礼子へⅡ

 もう少し脱出が遅れていたら…。牧野圭一は、今だに夢を見る事がある。突如始まった戦争、ローカル空港での三日間の足止め、焦燥感、不安、焦り、望郷。駅の改札で見た目を泣き腫らした妻の礼子。ニュースで流れた人間の盾、燃え上がる油井。しかし自身の関わったプラントも気に掛かる。まるで遠い異国へ親友を置去りにしてきたかのように。


四月六日
 三分咲きの桜は、あの時から三つの季節が巡り来た事を告げ、テレビのニュースは、イラクが国連安保理の停戦勧告を受諾した事を告げていた。

 
月曜日
 まだ春とは名ばかりのその日、圭一のデスクに一枚のポストイットが貼られていた。「九:〇〇、第二ミーティングルームへ」
その部屋にいたのは、当時の所長の坂口誠と三浦祐二、相田義之、藤田道彦、そして牧野圭一。この面子(メンツ)は、昨年命からがらイラクから帰国した面子だ。
「ニュースは見たと思う。プラントへ帰る」
 この一言でミーティングは始まった。喜びと恐れと懐かしさの入り交じった感情が全員を支配する。机の上に付箋紙を付けたドイツの雑誌デア・シュピーゲルが広げられる。見覚えのある風景、あのプラントだった。
「偶然、載っているのを見つけた。外観は損傷なく見える。近くで戦闘のあった様子はない」
 牧野の脳裏に浮かぶのは、彼自身が初めてコンセプトメイクの段階から関わったプラントの原料前処理部のシステムだった。
「出発時期は三ヶ月以内、最初はサウジ(サウジアラビア)で様子見をして、それからプラントに乗り込む」
 砂混じりの乾いた熱風、皮膚を焼く太陽、トマトで煮た豆と平べったいパンの味がよみがえる。
「無理にとは言わん、行きたくない者は言ってくれ。答えは今週中に頼む」
 散会した彼らは、それぞれのフロアへ足を向けた。
「牧野。お前はいいよな、マスオさんだもんな。俺なんかまた嫁さんを実家まで送ってかなきゃ」
「チョンガー(独身)の藤田が一番だろ」
「牧野さん、ひでぇ言い方っすね。誰か紹介して下さいよ」

 自分のデスクに戻った圭一は、コンピューターにファイルを呼び出す。
"plant_check_anne"、再稼働のためのプラントチェックの下案。赤毛のアンになぞらえ、ローマ字入力の"ann"ではなく、最後に"e"を付けたファイル。帰国してから仕事の合間を見つけては、コツコツと作ってきた。夢見がちな少女のようにプラントを思い出すが、帰国した夜の妻の震える肩の感触がキーボードを叩く手によみがえる。

 その日は定時で退社した。自分たちのプラント、自分のシステム。心の半分は戻る事を渇望し、残りの半分は妻と二人の子供で埋まる。ビルの間を砂混じりの乾いた熱風と妻の洗い髪の香りが同時に吹き抜けていった気がした。
自宅へ戻る足取りも軽いとは言い難い、いつもは賑やかな義父母や義姉妹達との夕餉も味を感じない。テレビのニュース、燃え残る戦闘車両、プラントは無事だろうか。行きたくないと言えば、メンバーから外してもらえるだろう。でも、その後どうする。事務屋として埋もれていくのか、どこかの管理部門か。いずれにしても望む未来ではない。落伍者…そんな言葉が脳裏を駆け巡る。技術屋、不意に記憶がよみがえった様に浮かぶ言葉。技術屋、自分の望む名前かも知れない。

 圭一は布団に転がり、天井を見るともなく見る。落伍者、敗残兵、落ちこぼれ、そんな言葉ばかりが脳裏に浮かぶ。
「圭一さん、難しい顔してる」
 礼子の手を引き腕枕に抱える。
「んっ、もうぅ。子供達寝たばっかりよ」
 長女茜の出産前に長かった髪を切っていたが、その髪の手触りは、十三年前の花火の夜、ガールフレンドから恋人への夜、その時から変わらない。産院の病室で見た長い髪を切った姿。逆光の中に神々しい程に輝く微笑み。“切っちゃった。変じゃない?"そんな言葉がよみがえる。さらさらと砂時計の砂が落ちる様に、すくい上げた髪が指先からこぼれる。触れ合う頬のぬくもり、足先の冷たさ。愛しい妻、可愛い子供達、これ以上何を望む。妻の寝間着の襟元に右手を差し込む。柔らかさを包み込む手に伝わるぬくもり、触れ合う唇、悦び、お前はこれ以上何を望む。プラント、システム、砂混じりの乾いた熱い風、異国へ置去りにした親友、渇望。
堂々巡りの中、やがて意識は闇の中に落ちていった。


火曜日
 朝食にも言葉は少なかった。言い出せない言葉が喉に詰まって声が出ない。でも言いたい言葉は何だろう。伝えるべき言葉を探していた。
「行ってきます」
 軽く触れる唇。日本にいる間のセレモニー。
「弥生、まだ居るわよ」
「もう大人だし、大丈夫だろ」
 いつか見られた事があった。"何にも見てないから、ホントに…”そう言って玄関から走り去った事を思い出す。もう何年前だろう。
「ったく、朝っぱらから見つめ合って、な~にやってるンだか、このバカップルは」
「もぅ~、遅刻するわよ、弥生」
「はいはい、行ってきまーす」
「圭一さんも遅れるわよ」
「うん、行ってきます」

 電車の中からぼんやりと風景を眺める。あの日、成田から本社へ向かうバスの中で見た景色がオーバーラップする。緑の木々、ビル、電車、そして改札口の礼子。日本語のざわめき、直接飲める水道の水、熱い風呂、妻の手料理。しかし心の中は、砂混じりの熱風、トマトと豆の味、足止めを喰ったローカル空港での焦燥感が満ちる。
 ルーチンワーク、まるで事務屋に成り下がった様に紙を右から左へ動かすだけに感じる仕事。コーヒーカップに触れた時、太陽に焼かれた鉄の熱さを思い出す。熱で歪み出す鉄材、ボルトすら熱で伸びる。日本と現場の国際電話“そんなはずはない!"“文句が有るなら見てから言え!"そんな会話が延々と続く。知識と知恵のアウフヘーベン、所長の言葉を思い出す。

 機械的に業務をこなすが、心の中は荒涼としていた。望む未来、妻と子供達との暮らし、自分の心を殺せばいい。その他大勢の事務屋の一人として会社の中に埋没さえすれば手に入る。愛しい妻と可愛い子供達、一人の男として十分なものは手にしている、これ以上何を望む。コーヒーを一口飲む。太陽に炙られて熱くなったペットボトルの水を思い出す。幸福、家族にしてやれる事は何か。金銭。簡単だ、技術屋の看板を下ろせばいい。ただの事務屋として平々凡々と暮らせばいい。豊かではなくとも、ひもじい思いをさせずに済むだろう。

 ビルのガラスがオレンジ色に輝き、夕暮れである事を示すが、太陽の位置すら分からない。
夕暮れ、朗々と響くカーリウ(コーランの朗誦)の声、慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において……。街に願いは有っても祈りは無い。
日没、灯りのない砂漠ではプラネタリウムの様に星は輝く。ここでは月がやっと見えるだけ。

 駅を出て家路に向かう足が止まった。古びたビルの地下、老マスターが一人で切り盛りするバー。久しぶりにと足を向ける。
「ラフロイグのクォーターカスク、ショットで下さい」
 ショットグラスに満たされた液体、日の出直前の空を思わせる赤みがかった液体。口にすると煙とヨードの香りが広がり、耐熱塗料の焦げる匂いを思い出す。プラントに火が入る、地鳴りの様に稼働する音、喝采、歓喜。
フェダイーン(戦士)、不意に浮かぶ言葉。情熱と技術と知恵と意地、そして技術屋の看板。
 微細な砂が、どこにでも入り込む。砂除けのためビニールシートをガムテープで貼付け、テント状にする。中の気温がたちまち七十度に迫る。岩塩を口に入れ、熱くなったペットボトルの水を飲みながらの作業。人いきれで湿度が上がり、砂漠なのに汗が出る。水分を失った尿の色は赤黒く変わる。目に入った汗の刺す様な痛み。フェダイーン、首筋を砂混じりの熱い風が吹き抜けた。
「マスター、ごちそうさま」
 カウンターの上にほとんど手の付けられないグラスを残し、足早に家に向かった。
「ただいま」
「おかえりなさい。お風呂わいてるわよ、お父さんも済ませちゃったし」
 部屋でスーツを脱ぐ、フェダイーンの鎧。スウェットに着替え風呂に向かう。
 夕食を済ませ、テレビのニュースを見る。荒涼とした砂漠に点々と戦場の跡が広がる。あのプラントを映せ、心の中で叫ぶ。
 圭一は部屋に戻り、布団に転がる。礼子に伝えたい言葉が見つかった。
「子供達、寝ちゃった」
 礼子を左腕で腕枕にし、右手を腰に回す。
「また出張してくる」
「また京都? この時期、桜きれいだろうね」
 二人だけで初めて暮らした滋賀・京都、二人とも親元からの結婚だった。だから余計に二人だけの時間は、何もかも目新しく、何もかもが輝いていた。
「大津京の漬物屋さんのおばあちゃん、元気かな…すぐきも千枚漬けも美味しかったし」
 伝えるべき言葉、伝えるべき想い、両腕に力が入る。
「もう一度…砂漠へ行ってくる」
「……」
 腕の中でビクッと礼子の身体が震えた。
「戦争も終わった。もう安全だ。だから…」
「何かあったらどうするの…」
「何かあっても生命保険もしっかり入るし…」
 圭一を突き放す様に離れ、身体を起こす。
「保険? なんで! そんなもん、要らない!」
「礼子?」
 礼子の両手が圭一の寝間着の襟元を掴み、激しく揺さぶる。
「どうして? 必ず帰って来るって言って! 何で言ってくれないのよ! 約束してよ! 絶対帰って来るって!」
「礼子…」
 初めて見る姿、夜叉の様に髪を振り乱し叫ぶ姿。大店(おおだな)の少しおっとりとした次女、礼子の姿はなかった。
「いやぁっ! ねえっ! 約束してよ…お願いだから…絶対帰って来るって…言ってよ……」
 圭一は、しゃくり上げる礼子を抱きしめ続けるしか術を知らなかった。
 いつの間にか眠っていた礼子を布団に横たえ、枕を当てる。身体を離そうとすると寝間着の裾が握られていた。どれほど心配を掛けたのだろう、辛い思いをさせたのだろう。フェダイーンなんて言葉を思い出さなければ、そうすれば、こんな想いをさせなくて済んだのかも知れない。愛しい妻、可愛い子供達、これ以上何を望む。カーリウの響き、日が昇る方にある祖国、妻の居る地を何回夢に見たろう。夢の中の妻との交わりに下着を汚してしまった事もあった。
 礼子の横に転がり布団をかぶる。何時しかウトウトとしたが、尿意で目が覚める。まだ掴まれたままの寝間着からゆっくりと指をはがし、トイレに向かう。
用を済ませ手を洗った時、ふと見た鏡に映った影が“フェダイーン? 何様のつもりだ?”とあざ笑った。
部屋に戻ると礼子は目を覚ましていた。腕枕に頭を抱える。
「帰ってきてくれる?」
「絶対」
「ほんとに?」
「礼子に逢いに帰って来る」
「約束してくれる?」
 寝間着の帯が解けた。


水曜日
 少し腫れぼったい目の礼子とセレモニーを交わし出社する。会社に着くや、すぐにファイルを呼び出す。"plant_check_anne"、表紙の文字を日本語に打ち変える。「プラント再稼働のための前処理部事前点検要領及び同試験要領(案)」と。プリントアウトを持ち、フロアを足早に出た。

「坂口所長、連れて行って下さい。」
「嫁さんは口説けたか?」
「大丈夫です」
「よし、早速だが再稼働のための…」
 プリントアウトを机の上に乗せる。
「叩き台です。他のセクションとの摺り合わせをしていませんので、その部分はこれからですが、単体ではそれなりの精度と思ってます」
「手回しがいいな。よし分かった、見せて貰おう」
 坂口の顔に笑みが浮かぶ、これで全員が揃った。藤田と牧野以外は翌日に申し出て来た。もっとも藤田は、月曜日の夕方に坂口のもとを尋ね“思い残す事がない程メシ喰わせて貰ったら付いていきます”と言って、回転寿司を三十五皿喰った。
「それから、金曜日に有休を頂いてもいいですか」
「ン?、なんだ女房孝行か? ケチな事を言わんで、今週分全部すまして二日取れ。しばらくは休めんぞ」
 インシャラー(アッラーの御心のままに)。アッラーの御心が有れば何とかなると、多少の作業の荒さは目を瞑り、二日分のルーチンをこなす。二日間の有給だ。アッラーアクバル(アッラーは偉大なり)!

 定時を少し過ぎ、週内のルーチンを片付け終わって退社する。電車は、ビル街を抜け、いくつもの屋根が並ぶ、緑の木々が窓の外を流れる。

 足取りも軽く家に戻る。風呂から上がると義父が一杯やっていた。
「圭一君、一杯どうだ」
「ご相伴にあずかります」
 一杯、二杯と杯が交わされる。不意に義父が口を開く。
「圭一君…また行くのか」
「はい、行ってきます。ご迷惑をおかけすると思いますが…」
「娘や孫を迷惑だなんて思った事は一度もない!」
「……」
「あの時、礼子は泣いていたんだ。娘が声を殺して泣くのを…見たい親がどこにいる?」
 あの戦争の始まった日から仏間で手を合わせ続け、陰膳を据えてくれた事を知った。やっとたどり着いたパリからの電話の後、受話器を抱きしめ、泣き続けた事を知った。泣きながら康隆に乳を含まていた事を知った。妻の思いを知った。
 五本目の徳利が空く頃、どちらからともなく席を立ち、お開きとなった。

 部屋に戻り、引き出しから金色の箱、エジプト煙草のクレオパトラを出す。現地にいた時、たまに口にするだけ。日本に帰ってきてからは宴席で一本付ける程度だが、今夜は無性に吸いたくなった。仏壇のマッチを拝借し、火を付ける。湿度で巻紙に少しシミが浮かんでいた。日本の煙草に比べ、辛く苦い味が広がる。縁側に腰掛け、まだ少し寒い春の風に流れる紫煙を見つめた。
「珍しいわね」
 礼子が圭一の隣に座る。
「礼子、明日とあさって有給取ったんだ。どっか出かけないか」
「うん。子供達の夏物でも見に行っちゃおうかな」
 月明かりの下、唇が触れた。


某月某日
 その日の成田空港は晴れて、気の早い入道雲が遠くの山から顔をのぞかせる。梅雨の湿り気を失った空気は、初夏の匂いを僅かに漂わせていた。出国ロビーの隅の公衆電話。テレホンカードを取り出し、プッシュボタンを押す。一六歳の頃から何千回も押した番号。
「はい佐久間でござい…」
「礼子?」
「圭一さん? どうしたの?」
「これから飛行機に乗る、それで…声が聞きたくなって…」
「気を付けて行ってきて下さい」
「行ってきます」
ビーッ
 テレホンカードの最後の度数を示す警告音が受話器に伝わる。
「子供達は?」
「ごめんなさい、お昼寝中」
「そっか、礼子……じゃあ、必ず帰るから」
ツーツーツーツー。
 度数のなくなったテレホンカードをゴミ箱に入れ、ゲートへと足を向けた。

礼子へⅡ

礼子へⅡ

想い

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-30

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