連載 『風の街エレジー』 15、16、17

15 「根瘤」

 
 風に乗って、遠くからパトカーのサイレンが聞こえて来る。
 この街でその音を聞くのは珍しい事ではない。しかしサイレンはどこへも走り行き消え去る事なく、気が付けば銀一達の足元へと近付いて来た。坂の上の高台に建つ、西荻家の麓へだ。一台、二台、三台…。
「…なんじゃあ?」
 振り返って銀一が坂下を見下ろす。もちろん暗がりしか見えない。
「ここへ来る時留ちゃんに警察へ電話せえて、俺が言うたんよ。しかし遅かったな、忘れてたわ」
 春雄がそう答えるも、
「何台呼んどんやお前」
 という竜雄の言葉に、
「パトカー呼んだわけやないんやけど」
 と春雄も首を傾げた。
「とりあえず降りよか。こんなとこでこれ以上騒ぎよったらマジであのおばあはんに警察呼ばれるわ」
 和明の言葉はもっともだった。銀一達は頷いて西荻の敷地を出る。
 坂道を下り始めて一分も経たない内だった。
「え、待ってぇ」
 と和明が言い、「ウソやろ」と続ける。
「何じゃ」
 立ち止まって銀一が言うや否や、ジャリジャリジャリと砂埃を巻き上げながら、狭い坂道を一台の車が駆け上がって来るのが見えた。本来車の往来が可能な道ではない。不可能ではないが車同士すれ違える幅が無い上、あくまでこの道は西荻所有の私道であり、許可されていない筈なのである。車が突如けたたましいサイレンを響かせた。パトカーが麓から駆け上がってきたのだ。
「絶対成瀬や」
 確信のある顔で春雄は良い、口角を上げた。
「面白そうなジジイやんか、はよ会いたいわ」
 竜雄がそう言って迫りくるパトカーを睨みつけると、
「血の雨が降るどー」
 と和明が冷やかした。
 銀一は苦笑を浮かべてパトカーを見据える。
 どうやら門扉の前まで登って来るようだ。帰りはどないして帰るんやろ、と誰もがそんな呑気な事を考えていた。
 しかし、事態は誰の予想を遥かに上回るスピードで疾走していたのだ。



 パトカーから降りた成瀬は顔を真っ赤にして叫んでいた。しかし、何一つ聞き取れなかった。
 成瀬は銀一の前まで来ると、両腕で銀一の胸をどんと叩いた。さしもの銀一もその勢いによろめき、目を丸くした。
 だがしかし攻撃的な印象を、成瀬からは全く感じられなかった。その為他の三人も驚いた顔を浮かべたまま成り行きを見守る他なく、身動き一つしなかった。
 成瀬は泣いていた。泣いて、咽び、吠え、そして銀一の胸を叩く。まるで狒々のような赤ら顔だな、と銀一は思った。
 鼻水をたらしながら成瀬は銀一を睨みつけ、電話越しに聞いた時と同じく力の籠った低音でこう言った。
「一体お前らは、何を相手にしよるんじゃ」
「ああ?」
「榮倉を返せ!」
「えいく…、榮倉?」
 銀一はそう聞き返した後、春雄を見やった。
 春雄は、光量の乏しい坂道の途中、パトカーの照らすヘッドライトの中で震えているように見えた。春雄は青ざめた顔で成瀬に一歩近寄り、
「おい、なんじゃ成瀬。榮倉さんが、どないしたって?」
 と聞いた。
「春雄か…。お前、お前という奴は…」
「榮倉さんがどないした!」
「…死んだわいや」
 その場に居合わせた、成瀬以外全員の呼吸が止まった。
「西荻平助の入院しよる病院の屋上で、看護婦が洗濯物欲しよる物干し竿に体ぁ貫かれて死んどりやがったわ。どないなっとんじゃ! おお!? 物干し竿がお前、コンクリートの地べたに突き刺さりよったんぞ!身動き一つとれんような状態で、目見開て榮倉は死によったんぞ!! お前らぁ! 何を相手にしよんじゃあ!! 知ってる事全部ワシに吐け!!」
 成瀬からその話を聞いた時初めて、銀一達は圧倒される程の恐怖を覚えたという。
 何度も言うようだが赤江という土地はもともとの治安が悪く、犯罪の発生率も他所より高い。悪意も悪事も身近なすぐそこにあり、実際銀一達若い世代も決して清廉潔白な身とは言えなかった。しかし喧嘩や刃傷沙汰など日常茶飯事の街に生きて来た彼らであっても、決して人の死に麻痺する事はなかった。学ぶべき教訓があり、現実の厳しさがあり、貧しさに対する怒りがあり、弱さからくる逃避であったり、一瞬の気の迷いであったりと、残されて生きるこちら側の心に響く命の重さを感じる事が出来たからだ。
 しかし今、成瀬から聞く榮倉の死には、そういった感じ取るべき意味と理由が一切なかったのだ。哀愁や虚しさとは違う意味での空虚とか虚無とか、そういうったものに準ずる薄暗い恐怖だけがあった。
 なんで死んだ? なんでそんな無残な殺され方をした? ついこないまで、成瀬の隣におったじゃないか。
 春雄が音を立てて両膝をついた。倒れ込むのではないかと、和明が側にしゃがみこんで春雄の肩を掴んだ。
「いつや」
 と銀一が聞いた。
「発見したのはついさっきじゃ。お前との電話が終わった瞬間、院内の巡回に回しとった部下が飛んできよった。屋上の方からなんか声がしよる、誰か人がおるんじゃないかと聞いて見に行きよったら、変わり果てた榮倉を見つけた」
「行方が分からんなっとたんか?」
 と銀一。
「ずっと一緒におったわいや。いつの間にかおらんようなって、おらんなった事を不審がる間もなく逝きよった」
 その時不意に、
「…一体、何人死によんや」
 と、そう呟いたのは竜雄だった。それは明らかに一連の事件を関連付けて考える者しか発しない言葉であり、もちろん成瀬がそれを聞き洩らすはずがなかった。
「貴様、何か知っとるな。署に来いや、全部吐くまで二度と家には帰らせんぞ」
 そんな成瀬の無茶な言いようを、側でやんわりと抑え込む榮倉はもういない。成瀬本人がその事を一番自覚しており、言った瞬間涙を堪えて自分の拳を目一杯噛んだ。



 翌日、和明の職場である魚港に銀一達の姿があった。成瀬はいるが、春雄はいない。
 春雄は東京へ戻る予定を伸ばそうと申し出たが、銀一がそれを押しとどめて帰るように促した。春雄の気持ちを思えば、黙って東京へ戻る事がいかに苦しい事なのか、それは銀一にも分かっていた。しかし被差別部落出身の若い労働者がよその土地で希望通りの職に就く事の難しさも想像に難くはないし、何より、ここ数日で距離の縮まった榮倉を突如失った心の傷を、一旦忘れる事も重要だろうと銀一は思ったのだ。簡単に忘れる事は無理かもしれない。しかし普段通りの仕事へ戻り、疲労困憊になるまで体を動かせば気もまぎれるだろうし、ましてや恋人である響子を預かる身としても、おいそれと仕事を失うわけにはいかない筈なのだ。もちろん銀一は皆まで言わなかったが、彼の言わんとしている事は春雄にも伝わっていた。
 ここぞと言う時、銀一は多くを語らない。しかしそこに強く深い絆からくる一途な思いが存在する事は、幼馴染である春雄には目を見ただけで理解出来るのだ。
 繁華街まで歩いて見送りに出た銀一達に対し、春雄と共に東京へ帰る響子は何か思う所のある複雑な顔をしていたが、何も聞かずに微笑んで頭を下げた。
「すまんかったな、こんな事になってもうて。つまらん休暇にしてしもうた。堪忍な」
 と銀一が言うと、響子は今にも泣きそうな笑顔を横に振って、大丈夫ですと答えた。
 そして最後に、
「友穂姉さん、元気ですから」
 と言った。
 思わぬ場面で久しぶりに聞いたその名前に、銀一は面食らうと同時に照れて笑った。
「何よりじゃ」
 と銀一が答えると、響子は頷いてもう一度深く頭を下げた。
 竜雄も和明も微笑み返しはしたものの、うまく言葉が出てこない様子だった。
 丸顔で、愛想が良くて心の優しい、しっかり者の響子。この娘の兄がもしかすると、連続殺人に加担しているかもしれず、さらに言えば犯人そのものかもしれないのだ。そう思うと、竜雄も和明も本来の無邪気な一歩を、子供の頃から知っているはずの響子に対して踏み出す事が出来なかった。両脇を抱えて持ち上げ、子ども扱いしないで下さいと笑う掛け合いを、これまで何度も繰り返してきた筈なのに。その事が竜雄にも和明にも辛く、ただ微笑みを浮かべる事しか出来なかったのだ。
「気をつけろよ。何かあったらすぐ言え」
 そう春雄は言い残し、響子とともに東京へと帰って行った。
 その足で、銀一達は和明の職場である港へ向かった。既に成瀬が来ていた。パトカーも部下の姿もなく、一人だった。
「あんま一人で出歩かん方がええよ」
 成瀬を見つけるなり、和明が声を掛けた。冗談には聞こえない口調だった。
 ポケットに手を入れたまま歩いて現れた銀一達の姿に気が付くと、
「やるならやれや。こっちから探す手間が省けよろうが」
 と顔色一つ変えずに成瀬は答えた。成瀬のそんな力強い言葉とそれを口に出来る精神力に、銀一達はもはや尊敬すら覚えた。
 榮倉が殺されて、丸一日も経っていないのだ。刑事とはかくもタフな人間なのだろうか。それともこの成瀬という老刑事が特殊なのだろうか。
「臭いのお」
 と成瀬が漁港を見渡し、馬鹿にして言った。
「そう言うなや。おじいもお魚食いよるだろうが」
 和明が眉をへの字にして言うと、
「ワシは肉しか食わん」
 と成瀬は答えた。
「お、ありがとう」
 と銀一が言うと、成瀬は「じゃかあしい」と怒って銀一の脛を蹴り上げた。
 じゃれ合うような三人の姿に、竜雄はにっこりと笑って頷いた。
 正午を回った港に人の気配はなかった。夜のうちから沖に出ていた船は既にこの時間全船戻って来ており、後片付けを終えた最後の漁師と先程すれ違った。五十代くらいのその男と和明は顔なじみで、すれ違う時に嫌そうな顔を浮かべて、
「あいつ、刑事じゃろ」
 と成瀬を見ずに聞いて来た。
「そう」
 と和明が頷くと、男は舌打ちして顔を見られぬよう足早に立ち去った。この時間まで船に残って清掃や片付けをしている人間は珍しくもないが、何か他に理由があったのかと勘繰りたくなる表情だった。
 午前中なら水揚げされた魚が並ぶ広場は、選別や出荷作業も終わり綺麗さっぱり片づけられ、巻かれたホースと積み上げられた空のケースが放り出されているだけの閑散とした場であった。漁師たち全員が同じ獲物を標的にしているわけではもちろんない。あるいはこの時間から海に出る船があってもおかしくはないが、今は人っ子一人いない。
 寂しい雰囲気だな、と銀一や竜雄は思う。しかし和明だけは違和感を覚えていた。普段この時間この場所は、仕事を終えた港の関係者と、付き合いのある職業不明の輩のたまり場になっているのだ。単純に静か過ぎた。気付いていないだけで、こういう日が今までにもあったのかもかもしれない。しかしこの場に成瀬がいるせいか、偶然だと片付けるには空気が張りつめ過ぎている気がした。和明は周囲をぐるりと見渡して、先ほどすれ違った顔馴染みを思い出した。
「医者の話では、榮倉は即死やったそうじゃ」
 と、不意に成瀬が口を開いた。視線が集まる。
「煙草吸うてかまわんのか」
 コートの内ポケットから煙草を取り出して、成瀬が和明に尋ねた。
「ええよ。吸殻だけ捨てんでくれたら」
 和明の返事を聞いているのかいないのか、頷きもせずに成瀬は煙草に火をつけた。そして魚の匂いを嫌うかのように埠頭の岸壁ぎりぎりに立って、海を見つめたまま話を続けた。海は灰色にのたうっていた。
「物干し竿で胸を貫かれた以外の外傷はない。争った形跡もなかった。角度的に、屋上へ出る階段出口の屋根部分が屋上で一番高い場所やから、そこに立って、そこから竿をぶん投げたんやないかという話じゃ」
「…つまり?」
 と和明が聞く。榮倉と馴染みのあった春雄の代わりというわけではないが、なんとなくこの場は和明が話をする事が自然な流れとなっていた。もちろん和明の職場である事も関係していただろう。銀一と竜雄は、並んで立つ成瀬と和明の背後に、左右に分かれて立っている。
「争った形跡がないと言う事は、榮倉を呼び出したか気を引いて引っ張り出したかした犯人は、奴の姿を見た瞬間竿を放り投げたと言う事や。あんなもん意識の外から投げよらんだら、生きとる人間相手に刺さるかいや」
「見た瞬間て何や。最初から殺すつもりで呼び出したんか?」
「そうとしか考えられん」
「そもそも、物干し竿やろ?投げただけで、人の体貫通するもんか?」
 遠慮のない和明の言葉に、成瀬はぐっと顎に力を込めた。しかし声を荒げるでもなく、海を見たまま言葉を返す。
「ご丁寧に先端を削っとりやがった。やろうと思ってすぐ出来る事やない。あの場で何か準備をしとったんやないかと見とる。それでも、そんじょそこらの男が力一杯投げた所で、あないな風に地べたに突き刺さるかは疑問じゃと、鑑識は言うとったがの」
「準備ってのは、要するに俺らを待ち構えてたと言いたいんか」
 和明が言ったが、成瀬は無言のまま答えなかった。
「本来なら俺らが病院へ見舞に行った所を犯人に狙われるはずやったんを、予定の狂った犯人が準備してた獲物で榮倉さんを襲ったと。そう言いたいんか」
 更に和明がそう言うと、成瀬は煙草を海へ投げ捨てた。
「おおい」
「お前らと犯人に何らかの因縁があるとしたら、それも考えられるのお。榮倉がお前らボンクラの代わりに殺されたなんぞと考えたくもないが、今それを言うても仕方がない。ワシの話はこっからじゃ。あの日、難波が殺された日、西荻の家の下で四ツ谷の若い衆と揉めた日じゃ。あの後応援を呼んで待っとる間に、榮倉は言うとった。今この目で立ち回りを見て改めて、志摩という男の怖さが分かる、とな」
「…」
 和明はもとより、銀一も竜雄も答えない。
「何の手掛かりもない昨日の今日じゃ、本来こんな所で油を売っとれるような状況やない今、それでも藁をも掴む思いでここへ来た。このワシがお前らを連行せんとこんな臭い場所へ呼び出したのは他でもない、お前ら自身の口から志摩という男の話を聞く為じゃ」
 成瀬が言うと、
「別に警察でええがな、やましい事はないぞ」
 と和明が笑った。やましい事も多少はある。しかし今回の一連の事件に関してだけは、無実だと胸を張って言えるのだから、やましい事はないと宣言出来た。
 成瀬が和明を睨んだ。
「…こっちには、ある」
 銀一達が顔を見合わせた。
「お前らをこの臭い場所へ呼んだのは」
「何回も言うな」
「ワシがここへ来る為じゃ」
「なんやそれ、警察署では話したくない言うことか? そう言えば春雄がなんや、それっぽい事言うてたわ」
「春雄が?」
「せやろ、銀一」
 和明の言葉と視線が銀一に向かう。銀一は頷いて、答える。
「榮倉から聞いたと、そう言うとったわ」
「さんを付けろ、ドサンピン」
 成瀬が銀一を睨み上げる。銀一も負けじと睨み返す。
「誰がや。俺ぁ多分お前より稼いどるぞ」
「海にたたっこんだろか!こんクソがきゃ!」
「じじいが調子に乗るとええ加減痛い目にあうど」
 言葉にならない叫び声を上げて成瀬が銀一に掴みかかった。和明と竜雄は溜息をついて面倒臭げにそれを引き離す。
「志摩太一郎は、黒なんか」
 両腕を振り回して喚きたてる成瀬に向かって、銀一が聞いた。しかし溜息交じりに発した音の軽さとは裏腹に、言葉の内容は重かった。成瀬は目を丸くして、抗うのをやめた。
「今お前、何言うた? 黒?」
「呼び方は知らん、黒の巣やら黒盛会やら色々言いよるじゃろうが、志摩はそこの人間なんかと聞いとるんじゃ。じじいがわざわざ警察から場所を移して話を聞きに来よるんなら、そういう可能性も考えとるんじゃないの」
「黒、…志摩が?」
 と和明が聞いた。これまでの話を整理して思えば、確かに志摩は怪しい。春雄を含めたこの四人の中ではその点で意見が一致している。しかし和明の認識では『庭師』が黒であり、志摩の立場はその協力者のように漠然と思い描いていた。仮に犯人そのものであったとしても、黒だという理解の仕方はではなかった。志摩太一郎は、狭いこの街において子供の頃から顔を知っている、幼馴染にも等しい存在なのだ。この事件に遭遇するまでは伝説に近い存在だと考えていた、ヤクザよりも恐ろしい『黒』の人間であるはずがない。そう思っていた。
「なんでその名前が出る」
 と成瀬が言った。銀一はしばらく成瀬を睨み付け、やがて言った。
「俺は喧嘩で勝てんと思った人間に会うた事がない。ガキの頃から、と場で働きよっても、街でヤクザ相手にしよってもじゃ。おそらく、俺は父ちゃんにだって負けん。一対一なら、ケンジにもユウジにも負けん自信がある。それは藤堂が相手でも同じ事じゃ。ただ、…志摩にだけは勝てる気がせん」
 成瀬の目が細く狭まった。何を言い出すのかと、竜雄と和明が心配そうに銀一を見つめる。
「何も確信なんてない。ただぼんやりとそう思う。死人相手に言うのも悪いが、難波相手にも怖いと感じた事はない。…が」
「志摩の、何が怖い」
 と、成瀬が絡みつくような声で聞いた。
「底が見えん」
 と、銀一は答えた。更に言う。
「俺が殴れば人はよろめく。さらに殴れば意識を飛ばせる。さらに殴れば殺せるじゃろう。ただ、志摩相手にそれは叶わんのじゃないかと、なんやそう思えて仕方ない。おそらくそれでも俺は負けん。ただ勝てる気もせんのよ。そんな男にはこれまで会うた事がない。ガキの頃から顔を見とるが、今改めてそう思うわ」
「お前の喧嘩自慢なんぞ知らん。だがそれがなんで黒に結び付く?」
「悪党ばっか相手にしよった榮倉が志摩を怖いと言うたんはそういう部分での、刑事の勘と違うのか」
「…」
「じじいが自分の土俵やのうて、のこのこと自ら港に出向いたんも、警察関係者に黒がおると分かってるからと違うのか」
「っは、言うやないけ」
「まどろっこしいのは終いにしようや。じじいが目星付けとる奴の名前を言え。俺がしばいてきたるわ」
 銀一の言いように、成瀬が初めて大声で笑った。思いがけず人懐っこい好々爺を思わせる笑顔だった。だが次の瞬間には、黄色く濁った眼でギロリと人を睨み付けるいつもの成瀬に戻っていた。
「悲しい程に笑わせるやないか。志摩一人にびびっとるお前の出る幕なんぞこのワシが残すかい。安心せえ、ワシがきっちりカタ嵌めたるわい」
「じじいに相手なんぞ出来るんかい、相手は連続殺人犯やぞ」
「お前よりはましじゃ」
 先程のお返しとばかりに成瀬が言うと、またもや掴み合いに発展しそうになる。慌てて和明と竜雄がそれを止めた。
「けど実際の所、ほんまに志摩は、そのう、犯人側なんやろか?」
 と和明が誰ともなしに言った。
「俺も、そう思いたくはないけどな」
 そう竜雄が答えた。信じたくないとは言え、昨日あれだけの啖呵を切ったのだ。竜雄自身の気持ちは志摩に対する嫌疑でほぼ固まっている状態だった。
「犯人が誰じゃあ言うのは、情けない話やがまだ警察は掴んどりゃせん」
 自分を羽交い絞めにする竜雄の腕を振りほどいて、成瀬が言った。
「連続殺人の様相を呈しておるという見方があるだけで、実際そうやと決めてかかるには決定的な証拠がないのが現状よ。そもそも事の始まりは西荻平左の殺しじゃ、となれば一年前に遡らにゃならん。物的証拠は何もなく、状況証拠は殺しの方法しかない有様で、間を置いて今回の松田殺し、今井殺しじゃ。そこへ来て難波、榮倉。そして未遂には終わったが平助も危うかったのやないかとワシは思うとる。これら全部が、志摩太一郎が犯人じゃと言い切れる確かな証拠は何ひとつない。殺しの方法も今井までのやり口と、難波、榮倉に対するやり口とでは全く違う」
 殺しの方法とは、西荻平左、バリマツ、今井の三人を襲った、首の骨を折って高所から放り投げるという殺害手段の事である。世間一杯に公表はされていないが、先日榮倉が事情聴取の最中春雄に対して、三件の殺人事件の手口が同一であった事を明かしている。
「お前が言うような刑事の勘を今ここへ持ち出してええのなら、ワシの勘は全て事件が繋がっとると絶叫しとるわい。ただ、難波と榮倉の殺しはこれまでと違いすぎる」
「…犯人が、二人おるという事は?」
 と銀一が言った。成瀬は頷く。
「お前らの言う、その庭師という男の事か。素性の分からん男の存在を犯人像に当てはめるんは簡単じゃが、あるいは現実はそういうもんなのかもしれん。電話でお前に言うたろう。西荻平助を刺したのは父親である幸助に違いはないが、難波を殺した犯人は別やと」
「ああ」
「西荻平左、松田、今井を殺した犯人と、難波、榮倉をやった犯人は別やと、ワシもそう思うとる」
 成瀬の言葉に思わず銀一達は顔を見合わせた。昨晩話した自分達の推理、特に竜雄が決めてかかった志摩という協力者の存在が確信めいて来た。成瀬はそれが志摩だと明言しないが、銀一達の脳裏に自然と志摩の顔が浮かんだ事は、間違いなかった。 
「仮にそうやとして、難波を殺したのが幸助さんやないという話はなんでや」
 と銀一が尋ねると、成瀬は両目に少しだけ苛立ちを滲ませて答えた。
「平助を刺した刃物と、難波の腹を裂いた獲物は別モンじゃ。今まで言わんといてやったが、聞いて後悔するなよ。難波の腹を裂いたのは、おそらくノコギリじゃ」
「ノ」
 思わず復唱しかけた銀一の喉が詰まる。竜雄も和明も目を見開き、信じがたい話に吐き気すら覚えた。
 難波の腹を裂いた刃物が、ノコギリ?
「わざわざ握って家を飛び出した幸助が自分の包丁を脇へ置いて、どこからか取り出した切れ味の悪いノコギリで難波を襲ったというなら話は別や。じゃがそないけったいな話は想像でけんな」
「な、なら、難波をやったのは幸助さんやないとして、それまでの三人と後の二人を手に掛けよったんが別人じゃとじじいが言う根拠はなんや。手口が違うからか?」
 何とかそう言葉を発する銀一の声は、心なしか上擦っているようだった。
「ほうじゃ。初めの三人の殺しには何かしらの意志を感じる。どす黒い怨念のようなものを感じる。ただ難波と榮倉の殺しからはそれを感じん。手口の違いとお前は簡単に言いよるが、それはワシにしてみればこれ以上ない手がかりじゃ。現場に残留しとる犯人の意識を読み取れば、ある程度匂いを辿っていけるだけの経験を積んできた。ただ、もし、難波、榮倉を殺したのがお前らの知る志摩太一郎じゃった場合、そうなればワシには全くわけがわからん。そのぐらい最初の三件とは別次元の殺しやと思えて仕方ない。そこへ志摩の名を当て嵌めるとして、それを言うならそもそもお前らの方にこそ心当たりはあるのか? 黒やからという理由で、突発的な殺しをやるような輩には見えんじゃったぞ」
 成瀬の突然の問い掛けに、銀一達は顔を見合わせた。心当たりなど、あるわけがない。つい先日まで、普通に志摩の頭や腹を殴って遊んでいたのだ。衝動的に人を殺すような人間だと分かっていたなら、そんな付き合い方などしない。ただ…。
「心当たりはない。あいつ自身を疑うような証拠はない。ただ、状況全てがおかしい。平助のじいちゃんが死んでから一年たった今頃になって、なんで俺らこの事件に足を突っ込んどるんやと考えた時、浮かんでくるのは藤堂と志摩の顔や。その志摩は藤堂が怪しいと言いやがるし、藤堂は藤堂でケンジとユウジを使って志摩にクンロク入れよった。庭師やと思うとった平凡太郎が実は俺らにウソをついとったし、今現在どこにもおるかも分からん。俺らは事件捜査のプロでもなんでもないんじゃ、怪しいもんは怪しいとしか言えんし、それ言い出したら全員が怪しゅう見えてくるわ。榮倉が言いよったように、実際じじいの目から見て志摩はどうなんじゃ。黒やと思うか」
 銀一の言葉に、成瀬は答えるべきかと迷っているように見えたが、やがてこう切り出した。
「おそらくは、違うじゃろう」
「う、おお」
 銀一達の間に複雑な動揺が広がる。喜んで良いのか、推測が外れて悲しんで良いのか困惑した。推測が外れているとしたら、水に垂らした墨汁のように広がる不安や疑念に対する答えを見失ってしまう気がした。
「年が若すぎる。若いという事はそれなりの経験しか積んどらんという事や。そんな若い世代を表に出すような真似は、アレらはせん。それに、ワシは若い頃から兄貴分である藤堂を知っとる」
 藤堂義右の親指を詰めさせた張本人が何を言うか、と銀一は思うも口には出さない。
「その藤堂が可愛がっとるのが志摩やと聞いておる。藤堂も牛のクソじゃが、阿呆ではない。…まあ、志摩が藤堂の裏を掻くような輩であるならありえんでもないが。ただ黒の巣の人間をワシはこの目で見た事があるが、ああいう手合いは一般人とは気配から雰囲気から何もかもが違う。そういう意味ではお前が志摩に感じる違和感は確かに怖い。正直、今回のヤマ、当代の黒の巣が相手じゃと言うならこれは解決なんぞせん。最終的には関わった者全員が消されてしまいじゃろうて」
「…そこまで言うか」
 と和明が言った。思わず声が漏れ出た、といった感じの呟きだった。耳聡い成瀬は和明を見やりながら頷き、
「ただワシのこの目もだいぶ耄碌しよるが、それでも人を見る目だけには自信がある。志摩は、違う」
 と言った。
「信じてええのか」
 と銀一が尋ねるが早いか、言い終わらぬうちから成瀬が言葉を被せた。
「ただし善人やと言うつもりもない。人を殺しとる人間の目や、あいつの目は」
 銀一も、和明も竜雄も、何も言えなかった。二十歳そこそこの若い労働者でしかない彼らにとって、理解を越えた話にしか聞こえなかった。人を殺していると言われても、銀一達の知っている志摩は威勢は良いがその実飄々とした身のこなしがウリの優男だ。この街の人間を手にかけているという話が仮に事実だとしても、志摩がヤクザである事を加味しても『やはりそうであったか』と受け入れるには現実味が薄く感じられた。それは、志摩に対して疑いの気持ちを隠さなかった竜雄にとっても同じだった。博徒系ヤクザである志摩が仮に覚醒剤に手を染めていたとしても、さもありなんだ。しかし、正直志摩に人殺しは似合わない。響子の兄である志摩太一郎に、人殺しは似合わないのだ。
 成瀬に言われて初めて、そのような感想を銀一達は抱いた。
「なんで、あいつが…」
 竜雄はそう呟き、その場にしゃがみ込んだ。冷たい海風に身も心も冷やされた。冷静に考えれば考える程、分からない事がひとつまたひとつと増えて行く気がした。
「何を言うとるか。先に疑いよったんはお前らの方じゃろうが。しゃんとせえ。お前らはただ相手が黒やない事を祈っとれ。後の事はわしがやる」
 しゃがみ込む竜雄を睨みながら成瀬がそう言った。
「後の事てなんや」
 と和明が聞くと、成瀬は頷いて新たな煙草に火を付けた。
「炙り出したるわい。怪しい場所全部に火ィ点けて、隠れとられんようにしたるわ」
「おじい一人でやる気か」
「榮倉の弔い合戦じゃ。ワシがやらいで誰がやるんじゃ」
「だから俺らも」
「お前らはええ言うとろうが。もうええ、帰れ」
「帰れるかいや」
 なおも食い下がる和明に、成瀬は火を付けたばかりの煙草を投げつけた。
「あてはあるんか」
 と銀一が尋ねると、成瀬は鼻で笑った。
「お前、ワシをなんやと思うとるんじゃ。それにお前ら、はよ帰った方がええぞ。もうすぐここへ会いとうない男が来るからのお」
「誰や」
 銀一の問いかけに、成瀬は右手を顔の前に持ち上げて見せた。親指を折って、指を四本立てている。この見せ方は本来「指四つ」と言い、部外者が街の人間をエタと揶揄する際に用いられる。しかし成瀬の込めた意味は違った。銀一達は揃ってピンときた。
 竜雄が立ち上がって、聞いた。
「ひょっとして、藤堂か」
「…さん付けぐらいはせんとのお。お前らにとっちゃあ、ワシより厄介何と違うか」
 成瀬は気味の悪い微笑みを浮かべて口角を吊り上げた。だが、同じく銀一達も示し合わせたように笑った。
 会いたくないわけがない。今これからでも行こうかと思っていたぐらいなのだ。
「丁度ええがな、じじいの前に俺が話するわ」
 と銀一。成瀬は慌て、
「お前が藤堂と!? なんでそうなるんじゃ、帰れ!」
「ええがな、まあええがな」
 和明が肩を掴んでなだめようとすると、成瀬はハンチングをとって地面に叩きつけた。
「これ以上深入りするなと言うとるんじゃ!」
 銀一も竜雄も、和明も揃って苦笑いを浮かべた。もう既に深入りしてしまっているのだ。今更なにもせずに忘れ去る事など出来るはずがなかった。昨晩西荻家の敷地で話をした自分達の想像が、全て覆ればいい。だがそうならなかったとしても、事の真相を掴むまでは、もといた日常には帰れない気がしたのだ。
「もう遅いんじゃ」
 銀一はそう言い、和明は成瀬の肩から両手を離した。
 竜雄は地面に落ちている火の付いた煙草を拾い上げると、思い切り吸い込んで灰に変えた。
 竜雄の肺活量に驚く成瀬の目の前で、海風に吹かれた灰が空へと舞い上がった。


 

16 「唯傷」

 
 成瀬の言う「会いたくない男」は歩いて現れた。背後には舎弟を二人連れている。
 と思いきや藤堂の後ろをポケットに手を入れたまま不遜な態度で歩いて来たのは、黛ケンジと花原ユウジであった。
 二人の姿を見た途端「ふぅーわ、面倒臭い奴おるぅ」と和明が目を見開いた。
 成瀬はヒヒッと嬉しそうに笑った。
 人気の絶えただだっ広い埠頭を、周囲を気にする素振りも見せずに一直線に歩いて、藤堂は銀一達の前に立った。
 やはり、大きい。身長もさる事ながら、体の部位全てが大きく竜雄を更に二回りも膨らませたような体躯である。鍛上げられた自慢の筋肉を持つ銀一や竜雄であっても、思わず見上げてしまう程の巨漢と言えた。
 ケンジとユウジは藤堂の背後に黙って立ち、気配を殺している。恐らくこの場に成瀬がいるせいで、問題事が起きた時にいつでも逃げられるよう意識を周囲に向けているのではないかと思われた。喧嘩の強さだけではない、プロの立ち振る舞いだった。
「おう」
 と、その身に似合わず軽い調子で藤堂が先に挨拶を口にした。
 銀一達は無言で頷く。いつもならそこで「ちゃんと声に出したらんかい」と喚き合いの手を入れる志摩の姿が、今はない。
「大変やったの。色々聞いてる。堅気のお前らにかけてええ面倒の範疇ゆうもんを越えとったな。すまんかった」
 藤堂の素直な口調で放たれた言葉に、銀一は腹を立てた。
「言葉でそう言えば済むとハナっから思うとったようにしか聞こえんのお!最初っからこうなる事が分かってたんと違うんか!」
 気配を消していたはずのケンジが一瞬銀一をチラリと見やり、小さく口笛を吹いた。その隣ではユウジが苦笑を浮かべて俯いている。
「飛ばすがな」
 と藤堂は笑った。
 銀一の両脇に、居並ぶように竜雄と和明が立った。
「やめーよ」
 不穏な空気をいち早く感じ取り、三人の背後から成瀬が声を掛けた。
「お疲れ様です、成瀬さん。お元気そうで」
 藤堂は視線を銀一達に置いたまま、成瀬にそう声を掛けた。成瀬も「おう」と声だけで答えた。しばらく睨み合った後、藤堂はこめかみをポリポリと掻いて、右手を上げて見せた。
「分かった。分かってるよ。すまんじゃった。利用した事は謝る。この通りじゃ。ただお前、そうは言うても俺かて遊んでたわけと違うぞ。俺かてまかさこの短期間で更に人が殺されるとまでは思ってないがな。利用した言うてもちょちょっと突いて様子見に行かせようて、その程度やで。そこをもうちょっと大人んなって考えてくれよ」
「ちょちょっと突いて?」
 と和明が首を前に突き出して言った。
「藤堂さんよ。あんたが可愛がっとる志摩太一郎は今どこで何しよるの? 厄介で物騒な番犬二匹も連れてから、ビビっとるようにしか見えんよ。誰にて。誰にビビっとるてそら、志摩なんと違うの? ちょちょっと突いて? ちょちょっと突かれて死んだ難波にも同じ事言えるんかいのお!」
 藤堂の目から余裕と微笑みが消えた。黙ったままの藤堂に、竜雄が言う。
「あんたあ、どこまで知っててこいつらを動かしてた? 何が起きてるのか、本当は、銀一が言うように最初から知ってたんと違うのか?」
 藤堂の目が竜雄を捉えた。竜雄は無意識に拳を握りしめた。
「何が起きてるって、何がや」
 感情の読めない目と声で、藤堂が言う。しかし凍えるような圧にも、竜雄は引かない。
「雷留で西荻の話を初めて俺らに振った時、その時からあんたは黒の話をしとったな。噂やなんやとか言うてたが、ある程度分かった上で、確認のためにこいつらを動かしたという事やろ。あんたは上手く志摩を使ってこいつらを操ったつもりかしらんが、実際はあんたも志摩に踊らされてんのと違うのか」
 竜雄の言葉に、藤堂は思案する素振りを顔に浮かべて見せた。
 白々しい、とばかりに竜雄は顔を歪め、
「後ろで手引いてるつもりがどえらいおちょくられようじゃったのお!」
 と叫んだ。
 藤堂の前蹴りが竜雄の腹に突き刺さった。竜雄は両手でそれを受け止め、体をくの字に折りはしたものの一歩も後ろへ下がらなかった。
「くっさいこの足首へし折ったろうかいの」
 藤堂の右足を掴んだままと竜雄が言うと、さすがにまずいと思ったのかケンジとユウジが一歩前へ出た。
「ええわ」
 藤堂がそう言い、無理やり右足を引き抜いた。
「俺、たまたまお前ら見つけてとりあえずは礼儀や思うて頭下げたけどよ。そもそもお前らと話をしに来たんと違うねん。だから、もう帰れ。話があるんは、そこの成瀬刑事や」
「おいおいおいー」
 藤堂の居直りに、和明が突っ込んだ。
「連れない事言うやんかいさー」
 すると竜二が目を剥き、
「今更そんなボケナスな言い訳通すかいや。巻き込まれた身にもなれよ。ちゃんと納得のいく説明してくれ。あと可能ならそこのウンコ二人をどっかやれ」
 と二人を睨みつけてそう言った。ケンジとユウジは藤堂の背後でポケットから両手を出し、不敵な笑みを浮かべた。
「お前らやめよ! 今はそんな事してる場合やないぞ!」
 と成瀬が怒鳴った。
「ほなこうしようや」
 と和明が言った。
「藤堂は刑事である成瀬のおじいと話がしたい。つまりは事件に関わる何らかの情報を持ってる。おじいはその話を仕入れて捜査に役立てたい、と。藤堂がおじいに話をしてやる理由は全然分からんけど、これも何かの縁という事で。俺らもその話聞いたろうやないの。ほいで俺らがじじいの手足となって動く。これでどう」
 和明の人を食ったとも言える提案に竜雄が無言で手を叩き、賛同する。思わず銀一は吹き出して笑った。
「お前、アホけ」
 と藤堂が言う。
「だから俺はお前らと話しに来たんと違うて言うとるやろ。お前の提案に乗る理由がそもそも俺にはないわ」
「分からん奴やのう。そこを敢えて聞いたる言うとるやんけ。おっさん脳みそまで筋肉け?」
「誰がおっさんや、俺まだ三十前やぞ!」
「どこに喰い付いとんねん」
 藤堂の言葉を受けてそう呟いたのは、ケンジだった。「フー!」「言いよった!」竜雄と和明が悪ノリしてケンジを揶揄うと、ケンジは「ああああ?」と唸りながら前へ出ようとする。ユウジが片手でそれを止める。
「お前らはいつまでたってもガキじゃのお。まあええわ、確かにこっちにも巻き込んだ責任はあるからよ。チャンスっちゅうもんをやろう。金や。この世は金。俺の持ってる情報になんぼ出せる?」
 閃いたとばかりに代替案を語る藤堂に、和明は大袈裟な溜息を付いてみせた。
「頼むわ若頭、脳みそどこ行ってん。ええからその自慢の筋肉はよ使わんかい。皆まで言うたらな分からんけ」
 暴力的とも言える言葉を用いて、和明が藤堂を煽りに煽った。
「いくぞ銀一」
 小声で竜雄が合図すると、
「力づくで吐かしたろうと俺らは言うとるわけよ!なあ!腐れヤクザ!」
 と和明が叫んだ。
 銀一が拳を握った瞬間、
「調子にのるなよクソガキが!」
 ついには藤堂も吠え、ケンジとユウジが後ろへ下がった。肩と首の筋肉をほぐしながら二人が間隔を開けるように広がった。
 成瀬が何かを叫んでいるが、誰の耳にも彼の言葉は届かなかった。
「藤堂さん。こいつら潰したらなんぼくれる?」
 ケンジが竜雄を睨みながらそう尋ねると、藤堂は眉間に皺を寄せたまま右肩をグルンと回して答えた。
「おお。十万でどや?」
「安っす。竜雄くん、十万やて」
 笑うケンジに、両手を腰に置いたまま竜雄は首を傾げ、
「ほな俺はお前を脱糞と失禁が止まらん体にしたるわ。オムツ代に十万、見舞いにくれたるよ」
 と言った。
 ケンジは眉をハの字にし、
「ほんまに口だけは達者な連中じゃのう。ワシ、竜雄くんらと喋るといっつも調子狂うんよ、自信無くすわ」
 とぼやいた。
「知らんけど」
 とにべもない竜雄にケンジは苦笑を口元に浮かべ、
「まあええわ。難波の後追わしたるよ」
 と言った。
 その瞬間、竜雄が空を仰いだ。
「それは言うたらあかんやつやろ。お前、死なんとけよ」
 二人のやりとりを横目に見ながら、和明がそう言ってケンジの側を通り過ぎた。その後ろを花原ユウジが付いて歩く。
「え、そんなんなんかノリで言うやんけ。え。あかんけ?」
 ユウジが吹き出して、手で口を押えた。
 和明とユウジは一団から離れて、向かい合って立った。お互いの距離は三メートル程だ。海風が強いとは言え、呟く声でも十分に届いた。
「どうせお前はよう喋らんもんな。大して情報持ってないんやろうし、やるだけやろか。ちゃっちゃと済ませたるよ」
 余裕たっぷりに和明が言うと、ユウジは「イー」と口を広げて歯のない前歯を見せた。
「どういう意味やねん」
「おめへもこうひたるわ」
「全ー然分かれへん、おめへ言うとるがな。もっと魚を食えー魚をー。もろい歯ぁしやがって、頭からバリバリー行けえ。あとシンナーやめろお前、早死にすんどー」
「しゃかあっしゃい」
「前歯無うてももっと喋れるやろお前!ふさけてんのか!」
 和明がそう言った瞬間、ユウジがポケットから何かを取り出して突然和明に向かって投げつけた。
 石でも投げたのかと慌ててしゃがみ込んだ和明の頭上を、物凄いスピードで何かが通過した。
「痛!」
 そう叫んだのは和明でも竜雄でも銀一でもなく、藤堂だった。
 藤堂は自分の右足、太腿の裏側に突き刺さった小振りのナイフを引き抜くと、仁王像のような形相で振り返った。
「お前、何しよんじゃ」
 ユウジは頬をポリポリと指で掻いて、それからくいっと頭の位置だけ下げた。
「お前ほんま、めちゃくちゃやな。俺が躱さんだら死んどったかもしれんぞ」
 和明が言うと、ユウジは嬉しそうににやりと笑った。ユウジの足元に藤堂が投げたナイフが刺さった。
「面倒くさいのお!」
 再び投げられては敵わぬと、和明は猛然とユウジに向かって突っ込んだ。



 藤堂は、不意を突かれたナイフでの傷など全く意に介さない様子だった。相変わらず感情の読み辛い表情を浮かべたまま銀一を見ている。
睨みつけるでも観察するでもなく、ただ見ている。藤堂にしてみれば、銀一がどういう手段でかかってこようが関係ないと思っているのだ。 銀一はと言えば、彼は彼なりに自信があった。成瀬に語った己の腕っぷしに対する自信は今も揺るがない。切っ掛けさえあれば一瞬で片が付くような気さえする。しかし、そのきっかけを掴ませない隙の無さが、藤堂の強さであり怖さでもあるのだなと、銀一は感じていた。刃物でも重火器でも何でも揃えられるヤクザの世界にあって、純粋な肉体の暴力のみで名を上げた男だけの事はある。時代が違えば、バリマツ並みの評判を得ていたかもしれない。それどころかバリマツ亡き今、暴力団としての存在意義をその身に背負って立てるのは、この藤堂だけなのかもしれなかった。喧嘩最強を謳いながらも根無し草的な性格であるケンジとユウジは他人からの評価を嫌うし、看板を背負う事がそのまま自信と貫禄に繋がっている藤堂のような男の強さもまた、確かに手強いものがある。
 銀一は小さく深呼吸を繰り返しながら、機会を待った。
「お見合いか、気色の悪い」
 藤堂がつまらなそうな顔でそう言った。挑発だ。乗ってはいけない。そう思いながらも首筋が熱くなるのを銀一は感じ、務めて冷静な口調でこう言った。
「色々と聞きたい事はあるけどな。お願いします教えてください言うような柄でもないから、とりあず話はあとでええか」
「ほな、はよ掛かって来いや。俺もこう見えて暇やないからよ」
「暇やんけ」
 それは思わず銀一の口を突いて出た言葉だった。彼自身が言ったように、今は話をしたい気分でも場面でもなかった。しかし藤堂の態度と言葉に言い返さずにはいられなかったのだ。
「あ?」
「お前ずーっと暇やんけ。働きもせんで舎弟アゴでこき使うてよ。そんなふんぞり返った輩の何が忙しいんじゃ。無駄な時間持て余しとるやないの。お前一度でも考えたんか。難波は死んだんやぞ。二度と暇やなんぞと抜かすなコラ」
「それは俺には関係ないやろ」
「どの口が言いよんじゃ。お前はなっから黒を相手にしよると分かってたろうが」
「さっきからお前お前て誰にモノ言うとんじゃ。後頭部とケツぴたーっとくっつけたろか?」
「しょうもない事言うな。お前は結局暇人でビビリ腐ったカスヤクザや。はなっからお前が突っ込んで行けばまた違った結果もあったやろうに、難波は一体何のために殺されたんじゃ。なんの為に平助は病院で泣きよるんじゃ。お前の口から聞かせてもらうで」
「怖いもん知らずっちゅうのは、お前みたいなもんの事を言うんかいの」
 藤堂がため息交じりにそう言うと、銀一は片頬に笑みを浮かべてこう答えた。
「笑わせんなや。お前を怖いと思った事は一回もないぞ」
 銀一と藤堂の距離は五メートル程開いていた。しかし藤堂は一瞬でその間合いを詰めて銀一に殴りかかった。
 銀一は左腕を顔の横に構えて藤堂の拳を受け止めた。拳から放たれた突風が銀一の耳元を掠める。銀一は右腕を下に引いて、次の瞬間藤堂の首元目掛けて拳を突き上げた。藤堂はそれを寸手で躱すが、首を狙われた分躱しきれずに銀一の拳が顎先をかすめた。藤堂の巨体は揺らぎこそしなかったものの、左顎が切れて血が滴った。
 藤堂が自分の血に気を取られた一瞬の隙をついて、銀一は右拳を硬く握りしめた。後ろに引いた体を立て直して前進しかけた藤堂の左胸に、銀一は右手で作ったハンマーを叩きつけた。空手の道場や柔道技では見た事のない攻撃の軌道に、藤堂はどう躱してよいか分からずまともにそれを受けた。
 銀一は握った拳の、小指側面を藤堂の胸に振り下ろしたのだ。骨の付き出した指の付け根、いわゆる拳骨部分ではなく、空手チョップで当てる手の側面をぎゅっと握り込んで丸く固めた部分と言えば伝わるだろうか。
 まさしくそれはハンマーだった。発達した上腕筋とと場で鍛えた振り下ろす力が相まって、それは殺人的な攻撃となった。
 藤堂は衝撃を受けた瞬間呼吸が止まった。真上から電柱が降ってきたかのような重量のある一撃に、藤堂の膝がガクリと折れた。地面に崩れ落ちる事は免れたが、藤堂の顔は青ざめ脂汗が浮かんでいる。銀一の攻撃により骨か内臓かを傷めたらしい。
 しかし倒れずに踏みとどまった藤堂に、二発目をお見舞いするべく銀一が再度右腕を振り上げた瞬間、藤堂が動いて銀一にタックルを仕掛けた。勢いのあまり銀一はひっくり返され、馬乗りになられるという最悪の事態を招いた。藤堂の体重は百キロ近く、腹の上に圧し掛かられた状態で持ち上げる事は至難の業と言えた。
 藤堂は顔を歪めながら左胸をさすり、
「ほんまに殺そうかのお」
 と呟いた。
 銀一の耳に成瀬の声が聞こえたが、何を言っているかまでは分からなかった。
 藤堂の丸太のような左右の腕が無茶苦茶に振り下ろされる。銀一は両腕を頭の脇に添えて猛攻を凌ぐも、代わりに首筋や鎖骨、胸部に重たい拳を何発も受けた。
「野郎の悲鳴なんぞ聞きたくないけどよ、とりあえず泣きわめく程度にはやらせてもらおか」
 そう言って藤堂は更に攻撃の速度を速めた。銀一は歯を食いしばって耐えた。悲鳴どころか呻き声一つあげてなるものか、という思いがあった。意識が飛びさえしなければ、殴られる程度で音を上げるやわな性格でもない。ただそうは言ってもこの状況を覆すだけの技と力がすぐには出てこず、歯がゆさと苛立ちが募った。
 藤堂が一瞬攻撃の手を止め、銀一に馬乗りになったまま上半身だけを振り返られせて、ケンジとユウジの様子を窺った。
「うはは」
 と藤堂は笑った。その声に、自分の目で確認できない銀一は奥歯を噛んだ。
 ケンジの攻撃は速度のある連打だった。竜雄は両腕を上げて頭部をガードするものの、ガードの上からお構いなしに何度も叩きつけて来るケンジの剛腕に両腕を下げる事が出来なかった。その内手首や二の腕なども痺れて来て、やがてはそれもダメージとして蓄積されて来る。
 殴る側であるケンジはさすがに慣れている。全く息も上げずに休む事無く左右のフックを連打し続けている。軽やかにステップを踏みながら、ガードを下げそうになる竜雄のタイミングを見ながら適格な攻撃を放ち、ジリジリと竜雄を下がらせた。
 タイミングを計っていた竜雄が隙をついて前蹴りを繰り出した。
「待ってました」
 ケンジは竜雄の蹴りが伸びきる前に自分の腹で受け止め、前身し続けたまま右の拳をぶん回した。竜雄は左腕でその拳を受け止め、そのまま体を沈み込ませて衝撃を吸収した。竜雄はすかさず右手でケンジの右手首を掴んだ。
「ちょい!」
 慌ててケンジは掴まれた右手を引き抜いて下がった。追いかけるように竜雄の前蹴りが飛ぶ。再度ケンジが前に出て腹部で受け止めた瞬間、
「お帰り」
 と言って竜雄が右の拳を放った。ケンジの額に直撃する。ケンジはなんとか受け止めたものの、両目に涙を滲ませた。
「いーたー…」
 そう本音を囁いて、ケンジは後頭部を押さえた。衝撃が首に来たようだ。
「なんでトラックの運ちゃんが殺人パンチ持ってるねん。まじでワシ自信無くしそうやわ」
 ケンジの言いように竜雄は笑い、
「余裕やんけ」
 と答えた。
「当たり前やんけ」
 そうケンジが言った言葉に被さるようにして、和明の呻き声が聞こえた。喉を潰されたような危険な呼吸音に、竜雄とケンジが振り向いた。
 ユウジが右手で和明の首を握り締めて立ち、ケンジと竜雄の勝負をニヤニヤしながら見つめていた。左手には小振りのナイフがある。和明はだらんと意識なく脱力し、ユウジに握られた首だけで空中に吊り下げられているように見えた。
 藤堂の笑い声が聞こえた。竜雄が振り返った瞬間、彼の横っ面をケンジが殴り飛ばした。喧嘩の最中に隙を見せるなど以ての外だ。普段なら軽口を忘れないケンジも、この時ばかりは真剣な目でひっくり返った竜雄を見下ろした。そしてそのまま竜雄の頭部をサッカーボールのように蹴り飛ばした。
 口笛を吹こうとして吹けないユウジの口から変な音が鳴った。
 その時、和明の右手がユウジの右手首を掴んだ。
「ああ?」
 意識のない筈の和明を、ケンジが睨みつけたその瞬間だった。ボグ、と鈍い音がしてユウジが「グナ!」と言葉にならない声を上げた。一見何か起きたのか分からないが、和明はユウジの右手首を掴んだ瞬間全力で握り締め、関節を外したのだ。
 ようやくユウジの手から解放された和明は、それでも青ざめながら咳込んで体を起こした。
「漁師の握力舐めんなよ」
 と和明は言った。異常な握力と言えた。ユウジの手首はそもそも細いわけではない。大人の男が握った所で親指はどの指先にも届かない。その状態で、ユウジの関節を折るように外したのだ。嘘みたいな攻撃である。
 右手首を押さえて意識がそちらへ向いたユウジの隙を、和明は見逃さなかった。俯き加減になっていたユウジの後頭部を掴むとそのまま左膝を跳ね上げて顔面を蹴った。ずっとユウジの左手にあった小振りのナイフが落ちた。和明はそれを拾い上げると、藤堂の背中に向けて投げつけた。
「痛い!」
 と藤堂が声を上げた。しめたとばかりに銀一が右手をハンマーに変えて、藤堂の金的を叩いた。藤堂が体を浮かせた一瞬で銀一は下から抜け出した。
「おいおい」
 どうなっとるんや、という顔でケンジが嘆いた。そのケンジの前に、頭から血を流した竜雄が立ちはだかった。
「きしょいのお。頭でスイカ割でもやりました?」
 ケンジが笑ってそう言うと、竜雄は唇に付いた血を舌でなめ取り、
「季節外れじゃボケ!」
 と叫んで右の拳を大きく振り回した。当たり前のように左腕を上げてそれを防いだケンジの体が、グラリと持って行かれた。ケンジは目を見開いて驚きながらも、コンパクトに折りたたんだ右腕からアッパー気味に拳を放った。
 竜雄の左頬が切れた。しかし竜雄は構わず再度右の拳を振り回した。まるでケンジの連打のお株を奪うような、ガード上から叩きつける攻撃だった。ケンジと違ったのは、竜雄の一撃一撃をその場で踏みとどまって凌げない事だった。ケンジは腰や足にダメージの来る竜雄のパンチに奥歯を噛んで耐えた。右、右、左、右、左、左、右…。
 しかしケンジの膝ががくんと折れ、竜雄の右拳がケンジのこめかみを叩いた。一瞬ケンジの意識が飛んだのが、彼の目付きから見て取れた。だが次の瞬間ケンジは竜雄の服を左手で掴み、そのまま右ストレートを竜雄の鳩尾に突き刺した。
 さすがの竜雄も苦悶の表情を浮かべて体をくの字に折り曲げた。そこへ突如駆け込んで来たユウジのドロップキックが炸裂し、竜雄の体が吹き飛んだ。ケンジが両膝をついて、後ろへひっくり返る。ユウジの後を追って走り込んで来た和明が、そのままユウジの後頭部を力一杯殴り飛ばした。ユウジの体は空中で前転し、顔面からコンクリートに突っ込んで倒れた。竜雄、ケンジ、ユウジはほぼ同時に地面に倒れ伏せ、そのまま動かなくなった。
 一瞬の出来事だった。
 和明が藤堂の背中を睨みつける。藤堂は背後を気にするような視線を肩越しに向けたが、振り返る事をしなかった。背中にはナイフが刺さったままである。目の前に立つ銀一の右手が、ハンマーのように固く握り込まれていた。
「はああ」
 藤堂は溜息をつき、
「ほんまにお前らは、なんで堅気のままおるんや。勿体ない」
 と言った。
「お前らは意識してない思うけど、この二人を喧嘩でいてこませる人間なんか今日本でも数人程度しかおらんと思うぞ」
 ケンジとユウジの事を言っているらしい。しかし銀一にとっては今、そんな武勇伝などどうでも良かった。
「聞きたいのはそんな話やないわ」
 そう言うと銀一はステップを踏んで藤堂との間合いを詰め、己の右拳を目一杯耳の横まで引いた。そこから繰り出される攻撃がストレートなのかハンマーフックなのか、受けて立つ人間には予想がつかない。しかし藤堂の反撃は更に予想の付かないものだった。
 藤堂は上着の内ポケットからピストルを抜いて銀一の額に銃口を向けた。
 銀一は躊躇せずピストルを上からハンマーフックで叩き落した。爆音が轟いて、弾丸が埠頭のコンクリに減り込んだ。
 銀一はそのまま飛び上がって藤堂の顔面に頭突きを入れ、後ろへ仰け反った藤堂目掛けて…。
 藤堂が無意識に胸を庇うように両腕をクロスした。
 銀一は右足を大きく振り回し、上段回し蹴りで藤堂の首を刈った。
「蹴りて」
 と嘆いて、藤堂は倒れた。
「お前の舎弟の必殺技やがな。知らんのんかいや」
 銀一は笑ってそう言うと、大の字に倒れた藤堂の体越しに見えた竜雄に向かって、
「いけるかー」
 と声を掛けた。

17 「腐覚」

 飲み屋街へ出て、『雷留』ではない居酒屋へと場所を移した。部落民である事と職業からくる忌避の目や差別を嫌い、雷留以外ではあまり飲食店を利用しない銀一達であったが、今自分達を連れ歩く大きな背中はいずれ劣らぬ嫌われ者のヤクザである。極道御用達の店など近付いた事すらない銀一達は、内心どんな美味い酒が飲めるかと本来ならば期待に胸を膨らませたかもしれない。しかし状況と心境がそれを許さなかった。
 先頭を藤堂が行く。その後ろを竜雄が歩き、そして銀一、和明、最後にケンジとユウジが並んでいる。
 成瀬の姿はない。藤堂と埠頭で会う約束をしていた事は間違いないが、藤堂がケンジとユウジを連れて来た時点で話をする気は失せたようだった。立て続けに起こる惨劇を思えば両脇に用心棒を置きたがる気持ちもわからぬではないが、とは言え成瀬は警察の人間である。藤堂一人ならなんとでも理由を付けて会う事は出来るが、喧嘩師として名高い二人を同席させるにはリスクが大きく、そもそもただ指を銜えて同席を黙認するくらいなら逮捕したい、というのが成瀬の本音だった。
 それは成瀬の目付きが物語っていた。ケンジとユウジは正直な所すぐにでも姿を眩ませたい思いがあったが、藤堂への義理と、銀一達に負けた手前逃げるようにその場を去る事に男としての抵抗があった。やがて話をする気の失せた成瀬は苦虫を噛み潰したような顔で、藤堂の尻を蹴り上げて、今晩にもで連絡して来いと吐き捨てて埠頭を後にした。
 銀一達も、そしてケンジ達も拍子抜けのする思いであった。ケンジ達も仕事柄ある程度成瀬の刑事としての性質を耳にしている。老齢とは思えぬ鋭い眼光と事件解決に対する執着心は常軌を逸していると、裏稼業の誰もが口を揃えて噂した。そんな男の前で刃物沙汰、流血沙汰の大立ち回りである。成瀬の合図によっていつ、どこから警察官が大挙して押し寄せてくるかも分からないとケンジ達は身構えており、この場に成瀬以外の警察官がいないというのは彼が立ち去るまで信じられなかった。
 あるいは榮倉が生きて成瀬の側にいたならば、相手が何人であろうと誰であろうと、成瀬が引き下がるような真似はしなかったのではないか。銀一はそう思ったが、言葉にすべきではないのだろうと、誰にも言う事なく呑み込んだ。
 歩いて飲み屋街を移動する間、和明とユウジが肩を並べて言葉を交わしている姿が、銀一には印象深い光景として記憶に焼き付いたという。住む世界は違えどお互いを子供の頃から知っている間柄だ。一歩間違えば殺してしまうかもしれないような苛烈な暴力行為の後でさえ、何事もなかったように話が出来る関係というものが、不思議と尊いもののように銀一の目には映った。
 ユウジは和明に関節を外された手首を痛そうに押さえながら、どうにかしろよと詰め寄る。しかし和明は「医者行けや」と取り合わない。それ所か、顔面から埠頭のコンクリートに叩きつけられたユウジは盛大に鼻血を吹き出しており、その血筋の痕を指さして笑う始末だった。それを見たケンジはただただ苦笑して、頭を横に振った。
「お前らは頑丈やのう」
 と竜雄がケンジ達に声を掛ける。
「よう言うわ、嫌味にしか聞こえんがな」
 そうケンジが答えると、
「阿保言え、俺ユウジはほんまに死んだ思うたわ。和明やってもうたでー!て」
 と銀一が笑った。和明は喉を鳴らして笑い、ユウジは後頭部を押さえて何故だか照れたような表情を浮かべた。
「んで藤堂さんは平気なん。太腿と背中にナイフ刺さってたけど」
 竜雄が藤堂の背中に向かって言うと、藤堂は振り返りもせずに、
「何が?」
 と言った。



 その店の名は、『イギリス』と言った。
 銀一達は生まれて初めてキャバレーというものに足を踏み入れた。現代のキャバクラとはまた違い、当時のキャバレーはホステスが客をもてなすという共通点以外は、ショーが行われたり生バンドの演奏があったりと、今でいうクラブ、少し前で言えばディスコの趣に近い飲食店であった。しかし、銀一達にとってみれば十分現実離れした夢の世界であり、煌びやかな内装とど派手な衣装で身を飾った女性達の存在は、ここ数日の暗い現実を一瞬は忘れさせる程強烈であった。
 藤堂が舎弟を引き連れて遊びに来た。そういう風に見られているであろうことは銀一達にも分かった。本来なら二十歳そこそこの若い労働者が、金もないのに足を踏み入れて良い店でない事は一目瞭然だった。それでなくとも店員が揉み手をしながら近づいて来、両脇を良い匂いがする女性二人に挟まれる事など本来自分達に起こりうる筈がなかった。銀一達は鼻息を荒くしながら、きょろきょろと店内を見回した。
 藤堂が側に立つボーイに耳打ちし、下がらせた。そして銀一達に振り返り、
「とりあえず飲んで、話はそれからや。お前ら、好きな子選んで横に付けたらええわ」
 と言った。
 思わず銀一と竜雄が顔を見合わせた。
 好きな子を選んで横に付けたらええわ? どう意味や?
 夜の店。高い酒が飲める店。そういう場所である事は察しがつくが、意味なく自分達の側をうろついている女性らがどういう存在なのか、はっきりとは理解していなかった。竜雄はキャバレーのシステムをなんとなく聞いた事があるようだったが、急な展開に気持ちがついていかないようだった。銀一に関しては、全く意味が分かっていなかった。
「俺、この子がええわー」
 と和明が言った。全く物怖じしない男なのである。
「この子がええてなんや。お前、失礼やぞ」
 と銀一が小声で諫めると、和明は首を傾げて「何が」と聞いた。
「好きな子選べ言うから選んでるんよ、何も失礼な事あるかいなー。なー?」
 和明はそう言って、見初めた女性の手を取った。細く色白で、派手さはなく上品でいながら決して暗さのない、若さと自信に満ちた美人だった。
「あかんで、カズ。それ未成年や。おもろない、やめとけ」
 と一瞥をくれて藤堂が言った。
「え」
 と和明は驚いて女性の見た。男達のやりとりを面白おかしく見つめていた彼女は、ついにぷっと吹き出して笑った。和明は嬉しそうに笑って、
「年なんて関係ないよな。俺はやっぱこの子がええわ。もう決めた」
「おい」
 と藤堂が窘める声を上げると、
「ここで暴れたろか?」
 と和明は声のトーンを落として言った。たった一言で空気が張り詰めた。
「チ、お前と言う奴は」
 藤堂は舌打ちして頭を振る。
「ガキはガキ同志よろしゅうやっとけ、何が面白いんじゃ、あほが」
「おもろいおもろないは、これからやんなあ。なー?」
 と和明は言って、手をつないだままの女性に頷きかけた。女性はやや困り気味に微笑んで、頷き返した。
「名前は?」
 と和明が尋ねると、女性は一瞬迷った末、
「まどかです」
 と本名を名乗った。後に、善明和明の妻となるまどかとの、これが初めての出会いであった。
「ええ名前やなあ」
 と和明が言うと、
「ほんまは、マリーて名乗らなあかんのやけど」
 と、はにかんでまどかは答えた。
「あはは、まどかの方がええな。何才?」
「二十歳です」
「ほんまは?」
「じゅうー…はちです」
「そっか。ええよ、無理やり飲ましたりせんから」
「お酒は強いですよ」
「おっほほお、ええがなあ。そしたら、楽しめるんと違うのー?」
「はい。よろしくお願いします」
 何をイチャイチャしとんねん。阿保くさ。口々にそう悪態をついて、ケンジとユウジが女性を二人ずつ引き連れて店の奥へと消えた。
「お前らは?」
 と、藤堂は銀一と竜雄に向かってそう声を掛けた。
「いや、俺ええわ」
 と竜雄が答え、
「おお、俺もええ」
 と頷いて銀一もそう言った。
 藤堂は呆れた顔で何度も美人の手を引いて「どうや、これは」と勧めてきたが、二人とも頑として首を縦に振らなかった。



 銀一も竜雄も和明も、これでもかとばかりに高そうな洋物の酒ばかりを頼んだ。飲んだ事のない酒を、どんな種類の酒なのかも分からないまま、メニュー表を指差して値段の高い順番に注文した。藤堂は苦々しい顔を浮かべていたものの、止める事をしなかった。
 運ばれてくる酒が自分の物かも確かめもせずに片っ端から飲み干していく銀一達は、言葉に出来ない怒りをアルコールの酔いでごまかしたかった。しかし、どれだけ飲んでも一向に酔えなかった。
 和明の横に座ったまどかだけが無邪気に手を叩き、
「凄いですね。皆さん底無しなんですね」
 と褒め称えた。しかし和明はまどかに微笑んで見せ、「ごめんな」と言った。
「必ずまた顔出すから、やっぱり今日の所は外してくれるとありがたいな」
「おい、ええがな。失礼な事言うな、仕事しとるのに」
 そう言ったのは銀一だった。
 まどかは屈託のない笑みで首を振り、
「大丈夫です。またいらして下さいね。待ってます」
 と言って立ち上がった。
「すんません」
 と銀一は頭を下げ、竜雄も戸惑いながら頭を下げた。
 藤堂はボーイを呼んで、自分達の周囲から女性を外させた。一気に場が暗くなった。
「…榮倉は」
 そう銀一が切り出した瞬間、
「待てや」
 と藤堂が止めた。銀一達はほとんど睨むような目つきで藤堂を見た。
「考えて喋れよ」と藤堂は言った。「今日みたいな機会はもうないぞ。俺を時和会の藤堂義右やと、ちゃあんと理解した上で喋れ。ガキの戯言に耳を貸す程暇やないし、ステゴロで下手こいた罰として己に課したこれはペナルティみたいなもんじゃ。本来俺がお前らに話をせないかん義理なんぞないし、タダ酒飲ましたる謂れもない。お前らがどう思おうとどういう行動に出ようと構わんが、俺を敵に回したいのか、そこをちゃんと考えた上で喋れよ」
 そう言われては銀一は黙った。持って回ったような言葉は難しくて分からない。ただ、藤堂を敵に回したいのかと言えば、それは違う。だがその事と、自分が尋ねたい話にどう繋がりがあるというのか。何を聞き、何を話せば藤堂が敵に回ると言うのか、全く理解が出来なかったのだ。
 竜雄が言った。
「はっきりさせとくわ。俺ら、あんたの事はどうでもええ。俺らはヤクザやないし、敵に回すとか味方に付けるとか、そんな事考えて生きてない」
 銀一は大きく何度も頷いて、竜雄の言葉に賛同した。竜雄が続ける。
「聞きたい事は色々あるけどよ。全部が全部藤堂さんの口から聞けるとは俺らも思ってない。ただ確実に言える事は、あんたの差し金でこいつらは今回の事件に巻き込まれてる気がしてならんのよ。卑怯な事はしとうないからここではっきり言うとくけど、俺も、平助から相談を受けとった。だからいずれはあいつの家に関わる事にはなったと思う。その点が早いか遅いかだけの話やと言えばそうかもしれんが、…なあ、なんであんたはこいつらを関わらそうとしたんや? こいつらと言うか、俺らを」
「難しいなあ」
 と藤堂は素直な感想を口にした。
「これはほんまに、俺はお前らをどうこうしようと思うてあんな話をしたわけやない。確かに西荻の家にお前らと同い年のガキがおる事は知ってたし、バリマツ殺しと警官殺しの接点があの家にある事も分かってた。本来なら内々で探りを入れるのは簡単な話やが、慎重にならざるをえん理由も、…まあ、なんというかな」
「志摩か?」
 と銀一が言った。
 場の空気が一変した。
 藤堂は腕組みをしたまま右手にブランデーの入ったグラスを握っていたが、銀一が言葉を発した瞬間そのグラスを握り潰した。慌ててボーイが駆け寄ってきたが、藤堂はバラバラとフロアに砕けたグラスを落とし、「ええわ」とひとこと言って下がらせた。
 藤堂はすぐには答えなかったが、銀一達が黙っていると、やがてゆっくりと話を始めた。
「俺にとっても、賭けやった」
 先程のボーイが、ブランデーがなみなみと注がれた新しいグラスを持って現れた。藤堂はそのグラスを黙って受け取ると突如立ち上がり、
「下がれ言うたやろうが!」
 と叫んでボーイにグラスを投げつけて、蹴った。周囲で悲鳴が上がり、ケンジとユウジが様子を見に現れた。和明は黙ってボーイが立ち上がるのを助け、「すまんな。こっちはもう関わらんでええし、警察だけ呼ばんといてな」と小声で言った。
 仁王立ちのまま空中を睨み付ける藤堂の姿は、まさしく『時和の暴れ牛』の異名そのままであった。興奮して今にも蒸気が立ち昇りそうなその立ち姿に、銀一は内心「ようこいつに喧嘩で勝ったな」と少しだけ感心した。
 藤堂はテーブルにあった水割り用の氷を口に含むと、バリバリと噛み砕いて「んんん」とうなり声を上げてソファーにどかりと腰を落とした。
「一番初め、最初に首を捻ったのは、こいつらの話を聞いたや」
 藤堂はそう言い、意外にも遠巻きに自分達の様子を伺っていたケンジとユウジに親指を向けた。銀一達は彼らが側に来ている事にこの時ようやく気がつき、そして突然の事態に首を捻った。
「お前らの仲間に、神波春雄がおるやろ」
 不意打ちで藤堂の口から飛び出た春雄の名前に、銀一達の心臓が爆ぜるように跳ねた。
「あいつが年端もいかん女子を東京へ呼び寄せた時、娘の親から追手を放てと依頼されて、この、ケンジとユウジを差し向けた」
「藤堂さんがか?」
 と銀一が聞いた。
「直接命令したんは俺やない、うちの親父や。その娘っちゅうのはお前らも知ってる通り、志摩の妹や。当時志摩は既にうちの構成員やったのと、あいつの父親とうちの親父が懇意にしとったのもあって、俺ん所へその話が来た。俺はなんでそんな下らん事で自分とこの若いのをわざわざ東京へやらないかんのやと小言を言いよったが、親父は聞く耳もたん。とりあえず力づくで奪い返して来いという命令やった。失敗は許さんと、なんやえらい本腰の入れようで、それが却って阿呆臭いと取り合わなんだ俺は冗談半分でこの二人を差し向けたんや。力づくという話になればこいつら程確実な人材はおらん。そんなもん、相手がどうなっても責任負わんぐらいの気持ちでおったのを、こいつらはまんまとしくじりやがった」
 銀一達は顔を見合わせた。
 この話は聞いた事がある。しかしケンジとユウジ、そして春雄との間にどのようないざこざがあったのかという詳しい事情までは聞かされていなかった。そもそも春雄達に追手が放たれていた事を知ったのも随分と後になってからであり、その時には既に春雄はこの件を笑い話に変えていた。当時、春雄の口からはケンジとユウジの名前すら出て来なかったのだ。
 棒立ちのままのケンジ達に向かって、銀一が言う。
「風の噂ぐらいには聞いた事あったけど、ほんまやったんか。…なんでお前らは、響子を連れ戻さなんだんや? いくら相手が春雄や言うても、二人掛かりでいけば」
「春雄君とはやりおうてない」
 そう言ったのはケンジだった。銀一達は驚きのあまり目を見開き、そして黙った。視線だけがお互いの間を乱反射する。状況が上手く把握出来ず、言葉を待つ彼らの空気に、渋々という表情でケンジは話を始めた。隣に立つユウジの顔は、暗く沈んでいた。
「と言うかあん時は会ってもないわ。俺らは春雄君に辿り着く前に、素性の知れん奴に襲われたんじゃ。一瞬やったわ。多分背後からやと思うけど、不意打ちでガツンと一撃顎に食ろうて二人とも一発KO。相手はもしかしたら二人やったかもしれん。それぐらい、俺もユウジも反応でけんかった。地べたに這いつくばって完全に意識がなくなる寸前、あかん、これは死ぬと思った。その俺の耳元で声が聞こえた。『神波春雄には手を出すな。志摩響子を東京に置いて帰れ』」
「その声に聞き覚えはあったんか?」
 と竜雄が聞いた。寝起きのような、緊張で潰された喉から来るしわがれた声だった。その言葉の意味は、『志摩か?』であった。
「ない。囁くような、けど恐ろしい声やったわ」
「ほいでこの馬鹿タレはおめおめと負けて帰ってきよったわけや」
 藤堂はそう言い溜息を付いたが、その言葉ほどケンジ達に対して怒っているようには見えなかった。更に藤堂は言う。
「本来ならそれで済ます話やないわな。親父からの直々の命令や。なんとしてでも娘を奪い返さにゃならん。ただ、今も言うたこいつらの話を聞いた時、俺は思い出したんや。ひょっとして俺は、こいつらをそんな目に合わした奴らに、会った事があるかもしれん。ひょっとしたらそれは…」
「そいつらが、黒か」
 と、銀一が言った。銀一の言葉にゆっくりと頷いた藤堂に、
「雷留であんた、実際に会うた事があるって言うてたけど、その話か?」
 と、竜雄が聞いた。
「まあ、…確信はない。随分前の話やし、それに、アレが黒やと認識したのは俺やのうて、成瀬さんの方なんや」
「…え?」
 成瀬? 突然出て来た老刑事の名前に、銀一達は戸惑いを隠せない。情報が多すぎる。
 藤堂は自分の右手を顔の横に上げ、先端の無い親指を動かして見せた。
「まだ俺が十代で、ヤクザモンとして駆け出しやった半人前の頃、恐喝の現場で下手打った。ある時自分の不倫相手を獲られたかなんだか言うて、食品会社の社長が泣きながら転がり込んできたんじゃ。相手の事もよう知らべんと、よし分かった、いっちょ噛み付いて金分捕って来る言うて、その社長からも依頼料として金を巻き上げ、相手を痛め付けて引き出せるだけ金引き出して、依頼してきた社長には少な目に渡しといたらええわて、簡単に考えとった。所が相手は名うての政治家で、当時世間を賑わせた汚職事件にも裏で噛んどるややこしい男やったんや。当然そういう奴にはそういう奴なりの、今で言うボディガードやらなんやらの裏ルートがある。それがどこぞのヤクザならまだやりようがあったもんの、得体の知れん奴が突然ふらっと出て来よった」
「庭師か!?」
 と、堪え切れずに銀一が叫んだ。
「え? 庭? 何じゃい」
 話の腰を折られた藤堂は銀一を睨んだ。
「すまん、何でもない」
 と銀一は答え、藤堂は再びグラスの氷を口に含んで噛み砕いた。
「俺の運が良かったのは、その場にたまたま成瀬さんが居合わせた事や。向こうは向こうで、その汚職事件の捜査で俺が標的にしとった政治家を追ってたわけや。場所はその政治家のオフィスで、俺の方が先客として写真なんぞチラつかせながらガンガンその政治家に追い込み掛けよった。そこへ成瀬さんが現れた。あっちは頭の先からつま先まで筋金入りの刑事や。こっちは正に恐喝の真っ最中。こらあかんと思うて撤退しかけた所へ、ふらっと黒いスーツの男が入って来た。ノックもなしに現れたその男は俺を見るなり顎に一撃。俺が持ってた政治家の不倫写真が空中に舞い上がったのだけは覚えてるわ。意識が戻った時、俺はいつの間にか成瀬さんと並んで土下座しとった。何でやねん思うて立ち上がろうとしたけど、成瀬さんが俺の頭を上からグイグイ抑え付けよる。『相手が悪い。堪えろ』あの人はそう言うて、自分も決して顔を上げようとせなんだ。俺も若かったし意味も分からん。不意打ち喰らったままただで帰れるかいってなもんで無理くり立ち上がった時、聞いたわ。ケンジが言いよった、囁くような、恐ろしい声を」
 誰も言葉を発せなかった。身動き一つせず、藤堂の話に聞き入った。
「『跪け。一言でも喋ったら殺す』。そう、言いよったんじゃ」
 鳴りやまぬ音楽と嬌声で騒がしい筈のキャバレーにおいて、銀一達の座るこの一画だけが水を打ったような静けさに包まれていた。
「若いっちゅうのは罪やぞ。あの時俺は心底震えあがった。そやけど、震えあがってる己が許せなんだ。何を言おうと思ったのか、今となっては思い出せん。たった一声、『おい』と口にした瞬間、成瀬さんが俺の右手を引っ掴んで、床に転がってたドスでこの指を切り落とした」
 銀一達の、開いた口が塞がらなかった。当然呆れたわけではなく、驚きのあまりだった。
「驚くのはこっからや。確かそのドスは俺が懐に忍ばせてたものやが、いつの間にか床に落ちとったんやな。そのドスを握ったまま成瀬さんはこう言うた。『こいつはまだ何も分からん、ただいきがりたいだけのクソガキや。ワシに免じてなんぞ言うつもりはないけど、今日だけ、この一回だけでええから見逃してやってくれ。その代わり、きちんと代償は払う。こいつのこの親指と…』。成瀬さんはそう言うて、自分の足にドスを突き立てた。『ワシの足の指持っていってくれ。この通り』。場所が、政治家のオフィスやったいうのも功を奏したんかの。恐喝でガンガンに追い込んでた筈の政治家の勧めもあって、俺らは無事解放されたと、まあ、こういうわけや。知ってるか、それから成瀬さん、刑事のくせに走るのめちゃくちゃ遅なってのう。こっちは現場抑えられても余裕で逃げおうせるんやけど、なんや悪うて、俺は何度か自分から捕まりに行ったったわ」
 話の最後には機嫌良さげに笑う藤堂だったが、誰一人笑える筈がなかった。にわかには信じがたい話だったが、受け入れるしかなかった。
 竜雄がウィスキーの入ったグラスをあおって、口元を抑える。
 和明はテーブルのどこか一点を見つめたまま動かない。
 銀一は両手を膝に置いて鼻から溜息を逃がすと、やがてこう切り出した。
「ケンジとユウジを襲った奴と、あんたから親指を奪った男は、同じ人間なんか?」
 藤堂はしばらく考え、
「分からん。俺の記憶も曖昧でな、顔はよう覚えとらんのや。正面からどつかれたもんの、一発で意識飛ばされとるし、その後はまともに顔を見取らんでな。こいつらも、それは同じようやし。ただ、この業界で生きてれば黒の噂話も堅気の人間よりは多く耳にするからな。どこどこの仕事は奴らの仕業らしい。どこのぞ馬鹿が黒に立てついて組ごと消されたらしい。尾ひれ付くのは当たり前としても、火のない所に煙は立たんでな。…なんとのう嫌な予感というか、匂いというものはある」
「志摩とはどう繋がる?」
 銀一の追及に、藤堂は首を横に振る。
「ケンジらが誰ぞに襲われた後、東京から俺に連絡を寄越した。あれはまだ東京におった時やのう?」
 首だけ振り向かせて藤堂が言うと、ケンジとユウジは頷いて答えた。ケンジが言う。
「東京駅や。ワシらは最初、商売敵が仕事の邪魔をしよったんじゃと思うてこの人に連絡したんよ。例えばなんや、懸賞金みたいなんが春雄君らに出とって、先を競うように他の奴らも送り込まれとんやないか、そいつらにやられたんやないかて、そう思うたんじゃ」
「しゃないとはんなもんひーわからんふぁ」
 口を開いたユウジの言葉は誰にも理解されず、場が静まり返った。
「ユウジ、俺喋るわな」
「うん」
「ただ藤堂さんに聞いたら、そんなわけあるかいて一蹴されて」
「当たり前やんけ」と藤堂。「なんでただのガキ共が駆け落ちしたぐらいで賞金が出んねん。そんなもん俺が行くわ。ただ、そうは言うてもこいつらがいてこまされたんがホンマなら普通やない。そら念の為に確認を取ろうとはする。そしたら、志摩に聞くのが一番早い。おい、お前んとこのおとん、他所にも手を回して追手差し向けとるんか?」
「志摩は…なんて?」
 銀一が聞くと、藤堂は一瞬口を噤んで銀一を見返した。
「おらなんだ」
「え?」
「どこ探しても、志摩を見つける事は出来んかった。やがてケンジとユウジがこっちへ戻って来るのと同時に、志摩も帰ってきた。お前仕事放っぽってどこしけ込んでたんじゃて言いよったら、ふふんと笑うて、野暮用ですと来た。俺もきったはったの世界で生きて来た博徒の端くれや。あいつの目を見た時に裏がある事は直感でけた。ただそれが何なのかは見当もつかん。昔からあいつは飄々とした所のある奴やったし、怪しいと感じたのはその一回だけやったから、それ以降深く追求する事もなかった」
「え、でもそれもう三年くらい前の話と違う? まだ十七、八やで」
 不意に思い出したように、和明が言った。
「せや。まだあいつは十代じゃった。そこから三年、志摩も俺もヤクザとして、同じ盃を受けた組織の一員として共に生きて来た。…バリマツが死ぬまではな」
「志摩が関係しとるんか!?」
 思わず竜雄が声を荒げた。
「証拠はない。前も言うたとおり、そういうものは一切ない。せやから想像でしかない。そもそも確信のある話ならこんなトコで酒飲んでる場合と違うからな」藤堂は自嘲気味にそう言い、グラスをあおった。「一年前に西荻平左が死んだ時、その殺害方法が常軌を逸してると噂になったのはお前らも覚えてるやろ。当時成瀬さんは俺のとこにも話を聞きに来た。うちの組が関係しとるんやないかと疑ってるようやったが、あれはヤクザの殺し方やない。俺と成瀬さんの間でなんとのう、嫌な空気が流れたわ」
「あんたら、そこまでツーカーやったんか」
 不意にケンジがそう口を挟んだ。
「ちょっと、付き合い方考えさせてもらわなあきまへんな。時和会の若頭が刑事と仲がええなんて、冗談でも笑えんよ」
 藤堂は、今更それがどうしたと言わんばかりに片頬に笑みを浮かべた。それが一般論と呼べるのかは分からないが、当時警察組織とヤクザは利害関係の一致する局面において、互いの行動を黙認するケースが珍しくなかったという。人間性や個人の性格も大きく関わってはいる為決して普通の事ではないが、藤堂と成瀬のような関係は、義理と人情を重んじた時代の象徴とも言えた。
「好きにしたらええがな。盃やろうなんて一言も言うてないぞ」
「親父は知っとるんけ」
「お互い利用しあっとるだけじゃ。親父は関係ない」
「ほう。ほなそう親父に言うといたるわ」
「好きにせえ。俺とお前らでは役割が違うんじゃ」
「はあ?」
 ケンジが凄んで前に踏み出すと、ユウジが腕を出してそれを止めた。
「ワシらは捨て駒やと言いたいんか貴様ァ」
 尚も牙を剥き出すケンジに、銀一は諭すような声で
「今は抑えてくれや。今後の事は後で考えろ。今は、志摩の事や」
 と言った。ケンジはフロアに唾を吐いて、藤堂に背を向けた。
「ケンジ。こないだお前らが赤江まで出張って来て志摩を襲ったんは、藤堂さんの指示か?」
 藤堂には直接聞かず、銀一はケンジに尋ねた。今のケンジならば、本音を話すと思ったのだ。
「ああ、そうや。ほんまの理由はしらん。最近いけすかんさかい、志摩シメてこい。金は出したる。そういう話やった」
 チっと舌打ちして藤堂が俯いた。
「極道もんが余計な事をべらべらと」
 そうボソボソと呟く藤堂の言葉に、
「お前が言うな!」
 とケンジが叫んだ。一色触発の空気を断ち切るように、竜雄が言う。
「お前ら二人は、藤堂さんが言うように志摩が怪しいとか、そういう風に感じた事はないんか?」
 ケンジは背中を見せたままユウジと顔を見合わせ、肩をそびやかした。考えた事もない。そういうニュアンスに取れた。銀一達の間に明らかな落胆が広がる。情報は増えるばかりで、一向に解決の糸口が見えない。
「握る者。投げる者」
 と、藤堂が言った。
「西荻平左が殺されてしばらく、都市伝説みたいな言い伝えが噂になってた頃、西荻の家にバリマツが頻繁に出入りするようになったと俺に言うて来たのが、志摩やった。バリマツの実の姉が、平左の息子の嫁やからな。まあ、そういう意味ではおかしな話ではないが、ただバリマツは知っての通りイケイケヤクザの代表格で、四ツ谷組の金看板や。うちのシマにそうそうでかい顔で出入りしてほしいない言うのも、そらあるわいや。そんな話を親父らとしよった時、何気ない顔であいつ、言いよった。『いつでも言うて下さいよ。殺して来ますよ、バリマツ』」
「し、志摩がか?」
 思わず、銀一の声も上擦った。
「せや。そうは言うてもうちと四ツ谷は隣り同志でそこまで敵対しとるわけやない。軽はずみな事しでかして抗争にでもなれば、近所で組構えとる分何かと面倒や。勝手な真似はするなよと言い聞かせてたおかげか、特に何も起こらんかったんやけどな。ここへ来てつい最近、また志摩の行方が知れんようなった。サラリーマンやあるまいし、常日頃から決まった時間決まった場所で働きよる仕事やないのはアレとして、大事な賭場にも顔を出さん、兄貴分である俺にも断りを入れん。普段の志摩にそういういい加減さはないから、何か面倒ごとに巻き込まれでもしたんかとも思うた。と同時に、四ツ谷の方でも騒ぎになってた。交流会の為に東京へ出かけとったバリマツが、戻ってこん、連絡が取れんとな」
「ちょい待て」と銀一が藤堂を遮った。「おいケンジ。お前らちょっと前に春雄に会いに行ったらしいな。それはお前、ひょっとして」
 背を向けたまま不貞腐れて黙っていたケンジが、銀一の方へ向き直った。
「ん、おお。せや、この人に頼まれて、バリマツと志摩の行方を探しよったんよ。見つけられんかったけどの。というか、ワシら二人が東京へ出張しとる時にはどうやら、もうバリマツはチンコロされてたらしいけどな」
「その話は、春雄にしたんか?」
「どの話?」
「志摩とバリマツを探しよるて」
「いや。人探しとるとは言うたけど、誰とか言うてない思うで。東京の事務所の番号渡した気がするけど、春雄君が自分で電話して聞いたりもせんやろし。…なんで?」
「いや、響子の耳には入れたくない話やから」
 銀一の言葉に、ケンジは荒々しく喉を鳴らした。
「カーッ!お優しい事じゃのお!」
「たらへんなはらしよの。はるほくんのけんばにはいくいうはなしやっとろろ?」
「なんて!?」
 ケンジを見やりながら首を傾げるユウジの言葉に、口々に突っ込みが入る。
「ああ、せやわ。東京の事務所でちょっと聞いたんやけど、バリマツ、行方が分からんなる寸前『船作ってるトコ見て来る』言うて、下のもんに言うてたらしいんや」
「…船?」
 銀一達は顔を見合わせた。
 とてつもなく、嫌な予感がした。

連載 『風の街エレジー』 15、16、17

連載 『風の街エレジー』 15、16、17

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-26

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 15 「根瘤」
  2. 16 「唯傷」
  3. 17 「腐覚」