傘
初めての掲載です
僕の彼女はいつも
雨の日は鞄にもう一本 傘を忍ばせている
どうして?って僕が訊いても
君は微笑むばかり
君にそう訊いたことさえ 僕が忘れかけた頃
君は答えてくれたね
“傘のことね”と前置きしてから
頬を赤らめて
少し俯いて―
“俊くんが忘れた時 いつでも貸せるから”
だけど
僕は君から傘を借りたことはない
雨の日はなぜかいつも
君と帰れないから
だから
彼女の鞄にはいつも
決して開くことのない傘が
入っているのだ
その傘の本当の持ち主は
自分ではないと
今日 君は教えてくれたね
“傘のことね”という前置きは
前と同じだったけど
俯いた君の頬は ハッとするほど青かった
僕は震える君の手を握ることしかできなかった
君が話してくれたこと―
君の鞄の予備傘は
君が想っていたひとの傘
彼が
いつも傘を二本持っていたんだね
三年前の秋の日
君は傘を忘れた
外は土砂降りの雨だった
帰れない君を見つけて
君に傘を差し出したその人は
とまどう君にもう一本の傘を開いて見せて
“二本あるから大丈夫”と言い残し
君に笑いかけると
雨の中を帰っていった
その日が最後の日になることも知らずに。
わずか数分後には
歩き慣れた通学路の
青信号の横断歩道で
トラックにはねられることも知らずに―
それから
君の手には傘だけが残った
君はその傘を鞄に入れて
晴れの日だって持って歩いた
そして
雨の日が来るたびに
君はその中を走りに走って
流れる涙を振り払い、振り払い
必死にその苦しみに耐えていたんだね
君は傘を借りたまま
彼の傘を借りたまま
これからもずっと
雨の日を過ごさないといけないのだ
何千日も 何万日も
君は彼に傘を返せる日が来るまで
ずっとずっと待っているつもりなのだ
静かに 傘の話は終わった
長いようで短かった
短いようで長かった
“俊くんにこんな話してごめんなさい”
泣きじゃくりながら僕に頭を下げ続ける君を
僕は思わず抱き寄せた
次の雨の日こそ
君の隣にいるよ
そう 伝えたかったけれど
それは言葉にならなくて
僕はただ
君を抱きしめるしかなかった
僕は彼の代わりにはなれない
誰かが誰かの代わりになるなんて
土台無理なことなんだ
かけがえのない誰かを愛する人がいるのは
その人がかけがえのない存在だからだ
だから僕は代わりにはなれない
だけど精一杯 君を愛している
愛しているということは
愛する人の悲しみも
一緒に感じていくってことなんだ
ぽつりぽつりと雨が降り出し
君の涙はやがて止まった
君が今日 傘のことを話してくれたのは
君が今日 彼の傘を
鞄から引き出しへ引っ越すことに
決めたからなんだね
君は気づいたんだ
彼の傘の入った鞄はあまりに重くて持ち歩けないってこと
そして
鞄から傘を出しても
彼を忘れることにはならないってこと
だって彼は鞄の中ではない、いちばん遠くて近いところで
いつも君を見守っているはずだから
学校に残る僕と
家に帰る君
“ばいばい”と手を振って
君は自分の傘をパッと開いた
時雨の中でいつものように
君は傘を広げて
チャイムの余韻に背中を押され
遠ざかる傘の波にいつのまにか交じってゆく
歩いてゆく君の鞄には
もう一本の傘が忍ばせてある
傘
読んでくださってありがとうございました