精神病者とテレパシーの檻
ある病んだ精神病院の、医者たちの間には、ひとつの定説があった、それは仮説でしかなく、ある意味でオカルトだったが、精神病を見る医者たちにとってそのオカルト的一説こそが、現実逃避のための安寧の場所だった。このとある病院を、A病院と仮定して話をすすめる。
病院内は、離れた場所にある隔離病棟以外はいたって普通の、ほかの一般的病院と変りはなかった。ただその特殊な隔離病棟では、話せる患者、意思疎通が可能な患者と医者との交流が頻繁に行われていて、それを日記にして患者ごと、日付ごとに記録していた。
その中に一つかわったものがあり、その病院内で伝説的に語り継がれている、だからこそいまもそのコミュニケーションや日記、記録が行われているといってもいい。
もう、30年も前になるが、この病院の隔離病棟にAとBという患者が別々に収容されていた。その患者は実際に面識があるわけではないが、互いにその患者同士の名前や、その日の様子などを医者に語る事があった。それは、離れた収容室にいる患者が、会うわけでもないのに情報のやりとりをしている、そのことをほかの医者に話すのだ。昭和のその時代に携帯電話はなかったし、それは、実際に合う意外の何らかの接触をしている、つまり、テレパシーのようなものが行われているとしか、そのときの医者や、看護婦、その他家族などにも説明はつかなかった。
「Aさん、今日は朝早くおきてたね、7時ごろだね」
とBがいうときにはたしかにそうだったし、
「あのBさん、いつまでたっても食事をこぼしてしうまうのだね」
とAがいうときにも確かにその日、Bは食事中におかずやそういうものをこぼしたりしていた。
お互い30代の女性で、気の合うところもあったのかもしれないが、実際はたからみても異質な出来事はあって、双方の患者の様子を医師たちが覗きみるときには、お互い何もない空間、隔離された一室でだれもいないのに確かに会話をしているような様子が見られる事があった。
Aには、ひとつかわったエピソードがあった。といってもそれ自体が医者に本人の口から直接語られた類のものではなかったが、それはBの口から語られたものだった。
「Aさんがね、いうのよ、私、昔へんな虫にさされたことがあって、それから心に変調をきたしたのって、それは兄のいたずらだったんだって」
そうかたるBさんは、つねに悲しげだった。パイプ椅子に腰かけ、医者に相談をする様子だった。実際にこんな風に語りかけたこともあった。
「Aさん、いじめられてたのかなあ、子どもの時代にそんないたずら、兄さんにされたんだねえ」
そう語る彼女の顔は、同情によってひどく気を落としていた。
だがあるとき、急にAの様子がよくなって、徐々に回復していき、いつしか意思や家族とも普通の会話ができるようになった、たまに直接Bと話す事もゆるされたし、互いの家族とともにBと例のテレパシーについての、不思議さについて語り合ったこともあった。そのとき、AはBにこのの本当の、続きの話をした。
「あの虫にさされたのは、実は私ではないのよ、いたずらしたのは、私ではない、それでも私はその時から、病んでしまったのよ」
Aは小学生のとき、昔から兄にいじめられていたらしかった、だがあるときいたずらで毒のある虫をほんのいたずらのつもりで、実際毒をもつ虫をつかって兄をおどかした、兄は毒におかされ、一時入院していた、その後大した問題はなかったが、兄はそれからいじめもしなかったし、口もきかなかったのでAと他の家族との関係も問題のあることにはならなかった、ただ、Aはそれでも自分の心に何か胸につっかえるような感覚がのこっていて、そこから心を病み始めて、いつしかこの病院に入院する事になったらしいのだった。その話をすると家族もそれを承知している様子でそこに兄はいなかったが、むしろ彼女に強く同情しているようだった。Bとの仲がさらに深まったこともあってか、Aはどんどん、人並の活動ができるようになっていった。そして、入院は間近にせまっていた。
「Bさん、ごめんね、私退院するからね」
そういって、そのあれこれがあった3か月後にはAは元気になって退院をしていった。Aのいなくなった隔離病棟の病室で、Bは質素に、静かに得に眼だった問題もなく、徐々に健康をとりもどしていき、Bもそれから2年後に退院したのだが、それまで、一時期だけ調子を崩したときがあった、そのとき、医師がみると、彼女の右腕には、虫の形をした妙な腫れがあった。——Bには最後まで秘密にしていたが、それはAの腕にもあったものだった——彼女はときたま、その腫れを、ベッドの上でいたいいたいとかきむしったり、Aの兄——Bの談——の名前を悲愴に満ちた声で叫ぶことがあった。
精神病者とテレパシーの檻