの声を聞いていたくなかった。
「ねえ!」
声を張り上げる。しかし、言葉が続かない。
「……君は誰なの?」
苦し紛れの問いに、声はこう答えた。
「私はーー」
ページに手をかけたところで朝の読書の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。せめて担任が来るまで粘ろうとしたものの、チャイムの余韻と共に教室のドアが開く。総務の号令がかかる。机の中に本を突っ込みながらしぶしぶ立ち上がった。
全く最悪のタイミングで打ち切られてしまった。何の罪もない教師を気のすむまで睨み付けると校庭に目をやった。黄緑の中に所々白や黄色がポツポツとあるのが可愛らしい。桜は今にも開きそうな蕾をつけている。いやはや窓際の席というのは暇潰しに最適だ。
担任は、やれ提出物は出したかだの、最近この学校の生徒の図書館の使い方が悪いだの、もうすぐなんとか公園の病気の木の伐採が始まるから始まったら公園には立ち入るなだの……。はっきり言ってどうでもいい。
(中学校ってもっと自由かと思ってたんだけどなぁ)
やはり、朝の会というのは学生の宿命らしい。
光ヶ岡中は光ヶ岡小学校からの持ち上がりの生徒しかいないわけで。中学校に入学したからといって新しい出会いがあるわけでもない。まして、何かが大きく変わることも。皆小学校の時のグループで行動しているのがいい証拠だ。
変化といえば、せいぜい勉強の難易度が上がったことくらいだ。連立方程式?関数?
……異国語か何かかな?
突如、担任の声を遮るようにチャイムが鳴り響く。ありがとうチャイム。心なしか不服そうな表情で総務に号令を促す担任が些か滑稽で、口元だけで笑った。
今日は、一時間目が国語なのが救いだ。教科書とノートを机の上に置く。便覧……はいらないか、多分。始業を告げる鐘が鳴るまで、暫し本の世界へ逃避行させていただこう。
さあ、今日も適当にやりすごそうではないか。
ーーこれは、私のちょっと不思議な出会いと別れの十日間。
「里桜、じゃあね!」
「うん、また明日。」
漸く一日が終わる。クラス替えに恵まれたおかげで、移動教室のとき一緒に行ったりとか帰り際にこうして声をかけてくれる友人はできた。まあ、一緒に帰るとまでは行かなくとも私にはそれで十分。“学校から一歩出たら顔見知り”。それくらいの方が気楽でいい。
家から学校までは、歩いて約二、三十分といったところだ。同学年のなかでは比較的遠い方だが、ぶっちゃけ私はそこまで気にしていない。
というのも、たかだか二、三十分程度とはいえその時間を意味のない思考に充てるのが思いの外楽しいのである。あるときは、とりとめのない思いつきを形にしたり、またあるときは、すでにあるものを分解したり。
そして私の下校時間には、登校時間には無い楽しみがある。私は家には向かわずちょうど曲がり角のとこにある鈴原公園に入っていった。
鈴原公園。遊具といえば錆びたブランコのみ。滅多に人の訪れないここには、何かが死んだような空気が流れているのだ。地域住民のみでなく、まるで時の流れからも捨てられたようなこの空間が、私は大好きだった。
入り口から見て左奥の方に一本の大きな木がある。私が小学生の頃からずっと姿を変えないこの木は、この空間の時の静止をより強調していた。ちなみに、その下のベンチが私の定位置だ。
一直線に公園を横切り、そのベンチを視界にいれたときに私はようやくイレギュラーに気づいた。
ーー誰か、いる?
腰まで伸びる黒髪。丈の短い白のワンピース。ワンピースにも劣らない、まるで雪の如く白い肌。少女(推測だが)は、体育座りの体制で膝頭に額を埋め、ピクリとも動かなかった。
(声をかけるべきなのだろうか……)
思わずそう心配するくらい、目の前の人間からは生気が感じられなかった。
意を決して少女の肩に触れる。……反応がない。「ねえ、大丈夫?」問いかけながら再び肩を揺さぶると、少女は微かに身動ぎした。と思えばやがて、黒い大きな真珠のような目と邂逅した。
「君だぁれ?」
全てを吸い込んでしまいそうな不思議な黒眼に思わずたじろいだ。
「……里桜。花陵、里桜。」
情けなくも声が震える。
「そっか。ここにはよく来るの?」
頷きだけで答える。
「だよね。そっか、りおっていうんだ。」
幼げな顔立ちと絹のように滑らかな声のアンバランスさが目の前の少女を余計得体の知れないもののように感じさせる。
少女がベンチを下りて、くるりと私を振り返る。私はまるで裁きを待つ罪人のような面持ちでそこに立ち尽くしていた。
「これからもここに来てくれる?」
「……へ?」
もっとぶっとんだ台詞が来るものだと身構えていた私は情けなくも間抜けな声をあげた。
「ねえ、来てくれる?」
「それ、は、別に構わないけど……」
戸惑いながらも了承する。もともとこの場所は私の特等席だったし。
「ありがとう、りお。」
少女はそういうと初めて笑った。先ほどまでとはうってかわって、花が綻ぶような笑い方だった。その瞬間、公園の空気がわずかに生き返ったような気がした。
そういえば、だ。
「ねえ、あなたの名前は?」
これからも会うのなら、“君”や“あなた”では失礼だろう、という誠意が半分、こちらばかり名前を知られているのも癪だという幼稚な反抗心が半分の問いかけだった。
すると、彼女は心底不思議そうな表情を浮かべた。まるで、太陽の昇る方角や重力の働く方向について尋ねられたときのような表情。
“なんで、そんな分かりきったことを聞くんだ”と言わんばかりの表情。
数秒の沈黙の後、彼女はこちらを見ないまま答えた。
「忘れちゃった。……だからさ、」
黒真珠が私を捉える。
「りおがつけてよ。」
「……私が?」
私はペットに名前をつけた経験すらないのですが。冗談の一種かと疑ったものの、向こうから何も言わないあたり、どうやら本気らしい。これは困った。しばらく考えてはみるものの、一向にいい案が浮かぶ気配がない。……いや、あるにはあった。死ぬほど安直ではあるけれど。
「“さくら”っていうのは?」
瞬間、彼女の纏う空気が凍りついた。触れるもの全てを無差別に拒むような痛みに、本日何回目かの命の危機を感じた。
その沈黙を破ったのは、やはり彼女であった。
「どうして?」
それは溶けかけの氷のような声だった。
「いや、さ、そんな深い意味はなくて。私の名前、里に桜でリオって読むからさ、そこからとってみたんだけど……」
……どうしても口調が言い訳じみてしまうのはしょうがないと思う。
「そっかぁ」
パステルカラーの感情を混ぜ合わせたような吐息まじりの声。
「気に入ったよ。ありがとう」
そう言ってまた、花のように笑った。
その日の帰路、私はまだ、さっきのあれは白昼夢かなにかだったのではと思ってしまう。それに、言葉にできないわだかまりが胸の奥に巣くっている。それが彼女……さくらに対するものなのは明らかなのだが。
翌朝。目覚ましにいつも通りに目覚ましにたたき起こされた私は、眠い目を擦りながら玄関のドアを開けた。昨日はまともに眠れなかった。というものも、家に帰ってからもずっと静かな興奮が冷めなかったのだ。
どうしても、公園の方をみてしまう。そこにはいつもと同じように時の止まった世界があった。やはりといってはなんだが、さくらはいない。
冷静になって考えてみれば、昨日が初対面なのだ。普通はもっと警戒心をもつべきだっただろう、私よ。最悪不審者だったらどうするんだよ。よくそんな相手とまた会う約束をしたものだ。我ながら(その無鉄砲さだけは)称賛に値する。
でも。今日もし私が会いに行かなかったら。彼女はどうにかなってしまうのではないか。根拠も無しにそう思わせるだけの何かが彼女には会った。
あの時触れたさくらの身体からは、温もりの類いが一切感じられなかった。
突如、視界に花びらが降ってくる。そうこう考えているうちに学校に着いたらしい。ああ、数学の宿題写させてもらわなきゃ。
昨日の睡眠不足が祟り、今日の六時間目は散々だった。あの数学教師、ホントに許さない。前頭部だけじゃなくて後頭部も禿げればいいのに。ただでさえ数学が苦手な人間に発展問題解かせますかね、普通。しかもクラスメイトの前で。あの失笑は正直堪えたわ。心の中で毒づきながら正門をくぐる。純粋な薄紅色した桜の花にすらあたりたくなってしまう。
何かを考える気にもなれず、ただ歩を進める。……ああそうだ。公園には寄らなければ。彼女が信用に値する人物かどうか判断するには、圧倒的に情報が足りないが、約束を反故にするのも気がひける。
結論から言えば、彼女はそこにいた。ただし、昨日とは違いベンチに腰かけていた。そして私の姿を認めるなり笑顔でこちらに手を振ってきたのだ。
「りおー!」
昨日とは別人のようなハツラツとした声に気圧されつつも何とか言葉を返す。
「う、うん。さくら、ちゃん……?」
「さくらでいいよ。ほらここ座って!」
促されるままさくらの隣に座る。というか、来たはいいものも何をどうすればいいんだろう。
「ねえねえ、学校ってどんな場所なの?」
何の前触れもなくそう問われ、言葉に詰まる。
「え、……行ったことないの?」
「あいにくね。そうだ! 今日のりおの学校のこと教えてよ。」
ちょっと待て、どうしてそうなった。私なんてどこにでもいるような一般的な中学生なのですが。今日といえば、数学教師に殺意を覚えたことくらいしかないぞ。
「そんな特筆するようなことはないんだけどな……」
「いいよ、何でも!」
……何でも、が一番難易度が高いのだが。しょうがない、腹をくくるとしよう。
「……それでさぁ、そいつ毎回私に対してケチつけてくんの。当てられたときにさ、間違ったら怒るくせに正解したらカンニング疑ってくんだよ、意味分かんないっしょ。」
「はは、大変なんだねぇ。」
ここでふと顔をあげる。いつのまにか夕日が公園を包んでいた。こんなつまらない話を延々と聞かせたことに今さらながら罪悪感がわき出てきた。
「何か、ごめんね?おもしろくなかったよね…」
さくらは、謝罪の意を示そうとしたその声に被せるように、
「りおは頑張ってるんだねぇ、いいこいいこ。」
……ひんやりした手が頭に置かれた。そのまま前後に軽く動かされる。
ああ、誰かに誉められたのなんていつぶりだろうか。思わず目を閉じてその感覚に感じ入る。胸の奥にじんわりと温もりが染み渡る。やがて、その手は離れていく。顔をあげると、全てを飲み込む慈愛の眼差しがあった。
(お姉ちゃんみたい)
漠然とそう思った。
「明日も来てくれる?」
その問いかけに今度は間髪いれずに答える。
「うん。」
私の答えに、さくらはいつもの笑みを浮かべて私を見送ってくれた。
思えばここまで私の話を熱心に聞いてくれた人が今までにいただろうか。いつの間にか、この公園に来るまでの不信感は綺麗さっぱり消え去っていた。
(うぅ……)
現在五時間目、教科は国語である。ただでさえ、眠い五時間目。それに加えて国語。いつもの私なら迷わず睡眠時間に充てただろう。数学の先生と違い、国語の先生は居眠りを見て見ぬふりしてくれるタイプの先生なのだ。
しかし、昨日の別れ際のさくらの言葉が私の意識をかろうじて繋いでいた。
『明日はもっといろんな授業のこと聞かせてよ!』
我ながら彼女に絆されたなと思わざるを得ない。授業の様子を伝えたいだけなら、別に今日の授業である必要はないのだから。苦笑を漏らしつつ、先生の声に意識を戻した。
昨日よりはるかに軽い足取りで公園に向かう。ベンチの上の彼女はすぐさま私に気付き、昨日と同じように迎えてくれた。
「今日は何を話してくれるの?」
キラキラした目でこちらを見つめるさくらを可愛らしく思いながら、私はとりあえず自分の学校生活を語ることにした。
「朝の会って何か変な名前!」
「数学以外にもいろんな教科があるんだ!」
「給食って皆で一緒のもの食べるの?楽しそう!」
「掃除の時間、十五分で足りるの?」
「りおは休み時間何してる?」
さくらの反応の一つ一つが楽しくて、ついついこっちまで盛り上がって話してしまう。内容はただの学校での一日なのだが。
(今日は妹みたいだなぁ)
輝く顔と瞳を見ながらふと思った。幼い子供のように質問を繰り返し私の話を聞く様は、年の離れた妹のようだ。
「あ、もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
「……うん。」
私達がここで話してられるのは精々一時間が限度。宿題なんて滅びればいいのに。
「そんな顔しなくても、明日も会えるんだから!」
私の心情を汲み取ったのかさくらが満面の笑みで言った。
「そうだね。」
さくらの笑顔には、人の心に響く何かがあると思う。花開く瞬間のような笑み。彼女が「また会える」というなら、それは絶対のような気さえした。
いつの間にか私たちはとても仲良くなっていた。まるで、幼い時からの友人同士のように。ある時は学校の話、ある時は趣味の話、またある時は家族の話……。私はいつもさくらに何かを語って聞かせていた。話はじめてすぐに彼女は意外と聞き上手であることに気づいた。会話が途切れることがないからだ。
「ねえ、さくらってさ、私以外の人とも喋ったりするの?」
欲しいところに適度に相づちを入れてくれる。人と喋ることに慣れているとしか思えなかった。
「いきなりどうしたの?」
質問を質問で返される。
「いや、ただ気になっただけだけど……」
「そっか。それで? 調理実習、どうだったの?」
あからさまな程に話題を反らされた。それ以上突っ込んで聞くこともできず、結局その疑問は有耶無耶なまま終わった。
時折、さくらに対しての疑問がふと、芽を出すことがあった。変わらない服装。私と会ってない時間の過ごし方。住んでいる場所。
しかし、それらの疑問は口に出した途端に全て摘み取られてしまう。
彼女は“自分自身”に干渉されるのを徹底的に拒むのだ。
そのうち、私もさくらの素性に繋がる質問を控えるようになった。彼女を思いやって、と言えば聞こえはよいが、早い話が自分の為だ。
さくらは、何かを誤魔化すときですら笑顔なのだ。しかし、いつものそれとは全く違う。いつものが綻ぶ花だとするならば、後者は散りゆく花だ。咲くことを諦めたような切ない笑み。それを浮かべた彼女はひどく存在そのものが希薄に見える。
今まで目の前で喋って、動いて、笑っていたのに、次に目を開けたらこの少女は消えてしまうのではないか。それこそまさに、風に花びらが吹き飛ばされるかの如く。そんな根拠のない不安が一瞬にして胸の底に蔓延りたまらなくなるのだ。
自ら綱渡りの綱に切れ目を入れたがる物好きはいない。
最悪だ。まさか蔵書整理を押し付けられるとは。普通こういうのは長期休みの前後にやるもじゃないのか。しかし、ある意味担任より世話になっている司書の先生に頼まれては引き受けるしかなかった。まさか、たった三人とは思いもしなかったが。一時間で終わったのは奇跡としか言いようがない。図書室全てが対象ではなかったのが唯一の救いだ。まあ、新刊を一番に借りられたのでチャラということにしておこう。
早足で正門をくぐる。今日の昼降った雨のせいで、桜の花はほとんど散り、べったりと醜くアスファルトに張り付いていた。既に太陽は傾きつつある。今日はたくさん話すような時間はなさそうだ。
公園の中を伺うと彼女はいつもの定位置で笑ってくれた。
「あ、やっと来てくれた。今日は遅かったね?」
「ごめん、ちょっと委員会の仕事が長引いちゃって。」
私が図書委員であることは、少し前に話したことがあったからさくらはすぐに納得してくれた。
「いやいや、来てくれて嬉しいよ。ところでそれは?」
彼女に指摘されて、私は初めて借りた本を手に握りしめたままここまで来ていたことを自覚した。
「ああ、仕事の戦利品だよ。」
ちょっとおどけてそう言うと、彼女は声をたてて笑った。
「あははっ、もしかしてこの前言ってた作品の続編?」
「いや、同じ作者の新作。短編集書くの珍しいから借りてきた。」
さくらは二度頷くと、こんなことを提案してきた。
「ねえ、りおが読み聞かせしてよ!」
「へ?」
いやいやいや。読み聞かせとかやったことないんですけど。私の混乱を察したのか、
「りおの声、すっごく好きだから、さ。ね、ダメ?」
……わざとやってるのか、全く。そんな顔されたら、断ったこちらが悪者みたいになるだろう。妹を甘やかす姉のような気分だ。
「……はあ。下手でも文句言わないでよ?」
了承してやった途端いつも顔に戻ったところをみるにおそらく確信犯だな、これは。
「嗚呼、この初めての恋心。大人になった私が思わず羨ましがるものにしよう……」
興味津々といった顔でこちらを見つめるさくらをできるだけ視界に入れないように、文字列に意識を集中させた。
楽しい場面で目元を緩め、悲しい場面で小さく口を歪ませる。最初文字列に集中させた意識は、今ではほとんどさくらに向いていた。なんというか、読み聞かせ甲斐がある。思ってたよりもありかもしれない、これ。
「ーーもしもやり直せるなら、なんて言葉に意味などないことくらい分かっていたのに。」
恋愛ものだった。基本的に恋愛小説は好まないが、なかなかに面白い。私はハッとして、途中から再び意識の外にやっていたさくらを見やる。
「………」
彼女の瞼は降りていた。
「……さくら?」
頬に触れる。……冷たい。
「さくらってば!」
思わず声が大きくなる。だって無理もないじゃないか。今まで話の途中で寝ることなんてなかった。こんなの、まるで……
「……ぅん……?」
彼女が小さく身じろぎする。億劫そうに瞼が持ち上げられた。
「良かった……! 生きてて……」
たまらず抱きついた。もう二度と目を開けてくれないような気さえしたのだ。
「ちょっと眠くなっちゃっただけだよ。大袈裟だなぁ。」
さくらは、呆れたようにケラケラと笑いながらも私の手を振り払うことはなかった。ゆっくりと背中にまわされた腕の温度を感じながら、私達はしばらくの間互いを抱きしめあっていた。
「……そろそろ落ち着いた?」
「うん、ごめん、取り乱しちゃって。」
気恥ずかしくなり、目も合わせず立ち上がる。そろそろ帰る時間だ。
「あ、りお!」
公園を出ようとしたとき、珍しく彼女に呼び止められた。
「何?」
彼女の方に向き直る。するとさくらは、
「また明日!」
いつにない、晴れやかな笑顔でそう告げた。
ーーこれは、彼女に出合ってから八日目のこと。
次の日。念のため昨日読んだ本を持って公園に行った。いつも通りにさくらはそこにいた。小さな柵をかわし公園に入る。……あれ? いつもはこの辺で声をかけてくれるのに。彼女は虚空を見つめたままこちらに気づく気配すらない。公園を通り抜けベンチに近づく間もさくらは一向に反応しなかった。
彼女の表情がはっきり見えるところまで来た。ここまで近づいてもさくらの視線は宙に浮いたままである。
「……さくら?」
声をかけた途端、肩が跳ね、その瞳が僅かに揺れる。やがてその瞳がこちらに向けられた。
「りお、か。大丈夫、ちょっとぼーとしてただけ。」
「……そっか。」
深く詮索してはいけない気がした。何も言わずに彼女の横に腰を下ろす。その刹那、聞こえた安堵のため息は聞こえないふりをした。
「……」
「……」
沈黙が、場を支配する。出合ってから初めてかもしれない。こんなに気まずい沈黙は。しかし、いつだってそれを破るのは彼女だ。
「……今日はどうだった?学校。」
「今日?……特には。理科が新しい単元に入ったことくらい。」
「……そっか」
会話はそこで途切れた。二人とも何も言わなかった。いや、さくらはともかく、私は何も言えなかった。先ほどから胸騒ぎが止まらない。何かがおかしい。
「あたしさぁ、」
こちらを一切見ないでさくらが口を開く。
「もう死ぬんだ。」
綱がズタズタに裂ける音が確かに聞こえた。
「……は……?」
自分の心が落下していくのが分かる。絞り出すようなうめき声が漏れた。
「ずっと前から心臓の病気でね。ちょうど余命が二週間をきったときに退院したんだ。あんな白い箱のなかで死ぬなんてゴメンだし。」
意味が分からない。分かりたくない。
でも、学校に行ったことがない。変わらぬ白い服装。健康とは言えない低体温。そして、昨日の弱りきった様子。証拠は揃っている。
それになにより……さくらが嘘をつく理由なんてどこにもない。
こちらを見ないままさくらは続ける。
「退院したはいいものの、することもなくて散歩してるうちにこの公園にたどり着いたんだ。まるで時間が止まってるみたいじゃない? ここ。」
そこで一度言葉をきり、一瞬だけ私に流し目をよこした。
「ーーあたしの時間も止まってくれる気がしたんだ。」
バカだよね、ホント。そう言って彼女は笑った。こんな時ですら彼女は笑う。悲痛に歪んだ瞳のまま。苦しみを堪える眉尻のまま。
その笑みに、私の中の何かがきれた。
「……なんで笑うの。」
「え?」
「なんでそんな辛そうな顔して笑ってんだよ!」
半ば叫びながらさくらにつかみかかって身体ごとこちらを向かせる。自分が何を言いたいのかもよく分からない。誰かにここまで怒鳴るなんて初めてだ。でも、言わなきゃ伝わらない。彼女の目が戸惑いに見開かれる。初めて見せる表情だ。
「辛いなら辛いって、苦しいなら苦しいって言え!」
思いの丈を吐き出した私は、自分より一回りも二回りも小さい手を握りしめたまま、彼女の前に崩れ落ちた。
「……ごめんね。」
「でも、辛くも苦しくもないんだ。ホントだよ。」
「さくら……っ」
その言葉を条件反射のように否定しようと顔をあげようとしたそのとき。
「だけどね、とっても、とっても寂しいなぁ」
私の手を雫が伝っていく。
弾かれたように顔をあげると、寂しさを溢れさせているさくらの目とあった。「もっとたくさんお話したかったなぁっ……」
悲鳴のような声を聞くが早いか、私は彼女にすがり付いた。先ほどまでの憤怒が泡のように消えていく。
「ねえ、どうにかならないの?本当にどうしようもないの?」
まるで聞き分けのない子供だ。でもそれでもいい。あるかもしれないじゃないか。日本の医療技術はそれほど捨てたものじゃないはずだ。
「ごめんね。自分の身体のことは自分がよく分かるから。」
それは、遠回しの否だった。宥めるように頭に手を置かれた途端、堰がきれたように涙がこぼれ落ちる。
「ああああ、ぁああ……っ」
私はしばらくの間そこから動けなかった。
「……ねえ、さくらの家に行ってもいい?」
散々泣き叫び落ち着いた頃に、私はこう尋ねた。さくらの胸に顔を埋めているせいで声はくぐもっていた。
「……」
さくらはしばらく答えなかった。何を迷っているのだろう。
「……わかった。でも、今日は遅いから明日案内してあげるよ。」
私は顔をあげ、噛みつくように念をおした。
「絶対約束だよ?」
「うん、絶対約束。」
「死なないでよね?」
敢えて明るい口調で挑発する。
「もちろん。」
つられたさくらがおどけて返してくれたことで、私の心は漸く平常心を取り戻しつつあった。
帰り道。さくらの死を突きつけられ、確かに心は消耗している。でも、私は確かに感じていた。初めて出会ったときに覚えたわだかまりが心の底に広がっていくのを。
ーー九日目はこうして終わった。
朝登校するときに、思わず公園を確認してしまうのは最早癖みたいなものだが、今日もそれは例外ではなかった。でもその日の公園はいつもと少し雰囲気が違った。
立ち入り禁止のコーンで囲まれたベンチ後ろの木。その横に止まっている小型のクレーン車。
ああ、あの木を伐るのか。私が帰る時間くらいには終わってくれてるといいなぁ。さくらは何故か、私といるときは頑なに公園から出たがらないから。そんなことを考えながら公園前を通りすぎる。するとそのとき、ふと名前が呼ばれた気がして振りかえる。
しかし、そこにはいつもの道路が延びているだけだった。
メインバックに教科書類をまとめて突っ込む。今日はさくらの家に行くんだから急いで帰らないと。総務が号令をかける。礼を終えるが早いか私はバックを背負って友人への挨拶をさっさと済ませるべくそちらへ向かった。
ああ、なんで私はあの会話を耳にしてしまったのだろう。
「そういや、知ってた?鈴原公園に木あるじゃん?あれって桜の木らしいよ。」 へえ、そうだったのか。にしては花が咲いたとこなんて見たことがない。
「え、マジで?花咲いたことあったか?てか、なんでいきなりその話?」
「いや、だってさ、今日あの木伐採されたじゃん。」
心臓がどくりと跳ねる。何故だ?彼女達は別におかしな事は言っていない。
「伐採?なんでまた。」
「さあ。でもあの桜の木ってずっと前から
病気だったらしいよ。」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が全身をはしった。目の前が暗くなり呼吸が浅くなる。
確かな根拠なんて何もない。単なる偶然かもしれない。でも、どこか人間離れした彼女が本当に人間じゃなかったとしたら?あの木自体が彼女だったとするならば?
教室を飛び出し廊下を駆け抜ける。途中、先生に注意された気がしたけれど今はそれどころじゃない。
心臓が早鐘のように打つ。酸素の足りない脳裏によぎったのは、さくらと出会った日の会話。
『君だぁれ?』
『……里桜。花陵、里桜。』
『そっか。ここにはよく来るの?』
『だよね。そっか、りおっていうんだ。』
あのときさくらは『だよね』と言った。私があの公園に寄り道していることは親ですら知らない。『だよね』だなんて言えるはずがないのだ。
そして、それを知っているのはあの公園だけ。
そうやって考えてみると、名前を聞かれたときの彼女の反応にも合点がいく。
『“なんで、そんな分かりきったことを聞くんだ”と言わんばかりの表情。』
だってさすがにいないだろう。“桜”を知らない人なんて。
でも彼女はすぐに自分のミスに気づいた。だから、『忘れちゃった。』なんて言ったんだ。
表情と言葉の明らかな矛盾。ああ、なんで気づかなかったんだ。
さくらは公園から出たくなかったんじゃない。
出れなかったんだ。
そもそも彼女が家に帰っている証拠なんて何もないじゃないか。
走馬灯のようにさくらへの違和感が頭を流れていく。本当におかしなことだらけだったのに。
もうすぐ曲がり角。私は曲がるなりもつれ込むようにして公園に飛び込んだ。
「っはぁ……はぁ………あ、ああ、あぁあぁ……」
すでに工事は終わり、公園には静寂が漂っていた。いつもと変わらぬ雰囲気。けれど、今の私にとっては絶望でしかない。
もうそこに桜の木はなかった。
気力を振り絞り立ち上がる。膝が生まれたての小鹿のように震える。私は半ば這うようにして、切り株となった木に近づいた。
ベンチの裏側にポツリと残るその切り株の前に跪いた。地面に斑模様ができ始める。
恐る恐る年輪に手を添えた刹那、私は全てを諒解した。流れ込んできたのは"桜"の記憶。
花見に来る人達の笑顔。
公園で遊ぶ子供達。
病気になったときの恐怖。
花をつけられないもどかしさ。
伐られることを知った時の絶望。
キラキラ輝いている記憶もあれば、暗く濁った記憶もあった。そのすべてを受け止めるかのように私は切り株に抱きつく。
声も聞こえない。抱き返されることもない。
だけど。皮膚を隔てて伝わってくるその温度だけは、それだけは間違いなくさくらのものだった。
どれくらいそうしていただろう。ふと視線を動かすと視界に薄紅色が映った。顔をあげ、“それ”を見る。
“それ”は美しい一輪の桜の花だった。
なんで。どうしてこんなとこに。他の桜の木のものではない。先日の雨で全て散ってしまっているはずだから。ってことは。これって、まさか。
混乱のまま、そっと花を掬い上げる。その時、心に流し込まれるように、絹のように滑らかな声が聞こえた。
『うん、絶対約束。』
思わずその花を凝視する。瑞々しく咲き誇る花。それはもう、蕾の綻びが想像出来るほどに。
彼女は約束を果たしてくれたのだ。
“自分の家に案内する”という最後の約束を。
「っ……りち、ぎなやつ、だなぁ……」
涙痕が枯れる気配は、まだない。
幻日の春
いかがでしたでしょうか。ご意見、ご感想などいただけると嬉しいです。