私の嘘、父の夢
私が音楽を始めたのは二十歳も目前に控えた頃だった。幼いころからピアノやバイオリンを習っていたとか、中学では吹奏楽をやっていたとか、大抵のミュージシャンが通る道を私は通っていない。
それどころか、私は音楽なんていうものには然したる興味があるわけでもなかった、むしろ自身がそれに携わることになるなんてあの時までは考えもしなかったくらいだ。
母が死んだ。
高校二年の冬に父から学校に連絡が入り、母が事故に遭ったことを告げられた。私は母が搬送された病院に駆けつけたが、母は即死だったようだ。
突然の死にも関わらず、私はあまり悲しいとは感じなかった。母とは仲が悪かったわけではなく、むしろ良好と言ってもよいくらいだったと思っている。だが、母は私を我が子だと溺愛することはなかったし、私も母の愛を渇望するようなことはなかった。私が悲しさを感じられなかったのはそんな事情が関係しているのだろう。そして父も取り乱して悼むようなことはなかったことから、それは私と母の問題ではなく、私の家族に遍在することだったのだろう。当時の私はそう結論付けた。
母の死の半年ほど後だろう。父の様子がおかしくなった。元々、私も父も家事の手伝いはよくしていたし、父は時間に余裕のある仕事をしていたので、以前とほとんど変わらない生活を取り戻しつつあった。と、そのように私が思い始めた矢先のことだった。
まず、帰宅時間が変則的になったことに始まり、次第に元々少ない私との会話がさらに約められるようになってきた。だがその頃の私は父に対して的外れな嫌悪感を抱き始めていた。母が死んでまだ半年なのに他の女か。幼稚な私は父の心情を推し量ることが出来ず…いや、試みようともしなかったのかもしれない。ともかく、はじめのうちは私も父の変化を大したことだとは思っていなかった。
ある日、私が風邪で学校を休んでいる時、郵便受けに何かが投函される音を聞いた。別段気になることではなかったが、気まぐれでそれを取りに行った。差出人は「○○病院」宛先は父だ。○○病院は母の搬送された病院だったが、今更何かが送られてくるのも変だと思った私は一抹の不安に駆られた。父への文書を勝手に読むのは気が引けたが、躊躇するよりも早く私の不安感はそれ以上に膨張していた。
「診断結果」
私にはその紙切れに書かれている数字や語句は殆ど理解できないものだったが、医師の直筆と思われる一文を呼んだところで不安は爆発的に膨れ上がった。
「癌細胞の肥大化と転移が強く疑われます。」
暫くなのか長らくなのかわからないが、いくらかの時間が過ぎた頃、父が帰ってきたので私は即座に問った。これはどういうことかと。
私と父が暫くの沈黙を経て会話を始めようとすると電話が鳴った。父が応対したその電話は結構な時間続き、私の不安と苛立ちを増幅させた。電話を終えた父は、覚悟を決めたような趣きで私の向かいに座った。
こんなにも長く深く父と…いや家族と会話をしたのはいつ以来だろうか。父の癌はかなり深刻な段階であり、余命はおよそ半年から一年であること、そして今すぐに入院が必要なこと。これらはちょうど今の電話で医師に告げられたそうだ。父はまた、もし出来ることなら私が高校を卒業するまでは隠しているつもりだったとも述べた。
父が入院してから三ヶ月ほどが過ぎた頃だ。私の同席のもと、父は担当医から三つの選択肢を突きつけられた。一つ、このまま0に限りなく近い可能性を信じて苦しみの伴う治療を続けること。二つ、あと一月程の鎮痛剤を使えば動ける期間に自分のやりたいことをやること。三つ、一切の治療を諦めて住み慣れた自宅で穏やかに過ごすこと。父は三つ目を選んだ。私が異論を挟む間もなく、また異論を挟めないほど力強く。
家に帰ってきてからの父は自分で在宅介護の援助を受けながら、買い貯めたレコードやCDを手当たり次第に聞くことがすべてとなった。だが父はそれに満足していたため平穏な時期が少しだけ流れた。私も、「父の病気」が占めるウエイトが多少減ったことで、精神的にも時間的にも自身のことに打ち込めるようになった。だが、そんな温和な時は長くは続かなく、父の容態は刻々と悪くなってきた。次第に会話にも支障が出るようになり、私の呼びかけにも反応しないことが多くなってきた。そしてある日、父は吐血をした。
私は直ぐに救急車を呼んで自分も病院に同行したところ、父の担当医に私だけが呼ばれてこのような質問を受けた。父ははもう何週間も前から吐血を含む苦痛を感じていたのではないかと。私はそのことについては思い当たる節が無かったので、その旨を正直に伝えた。医師が父に再入院を勧めたときに父はものすごい形相で反発した。呂律が回っていなくて何を言っているのかは殆ど解らなかったが、私はふと気がついた正常人格がなくなってきたとすら感じていた父が実は太く強い一本の柱の基で言動や行動を行っていたことに。自宅療養を強く望んだこと。臆面も無く介護を業者に依頼をしたこと。そして私の高校卒業まで自身の病気を隠し通そうとしていたこと。さらには今回、再入院を拒否していること。自宅では苦痛を抑えるための処置すら出来ない。医師の話では相当な苦痛を感じている父にこれ以上の苦しみを味合わせることは出来ない。だが父の意思は尊重したい。
私は父を入院させることにした。だが、それは自宅近くの小さな病院であり、癌治療の専門医などは当然いない。だがここなら私の負担はそれほど大きくはならない。そして、苦痛を抑えるための処置だけならこの病院でも出来るのではないかと踏んだ私は渋る病院に無理を言って父を入院させてもらった。
父が死ぬ二週間ほど前だろうか。殆ど正常な思考と言動をしなくなった父から「お前、就職は決まったのか?」と問われた。私は大学へも進学するつもりだったし、それは父も知っていたことだ。だが、私はそれを説こうとは思わなかった。暫く沈黙していると父は全く同じ質問を再度投げかけてきた。そして続けてもう一度…。私は父の部屋に大量の音楽CDがあったことや時折父がサクソフォンを吹いていることから、ミュージシャンが父の若い頃の夢だったのではないかと推測していた。そこで、私は父を喜ばせようと思い。「実は俺、ミュージシャンになるんだ」と言ってしまった。すると、父は満面の笑みで私に言った。「そうか、ミュージシャンか。音楽はいいぞ」と。私は嘘を言ってしまったことを少しだけ後悔したが、その時は始めて父の心からの笑顔を見ることが出来て良かったと、そう思っていた。
当時は尊厳死という概念は存在しなかったので、生命力の限界まで長生きさせることが半ば病院と医師の義務かのようになっていた。そのため父は、意識を失って自力では呼吸すら出来なくなっても、喉に穴を空けられパイプを通されて生きていた。父が意識を失ってから三日の後、私が父の傍らでうつらうつらとしていると父の心拍の異変を伝えるアラームがなって医師が飛んできた。私が父を覗いてみると、目が開いていて唇が上下しているのが見えた。声帯に空気が送られていないので発声することは不可能だ。それでも父は必死になって何かを訴えようとしている。おそらく最後となる父の言葉を聞き取ることができない心苦しさに苛まれていると、看護婦の一人が「みず」と言っているのではないかと言った。言われてみれば…いや間違いない。私は医師に喉が詰まるので水は決して与えてはならないと厳命されていたので当然躊躇し、医師の方を見た。ほんの少しの沈黙の後、医師は言った。
「私は医師ですので水を与えることは出来ません。ですがあなたは家族なのでそれを決めることが出来ます。」
私は悩んだ末にスプーン一杯の水を与えることにした。ほんの僅かな水を口に入れた父は、以前見せたものに劣らないほどの笑みを浮かべた後、むせ返った。音のしない咳と異常を知らせるアラームの機械音が対照的だった。
翌日、父は眠ったまま死に、私は一人となった。我家には親交の深い親族もなく、社会を知らない私はこの世界でどのように生きていけばよいのか。大海原で羅針盤を失ったかのような状況に私は絶望しかけていた。そんな私の頭にふと父の笑顔が浮かんだ。父が何かを喋っている。そう、あの時はなんて言っていたのか。私がミュージシャンになるという話をしていたのではないか。
父は死んだが、その存在は未だにこの世、とりわけ私の周りに偏在しているかのようだ。だから私は父についた嘘がまだ生きているように思えて仕方がない。
「ミュージシャンになろう」
不器用な息子が不器用な父のために。
私の嘘、父の夢