酒の名前
酒の名前
その日の私は疲れていた。
疲れているのはいつものことかもしれないが
とにかくその日はいつも以上に疲れていた
仕事の納期に追われ、飛び乗った電車は終電だった。
そんな日がここ数日ずっと続いていたのだから
睡眠不足で体力も限界を感じていた
転勤して半年、定時で仕事が終わったことなどない
何かしらのクレーム対策に終われ、家と会社の往復
だから、未だに路線図も駅名もろくに覚えることができていない
それでも数週間ぶりの休日が明日やって来ると考えれば
電車から見える会社近くの景色もいつもと違って見える
そうだ、思い返せばそうなのだが、飛び乗った電車に違和感があった。
エアコン代わりに扇風機の電車なんて見るのは何年振りだろうか、そして乗客もいつもと違って私の他には誰もいない
だが、そんなことよりも眠気の方が勝っていた
そっと胸ポケットをさする、こんな時、普段なら携帯でタイマーをセットして寝るが、
運が悪いことにバッテリー切れで会社で充電したまま忘れてきてしまったようだ。
ひとつ小さなため息をつくと、そのまま疲れて眠ってしまった。
全く聞いたこともない駅名のアナウンスで目を覚ます。
これは終電電車だから、自宅の最寄り駅から離れるほど家に帰れなくなる。
急いで電車から飛び降りると、そこは本当に見たことも聞いたこともない駅だった。
駅と言うわりに殺風景で、改札は自動改札なんてありそうにもない。
時間のせいなのか駅員の姿さえも見当たらなかった。
まったく期待を持てぬまま、駅の外に出てみると、
近くに大きな川でもあるのか水の流れる音がする。それなら宿や民宿があっておかしくもないが、辺りは真っ暗でタクシー乗り場もコンビニもファーストフード店もありそうにない。
せめて人と話せればと思うが、時間が時間なだけに人っ子一人いそうにもない。
途方に暮れ始めたところ、すこし離れたところに、赤ちょうちんがぼんやり見える、どうやら飲み屋のようだ。
酒が苦手な私は少し悩み始める
私は自動車部品の会社で働いている、こう言った会社は何かと体育会系のようなノリで飲み会が多く
仕事ができなくても、その飲み会で上司に気に入られれば仕事で多少の失敗をしてもフォローされる
その一方でお酒もコミュニケーションを取ることも苦手で、毎回飲み会を断る私は 酒好きが多いこの会社では誰からも良くは思われていないような気がする。
そんな風に思うからこそ、なおさら酒が、そして飲み会が嫌いになっていく。
しかし場所のせいなのか、深夜という時間のせいなのか、あまりに選択肢の少ない中では、この店の他にはどこにも行き場が無いように思えてしまう。
見た感じ酒林が吊るされ老舗の飲み屋といった感じで、外の換気扇からは焼き魚のいい臭いがしている。
念のため財布の中身を確認すると、給料日前だけあって少し心もとないが、そこは料理を財布と相談しながら注文するとしよう。
腹の音に背中を押され、暖簾を潜る
戸を開き中を覗きこむと、『いらっしゃいませ』と威勢のいい声と多くの客の笑い声が聞こえてくる
貸しきりの団体客で席もないのなら諦めようと、考えていると、考えを察しされたのか
『どうぞカウンター空いてますよー』とビール瓶を運ぶ女将らしき女性に声をかけられる。
こんな店に一人きりで入った事などないものだから、どうしようかと考えていると、団体客の一人に『そこの兄さんあんたここら来るの初めてか?』と聞かれる、恐らくすでにお酒で出来上がっているのだろう、不安ながらに『そうです』と戸惑いながら答えると、『ならこの店にしとけ、他を探そうにも、店はここくらいしかないし、ここは新聞でも取り上げられるくらいうまい店なんだ』と壁に飾られた変色した古い地元の新聞の記事を指さしている。
そして、『たくさん注文しちまったが俺らだけだったら食いきれないし、同じメンツで話のネタも無くなっちまった、兄さん一緒に酒飲まねえか?』と誘われる。
男性は白髪頭の60代くらいで、同じくらいのご年配の女性と、20代の女性が『どうぞー』と上機嫌で手を振っている、テーブルの上には天ぷら 刺身 そして外の換気扇から漂っていた臭いの正体と思われる川魚が見える。
人も酒も酔っぱらいも苦手だが、金銭面の不安も和らぐし、地元の人々ならこの辺りの宿や交通事情も詳しいだろうと、つい誘われてしまう。そしてなにより腹が減った。
『ほらほら、真ん中の席へ』と、おばちゃんに誘われ
座敷テーブルの真ん中が開けられる
料理の減り加減から察するに、宴会はほぼ始まったばかりと思われる。
こんな時間から?と思ったし、バスやタクシー等の交通機関や、無ければ泊まれる場所をすぐにでも聞きたいところだが、せっかくご馳走してくれると言うのだ、下手な質問をして気分を害させる訳にもいかない。
何かせっかく誘って頂いたのだから、何か話さなければとまごまごしていると、
『お兄さん お名前は?』と年配の男性に聞かれる
『和久井です』と答えると
『ワクさんか んじゃぁ さぞかし酒は好きだろう?』そういうとその場に居たみんなが笑い出す。
ぽかんとしていると、にやにやと嬉しそうに説明を始めた。
『酒が飲める人のことをザルというが、そのザルよりも酒が飲める人のことをワクという、酒が溜まるところがザルよりないからだ』とお酒の話をするときは、この男性はとても楽しそうな顔をする。
『女将、アレを頼む』
そういって手で酒を飲むしぐさをすると 『はーい』となにやら準備を始めた。
聞かれた質問に私が答えると言う一方的な自己紹介が始まり、それが終わると同じテーブルの人々の簡単な自己紹介が始まった。
私に声をかけてくれたのは大谷さんという方で、これは会社の飲み会らしい
どんな仕事をしているのか聞いてみると、『女将がきたら教えてやる』と言い、教えてもらえなかった。
席に誘ってくれたのはその奥さんで総務を担当しているらしい。
女性は事務の仕事を担当しているらしい、みんなからはしずちゃんと呼ばれていた。
本当はあと2人ほど来る予定が、急遽予定が入り、そこで料理が余り困っていたとのことだ。
テーブルを見ると確かに2人分の料理が手付かずのまま置かれている。
自己紹介が終わったと同時に、女将が升を笑顔で運んでくる
升を渡され、あたふたしていると
『酒が苦手なのは、本当に美味しいお酒を飲んだことがないからだ』 と豪語され、酒瓶から升に溢れんばかりの酒を注がれる
『無理に飲ませるつもりはない、だが一口だけでも試してみろ』
みんなの視線を感じ、酒を零さないように顔を近づけ少しだけ焦りながら口の中に流し込む
度数が高いのか思わず咳き込むと
それを嬉しそうに 『どうだ辛口だろう?』と言わんばかりだった。
『この酒はな俺らが作ってるんだ』
そう言って名刺を差し出した
どうやらこの近くで酒蔵を持ち地酒の製造販売をしているらしい
『いま飲んだのは、今さっき完成したばかりの酒で、名前はまだ無いんだ』
お酒は美味しかった
口の中が痛いほど辛口だが、水のようだった、檜の香りと余韻が心地よく残る
酒嫌いの私がガブガブと喜んで飲むのを、嬉しそうにみんなが見守るように注目していた。
憂鬱な気分は消えていた
そしてその後は、いろんな話をした、趣味の話、仕事の話、家族の話
最初は質問をされては一言二言返し、
冗談で返され、それをみんなで笑い
酒は人付き合いの潤滑油という言葉があるが、その意味が初めてわかったような気がした。
それでもまだぎこちない私に、『もっと堂々として、もっと笑顔を見せたらいいのに』
そう言って大谷さんの奥さんは笑った
『これからはそうします』と、とびきりの笑顔で返しながら
いままでの私に足りなかったのはこういうところなのだなと思った。
『酒の名前、何がいいと思う?、なかなか良い名前が思いつかなくてな、良い名前が思いつくなら、名付け親にしてやるよ』ニタニタと折れた前歯をチラつかせながら嬉しそうに聞いてくる
『儚い・・とか、どうですかね』
『ほう、どういう意味だ』大谷さんが初めて真剣な顔を見せる。
『私、さっきも言いましたけど、酒が弱いんです、匂いだけでも苦手で、でも、このお酒なら・・・』
『吐かないってか』
そう言って笑い出し、みんなで笑った。
目が覚めると私は電車の中にいた
今度はエアコン代わりに扇風機なんて古臭いタイプではない
シートの形から見て、特急に乗ったようであった。
窓の外を見ると薄明かるい
酒が苦手だと言うのにたらふく飲んでしまったからか
自分の息が酒臭く、記憶が少し飛んでいる
誰かと大声で笑いあう、そんな自分が想像できないばかりに、昨夜の出来事が夢のように思えてしまう
少し信じられなくなってスーツの胸ポケットをまさぐる、そこには少しヨレヨレになった名刺があった。
いまは早朝なのだろうか、それとも夕暮れなのだろうか、腕時計を見るが答えはわからない
するとちょうど少し年配の駅員さんが隣の車両から、こちらの車両に移動してきた。
『すみませんが・・・・』とその駅員さんに名刺を差し出し、『この住所の最寄り駅ってなんてとこですか?』と聞く
それは恐らく、いままでの自分ではそんな行動は取らないだろうなという行動だった。
『お客さんも?』
駅員は少しめんどくさそうな顔をする
『私もお酒は好きでね、確かにそこのお酒は確かにうまかった。今だって飲めるもんならいくら払っても飲みたいけどね、だがもうその酒屋は無いよ、ちょうど20年くらい前かな、土砂崩れで駅からその周辺が丸ごと流れちまってね。なんて言ったかな、そこの酒屋が売ってた地酒・・・』
『はかない・・・』
言葉にならない声が、口から零れ落ちた
『そう、そうだ!』
駅員の声が私の脳に響き渡った
酒の名前