痛くない
「おとさん、たべる」
愛娘が片言で喋るようになってから、よりいっそうかわいらしく思えるようになった。
「あーん」
「あ~ん」
口を開いた俺の真似をしながら、娘も同じように口をあける。
小さな手に持った食ぱんを、俺の口に運んでくれると思ったのだが、どうやら違ったらしい。
「頂戴。あーん」
「ちょらい、あ~ん」
嬉しそうに真似をする娘。思わず、娘が手に持っていた食ぱんを口に咥え奪い取った。
「……ぃ」
手からなくなった食ぱんに、愛娘はすぐさま表情を変える。
――あ、泣くかな? そう思ったが、娘は俺が咥えていた食ぱんにかぶりついてきた。娘の小さな口に、千切れた食ぱんが咥えられている。食ぱんをもぐもぐと口に取り込むと、娘も同じようにはむはむと俺の真似をして微笑んだ。そんなことがあった。
娘が七歳になった頃、連れだって本屋へ出かけたことがあった。娘は本棚から漫画を取り出して、何が面白いのか、うふふ、と笑っていた。漫画に夢中になっていた娘を俺は遠巻きに眺めていたものだ。
時折り声をだして笑う一人娘。店内は客で溢れかえっていたのだが、娘の無邪気な笑い声に、不快そうな反応をするものはいなかった。
娘がその歳になると、銭湯で男湯には入れない。そのことに駄々をこね、人目を気にすることなく泣きじゃくっていた娘。結局、その日を境に、銭湯へはしばらく行かなくなったのだと、今でも印象深く残っている。
娘が中学に入学した頃には、一緒に寝たりすることもなくなっていた。一緒に行動することさえめっきりと減ってしまった。それでも、食事の時だけはいつも笑顔で、今日は学校で何があった、とか、こういうことを教わった、とか、友だちと喧嘩をした、とか、話してくれたものだ。
卒業式の日。娘は帰った途端リビングで久しぶりの泣き顔を俺に隠そうともせず拭っていた。
そして高校に入学してから、娘は遅い反抗期に入っていた。吸えもしない煙草を持ち歩き、髪を染め、警察から連絡を受けるたびに補導された娘を迎えにいった。万引きをしたり、友だちと夜遊びしたり、時には日が変わっても家に戻らないことがあったが、そういう時はいつも警察から連絡が入り、娘を迎えに行ったものだ。
――痛くない――。
娘に手をあげたことは一度もなかった。どんなに悪いことをしようとも、どんなに反抗的な態度をとろうとも、どれだけおかしな格好をしていようとも、俺が娘に手をあげることはなかった。
試験で100点をとっても、0点をとっても、教師に優秀だと言われても、不良だと言われても、娘のどんな姿を目に入れても、痛い、と思ったことはない。
晴れやかな空の下、吹き抜ける涼やかな風に身をさらしながら、純白の衣装に身を包み、憂い憂いしく微笑む愛娘を見るまで俺は――痛い、と思ったことは、一度もなかったのだ。
(了)
痛くない