異次元マナー
「またきたんですか」
不思議の国のアリス―—とはおよそいいづらい、なにせそいつは男で、しかも筋骨隆々で、それに老いた紳士だからだ。紳士服のすそとえりをただして、また僕に気を使うような上目使いの目線をする、彼の弱点をひとつだけ、敢えてあげるとするのなら、その身長の低さ、逆にいえば、それいがいに大した非を、人間としての非を感じない。
「また、といわれましても僕は何も覚えていないんです」
「そんなわけはありません、あなたは、ここに来るたび、思い出す、そしてここでは、あなたはあなたで、私は私でありつづける、あなたはじきにおもいだすでしょう、ささ、おすわりください」
緑の庭、にわをつっきった真ん中の通路、カーブ状にかこう植木、その中の丸テーブルにひさしを備えた休息所があった、僕と老紳士はそこにいて、僕は老紳士にうながされるままそのテーブルに備え付けのひとつの椅子にこしかけた。テーブルの上には紅茶があり、空のカップがちょうど僕の前にあり、それを自分の前によせて、老紳士はポットから紅茶をそそいで、また僕の前へコップをよこした。
「ここは、おじいさんの邸宅なのですか?」
「さあねえ、それはあなたの認識にもよる」
「さあって……」
僕は、その人の事を想いだした、その場所にも何度かきたことがあった、そのことが思い出せるという事も、何度もこんなことがあったことも彼のいうとおり、その時思い出せた。ふと背中に何かがぶつかって、はじける感触がした、それは感触からいって、小さな風船のような感じがしたが、ふりむいてみると通路の奥で何かストロー上のものをくわえて、その先端から丸いシャボン玉をはきだしている少年の姿をみた。そしてひとつこの場所へきたことを思い出したかわりにひとつの記憶を失った事に気がついた。
「どうやってここへきたんだっけ」
さっき失ったシャボン玉が割れる音を気がついた、背中にふれたのは、たしかにシャボンだまよりももっとしっかりした感触で、あれは背中にふれるまで、確かに風船だったはずだ。
ふと目を覚ました、老紳士の記憶も、その場所の記憶もすぐに忘れたし、長い事その夢が何度も見る夢だと思い出すのは随分時間がかかったが、僕はこの記憶とは別に、夢の中の老紳士を眼前にした、それは写真だった。
「じいちゃん」
リビングでうたたねしていた自分は、机の上のノートを確認して、テレビへと目線をうつした、そしてその脇に、棚と一体になったカウンター状の部分に飾られている写真をみた、それは老紳士だった、その夢をみなくとも、この家があれほど大きな家でなくとも、彼が生前、紳士であったことにかわりはなかった。
異次元マナー