終着点

ボーイズ駆け落ちです。

 十九歳の冬、彼とたった二駅の駆け落ちをしました。二人で、どこにいくかも決めないまま、電車に乗りました。

 無人駅には当たり前ですが人の影はありません。自分たちの住む場所の緑は時々僕らを覆いつくすように深く、それでいて僕らを包みはしませんでした。山間に住まう人間たちはひっそりとその身を寄せ合い、自分たちと異質なものには怯えながら、排他的な世界を壊さないように必死でした。きっと誰か一人にでも知られてしまったのなら、正確とみんなが信じる伝言ゲームで、僕たちは悪魔になるでしょう。けれども、この駅には人がいなかった。外に出ることを恐れるみんなに忘れられたようなこの場所で、久しぶりに、手を繋ぎました。
 いつの間にか弟の声は低くなって、背は高くなりました。それでも変わらない手の暖かさと、ちらちらと降る雪の冷たさのコントラストは、これからの行為を責め立てているようでした。
 夜の十一時十六分。少し小高い場所に位置する駅からは、この街を知るには十分な景色が広がります。街灯も数えられるほどしかなく、目立つ建物は電波塔くらいしかないこの街は真っ暗でした。天然のプラネタリウムが、頭上に広がります。そんな星ばかりが僕らを見送り、ついに電車のドアが開きました。
 僕の誕生日の前日に、二人の足は、緑色の床が広がる小さな電車に乗り込みます。明日は家で僕の誕生日のお祝いをしてくれると母は言っていました。食卓には、僕たちの好物が所狭しと並ぶことでしょう。石油ストーブの匂い、父の開く新聞紙の音、板張りの廊下のひんやりとした空気。そのすべてが、まるで夢のように、僕たちの間を揺蕩っています。
「寒くない」
「うん」
 窓の外は真っ暗で、遠くに見える月は少しだけ欠けていました。進んでいるはずなのに、田舎の風景は変わり映えがしなくて。はやくあの町から逃げたいのに、はやくあの町の風景から、僕ら二人だけを切り取りたいのに。まるで、足踏みをしているような空気に耐えられず俯くと、僕らの靴に付いていた雪が溶けて、小さな水溜まりを作っていました。
「兄さん」
僕と同じ場所を見つめながら、彼が空気を震わせます。答えるように、彼の顔を見ました。小さなころからあまり変わらない横顔は、少しだけ嬉しそうで、けれど悲しそうでした。
「この水溜まりはいつ乾くだろうね。」
静かに口角を上げて、僕にそう聞く彼は、何を思っていたのでしょうか。
「兄さん、誕生日おめでとう。」
「まだ、はやいよ」
 一駅一駅がとても長い電車の中、僕たちはろくに話もせずに、ただただ、お互いの手を握っていました。二駅目の駅で、電車は長らく止まったままでした。車掌がそう多くはない乗客一人ひとりに説明をしていきます。
「申し訳ございません、レールの異常が見つかりまして。」
「あとどれぐらいで動きますか」
「最低でも一時間は、」
 申し訳なさそうに言う彼にお礼を言って、何となく隠した手を握り直すと、弟は僕の耳元に口を寄せます。
「一時間、何しようね」
 まっすぐに僕を見る弟は、いたずらをするような顔で笑いましたが、少しだけ顔色が悪く、ただでさえ色白な肌が、みているだけで寒そうでした。
「大丈夫か」
 弟は体が弱く、気管支炎を患っていました。彼が養子に来た時から、幾度となく苦しそうな彼を見てきました。発作は本当に苦しい事も、家族に迷惑をかけているということに辛さを感じているのも、痛いほど知っていました。
 彼が僕に対して、兄弟以上の想いをみせるようになったのは、いつからだったでしょう。自然なふりをして、不自然に、僕らは一つになることを望むようになりました。弟に必要とされることが、一番の喜びになるようになりました。咳で苦しむ弟が、一番に縋りつくのが僕の腕であるということに、言いようのない優越感を感じて、僕は何度も自分を殺したくなりました。けれど、弟も『同じ』であると知ったときの体の中に廻った感覚を、ついに今日の日まで、捨てることが出来なかったのです。
 はじめて重なろうとした時、二人とも咽び泣いたのを覚えています。両親への懺悔と、背徳感と、喜びと、肌のぬくもり、それら全てが一気に押し寄せて、僕らの幼い心と体を押しつぶしました。誰に言うでもなく、お互いに言うでもなく、僕らは謝りながら、何度もキスをして、何度も、固い骨同士で抱きしめ合いました。そして、その日の夜明け、僕たちは約束をしたのです。
 駆け落ちをしよう、電車に乗って、遠くへ行こう。終着点で降りて、二人で暮らそう。
 今その約束を守るために、僕らはこの場所に在りました。けれど、目の前の、辛そうに咳をする彼を見ると、約束が霞むのです。手に入れたかったのは、何だったのでしょう。大事な弟を苦しめてまで、何を願うのでしょう。弟の背中を摩っていると、てっぺんを指す腕時計の針が見えました。僕は、二十歳になりました。
 あの約束をした朝、僕は大人になりたいと今までにないくらいに願いました。時がたてば、大人になれる。そう思っていました。信じていました。だけど、何も。何一つとして。僕は、僕らは。年齢なんて、時の流れなんて。出来ることは、僕に出来ることなんてものは。
「にいさん、誕生日、おめでと、」
 肩で息をしそうな弟が、笑顔で、僕に向かってそう言うものですから。思わず彼を抱きしめました。大きくなった彼の背を、変わらない黒い髪を、彼の存在を。ねぇ、大好きな、大事な人よ。約束も守れない、大人にだってなれやしない。この気持ちを、この電車に捨て置けるほど、強くもなれないんだ。
「にいさん、暖かいね」
「うん、」
 泣いていたかもしれません。みっともない、顔だったかもしれません。だけどもそれは、弟も同じでした。あぁ、お前と同じだ。お前と、同じなのだ。それが悲しくて、つらくて、だけど、この上なく嬉しいんだ。
「家に、帰ろう」
 お前が幸せになれる場所は、僕のとなりなんかじゃない。けれどその場所に、我が物顔で居座ることは出来るから。あの場所で、小さな小さなあの世界で。お前が大人になって、僕を必要としなくなるまで。
 二十歳の冬、彼とたった二駅の駆け落ちをしました。二人で、家に帰るため、電車を降りました。無人駅には、人がいなくて。繋いだ手を、さらに強く握りました。

 電車の中に作った、小さな水溜まりは、乾いたでしょうか。
 叶うなら、乾きませんように。

 水溜りだけでも、終着点まで。

終着点

終着点

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-26

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