山犬の抜け殻

全体的に暗めの話です。
小説現代長編新人賞の一次選考通過作品。
カクヨムにも同じものを投稿しています。

プロローグ

 炎の中に、爺やの顔が見える。
 爺やは豆粒のような眼をさらに細めて、僕に笑いかける。
 ――坊ちゃん。
 僕には応えることができない。僕には何もできない。
 爺やはまた口を動かして何か言おうとするが、暴力的な炎に邪魔されて言葉にならない。皺を刻んだ頬を、額を、紅い炎が舐めて溶かす。
 やがて真っ白い骨になって、それでも爺やは笑っていた。

1

 いつもの夢で目が覚めた。内容は毎回同じではないけれども、三年前に死んだ爺やは炎と共に必ず出てくる。そして目覚めるといつも少し憂鬱になる。
 枕元の時計は六時を指している。普段なら二度寝を決め込むところだが、今日は職場に新人がやって来る日だ。準備もあるし、事務所まで車で一時間はかかるからそろそろ起きなければならない。
 カーテンを開けると、外には剝がれかけた漆喰の白と、漆喰の下から覗く煉瓦の赤と、目地を覆う苔の緑のまだら模様が一面に見える。数メートル先に立ちはだかる煉瓦造りの壁が、視界を遮っているのだ。窓を開けて首を捻り、壁の上に張り巡らされた鉄条網の向こうにある空を見上げた。雲一つない青空だ。それから壁の足元に咲いた菫の群生を眺めながら、壁の向こう側にある森に思いを馳せた。人の手が届かない静かな森。胸が締め付けられた。
「あら。お早いですね、坊ちゃん」
 振り向くと、既に身支度を済ませた住み込みのお手伝いの佳代さんが、開け放しの戸口から不思議そうに覗いていた。
「うん。今日は朝から事務所だから」
「いやだ、言ってくださればよかったのに。朝ご飯の支度、これからですよ」
 佳代さんは小ぶりな唇を尖らせた。そうするとふっくらした頬がますます丸くなって、一回り以上は年上のはずなのに僕と同年代の娘のように見えた。
「いいよ、自分でするから」
 僕は答えたものの、佳代さんは私から仕事を取らないでくださいよと言いながら、廊下を挟んですぐ向かいの居間へ入っていった。
 この屋敷にも、かつて――死んだ父が子供だった時分には使用人がたくさんいたらしいが、家のことを取りまとめていた爺やも死んでしまった今は、佳代さんしか残っていない。一族が消えかけているのもあるが、単純に金がないのだ。火事で半分焼け落ちた母屋も放置したまま、僕と佳代さんは無傷だった離れで暮らしている。佳代さんの給与だって、住み込みなので衣食住には困らないものの、自由にできるお金はほとんど渡せていない。昼間はやることもないからとパートで働きに出ているくらいで、もはやほとんど使用人の体をなしていない。なぜここに残ってくれているのか不思議だが、面と向かって訊いたことはなかった。訊くのは怖かった。
 居間と一続きになっているキッチンからは、水音や食器の触れ合う音が聞こえてくる。たまたまではあるが、火の手の及ばなかった離れに台所があって助かった祖父の代に改装したものらしく、中はちょっとしたマンションの一室のようになっていて、洋間が一つ、物置小屋が一つ、それに風呂とトイレもついている。僕は物置部屋を自分の部屋にし、佳代さんは居間として使っている洋間の一角を仕切って寝起きしている。二人で住むには狭いが、日常生活を送るには十分だ。
 少し遅れて居間に入ると、テレビでニュースキャスターが原稿を読み上げている。
――遺体には複数の咬傷が残されており――
――警察は、山犬に襲われたものとして調べを進めています――
 画面が切り替わり、被害者の顔写真が映し出される。高校の卒業アルバムから取ってきたと思しき青い背景の写真。それから子供時代の、満面に笑みを浮かべた写真。「いい子だった」「元気で優しい子だった」と語る近隣住民。被害者の父親が怒りの声を上げる。
――山犬さえいなければ。
 煽情的なだけの報道に嫌気が差し、僕はテレビから目を逸らした。
「最近多いですよねぇ、こういう事故」
 キッチンからひょいと顔だけ出して佳代さんが言う。
「新年度早々に嫌ですね。坊ちゃんも気を付けてくださいよ。『壁』の向こうは危ないんですから」
 佳代さんの視線を追うと、僕の部屋からも見える煉瓦の壁が窓越しに見えた。
「僕は山犬管理のプロだよ。そんなに心配しなくても大丈夫。……それに、もう奴らの方から壁のこちら側に来ているかもしれないし」
「もうっ! 脅かさないでくださいよ」
 佳代さんはむくれてキッチンに引っ込んでしまった。
 スタジオで「壁」の強化についての議論が始まったところで僕はテレビを消した。
 洗面所で軽く身支度をして戻ると、佳代さんが紅茶とトーストを持ってきてくれた。朝はあまり食欲がないのでそれ以上は食べない。これくらいなら別に自分で用意したっていいのだが、佳代さんは律儀に僕より早く起きて準備してくれる。雇い主と使用人という立場の違いがうやむやになりつつある中での、佳代さんなりのけじめなのかもしれない。
「最近、お仕事はどうですか?」
 自分も食卓に着きながら、佳代さんが訊く。
「どうって、特に問題はないよ。山犬が壁に近づく様子もないし、上からは相変わらずめんどくさい仕事が降ってくるし。今日から新人が来るし」
「ついに坊ちゃんにも相棒ができるんですね。どんな方なんですか?」
「うん……、別の畑の人間らしいけど」
 正直、どんな人物が来るのかよく知らない。しかし、いつになく目を輝かせている佳代さんを見ると、あからさまに興味のなさそうな態度を取るのも気が引けた。結局、僕は話題を変えることにした。
「それより、拓磨は……昨日も帰らなかったのか」
 後半は独り言だった。弟の拓磨が家に寄り付かなくなって久しい。ここ何ヶ月もまともに口を利いていないが、佳代さんには家に寄るとかしばらく帰らないとかその程度のメールが来ることもあるらしい。ただ、それも毎日ではない。昨夜は朝まで飲んでいたのか、それとも女のところか。僕にも佳代さんにもわからないし、咎めることもできなかった。
 案の定、佳代さんの顔が曇った。
「次に連絡が来たら、もう少し頻繁に帰られるように私からお願いしてみますね」
「……悪いね」
 佳代さんは困ったように微笑んだ。

 屋敷から事務所まで、ぼろの軽自動車を一時間ほど走らせる。屋敷の近くは空き地や雑木林ばかりで、「壁」の向こう側とそう変わらない。しばらく走ってようやくぽつりぽつりと工場が見え始め、やがて市街地に入る。わざわざ山犬の生息域に近い「壁」の近くに住もうなんて物好きは滅多にいない。
 山犬管理局の事務所は市街地に入ってすぐのところにある。事務所といっても市役所の片隅に形ばかりのデスクが用意されているだけで、仕事は屋敷の近くにある小屋を拠点にしている。最後に事務所を訪れたのは二週間前、新年度早々に上司と面談した時だったろうか。そこで新人の配属について知らされた訳だが、電話で済ませればいいのにとうんざりした記憶がある。
 市役所の灰色の建物の裏手に車を停め、薄暗い階段を上がって二階の奥の扉からオフィススペースに入る。時刻はまだ八時前、人影はまばらだ。知らない顔もある。軽く挨拶して自分の席に向かった。
 デスクにうっすらと積もった埃の上に、頼んでおいた新人用の荷物の箱が置かれていた。ガムテープを剥がし、中身を確認する。
 迷彩柄の作業服。靴。帽子。腕章。
 それから、段ボール箱の横に置かれた細長いケース。他の職員に見られないように薄く開けて中身を確かめる。一丁の猟銃。
 一通り確認が終わると、椅子に腰かけて書類を取り出し、これから会う予定の新人の経歴に目を通す。
 名前は大野ヶ原誠一、二十六歳。地元の有名大学を卒業後、国家公務員試験に合格。世襲が多い山犬管理局の人間としては異色の出自と言えるだろう。就職当時からの本人の強い希望により山犬管理局に転属……。
 書類の左上には履歴書用らしい写真が貼られている。胸から上を真正面から映した写真。同じようなものをつい最近見た。今朝のニュースの被害者だ。
「あのー……」
 所在なげな声に振り返ると、写真と同じ男が困ったような顔でこちらを見下ろしていた。
「ああ……、大野ヶ原さん?」
「そうですそうです。あなたが、山犬管理局の……?」
 ほっとしたように頬を緩めた男を、簡単に自己紹介しながら観察する。細身だが、スーツの下の体つきは意外とごつごつしているように見える。どちらかといえば鋭い顔立ちなのに、人懐こさが表情に滲み出る。どこかアンバランスで、それだけに女好きがしそうでもある。
「本日からよろしくお願いします」
 きちんと頭を下げる姿に、年下の先輩に対する嫌味は感じられない。勤務態度は真面目、楽天的、多少うっかりしたところがあるという上司からの前評判との齟齬のない印象だ。無闇にトラブルを起こすタイプでもなさそうで、僕はひとまず胸を撫で下ろした。
 詳しい業務内容は現地で説明することにし、僕らは裏手の駐車場まで移動した。大野ヶ原は今日から僕の家の母屋に下宿することになっているため荷物が多く、新しい制や猟銃は僕が抱えていった。
「すみません、持ってもらっちゃって。結構重そうでしたね?」
「そうだね。こっちは猟銃だから」
 黒いケースを後部座席に放り込みながら答えると、助手席に座った大野ヶ原の顔が心なしか引きつった。
「大丈夫。撃つのは大概空砲で、実弾は時々しか使わない」
「時々は使うんですね……」
 苦笑した大野ヶ原には応えず、僕は車を発進させた。
「今から行く場所が拠点になるんですね。どの辺りなんです?」
 窓の外を通り過ぎる住宅街を眺めながら大野ヶ原が確認した。
「『壁』のすぐこちら側。というか『壁』にくっついている。家からは徒歩五分以内かな」
「そうそう、ご自宅って凄いお屋敷なんですよね。楽しみだなあ」
「……今は廃屋みたいなものだ。それに、山犬管理の家としては大きいほうでもない」
 この国の人間は太古から山犬との闘争を続けてきた。古くは獲物や縄張りを奪い合って。人類に文明が芽生えてのちは、人間が家畜や安心して暮らせる土地を守るために。長い戦いの間に、山犬の扱いに特化した者たちが生まれた。恐ろしい山犬を遠ざける力を持った彼らは各地で珍重され、同時に共同体内の異分子として疎まれた。「壁」の近くに広大な領地を与えられ、一般の人々から遠ざけられた。それぞれ独自に活動していた彼らが「山犬管理局」の名のもとに統合されたのはほんの十年ほど前のことだ。肩書きは国家公務員になり、ある種の特権的存在から異端の役人に成り下がった。
「ところで……、なんで自分から管理局なんかに?」
 疑問を持つのは僕だけではないだろう。山犬は単に野生動物として危険なだけでなく、山犬に近づくと病気になる、毒気に当てられるといった俗信はいまだ根強く、その山犬と関わりを持つ人間もまた一般市民の目には薄気味悪く映る。世襲以外で山犬管理局に入ってくる者はほとんどいない。
 大野ヶ原は助手席でごそごそと座り直した。
「やっぱり、気になりますよね……」
 どこか自嘲するような声。車は工場地帯に入りつつあった。川沿いに点在する灰色の建物から出た煙が、底抜けに明るい空に溶けていく。
「お聞き及びかもしれませんが、俺、孤児なんです。両親は山犬に食い殺されました。だから、小さい頃からずっと山犬のことを考えていました」
 大野ヶ原は言葉を切り、窓の外に目を遣った。タイヤが土を踏むガリガリという音が耳につく。
「――それで、恨みを晴らすために管理局へ?」
 だとすれば見当違いだ。山犬管理局は、山犬が人里に侵入することを防ぐとともに、山犬を駆逐しようとする人間から山犬を保護する役割も担っている。山犬を殺したり痛めつけたりしたいのならその手の団体がいくつもあるし、そちらのほうが入るのも簡単だ。
「最初はそういう気持ちもありましたが……、山犬を消しても仕方ないと気付いたんです。山犬による被害はあくまで事故で、天災のようなもの。だったら、相手のことをよく知って、上手く共存する道を探ったほうが良いんじゃないか、そうすれば俺のような人も減らせるんじゃないか……と」
「……そうか」
 山犬は賢く、高度な社会性を持つ生き物だ。下手に攻撃すれば集団で反撃される恐れがある。それに、山犬がいなくなれば生態系が崩れて草食獣が過剰繁殖する。実際、「壁」を持たない農村部で人間の安心のために山犬を駆逐した地域では、巨大な猪や鹿が人里に降りてきて農作物を荒らしたり人に怪我をさせたりしている。大野ヶ原の言う山犬との共存こそが、管理局の目標だ。
「僕たちは人間と山犬の仲介役だ。時には山犬の側につく。大野ヶ原がそれを理解しているなら、いい。悪かった」
 助手席からふっと息を漏らす音が微かに聞こえた。
「構いませんよ。こちらこそ、のっけから重い話してすみません」
 それからは他愛ない話が続いた。出身地のことや、当たり障りのない世間話。話が家族のことに及ぶと、二人とも言葉が途切れがちになった。
「やっぱり、両親のことになると周りに気を遣わせちゃうんですよね。里親はいい人たちですし、俺自身はそれほど気にしないんですが」
 大野ヶ原が頬杖をついて苦笑する。
「僕も両親はいない。弟が一人いるが、家に寄り付かない」
「……あなたが俺に同情するような人でなくて良かったですよ」
 車がちょうど交差点に差し掛かり、そう言った大野ヶ原の表情を窺うことはできなかった。
「でもまあ、」
 大野ヶ原の声が一転して明るくなった。
「これからは一緒に住むわけですし、俺たちお互いが家族みたいなもんですよね。葵さん、俺のことは誠一でいいですよ。大野ヶ原って長いですし」
 いきなり馴れ馴れしい。横目で睨んでやったが、腹が立つほど屈託なくきょとんとしている。
「……大野ヶ原でいい」
 大野ヶ原はくすくすと笑い出した。
「不思議な人ですね、葵さんは」
 僕は黙ってアクセルを踏み込んだ。

 日が高くなる頃、ようやく自宅まで帰り着いた。
 まずは母屋に向かう。隣家さえ遠く離れた屋敷に塀らしい塀などなく、木漏れ日の踊る雑木林を走り、二本並んだ楠の間を抜けると、開けた空間に出る。その真ん中に建つ廃墟が、僕の生まれ育った屋敷だったものだ。今は向かって右半分が真っ黒に焼け落ち、青いビニールシートで申し訳程度に覆われている。乱れ咲く四月の草花が、誰かの手向けた花束のようにひっそりと彩りを添えていた。
 ひんやりと薄暗い廊下を通って左手奥の部屋に案内すると、気圧されたように押し黙っていた大野ヶ原がようやくほっとしたように口を開いた。
「相当古い洋館ですね。いつ頃からあるんですか?」
「さあ……、曽祖父の代にはあったようなことを聞いたけど」
「それじゃ戦前の可能性もあるんですね。歴史の匂いがする訳だ」
 大野ヶ原は、元は白かったのかもしれない琥珀色の壁紙を指先で撫でた。
 僕は板張りの床を奥へ進み、重たいカーテンを開けて窓を全開にした。年を経たものから滲み出る陰鬱な空気が少し薄まったような気がした。
「狭くて悪いけど、他の無事だった部屋はどれもカーペット敷きでね。長く放置した後で掃除が大変なんで、この部屋にさせてもらった」
「狭いって言っても、八畳くらいはありますよ。持ち物も少ないんで十分です」
 確かに、事前に届いた荷物は段ボールが三箱のみ、手荷物は大きめのスポーツバッグ一つ。家具や寝具はこちらにあるものを使ってもらうし、台所用品なども必要ないが、それにしても少ないほうだろう。
「……何なら他の部屋も使ってくれて構わない。二階は弟が使っているが、一階は空き部屋ばかりだ。ただし建物の右側は傷んで危ないから近寄るなよ」
 はあいと大野ヶ原は子供のような返事をした。
 建物から出た後、荷物を部屋に置いて身軽になった大野ヶ原を車の前に待たせ、僕は一人で飛び石の小道を抜けて離れに立ち寄った。佳代さんの姿は既になく、作るよう頼んでおいた弁当が冷蔵庫に入っていた。
 二人分の弁当箱を持って出ると、大野ヶ原が細長い手足をぶらぶらさせながら母屋のほうから歩いてくるところだった。
 そのまま車のほうに戻ろうとすると、大野ヶ原が不思議そうに声を上げた。
「あれ、鍵は掛けないんですか?」
「こんなところまでわざわざ空き巣に来る人間はいない」
「そうかもしれませんが……不用心じゃないですか? 女性が住んでいるんですし」
「君は都会暮らしが長いからそう思うだけだろう」
 大野ヶ原は呆れたように肩をすくめた。
 再び車に乗り込み、ものの一分で仕事の拠点に着いた。
 「壁」に接するように、「壁」と同じ煉瓦と漆喰の小屋が建っている。藍色の三角屋根まで蔦が這い上っていて、見ようによっては童話に出てくる可愛らしい家のようだ。しかし、銀色に光る無骨なアンテナが、屋根のてっぺんに突き立ってメルヘンチックな空想を寄せ付けまいとしている。このアンテナは、いつも僕に実験動物を連想させる。脳から電極をはみ出させた歪な生き物。
 風化しかけた木の扉を開けて中に入ると、右側の壁に寄せてテーブルと椅子があり、ディスプレイが一台設置されている。反対側の壁際には縦長のロッカーが二台あり、その周辺にはロープや芝刈り機など雑多な道具類が適当に置かれている。
 テーブルに荷物を置くと、薄く舞い上がった埃が太陽を浴びて輝いた。
「まずは支給品を渡しておく」
 大野ヶ原は軽く頷いた。
 僕は段ボール箱から新しい衣類を取り出して並べた。
「服装は基本的にこの制服を着ること。ただし森に入らないときは私服でもいい。それから、」
 僕は足元の箱から少し黄ばんだ灰色のグラデーションの毛皮を取り出した。
「山犬の毛皮。『壁』の向こうに行くときは、これを羽織るように」
 大野ヶ原は皮の端を指先でつまんでふんふんと匂いを嗅いだ。
「これで山犬の鼻を誤魔化せるとも思いませんが」
「人間の匂いをぷんぷんさせておくよりは多分ましだろう。まあ願掛けに近い面もあるんだけど……。山犬に見付かったらこれで脅かせ。当てなくていい、奴らも怪我はしたくないから音だけで逃げる」
 僕は猟銃の黒い銃身をぽんぽんと叩いた。
「ここでの仕事の内容は聞いているか?」
「山犬の行動を管理し、山犬による被害を未然に防ぐ。『壁』の向こう側に出る人の警護。日常業務としては、見回りと威嚇行動が主だと聞いていますが」
「そう。それから、我々に断りなく『壁』の外に出ようとする人間の制止と、出てしまった人間の捜索。この辺りは自殺の名所だからな」
 大野ヶ原は犬のような仕草でくいっと首を傾けた。
「名所って……、わざわざ死にに来るんですか? こんなところまで?」
「国内最大規模の保護林で、都会からもそう遠くない。山犬が生息しているお陰で捜索は困難。人間世界に痕跡を残さずひっそりと消えていきたい人間が一定数いるということだろう」
 大野ヶ原は首を傾げたまま、よくわからないやと笑った。そうすると白い八重歯が覗いて急に幼い印象になった。
 それから僕は具体的な仕事の進め方について簡単に説明した。
「――あとは上からの指令で色々やることがあるが、それは明日説明する。今日はもう部屋に戻って荷解きでもするといい。質問は?」
「質問、というわけでもないんですが……」
 大野ヶ原は思案顔で細い顎を擦った。
「山犬がこちら側に来ないようにするのが我々の仕事なんですよね? もし既に山犬が入り込んでいるとしたら、どうするんです?」
「……どういう意味?」
「山犬が人間に化けて街中に紛れ込んでいる。夜な夜な山犬に戻って人を食い漁る。そういう噂があるんですよ。ご存じないですか?」
 大野ヶ原の眼が妙に挑戦的に光った。
「下らない。都市伝説だ」
 そんな噂があるなど聞いていない。胃の辺りがかっと熱くなった。見透かすように薄く笑った眼が、僕を見下ろしている。
「そうですか。ならいいんですが」
 徐々に大きくなる笑みの圧力に耐えきれず、僕は大野ヶ原に弁当箱を持たせ、部屋へ戻るよう再度促した。大野ヶ原は外へ出てふと足を止め、まだらの壁と小屋に覆いかぶさる木の葉の間から空を見上げた。
「風が湿ってきましたね。軽く雨が降るかもしれません」
 僕も空を見上げたが、朝よりも多少雲が増えたくらいで、明るい春の空にしか見えなかった。

 小屋に入ってドアを閉めると一人になった。
 大野ヶ原は勝手に屋敷をうろついていないだろうか。もし拓磨が帰ってきたら紹介しなければ。とりとめのない思いが去来し、しばしぼんやりする。公務員として組織に組み込まれたとはいえ、山犬管理局の仕事は普通の務め人と違って時間の融通が利く。その代わりに事故があれば責任を問われることになるのだが、少々さぼったところで誰も何も言わない。
 それに、今日の午後に予定している行方不明者の捜索なんて、やってもやらなくても変わらない。どうせ見付からないのだから。

 夕方になると灰色の平べったい雲が空を覆い、大野ヶ原の予測通り霧雨が降り出した。
 無意味な捜索を終えて、車を小屋の横に残したまま僕は自室に戻ろうとしていた。
 離れに通じる小径は既に薄暗く、夕闇に濁った霧が冷たく体を侵食する。ぼうっと霞んだ木立の影が亡霊のように次々と立ちふさがる。
 あの亡霊の中に、爺やもいるだろうか。父さんも――
 しばし我を忘れて立ち尽くした。
 どれくらいそうしていただろうか。
 ふと、こちらに向かってくるエンジン音に気付いた。
 自動車にしては軽い音。拓磨がバイクで帰ってきたのだ。
 拓磨に会わなければ。
 急ぎ足で母屋に向かう。霧の奥でヘッドライトの鋭い光がぎらりと閃いた。
 僕が母屋に着く頃には拓磨の姿は既になく、取り残された黒いバイクが忠実な番犬のようにひっそりと雨に打たれていた。
 建物内はひんやりとして、暗い。火事の後、無事だった部屋はどうにか電気を復旧させたが、廊下は停電したままだ。耳を澄ましてみるが、雨ざらしになった廊下の右奥から吹き込む風の音しか聞こえない。古い絨毯が足音を吸い込んでしまうのだ。
 この廊下もかつては明るく、人の気配があった。壁に絵が飾ってあったりもしたが、壁に四角い跡を残してとっくの昔に現金に変わっていた。人里から山犬を追い出した功を土地の権力者に認められ、名家旧家と威張っていられたのは遠い過去の話だ。
 ここにはもう何もない。なくなってしまった。
 それでも僕は、この屋敷に繋ぎとめられている。弟も、繋ぎとめておきたかった。
 ほとんど手探りで階段を上がり、拓磨の部屋の前に辿り着いた。
「拓磨、帰っているんだろう? ……入るよ」
 返事とも呻きともつかない声が聞こえるのを待って、僕は部屋の中に入った。
 外から滲む薄明りでぼんやりと明るい部屋の中で、暗闇に半分溶けた黒いパーカーのフードを脱ぎ、拓磨が振り向いた。
「何の用?」
 色素の薄い冷たい目が、僕を見下ろす。いつにも増して顔が青白く見える。まるで死者のような――
 違う。雨に打たれて寒さで血の気が引いているだけだろう。
「仕事仲間が増えたんだ。今日からうちに下宿している。拓磨がいるうちに紹介したいと思って」
 つい早口になってしまい、用件だけを一気にまくし立てる。そうじゃない、こんなことを言いに来たんじゃない――
「――それに、拓磨が――どうしているか、気になって――」
 拓磨はますます小馬鹿にするように僕を見る。僕は混乱して目を逸らしてしまう。
「俺のこと心配してんの? 今更――」
 低く蔑む声が頭の天辺に降って来る。
 昔は俺のことなんか見向きもしなかったくせに――
 優しさの押し売りはごめんだ――
 佳代さんのほうがよっぽど――
 半ば独り言のような呪詛を、俯いたまま浴び続ける。何も言い返せない。全部、事実だから。
 拓磨は僕を嫌っている。
 僕は、どうすればいい?
 拓磨――
 不意に言葉が途切れ、聞えよがしの溜息が続いた。
「わかったよ。その新人に会えばいいんだろ? どこにいる?」
「一階の――奥の部屋を、貸してる」
 僕はやっとのことでかすれた声を喉から押し出した。
 拓磨は入り口の前に突っ立っていた僕の横をすり抜け、さっさと階段を下りて行ってしまった。
 僕はのろのろと後を追って暗い廊下を進んだ。大野ヶ原の部屋の前に着く頃には既に拓磨と大野ヶ原が戸口で立ち話をしていて、室内の明かりが拓磨のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。
「へえ……、今は、学生かい?」
「いやあ、適当にぷらぷらしてるだけっていうか。高等遊民ってやつ?」
 拓磨がへらへらといい加減なことを言い、大野ヶ原が困ったように相槌を打つ。
 そのうち会話が終わり、それじゃあと言って拓磨が廊下を戻ってきた。すれ違いざまに、
「面白そうなやつが来たじゃん」
 と言った拓磨の声は上機嫌だった。
 どうしてそんな風に思ったのだろう。どうして好意的なのだろう。初めて会ったばかりなのに。
 霧を含んだ上着がしっとりと冷たく、重く感じられた。
 暗闇に立ち尽くしたままの僕を見かねて、どうしましたかと大野ヶ原が声をかけてくる。別に、と僕は答える。別に、どうもしていない。
「何を怒っているんです?」
 大野ヶ原が部屋の明かりを背負ったまま近づいてきて、不思議そうに尋ねる。
 怒っている? 僕は怒ってなんかいない。僕は――
 僕は、嫉妬しているようだ。

十三歳の記憶

 幼い子供が二人、枯葉を舞い上げて遊んでいる。
 一人は、弟と同じ年頃。
 楽しそうな笑い声が、容赦なく心をかき乱す。
 その子は元気で、愛されていて、幸せそうで。
 それに、生きている。
 弟は死んだのに。
 どうしてあの子だけ生きているの?
 どうしてあの子だけ笑っていられるの?
 どうしてどうしてどうして……。
 あの子も死んじゃえばいいのに。

2

 翌朝は再び快晴になった。
 大野ヶ原は八時半に小屋へやって来た。佳代さんに用意してもらった昨夜と今朝の食事が気に入ったらしく、ご飯が美味しいと毎日幸せだとほくほくしていた。拓磨のことは忘れたかのように話題に出すことはなかった。
 今日は大野ヶ原を連れて行方不明者の捜索を行うことにしていた。昨日のニュースになっていた人物は僕らの管轄外で、探すのはしばらく前に消息を絶った人間だ。捜索は山犬との接触を避けて進める仕事なので比較的安全であり、仕事に慣れてもらうには最適といえた。すぐに出発してもよかったのだが、山犬は薄明薄暮性で、明け方と夕暮れ時に活発になる習性がある。念のため、日が高く昇って山犬の動きが鈍るまでは別の業務の説明をして時間を潰すことにした。
 別の業務というのは、山犬に対する発信機の取り付けだ。山犬の行動を把握するため、国からの指示で成体は全頭に発信機付きの首輪を装着することになっているのだ。首輪がGPSを利用して取得した位置情報は、小屋の屋根に設置したアンテナによって受信され、小屋の中のコンピュータに蓄積されると同時に政府の山犬管理本部に送信される。この情報を使って山犬の行動パターンを予測できるというわけだ。さらに、携帯用のアンテナと端末を使えば森の中でも山犬の位置を把握できるため、「壁」の向こうでの業務をより安全に遂行できる。
 また、首輪には小型のモーターも内蔵されていて、「壁」に一定間隔で取り付けられたアンテナから出ている電波を受信すると首輪のベルト部分が巻き取られるようになっている。つまり、首輪を付けられた山犬が人里に近付こうとすると、自動的に首が締まるようになっている。「壁」の近くは嫌な場所だと山犬に学習させ、人間の領分に接近しないよう条件付けるのが狙いだ。
 車のシートベルトを切り取ったような首輪の実物と、そのバックル部分に取り付けられた機械類の入ったプラスチックケースを見せながら説明すると、大野ヶ原は眉根を寄せて何となく嫌そうな顔をした。
「こんなのが首に付いていたら鬱陶しいでしょうねえ。食い千切られたりしないんですか?」
 大野ヶ原は首輪をひっくり返したり引っ張ってみたりしながら言った。
「ベルトはアラミド繊維製だから、山犬の牙でもそう簡単には切れない。それに、山犬のサイズを考えれば、邪魔になるほど大きいものでもない。首輪くらい飼い犬だって着けている」
「まあ、そうですけど」
 大野ヶ原は釈然としない様子のまま黙った。
 原則的には大人の山犬全てにこの首輪を装着させることになっているのだが、実際には徹底されているとは言えない。山犬の領地は広大で、管理局の人間は少ない。税金から出ている予算が拡充される予定もない。「壁」の付近に縄張りをもつ群れのみ、辛うじて把握できているのが現状だ。
 その現状を維持することさえ簡単ではない。山犬にも新しい命が生まれ、老いたものは死ぬし、群れに加わるものも群れから離れるものもいる。その上、首輪に内蔵された電池にも寿命があるため、二、三年で交換しなければならない。電池の寿命が近づいた首輪は、完全に電池が切れる前に交換しなければならない。体長三メートル程度はある成熟した山犬との接触が必要になるため、もちろん危険も伴う。現在は、担当区域の西側をなわばりにしている四、五頭の群れの首輪がちょうど交換時期に差し掛かっている。決行予定は十日後。それまでに大野ヶ原には周辺の地理と山犬の移動経路を頭に叩き込んでもらう。
 説明が一通り終わる頃には、時刻は午前十時近くになっていた。そろそろ出かけてもいいだろう。
 僕はこの区域の地図を小屋のプリンターでコピー用紙にカラー印刷し、大野ヶ原に手渡した。紙面の下部、つまり北側で、東西に伸びる山なりの線が、人間の領分と山犬の領分を隔てる「壁」だ。その線の頂点近くにある印がこの小屋。「壁」の向こう側は、森を示す濃い緑色でほとんど覆われている。北から西にかけて小川が横切り、山犬が水飲み場としてよく利用する地点にいくつか印がつけてある。その印を結び、網の目のように点線で描かれているのが、山犬の主な通り道だ。
「捜索対象は、沢辺義行、三十七歳。最後の目撃情報は約三週間前の三月二十五日。普通は行方不明者が森に向かったかどうかなんてわからないんだけど、沢辺はこの近くまでタクシーを使っていて、運転手が警察に通報したらしい。確認したところ、ここから四百メートルほど東の壁に、よじ登ったような跡が見付かった。自殺願望があったようだし、自ら壁を乗り越えたのはほぼ間違いない。山犬に襲われた可能性を考慮して山犬の行きそうな場所は探したが、遺留品は何も見付からなかった。山犬に襲われなかった場合を想定して、今日はこの辺りを中心に探そうと思う」
 僕は地図の中央辺りを指差した。
「了解です。捜索は僕たちだけですか? 警察は?」
「……警察が相手にしているのは人間だから。山犬の領分は管轄外」
「頼れるのは自分たちだけってことですか」
 大野ヶ原は別段気に病む風でもなく笑った。
「まあ、『壁』の外に出たって時点で家族も警察も半ば諦めているから。何も見付からなくても、責められるようなことはない。あまり気負わなくていい」
 僕は大野ヶ原を促して出発の準備を整えた。カーキ色の作業服の上に山犬の毛皮を羽織り、首元の二ヶ所を紐で留める。大野ヶ原もしかめ面で毛皮を着た。首輪を着けた山犬の接近を振動で知らせる小型の受信機を胸ポケットに押し込む。最後に猟銃を右肩に掛けると、猟師のような出で立ちになった。
「これで猟犬でも連れていれば完璧ですね。何かと役に立ちそうな気もしますけど、犬とか飼わないんですか?」
 僕の格好を見ながら大野ヶ原が言う。
「犬は嫌いだから」
 大野ヶ原は困ったような顔をした。
 「壁」を抜けるための道の入り口は小屋の中にある。民間人の無断使用を防ぐためだ。小屋の奥の床にある、一見すると床下収納庫のような木製のハッチを開けると、鉄の梯子で地下通路に降りられるようになっている。「壁」に直接扉を設けず一度地下を通すことで、山犬が侵入しづらくなる。山犬に対する神経症的なまでの恐怖が考え出させた構造だ。少数ながら各地に設置されている、「壁」を直接貫通するタイプの扉さえ、山犬に破られたことはないというのに。
 向こう側の出口から漏れる光を頼りに、人一人が通れる程度の真っ暗な通路を抜け、ハッチに開けられた覗き窓から外の様子を確認する。大きな生き物の姿はなく、鶯が誇らしげに鳴いているだけだ。ロックを外して重い木のハッチを押し上げ、隙間からするりと外に抜ける。まごついている大野ヶ原を引き上げると、扉に南京錠を掛けた。
 壁沿いは開けていて、草花に注ぐ陽が暖かい。木を伝って動物が壁を越えないよう、「壁」のすぐ外側だけは手入れしているのだ。数メートル先に萌黄色の新芽を出した若木が目に入ったので、僕は腰に差していた鉈でそれを軽く払った。
「これは、こちら側からは乗り越えられないですね」
 「壁」を目で示しながら、大野ヶ原が囁いた。「壁」自体は百四十年ほど前に造られた煉瓦と漆喰のものを補修しながら使っているが、その上のネズミ返しと鉄条網は比較的新しい。ただし、鉄条網さえ何とかなれば、向こう側から壁を登って出てくることは可能だ。実際、沢辺のような自殺志願者や密猟者が時々森に入り込んでいる。「壁」の主目的は街を山犬の侵入から守ることであって、人間を内側に閉じ込めることではない。
「おそらく、穴を掘って下からくぐり抜けるほうが簡単だろうね。『壁』の近くを歩くときは、掘り返した跡がないか気をつけて見てほしい」
 大野ヶ原は神妙に頷いた。
 降り積もった落ち葉を踏んで森に分け入っていく。四月中旬のこの時期、下生えに初夏のような勢いはまだなく、小さな草花がささやかに花を咲かせている。十分ほど歩くとそこは既に人の手の入らない原生林で、柔らかな苔に覆われた巨木が年老いた怪物のように微睡んでいる。晴れた昼間の森は友好的だ。
 不明者の手がかりを探しながら目的の地帯へ向かった。倒れて朽ちかけた幹の陰に何か痕跡が残っていないか。枝から羊歯と一緒にぶら下がっていないか。茂みもかき分けて探したが、何も見付からない。動物たちは息を殺しているのか、鹿の一匹も見かけなかった。一度だけ胸の受信機が反応したが、それもすぐに静まった。
 今日の目標地点でしばらく捜索していたが、そのうち大野ヶ原が痺れを切らしたように手分けして探すことを提案した。危険だからと僕は反対したが、別々のほうが効率的だ、絶対に遠くへは行かないから大丈夫だと説得されて結局押し切られてしまった。一時間後にここで合流することに決めた。
「山犬管理局の仕事には常に危険が伴うんだ。気を抜くなよ」
 釘を刺すと大野ヶ原は真面目な顔で敬礼した。ふざけているのかよくわからなかった。迷ったら発煙筒を焚け、迎えに行くからと指示して僕は大野ヶ原と別れた。
 大野ヶ原の姿が見えなくなると、僕は曲がりくねった瘤だらけの樫の木の根元に座り込み、瑞々しい木の葉の隙間から空を眺めた。張り切っている新人には悪いが、このままのんびりして時間を潰そうと思っていた。世間では山犬は凶暴なけだものだと思われているが、人間を見るなり無闇に襲ってくるようなことはないから、別に警戒するほどのことはない。人間の姿に気付けば、こっそりと逃げていく。山犬にとって、人間は獲物ではなく天敵。そう山犬に認識させるように、時折わざわざ山犬を追いかけ回して発砲し、人間に対する恐怖を植え付けるようなこともしている。
 そもそも、大昔には山犬と人間は共存していたのだ。高度な社会性を持つ生き物同士、上手く折り合いをつけていたのだろう。人にとって山犬は、農作物を荒らす草食獣を減らしてくれるありがたい存在でもあったはずだ。
 山犬が悪とされるようになったのは、人間のせいだ。人間が節度のない開拓を続け、動物たちの住処と食べ物を奪った。そのころはまだ信仰の対象だった山犬には、腹を空かせて可哀想だからと犬のように餌を与えた。
 結果的に、山犬と人間は近付きすぎた。人を恐れなくなった山犬は、土葬された死体を漁り、力の弱い女子供を襲うようになってしまった。
 当初、人は山犬を駆逐しようとした。しかし、その試みはことごとく失敗に終わった。罠はすぐに覚えられ、毒餌は見破られ、猟師は命からがら逃げ帰った。多くの人間が喰われ、多くの山犬が殺された。戦争だった。
 長い戦いの末、人は自らを「壁」の内側に閉じ込めることを選んだ。山犬を祀る司祭であった一族は、その頃から山犬を支配し、人間の居住区域から遠ざける役割を担うようになった。
 それが僕らの祖先だと、父から聞いた。
 父はいつも山犬の話をしていた。
 山犬が好きだったのかどうか、正直なところよくわからない。ただ追われるように、逃げるように、山犬の研究に没頭していた。そんな父の影響で、自然と僕も山犬に興味を持った。八歳の時に母が家を出て、父と爺やたちに育てられるようになってからは、余計に山犬漬けになった。
 初めて野生の山犬を見たのは九歳の時だ。父さんの後継者として、僕は父さんと森に入るようになっていた。
 木も岩も苔や地衣類で覆われた、静謐な森の奥深く。ひときわ大きな銀色の山犬が、倒木の上に凛と立って僕らを見つめていた。
 なんて美しいんだろう。そう思った。
 だが父は怯えたように銃弾を放ち、その山犬を追い払ってしまった。
 すごいね。綺麗だね。お父さん。
 興奮した僕は父と感動を共有したかったのだが、不器用な父はただ陰鬱に押し黙っていた。
 家に帰ってから爺やに話をすると、爺やはぼざぼさの眉をこれ以上ないくらい下げて僕を撫でさすった。
 坊ちゃんが無事で良かった。本当に良かった。
 坊ちゃんに何かあったら、爺やはもう生きてはおれません。
 くれぐれも気を付けてくださいね。約束ですからね。
 泣き出さんばかりの爺やを見て、人間と山犬は相容れないのだと僕は何となく悟った。そして山犬に対する憧れを胸の奥にそっとしまい込んだ。
 ガサガサと枯葉を踏む音に、はっと我に返った。いつの間にか眠りに落ちかけていたようだ。
 突き出た根と枝の隙間から音のしたほうを窺うと、大野ヶ原がきょろきょろと辺りを見回していた。腕時計に目を遣ると、解散してから一時間ほど経過している。合流の時間だ。
 僕は気配を殺して立ち上がり、何気ない風を装って木の陰から出た。僕に気付いた大野ヶ原は、特に怪しむ様子は見せなかった。
「どうだった?」
 一応、訊いておく。
「収穫なしです。人が通ったような形跡はありません。ほんとに森に入ったんですかねえ」
 多少は慣れて余裕が出てきたらしく、大野ヶ原は特に声を落とさなかった。それを指摘することはせず、僕も収穫はなかったと告げて今日はもう森から出ることにした。
 その晩は夜更けまで山犬の遠吠えが響いていた。

二十一歳の記憶

 中庭から橙色の夕日が差し込み、屋敷で唯一の和室を染め上げる。
 夕日は部屋の中央の布団に寝かされた爺やの顔の上にも照って、顔色を妙に健康的に演出していた。
 枕元には僕が庭から切ってきた満開の梅の枝が陶器の一輪挿しに活けられ、死の床にわずかな華やぎを与えていた。
「坊ちゃんの罪は、爺がみんな地獄へ持っていきます。地獄の炎で焼き尽くします。坊ちゃんの身は穢れてなどいないのです」
 爺やは柔らかい手で僕の手を包み込むように握り、微笑んだ。
 爺やの墓は父の墓の隣に建てた。

3

 それからの十日間は、引き続き不明者の捜索と「壁」周辺の見回りをして過ごした。一度だけ森に入る植物学者の調査に同行したが、山犬の気配すら感じることはなく無事に終わった。
 大野ヶ原は佳代さんとすっかり打ち解け、夕飯は三人で食卓を囲むようになっていた。佳代さんも家事が増えたことを苦にする風もなく、むしろ楽しそうにしていた。佳代さんの気分が晴れやかだと部屋の中が明るくなるようで、僕は心の中で大野ヶ原に感謝した。
 拓磨はまたどこかへふらりと出て行ったが、以前よりも頻繁に、数日おきには帰ってきているようだった。しかし、僕と顔を合わせることはほとんどなかった。
 山犬の首輪交換を予定していた日、大野ヶ原は午前半休を取って、昼過ぎに酒臭い息を吐きながら煉瓦の小屋にやって来た。昨夜は飲み会だったと聞いている。前の職場の同僚たちと飲んできたらしい。そういえば今日は土曜日だったなと思いだした。
 ここの仕事は始業も終業もあってないようなものだし、休暇も交代で適当に取ることにしたので特に決まった曜日が休みということもない。うっかりすると日付すら曖昧になる。世間から切り離されているとつくづく感じた。実体のない焦燥と、投げ遣りな安堵がないまぜになった感覚だった。
「飲み会は楽しめた?」
 相手は唯一の同僚、雑談も必要だろうと水を向けてみると、大野ヶ原は意外そうに目を瞬かせた。
「ええ。久しぶりに皆と街で騒いで発散してきましたけど……」
「……けど、何?」
 大野ヶ原は困ったように短髪の頭を掻いた。
「いや、葵さん、俺のことになんか興味ないのかと思ってたんで。正直ちょっとびっくりしたというか」
 今度は僕が困る番だった。僕だって同僚とはそれなりに良好な関係を維持したいと思っている。ただ、人との居心地の良い距離が標準よりも遠いだけだ。しかし、それをうまく伝えられる気がしなかったので、結局僕は「そう」とだけ答えた。そうして少しだけ自分が嫌になった。
「ところで――」
 カーキ色の制服に袖を通しながら、大野ヶ原が思い出したように声をかけてきた。
「昨晩、帰りにタクシーで通った時、この小屋の電気が点いてるのが見えたんですけど、何かあったんですか?」
 帰りということは深夜だろう。誰かに見られるとは思っていなかった。
「いや、ちょっと気になることがあっただけ……」
「仕事が忙しいのなら俺も分担しますよ。たった二人の職場なんですから、遠慮しないでください」
「大丈夫。手伝ってもらうことでもない」
「葵さん――」
 大野ヶ原は何故か呆れたように溜息を吐いた。
「大丈夫か訊かれて大丈夫って答える人は、大抵大丈夫じゃないんです。前の職場でもそうやって溜め込んで休職した人がいました。それに、何かあったときにフォローするのは俺なんですよ。仕事に関係することを秘密にされると俺だって困ります。だから隠し事はなしです」
 僕は思わず顔を伏せた。
「……わかった。でも今回は、仕事とは別のことだから」
「そうですか……」
 大野ヶ原は疑うように目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。
 着替えが終わったのを確認し、今日の行動の確認を始めることにした。
 机の前に並んで座り、ディスプレイに地図を表示させる。標的の群れが縄張りとしている区域の地図だ。その上には、無骨なアンテナで受信した山犬たちの位置情報がマッピングされている。三十分間隔で更新された点が直線で繋がり、一頭の山犬の動きを表す。今画面に表示されている折れ線は三本、つまり三頭分だ。同じ群れに属しているため、三本の線はほぼ同じ軌跡を描いている。
「ここで待ち伏せして、水を飲みに来たところを麻酔銃で狙う」
 僕は画面の右端近く、川のほとりを指で示した。山が近いのでほとんど渓流だが、ある程度川幅があり、岸には大きな木が少なく開けている。件の群れはだいたいここで水を飲むと決まっているし、ここなら比較的遠くから安全に狙えるはずだ。群れの何頭かに逃げられるリスクはあるが、人員も予算もないので仕方がない。逃がしたらまた後日改めて狙うだけだ。
 大野ヶ原が地図をよく見ようと僕の肩越しにディスプレイを覗き込んだので、僕は脇に避けた。
「風下を選べば気付かれる可能性も低くできる。データによれば、標的の群れはしばらく水場に近づいていない。数時間以内に水分補給に来るだろう」
 大野ヶ原もさすがに今回は緊張した面持ちで、言葉少なに頷きながら聞いていた。
 細かい動きを確認した後、大野ヶ原に猟銃を持たせ、僕は麻酔銃を背負った。ここに配属される前に大野ヶ原には猟銃の扱いについて研修を受けてもらっているが、麻酔銃はまた別だ。いざという時には大野ヶ原に山犬を追い払ってもらうことにして、僕らは地下道をくぐった。
 森は静かだった。風はほぼ凪いでいて、小鳥さえ息を潜めている。さくさくという二人分の足音だけが耳についた。
 山犬の通り道を横切らないよう注意しながら進み、川の下流側から目的地に近づいた。これから夜にかけて山から吹き下ろす風が強まり、こちら側が風下になる。川幅は十メートルほど、群れの水場は対岸。気付かれたとしても、山犬が一飛びに越えられる幅ではなく、途中には水深の深い個所もある。態勢を整える時間は稼げるはずだ。
 対岸がよく見える茂みの陰に腹ばいになり、銃を下ろした。大野ヶ原もそれに倣った。草の汁の青臭い匂いと、湿った土の匂い。川面にはきらきらと光が躍っている。平和な森の昼下がりだ。銃を持った二人の人間がいなければ。
 一時間待ち、二時間待った。天道虫や蜥蜴が鼻先を横切って行った。日は傾き、暖かな黄色を帯びてきた。大野ヶ原がうつらうつらと舟を漕ぎ始めた頃、彼らは現れた。
 木々の間からまず姿を見せたのは、体格の良いリーダーの雄。次に、その妻の黒っぽい雌。それから彼らの子供で母親によく似た成体の雄。一月前に見た時は兄弟がもう一頭いたのだが、群れを離れたのか姿が見えない。僕はそっと大野ヶ原を蹴って注意を促した。
 群れのリーダーは河原の砂利の手前で立ち止まり、鼻を高く上げて空気の匂いを嗅いだ。警戒している。気付かれるのも時間の問題だろう。僕は彼に狙いを定め、引き金に指を掛けた。
 一発目は雄の胸辺りに命中した。二発目は外したが、三発目は身を翻して逃げる雌の尻に刺さった。
 撃たれた二頭は数歩よろよろと走った後、ばったりと倒れた。子供は逃がしたが、まずまずの成果だ。
 逃げた一匹が戻ってくる様子がないことを確かめ、僕はゆっくりと立ち上がった。ずっと同じ姿勢で潜んでいたせいで、あちこちの関節が軋む。連れに声を掛けようと振り返り、僕は棒立ちになった。
 大野ヶ原の背後に、動くものがある。灰褐色の大きな山犬が、二頭。
 走ってくる。僕のほうに。まっすぐ。
 走って逃げても無駄だ。木に登るのも間に合わない。川に走っても淵に辿り着く前に捕まる。
 剥き出した牙。躍動する四肢。動けない。ただ、見惚れた。
 終わりか――
 ――バン。
 森に銃声が響いた。
 先頭の一頭が、肩から血を噴き出してキャンと悲鳴を上げる。もう一頭は驚いて脇へ逸れる。
 もう一発。今度は頭に当たった。
 撃たれた山犬は舌をだらりと出したまま倒れて動かなくなった。
 もう一頭はいつの間にか姿を消し、森に静寂が戻った。
「いやあ、危なかったねえ」
 少し離れたところにある大木の、高さ三メートルほどのところに突き出た枝の陰から、迷彩柄のジャンパーを着た若い男が顔を突き出した。
「拓磨――どうして――」
 一拍遅れて、膝ががくがくと震えだした。
 拓磨は枝からひょいと身軽に飛び降り、にやにやと笑った。
「どうして、の前に、まずはありがとうだろ? ピンチを救ってやったんだからさ」
「拓磨君も山犬管理の手伝いを? いや、それにしても腕がいいんだね。助かったよ」
 大野ヶ原がいつもの能天気な調子で会話を引き取ったが、心なしか声が硬いような気がした。いきなり山犬に襲われそうになったのだから無理もないと思った。
 拓磨は大野ヶ原の言葉をふふんと軽く鼻で笑ってあしらい、山犬の死骸に近づいた。
「こいつは、ちょっと前にあの群れから独立した奴だな。一緒にいた新顔とつがいにでもなったか? まあいいや。それより、烏とか狐とかに食い荒らされる前に運ばなきゃ。貴重な標本になるぞ」
「標本って……いいのか? 密猟を疑われるんじゃ……」
 拓磨は三日月形に目を細めた。
「これは正当な駆除だって。そんなことより、ぼさっとしてると向こうの山犬の麻酔が切れるぜ」
 拓磨は侮蔑とも憐れみともとれる視線を僕に寄越した。
 僕は血に塗れて宙を睨んだまま動かなくなった山犬をぼんやりと見つめた。

4

 我ながら上手く潜り込んだものだ。
 ここに来るまでに十年以上かかった。
 十一歳で「壁」を越えて街に忍び込み、夜陰に紛れて路上生活者の服を奪った。しばらくは適当にゴミを漁ったり店先のものをかっぱらったりして飢えを凌いだ。そのうちに誰かが通報したのか大人が数人で俺を捕獲し、施設に連れて行った。
 大人たちは俺を質問攻めにした。
 親はどうしたのか、どこに住んでいたのか。食べ物は、衣服は、学校はどうしていたのか――
 俺は硬く口を閉ざし続けた。下手なことを言って尻尾を掴まれる訳にはいかなかった。
 俺は、山犬だからだ。
 大人たちは虐待かネグレクトを疑っていたのだろう。親らしき人物や行方不明になっている子供を当たっているようだったが、当然ながら何も手掛かりはなく、俺はそのまま施設で暮らすことになった。
 俺にとっては好都合だった。他の子供たちを観察して見よう見まねで人間の子供らしい立ち居振る舞いを習得し、知らないことはとにかく訊きまくった。森の中でもある程度のことは学んでいたが、十分とはとても言えなかった。
 そもそも山犬は人間の言葉を理解してもまともに発音することはできない。口や喉の構造が違い過ぎる。いずれ人間社会に潜入する俺のために、人間の教師が必要だった。
 母が罠で右後ろ脚を負傷しながら連れてきたのは、森に入り込んだ若い男の密猟者だった。怯えた男は、既に人間の形をとっていた俺に対して熱心に話しかけた。それを母が山犬の言葉に訳して俺に聞かせ、俺は少しずつ人の言葉を話せるようになっていった。
 男を群れで養いながら五、六年が過ぎ、俺が森を出る準備が整うと、安心しきって眠っている男の喉笛に父が静かに噛み付いた。男は驚いたような顔をして、呆気なく死んだ。長く一緒にいたから情が移っていて悲しかったが、人間の世界に戻られると困るので仕方がなかった。その夜は彼への敬意を込めて群れ全員で遠吠えをした。
 人間の領域に入り込んだ目的は、人間が山犬に及ぼす危険を事前に察知することと、人間と山犬との関係を改善し、何百年も続いた弾圧をなくすことだ。父や母、それに幼い弟や妹を守るのだという使命感を胸に、俺は傷だらけになるのも厭わず「壁」をよじ登って森から転がり出た。
 人間が山犬に何をしようとしているか知るためには、ただ人間社会に馴染むだけではいけない。密猟者の男から聞いた話を基に、狙いは既に定めていた。山犬管理局。山犬に対する処置が決まった時、それを実行する組織。本当は末端ではなく支持を出す側に入ったほうがよかったのだろうが、司令部は高学歴のエリート官僚ばかりだと聞いて諦めた。それに、実際に森に入る役回りのほうが山犬との連絡が取りやすいため便利だろうとも思った。
 二年ほど猛烈に勉強していると、運良く俺を養子にしたいという人間が現れた。地元の土地持ちで子供のいない、五十代の大野ヶ原夫妻だった。後継ぎがいないが親類はがめつくて信用できない、将来有望な子供を引き取って土地を相続させたいとのことだった。金持ちの酔狂かと思ったが、会って話してみると人の良さそうな互いによく似た夫婦で、もちろん俺のほうに異存はなかった。
 養父は家父長制的な価値観を引きずった人だった。山犬の家族内にも厳しい序列があるためそれ自体は構わなかったが、細かい言動にまでいちいち苦言を呈するのには辟易した。ちょっと矛盾を指摘しただけで親に向かってそんなことを言うもんじゃないと怒られ、食事時には箸の使い方が汚いと眉を顰められた。養母のほうは輪をかけてお節介で、あなたのためよと言いながら様々な口出しをしてきた。
 細部にわたる制約にうんざりしつつも俺は大人しく従った。こちらが逆らわなければ二人とも優しかったし、甘やかしてくれもした。従順で快活な少年を演じることを覚えると、日々の生活の難易度がぐっと下がり、快適に過ごせるようになった。それでも嫌気がさしたときは、夜中に窓からこっそり抜け出し、父の持つ小さな山に入って遠吠えをした。ひたすら一人で吠えて終わることもあったし、彼方から微かに返歌が届くこともあった。養父母は遠吠えの声を気にしたが、野良犬でも迷い込んだのだろうと決めつけて自分を安心させていた。
 将来の進路については、学費を出してくれなくなると困るので就職するまで適当に誤魔化していた。山犬管理局に入るには一度公務員になる必要があったから、ただ役所に入りたいとだけ言っておけばよかった。
 山犬管理局にはそもそも採用枠がない。というより、元は一族単位でばらばらにやっていた名残で、現在でもまともに組織立てられてはいないのだ。人員を新たに増やす場合、通常は管理局員が自ら部下――多くは身内――を選定する。自ら後継者を見つけることができない場合に限り、中央の司令部を経由して公務員が派遣される。大野ヶ原家に貰われてきた以上、この後継者難の一族への異動に賭けるしかなかった。
 国家公務員一般職試験に合格し、山犬の管理を担当している農林水産省に入った。運が良いことに、大野ヶ原家と同じ県内に人手不足かつ自力での人員補充が困難な支部があり、山犬管理局への異動を希望する人間などそうそういないため首尾良く入り込むことができた。潜入先が山犬研究で成果を上げた故鈴鹿氏の生家だというのは嬉しい偶然だった。
 公務員になったことで一旦は喜んでいた養父母だったが、山犬管理局に行くと決まったことを知ると激しく反対した。養母など、もう働かなくてもいいから仕事を辞めて帰ってこいとまで言って泣いた。結局、理解は得られないまま勘当同然になってしまった。
 養父母の怒りも、世間一般的に見れば正当なものだったのだろう。
 かつて友好関係にあった山犬と意思の疎通ができる人間は、ある種の特権的な立場にあった。あおんあおんと山犬の言葉を話す彼らは、一般の村人にしてみれば神秘的かつ不気味な存在だったに違いない。後に山犬との関係が悪化したとき、山犬への恐怖が山犬と近しい彼らにも向けられ、共同体から排除する圧力として働いたことは想像に難くない。
 養父は、山犬を相手にするなど卑しい身分の者がする仕事だと言った。どんな「身分」の出身だかわからない子供を引き取っておきながら身分がどうの階級がどうのと必死で主張する様子は可笑しかった。
 山犬の存在を、あくまでも自分たちの生活の外側に留めておきたいのだ。それだけ山犬への恐怖は根深い。そのことを悟ったから、俺も多くを語らずに家を出た。この溝を埋めるには、議論を戦わせるよりも時間を与えることが必要だと思った。
 あれから養父母は、山犬や山犬管理局について何かを知り、何かを考えてくれただろうか。
 人間の領域の外側を「壁」に沿って一人で見回りながら、養父母の顔を思い浮かべた。山犬として育ち、最初は人の顔はみんな同じに見えたくらいだったせいか、その顔は既に細部が曖昧だった。
 山犬の顔のほうがよほど個性があって見分けやすいのにと俺は思う。例えば昨日殺されたあの雄などはなかなか男前だった。広い額に金色の差し毛がよく映えていた。まだ若いせいで毛並みは少々貧相だったが、狩りの姿勢も様になっていて、群れのボスになれそうな風格はあった。
 年々数が減っている山犬にとって惜しい損失だ。可哀想なことになった。
 そうは思ったが、切迫した悲しみは感じなかった。同族が殺された悔しさと、それを表現することの許されない憂鬱が、胸の底に泥となって堆積しているだけだ。人間として過ごした十五年間は、山犬としての感覚を持ち続けるには長過ぎたのだろう。
 悲しい、辛いと思えないこと自体が、悲しかった。
 俺は首を伸ばして顎を上げ、息を絞り出すように長く吠えた。追悼の歌だった。葵はまだ昨日の遺体の処理で忙しく、この姿を見られる心配はないはずだ。
 二声目には別の山犬の遠吠えが加わった。朱色の空に物悲しい合唱が響いた。

 一度小屋に戻って葵に今日の業務を報告し、青々とした木々の間を縫って母屋に帰ってきた。外はまだ明るいが、焼け残った建物に入ると埃っぽい絨毯に光が吸われたかのように陰気な空気に包まれる。古くて陰鬱な屋敷だが、昔は立派だったのだろう。よく見ると絨毯には植物を象った凝った模様が織り込まれている。今はすっかりくすんでしまって浜辺に打ち上げられた海藻のようだが。
 突き当りの重厚な木の扉の奥が、俺に割り当てられた部屋だ。まずは備え付けの布張りのソファに座って、棒になった足を休めよう――そう思っていたが、先客がいた。
「お、どうも。お帰りなさい」
 ひょろ長い若者が俺のソファから立ち上がる。鈴鹿拓磨。上司の弟。
 率直に言って不愉快だったが、即座に陽気な仮面を身に纏った。自動的に笑みを浮かべる。
「あれ、拓磨君。どうしたの? 何か用?」
 拓磨もニタニタと笑みを返す。嫌な笑い方だ。人をからかって喜ぶ、いたずら好きの悪霊のような。
「用って程でもないんだけど。傷心なんじゃないかと思ってさ」
「傷心? 何のことだい?」
 拓磨が音もなく近づき、口を俺の耳に寄せた。
「あんた、山犬なんだろ?」
 即座に顔から血の気が引くのを感じる。目が眩む。どこだ。どこでバレた。素早く記憶の箱をひっくり返す。
 思い当たる前に、拓磨は更に身を寄せて囁いた。
「見ちゃったんだよね、あんたが遠吠えしてるところ」
 やられた、と思った。迂闊だった。てっきり葵と一緒に後始末をしているか、あるいは放り出して遊びに行っているものと思い込んでいたが、この男が普段どこで何をしているのか俺は知らないのだ。もっと警戒するべきだった。
 男が離れた隙に気持ちを立て直す。こうなったら無理にでも白を切るしかない。
「ああ、あれね。実は山犬の生態を調べたいと思って練習してたんだよ。遠吠えは重要なコミュニケーションツールだからね。解析できれば山犬の行動を予測したり制御したりできるかもしれない」
 喋りながら相手を観察するが、表情が固定されていてその裏を読み取れない。
 内心焦っていると、拓磨は不意にくすっと笑い声を立てた。
「そんなに言い訳しなくたって……。安心してよ、俺も山犬だからさ。あんたと同じで、こっち側に潜入してるんだ」
 一瞬呆気にとられ、徐々に怒りが湧き上がる。こいつは山犬を撃ち殺した張本人なのだ。自らも山犬なら、同族殺しの裏切り者ではないか。
 だが、ここで怒りを露わにする訳にはいかない。同胞と偽って罠に嵌めようとしている可能性だってある。
「それは……、つまり、山犬が人間に化けるっていう例の都市伝説が本当だったってことじゃないか! ……しかし、昨日君は山犬を『駆除』しただろう? 同胞じゃないのか? それとも、人間様の飼い犬になり下がったのかな?」
 いけないと思いつつ、思わず言葉が刺々しくなる。
「そう熱くなるなよ。俺にも立場ってもんがある。勝手に姉貴を殺されると困るんだよ、一応、たった一人のカゾクってやつなんだからさ」
「葵さんを?」
「あんたがこの森の山犬をけしかけたんじゃないの? 首輪交換の情報、あいつらに流したんだろ?」
「俺が、山犬に? 冗談じゃない。いい加減にしろ」
 背中を冷たい汗が流れ落ちる。
 拓磨は大仰に手を広げて呆れたという声を出した。
「ムキになるなよ、お仲間だろう? こっちだってリスクを冒して素性を明かしてんだ。あんたにここを滅茶苦茶にされないためにな」
 俺が押し黙っていると、拓磨は軽く身構え、低く唸るような声を出した。
 (こうすれば、信用してくれるか?)
 俺は息を呑んだ。それは山犬の言葉だった。いくらこういう特殊な環境に育ったとはいえ、習得するのは容易ではないだろう。管理局内に山犬語を話せる人間がいるとも聞いたことがない。やはり本物なのか――
「……わかった。信じるよ。君の言う通り、俺は山犬だ。確かに昨日の日時と場所を知らせもした。でも決して葵さんを殺そうとした訳じゃない。脅かすだけのつもりだったんだ。今の山犬は人間にやられっぱなしだ。山犬と人間の関係を対等に戻したい、首輪なんか着けられないように出し抜いて驚かしてやれって提案しただけだ」
 それだけ言ってしまうと、全身から力が抜けていくような気がした。「壁」を越えてこちらに来てからずっと誰にも知られないように隠してきたことを、ついに話してしまった。まだ油断はできないが、肩の荷が降りたような、妙な安堵に包まれた。
 拓磨はふうんと興味なさそうに相槌を打った。
「人間どもは山犬への恐怖を十分感じてる。あんまり刺激するとヒステリーを起こすぞ?」
「わかってる。彼らが勝手に殺そうとしたんだ……」
 同じ山犬とはいえ、ここの群れとは知り合ったばかりだ。信頼関係もなければ考えも違う。今回のことは手痛い教訓となった。
「それだけ鬱憤が溜まってるってことだろ。ま、あんたが俺の邪魔しないならどうでもいいけどさ」
 拓磨は元のソファにどさりと腰を下ろした。俺は仕方なくベッドの縁に腰掛けた。身体が重く沈み込む。少し落ち着くと、拓磨に対する疑念が湧いてきた。
「だいたい、君は何者なんだ? 葵さんの弟なんだろう、彼女も山犬か?」
「あー……」
 拓磨はだらしなく脚を投げ出したまま、茶色い染みの浮いた天井を仰いだ。
「俺はまあ、弟代理っつーか。都合良く『拓磨』が死んだから、俺が成り代わったってわけ。七歳くらいの時だったかな」
「そんなこと、できるわけが……」
 たとえそっくりな姿に化けられたとしても、子供が別人と入れ替われば、家族や周りの人間が気付くだろう。いくら子供が死んでしまったからと言って、普通なら別の子供を代わりに受け入れるような無茶はしない。
 普通なら。
「もちろん、親父も姉貴も承知の上でだ。当時の使用人も一部は知ってたかな? 親父のほうは、いわゆる共犯ってやつ。母親はずっと前に家出してていなかった。元の拓磨は、本当は事故か何かで死んだらしいが、重病にかかったことにして時間を稼いでる間に俺がここに来た。記憶とか性格とかの食い違いを誤魔化すために、周りの連中には高熱で頭がやられたかもしれないくらいのことを言ってたらしい。それでも話を合わせるのに苦労したぜ」
「そこまでして君はなぜこちら側に来た? 鈴鹿先生の目的は何だったんだ?」
 拓磨は俺のほうに向きなおり、またニタニタと怪しく笑った。
「親父の目的なんて知らないね。姉貴にでも訊いてみれば? 俺はよくわからないまま親父に連れてこられただけだ。たまに姉貴を手伝って小遣い貰って遊び回って、人間サマのカネで楽しく暮らせりゃそれでいい」
 山犬の利益のために潜入している俺とは違うということか。本人の言葉の通りなら、ただただ無目的に自堕落な生活を送っているだけの男だ。説得すれば――というより条件次第では、山犬のために一緒に動いてくれるかもしれない。しかし――
 この笑みの底に溜まった暗さは何だろう。現実に対する諦観のような、破滅願望のような、そういう危うさを感じる。こういう男には迂闊に頼らないほうが良い。
「わかったよ。葵さんに訊くか、御父上の研究資料を当たってみることにしよう。……あと一つ訊きたいんだけど、葵さんに何か変わったことはないかな? 夜中に仕事小屋にいるのを見たんだけど何をしてたんだろう?」
 拓磨は面白がるように目を細め、頬杖を突いた。
「さあね。気になるなら自分で確かめな」
 素っ気ない返答に胸の内で溜息を吐いていると、ノックの音がして佳代が食事の時間を知らせにやって来た。拓磨が俺の部屋にいるのを見ると、佳代は福々しい顔をなぜか嬉しそうにほころばせた。
 拓磨を先に行かせると、佳代は俺に近づき、口の横に手を当ててそっと耳打ちした。
「あの……、これからも、拓磨さんと仲良くしてあげてくださいね。拓磨さんが家にいると、坊ちゃんも喜びますから」
 どうやら俺と拓磨が仲良くお喋りしていたと思ったらしい。俺は再び心の中で溜息を吐いた。

 拓磨の正体を知ってからは葵の様子に特に気を配っていたが、これといった変化は見られず、相変わらずほとんど仕事に関係する事柄しか話さなかった。一番の懸念は、俺が山犬だということを葵や他の人間に知られること。拓磨も山犬である以上、そう簡単に言いふらすとも思えないが、表向きの身内である葵には知らせる可能性もないとは言えない。拓磨に口止めしておきたかったが、なかなか捕まらない上に、顔を合わせても二人きりになる機会には恵まれなかった。
 そこで俺の正体を知ったかどうか表情から読み取ろうとした訳だが、これが難しい。葵はそもそも感情が表に出にくい性質らしく、基本的に無表情だ。たまに目を細めたり頬をつらせたりするのも、何の表現なのかよくわからないことがある。読みづらく、扱いづらい。秘かに人間社会に潜入している、あまつさえ人間をコンロトールしようとしている俺にとっては非常に有り難くない人間だ。向こうからしても俺のように――より正確には、俺が装っているように――心理的距離を詰めてくる人間は苦手なのだろう、ここに来てから二週間以上経つが初日と比べてもほとんど打ち解けていない。たまに労わってもくれるので嫌われてはいないようだが、喜んでいるようだとか機嫌が悪いようだとかいう情報は佳代に聞いて初めて知る始末だ。
 かと言って下手に探りを入れて藪蛇になっても困る。不安を抱えたまま数日が過ぎ、俺は葵が拓磨から何も聞いていないか、聞いていてもどうこうするつもりはないと仮定しておくことにした。懸念事項はいったん脇に置いておき、俺は俺のやるべきことをやろう。
 まず必要なのは、葵の身辺調査。山犬の不利益になる作戦が実行されないよう、葵をそれとなく誘導したいのだが、そのためには葵という人間に関する情報が足りなさすぎる。生い立ち、趣味嗜好、価値観、どれもいまいち把握できていない。あまり気は進まないが、弱みも握ることができればいつか役に立つかもしれない。
 それ以上に重要な目的は、葵が夜中に小屋に通うことが山犬に関係しているのかどうか確かめることだ。
 拓磨には言わなかったが、葵の行動が怪しいと思ったのにはそれなりの理由があった。三月末に行方不明になった沢辺のことだ。
 いくら少ない人員でとはいえ、一ヶ月以上も探して、「壁」を乗り越えた跡以外に何の痕跡も見つからないのはやはりおかしいのではないか。捜索は山犬の縄張りの範囲内にもその外にも及んでいる。近くの山犬と接触して問いかけてみたが、そんな人間は知らないと言うばかりだった。運良く縄張りを避けて進めたとしても、ろくに食料ももっていなかったであろう都会の一般人が、自力でそう遠くまで行けたとも思えない。
 「壁」の向こう側に足を踏み入れた途端に、沢辺は煙のように消えてしまったのだ。
 そして、「壁」付近で何かが起こったのだとすれば、そこを守っている葵が一部始終を知っている可能性は高い。そのことと関連して小屋で何らかの作業をする必要が出てきたのではないか。
 人間同士の揉め事ならば俺には関係ないともいえるが、この境界領域で起こったことである以上、山犬にとって何らかの脅威になる可能性もある。確かめるのは自分の義務であるようにも思えた。
 調べるといっても、できることは限られていた。小屋の中に何かが隠されているのではないかとも考えたが、鍵は葵が管理しているため、仕事の合間のわずかな時間にしか調査することはできない。例えば葵が沢辺を匿っているとすれば、あの中世の家を無理矢理近代化したような小屋の地下かどこかに隠し部屋でもあることになるが、ざっと調べた限りそれらしい仕掛けは室内にも地下通路にも見当たらなかった。
 最も確実なのは小屋に入った葵をこっそり覗き見ることだが、小屋の脇にずっと張り付いている訳にもいかないので、見張りに使える場所を探すことにした。幸い、小屋と母屋は近いため角度が良ければ木々の隙間から小屋の出入口が見えそうだった。
 適当な部屋を探すに当たり、屋敷内を歩き回ってこっちが怪しまれても何なので、一応佳代には許可を取っておくことにした。
 離れに呼ばれて夕食をとった後、葵が自室に引き揚げるのを見計らって、屋敷内の他の部屋も見学させてほしいと佳代に頼んだ。理由については、珍しい建物だから興味があるなどと言っておいた。
 佳代は思いのほか喜んだ。
「母屋はあの通りボロボロですし、それにほら、火事の時に旦那様があそこで亡くなっているでしょう? 外の方にとっては気味が悪いんじゃないかと心配で。面白いと思ってもらえて嬉しいんですよ」
 嬉しそうに思い出話を始めた佳代を見て、ほんの少し胸が痛んだ。
 十五年ほど前、佳代がここで働き始めた頃には、既にかつての繁栄の面影はなく、二階部分はほぼ空き部屋だったという。葵と拓磨、彼らの父である鈴鹿氏の一家の他には、子供たちに「爺や」と呼ばれていた老人が暮らしているだけで、あとは鈴鹿氏の見習いのようなことをしている男たちが時々逗留していくくらいだった。佳代は自然と子供たちの姉か母親のような役割を担うようになった。がらんとした二階で駆けまわったり、物置にしている屋根裏でかくれんぼをしたり、暇があれば子供たちの相手をした。自分も若かったし、純粋に楽しかったと佳代は遠い目をした。
 空き部屋は好きに使って良いし、気に入った場所があれば掃除もすると佳代は申し出てくれたが、掃除用具のある場所だけ聞いて俺は母屋に戻った。
 母屋に着くと、早速俺は空き部屋を見て回った。例の小屋は母屋の向かって左側、つまり焼け残った側のやや正面寄りの方向にある。俺の部屋にもそちらに面した窓はあるものの、蕾を付け始めた伸び放題の紫陽花の茂みに遮られて視界が悪い。二階か屋根裏にはちょうど良い窓が一つくらいあるだろうと踏んでいた。
 佳代の言った通り二階の空室には調度品もほとんどなく、薄暗い蛍光灯のクリーム色の光の中に、舞い上げられた埃が寂しく舞うばかりだった。各部屋で色褪せたカーテンを開けていちいち外を確認したが、どこも小屋の方角には暗い緑色の影が立ち塞がっていた。
 拓磨の部屋以外を調べ終え、残すは屋根裏部屋だけになった。
 屋根裏への入り口は、廊下の突き当りから二番目の小部屋にあった。可動式の木の梯子が、天井の四角い闇の奥から斜めに降ろされたままになっている。
 ギシギシと音を立てながら梯子を上がり、暗闇に頭を突き出す。下階からの明かりでおぼろげに浮かび上がるのは、箪笥や椅子や本棚のシルエットだ。他の部屋よりも少し埃が薄いのは、俺が引っ越してくる際の準備で出入りしたからだろうか。
 次第に目が慣れ、細部がはっきりしてくる。物置という名の通り、使わなくなったものが雑多に詰め込まれているようだ。家具類はいかにも古そうであちこち傷んでいるが、凝った模様が彫られており、元々は良いものなのだろう。脚立や絵の入っていない額もある。
 棚には子供の玩具らしい手押し車やぬいぐるみが飾るように置かれている。葵か拓磨が使っていたものだろうか。彼らもこういう玩具で遊ぶような普通の子供だったのだろうか。
 端に置かれていた茶色いウサギのぬいぐるみを手に取ってみる。埃で少しべたつく。置いてある状態だと気付かなかったが、どうやらキーホルダーだったようで、頭の天辺から伸びたチェーンの先に、小さな鍵と「6」と書かれたプラスチックのプレートが付けられていた。片手に収まるサイズではあるが、キーホルダーとしてはかなりかさばる。葵にもこういう実用性よりも見た目の可愛さを重視する面があったのか。意外だ。
 ウサギを棚に戻そうと顔を上げると、一列に並んだ熊や犬や猫の人形が俺をじっと見つめていた――ような気がした。何となく気まずくなり、俺は棚から目を逸らした。姉弟の隠された部分をうっかり覗き見てしまったようで何となく後ろめたかった。
 部屋の広さは結構あるようで、斜めの天井に挟まれた空間が奥へと続いている。その反対側、出入口に近いほうの突き当りには縦長の小さな窓があった。埃を舞い上げないようにそろそろと近づき、雨の跡のついたガラス越しに目を凝らすと、木の枝とは違う、ぎらりと月光を反射するものが見えた。きりきりと音を立てて錆びた窓を開け、斜め左方向を凝視する。光って見えたのは、山犬の位置情報を受信するアンテナだ。その下にある小屋の扉も、ここからなら梢の隙間からどうにか確認できる。
 一度屋根裏部屋の奥へ戻ってアンティークの肘掛け椅子を探し出し、窓際に設置した。窓の高さもちょうど良く、座ったまま楽に見張りができそうだ。
 空を見上げると、薄墨を流したような雲の陰から、わずかに欠けた満月が顔を覗かせていた。月がこんなにも明るいものだということを今まで忘れていた。森で暮らしていた頃は、この空が当たり前だったのに。
 故郷に残してきた実の家族の顔が浮かび、胸が苦しくなった。

 翌日の夜、食事が終わって葵が引き揚げると、待ち構えていたように佳代が話しかけてきた。
「昨晩、お屋敷を探検してらしたんでしょう? こちらからも明かりが見えましたよ。何か面白いものは見付かりましたか?」
 遊びから帰った子供の相手をするような口調に、俺は内心苦笑した。長年ここに住み込んでいる佳代にとって、幼い頃から面倒を見てきた葵や拓磨はいつまでも子供で、葵と大して年の変わらない俺も似たようなものなのだろう。
「いやあ、古いとはいえ立派なお屋敷ですね。建築は詳しくないんですが、細部までこだわってる感じがしますよね。特に屋根裏が良い味出してます。星も綺麗に見えますし」
「まあ、星がお好きなんですか? 意外とロマンチストなのね。ここは明かりが少ないから天の川もよく見えるでしょう」
 佳代はいたずらっぽくふふふと笑い、それから少し心配そうに眉根を寄せた。
「でも、屋根裏にはプライベートなものも置いていますから――その、坊ちゃんは嫌がられるかもしれません」
 屋根裏に仕舞われた兎の寂しそうな黒いビーズの目が脳裏に蘇った。確かに、その手のものを他人に物色されるのは不愉快だろう。
「大丈夫ですよ、椅子だけちょっとお借りしましたが、他の物には手を触れません。お約束します。その代わり、これからも屋根裏に天体観測しに行ってもいいですか?」
 佳代は安心したようににっこりと微笑んだ。
「坊ちゃんには内緒で、ね」

 それからというもの、俺は夕食後から真夜中まで毎晩のように屋根裏で張り込んだ。葵は数日おきに現れて吸い込まれるように小屋の中へ消え、大抵は二、三時間で出てきた。それだけだ。小屋に電気が点いている以外、葵が来ない夜と変わらない。角度的に窓の奥までは覗けないし、母屋から調べられることには限界があった。
 だが俺は焦ってはいなかった。山犬管理局に入り込むまで十五年も待ったのだ。ここで焦ってしくじっては全てが水の泡だ。気長にやればいい。
 屋根裏部屋に通い詰めている間にも、昼間は昼間で何か手掛かりが落ちていないかさり気なく目を光らせた。
 俺は葵が小屋に入っていくところと出ていくところは見ているが、小屋の中にいるところは見ていない。つまり、葵がずっと小屋に留まっているとは限らないということだ。地下通路を通って森側で何かをしているとすれば、山犬に感づかれたり跡が残ったりしてもおかしくない。森の中を歩くときは何かの痕跡がないか探し、一人になる隙があれば変わったことがないか山犬に尋ねもした。
 それを見付けたのは、小屋を見張り始めてから二週間が経とうとしている時だった。
 鈴鹿家に住み始めてから一ヶ月が過ぎ、俺は一人で「壁」付近の見回りをすることも多くなってきていた。
 その日も俺は猟銃を背負い、「壁」に沿って歩いていた。五月の半ばとは思えない初夏の陽気で、背中に羽織った山犬の毛皮の下にじんわりと汗が滲んでいた。
 「壁」は必ずしもまっすぐではなく、崖や大きな切り株を避けるようにところどころ蛇行している。地下通路の出口から西に十分ほど進んだ場所にも、「壁」が人間の居住区側に凹んでいる箇所があった。
 「壁」に囲まれた半円形の空間は、「壁」が森側に少し傾いていることもあって日当たりが悪く、敷き詰められたように一面に咲き誇るシロツメクサの侵略を免れたドクダミが、くすんだ深緑の葉の上に白い十字の花をひっそりと散りばめていた。
 俺がその場所に着いたのは、真昼の少し前だった。太陽の光がまっすぐに奥の壁を照らしていて、珍しいなと思って俺は足を止めたのだった。
 初めはカビか何かだと思った。だが自然に生えたものにしては分布の仕方が不自然だった。まるで液体が飛び散ったかのような、黒い――
 はっとして俺は「壁」に駆け寄った。黒ずんだ漆喰に点々と付いた染み。ドクダミをかき分けると、「壁」の基部にはバケツ一杯の墨汁をぶちまけたような大きな汚れがあった。指でこすってみると、指先に付いた粒子はわずかに赤みがかっているような気がした。断定はできないが、おそらく血液。雨で流されかけてはいるが、これだけはっきり残っていることから考えるとそう古いものでもない。
 この辺りで唯一の大型捕食者は山犬。山犬は「壁」の近くには寄り付かない。つまり――
 人間の仕業?
 葵の少し疲れたような虚ろな顔が脳裏に浮かんだ。あちらの世界に焦がれるような、儚げな雰囲気。それは、拓磨の瞳の奥に見た危うさと同質のものだ。
 ――この血液が、沢辺のものだとしたら。
 あの細腕で、大の男を殺せるだろうか?
 ――殺せるかもしれない。葵には土地勘があるし、猟銃を持っている。丸腰で、慣れない森の中を歩き回って弱っている男を追い詰めるのは容易いだろう。
 想像力を逞しくし過ぎだろうか。しかし、ここ最近、この辺りで姿をくらましたのは沢辺だけだ。その沢辺は、森に何の痕跡も残さず、山犬とも遭遇せずに消え去った。再び壁を登って脱出した痕跡もない。本当に沢辺がこちら側に入ったとすれば、最も可能性が高いのは、別の人間が彼に何かをしたということだ。
 そして、この近辺の森を自由に歩き回れる人間は葵くらいのものだ。
 俺は地面を這うようにしてドクダミの葉の下に銃弾の跡や掘り返した跡がないか確認した。「壁」の脇から徐々に捜索範囲を広げ、生い茂る羊歯をかき分ける。しかし、人工的な痕跡は何も見付からない。
 沢辺がいなくなってからかなり時間が経っている。彼の残したものは風雨に流される落ち葉や生命力旺盛な植物たちに隠されてしまったのかもしれない。
 漠然と探す以外の手立ては、佳代や拓磨に聞き込みをするくらいか。しかし、彼らから葵に話が漏れないとも限らないし、そもそも彼ら自身が沢辺の一件に関わっている可能性すらある。
 朽ちかけた屋敷に縛られ、俗世間から一定の距離を置く三人。彼らがどんな策略を張り巡らしているのか、余所者の俺には知りようがないのだ。
 俺は立ち上がって膝に付いた土を払い、屋敷のある方角を見据えた。
 立ちはだかる森はどこまでも薄暗く、全てを受容し落ち葉の底に沈めようとするかのように温かかった。

 血の染みのあった辺りを調べていたせいで、小屋に戻るのが予定よりも遅くなってしまった。そろりと扉を開けると、葵が華奢な腰をテーブルに半分預けて待ち構えていた。不機嫌そうに俺を横目で睨み、すぐにふいと視線を逸らす。男にしては少し長いくらいのショートヘアが揺れた。
 化粧気のない横顔は少年のようで、今でこそ何とも思わないが、最初に見た時は戸惑ったものだ。新しい上司は女性だと聞いていたから、事務所で会った時には危うく見落とすところだった。肩書に似合わない線の細さにも驚いた。
 それに、女性が男っぽい言葉遣いをするのは今時珍しくもないが、成人後も自分を「僕」と呼ぶのはレアケースだ。その上、使用人には自分を「坊ちゃん」と呼ばせている。なぜそうしているのか佳代に訊いてみたことがあるが、佳代も本人に直接訊いたことはないそうだ。ただ、「爺や」がふと漏らしたところによると、幼い頃は女の子扱いをされても別段気にする様子もなかったというから、生まれつき心と身体の性別が一致していないというわけでもないようだ。
 言葉を探すように床に視線を泳がす様子は、いわゆるサバサバした男っぽい女性とは似ても似つかない。それでいて女らしさは排除しようとしているように見える。不思議な人だ。
「あー……、すみません、遅くなっちゃいました」
 猜疑心を気取られないよう、俺は極力軽い調子で謝罪した。
「……森は危険だ。気を抜けば山犬の餌食になるぞ」
 葵は床を見つめたまま平坦な調子で言った。自分の秘密が露見することを恐れていたのか、それとも本当に俺の身を案じていたのをうまく伝えられないのかはわからなかった。佳代がよく「坊ちゃんは不器用ですから」と言っているが、それには俺も同意せざるを得ない。
「気を付けます。でも、山犬だって無闇に『壁』に近づいたり人間を襲ったりしないでしょう? 境界付近の見回りくらい、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「……相手はけだものだ。言葉も情も通じない、僕たちの予想通りに動くとは限らないんだ。あまり信用すると痛い目を見る」
 山犬は知的な生き物で彼らなりの言葉だってあるし、仲間を裏切るようなことはしない高潔な精神を持っている。そう言ってやりたかったが、俺は苛立ちを抑えて平静を装った。
「わかってます。危険の少ない作業だからって、気を抜いたりはしませんよ」
「うん……。そろそろ、休憩にしよう」
 葵は立ち上がって音もなく俺の脇をすり抜けた。
 彼女の連れてきた空気には、微かに香ばしいような山犬の匂いが混じっていた。毛皮から移ったものか、それとも――
 振り返った時には、葵の姿は扉の向こうに消えていた。

 五月も終わりが近づき、俺の気持ちもだれ始めていた。仕事は単調、葵は相変わらず、拓磨は捕まらない。息抜きといえば、休日に車を借りて街まで行ったり、時折森の調査にやって来る研究者と話したりするくらい。葵の調査についても、話を聞けるような旧友や知り合いがいないか佳代に探りを入れてみたものの、葵の交友関係は極端に狭いらしく目ぼしい情報は得られなかった。
 変化のない毎日に対する焦りさえもマンネリ化しつつあるのは、滅びる運命に抗おうともしない老いた屋敷や、変化を拒む深い森に囲まれているせいだろうか。
 その夜も俺は屋根裏部屋に籠もり、既に見飽きた満天の星や、その下に蠢く真っ黒な森を見るともなく見ていた。
 十時前になると、Tシャツにグレーのカーディガンを羽織った格好の葵が小屋に入っていった。それすらもいつものことなので俺は大して気に留めず、小屋のほうに視線を据えたままうつらうつらしていた。
 十五分ほど経った頃だろうか。視界に白い影が現れ、さっと動いて茂みの陰に消えた。
 俺ははっと我に返り、青白い花を咲かせ始めた紫陽花の茂みに目を凝らした。影はすぐに出てきて、うろうろと動き回っている。昇り始めたばかりの半月の光は弱く、白い塊にしか見えないが、どうやらかなり大きいようだ。少なくとも野良猫や野犬ではないと断言できる。
 そのうちに影は小屋のそばに移動し、窓から漏れる四角い光の中に顔を突っ込んだ。その瞬間、俺の心臓は一つ大きく脈打った。
 山犬だ――
 俺は弾かれたように、しかし音を立てないように素早く立ち上がり、階下の明かりを頼りに梯子を駆け下りた。
 玄関ホールへと走る間、俺の頭は混乱したままフル回転していた。
 昼間見まわったときには、「壁」に異常はなく、「壁」の下を抜ける穴も掘られている形跡はなかった。山犬が侵入できる隙はなかったはずだ。
 小屋の中にはまだ葵がいる。葵は山犬に気付いているのか? まさか、山犬が小屋の下の地下通路を通り、葵を襲って――
 山犬が小屋の扉から出てきたのかどうか、記憶がなかった。重要な時に居眠りしていたことが悔やまれた。
 状況をうまく整理できないまま、俺は木の陰に隠れつつ山犬に近づいた。十メートルほどの距離を空けて歩みを止め、草陰にしゃがんで様子を窺う。警戒心の強い普通の山犬ならば気づかないはずがないのだが、その山犬はあちらへふらふら、こちらへふらふらと落ち着きなく嗅ぎまわるばかりで、俺のほうを見向きもしなかった。
 初めて来た場所の匂いを確認すること自体はごく当たり前のことだが、この不用心さは異常といえば異常だ。それに、群れにいれば目立つほど毛色が明るいにもかかわらず、俺はこの山犬と遭遇したことがない。新たな家族を作ろうと独立した若者か、あるいは群れを追い出されたはぐれ者か。
 人間社会と同じで、山犬の世界にも突拍子もない行動をとる奴は時々いる。面白半分に人間を殺すことだって――
 背筋がひやりと冷たくなるのを打ち消すように、俺は意識的に深呼吸を繰り返した。
 落ち着け。俺は山犬だ。たとえ人間が――葵が殺されていたとしても、所詮は他人事。動揺することはない。
 俺は覚悟を決め、ふらふらと近づいてきた山犬に、山犬の言葉で声をかけた。
 白い山犬はぴたりと歩みを止め、両耳をぴんと立ててきょろきょろと辺りを見回した。どうやら俺がどこにいるかわかっていないらしい。
 ここだよと言いながら茂みから顔を出すと、山犬はとことこと軽い足取りで寄ってきた。手が届くくらいの距離まで近づくと、立ち上がった俺を見上げ、仕舞い忘れた桃色の舌をちょこんとのぞかせながら首を傾げる。
 (だあれ? おともだち?)
 あまりに気の抜けた対応に、俺は倒れそうになった。
 お友達だと? 仮にも厳しい野生の世界に身を置く山犬が、初対面の――しかも別種の動物に向かって言う言葉か?
 思わず相手の顔をまじまじと見つめ返す。山犬は再び舌を仕舞い忘れたまま、行儀良く座って俺の返答を待っている。小柄で細身ではあるが、そろそろ大人と言っても差し支えない年頃のように見える。妙に態度が幼いのが気にかかるが、ここは相手に合わせておくことにする。
 (そう、お友達だよ)
 仕方なく俺は答えた。世界中を「敵」か「お友達」の二つに分類するなら、俺は多分「お友達」に属しているだろうから、嘘は言っていないはずだ。
 幼い山犬は口を開けてえへへと笑い、尻尾をふさりふさりと緩やかに振った。
 どこから来たのか訊こうとして口を開きかけた時、左腕にちくりとした痛みを感じた。虫にでも刺されたかと見ると、シャツ越しに腕に注射器が突き立っていた。
 その向こうには、後じさる人影――葵だ。
 葵が山犬に手を差し伸べると、山犬は波打つようにぴょこぴょこと跳ね、嬉しさを全身で表現する。
 (おねえちゃん! おねえちゃん!)
 山犬の声が頭の中で反響する。身体が急激に重くなり、俺は地面に膝を突いた。目玉が意に反してあらぬ方向を向こうとする。
 麻酔か――
 視界が暗くなる。どうやらうつ伏せに倒れたようだ。
 薄らいでいく意識の中、タクマと呼ぶ声が聞こえた気がした。

5

 月明かりの下、白い尾が翻る。
 ふわり、ふわり。
 しなやかな四肢で飛び跳ねる。青く光るシロツメクサの絨毯の上で。舞うように。そう、喜びの踊りだ。
 煉瓦の壁に半分だけ囲まれた、半円形の緑の舞台。観客は、僕と、無口な森の木々。ただ自身の幸福を表現するためだけに、彼は踊る。
「拓ちゃん。拓磨。おいで」
 彼は軽やかに僕の腕に飛び込み、僕の胸に額を押し付ける。闇に匂い立つような白い毛皮を撫で、そっと抱き締める。背筋に沿った朽葉色の差し毛が、月光を反射して黄金に輝いた。
「ずっと、一緒にいようね」
 拓ちゃんは薄い大きな舌で僕の頬をぺろりと舐めた。
 今度こそ――きっと、うまくいく。
 僕は拓ちゃんから身を離し、「壁」のほうへ向かった。「壁」にもたせかけるように、手足を縛った男の体が転がしてある。そろそろ麻酔薬の効果が切れる頃だ。
 僕は白い花の茂みに屈み込み、懐中電灯をランタンモードにして地面に置いた。照らし出された男の頬をぺたぺたと軽く叩くと、ううんと呻き声を上げながらゆっくりと目蓋を上げた。現れた黒い瞳を左右に泳がせ、身を捩る。状況を把握するまで、僕は黙って待っていた。
 ようやく僕の顔に視点を定め、大野ヶ原は顔を歪ませた。
「葵さん――あなた、自分が何してるか、わかってるんですか」
 吐き捨てるように言ったものの、声は干からびて掠れていた。
「怪しい人間がいたから、捕まえただけ。あんなところで、何を嗅ぎまわってた?」
「あなたこそ、こそこそ何をしてたんです? その山犬は何なんですか」
 大野ヶ原は拓ちゃんを顎で示した。僕の後ろで大人しく待っていた拓ちゃんは、不意に水を向けられて首を傾げた。この男、腹を立ててはいるが、拓ちゃんを怖がっている様子はない。自分が圧倒的に不利な立場にあるということが、わかっていないのだろうか。
「お前には関係ない。質問に答えろ」
 僕は立ち上がり、上から大野ヶ原を睨めつける。大野ヶ原も上目遣いに睨み返してくる。
「当ててあげましょうか。あなたは、森に入り込んだ人間を次々に殺していたんだ。その山犬に襲わせて……。違いますか?」
 数ヶ月前の光景が蘇る。怯えた目。絶望を湛えた。
 男は僕たちから逃げようとした。
 どうして逃げるの? 死にたかったんでしょう?
 本当に、理解できなかった。
 麻酔で眠った男を前に、拓ちゃんが僕を振り返る。
 この人はお友達? それともごはん?
 ごはんだよ、と僕は告げる。
 拓ちゃんは嬉々として飛びかかる。
 男を食らう。はらわたから。
 おいしい?と僕は訊く。
 満足そうに、拓ちゃんは口の周りに付いた血を舐める。
「本人が死にたがってた。何が悪い?」
 言ってしまってから黙っていても良かったかとも思ったが、やっぱりどうでもいいやと思い直した。今更知られても同じことだ。
「悪いに決まってるでしょう。山犬をそんなことに利用するなんて……。一体なんの目的で――」
 大野ヶ原は頬を引きつらせる。
「何度も言わせるな。お前には関係ない。お前はもうすぐ死ぬんだから」
 知られてしまったら。放ってはおけない。拓ちゃんを奪わせはしない。僕が守らないと。
 殺すしかない。
 大野ヶ原の遺品は僕が「発見」し、上司や新聞記者に告げるのだ。不幸な事故でした。一人で森に入って。誰かが壁を越えた形跡を見付けて捜索に行ったのでしょう。
 森の中で起きたことに関して深くは追及されないだろう。森の秘密は守られる。この壁は一方通行だ。
「言っただろう? 管理局の仕事には危険が伴うって。気を抜けば山犬の餌食になるかもしれないよ」
 こんな風に。
 自然と笑みがこぼれる。
「拓ちゃん」
 短い毛で覆われた耳がこちらを向き、尻尾がふっさりと持ち上がる。
「ごはんだよ」
 僕の合図で拓ちゃんが飛びかかり、大野ヶ原の息の根を止める――はずだった。
 拓ちゃんは動かなかった。困惑したように二人の人間の顔を交互に見つめるばかりだ。
「どうしたの? 食べていいんだよ? 戻りたくないの?」
(でも……)
 拓ちゃんはますます困った顔をして、背中を丸めて座り込んでしまった。
 その時、拓ちゃんとは別の山犬の声が低く響いた。
(もうやめろ。俺は――俺は、山犬だ。そいつに同胞殺しの罪を犯させるな)
 声の主は、大野ヶ原だった。
 なんだ、そういうことか……。
 不可解だった点が頭の中で繋がる。やっぱり、山犬管理局に入りたがる人間などそうそういるはずがないのだ。だが、人間側の情報を山犬に流すのが目的ならば納得できる。両親が山犬に殺されたというのは嘘。孤児になったのではなく、森から湧いてきたのだ。
(このひと、ごはんじゃないよ。さっき『おともだち』になったの)
 拓ちゃんは許しを請うように上目遣いで僕を見た。拓ちゃんは純粋だ。相手が騙そうとしているとか、嘘を吐いているとかいうふうには考えられない。もどかしかった。
 こうなってしまったら拓ちゃんに手を下してもらうことはもうできない。しかし、相手が山犬を名乗っているからといって、拓ちゃんの存在を知られると厄介であることに変わりはない。始末するにしても、拓ちゃんのいないところでしなければ駄目だ。おともだちが殺されるところを目撃するなんて、そんな残酷な経験をさせるわけにはいかない。
 僕は膝を抱えてその場に座り込んだ。もう何もかもやる気が失せた。このまま眠り込んで、湿った土に溶けて微生物に分解されてしまいたい。
 大野ヶ原は縛られたまま、ここぞとばかりにまくし立てる。
「葵さん。一体どういうつもりなんですか。山犬を飼い馴らして、人間を殺させて……。いや、人間に何をしようが俺の知ったこっちゃない。ただ、山犬に罪を着せるのはやめるんだ。人間に恐怖を抱かせるほど、山犬に対する弾圧は強くなる。迷惑だ」
 そんなことはわかっている。だから、ちゃんと――バレないようにしていたじゃないか。山犬の森では自殺者の遺体が見つからないのはよくあることだと、誰も怪しんでいなかったじゃないか。
 僕が無視していると、大野ヶ原は山犬の言葉で拓ちゃんに矛先を向けた。
(君は、どうして葵さんと会っているの? なんで人間を食べるの?)
 拓ちゃんは耳をまっすぐに立てて大野ヶ原の言葉を懸命に聞き取り、幼い心で思案しているようだった。
(あのね、人間をたくさん食べてね、人間に戻るんだよ。それで、『壁』の向こう側で、おねえちゃんと一緒に暮らすの)
 LEDの青白い光に横顔を照らされ、大野ヶ原が妙な顔をしているのが見えた。嫌悪感を表に出すまいと堪えているような、単に困っているような、笑っているような。
 大野ヶ原が更に質問を重ねる。
(じゃあ、どうしておねえちゃんと一緒に暮らしたいのかな?)
 拓ちゃんは目を真ん丸にしてきょとんと首を傾げた。その答えは拓ちゃんにとってはあまりに自明で、考えたことすらなかったのだろう。僕は代わりに答えてやった。
「家族だから。姉弟だから。こっちが本物の拓磨だから」
 大野ヶ原はあからさまに当惑した顔をした。
「本物の拓磨君は、亡くなったはずじゃ……? いや、そもそも本物の拓磨君は人間でしょう?」
 知っていたのか。
「山犬が人間に化けられるなら、人間が山犬に化けられたって不思議じゃない」
 拓磨が死んで、新しい拓磨が来て、父も死んで。抜け殻のようになっていた僕のところに、爺やがこの山犬の姿をした拓磨を連れてきた。死んだように見せかけて、山犬に姿を変えさせて、爺やが隠していたのだ。父から守るために。本当の、僕の拓磨を。
「そんな話は聞いたことがない。それに、人間を食べれば人間の姿に戻れるなんていうのも」
 疑わしい、と大野ヶ原は言った。でも爺やができると言っていたのだ。そういった方法があると、ご当主様に伺ったのです。坊ちゃんと私とで、拓ちゃんを元に戻して差し上げましょう。
「お前に何がわかる? 自分がどうやって人間になったのかだって、どうせ覚えてないだろう」
 大野ヶ原はぐっと言葉に詰まった。
「……確かに、俺は物心付いた頃にはもう人間になってました。でも、人間に化けるには適性が必要だとは聞いています。本当に山犬になったのだとしたらかなり前の話でしょうし、それだけ長期間かけて変わらないのなら、もう……」
「勝手なことを言うな」
 山犬が人間になるのと、山犬になった人間が元に戻るのとは違う。拓ちゃんは人間だったのだ。すべすべの頬っぺたをした可愛い子供だったのだ。拓ちゃんが元に戻れば、こんな風に夜中にこそこそ会いに来なくて済む。堂々と一緒にいられる。
 大野ヶ原は静かに首を振った。
「彼自身、もう人間だった頃のことはほとんど覚えてないんじゃないですか? 人間に飼われているのと同じだ。ここから解放して、誇り高き山犬として生きさせてやったほうがいい」
 僕は拓ちゃんを見つめた。自分が話題にされているのはわかるが、話が難しくてよく理解できないのだろう、草の上に伏せて前足の上に顎を乗せたまま、きょろきょろと目を泳がせている。
「解放だなんて」
 そんな言い方をされたら、まるで僕がこの子を縛り付けているみたいじゃないか。
 少しだけ、声が震えた。
「僕たちは家族だ。この絆を断ち切ることはできない。永遠に」
 拓ちゃんに視線を送ると、拓ちゃんも僕の目を見て嬉しそうにぱたりと尾を振った。
「それに、お前だって山犬だった時のことを覚えていないのなら拓ちゃんと同じ。もっと人間らしく生きたほうがいいんじゃない? あっちの――ニセモノの拓磨みたいに」
 ニセモノ、という言葉を口にすると、胸にちくりと針が刺さったような痛みを感じた。僕にとっては確かにここにいるのが本物の拓磨で、森の外の世界にいる拓磨は偽物なのだけれど、やっぱりどちらも拓磨であって、二人とも僕の弟のような気がしていた。僕は混乱している。ずっと前から混乱している。でもこの絡まった糸をほぐす気力は僕にはない。
 大野ヶ原は静かに項垂れた。
「……わかりました。いや、了承したというわけではないんですが……。ここは一旦解散して、お互いに頭を冷やしましょう。このままでいいとは思っていませんが、このことを他の人間に漏らすようなことはしません。誓って。だから、縄を解いてくれませんか?」
 僕は黙って大野ヶ原を睨みつけた。暗くて表情が相手に伝わったかどうかわからないが、この視線が鋭い槍になって奴の胸を貫けばいいのにと念じた。
 大野ヶ原は僕を相手にするのを諦め、拓ちゃんに向き直った。
(拓磨君。この縄を切ってくれないか? 俺は君たちの敵じゃない。頼む)
 拓磨は横目で僕の顔色を窺っていたが、やがておずおずと立ち上がって大野ヶ原に近づき、両手を後ろで縛っていた縄を齧り切った。
(ありがとう。――また、会いに来るからね)
 足の縄は自分で解き、大野ヶ原は嫌味なくらいゆっくりと歩いて立ち去った。乾いた足音が遠ざかり、やがて木の葉が風に鳴るぱらぱらという音しか聞こえなくなった。
 陽炎のようにゆらゆらと立ち上る屈辱を感じた。その源がどこにあるのかはよくわからないが、確かなのは僕の負けだということだ。
(おねえちゃん……?)
 拓ちゃんが頭を低くして恐る恐る近寄ってくる。その姿に屈辱の陽炎が着火し、暗い胸の内で音もなく燃え上がった。
「拓ちゃん。なんであの男の言うことを聞くの?」
 拓ちゃんは必死に僕の意図を探ろうと僕の顔を見上げる。
(だって……)
「だってじゃない!」
 いけない、と頭の中に響いた自制の声を振り払って、僕は拓ちゃんの鼻面を平手で叩いていた。拓ちゃんは反射的にぎゅっと目を閉じ、首を縮める。
「なんでおねえちゃんより、あんな奴のことを大事にするの!」
 怒りに引きずられるように立ち上がり、拓ちゃんの首の付け根辺りを思い切り突き飛ばす。しかし、背中が僕の胸の高さほどまである四つ足の身体は根が生えたようにしっかりと地面に立っていて、逆に僕が反動で尻餅をついた。
 拓ちゃんは目を真ん丸にしていた。その目に宿る驚きと恐怖に、僕は自分が何をしたのかを理解した。怒りの炎は一瞬にして冷たく消え去った。
 白い尻尾と頭が、徐々に力なく垂れていく。
(ごめんなさい、おねえちゃん。ごめんなさい……)
 大きな瞳が潤んで光っている。人間の子供なら泣きじゃくっているところだろう。しかし、拓ちゃんが泣くことはない。山犬の目は、悲しみの涙を零せない。
「ごめんね。お姉ちゃんが悪かったね」
 僕は拓ちゃんの頭を抱き寄せ、首筋に顔を埋めた。拓ちゃんは一瞬だけぴくりと震えて身を引こうとしたが、すぐに甘えてぐいぐいと頬を押し付けてきた。
 拓ちゃんを守りたいと思いながら、僕自身が拓ちゃんを傷付けている。
 拓ちゃんには僕しかいないのに。
 僕にも拓ちゃんしかいないのに。
 全部、僕の身勝手だ。僕の弱さだ。何もかも。
 毛に顔を埋めたまま、思い切り息を吸い込んだ。暖かな太陽の匂いで、胸が満たされる。拓ちゃんが今もここにいて抱き締めることができる、この脆く儚い幸運は、いつまで続いてくれるのだろうか。ここは誰にも邪魔されない、僕らだけの秘密の庭だった。今はもう、拓ちゃんのいるべき場所ではない。
 このまま温かい毛皮に溶けてしまえたらどんなに良いだろう。拓ちゃんを人間になんかしなくたって、一つになっていつも一緒にいられる。人間の来ない奥地に住んで、自由に森を駆け回って、太陽と風と水の声に従って生きるのだ。
「ねえ、拓ちゃん。もし、何もかも駄目になってしまったら……進むことも戻ることも、できなくなってしまったら……、そのときは、お姉ちゃんを食べてほしいな」
 拓ちゃんは身を離し、僕の顔をまじまじと見つめた。僕は拓ちゃんの鼻面を両手で挟み、まっすぐに目を見て念を押した。
「約束してくれる?」
(……うん。わかった)
 ありがとうと呟いて、僕は拓ちゃんのふかふかの頭を丁寧に撫でた。拓ちゃんはうっとりと目を細め、濡れた鼻先で僕の頬に触れて涙の跡をかき消した。
 山犬が邪悪なけだものだなんて、誰が言い出したのだろう。最初に提唱した人間を呪いたくなる。山犬が悪だという認識は、どうしようもなく広まってしまっていて、誰もがそういう前提で話す。テレビも、政治家も、街角で立ち話をしている主婦も、山犬管理局の人間でさえも。僕だって、雹のように降ってくるそうした言葉を拾い上げて別の方向に投げつけることもある。違う、そんなのは嘘だと心の中で叫びながら。
 彼らは実際の山犬の姿を知らない。人間と変わらない精神を持っていることを知らない。それを僕だけが知っているという事実は僕に密やかな喜びをもたらしていたが、同時に拓ちゃんを僕から引き離し、拓ちゃんの身を危険にさらす圧力にもなる。拓ちゃんの存在が世に知られたらどうなるか、想像もしたくない。
(おねえちゃん、ぼく、おなかすいたな)
 拓ちゃんが甘ったれた声を出す。
「そうだね。じゃあ、ごはん食べに行こっか」
 僕は懐中電灯を拾い上げ、昼間のうちにこっそりと仕留めておいた鹿のところに拓ちゃんを連れて向かった。

十四歳の記憶

 幼い子供が二人、枯葉を舞い上げて遊んでいる。
 一人は、弟と同じ年頃。
 去年も同じ子供たちを見た。
 少し、大きくなった。
 僕はその成長を微笑ましく思う。
 僕にも弟がいて、一度いなくなって戻ってきた弟がいて、だから弟と年の近い子供たちの幸福を願わずにはいられない。
 あの子みたいに、拓ちゃんもきっと。
 幸せだ。気が狂いそうなくらい。
 この幸せが、家族がいる幸せが、あらゆるひとに訪れますように。

6

 危ないところだった。死ぬかと思った。
 背中に冷や汗を流しながら自室に帰り着き、俺はベッドの上に身を投げ出した。サイドテーブルの置時計を見ると時刻は午前二時を回っていたが、神経が高ぶっていて眠気は感じなかった。
 小屋を見張り始めた時点である程度の危険は予測していたが、問答無用でいきなり麻酔薬をぶち込んでくるとは思っていなかった。もっと冷静で慎重に事を運ぶタイプの人間かと思っていたのだが。どうやら俺の観察眼は節穴のようだ。
 しかし、葵が意外と衝動的に動いてくれて良かったこともある。周到な人間なら、ズボンのポケットに隠したサバイバルナイフを見落としはしなかっただろう。結局使わずに済んだものの手元にナイフがあるお陰で落ち着いていられたし、それに丸腰だと相手に思われていたことが穏便に事を済ませる上で有利に働いていたはずだ。完全に相手が優位にある状態で、決定的に対立することは避けたかった。
 とりあえず無事に逃げおおせたものの、頭の中はまだ混乱している。一応、葵の目的はわかった。彼らの言葉を信じるならば、山犬になった弟の拓磨を人間に戻すために、森に迷い込んだ人間を生贄として殺しているのだ。だが、そもそも人間から山犬の姿になったというのは本当なのだろうか。人間を食べれば戻れるというのは? 「偽物」の拓磨、つまり、元々は山犬で今は人間の姿をしているあの拓磨は、このことを知っているのだろうか?
 俺は、これからどうすればいい?
 普通に考えて、葵たちのしていることは連続殺人だ。野放しにはしておけない――俺が人間ならば。だが、山犬の利益を最優先に考えるなら、このことを明るみに出すのは危険だ。人喰い山犬というイメージは強烈だ。それも人間の指示で動いていたとなれば、マスコミが食い付くのは間違いない。山犬は恐ろしいという印象は強化され、人間と山犬の間に横たわる溝は深まるだろう。しかも、人間に化けた山犬が壁のこちら側に紛れ込んでいると知られたらどうなる? 俺自身は手が打たれる前に森に逃げ込むことができるかもしれないが、同じように潜入している同胞たちが狩られる危険もある。
 俺は何のためにこちらの世界に来た? 山犬と人間のゆるやかな共存を実現するためだ。壁などなくても、監視などされなくても、安全に棲み分けられることを示すためだ。その目的のためには、山犬の姿の拓磨のことは知られないようにしたほうが無難だろう。
 しかし、山犬になったという拓磨からは敵意を持たれていないとはいえ、葵が自力で口封じを試みないとも限らない。まずは自分の身の安全を確保する必要がある。
 とりあえず、森に避難して山犬に匿ってもらうか?
 いや、せっかく手にした人間としての市民権を手放すのは惜しい。再び人間の側に潜入するときには大野ヶ原誠一ではない別の人間として出直すことになるだろうが、かなりハードルが高いように思える。かと言って諦めて残りの一生を森で暮らす気はない。
 迷った末に、俺は机の引出しからボールペンとノートを取り出し、ページを一枚破り取って手紙を書き始めた。宛先は佳代だ。まず、事情は言えないが命を狙われているかもしれないということから書き始め、俺が死んだらそれは俺が葵に殺されたのだと思ってほしいこと、これを読んだらこの手紙と一緒に渡した山犬の毛皮を晴れた日の昼間にできるだけ森の近くで燃やしてほしいことを記した。最後に今まで親切にしてくれたことへの感謝で手紙を結び、折り畳んで茶封筒に入れ、封をした。
 アナログで古典的とも言える手だが、何もしないよりはましだろう。対策を講じたことを葵に告げればある程度の抑止力になるはずだ。
 手紙を枕の下に隠し、扉と窓にしっかりと鍵をかけて、俺は束の間の眠りに落ちた。

 翌朝、いつもの時刻に起きて身支度を済ませると、俺は箪笥代わりの段ボール箱からスポーツバッグを引っ張り出し、昨晩書いた手紙と仕事用に支給されていた毛皮を詰め込んだ。口を閉じる前に山犬の毛を一掴みむしり取り、昨夜のノートをまた一ページ破ってその中に包んだ。包みはサバイバルナイフと一緒に作業着のポケットに入れた。
 鍵をできるだけ静かに開け、部屋の外に意識を集中しながらそろそろと扉を引く。朝陽が窓から斜めに差し込み、夜の屋敷を覆う暗く思い空気はすっかり拭い去られている。退色した壁紙さえ、よく洗われたタオルのようなある種の清潔さを感じさせる。人影はなく、いつもと違うところもどこにもない。
 念のため慎重に廊下を進み、半ば野生化した前庭に出ても、やはり何事もなかったかのように昨日と同じ景色が続いている。昔の住人が植えさせたのだろうか、どこからか甘く絡みつくような南国の花の匂いが微かに漂ってくる。穏やかに凪いだ朝の空気に身を浸していると、葵の殺意など俺自身の妄想に過ぎないような気がしてきて、そうすると神経を尖らせている自分が滑稽に思え、俺は一人で声を立てて笑った。
 葵に見付からないよう離れの脇に生えているツツジの裏にバッグを隠し、いつものように鍵の掛かっていない扉を抜けて中に入る。離れの内装は装飾性が低く、街中のアパートの一室に帰ってきたかのようで妙に落ち着く。
 リビングダイニング兼佳代の部屋のようになっている部屋に入ると、テレビを点け放しにしたまま、佳代がテーブルに食器を並べていた。トーストとハムエッグが二人分。
「おはようございます。今日は、葵さんは……?」
 はっとしたように顔を上げた佳代は、しかしすぐに普段の柔らかな表情を浮かべた。
「あら、おはようございます。坊ちゃんは、今朝は食欲がないと仰って……。お休みになってはどうかと言ったんですが、早くからお仕事に行かれてしまいました」
 佳代は泣き笑いのような顔になった。それが彼女の困ったときの顔だ。
 俺は少しだけ配膳を手伝い、佳代と向かい合って席に着いた。
 テレビでは朝の情報番組が流れていて、最近出店したという小洒落たカフェを特集している。つい数ヶ月前までは俺もああいう店が立ち並ぶ界隈を通って通勤していたのだ。実際に足を運んだことはほとんどないが。しかし今となっては、そうした無闇にきらきらした空間はファンタジーの世界にしか存在しないように思える。俺のいるこの野生との曖昧な境界領域とは、あまりに隔絶している。
 しばしぼんやりとテレビに見入った後、朝食に手を伸ばそうと顔を正面に戻すと、母犬とはぐれた子犬のような眼をした佳代と視線がかち合った。
「あの……何か?」
 訊いてから、そういえば普段の大野ヶ原誠一はこんなぶっきらぼうな言い方はしなかったなと思い出した。
「やっぱり、何だか疲れていらっしゃるみたい。あなたも、坊ちゃんも。何があったか、私で良ければ話してもらえませんか?」
 俺はそんなに疲れて見えるのだろうか。自分では昨日の出来事にそれほどダメージは受けていないつもりだったので多少ショックだった。
「そうですね、何もなかったとは言えませんが……。まあ、よくある意見の相違ってやつです。あ、ちょっと待っててもらえますか?」
 俺は佳代を残して手紙の入ったバッグを取りに行った。外に出ると同時に周囲に視線を走らせるが、人影は見えない。湿った土をバッグの底から払い落とし、鷹揚な態度を装ってゆっくりと部屋に戻る。
「実は、ちょっと危険な仕事があるかもしれなくて。万が一ってこともあるんで、これを佳代さんに預かっててほしいんです。俺の身に何かあったら、中の手紙を読んでください。あ、俺が無事な間は開封しないでくださいね? 恥ずかしいので」
 ますます不安を顔に滲ませる佳代を見ていると、深刻そうな素振りはできなかった。そしかし、この善良な女性に嘘を伝えるのもそれはそれで心が痛むし、手紙を読んだ佳代の心境を思うとやはり佳代に後のことを託すべきではなかったと後悔すら胸をよぎった。
 俺の葛藤を察したのか、佳代はわかりましたとだけ静かに言ってバッグを受け取った。そして台所の床下収納の蓋を開け、米の袋と缶詰の間にそれを押し込んだ。
 俺たちは再び食事の席に着き、先ほどの会話を忘れたかのように他愛ない世間話に勤しんだ。しかし、佳代の顔に差した憂いの影が消えることは最後までなかった。

 小屋の鍵は開いたまま葵の姿はなく、俺は構わず地下道を抜けて森へと入った。佳代に渡してしまったので当然ながら灰色の山犬の毛皮は着なかった。そもそもあんなものを身に着ける意味などないのだ。森に入る人間に流布している、おまじないやジンクスに近い。死んでから時間の経った毛皮は、山犬には匂いでそれとわかる。匂いを追った山犬にとっては、干からびた死骸がひとりでにあちこち動き回っているように感じられる。誰の仕業だ? 人間に決まっている。たとえ人間の匂いが消し去られていたって、そんな悪趣味な真似をするのは人間くらいなのだからすぐにわかる。
 森に入るとすぐ、俺は遠吠えで同胞に声をかけた。話があるので樫の古木のところまで来てほしい、と。遠吠えを聞かれたところで構うことはない。どうせ葵や拓磨には正体を知られている。少し間があって、太い壮年の山犬の声で了解の返答があった。
 約束した場所に着くと、既に山犬の群れが待っていた。妻と二頭の子供を隆起した樫の根元に残し、群れの長であるひときわがっしりとした雄が歩み出る。油断のない、威圧感のある面持ち。俺の連れが仲間を殺したことを、彼らは忘れてはいない。
(何の用だ)
 雄が低く唸る。俺は精一杯胸を張って答える。
(頼みがある。山犬の未来に関わることだ。――もし、この山犬の毛が燃える匂いがしたら)
 俺はポケットに入れていた包みを開き、中を群れの長に差し出す。
(その時は、いつもこの森に来ている人間の女と、女に飼い馴らされている白い山犬を、殺してほしい)
 山犬たちは押し黙り、差すような視線で俺を見つめていた。
 俺は足元の土を手で少し掘り、包みごと山犬の毛を入れ、使い捨てライターで炙った。ノートの切れ端にまず火が燃え移り、毛の束からじりじりと焦げ臭い煙が上がる。木の陰にいる三頭が、頭を上下させながら身を乗り出す。
(こういう匂いが、『壁』の外から流れてくると思う。――あなたがたが引き受けてくれなければ、人間からの攻撃が今よりもっと激しくなるのを止められないかもしれない。やってくれるか?)
 大きな山犬は黒い艶のある鼻をひこひこと動かして煙を嗅ぎ、ふんっと勢い良く息を吐きだして不快そうに口を歪めた。
(まあいいだろう。白い山犬というのは、『壁』の近くを一人でうろうろしている妙な若者のことか?)
(知っているのか? 前に会ったときにはそんなこと言ってなかったじゃないか)
 葵の動向を調べている間、この山犬にも何か変わったことがないか訊いている。群れの外の山犬のことなど一言も聞いていない。
(訊かれなかった)
 俺は秘かに歯噛みした。確かに俺は人間のことにしか意識が向いていなくて、変わった山犬がいるかなど言及していなかった。あの時点で山犬の拓磨のことを知っていれば、他にやりようもあっただろう。
(わかったよ。とにかく、後のことは頼む。煙が上がったときには、多分――俺はもう死んでいるから)
 山犬の長は目を細め、ゆっくりと一つ瞬きをした。
(我々は一度交わした約束は決して破らない。この身が果てるまでは)
 俺をじっと見つめた後、山犬たちは音もなく森の奥へと帰っていった。

 山犬の群れと別れた後、俺はぶらぶらと小屋のほうへ向かった。途中、少し開けた木漏れ日の差す場所を見付け、若い木の幹に背中を預けて仮眠した。山犬を追い払う仕事をする振りなど、馬鹿馬鹿しくて今更できはしないので暇なのだ。
 まずはあの白い山犬の拓磨の居場所を突き止めて詳しく話を聞きたいところだが、「壁」の近くとしか情報がない。俺が呼んだところで来てはくれないだろうし、先に葵に手を打たれる可能性もある。だが、彼らが夜に逢瀬を重ねていたということは、葵が小屋に向かう夜十時前には、山犬の姿の拓磨がその付近、少なくとも呼べばわかる程度の距離に来る習慣があると考えられる。つまり、夜に地下通路の出口付近で待ち伏せしていれば、例の山犬に会えるかもしれない。それまではとりあえず体力を温存しておきたかった。
 太陽が真南を過ぎた頃、一度離れに戻った。葵に出くわすこともなく、小屋の鍵も開いていたので難なく「壁」を通過することができた。
 まずは台所へ行き、佳代が冷蔵庫に用意してくれていた昼食を冷たいままかき込む。ついでに炊飯器の横に菓子パンを発見し、佳代は悪いが夜食としてウエストポーチに突っ込んだ。それから居間の薄く埃を被った固定電話の脇にあったメモ用紙を拝借し、佳代への置き手紙を残した。
――今日は夜に用事があるので夕飯は不要です。帰りは遅くなりますが心配は要りません。
 誠一と署名をして、ふと昔の夫婦はこんな感じだったのかなと思った。紙か固定電話くらいしか連絡手段がないという点では、携帯電話の電波がろくに入らないこの屋敷も同じだ。まあ、俺と佳代とでは少々歳が離れすぎている感もあるが。
 メモは台所に置き、塩の容器を重石にした。佳代が戻るのはおそらく午後三時か四時、通常なら葵よりも早い。佳代が先に見付けてくれて、葵に動向が知られないことを祈った。
 離れから出て、さてどうしようかと辺りを見渡していると、灌木の間を悄然と歩いている人影が目に入った。葵だ。屋敷のほうに向かっているようだ。俺は小走りで後を追った。
 葵さんと呼びかけると、相手は振り返った。思ったより――やつれている。目の下には青黒い隈が透け、目蓋は腫れぼったい。顔色も全体に青白いようだ。
 葵は身体を半分こちらに向けたまま、俺をじっと睨んでいる――と最初は思った。しかし、よく表情を観察すると、どうやら睨んでいるわけではないらしい。ただ、見ている。感情が燃え尽きてしまったかのような、空虚な目で。
 弟のためなら人殺しも辞さず、今まで巧妙に犯行を隠しおおせてきたはずの人間が、一人に正体を見破られただけでこれほど打撃を受けるものだろうか。そこに至るまでにどんな想いが積み重ねられてきたのか、俺にはよくわからない。少し、怖くなった。
「昨晩のことについて、ですが。何か言うことはありますか?」
 埒が明かないので、俺は漠然と問うた。一夜明けて多少は頭を冷やしたはずの相手の出方を見ておきたかった。
「僕たちを――拓ちゃんを、どうするつもりだ……」
 葵は掠れた声を絞り出す。鳶色の瞳が微かに揺れている。
 向こうがあれだけ暴力的な手段に訴えたのだからこちらも強硬路線で、と思っていたのだが、数ヶ月間ずっと一緒に過ごしてきた人間の弱っている様子を見て心が揺れる。相手は意外と直情的だ、刺激しないほうがいいという打算の声も聞こえる。
「……俺だって、事を荒立てたくはありません。俺はただ、山犬の世界を守りたい。あなたには人間との対立を招くような真似をやめてほしい。それだけです。殺されそうになったことを許したわけじゃありませんが、場合によっては――協力しますよ」
 俺の言葉が時間をかけてじわじわと脳に到達したかのように、葵はゆっくりと目を見開いた。他人の目を意識することを忘れたその表情は少年のようにあどけなく、俺は自分の立ち位置が知らぬ間にずれていくような困惑を感じた。
「……あと、俺を殺して口封じしようなんて考えないでくださいね。一応、手は打ってありますから」
 葵は視線を彷徨わせ、最終的に俯いた。
「……考えておく」
 そう言って屋敷のほうに向き直り、葵は足早に立ち去った。
 引き留めようか迷ったが、結局俺はその心細げな後ろ姿をただ見送った。一応、俺の姿勢は伝わったはずだ。彼女にも考える時間が必要だろう。

 葵と別れた後、俺はその足で森に戻った。夕方になって仕事から引き揚げる時刻になると、葵に小屋の鍵を閉められてしまう。夜の森に忍び込むには、その前に地下通路をくぐっておく必要がある。
 「壁」の向こうに抜けると、俺は出口から少し離れた笹の茂みをかき分けて中に入り、腰を下ろした。遠くから拓磨に気付かれて避けられないようにするためだ。葉の隙間からは地下通路の蓋が見え隠れする。動かなければそこから出てきた葵にすぐに見付かることもないだろう。
 定位置が決まるとまた暇になった。眼前に迫る笹の茎に息苦しくなって上を見ると、艶のある濃い緑色の葉に囲まれて、澄んだ青い空が口を開けている。ちょうど外で過ごすのが心地良い季節だ。こんなときは、開けた草原に寝転がるに限る。小川で水飛沫を上げてみるのもいい。森で暮らしていた頃は、兄弟たちとそうして遊んだものだ。
 漠然と考え事をして時間を潰しているうちに、意識は記憶を更に遡る。
 葵は覚えていないだろうと言ったが、俺にも幼い頃の記憶が一つだけ残っている。
 暗く狭い、袋のようなものに俺は入っている。
 母親の胎内のように、暖かくて、じわりと締め付けてくる。
 やがて袋の口が開かれる。
 辺りは夜で、数頭の山犬が俺を取り囲んでいる。どの山犬も姿勢を正して、神妙に座っている。
 その中に、人間の姿をした男が一人混じっている。
 俺はどうしようもなく怖くなって、袋の中に戻ろうとする。しかし、男が俺を引っ張り出す。
 嫌だ嫌だと俺は泣き喚く。
 男は山犬よりもずっと獣臭くて、俺はこの男が嫌いだと思う。
 ――その当時、俺自身がどんな姿形をしていたかはよく覚えていない。山犬だった気もするし、既に人間だった気もする。その中間だったかもしれない。思うに、これは俺が山犬から人間に化けたときの記憶ではないか。あの人間の男が、変身の儀式で何らかの役割を果たしていたのかもしれない。
 儀式について父に訊いたことがあるが、お前は知らなくていいと取り合ってくれなかった。もしかすると、子供に言えないような凄惨な――
 いや、血が流れるから残酷だ、残酷だから子供には見せられないというのは、人間の考えることだ。血を流し、命を奪い、その肉を食らうのは、肉食獣である山犬にとって当然のことだ。神聖な気配すら漂う、生命の営みだ。血も肉も、子供に隠すようなものではない。
 結局、あの記憶が何なのか、俺自身にもよくわからないのだ。だから昨晩も言い返せなかった。
 徐々に日が陰ってきた。雲が出てきたようだ。目を閉じて空気の匂いを感じる。少し湿っている。しばらくは降り出さないだろうが、夜には雨になるかもしれない。
 雨の日は自分が山犬の姿をしていないことが恨めしい。多少の雨に降られても、山犬の毛皮ならば芯まで濡れることはない。毛の表面に付いた水滴を払い落とせばいい。山犬の被毛は、雨合羽にもなるし、生え変わることで夏服にも冬服にもなる。人間の形をしていてはそうはいかない。家族がいつも羨ましかった。
 座ったままうつらうつらしているうちに、夕闇が近づいてきた。いつもならばそろそろ仕事を終える時間だ。
 もう何時間も同じところに座っていて尻が痛いのを我慢し、薄闇の向こうに目を光らせながら、息を殺し、ひたすら待つ。辺りがすっかり闇に包まれた頃、森の奥からガサガサと気配が近づいてきた。
 驚くほど不用意に、昨夜の山犬がとことこと蛇行しながら小屋の方向に歩いてくる。さすがに昨日のようにはしゃいではいないようだが、それでも野生の所作とは程遠い。
 彼が藪の近くに来たところを見計らって、俺は声をかけた。
(拓磨君)
 山犬の青年はぴたりと立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
(ここだよ。昨日も会ったね。覚えてるかい?)
 俺は密集した笹の間を泳いで茂みに外に出た。
 山犬はふんふんと匂いを嗅ぎ、頭を横に傾ける。
(昨日の、山犬のひと?)
 山犬の人というのもおかしな表現だが、まあそうだと答える。
(改めて君と話がしたいんだ――できればお姉さんには内緒で。いいかな?)
 山犬の拓磨は地面の匂いを嗅いでみたり、無為に草をいじってみたりして逡巡した末、ちょっとならいいよと言って草の上に身体を横たえた。俺も近くに行って腰を下ろす。暗くてよくわからないが、普通の山犬よりも毛艶が良いような気がする。春の換毛期の山犬は、防寒用のふかふかとしたアンダーコートがまだらに抜けて多少みすぼらしくなっていることもよくあるのだが。葵が手入れをしているのだろうか。
(今からお姉さんに会いに行くの?)
(わかんない。昨日来たから、今日はもうおねえちゃん来ないかも)
(来るかどうかわからなくても、いつもここで待ってるんだね。毎日?)
 うん、と拓磨は頷く。事前に申し合わせているわけではないようだ。「壁」を跨いだ連絡手段はないということか。
(どうしてそこまでしてお姉さんに会いたいのかな? そんなに――お姉さんが好き?)
 拓磨は再びうんと言って、自分の前足の甲を舐め始めた。
(おねえちゃんは、ひとりぼっちだから。ぼくがそばにいてあげなきゃいけないんだ)
 拓磨は心なしか胸を張る。使命感のようなものを感じているのだろうか。
(でも、君だってお姉さんと会っていないときはひとりぼっちだろう? そこまでお姉さんだけに頼らなくても、例えば昼間の間は山犬の群れにいて、時々お姉さんに会いに来るというのでもいいんじゃないかな)
 少なくとも山犬の群れに加わっている間は、この「壁」の近くで人間に見付かって人間を恐れない危険な山犬と認識されることもないだろう。「壁」の向こう側に出たり、人間と接触したりすることの危うさも群れの仲間に教わるはずだ。
(だめだよ。山犬はこわいっておねえちゃんが言ってた)
 君も今は山犬じゃないか、と言いたくなったが、ずっと山犬との交流がなく、自分は人間だ、人間の姿に戻るんだと思い続けてきたのなら仕方のないことなのかもしれない。
(そうかもしれない。でも……、このままずっと人間に戻るために人間を食べ続けて、君はそれでいいのかな? 山犬のまま生きるのも悪くないと俺は思うよ。君自身は、本当に人間の姿になりたいと思っているのかな? 君は、本当に――拓磨君なのか?)
(……なんでそんな意地悪言うの?)
 拓磨はそっぽを向いて前足の上に顎を乗せた。
(意地悪するつもりはないんだ。ただ――このまま人間を殺し続けるのは良くない。俺たち山犬にとっても、君自身にとっても。第一、君たちが殺しているのは、君や君のお姉さんと同じ人間だ。同族を殺して食うなんて――)
 吐き気を催すような。そういうことではないのだろうか。
(ぼく、おともだちは食べないよ。おねえちゃんが、ごはんだって言ったひとしか食べない)
 人間には食物になる人間とならない人間の二種類があるということか。俺は「おともだち」に認定されていたから命拾いしたわけだ。しかし。
(人間にそんな区別はないよ。みんな君たちと同じだ。例えば、君が食べようとした人間は、誰かのお姉さんかもしれない。君のお姉さんのように、弟を可愛がっていたかもしれない。そういうことを、考えたことはない?)
 拓磨は俺のほうに向き直り、難解な数式を懸命に理解しようとするかのように何度も首を捻った。
(じゃあ、ぼくが食べた鹿も、誰かのおねえちゃんかもしれない?)
 今度は俺がきょとんとする番だった。そして、彼の言わんとすることを理解し、返答に窮した。
 この拓磨にとって、「ごはん」に属する人間は鹿や猪と同じ獲物でしかない。彼の頭の中では、食べて良い人間に当てはまることは、すなわち他の獲物になる獣にも適用されて当然という流れになる。人間も鹿も同じ次元で考えるなら、彼らを食べるのが悪だと断罪するのは、この山犬に死ねと言っているに等しい。
(……鹿と人間は、違う。でも、「おともだち」になる人間と、「ごはん」になる人間は、同じなんだ)
 ようやくそれだけを絞り出し、更に説明を加えようと思案していた時、不意に拓磨が両耳を真っ直ぐに立ててぴくぴくと動かした。
(おねえちゃんが呼んでる! 行かなきゃ!)
 拓磨は勢い良く跳ね上がり、がさりがさりと派手に音を立てながら闇の中を小屋の方向へ飛んでいった。呼んでる、と言っていたが、人間の身になってしまった俺には何も聞こえなかった。山犬の耳にしか届かないほど微かな声か、それとも犬笛か。
 ぼんやりと見えていた拓磨の白い身体が、掻き消えるように見えなくなった。できるだけ静かに近づいてみると、「壁」の両側を繋ぐ地下通路の扉が跳ね上げられていた。山犬に開けられる構造ではない。葵が向こう側から開けたのだ。だが葵がいつもここに来る時刻よりはまだ早いはずだ。気付かれていたか――。
 俺は素早く穴に飛び込んで通路を走り、梯子を駆け上がった。小屋の中に頭を出すと、蛍光灯の黄色い光に一瞬目が眩む。まず認識できたのは、ジーンズにスニーカーを履いた脚。そろそろと視線を上げると、白い顔をした葵が幽鬼のように冷たく俺を見下ろしていた。
「……勝手に弟に近寄るな」
 吐き捨てるなり踵を返し、外に出てばたんと扉を閉める。続いて鍵をかける音。この小屋は、扉も窓も内側からでも鍵がなければ開けられない。閉じ込められた。
 俺はやれやれと小さく呟いて椅子に腰を下ろした。結局、拓磨を説得することは叶わなかった。葵に見付かったが注意されるだけで済んだのは儲けものと言うべきだろうか。
 しかし、拓磨を向こう側に連れ出してどうするつもりなのだろう。俺から引き離したくて咄嗟に呼んでしまったのだろうが、そう長く隠しておけるわけもない。扉を破って追いかけることも可能だが――あまり刺激すると逆に極端な行動に走りかねない。今日のところは大人しくここで夜を明かそう。
 俺は台所から頂戴しておいた菓子パンを腹に入れ、椅子を並べてその上に横になった。クッションも付いていない硬い椅子だが、ささくれた埃っぽい床に寝るよりましだろう。
 真夜中を過ぎた頃、窓を叩く雨の音を俺は夢うつつに聞いた。

「起きろよ。――大野ヶ原」
 呆れたような声に目が覚める。室内はぼんやりと明るく、白茶けた天井に付いた染みがもやもやと肥大して見える。細い人影が腕組みをして俺を見下ろしているのに気付き、俺の身はぴくりと震えた。
 意識してゆっくりと身体を起こし、椅子に座った状態になる。背中は軋むように痛むし、歯磨きもせずに寝たせいで口の中がざらついている。お世辞にも良い目覚めとは言えなかった。
「おはようございます。わざわざ起こしに来てくれたんですか? 優しいですね」
 不機嫌ついでに皮肉っぽく声をかけたが、相手に動じた様子はなかった。気が付かなかったのかもしれない。
「さっさと戻って顔を洗ってこい。そんな髭面じゃ佳代さんに何事かと思われる。朝食はいつも通りに、離れで」
「あのこと、佳代さんに知られたくないんですか? だったらもう拓磨君のことは諦めて別々の道を歩んだほうがいいと思いますけどね」
 葵は憎々しげに顔を歪めた。昨日より顔色も良いようだし、感情を露わにする元気が出てきたのだろう。
「……脅しのつもりか?」
「脅しなんかじゃないですよ。あんなことしてたら、俺が何もしなくたっていつか露見します」
「……佳代さんに心配かけたくない」
 葵は長い睫毛を伏せ、ふいと踵を返した。
「拓磨君は、ちゃんと森側に帰しておいてくださいね」
 背中に声をかけたが、返事は扉の閉まる音だけだった。
 俺は小雨の降る中を走って屋敷に戻り、歯を磨いて髭を剃った。熱いシャワーでも浴びたかったが、母屋の風呂場は焼失した側にあって普段は離れのものを借りているため、仕方なく着替えるだけにした。
 離れに向かうと、いつものように佳代が朝食を準備してくれていた。佳代は昨日のことには触れなかったが、目尻に柔らかな皺を刻んで終始微笑んでいた。
 朝食の後、俺はようやく風呂を借り、今日は休日だということにして母屋に戻った。
 引っ越してきてからほんの数ヶ月だが、やはり自室に戻るとほっとする。佳代は洗濯などはしてくれるが個人の部屋には立ち入らないため、布団が昨日の朝俺が抜け出したままの形を留めていた。
 抜け殻の中に這い戻るように布団に潜って仮眠し、目覚めたのは十時頃だった。時計を見て一瞬午後十時かと思うほどに暗かったが、窓の外を見て黒雲が厚く垂れ込めているせいだとわかった。雨は弱かったが、今にも土砂降りになりそうな雲行きだった。
 軽くストレッチをしてから俺は暗い廊下を屋根裏へと向かった。目的は葵の父である鈴鹿氏が遺した資料だ。元々興味もあったし、山犬の研究をしていた以上はあの山犬になった拓磨のことも何らかの形で記録されている可能性は高い。事情がわかれば彼らを説得する材料になるかもしれない。
 屋根裏の真下の部屋に着くと、階上からごそごそと物を漁る音が聞こえてきた。梯子を軋ませないよう慎重に上って見回すと、ラフな格好をした佳代が懐中電灯で部屋の奥を照らしながら物を動かしているのが目に入った。今日はアルバイトが休みらしい。俺は足音を忍ばせて近付き、佳代の背中を軽くとんと押した。
「ひゃあっ!」
 佳代は驚いて振り向き、その勢いで足をもつれさせてバランスを崩した。俺は慌ててその空を掻くように伸ばされた手首を掴んで支えた。
「すみません、そんなにびっくりされるとは思わなかったもので……」
「もう、心臓が止まりそうでしたよ!」
 抗議する佳代は本当にはあはあと肩で息をしていて俺は少し申し訳ない気持ちになったが、佳代はすぐに笑顔を取り戻し、くすくすと笑った。
「大雨になりそうなんで、予めたらいとか洗面器とかを準備してたんですよ。このお屋敷、母屋はもちろんですけど、離れのほうも雨漏りするんです。誠一さんは、お散歩ですか?」
 確かに佳代の足元には金属やプラスチックの桶がいくつか積まれていた。
「そんなところです。ついでに鈴鹿先生のご遺稿か何かが見つかればいいなあと。もしあれば非常に重要な資料になると思うんですよね」
「まあ、旦那様の? でも、あの火事でかなり焼けてしまったんじゃないかしら……。焼け残ったものは爺やさんが管理していらして、爺やさんも亡くなった後のことは坊ちゃんがご存知だと思いますよ」
 あまり屋根裏を漁らないようにと以前釘を刺されていたが、佳代には俺を咎めるような素振りは見えない。そうですか、葵さんにも訊いてみようかなと軽い調子で返しておく。
 佳代は俺に一歩近づき、下から見上げる格好で不安そうに眉を曇らせた。
「昨日おっしゃった危険なお仕事ですけど……、昨晩がそうだったんですか? 誠一さんも坊ちゃんも、もう安全なんでしょうか?」
 疑うことを知らないようなつぶらな瞳がまっすぐに見つめてきて後ろめたくなり、俺は思わず目を逸らす。窓の外が一瞬光り、遅れて雷鳴が轟いた。
「いや、まあ、昨日もそうといえばそうだったんですが……。ただ、まだ終わったわけではなくて。なので、昨日お願いしたことは心に留めておいてもらえると助かります」
 そうですかと呟いて、佳代は悲しそうにますます眉をひそめた。
 再びゴロゴロと空が鳴り、同時に雨粒がぱたぱたと窓を叩き始めた。
「あら、いけない。もう降ってきちゃった」
 佳代は慌てて洗面器を取り上げた。俺は手伝いを申し出たが、大丈夫だからとやんわり断られた。
 お昼はゆっくり温かいものでも食べましょうねと言い、にっこりと笑顔を見せて佳代は斜めの梯子を降りていった。
 俺は薄暗い物置の中を見渡した。相変わらず整理されているようないないような、雑多なものがなんとなく並べられた空間だ。葵を見張りにここに籠もっている間にもちょくちょく資料を探してはいたのだが、大量にある箱や引出しを開けて中を改める――そして開けたことがバレないように元に戻す――には相当な時間がかかり、まだ三分の一ほどしか確認作業が終わっていなかった。シャツの胸ポケットからペンライトを取り出し、俺は重厚な木の机の引出しから調べ始めた。
 稲光と雷鳴の間隔は急速に近くなり、白い光が古びた机の傷を時折浮かび上がらせた。その机に入っていたのは、細々とした文房具と、個人的な通信らしい手紙がひと束だけだった。手紙をそっと元の位置に戻し、引出しを閉めた。
 いきなりぴしゃんとひときわ高い雷鳴が響いて部屋の中が一瞬明るくなり、俺は隣の箱を開けようとしていた手を止めた。ゴロゴロと続く雷鳴の余韻に混じって、ガタガタと別の物音が聞こえた。続いて女性のものらしい悲鳴が短く耳に届き、また物音がひとしきり続いた。
 俺は梯子を駆け下り、声のしたほうへと走った。場所はすぐにわかった。二階の廊下の中ほどで、佳代が尻餅をついて呆然としていた。佳代の目の前にある扉は開け放たれている。
「どうしました?」
 佳代を助け起こし、部屋の中に目を遣って俺は言葉を失った。突き当たりの窓が割れ、風が雨とともに部屋に押し入ってケーテンを揺らしている。また雷光が輝き、大人の背丈ほどもある姿見が窓から突き出しているのが見えた。部屋の中央では背の低いテーブルがひっくり返り、なぜか料理に使うようなボウルが絨毯の床に転がっていた。
「犬が……ドアを開けたら、すごく大きな犬がいたんです。それでびっくりしていたら、すぐ近くに雷が落ちて……。犬が暴れて、テーブルや姿見を吹き飛ばして。それからこっちに走ってきて……。私、怖くて、襲われるかと思ったんですけど、犬はそのまま向こうに走っていって……」
 佳代は震える声で早口に訴え、廊下の端――階段のほうを指差した。
 佳代が見た大きな犬は、間違いなく拓磨だ。これほど無造作に隠していたとは。おそらく雷に驚いた拍子に物にぶつかり、その音でさらにパニックになって逃げ出したのだろう。
 佳代はよろけたときに扉にぶつけて腕を軽く擦りむいていたが、大きな怪我はないようだった。俺は佳代の両肩を掴み、噛んで含めるように言い聞かせた。
「佳代さん。その犬は、多分、それほど危険ではありません。俺が何とかしますから、佳代さんは心配しなくて大丈夫です。なので、先程見たことは誰にも言わないでください。いいですね?」
 佳代はしばらく探るように俺の顔を見つめていたが、やがて子供のようにこくんと頷いた。
 佳代を残し、山犬の後を追って一階に下りる。扉はどこも閉まっていたが、廊下の奥に向かうと青いビニールシートが剥がれ、焼け落ちた壁を抜けて外に出られるようになっている箇所があった。案の定、外には人の手のひらくらいの大きさをした四本指の足跡があり、その窪みに雨水が溜まり始めていた。
 俺は一旦自室に戻り、紺色の雨合羽を着て玄関から外に出た。空一面に黒雲が立ち込めているが、さすがに昼間なので明かりが要るほど暗くはない。風が強く、合羽を着ていても顔面に大粒の冷たい雨を叩き付けてくる。
 足跡はところどころで草の上や水溜まりの中を通って途切れながら、蛇行しつつ小屋のほうへと向かっていた。
 泥水を跳ね上げて先を急ぎ、煉瓦の小屋の前に着く。金属のアンテナが雷光を受けてますます異様に光っている。足跡は小屋の周りに伸びた雑草の中に消え、葉の間から白い被毛が見え隠れしていた。
(拓磨君。君なんだろう?)
 静かに声を掛けながら、驚かさないようそっと近づく。「壁」にぴったりと身を寄せて縮こまった拓磨が、怯えた目で俺を見上げる。近くで雷鳴が轟き、拓磨は尖った耳を頭の横にぺたりと伏せた。
(今の君は、こちら側にいるべきじゃない。向こう側に戻ったほうがいい)
 わかってる、と拓磨は牙を出す。
(見られた。カヨさんに。もうおしまいなんだ)
(佳代さんのことを知ってるのかい?)
 再びどこかに雷が落ち、拓磨は頭を低く下げたきり答えようとしなかった。佳代と面識があるということなのだろうか。しかし、佳代は「大きな犬」としか言っていなかった。葵が佳代のことを話して聞かせていたのだとしたら、見た目の特徴から佳代だとわかっただけかもしれない。
 思案していると、後ろから湿った足音が近付いてきた。振り向くと、髪から水滴を滴らせ、ずぶ濡れになったカーキ色のパーカーを身体に張り付かせた葵だった。
「葵さん……」
 そんな格好で何をしているのかとか、どうしてあんな所に鍵も掛けずに拓磨を隠していたのかとか、責めるような言葉が喉まで出かかったが飲み込んだ。
「僕のせいだ……。隙を見て逃がそうと思ったけど、間に合わなかった……」
 葵は肩を震わせ、拓磨は悲しそうに眼をしばたたかせた。
 俺に見られたときとは随分態度が違うものだ。佳代は――殺せないからか。
「一応、佳代さんには口止めしておきました。口が軽い人ではありませんし、すぐにどうにかなるわけでもないと思いますよ。――とりあえず、拓磨君を『壁』の向こう側に」
 嗚咽を漏らしながら葵はポケットから鍵を取り出し、小屋の扉を開けた。拓磨は尻尾をだらりと垂らしたまましずしずと中に入り、木の床に泥の足跡を残した。葵はぐしょぐしょになった拓磨の背中を撫で、ごめんね拓ちゃん、ごめんねと祈るように繰り返していた。
「今日は、この小屋に拓磨を置いておく。いいだろう?」
 額に張り付いた髪の間から、葵は俺の顔色を窺う。
「佳代さんもここまでは来ないでしょうし、いいんじゃないですか? それより、あなたは早く着替えてきてください。風邪でも引かれたらかなわない」
 葵と共に一度離れに行ってバスタオルを借り、一人で小屋に戻って拓磨の身体を拭いてやった。すっかりしょげ返った拓磨は俺が話しかけても反応せず、仕方なく俺は黙々と作業に徹した。密な毛がかなり水を吸っていて、俺は何度も小屋の外へタオルを絞りに行った。
 雨合羽を着て戻ってきた葵と入れ替わりに俺は母屋へと戻った。
 雨粒を払って屋内に入り、二階に上がって拓磨の隠れていた部屋を覗いた。ガラスの破片は部屋の隅に片付けられ、佳代がガムテープと段ボールを使って窓の穴を塞ごうと奮闘していた。段ボールが風で煽られ雨に濡れて、貼ったそばから剥がれてしまうようだ。
「手伝いますよ」
 俺は段ボールを持って押さえ、佳代は素直にありがとうと礼を述べた。もたもたとガムテープを千切る佳代の右前腕に貼られた大判の絆創膏が痛々しい。
「さっきは驚いたでしょう。傷は痛みますか?」
「いえいえ、もう大丈夫ですよ。全然大したことないですから。あんな野犬、どこから入って来たんでしょうねえ。嫌だわ」
 佳代は妙に快活に微笑んだ。佳代は気付いていると俺は直感した。あれが山犬だったということも、おそらくは葵が招き入れたということも、わかっていて目を逸らそうとしている。だが俺はそれを指摘することができなかった。ほんの些細な一言でも、この芝居じみた薄っぺらい平穏はガラスのように砕け散ってしまうような気がした。

 それからの数日間は森に入る地質学者の調査に同行しなければならず、しかも業務報告が滞っていると本部からお叱りを受け、俺も葵も慌しく日々を送った。先日の嵐が嘘のように天気は回復し、一連の出来事が俺たちの口に上ることもなかった。澄まし顔で水面を滑る白鳥のように、何でもない振りをして過ごしていた。
 日付が六月に変わり、真夏のような暑さになったある日の晩、夕食後に部屋に下がろうと席を立った時、離れの固定電話が鳴った。葵は既に自室に戻っていて、電話には佳代が出た。
 はあ、左様でございますかと相槌を打ちながら、佳代は受話器を片手に困ったように眉根を寄せている。俺は一度浮かした腰を下ろし、電話口での会話に聞き耳を立てた。勧誘でもセールスでも、男が対応したほうが相手に舐められにくいだろう。
 案の定、佳代は相手のしつこさに手を焼いているようで、通話口を片手で囲って、困ります、困りますと繰り返していた。俺は歩み寄り、手振りで替わるよう示した。
「お電話替わりました、この家の者ですが。何のご用件ですか?」
 なるべく高圧的な声を出すと、相手は一瞬黙った。正確には鈴鹿家の人間ではないが、この程度は方便だろう。やがて聞こえてきたのはくぐもった低い男の声だった。
「これはどうも……、フリージャーナリストの薮内という者です。取材の申込みでご連絡差し上げたんですが、そちらの女性の方が聞く耳を持ってくださらないんですよ。お時間は取らせませんので、ご当主に替わっていただけませんかねえ? なに、藪内からと言っていただければわかっていただけると思いますので」
 下手に出てはいるがどこか敵意を秘めた、嫌らしい喋り方だ。加えて、フリージャーナリスト、藪内からと言えばわかる、という言葉からは嫌な予感しかしない。
「――当主は席を外していますので、俺から伝えておきます。どういった取材ですか?」
「そう、です、か。席を外されている――」
 薮内は嫌味たらしく俺の言葉を復唱する。
「――実はですね、そちらのお屋敷の近くで、山犬らしき生物が目撃されたという情報を入手しまして。それも『壁』のこっち側だっていうじゃありませんか。こりゃあ、事実なら大変なことで、我々には報道する義務があります。ですから、目撃者と思しき方と、山犬の専門家でいらっしゃるご当主の鈴鹿葵氏に是非ともお話を伺いたいと思いましてね」
 俺は思わず隣に立ったままの佳代の顔を覗き込んだが、佳代は痛みを堪えるように俯いたままだった。
「失礼ですが、山犬が目撃されたというのは勘違いじゃないでしょうか。ああ、そういえば先日、敷地内に野犬が入り込んでいたことがありましたっけ。その話に尾鰭が付いたのでしょう。取材に来ていただいても、お話しできることは何もありませんよ」
 薮内はふうんと長く相槌を打った。電話越しにもかかわらずじろじろとねちっこい視線に晒されているような気がして、じんわりと脇に汗が滲んだ。
「……ときにあなた、えーと、お名前は何でしたっけ」
「……大野ヶ原です」
「大野ヶ原さん。あなた、そちらに新しく配属されたって噂の人ですよね? 山犬管理局員のお立場上、外部の人間にはそう言わざるを得ないっていうのはお察ししますよ。電話口ではなかなか腹を割ってお喋りというのはできませんからね、まずはお会いしてお話を……」
「ちょっと待ってください、俺が嘘を吐いているとでも?」
「滅相もない、あたしはただ、誰しも建前ってもんがあると言ってるだけで。――ときに、大野ヶ原さん。そちらのお屋敷には、昔のことも全部ご承知の上で来られたんですか?」
「全部――と言うと?」
 受話器に耳を寄せて漏れ聞こえてくる会話に集中していた佳代が、はっとして少し身を引き、俺の顔をまっすぐに見上げて「その人の言うことはでたらめです」と小声で訴えた。しかし、俺の興味は薮内の言う「昔のこと」に吸い寄せられていた。
「そんないわくつきの――こう言っちゃなんだが薄気味の悪いお屋敷に、よく移る気になったもんだと感心してたんですよ。世間じゃ色んな噂が立ってますからな。――もしかしてご存じない? そりゃあ可哀想だ、騙して連れてこられたようなもんですよ。そもそも先代の鈴鹿氏は山犬研究の専門家の間では著名な方でしたがね、その研究手法については謎が多かったんですな。見てきたような詳細な描写があるものだから、山犬と通じているだとか、山犬を飼い馴らしているだとかいう憶測が飛び交った。果ては鈴鹿氏が山犬と会話しているのを見たとか、山犬に変身して森に入っていったなんて突拍子もない話まで出てくる始末で。まあ、十一年前にご本人がお亡くなりになってうやむやになっちまったんですが」
 山犬についての情報が秘匿されているようだというのは、俺自身も肌で感じているところではあった。昔は山犬と人間が友好的に交流していたという事実一つ取っても、山犬の側では語り継がれているが、人間の側ではほとんど知られていないか、おとぎ話程度にしか思われていない。鈴鹿氏の噂は知らなかったが、それは鈴鹿氏の研究成果が専門家の間だけで共有されていたせいだろう。しかも、薮内の語った噂話には、真実を掠めているものも多そうだ。山犬の飼育、山犬との会話、山犬への変身。どれもあの山犬の姿になった拓磨を連想させる。
 薮内は声を潜めて一方的に話を続ける。
「――その死についても色々と噂がありまして。なに、これも噂話に過ぎないんですがね。表向き、鈴鹿氏は煙草の不始末が原因の火災で焼死したことになっているのはご存知の通りで。ただ、おかしなことに、出火の直前に言い争うような声を聞いたって人がいましてね。それに、火の手の上がった屋敷から爺さんと子供が逃げてきたんだが、どうも様子がおかしかったとか。――まあ、そこまではまだ現実味があるとして、無念の死を遂げた鈴鹿氏が弱った人間を『壁』の向こう側に誘い込んで自殺させているとか、鈴鹿氏の代わりに人間に化けた山犬が鈴鹿家を牛耳っているだとか、都市伝説の類もありますな」
 受話器を持った腕を佳代が引いている。懇願するような、必死の形相だ。鈴鹿家に向けられる恐れと嫌悪の視線、屋敷にまとわりつく陰惨な空気。それを俺に知られたくなかったのは、俺が他人だからか、それとも俺にこの屋敷を離れてほしくないからか。
 佳代がいつにも増して小さく見えた。そろそろ薮内との会話を切り上げよう。善良な女性に心労をかけるのは趣味じゃない。
「――お話はそれだけですか。ご用件が済んだのなら切りますが」
 薮内はくっくっと籠った笑いを漏らした。
「ええ、ええ、それじゃ、取材に関してお返事の準備が整った頃にまたお電話差し上げますよ。先ほどの続きは追い追い、直接お会いしたときにでも――」
 受話器を置くと、佳代は白髪の伸びかけた頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいなんです。パートの同僚に、腕の怪我のことを訊かれて……。あまりしつこいものですから、つい、野犬に驚いたのだと喋ってしまったんです。その方は私が山犬管理の家の使用人だと知っているので……」
「なるほど、その方が誇張して誰かに話してしまったんですね。そんなちょっとした噂話、よく嗅ぎつけるものだ。ところであの薮内とかいう人、葵さんとは知り合いなんでしょうか」
 佳代は少し顔を上げたが、相変わらず俺の顔を見ようとはしなかった。俯き加減の顔の目の下や頬の影に疲れが滲んでいる。この数日、佳代は佳代で心労を重ねていたのだろう。
「……旦那様が亡くなったときにも取材に来られていたんです。雑誌か何かの記者さんだとか。その後も、年に一度くらいはこうして連絡してきて、根掘り葉掘り訊かれて……。拓磨さんに聞いたんですが、記者さんの仲間内でも評判の良くない方みたいなんです。坊ちゃんにもなるべく取り次ぎたくありませんし、この家にも来てほしくはないんです」
「そうですか……。お気持ちはわかりますが、そういう悪評のある人なら、下手に突っぱねると後々ややこしくなりそうだ。葵さんには俺から話して相談してみますよ」
 佳代は再び首を垂れ、すみませんと呟いた。
 翌朝、葵を捕まえて薮内の件を話したが、葵は心ここにあらずといった表情で自分が話を付けておくと言うだけだった。俺は先に出てここ数日来ている地質学者を迎えに行き、遅れて来た葵には話を聞きそびれた。
 そして二日後、葵が山犬管理局本部に呼び出された。
 夕方に街から戻ってきた葵は蒼白な顔をして、離れのテーブルの上に一冊の週刊誌をばさりと置いた。
「薮内の言っていた件が、上の人間の耳に入った。明日、調査団がここに来る」
 佳代がはっと息を呑み、口元を押さえるのが横目に見えた。
「それから――この辺りの山犬が増えているようだから、駆除すると――」
 俺は週刊誌を取り上げ、ぱらぱらと中をめくった。でかでかと印刷された「山犬」「恐怖」の文字が目に入り、途中で手を止める。山犬が「壁」を越えてきたという話が、過去の因縁を交えて煽情的に書かれている。現場は「S家」とされているが、知っている人間が見れば鈴鹿家であることは明らかだ。じっくりと読む気が失せ、俺は雑誌をテーブルに戻した。
 葵は目に涙を溜めて肩を震わせていた。

7

 居ても立ってもいられず、雑誌を置いてすぐに離れから出た。
 どうしよう、どうしようという思いばかりが胸の中でぐるぐると駆け回っている。
 正直なところ、あんな不確かな情報を基に当局がこれほど厳しい措置を取るとは思っていなかった。それとも、あの記者が何か吹き込んだのだろうか。
 ずっと前に貰っていた名刺を引っ張り出し、一昨日の朝に電話をかけたときには、薮内も確たる証拠は掴んでいないような口振りだった。ただ、「善良な方は嘘が吐けなくてあなたも大変でしょう」という言葉で、佳代さんの対応から確信を得たことを匂わせていた。情報源はSNSだというようなことを言っていた。佳代さんの同僚の誰かがまた心無いことを書き込んだのだろう。
 薮内を初めて見たのは、父の命を奪ったあの火事が収まってすぐだった。中肉中背の、これといった特徴のない男だったように思うが、濁った、それでいて獲物を執拗に狙う獣のような眼をしていたことは覚えている。男は来るたびに爺やに追い返された。山犬関連の事件ばかり追っている変わり者だ、関わっても良いことはないと爺やは言った。
 業を煮やした薮内は、佳代さんの弱みに付け込んで僕らを脅しにかかった。佳代さんは僕の遠縁にあたる人だが、それだけでこんな嫌われ者の家で働こうという若い女性はいない。佳代さんは夫の暴力から逃げてここに流れ着いたのだ。それをどこで聞いてきたのか、薮内は佳代さんの居場所を元夫にばらすと脅迫してきた。
 僕たちにとって佳代さんは不可欠な存在だった。僕も佳代さんが好きだったし、何より、身代わりに連れてこられた人間の姿の拓磨が懐いていたのは佳代さんだけだった。拓磨は明らかに僕を嫌っていた。姿形こそ拓ちゃんにそっくりだったが、山犬の家族から無理矢理引き離された拓磨は頻繁に癇癪を起こし、大人しく優しい子だった拓ちゃんとは全く違っていた。
 結局、爺やが一人で薮内に話を付け、事は穏便に収まったようだった。そのとき以来、薮内は僕らに貸しがあると言いたげな、含みのある薄笑いを浮かべるようになった。爺やが死んだ後もその態度は変わらなかった。
 今回もまた、薮内は佳代さんのことを引き合いに出して事実を話すよう求めた。しかし僕は佳代さんの言葉に合わせてあくまでも野犬だと言い張った。拓ちゃんのことを知られるわけにはいかなかった。当然、薮内は納得していない様子だった。揺さぶりをかけるために調査団が派遣されるよう仕向けたとしても不思議ではなかった。
 屋敷の敷地内の調査は、拓ちゃんを「壁」の向こう側に待機させてやり過ごせばいい。でも、この一帯の山犬は駆除されることに決まってしまった。事実はどうあれ、このような噂が広まること自体、山犬を管理しきれていない証拠だと上司は言った。どれだけ抗議しても取り合ってくれなかった。当局のこうした対応こそが噂を裏付ける証拠だという見方も出てくるだろうに、そのほうが都合が良いと言わんばかりの素っ気ない態度だった。
 山犬を一掃することになれば、真っ先にやられるのは拓ちゃんだ。そう思うと鳩尾の辺りがざわざわと泡立つように感じた。罠、毒餌、猟銃。危険の避け方なんて知らない。日頃から僕が狩りの手助けをしているから、人間の手の加わった獲物に抵抗がない。他の山犬が寄り付かないような「壁」の近くにいるため、危険個体と認識される可能性も高い。僕が、こちら側に近付け過ぎたのだ。
 不意に何かが肩に触れ、驚きで一瞬目の前が白く霞んだ。振り向くと大野ヶ原がどこか決まり悪そうに立っていた。
「えーっと、これから拓磨君を隠しに行くんでしょう?」
「……うん」
 できるだけ遠くに。人間が入り込めない、森の奥深くに。
「手伝いますよ。拓磨君をこの辺の群れに預けて、みんなで山奥に逃げておいてもらいましょう」
「でも……、拓ちゃんは、山犬の群れのルールなんて知らない。仲間に入れてもらえないかもしれない」
 僕が甘やかして、手元に留めようとした報いだろうか。
「拓磨君を一人で避難させるほうが危険ですよ。そこら辺は俺が上手く説得します。大丈夫、俺だって山犬の一員なんだから、山犬との話し方は心得てますよ」
 大野ヶ原は目を細め、ちらりと笑顔を見せた。
「……ごめん」
 何に対する謝罪なのかはよくわからなかった。協力してくれることか、それとも一度は命すら奪おうとしたことか。とにかく謝らなければいけない気がした。
「別に、葵さんのためってわけじゃないですからね。俺だって、同胞が殺されるのを黙って見ているつもりはありません。拓磨君はついでです」
 大野ヶ原は僕を追い越して小屋のほうへ数歩進んだが、思い出したように戻ってきて僕の背中をぽんぽんと軽く叩き、またふいと向こうを向いて行ってしまった。どう解釈したものかわからず困惑しつつも、不思議と胸が暖かくなった。

 空は夕暮れに染まり、木々に光を遮られた森の中は既に夜の顔に変わりつつあった。
 「壁」に囲まれた半円形の広場に着くと、僕は首から下げていた小さな金属の棒を服の中から取り出した。人間の耳にはほとんど聞こえないように調節した犬笛だ。端を咥え、強く長く吹く。人間の耳には微かな風切り音のように聞こえるが、犬の耳には鋭く響く音だ。
 二度、三度と吹くと、森の中に生き物の気配を感じた。物音と共に白い影が浮かび上がり、光る二つの目がこちらに近付いてくる。やがて影は山犬の形を取り、嬉しそうに舌をぺらぺらとはためかせて駆ける拓ちゃんの姿になった。拓ちゃんは僕の目前で急ブレーキをかけ、勢い余って僕に体当たりした。どれだけ不安な状況にあっても、再会の喜びは変わらない。こうして戯れていられる時間はまた戻って来るだろうか。これが最後になりはしないだろうか。拓ちゃんがぶつかったことによるものとは別種の痛みが胸に走った。
「ねえ拓ちゃん、聞いて……」
 僕は拓ちゃんの頭を抱き締めた。顔など見ていられなかった。
「明日、猟師たちがここに来るんだ。山犬を殺しに。拓ちゃんは、他の山犬に紛れて森の奥に隠れていて……」
 拓ちゃんは僕の顔を見ようと首を捻り、身を捩ったが、ぼくは離さなかった。
 背後から大野ヶ原の穏やかな声が聞こえる。
(山犬の群れには俺も一緒に会いに行く。心配しなくていい、厳しいところもあるけど愛情深い連中なんだ。森の地理にも精通してるし、彼らに任せておけば捕まったりはしないよ)
 僕はようやく拓ちゃんを解放した。拓ちゃんは潤んだ丸い瞳で僕をじっと見つめた。
(おねえちゃんは? 一緒に逃げないの?)
「僕は、行けない……。でも、大丈夫」
 全てを隠し通して、山犬の居場所を、拓ちゃんの帰る場所を確保する。それ以外、僕に何ができるというのだろう。
 僕は手を伸ばし、拓ちゃんの耳の下をゆっくりと揉んだ。拓ちゃんは多少落ち着いた表情になり、僕も少し微笑んで見せた。
(拓磨君。もし森の中で人間に出会っても、いつもみたいに狩って食べちゃ駄目だよ。逃げることに集中するんだ)
 拓ちゃんはきょとんと首を傾げる。
(いつも? ぼく、人間の狩りなんてしないよ? 食べるだけだよ)
「そんな……じゃあ、手を下しているのは……」
 大野ヶ原の声が人間の言葉に戻った。同時にこちらを向く気配を感じた。
「……森に人間が入り込んだら、そいつの匂いを追うんだ。別に急ぎはしない。見付けた時には既に事切れていることがほとんどだ。息があっても、当てもなく森をさまよって衰弱している。意識があれば同意を得て――拓ちゃんに食べてもらう」
 生きた侵入者に初めて出くわしたとき、その女は折れた枝を前にさめざめと泣いていた。枝には荷物を縛るのに使うような細いビニール紐が括り付けられていた。麻酔を使って楽に死なせてあげると言うと、女は魂の抜け殻のように呆けたまま頷いた。腕に潜り込む注射針を見守る目は次第に安心したようにほどけていった。
「沢辺も、そうだったんですか?」
「あの男は……最初は、嫌だと言った」
 彼もまた死にきれずに森の中で座り込んでいた。それでも山犬に食われるのは嫌だと言った。僕と拓ちゃんは仕方ないと男を置いて立ち去ろうとした。放っておいても一人でさまよってそのうち野垂れ死ぬだろう。その頃に改めて探しに来れば良いと。男は待ってくれと悲鳴を上げて泣き出した。
「でもやっぱり楽に死にたい、麻酔で眠っているうちに、と」
 あんたの言うとおりに楽にしてくれ。一人にしないでくれ。
 やっぱりここは嫌だ。人間の手が感じられる場所で死にたい。
 僕は彼のためにこの場所を選んだ。人間が造った壁に囲まれ、森から少し人間側に飛び出した半円形の湿った庭。昼間、少しの間だけ明るく陽が射す場所。
「……それが事実なら、なぜ今まで黙ってたんです? 俺はてっきり、迷い込んだ人間を無差別に襲っているのかと……」
「……同じこと」
 いずれにしても僕らが殺したのだ。直接手を下さなかったときも、止めようと思えば止められたのに見殺しにした。
 大野ヶ原が呆れたように嘆息するのが聞こえた。愚かだと思っているだろう。実際、僕は愚かなのだ。
「まあ、思ったほど残忍なことをしていなくて良かったですよ。――じゃあ、そろそろ行きますよ」
 拓ちゃんが縋るように僕を見る。僕は耐え切れず、薄闇に霞む足元に目を落とした。
「僕は、行けない。森の山犬には警戒されてる」
 僕は拓ちゃんの首に腕を回し、顔を毛の中に埋めた。
「群れのリーダーの言うことをよく聞くんだよ。安全になったら必ず迎えに行くからね」
(わかったよ、おねえちゃん……)
 拓ちゃんは尻尾をたらりと垂らしたまま、大野ヶ原と共に森に入って行った。白い後ろ姿が完全に闇に溶けるまで、僕は根が生えたように動くことができなかった。

 重い足を引きずって離れに戻ると、カタカタと微かな音を立てて佳代さんが食器を洗っていた。僕に気付くと「お帰りなさい」と疲れたように微笑む。僕は何となく一人になりたくなくて、洗い終わった食器を布巾で拭き始めた。
「坊っちゃん、あの子を隠しに行ってきたんでしょう?」
 佳代さんはうっすらと微笑みを湛え、手元を見つめながら囁いた。うん、と僕は小さく肯定する。
「この前母屋にいたのって、昔ここにいたあの子ですよね。……正直、ちょっとだけがっかりしました。坊ちゃんがまだあの山犬を飼っていたなんて。でも……坊っちゃんには、坊っちゃんの事情があったんですよね? あの時、私が柄にもなく厳しいことを言ってしまったから、私には隠さなきゃいけなくなってしまったんですね……」
 父が死に、爺やが拓ちゃんを連れ戻した当初、拓ちゃんはまだ幼く、一人で長時間森に置いておくわけにはいかなかった。僕と爺やは拓ちゃんを半壊した母屋に隠し、交代でこっそりと世話をしていた。しかし、いくら人数に不釣り合いなほど大きな屋敷とはいえ、一緒に住んでいる佳代さんから隠し通せるわけもなかった。
 あれは何ですか、なぜ山犬がこんなところにいるんですかと不安に震えながら佳代さんは爺やに詰め寄った。そして、山犬を飼うのをやめてくれなければ当局に報告すると宣言した。
 爺やも僕も、子犬の正体については口を割らなかった。その時の拓磨が元々の拓磨とは別人だということは佳代さんも薄々気付いていたかもしれない。でも、本当の拓磨が山犬になったなんて言っても信じてもらえるとは思えなかった。秘密を持ったまま、拓ちゃんは「壁」の向こう側に移された。佳代さんには、山犬は森に帰したと嘘を吐いた。
「ごめんなさい。どうしても、あの子を手放すことはできない……」
 いつの間にか手が止まっていたことに気付き、僕は持っていた小皿を慎重に棚に戻した。
 佳代さんは静かに応える。
「坊ちゃんを告発するつもりなんてありませんよ。私だって、坊っちゃんのいるここにしか居場所がないんですから。……爺やさんの代わりに私が坊ちゃんや拓磨さんの味方になるって、そう決めたんですから」
 何と言っていいかわからなかった。下手をすればこの優しい人を僕の破滅に巻き込むかもしれない。苦しい。でも、また拓ちゃんを失うくらいなら、僕は破滅を選んでしまうだろう。
「……ありがとう」
 独り言のように呟いた言葉はそれでも佳代さんに届いたらしく、同じくらい微かな声が「どういたしまして」と応えた。

 拓ちゃんの毛や足跡が残っていないか屋敷や小屋の周りを点検した後、僕はほとんど眠れないまま夜を過ごした。
 空が明るみ始めた頃、うとうととまどろんでいると玄関の戸を乱暴に開ける音が聞こえ、僕は眠りの世界に片足を突っ込んだままぼんやりと覚醒した。足音はまっすぐに僕の部屋に向かって来た。扉が開かれ、戸口にひょろ長いシルエットが浮かび上がる。
「姉貴、起きてるか?」
 不機嫌そうな拓磨の声。僕はゆるゆると起き上がり、ベッドの端に座った。頭に泥でも詰まっているようで、顔を上げるのも一苦労だ。
「来てくれたんだ……」
「ああ、来たさ。大急ぎでな」
 拓磨はずかずかと部屋に入り、僕の真ん前に立ちはだかった。
「俺は誠一以外の自称山犬も見張らなきゃいけなくて忙しいんだ。面倒起こすなよな……」
「……ごめん」
 拓磨はふいと離れて扉を閉めに行き、部屋に一脚だけある木の椅子に腰を下ろして盛大に溜息を吐いた。微かに酒臭かった。
「あんたの『拓ちゃん』が人間に見られて、週刊誌に書かれたって?」
「うん」
「で、管理局の人間がこの辺の山犬もろとも殺しにやって来る」
「……うん」
「くそっ」
 拓磨が拳で壁を叩き、僕はびくりと身を縮めた。
「今度ばかりは俺一人じゃ庇い切れないかもな。あんたも何か手は打ってるんだろうな?」
 僕は拓ちゃんを山犬たちに預けて避難してもらったことを話した。
「へえ、あの男がね……」
 拓磨は意外そうに僕の顔をまじまじと見た。
「自分のことを知らないからって、思い切ったことするよな……。まあいいや。そっちはそっちで上手くやり過ごせよ。俺は薮内を押さえてやる」
 拓磨は気怠そうに立ち上がり、部屋を出ていこうとしてふと立ち止まった。
「あんたもいい加減目を覚ましな。……どうしても認めたくないんなら、俺がはっきり言ってやるよ」
 低く冷たい声が、それを宣告する。耳を塞ぎたかった。でも手が動かなかった。
「あんたの可愛い拓磨は、とっくの昔に死んでるんだ」
 死んでいる。その言葉は僕の中に否応なしに押し入り、腹の底に硬く沈んだ。
 本当はわかっていた。全部わかっていた。
 爺やが山犬の「拓ちゃん」を連れてきたときから、気付いていた。拓ちゃんが生きているはずがない。この目で遺体を見た。燃やして、拾った。小さな小さな、真っ白の骨。
 事故死だと聞いた。その「事故」に父が関わっていることくらい、当時十二歳だった僕にも見抜くことができた。父は事実を隠蔽するために拓ちゃんの身代わりを用意し、僕に口止めをした。怖い顔で僕を見下ろして命令するだけで十分だった。僕は父に服従し、父の作った偽りの物語に合わせるように現実から目を背けた。父が死んでも、その習慣からは抜け出せなかった。
 だからこそ僕は、爺やが用意したお芝居を受け入れた。拓ちゃんが実は生きていたという、架空のお話。それは僕の知る現実と父の語った現実とに引き裂かれてできた隙間にぴたりと嵌まり、僕を心地良く包んでくれた。爺やも同じように感じていたのだろう。自分たちだけのために、縋るように演じた。
 爺やが連れてきたふわふわの子犬を、初めは屋敷の中で育てた。子犬はすぐに懐いた。可愛くて仕方がなかった。よく二人で転げ回って遊んだ。無邪気なところも、気に入らないことがあると拗ねてむくれるところも、本当の拓ちゃんにそっくりだと思った。思いたかった。
 佳代さんに見付かってからは、拓ちゃんを森の中に移した。心配で、会いたくて仕方なかった。「壁」の近くに行くと拓ちゃんがくんくんと鼻鳴きする声が聞こえたり、こっそり会いに行って小躍りして喜ぶ姿を見せられたりすると胸が締め付けられた。山犬は危ないからと「壁」の遠くに行かないように教え、僕ら以外の人間には見付からないように言い聞かせた。僕らが見ていない間に何かあったらと思うと不安で気が狂いそうだった。人間になってくれたら一緒にいられるのにという考えに至るのは当然だった。
 爺やが捻り出した設定は、失敗だったかもしれない。人間を食べさせるなんてリスクが高すぎる。でも、そのことが逆に僕らの信仰心を強めた。実現が難しいから、こんなことをしても意味がないと気付く絶望を遅らせ、幸せな虚構の延命が可能になった。犯した罪が重いから、信じて突き進む以外の道が絶たれた。
 山犬の拓ちゃんは被害者だ。爺やが死の間際に語ったところによると、生まれて間もなく親から引き離され、父が研究対象として飼育していたらしい。山犬の来ない森の入り口付近に杭を打ち、鎖で繋いでいたのだ。父が忙しいときは、爺やが世話を任された。父の死後、廃人同然の僕を案じて連れて来たのだという。
 何年か経って僕が笑顔を見せるようになると、拓ちゃんがいてくれて良かった、と爺やは言った。その言葉に僕は微かな違和感を覚えた。爺やにとっては僕が立ち直ることが第一の目標で、拓ちゃんはそのための道具でしかなかったのだと直感的に思った。所詮は獣、自分たちより一段低い生き物としか考えていなかったのだと。
 爺やの思いがどうであれ、僕はもうその山犬の子供を手放せなくなっていた。拓ちゃんが僕の生きる意味だった。だから、拓ちゃんが偽物だとわかっていながら幸福を演じ続けるしかなかった。現実から目を背け、矛盾をまどろみの中に溶かし、緩やかな破滅を待ちながらどっちつかずの曖昧な状況を維持するしかなかった。
 そんな僕を身代わりの拓磨は罵った。
 お前、気持ち悪ぃんだよ。見ててイライラする――
 生きていた頃の拓ちゃんにそっくりな顔に、嫌悪を剥き出しにして。辛かった。でも、なかなか人間にならない山犬の拓ちゃんがいる一方で、人間の拓磨がいることは救いでもあった。拓ちゃんが戻ってきて、人間になって、一緒に暮らしている。そういう夢を見ることができた。
 敏感な拓磨は僕のそういう態度にも気付いていた。
 姉貴は俺のことなんか見てない――
 幻を見るために俺を使うのはやめろ――
 長期休暇で学校の寮から戻った拓磨は、心配する僕を突き放した。溝は深まるばかりだった。
 これは僕に与えられた罰なのだと思った。戻ってきた拓磨に疎まれ憎まれ蔑まれることが。嫉妬した罰だ。お父さんが拓ちゃんにばっかり構うようになって、僕のことを見てくれなくなって、拓ちゃんなんかいなくなっちゃえばいいのにと思ったから。
 罰は希望だ。償うことさえ許されない地獄に比べたら。だから僕は拓磨からの嫌悪を甘んじて受けた。溝を埋める努力さえしなかった。そうして拓磨をますます苛立たせた。悪循環は現在までずっと続いている。
 本当は、こんなことをしていても何にもならないことくらいわかっている。拓磨も拓ちゃんも、もう立派な大人になってしまった。本当の拓ちゃんはもう戻ってこない。一緒に虚構を支えてくれる爺やももういない。
 爺やに導かれて迷い込んだこのトンネルは、先に行くほど細くなり、ついには冷たい壁に閉ざされる。それでも奥へ進むしかない。
 僕はこの暖かい暗闇に親しみ過ぎてしまった。
 外に出たら――現実を見たら、僕は焼かれて灰になってしまうだろう。

十歳の記憶

 ねぇ、おとうさん。
 僕ね、山犬のこといっぱい勉強したよ。おとうさんの本も、難しかったけどがんばって読んだよ。
 おとうさんに認めてもらえるような、立派な跡継ぎになるからね。
 だから、僕のこともちょっとだけ褒めてほしいな――
 ううん、なんでもない。
 僕、もっとがんばるね。

 ねぇ、おとうさん。
 拓ちゃんと二人きりで何をしているの?
 僕のときと同じこと?
 僕はもういらないの?
 僕が大きくなったから?
 ねぇ、おとうさん――

 ねぇ、おとうさん。
 拓ちゃんは可愛いね。
 今日ね、拓ちゃんがいっぱいお喋りしたんだよ。
 もうちょっとで拓ちゃんの四歳のお誕生日だね。プレゼントは何がいいかな。みんなでお誕生日会もしようね。
 僕、拓ちゃんのこといっぱいいっぱい大事にするね。
 おとうさんの大事な拓ちゃんだから。

8

 午前十時頃、梅雨入り前の晴天の下、軽トラックとワゴン車が一台ずつ屋敷に到着した。葵は早朝から「壁」付近に残った山犬の痕跡を消しに行っていて、俺と佳代がぞろぞろと車から降りた六人の男を出迎えた。六人のうち一人だけ折り目がついていて着古されていない作業着を着ている男は見覚えがあった。この地域の山犬管理の指揮を執っている古賀だ。管理局に異動するときに会ったことがある。山犬管理局には配置転換で来ただけで、経験は浅いらしい。神経質そうに服の裾を直す様子や、この場所に相応しくない革靴に、現場には出ずに毎朝役所に出勤している人間だということが滲み出ていた。古賀ならば、誤魔化し切れるかもしれない。
 古賀はつかつかと俺たちに歩み寄り、クリップボードに挟んだ書類をぺらぺらとめくった。
「えー、君は、大野ヶ原君ですね。そちらは?」
 銀縁の眼鏡の向こうから覇気のない目が佳代を示す。
「ここで家事手伝いをされている――佳代さんです」
 そういえば佳代の苗字を知らなかった。
「なるほど、あなたが目撃者の業平佳代さんね。お聞き及びかと思いますが、こちらのお宅での山犬目撃事件が報じられたことを受け、調査および山犬の駆除に参りました。上の決定ですのでご協力ください」
 書類から顔も上げずに告げた後、古賀は他の五人を紹介した。軽トラックから降りた二人は谷垣、ワゴン車の三人は武井と名乗った。谷垣と武井は近隣の山犬管理局員の家で、全員がくたびれた作業着に山犬の毛皮を羽織っていた。二人の谷垣は中年の兄弟で、兄のほうは恰幅が良く、弟は痩せていた。武井家は肩幅の広いよく似た父と息子、孫の三人で、一人の男が成長して老いるまでを表しているようだった。谷垣家と武井家は顔見知りらしく、紹介が終わると雑談を始めた。
「鈴鹿君の姿が見えないようですが」
 古賀が微かに顔をしかめる。
「葵さんは、ちょっと体調が良くないみたいで。すぐに来ると思います」
 答えながら、男たちの会話に注意を向ける。
「やっぱり、嬢ちゃんと新人さんだけじゃあやってけないって」
「女にこの仕事ぁ務まんねえよ」
「それでわしらに尻拭いさせてりゃ世話ねえな」
「嫁の貰い手もなかったのかね。弟もいるのにわざわざ後継いだってんだからやっぱり変わってらぁな」
「親父さんも変わった人だったがね、偏屈っつうか」
 声を潜めて話しているのは年かさの四人で、無口な青年は時折頷いて同意を示していた。古賀は古賀で書類を見ながら何やらぶつぶつと呟いている。
 その時、黒い軽自動車が新たに走って来て、少し離れた場所に停まった。運転席から降りた管理局員には見えない男はボサボサの頭を軽く下げ、口の端を釣り上げてにやりと笑った。調査団の一員かと思ったが、古賀は男に一瞥をくれただけで挨拶もしなかった。
 訝しんでいると離れのほうから葵がやって来て、一同はしんと静まり返った。遠くでキジバトの鳴く声が聞こえる。葵は俺たちのそばまで来て立ち止まり、黙って深く頭を下げた。
「……鈴鹿君も来たようですし、始めましょうか」
 投げやりな口調で古賀が告げた。
 古賀の指示で俺と葵は五人に付近の山犬の情報を伝えるため小屋に行き、佳代は古賀に山犬を見たという現場を見せに行った。
 人が七人も入ると、小さなおとぎ話の家は満杯になり、俺は机と壁の間に挟まって小さくなった。葵がコンピュータのディスプレイで山犬の発信機のデータを五人に見せ、山犬たちの普段の動きと傾向を事務的に説明する。
「なんだ、安全域じゃねえの」
 葵から離れた位置にいた息子のほうの武井が呟く。
「現に山犬がこっちに入り込んでるかも知れねえんだ、油断はできんさ。それに、お嬢さんと新人さんだけじゃ、この頭数でも荷が重いって判断だあな」
 隣に立つその父が小声で応じる。彼らの会話が聞こえなかったはずはないが、葵は無表情に説明を続けていた。
 森へ罠を仕掛けに行く五人と別れ、古賀に言われていた通り母屋に向かうと、玄関の前で古賀と佳代が話しているのが見えた。少し離れて、先ほど現れた謎の男がデジタルカメラを構えている。
「薮内だ……」
 葵が呻いた。薮内はこちらに気付いてひょいと会釈し、建物の裏手に消えた。
「――ですから、とても山犬には見えなかったんです。ただの犬でした」
 佳代が古賀に向かって必死に主張している。古賀はふうむと唸って資料に目を落とした。
「――俺も追いかけてちらっと見ましたよ。とても山犬と呼べる大きさではありませんでしたし、子犬には見えませんでした」
 助け舟を出すと、佳代はほっとしたようにこちらに目を向けた。
「しかしねえ、野犬がいたってだけで、こんな記事にまで発展しますかねえ」
 古賀は納得していないらしく、眼鏡の奥で眉根を寄せた。手元にあるのは、おそらくあの雑誌のコピーだ。
「その記事、俺も読みました。あることないこと、面白可笑しく書き立ててるだけじゃないですか。そんなものを信用するんですか?」
 俺は同意を求めて佳代を見たが、佳代の視線はふいと逃げていった。葵も同じだった。何だ? ――違う、のか?
 幸い、古賀は二人の様子には気付いていないようで、上の者が――だとか、私にも立場が――などと口の中でもごもご言っていた。
 視界の端で何かが動いて、母屋の焼け落ちた側に目を遣った。色褪せたビニールシートの前に猫背の薮内が立っていて、こちらに向けてシャッターを切っていた。

 古賀は母屋の中を案内させ、ここは何の部屋かと佳代や葵に逐一説明させた。午後になって森から戻った五人も合流し、建物の外も含めて敷地内を捜索した。野犬らしき足跡も、毛の束も、糞も見付からなかった。古賀たちは痕跡が雨で消されてしまったのだろうと結論付けたようだった。

 日が暮れる頃、調査団の六人は屋敷を去っていった。まだ調査が終わったわけではなく、明日は再び朝から集合し、森で山犬の駆除が始まる。残された俺たちは疲れ切って、言葉少なに簡単な夕食を取った後はすぐに解散した。
 日はとっぷりと暮れて群青色の空が広がっていたが、明かりなしで離れと母屋を行き来することにもすっかり慣れて困ることはない。それでも俺はあえてゆっくりと歩き出した。
 星空を見ると、どうしても山犬の家族のことを思い出す。元気でいるだろうか。ここの山犬たちのように、理不尽な危機に晒されていないだろうか。
 避難した山犬たちは苦労していることだろう。世間知らずの若者を庇いながら、未知の土地で水や食料を確保できているだろうか。森の奥に縄張りを持つ山犬たちと揉めたりしていなければ良いが。
 ぼんやりと薄紫色に光る花を付けた紫陽花の茂みを抜けた時、母屋の前に小さな赤い灯が浮かんでいるのに気付いた。煙草の火だ。
 薮内は俺を見ると携帯灰皿で煙草を揉み消し、こちらに近付いてきた。
「やあ、大野ヶ原さん、でしたね」
 闇の中から届く猫撫で声が不気味で、俺は思わず身構えた。
「まだいたんですか。一体何しに来たんです?」
「まあ、そう怒らないでくださいよ。私だって、ちゃんと上の方の許可を取って来てるんですから。それより、この間の続きはいかがです?」
「この間のって、所詮は昔話でしょう。口さがない人の噂話も気にしませんから」
 俺はそのまま立ち去ろうとしたが、後ろから声が追いかけてきた。
「鈴鹿氏の死が事故ではなく、その死に葵氏が関わっているとしても、同じことが言えますかね?」
 俺は思わず立ち止まった。振り返ると薮内は満足気な薄笑いを浮かべていた。
「ほうら、やっぱり気になるでしょう? ことは殺人ですからね。あなたにも私と同じ正義の血が流れているんだ」
「……それだって、中傷の類じゃないんですか。証拠もないんでしょう」
 薮内は手招きし、周囲に人の気配がないことは明らかだというのに俺の耳に口を寄せてひそひそと囁く。
「実は、事件直後、ここの使用人だった爺さんが私に自白したんですよ。自分が旦那様を殺したとね。だが真犯人は娘の葵氏で、爺さんが庇って嘘を吐いたんだと私は踏んでるんですよ。何せ爺さんは先代の義理の父、葵氏の実の祖父ですからね。可愛い孫のためなら我が身を差し出そうっていう麗しい自己犠牲のつもりだったんでしょうな」
 俺はゆっくりと首を横に振った。にわかには信じ難い。薮内の言う老人は、佳代の言っていた「爺やさん」のことだろう。どんな事情があったかわからないが、仮に葵かその老人が鈴鹿氏を殺してしまったとして、なぜそれをこの男に言うのか。
「それ、警察には言ったんでしょうね? 警察が調べて何もなかったんなら、やっぱり事故だったんでしょう」
「それが、葵氏が真犯人である証拠を掴んでやろうと意気込んでいるうちに言いそびれまして……。いや、まだ遅くはないと思ってましてね。殺人罪の時効ってのは廃止されましたし。――私の話が嘘だと思うなら、ちょっと調べてみてはいかがです? 現場は一階の先代の書斎――向かって右手の中央辺りのはずです。一緒に真実を突き止めてやりましょうよ」
 十一年前の殺人。鈴鹿氏の書斎。気にならないと言えば嘘になる。だが、薮内の言葉に乗せられて部外者の俺が踏み入って良い領域とも思えない。俺は踵を返し、今度こそ薮内を置いて母屋に戻った。
「明日もお邪魔しますから」
 薮内の声が嘲笑うように響いた。

 真夜中を過ぎても、薮内の話が気掛かりで寝付けなかった。一体何が真実なのだろう。薮内は何を企んでいるのだろう。思考は堂々巡りで、疑念が深まるばかりだ。
 こうして悶々としていても仕方がない。何も見付からないかもしれないが、書斎に何があるか確かめよう。薮内にどう対応するか決めるのはその後でも遅くはない。そう決心して部屋を抜けだしたのは、午前二時を回った頃だった。
 懐中電灯を頼りに、長い廊下を奥へと進む。玄関を過ぎたあたりから屋敷の様相は一変する。壁も天井も煤け、一部は崩れ落ちている。露出した木材は長い年月に朽ちてぽろぽろと乾いた破片をこぼす。最も損傷が激しい箇所では、廊下と部屋を仕切る壁がなくなり、室内が丸見えになっている。おそらくそこが火元になった書斎だろう。
 俺は戸口だったと思われる箇所を越えて部屋に入った。中央部は床すらなくなり、床下の土が露出している。落ちている瓦礫は床材や天井の燃え残りか。見上げると上は二階まで吹き抜け状態になっていて、その向こうに星が瞬いていた。これだけの火災なら遺体の損傷も激しかっただろう。他に死因があったとしてもわからなかったかもしれない。
 慎重に足を運びながら、室内をぐるりと照らしてみる。家具や調度品の類は片付けられていないようだがほとんど燃えてしまっていて、椅子や机の部品らしい金属が中央の穴から無残に突き出している。
 部屋の奥を照らしていると、片隅に置かれた金属製のキャビネットが目に留まった。比較的綺麗に残っているし、中身は無事かもしれない。
 そろそろと移動し、取手を引いてみる。三段ある引き出しはどれも開かなかった。黒く汚れた表面を懐中電灯で照らし、よく観察する。引き出しの各段には鍵穴があり、別個に施錠できるようだ。鍵穴の左上にはそれぞれ4、5、6と番号が振られている――
 数字。鍵。記憶に引っかかりを感じる。あれは確か――
 ――ウサギ。
 俺はすぐさま廊下に出て階段を駆け上がり、屋根裏へ向かった。
 茶色のウサギのぬいぐるみは以前と同じ棚の端に座って待っていた。チェーンの先には鍵と、「6」と書かれたプレート。あまりに無造作なその姿に、俺はなぜか動揺した。
 ぬいぐるみを掴んで書斎へと取って返し、キャビネットの「6」と書かれた一番下の鍵穴にそっと小さな鍵を差し込んだ。鍵は滑らかに回転し、カタリと音を立てた。一つ深呼吸をして、俺は引き出しを開いた。
 中にはたくさんのノートが背表紙をこちらに向けてびっしりと並べられていた。背表紙には年と月が記録され、年代順に並んでいるようだ。一番古いものは二十年以上前、一番新しいものは十三年前――鈴鹿氏が亡くなる二年前のものだ。それより新しいものは、引き出しが満杯になったために別の場所にあるのだろうか。
 新しいもののほうが事件の手掛かりが隠されている可能性は高いだろうと考え、俺は一番端にあった最新の日付のノートを引っ張り出した。中は少し黄ばんではいるが、火事の影響はほとんどないようだ。内容は日誌のようだ。鈴鹿氏の筆跡だろう、几帳面な角張った文字が並んでいる。全体をぱらぱらとめくった後、俺は適当に目に付いたページを読み始めた。

『9月8日 晴れ時々曇り
 シロ 体重:23.4kg 体温:39.1℃ 体調:良好
 基本単語の理解および発声に問題なし。二語文の習得は非常に限定的。私よりも義父に信頼を寄せている。義父の後をついて歩き、義父の姿が見えないと吠える』

 その後はリストや表が続いていたが、何のことか俺にはよくわからなかった。数行空けて、また別の対象について記載されている。

『数磨の様子を見に行く。四本足で歩き、私を見ると威嚇する。群れの仲間が仕留めた生の獣肉を口で直接食べる。数磨と呼んでも反応はなく、人間の言葉を理解している様子もない。完全に自身を山犬と思い込んでいる。そろそろ人間の教育係が必要か』

 これは、一体何の話だろう。「シロ」というのは山犬のことだろうか。体重からして子犬だろう。研究のために飼育していたということか。では「数磨」というのは何だ? どうやら山犬ではないらしい。しかし、それでは――
 次の数ページを読んでみても、似たような記述と野生の山犬についての記録があるばかりで、決定的な言葉は見当たらなかった。
 鈴鹿氏の記録は膨大だ。彼らの正体は一朝一夕には確かめられそうにない。
 途方に暮れたまま続きを斜め読みしていると、ノートの隅の走り書きに目が吸い寄せられた。

『また拓磨を穢してしまった。義父に知られる前に改めねばなるまい。葵はどこまで知っているのか。
 娘はますますあの女に似てきた。俺の跡継ぎに相応しくない』

 背筋に悪寒が走った。注意して見ると、同様の走り書きはノートの随所にある。この日誌は、山犬の研究記録と鈴鹿氏の日記が渾然一体になったものだったのだ。
 俺は手にしていたノートを元通りに仕舞い、鍵をかけ直した。この引き出しにはこの家族の暗部が封じ込められている。それが十一年前の鈴鹿氏の死に繋がったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかし、これを薮内に知られてはいけない。あの男が欲しているような殺人の証拠などここにはない。あるのはもっと陰湿な、他人が裁くことのできない何かだ。部外者が安易に暴いて良いものではない。
 葵はこれを読んだのだろうか。きっと読んだだろう。その上でこのキーホルダーを付けたのだ。おぞましい記憶の塊に愛らしい人形で鍵をかける葵を想像し、俺は再び戦慄した。想像の中の葵は、笑っていた。

 翌日は早朝から山狩りだった。俺は「もう必要なくなった」と言って佳代からスポーツバッグを返してもらい、他の男たちに倣って山犬の毛皮を着て参加した。古賀だけは涼しい顔をして屋敷に残った。薮内は小屋に入っていく俺たちを写真に収めていた。
 三手に分かれて一日中森を歩き回り、足を棒にして帰ったが、山犬の影を見た者すら一人としていなかった。もちろん罠に取り付けられた餌も手付かずで残っていた。
「おいおい、一昨日の夜からずっと発信機が圏外のままだぞ。こりゃどういうこった」
 全員が小屋に集合して成果がなかったことがわかった後、備え付けのコンピュータをいじっていた兄のほうの谷垣が大声を上げた。
「ほう、そいつぁおかしいな。いくら何でもタイミングが良すぎだろうよ」
 弟が葵を横目で睨め付ける。さすがに疑われるか。俺は内心舌打ちした。適当に切り抜けようと俺が口を開きかけた時――
「――おかしいのは、あなたたちのほうだ」
 低く声を上げたのは、葵だった。谷垣の弟の顔色がさっと赤く変わる。
「根拠もなくここの山犬が危険だと決めつけて皆殺しにしようとする。そんなのは管理じゃない、虐殺だ。――山犬がいないのは僕が追い掛け回して脅かしたからです。しばらくは警戒して戻ってこないと思います」
 一同はしんと静まり返った。数秒間の沈黙の後、中年の武井が「生意気な」と小さく毒づいた。
 古賀は苦虫を噛み潰したような顔で眼鏡をかけ直した。
「――それでは、今回の作戦は無意味ということですな。……一旦引き揚げましょう。上の者と協議します」
 そこで集会はお開きになり、男たちはめいめい葵に恨みがましい視線を向けながら去っていった。谷垣家の寡黙な孫だけはちらりと同情の色を浮かべていたのが救いだった。
 調査団の面々が出て行った後、俺が声をかけるより先に葵は「疲れた、少し休む」と言って離れに戻った。言葉通り、血色が悪いように見えた。
 俺も一人になると緊張の糸が切れたのか重い疲れを感じた。山犬たちを呼び戻すにはまだ早いかもしれないが、とりあえずの危機は去った。俺もひとまず自室で休憩することに決めて小屋を離れた。走り去る車のエンジン音が遠くから聞こえた。

 その晩の夕食の席に葵の姿はなかった。佳代に訊くと、「食欲がないそうで……」と何となく歯切れの悪い返答だった。
「どこか悪いんでしょうか? 疲れが出たのかな?」
 重ねて訊くと、佳代は更に言い難そうに「月のもので……」と答えた。俺も何となく気まずくなって、はあ、なるほどと言って引き下がった。
 佳代と二人の夕食は静かなものだった。葵も賑やかなほうではないが、葵がいると佳代がよく喋るから結果的に場に活気が出るのだ。俺は先ほど葵が古賀たちにガツンと言ってやったことなどを話して聞かせ、佳代は素直に葵の成長を喜んでいるようだった。
 自室に戻るときになって、いつの間にか薮内の姿が見えなくなっていることに気付いた。駐車場代わりにしていた母屋の裏手に回ってみると、黒の軽自動車が一台だけ残っている。中は空っぽだ。
 何とはなしに嫌な予感がして、俺は薮内を探すことにした。

9

 身体が重い。頭も働かない。湿った重たい布団に頭から爪先で包まれているようだ。横になっていると目蓋が重くなり、うとうとと眠りに落ちそうになるが、刺すような頭痛と下腹部から腰にかけての鈍痛が妨げる。
 痛み止めは飲んだ。薬が効くまでは身体を冷やさないようにしてじっとしているしかない。
 元々生理周期が安定していない。何ヶ月も来ないこともある。今回もそうで、前回は確か大野ヶ原がここに来る前だった。環境が変わったストレスで飛んでしまったのだろう。長期間の空白を埋めるかのように重い出血だ。
 いっそこのままずっと来なければ良かったのに。使う予定のない生殖機能を維持するのはエネルギーの無駄だ。男でも女でもなく、坊ちゃんでありおねえちゃんでもある曖昧で両義的な存在でいたかった。
 自分を「私」と呼ぶことにはどうしても抵抗があった。女の子らしい服を着るのも嫌だった。
 でも……そういえば、最初からそうだったわけではなかった。幼い頃は、リボンやフリルの付いた可愛らしい服を母に着せられた。僕もごく自然にそれを受け入れ、求められるままに女の子らしく振舞った。
 やがて拓磨が生まれ、僕が八歳の時に母が家を出た。そして僕は十歳の終わりに初潮を迎えた。
 爺やに報告すると、爺やはひどく戸惑った様子で佳代さんを呼んだ。佳代さんは生理用品なんかの使い方を教えてくれて、それから三人で赤飯を食べてささやかに祝った。父にはたぶん爺やが伝えた。何がめでたいのか、僕にはよくわからなかった。霧のように絶望がうっすらと降ってくるだけだった。
 「子供」から「女」になってしまったと思った。母を罵るとき、父は母を「あの女」と呼んだ。汚いものを見るような顔で。
 僕も「あの女」になってしまうの? 嫌だよ、おとうさん……。
「坊ちゃん……」
 不安げな佳代さんの声が僕をまどろみから引っ張り上げた。薄く開いた戸口から、優しい丸みを帯びた佳代さんの影が覗いている。
「坊ちゃん、ごめんなさい。……薮内さんが玄関でお待ちです」
 やっぱり来たか、と思った。瞬間的に嫌悪感が走ったが、それもすぐにもったりとした倦怠に包まれる。
「わかった、すぐ行く。佳代さんはもう休んでて」
 佳代さんの姿が消えると、僕は墓穴から蘇ったゾンビのようにベッドから這い出て服を着替えた。玄関の弱い蛍光灯の明かりの下で待っていた薮内は、いつもの薄笑いで僕を迎えた。
 挨拶もそこそこに僕は薮内を伴って小屋へといどうした。薮内との会話を佳代さんに聞かれたくなかった。室内には昼間の熱気がこもっていて、僕は少し窓を開けた。
「この度は大変でしたね。もし山犬を隠れて飼ってるなんてことになったら世間は黙っちゃいない」
 僕の背中に薮内が白々しく声をかける。僕はそれには答えず、簡素な椅子に重い腰を下ろした。薮内ももう一脚に座った。
「もっとも、上層部はどうか知りませんがね。それとも、上の方々すら欺いているのかな?」
「……何が言いたい?」
 薮内は笑みを大きくする。
「お父さんが研究用に飼育していた山犬ですよ。もちろん政府公認で、極秘に。お父さんが亡くなった後、どうしたんです?」
「知らない。森に逃がしたんじゃないか」
「人間に育てられた山犬が、そうやすやすと野生に帰れるとも思えませんがね」
 薮内は土で汚れた靴を突き出して脚を組み、軽く身を乗り出した。
「まあいいでしょう。私だって別にあなたを追い詰めたいわけじゃあない。ここらで手を打ちませんか?」
 いつもの、金の話。黙っている代わりに金を寄越せと、はっきりとは言わないのが薮内のやり方だ。何度もその手に乗せられてきた。爺やも、僕も。
「金は出せない。この家にそんな余裕はない」
 薮内は大仰に溜息を吐いて肩をすくめ、小馬鹿にするように僕を見下ろした。
「またまた、こんなお屋敷を所有していながらお金がないなんておかしなことを仰る。それに、お金の話なんて私は一言もしていませんよ。――ああそうだ、この間、こんな昔話を耳にしましたよ。昔と言っても高々十数年前の、思い出話の類ですな。それによりますと、弟さんはが実は双子だったとか。片方は死産で、存在すらしなかったことにされていた、と。そこまではまあいいんですよ。不運な出来事を忘れてしまいたいというご両親の気持ちもわからなくもないですからね」
 薮内の濁った眼が不気味に光る。
「だが、生き残ったほうの弟さんも六歳の時に重病にかかった。どこか遠くに入院させられ、戻ってくると性格ががらりと変わっていた。まるで別人になったみたいに」
 獲物を狙う蛇のような眼が僕の顔色を窺う。拓ちゃんのこと、拓磨の正体に、この男は感付いている。
 それがどうした?
 両肩にのしかかる倦怠が苛立ちを呼ぶ。
 僕の反応を吟味するように薮内がゆっくりと続ける。
「その『重病』の原因なんですが、実の父親にあるんじゃないかと、ここを辞めた使用人の方――お名前は明かせないんですがね。その方がおっしゃっていましたよ。旦那様は小さい子供に興味があったんじゃないかとね。――お心当たりは、ありませんかね?」
「はっきり言えばいい。父のせいで拓磨は六歳で死んで、死産だったはずの双子の兄弟が入れ替わったんじゃないかって。黙っていてほしければ金をよこせって。繰り返すが、まとまった金は用意できない」
 もう、どうでもいいんだ。
 拓ちゃんは戻ってこない。爺やも、おとうさんも。
 その事実を突き付けられるのなら。
 破滅を。
「あなたもせっかちなお人ですねぇ。まだ話は終わってないじゃありませんか。お金があるかどうかは、全て聞いた後でゆっくり確認していただいて構いませんよ。――そう、お父さんの死に関する話題がまだ残っている」
「そのことでなら爺やを散々強請ったんだからもういいだろう……」
「強請るだなんて人聞きの悪い。少々新しい情報を入手したものですから、お耳に入れておいたほうが良いんじゃないかと思ったまでのことですよ。そう、 あなたのお父さんが亡くなった日のことです。火の手が上がる屋敷から逃げてくるあなたとお祖父さんを見たって方がいましてね。その方は、毛布にくるまってお祖父さんに抱えられるように出てきたお嬢さんの手に、血糊のようなものが付いていたと――そう言うんですな」
 血糊。おとうさんの。赤く染まった包丁。あの感触。
「もちろん、見間違いかもしれない。しかし、お嬢さんには動機がある。自分たち姉弟を性的に虐待した挙句に弟を殺し、あまつさえもう一人の弟を身代わりに仕立てて自らの罪を隠そうとした。そんな父親が、許せなかったんでしょうなぁ」
 違う。違う違う。虐待なんかじゃない。あれは、おとうさんの不器用な愛の表現。だから、僕は。
 薮内の声が遠くなる。心が過去に引き戻される。
 可哀想なおとうさん。妻に逃げられ、可愛がっていた小さな拓磨も誤って死なせてしまった。新しい拓磨は野生の山犬みたいに暴れて思い通りにならない。
 おとうさんにはもう僕しかいない。
 おとうさんの心の空洞を、僕が埋めてあげる。
 十一月。十三歳の誕生日の夜だった。書斎に行き、書類仕事をしているおとうさんの目の前で服を脱ぎ捨てた。
――おとうさん。
――僕を抱いて。
 おとうさんは目を上げて、僕の濃くなった体毛を、心なしか膨らんだ乳房を見た。
――父さんを困らせないでくれ。
 そう言ったきりおとうさんはまた机に目を落とした。声に混じる微かな苛立ちを僕は聞き逃せなかった。
 おとうさんはもう僕を見てくれない。
 僕のこと嫌いになったんだ。
 僕が大人に、女になったから。
 おとうさんの望む良い子には戻れない。
 もう、おしまいだ。
 台所から持ってきていた包丁を、丸めた服の中から取り出し、おとうさんに向けた。
 おとうさんの顔に浮かんだのは、驚きでも怒りでもなく、嫌悪だった。
「どうです、違いますか?」
 薮内の声が奇妙に歪んで響く。記憶の沼に沈む僕を、薮内が水の外から見物している。その頬には荒んだ愉悦が。
「こんな話、あなただって今更公にされたくはないでしょう。あなたが殺人犯にされてしまったら、お祖父さんも浮かばれませんよねぇ」
 爺や。僕の罪を背負って逝ってしまった。僕が悪いのに。
 薮内が立ち上がり、近付いてくる。
 収まりかけていた頭痛がどくどくと脈打つように襲う。
「私だって鬼じゃあない、少しばかり援助をいただければすぐに引っ込みますよ。おっと、罪を償おうなんて思わなくていいですからね? 忘れましょうよ。そんな、ろくでもない――死んで当然の親父のことなんか」
 低い囁きと共に、湿った生暖かい息が耳に触れた。
 嫌だ――
 血液が煮え立つように、カッと全身が熱くなった。
 腕を滅茶苦茶に振り回して薮内の身体を払い除け、ディスプレイの裏の小箱を引っ掴む。中には薬の入った注射器。調査団が来ると決まったときから準備していた。すぐに使えるように。
 シリンジを握りしめて振り向くと、薮内がびくりとたじろいだ。
 あれは多分、狂人を見る目だ。
 おとうさんも、あんな目で僕を見た。血を流しながら。
 終わらせなきゃ。
 今度こそ、僕の手で――
 針を突き出す。突き刺す。
 薮内は何か喚きながら、腕に刺さった注射器を引き抜いて放り出した。僕に詰め寄ろうとするが、その膝から力が抜けていく。麻酔を打たれた薮内はバランスを崩して尻餅をつき、そのまま床に大の字になって眠り込んだ。
 ようやく静寂が訪れた。
 胸が潰れそうに苦しい。
 自分の身体を抱くようにして、思い切り腕に爪を立てた。
 身体の痛みが心の痛みに追い付いて、少しだけ楽になった
 入口の扉が微かに軋みを上げた。静かに人影が入ってくる。
「姉貴……。そいつをどうするつもりだ?」
 拓磨が薮内を細い顎で示し、難しい顔で僕を見下ろす。
「わからない……」
 強張った喉から声を絞り出す。具体的にどうするかなんて、何も考えていなかった。
 拓磨は深い溜息を吐いた。
「こいつを山犬に食わせたら、今度こそれっきとした殺人だぞ。もういい、あんたは引っ込んでな。俺が片付けてやる」
 また拓磨に迷惑をかけてしまったのだと悟った。いつもそうだ。僕がしくじって、拓磨に尻拭いをしてもらう。消えてしまいたい。
 拓磨はつかつかと薮内に近付き、屈んでその顔を覗き込んだ。すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。
 拓磨が移動したことで、拓磨の後ろに立っていた茫洋としたもう一つの人影に気付く。
 大野ヶ原だった。
 僕は、動揺した。彼には見られたくなかった。再び胸の上のほうでしか呼吸ができなくなり、まずいなと感じる。落ち着かなければ――
 僕と目が合うと、大野ヶ原は気まずそうに頭を掻いた。
「すみません。二人がここに入って行くのが見えたもので、気になって外から様子を窺っていました。拓磨君とは表で偶然会ったんです」
「そう……」
 それ以上の言葉を発する気力は残っていなかった。
 大野ヶ原はすうっと大きく息を吸い、僕の顔を正面から見つめた。
「葵さん……、一つ、確認させてください。……先代の鈴鹿氏は、薮内が言うように、あなたが殺したんですか?」
 心臓がどくりと飛び跳ねた。身体が勝手に震え出す。
 大野ヶ原は犬のように懸命な目で僕の返答をじっと待っている。
「殺そうと、思った。包丁で、刺した。けど……、大した傷じゃなかったと思う」
 僕の付きだした刃はまともに刺さりもせず、腹部に浅い切り傷を作って滑った。勢い余っておとうさんの胸に突っ込み、両手にべっとりと血が付いた。包丁は床に落ちた。
 おとうさんは怒りを爆発させ、僕の頬を平手で打った。
「爺やが、火を点けた」
 騒ぎを聞きつけてやって来た爺やに、おとうさんは命じた。
――そいつを叩き出せ。
 しかし爺やは僕を取り押さえるようなことはしなかった。義理の息子の腹から溢れる血を見て、裸で呆然としている孫娘と放り出された凶器を見て、何が起こったか想像できたのだと思う。
 爺やは心配するようにおとうさんに近付いたが、おもむろに背後に回り込み、ポケットから素早く白いハンカチを取り出しておとうさんの首を絞めた。それから気絶したおとうさんを引きずって椅子に座らせ、同じハンカチで注意深く包丁を拾い、丁寧に包んだ。血を吸った凶器は爺やの懐に吸い込まれた。最初からなかったかのように。
 机の上に目を走らせた爺やは、おとうさんの愛用していた銀色のオイルライターを取り上げた。キンと金属音を立てて蓋が開く。震える老いた指がホイールを回転させ、小さな火が灯る。その火を灰皿に積まれた吸い殻にそっと近づける。
 吸い殻に火が燃え移ると、爺やは机の上に散乱していた書類を一枚ずつくべ始めた。なかなか燃え広がらないと見ると、補充用のオイルを探し出し、書類の上に垂らした。
 ゆらゆらと小さな炎が上がる。朱色の光がおとうさんの顔を照らす。僕のおとうさん。
 僕は炎を見つめ続ける。ただ、虚ろに。
――さあ、行きましょう、坊ちゃん
 冷えた肩に毛布が掛けられる。
「どうして……」
 言いかけて大野ヶ原は考え込むように口を閉じた。
 爺やは、悔いていた。家族の崩壊を見守ることしかできなかった。義理の息子を止められなかった。孫たちを守れなかった。
 辛かったでしょう、可哀想にと爺やは僕に言った。
 辛い? そんなはずはない。だって僕は、おとうさんに愛されていたのだから。
何かを察したように
「虐待の話も、本当なんですね」
 大野ヶ原は一人で納得したように呟く。
「違う……」
 認めるわけにはいかない。否定しなければ。
 でも、あのことをどう説明すればいい?
 不意にあの時の感覚が鮮やかに蘇る。
 大きな、手。押さえつける。体温。おとうさんの。
 眼をつむって、透明な殻を閉じて。力を抜いて。何も考えない。何も見えない聞こえない感じない痛くない痛くない痛くない怖くない。
 気持ち悪くなんかない。
 だって大好きなおとうさんだから。大好きな――
 ギシギシ。
 心が軋む音がする。
 苦しい。
 僕は必死で息を吸い込み、大野ヶ原に反論する。
「そんなんじゃない。だって――」
 終わったら優しいおとうさんが戻ってくるから。悪かったって言って泣いてる僕の頭を撫でてお菓子をくれて優しい声で。
 だから、嫌だなんて言えなかった。やめてなんて言えなかった。
 ぼくがいいこにしていればやさしいおとうさんにもどってだいすきなおとうさんにもどってぼくをあいしてくれるから――
「――さん。葵さん!」
 視界が揺れる。揺さぶられている。誰かの手が左腕を掴んでいる。大きな手が。強い手が。逆らえない。怖い。でも。
「おとうさんは悪くないッ!」
 女の金切り声。ああそうか僕だ、僕が叫んでいるんだ。
 大野ヶ原は驚いて払いのけられた手を引っ込め、それから悲しい眼をした。とても。
 膝に力が入らなくなって、床にへたり込んだ。寝息を立てる薮内の顔が目に入った。大きな赤ん坊のような、毒気の抜けた顔だった。
 憐れむような拓磨の声が頭の上から静かに降ってくる。
「もう帰って寝ろよ。こいつのことなら心配すんな。叩けばいくらでも埃が出るような奴だ。証拠も掴んだ。目を覚ましたらあんたの分までたっぷり仕返ししといてやるよ」
 僕はほとんど項垂れるように頷いた。頭に霞がかかったようで何も考えられなかった。
「俺……、佳代さんを呼んできます」
 大野ヶ原はばたばたと音を立てて外の闇へと出て行った。
 しばらくすると佳代さんが小屋の前まで迎えに来てくれた。佳代さんは何も訊かなかった。僕は佳代さんに手を引いてもらって離れに戻った。震えが止まらなくて、心細くて、佳代さんの柔らかい手にしがみついた。
 部屋に戻ると、佳代さんは僕をそっと抱き締めた。暖かい腕に包み込まれる。
「薮内は、もう来ないと思う」
 そうですか、とだけ佳代さんは答え、小さな子供にするように僕の背中をとんとんと優しく叩いた。
 しばらくそうしていた後、佳代さんが歌うように囁く。
「ねぇ、坊ちゃん。私ね、最近考えるんです。この屋敷も土地も全部売ってしまって。遠くの街の外れに四人で小さな家を借りて。ぜーんぶ忘れて、坊ちゃんと私と拓磨さんと誠一さんと、みんなで一からやり直せたら、きっと楽しいだろうなって」
 僕の脳裏に一瞬浮かんだのは、先ほど後にした煉瓦の小屋のイメージだった。薄暗い「壁」の陰ではなく太陽の光が降り注ぐ丘の上に建ち、無骨なアンテナの代わりに可愛らしい煙突が突き出している。中には佳代さんの言う「みんな」が集い、食卓を囲む。パステルカラーの儚い夢物語。
「でも、この家がなくなったら、この四人でいる意味もなくなる。みんなバラバラの他人だよ」
「そんなことないですよ。もう家族じゃありませんか」
 くすっと小さく佳代さんが笑う。
 佳代さんに言われると本当にそんな気がしてきて、そうだね、と僕は言う。

10

 先ほどまでの騒動が嘘のように、虫が鳴くだけの静かな夜だ。
 支え合うように寄り添って去って行く女たちを、少し離れたところから見送る。ここは俺の出る幕ではない。
 葵の怯えた眼が脳裏に焼き付いている。なりふり構わず叫び声をあげる彼女を見たのは初めてだった。思い出に押し潰されて取り乱すほど、その過去の呪縛は強かったのだ。
 傷付けられてもなお、父親を愛そうとしたのだろう。そして歪んでしまった。
 葵に同情している自分に気付き、俺は苦笑した。ここへ来た当初は、この家や住人たちを利用することしか考えていなかった。それが今では、森にいる本当の家族に対するそれと同種の親しみをこの家の人間に対して抱いている。仲が良いばかりではないが、好き嫌いを越えた近さがある。それだけ人間の世界に染まったということか。山犬の同胞たちに対して若干の後ろめたさはあるが、これはこれで居心地は悪くない。山犬であることを隠す必要もないし、葵ももう俺の口を封じようとは思っていないだろう。
 しかし、気を許すのはまだ早い。確かめておかなければならないことが、あと一つある。
 小屋の中に戻ると、拓磨は椅子にだらしなく座って薮内を眺めていた。
「拓磨君。君に聞いておきたいことがある」
 拓磨は顔を上げ、無表情に俺を見返す。
「君は――本当は、人間なんだろう?」
 俺を見つめていた目が、ふと細められる。
「……一応、場所を変えようぜ。こいつに聞かれると困る」
 拓磨は薮内が起きる気配がないことを確認し、小屋から出た。俺も後に続き、母屋と反対方向に言葉もなく歩いた。拓磨が立ち止まったのは、小屋の入り口が見える位置に立つ梅の木の下だった。そよ風が吹き、青梅が仄かに香った。
「やっとわかったんだな」
 いつもの投げ遣りな皮肉っぽい口調で拓磨は言う。
「薮内が言っていた双子の片割れが、君だ。この家に生まれた君は、山犬に預けられ、兄弟が死んだことで急遽連れ戻された。俺には自分が山犬だと嘘を吐いた。俺を油断させるために。――山犬に育てられたのは、何かの実験か?」
 書斎で見付けた日誌に書かれていたのは、彼のことだろう。薮内の言ったことと考え合わせれば、何が起こったのか想像はつく。
「実験、ね……。ま、そう思ってくれてもいい。生まれてすぐに俺は親と引き離され、山犬の群れに入れられた。もちろん人間の赤ん坊を山犬に育てさせるのは無理があるから、政府の役人が付き添った。固形物が食べられるようになる頃にはその役人も来なくなって、俺は自分が山犬だと思い込んで育った。自分の身体が山犬とは違うことはわかってたが、お前は特別だ、人間に化けられる能力があると言い聞かされた。小さいときに人間の姿を取るように儀式を施した、山犬の姿には簡単には戻れない、人間社会に潜り込んで山犬のために尽くす使命がある、と」
「待ってくれ。それは……」
 それは、俺の話だ。俺が両親に言い聞かされたことだ。
 暗闇の中、拓磨の口の端が吊り上がるのがうっすらと見える。
「そう、同じだ。俺とあんたは同じなんだ。あんたも、正真正銘の人間だ」
「何を、言ってるんだ……?」
 闇が、ぐらりと揺れたように感じた。梅の幹に手を突き、身体を支える。ざらりとした樹皮の感触が神経を逆立てる。
「山犬の身体をしていた頃のこと、思い出せないだろ? 当然だ。そんな時代はなかったんだからな。あんたは物心つく前に山犬の子供と取り替えられたんだ。変身したと嘘を吐いて。あんたも山犬も騙されてたんだよ。山犬を管理したがる人間にな……」
 あの、暖かい袋。俺は、連れてこられたと言うのか。あの男に。人間の、産みの親のところから。
 そんなはずはないという言葉は喉につかえて、ついに口から出ることはなかった。否定できるだけの根拠を俺は持っていない。
「山犬が人間に化けるなんて、最初から無理な話だったのか……?」
「そういうこと。物分かりいいじゃん」
 拓磨が乾いた笑い声を上げた。俺はゆっくりと首を横に振る。
「いや、わからない。こちら側にいる同胞たちも、みんなそうやって入れ替えられたのか? 一体、何のために……」
 俺は今まで、何のために――
「もちろん、人間の身勝手な利益のためさ。これはそもそも、山犬を『壁』の向こうに追い出した数百年前の権力者が考え出した小賢しいシステムだ。あんたたちは二重スパイなんだ。山犬のために人間の情報を仕入れているつもりで、実際は人間が自分たちに都合のいいように流した嘘を山犬に広める役目を果たしていた。山犬を人類共通の敵に仕立て上げ、民衆の目をくらませたり怒りを逸らしたりするために利用したんだ。――それに、いざとなったらあんたたちを追放するのは簡単だ。追放者の中に、都合の悪い人間を紛れ込ませるのもな。便利だろ?」
「それじゃあ、俺は――俺たちは、踊らされてるだけじゃないか……」
「その通り。あんたの動向は政府に筒抜けで、俺はお目付け役ってわけ。人間に不利なことをしようとすれば……わかるだろ?」
 拓磨は梅の木に背中を預け、まだ若い実を指で弄んだ。その態度に、無性に腹が立った。
「どういうつもりなんだ? 君は真相に辿り着いた。自分が騙されて利用されていたことを知った。それでも君は人間側の手先として働いている。じゃあ、何で俺に真実を話した? また騙して陥れるつもりか? 答えろ!」
 拓磨は怯むことなく、冷たく沈んだ目で俺を観察していた。ずっと年下の若者相手に恫喝するしかない自分が情けなかった。惨めだった。俺は、何者でもなくなってしまった。今まで生きてきた意味も、これから生きていく意味も、幻だったと気付いてしまった。
 拓磨が嘘を吐いていると結論するのは容易い。だが俺にはわかっている。拓磨は――俺が拓磨と呼んでいたこの青年は、俺が感じながら目を背け続けてきた違和感に形を与えただけだ。
 山犬が人間になるなんてありえない。
 拓磨はあくまで冷静で、瞳にはどこか達観したような色を湛えていた。
「俺は、こっちに来てすぐに自分が人間だと明かされた。役人が来て、山犬を裏でコントロールする役目を負うように教育された。そりゃ、最初は逃げたさ。でも、考えてみたら会社勤めなんて俺の性に合わねぇし、給料もいいし、こういう仕事もありかもなって。それに――こういう立場にいれば、何かあったら真っ先に動ける。卑劣なことをする奴には一泡吹かせることだってできるかもしれない」
 拓磨は俺から視線を外し、「壁」の向こうに見える黒い木々の影を見遣った。
「俺は、全部わかった上で飼い犬になることを選んだ。あんたにも自分が何者かを知る権利はある。――この家でじたばたしてるあんたを見てるうちにそう思うようになった。今まで他人に支配された人生を生きてたんだ。あんたも、姉貴も。これからだって自由になれるわけじゃないだろうが……、自分の未来くらい、自分で決めろよ」
 俺は返す言葉もなく、故郷の森を想った。家族と思っていた山犬たちの声も、彼らと見上げた星々も、ひどく遠く色褪せて感じられた。

11

 調査は結局うやむやのまま立ち消え、薮内から音沙汰はなく、幻のように平穏な日々が過ぎた。体調不良を言い訳に、僕は現実から逃げるようにほとんどの時間をベッドの中に籠もって思い出の中をさまよっては泣き、泣き疲れては眠った。こんなにしっかりと睡眠を取ったのは久しぶりで、いくら寝ても寝足りなかった。嗜眠の潮が引いた後は妙にすっきりした心持ちになったが、今度は山犬の拓ちゃんが心配でたまらなくなり、僕は大野ヶ原に同行を頼んで森の奥へ向かった。
 小屋の中で大野ヶ原は銃を取り、じっと見つめてから思い直したように仕舞い直した。どうしたのかと訊いてみたが、「ええ、まあ」と濁されてしまった。僕も追及はしなかった。
 森の中は適度に涼しく、足元には木漏れ日が躍っている。ある程度歩いたところで大野ヶ原に遠吠えをしてもらい、山犬たちと連絡を取った。遠くから届いた返事は、朗々とした大人の声に、まだ若く不器用な声が時々割って入った。
 遠吠えで互いの位置を確認しながら森の奥へと歩き、出発から半日かけてようやく群れと合流できた。僕らを見付けて駆けてきた拓ちゃんは、白い毛皮が少し汚れて顔つきも何となく精悍になり、見た目は立派な野生の山犬になっていた。
 拓ちゃんは喜びのあまり尻尾を滅茶苦茶に振り回しながら駆け回り、腹を見せて地面に背中をこすり付けた。僕は転がり回る拓ちゃんを羽交い締めにして腕の中に留めた。
「拓ちゃん、大丈夫だった? 怪我してない? どこも痛くない?」
 元気そうな姿にほっとして、枯れたと思った涙がまたじわりと滲んだ。拓ちゃんはくすぐったそうに身体をくねらせた。
(ぜんぜん平気だよ。それよりぼくの遠吠え聞いてくれた? かっこよかったでしょ)
「うん。素敵だった」
 拓ちゃんは大きな声を出さないように躾けられてきた。この数日間、思うままに声を出してどれだけ気持ち良かったことだろう。野生の山犬には遠く及ばない下手くそな遠吠えでも、僕にとっては一緒に聞こえていた声よりもずっと輝いていた。
 いつの間にか他の山犬たちも集まり、遠巻きに僕たちを見守っていた。緊張した様子はなく、思い思いに後ろ脚で体を掻いたり木の根元を嗅いだりしている。
(おねえちゃんがいないのは寂しかったけど、すっごく楽しかったよ! いろんなところを走り回って、狩りして、群れのひとたちと遊んだ!)
 拓ちゃんは瞳をきらきらと輝かせた。
「そう……」
 他の山犬ともうまくやれていたことに安心する反面、僕は素直に喜べなかった。
 数日とはいえ、拓ちゃんは野生の山犬と同様に生きられた。拓ちゃんは野生とは相容れない、こちら側の存在のはずなのに。人間側の世界の一部として生きることを受け入れた、犬や猫や豚と同じ存在のはずなのに。
 僕がいなければ生きていけないと思っていたのに。
(どうしたの、おねえちゃん)
 僕の態度の変化を敏感に感じ取り、拓ちゃんの顔が曇る。僕は拓ちゃんの頭を抱いて視界を覆った。
 僕は間違っていたのだろうか。
 拓ちゃんが僕を必要としていたのではなく、僕が拓ちゃんを必要としていた。僕は拓ちゃんに執着していた。この執着こそが愛なのだと思っていた。
 でも、拓ちゃんは現に僕無しでも暮らせている。
 僕は自分の欲望のために拓ちゃんを束縛し、歪めてしまっていただけなのかもしれない。
「……拓ちゃん、この群れに残りなよ」
 拓ちゃんの身体がぴくりと震え、三角の耳がまっすぐに僕を向いた。
「僕は、拓ちゃんといつも一緒にいられるわけじゃない。ひとりでいるより群れに入れてもらったほうが安全だし、きっと楽しいよ。……会いに来るから。必ず」
(……人間になるのは?)
 拓ちゃんは僕の腕の隙間から真剣に僕を見つめる。
「もういいんだ。もう、いい」
 僕は拓ちゃんを放した。拓ちゃんはぶるぶると身体を振って毛並みを整え、背筋を伸ばして座った。僕を見下ろす眼はどこか大人びていた。
(そっか。……山犬に戻っていいんだね)
 僕は嗚咽を堪えて頷く。
(ぼく、リーダーと話してくる。ちょっと待ってて)
 拓ちゃんはすっきりとした表情を見せ、僕に背を向けた。
「拓ちゃん。……大好きだよ」
 僕の鼻声に、拓ちゃんは尻尾を振って応えた。
 涙に霞む眼では、拓ちゃんと他の山犬との区別はつかなかった。

 山犬たちと話をするうちに日が傾き始め、僕らは別れを告げて帰りを急いだ。
 また会いに来れるとわかってはいても、拓ちゃんと離れるのは苦しかった。これはただの別れではない。僕と拓ちゃんの中で一つの時代が終わったのだ。爺やが蒔いた種から育った、親密でグロテスクな、現実逃避の時代が。
「本当に良かったんですか? 簡単には会えなくなりますよ」
 山犬たちの後ろ姿が木々の間に消えた後、大野ヶ原は僕に訊いた。こうすることを勧めたのは大野ヶ原なのに、おかしなものだ。
「こうしたほうが、拓ちゃんも幸せだから」
 拓ちゃんだってとっくに気付いていたのだ。
 茶番を続けるのは限界だと。
 距離を置くか、共倒れするか。二つに一つしか道はなかったのだ。
 しばらく沈黙した後、大野ヶ原はぽつりぽつりと話し出した。
「山犬の拓磨君、群れに連れて行ったときにしばらく話をしましたが、あなたといるときとは全然が違いました。たぶん、あなたが思うよりも数段しっかりしている。彼はもう子供じゃありません。大丈夫ですよ。――群れの仲間もそう言っていました」
 元気付けてくれるのか。僕は迷惑をかけてばかりなのに。殺そうとさえしたのに。
「……拓ちゃんは、僕に合わせて子供っぽい演技をしてくれていたのかな。無理、してたのかな……」
 大野ヶ原の優しさに甘えて、つい弱音を吐いてしまう。
 大野ヶ原は考え込むように少し黙り込んだ。
「……演技だったとして、それは彼にとってもあなたが大切な存在だったからですよ。あなたは、彼に愛されている」
 拓ちゃんや爺やから受け取った愛情。それはきっと本当の愛情だったのだろう。おとうさんそれのとは違っていた。本当はわかっている。
 恋しさと思い出と悲しみが一度に押し寄せて、嗚咽を抑え切れなかった。
 人間になれなくても。
 本当はもう、どうでもよかった。
 拓ちゃんは、僕を信頼して、頼って、甘えてくれた。
 僕の心が壊れないように、注意深く護ってくれていた。
 彼が「拓ちゃん」ではなくても、かけがえのない存在であることに変わりはなかった。
「ありがとう。僕は、もう大丈夫」
 拓ちゃんを取り戻したかったことも。おとうさんに愛されたかったことも。ようやく「過去」にできる気がした。
 大野ヶ原は前を向いたまま少し照れ臭そうに頷いた。僕も何だか気恥ずかしくなり、僕らはまた沈黙して「壁」の外を目指した。
 じわじわと夜の帳が下り始めた頃、不意に大野ヶ原が立ち止まった。
「――葵さんに知っておいてもらいたいことがあるんです」
 急にどうしたのだろうか。僕は戸惑いながら次の言葉を待った。
「俺……、本当は山犬じゃなくて人間だったんです。人間のほうの拓磨君に聞きました。――信じたくない気持ちはありますが、多分その通りなんです」
 大野ヶ原は気の抜けたような曖昧な笑みを浮かべて振り返った。
「……知ってる。知ってて、黙ってた。ごめん」
 大野ヶ原が自分は山犬だと言ったときから、素性は察していた。拓磨が行動を監視していることもわかっていた。
 大野ヶ原はゆるゆると首を振った。
「急に聞かされても俺は信じなかったでしょう。このタイミングでわかって良かったのかもしれない。未だに整理できていないし、抜け殻になったような気分ですが……」
 僕は大野ヶ原に歩み寄った。木の葉で覆われた森の中は暗く、もう影の濃淡でしか顔を判別できない。
「これからどうする? この仕事を続けるか、山犬から離れて『普通の』人間に戻るか……」
 大野ヶ原が息を呑む気配がした。
「続けるなら、ここにずっといればいい。もちろん別の道に進んでもいい。僕は応援くらいしかできないが。何を選ぶのも君の自由だ、大野ヶ原」
「……誠一でいいですよ」
 そう言って大野ヶ原は最初に出会った頃のように屈託なく笑った。

 「壁」越しに眺める雨上がりの森は時が止まったように静かで、僕が子供だった頃と少しも変わらず、夕陽を受けて神秘的に輝いていた。
 僕は昔のように母屋の屋根裏に来て、開いた窓からぼんやりと外を眺めていた。
 「壁」の反対側には、梅の木の枝に守られるように、半ば雑草に埋もれた小さな灰色の塊が見える。僕の爺やは、あの下に眠っている。
 この屋敷は、思い出の抜け殻だ。
 僕もまた抜け殻だった。
 大事なものが飛び去った後に残された、琥珀色の器。
 意思もなく、感情もなく、ただしがみつくだけの。
 弟を失い、父さんを失い、空っぽになっていた僕に、爺やは「拓ちゃん」という中身を与えようとした。
 理想化された僕だけの「拓ちゃん」はもういない。代わりに心の通じ合った一頭の山犬がいる。
 僕は今まで辛い思い出ばかりを意識し、そこから目を背けようともがいていた。たくさんあったはずの楽しい記憶は、いつの間にか僕の心を抜け出して、飛び去ってしまった。
 幸せな記憶を呼び戻したいと強く願った。父、母、拓ちゃん、爺や。彼らとの思い出を暗い色で塗り潰してしまったら、彼らが僕に向けてくれた好意も、与えてくれた笑顔も、全部なかったことになってしまう。そんなのは嫌だ。――そんな風に思えるようになった。
 僕は脇の棚に手を伸ばし、小さなウサギのぬいぐるみを手に取った。拓磨が生まれる前、父と母と僕の三人で一度だけ遊園地に行った。そこで買ってもらったキーホルダーだ。その当時のことは覚えていないし、ずいぶん汚れてしまったが、これは僕にもそういう普通の子供時代があったという証明だ。たぶん、これからもずっとこの物置で眠り続けることになるのだろう。ふと今度天気の良い日に洗ってやろうかなと考え、そんなことを考えるようになった自分が可笑しくて、僕は一人笑みを零した。
「なーにニヤニヤしてんだ?」
 驚いて振り返ると、階下に通じる穴から拓磨がひょっこりと顔を出していた。僕がもごもごと誤魔化している間に、拓磨は梯子を上がって穴の縁に腰を下ろした。
「山犬を群れに帰したんだってな」
「うん。……人間を食べさせるのも、もうやめる」
 拓磨は意外そうに目を丸くした。
「へえ。そりゃまた、結構な心境の変化だな」
「……もう、必要ないから」
 拓ちゃんを繋ぎ止めるための犠牲はもう必要ない。いや、本当は最初から必要なかった。
 拓ちゃんの血肉となった人々の顔が脳裏に蘇った。一人ひとり、覚えている。
 僕らは人間の身体を得て、彼らは苦しみの少ない死を得る。双方に利益があると思っていた。だがその考えは傲慢だったかもしれない。拓ちゃんに食べられていった彼らは、本当に死にたかったのではなく、救いを求めていただけだったのではないだろうか。僕は彼らの再生の機会を奪ってしまった。それを与えることもできたはずなのに。僕にその罪が償い切れるだろうか。自分で手を下すことすらできなかった、狡い、意気地なしの僕に。
「母さんが心配してたぞ。電話でもしてやれよ」
 拓磨が少し面倒臭そうに言う。
「わかった。――今まで私のせいで苦労したよね。ごめんね……数磨」
 珍しく狼狽したように数磨は目を逸らす。本当の名前で呼ばれることなどほとんどないから調子が狂うのだろう。
「別に、気にすんなよ。一応……家族だろ?」
 夕飯には遅れんなよと言い捨てて、数磨は照れ隠しのように慌てて梯子を下りて行った。
 ぬいぐるみをそっと棚に戻し、私は一歩一歩踏み締めるように木の梯子を下りた。四人で食卓を囲むために。

山犬の抜け殻

山犬の抜け殻

人々は凶暴な野生動物の山犬に怯え、「壁」の内側で暮らしていた。山犬管理局の一員として働く葵のもとに、新人の大野ヶ原が異動してきた。「壁」に残された血痕、屋敷で目撃された山犬、死んだはずの葵の弟。大野ヶ原がたどり着いた真実とは。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-21

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  1. プロローグ
  2. 1
  3. 十三歳の記憶
  4. 2
  5. 二十一歳の記憶
  6. 3
  7. 4
  8. 5
  9. 十四歳の記憶
  10. 6
  11. 7
  12. 十歳の記憶
  13. 8
  14. 9
  15. 10
  16. 11