ある殺し屋

 ある殺し屋が、私に交換殺人をしないかと持ちかけた。その男は「お前が憎む人間を消してやるから、俺の女房を代わりに消してくれ」と言って10万円ほどの紙幣を握らせた。
 私には憎む人もいないし、いくらお金を積まれても殺人なんてもちろんする気は無かったから断った。そして帰ろうとして背中を向けた瞬間、男の冷たい声が掛かった。
「テラシマ部長を殺してやろうか」
 私は発せられたテラシマの名を口の中で反芻すると、渡された紙幣をぎゅっと握りしめて男を振り返った。殺し屋は口許に不敵なものを浮かべる。
「本当に本当にテラシマを殺せるのね?」
 テラシマ。それは私にパワハラやセクハラを繰り返す最低最悪のクソ上司。そして、そいつによって私はクビにされた。自分のミスを私に押しつけるという形で。
「俺は腕利きだ。ヤツは間違いなく仕留める。お前は女房を殺れ」
 男はそう言って私に写真を突きつけた。幸せそうに微笑む、女性の写真だった。年齢は30歳前後……この男の妻にしては意外と若い。
「了解。じゃあテラシマの容姿を説明するわ。中肉中背で腹はメタボで顔は――」
「ヤツの顔なら知ってる。俺もその男には世話になったからな」
 男は吐き捨てた。そして続ける。
「あの汚い豚男と俺の妻は浮気してたんだ。二人とも地獄に送ってやる」
「派手にやっちゃって。……いいえ、やっぱりテラシマは私が殺すわ」
 私はテラシマが怯えて命乞いする姿を想像し、思わず笑みがこぼれた。

***

 ――大きな溜息を吐きながら、私は続きを催促するように点滅するカーソルをぼんやりと見詰めてキーボードから手を離した。側にあるマグカップを取ってコーヒーをすすった。冷たい。
「あなたぁ、新しいコーヒー入れてくれない?」
 コンピューターに向き合ったままそう叫ぶと、画面にうっすらと夫の影が映った。
「悪いわね。新作書いてたらコーヒー冷めちゃって」
 夫の影が、足音が近づく。
「なぁ……俺会社辞めたんだ。でも心配しないでくれ、すぐに新しい職についたからな」
 私は背後から聞こえる夫の言葉に驚いて振り返った。
「辞めたなんて嘘でしょ? 新しい仕事って何よ!」
 夫を見た瞬間その瞬間――
「殺し屋さ」
 艶やかに光る銃口を最後の記憶に、私の人生は幕を閉じた。


<終>

ある殺し屋

ある殺し屋

三作目のSSです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-29

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