唄う鳥。
ジャンパーの擦れる音と、手をこすり、息を吹きかける音とともに、絵描きのななめ向こうから声がした。絵描きはそのとき、自分が現実世界の、土曜昼間の公園にいたことをおもいだした。それまで集中して、無名の作家の小説に目を通していた、彼はこうしてときどき自分の絵をうる。
「いくらだい?」
「あなたがお得意さんでたすかるよ、これは、700円でいいよ」
「いやに上機嫌じゃないか?」
「鳥にエサをやるんだ」
絵描きは急いでキャンパスを整理した、客はつりをうけとりながら、姿勢をくずして片方の腰に重心をあずけて、つりせんを掌でころがしながら、土曜の昼の暇をもてあます人のように会話をつづけた。
「ジョーさん、僕は野良の鳥をひろったよ、ひどく傷ついていたんだ、だけど時々歌をうたうんだ」
「うただって?小型の鳥か、インコかオウムかい」
「小さいのだよ、とてもきれいな歌をうたうよ、それは時々物語じみているんだ、癒しを与えてくれた」
「へえ……お」
言葉をくぎって、少しためらってジョーとよばれた、ジャンパーとシャツをきた老人はひげをたくわえたあごにてをかけて話しつづけた。空はくもひとつないほど澄み切っていた。
「お前さんの絵は……評価がおいつかないだけだからなあ」
絵描きが絵を渡すと、思慮深く見える老人のしわのよった両目が受け取った絵に目を通す、そこには青空の絵があった、ジョーさんは絵描きのお得意さまで、今日のように土曜の日に公園広場の噴水の前にやってきてくれる、そして、いつも隣人や知人、息子などに彼の絵を渡すのだった。ジョーさんは彼の、絵描きの絵描きとしての才能を認めていた、確かに絵はうまいし、クセも変わったものがついている、ただ、往々にして芸術には評価が伴わないことはありうることだ。絵描きは、自分の憧れたのがそんな世界だと、初めからしっていた。ただそっくりそのまま絵を丁寧に書ける人間などどれほどの数いるだろうか、そうでなく個性を探すにしても、人の受け入れる個性をみつけなくてはいけない、葛藤ならば、きっと死ぬまで続くのだ、彼が絵描きをやめないかぎり、しかし彼の心は、いつにもまして平穏だった、家にかえれば、青い鳥がいる。
青い鳥と絵描きの彼は、3日前から一緒だった、その時間を絵描きはとても長い時間のように感じていた、それは永遠のようだった。しかし青い鳥は彼の絵をたたえることもほめることもなかった、彼が鳥を助けようとしている事にもきがつかなかった、ただ青い鳥は、彼が家にいるときと、彼がその手から餌をわたすとき、必ずよろこんで歌をうたった、絵描きはそれを対価だとかんじていた。そのぬくもりの中で描く絵はとても素晴らしいものだった、知らない異国のものがたり、しらない絶妙なメロディの曲、それは彼もきいたことはなかったし、およそ一般的な人々も聞いたことのない、無名のメロディだった、しかしそれはとてもいい旋律で、彼に彼のあこがれの理想の夢をもたせていた、だから彼は、その間、鳥のために絵をかいていた。
一週間後のこと、また土曜日に、件の公園に絵描きはいた、今日は青い鳥と一緒だった。
「ジョーさん、今日は絵は買わないんですか?」
「ちょっと、かかあが熱でさ、あんまり金がないんだ、すまねえ」
ジョーさんは、悲しそうにいった、それがなぜだか、青い鳥の旋律ににていた。青い鳥は、歌をうたった。
「はははっ、ほんとうだ、こいつはほんものだぜ、おや?」
ジョーさんは何かに気がついたようだった、しかし何も言わずに、絵描きのほうをみて、話しをつづけた。
「なあ、今日きたのは話をするためだけさ、たまにはこういうのもいいかな?」
「ええ、全然かまいません、それより、いままでこういうときにいっこうにきをつかえなかったのが気がかりです、今度奥さんも一緒にいらしてください、元気になったらお祝いに似顔絵をかきますよ、そのときは値段はいりません、僕の練習です」
「さすがにわるいよ」
「いいえ、青い鳥のおかげです、僕はそういう事をしたことがなかったから、彼はなんでもしっていますよ」
夜中になると、絵描きは家にいた、シャワーをあびて、寝室へいくと、いつものように物語を話してきかせてくれた。
「おや、なぜだろう、今は夜中だし、いつもは餌をあげないとだめなのに」
そのとき、絵描きは鳥の足のかざりに初めて気がついた、そこには名前の書かれたリングがあった、彼には、本当の飼い主がいる。そのことに飼い主は気がついた、気がつかなくてはいけなかった。彼が、その鳥との別れをさとり、その決心をするまで、およそ一か月はかかった、その間、何回、何十回も同じ質問をした。餌をやっても、絵をかいても、鳥はもう、前の様に幸福な歌をうたわなかった。
「なあ、どこへ行きたい?」
憂鬱な表情の絵描きは、泣きながら鳥をみた、目を覆うように顔をつっぷして、机の前で眠ったこともあった、夢で歌をうたっても、絵の図案をつくっても、鳥の姿が頭をよぎる、朝起きて餌をあたえても、鳥は、もう餌に喜ばなかった、ただほかの鳥のようになくだけだった。
「チュンチュン!!」
一か月の間、鳥は歌を唄わなかった。彼は、鳥を逃がす事にした、それだけが弱り切った絵描きにできる最後の仕事だった。絵描きは、一か月でげっそりやせた、その自分の姿を、初めて鳥を拾ったときの姿にかさね、そして見比べ、土曜日のジョーさんにあった次のひ、どこか森のあたりに逃がすことにきめていた。
唄う鳥。