幽霊保険
登校中に出会った幽霊はあまりにも、綺麗だった。そして、当たり前のように恋をしてしまった。
「あなた見えるの?」
そう言われて振り返ると、そこに居たのは、幼い子供のような可愛らしい子だった。
上門寺珠理という彼女は、霊媒師という聞きなれない職業をしている彼女に、幽霊保険という怪しいものを勧められた。彼女が言うには僕は霊に好かれやすいらしい。
確かに彼女に出会ってからというもの、幽霊によく襲われる気がする。
でも、彼女が言うには「幽霊なんて怖くない。こわいのは人だよ。」
そう言う彼女はいつも悲しそうだった。
左足の靴下が右足のそれに比べて3cmほど短い幽霊
そこに居た彼女は、じっと僕を見ていた。
僕は彼女を見ることができないが、彼女の目には僕に槍を刺したみたい写っているに違いない。梅雨入り前の6月の風は高原を走る白馬のような爽やかさがまだあった。
不意に誰かに顔を持ち上げられるように彼女の方を見た。目が合った。
同じ学校の制服を着た左足の靴下が右足のそれに比べて短い彼女に目が合った。スカートの裾から下しか見えない。細くて長い足が二本。こげ茶の学校指定のパンプスにその先に真っ白の靴下。凝視しないと分からないが、とても気になる。
左足の靴下が右足のそれに比べて3cmほど短い。
信号が変わった。歩き出した。さすがに下を向いたままでは、彼女にぶつかるかもしれないので顔を上げた。当たり前のように僕は目線を外し彼女の横に見える高校名が書かれた塀の一部を見た。入学式の帰りによく行われる記念撮影みたいに彼女はそこにいた。
彼女は僕を見つめていたわけではない。ただ横断歩道を渡ろうとして信号が赤なだけだ。現に、信号が変わったら、彼女は歩き出した。僕の心が叶えられない思い出に傷心している上に、彼女の髪の美しさが誰かに似ていて雰囲気がとても魅力的に感じたからに違いない。彼女は僕を見てなく、景色の一部として僕が映っていたただそれだけだ。何もドキドキすることはない。
彼女が僕の横を通り過ぎた。下を向いていて顔は見ていないが、左右の靴下の長さが違うのを確認したので間違えない。
「あなた見えるの。」
後ろから聞こえてきた。風に飛んで行ってしまいそうに微かな声だったが、透き通った心地よい音色に聞こえた。
無視をした。聞こえていけないものがはっきりと聞こえたんだ、人として当たり前の反応だ。
「ねえ、無視しないで。」
また、後ろから声がした。先ほどより明るく、入学したての中学生ぐらいの声に感じた。
「ねえ、だから無視しなでって。」
泣いているようにも聞こえる震えた声で叫んだ。
全くしつこい幽霊だ。横断歩道を渡って学校に敷地の中に入ったのにまだついてくる。こんなにも周り人がいるのに、どうして僕なのか。どうして、見てしまったか。これまで一度も幽霊とかそういう類のものには全く縁がなかった僕が。
幽霊はこんなにもしつこく絡んでくるのか。なんて恐ろしいんだ。走って逃げようと思ったが、ここで突然走り出したら、幽霊に「やっぱり、見えてるだ。」と証明することになってしまう。
散々無視をしているんだ、人でも激怒することを幽霊にしたら殺さるんではないか。
しかし、このまま無視し続けたらどうなるのか。ずっとついてくるに違いない。授業中話しかけてきたら集中できない。トイレもついてくるのか。あんなに美少女の幽霊に見られながらなんてなんか興奮するなあ。何を考えてるんだヘンタイ。
相手は幽霊だ。何をされるかわからないし、簡単に殺されてしまうかもしれないそれに後ろを振り返ったら終わりなんだ。振り返らなくても、鏡を見たり、夜の窓を見たり、水たまりを見ても終わりなんだ。これからそんな恐怖が続くぐらいならいっそ振り返って楽になった方がましな気がしてきた。
誰かが肩を叩いた。肩の力が抜け何も考えずに後ろ振り返ってしまった。
やってしまったと思ったがそこにいたのは制服を着た誰かだった。さっき幽霊だと思っていた、黒髪長髪美女ではなく、黒髪長髪幼女だった。
「何で先から無視するの。」
もちろん幼女ではない。だって高校の制服を着ているのだから。童顔の可愛らしい女子高生だった。
「もしかして、幽霊が話しかけていると思った。」
身長は150㎝ぐらいで、長い黒髪を後ろでくくり、前髪をブラウンの髪留めで留め左半分だけおでこを出している。
「ねえ、聞いているの。さっきから人の顔をじろじろ見て。言っておくけど私は幽霊じゃないからね。それともなあに、わたしのあまりにもの可愛さに見とれてた。」
くりくりと子犬みたいな目、ぷくっと柔らかそうな頬っぺた、子狸みたいな丸い輪郭、加えて健康的に焼けた小麦色の肌ときたらこどもっぽくてとてもかわいい。
ぼうと彼女を見た。秋の楓の木を数日の定点カメラを超高速で見ているみたいにだんだん赤くなってきた。つられてこっちも恥ずかしくなる。
「笑えよ。笑ってよ。冗談で言っているんだから。」
目がウルウルと今にも泣きそうになりながら言った。
「あ、ごめん。そういう性格なのかなと思ってちょっと引いちゃって」
「ちょっと失礼だよ。初対面だよね。初めて会う人に言うようなことじゃなくない。」
「ごめん」
やっぱりそういう性格なんだなあ。人懐っこい壁を作らない。
「そんなことよりあなた見たでしょ。」
僕の隣を歩いて聞いてきた。彼女は話す時にしっかりと目を見てくる。初対面だけどモテるなこの子と思った。
「何にも見てないけど。」
手を団扇みたいに振り否定した。
「信号待ちをしているときに絶対見たよね。とぼけなくていいから。見たんでしょう。」
「だから、何も見てないって。」
「そのセリフが見たって言ってるのと同じなの。」
玄関に入ると自信満々な彼女を巻くように、走って下駄箱に行き一瞬で靴を変えた。しかし廊下にはもう彼女が居た。悪魔の赤ちゃんみたいな無邪気な笑顔を僕に目一杯注いでいた。
僕の横を散歩の時の犬みたいに付いて来る。
「何も見てないって何か疚しいものを見たから言う言葉なの。だって、私は、ただ見たって聞いているだけで、見たものが何か一言も言ってないよね。それなのに、どうして何も見てないって言えるの。絶対言えないよ。」
「そんなことないと思うけど。」
語尾がとても弱々しい。
「何が」
間髪入れずに言われ怖いと思ったが、あくまでも冷静に答えた。
「いきなり、見たでしょって言われたら反射的に見てないって言ってしまうことだってあっても不思議じゃないと思う。」
「反射ねえ。」
僕の心を舐めるように言う。バカにされている気がした。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。隠す必要ないよ。だって、見てない人に見たって言わないから。」
彼女が足を止めた。なぜかそれに従い僕を止まった。いつの間にか僕が犬になっていたようだ。
「もう一回聞くよ。今度は優しく聞いてあげる。あなたは幽霊を見ましたね。」
僕の前に壁のように立ちふさがった。10cm以上差があるのにぬりかべぐらいの大きな圧力を感じた。怖い。幽霊よりも怖い。
「はい、僕は幽霊を見ました。」
洗脳されたように当たり前のようにそう言った。というよりも、飼い主に従ったとても頭の良い犬になった気分だ。
「よし、良い子。イイ子。」
今にも撫でてきそうなそんな言い方だ。
「私の名前は、上門寺珠理。まあよろしくね。あなたの名前は怖がりの眼鏡クンでいいかなあ。」
「いや、やめて。そんな名前じゃないから。」
当然でしょう。太陽は東から登って西に沈むでしょうみたいに、言ってきたので思わず、うんと言いそうになったが、頑張って否定した。
「分かりやすくていいと思うけど。じゃあ何。早く言って。」
子供番組の司会のお姉さんみたいな笑顔で言った。
「佐藤達也。」
「なんて普通の名前なの。いったいその名前この国に何に居るの。絶対一万人はいるよね。一万はいるよね。」
くそつまらないギャグを言われたあとみたく、彼女はふんと鼻で笑った
「そんなこと僕に言われてもしょうがないし。僕が幽霊見たってわかるってことは上門寺も、幽霊見たってこと。」
「はあ、呼び捨て。私ちびだけど、3年だよ。18歳なんですけど。それに初対面だよね。」
黒目を小さくして僕を睨む。笑っていると天使みたいなのに、怒ると鬼そのものみたい。
「ごめんなさい。」
きゅんと肩を縮めた。叱られた犬みたいに。
「まあ、別に呼び捨てでもいいんだけどね。でも絶対私のこと、中学出たてだと思って舐めていたでしょう。そういうのいつもだから、初めにバシッと言いたかっただけ。しょうがないよね、私って可愛いし、お人形さんみたいだから。」
セリフみたいにあまりにもすらすらと言うから、
「そうだね。」
と棒読みした。
「だから、引かないで。傷つくから。」
なぜか泣きそうになっていた。それを少し可愛らしいと思ってしまった。
「幽霊を見たのは初めて?」
彼女が廊下の壁にもたれ掛かり、彼女に対して直角に立ち話を聞いた。いろいろなことで彼女を直接見ることができない。
「これから大変だと思うから、これ私の連絡先。言っておくけど、ナンパじゃないからね。」
そう言って写真ぐらいのサイズの白い紙を渡してきた。そこには彼女の名前と電話番号、メアドが書かれていた。それを無理やり右手に握らされた。
「大切なことだからよく覚えときなさい。幽霊なんかよりも生きている人間の方が何倍も恐れしいことを。すぐにその理由がわかるよ。何かあったら連絡してね。まあ、その何かは、今日か明日には起こると思うから。」
意味ありげに含み笑いをした。
「じゃあね。」
と手を軽く振って去って行った。朝日のような優しい笑顔にドキドキするしかなかった。夢から覚める瞬間みたいに一度目を閉じ、もう一度目を開けた。宇宙の果てみたいに真っ黒な髪を一本一本生きているよう揺らしている彼女を見た。
締め付けるような痛みを胸に感じ、右手で制服の第二ボタンあたりを強く抑えた。
霊媒師
学校から帰ってすぐにチャイムが鳴った。部屋に入りカバンを降ろす前に鳴った、まるで何処かから監視されているようで怖かった。しばらくじっとしていた。
でも、間髪入れずに何度も鳴らされたら、しょうがなく出ることにした。
ドアを開けると黒のスーツのビジネスマンと見るからにわかる長身の男が立っていた。訓練された精巧な作り笑いでこちらを見た。
「すみません。私、第一幽霊保険会社の田中田の申します。」
そう言って黒い名刺を渡してきた。そこには、白い文字で聞きなれない怪しげな会社名と名前が書かれていた。それを受け取ると隙間なく言った。
「佐藤達也さんでよろしいでしょうか。今少々お時間をいただきあなた様にとってとても大事なことなので、聞いていただきたいのですが。この度は、佐藤様が幽霊をご覧になったと伺いまして、ご訪問させていただきました。確認ですが、幽霊はご覧になりましたか。」
「まあ、ハイ。」
戸惑いながら体が勝手に反応した。
「どのような幽霊でしょうか。見た目や格好具体的に教えて下さい。」
何だこの人。どうしてこの人は僕が幽霊を見たことを知っているんだ、今頃なって気が付いた。彼に対して嫌悪感しかない。だがここは早く帰ってもらうために質問されたことをただ答えることにした。
「見た目は女性でした。とても綺麗で高校生ぐらいでした。あと、左右の靴下の長さが違いました。」
覚えていた限りのことを棒読みした。
「ありがとうございます。どうやら、女性の幽霊のようですね。」
まあ、そう言ったからね。見た目は女性と。彼は年をとった若手役者みたいな演技かかった言い方だ。
彼はカバンの中から、何か本のようなものを取り出してきた。ゼロから分かる幽霊保険の全て。とポップなデザインで書かれていた。どうやらパンフレットのようだ。
「弊社はその名の通り幽霊が起こしたこと専門の保険会社であり、多数ある幽霊保険会社の中ではおかげさまで顧客満足度が25年連続ナンバーワンであります。ところで、幽霊保険とはご存知でしょうか。」
僕は首を横に振った。
「誠に勝手ながら説明させていただきます。幽霊とはご存知の通り見える人見えない人がいます。あなた様のように見える人は残念ながら極少数でありまし、幽霊の存在を否定する人が多数いらっしゃいます。そのような方々には、幽霊に襲われて怪我を負わされた、家で幽霊が暴れだし大切な家具が壊れたと申し上げたところで、信じてもらえません。さらに慰謝料や賠償金は幽霊に請求するなんてことは叶いません。そこで必要となるのがこの幽霊保険です。」
そう言って週刊誌ほどの厚さがあるパンフレットを開いて見せた。
「弊社では様々なプランをご用意しております。まずこちらの基本プランですが、対物、対人保証に加えて除霊、占い、霊との意思疎通など私ども独自のサービスを用意させて頂いています。ちなみに、対物、対人とは幽霊から受けた被害だけでなく、通常のケガや病気にも適用されます。この基本プランに死亡保険をプラスすることもできます。その場合も幽霊以外にも適用されます。
さらに弊社独自のサービスとしまして、家族全員に適用される、幽霊家族プランと言うものも用意しております。こちらに入られますと家族全員が同じサービスを受けられるものとなっております。通常の幽霊保険会社ですと、幽霊を見ることが出来る本人様しかサービスを受けられませんが私どもは特別に国の許可を得ていますので、可能となっております。」
首を時々縦に動かしながら彼の話を聞いた。今まで全く何を言っているのか分からない。彼はさらに続けた。
「弊社はお客様がいつでもサービスが受けるよう24時間で対応させて頂いています。幽霊と言えば夜とイメージがあると思いますが、昼夜問わず心配が伴っています。そこで、24時間365日いつでもお電話一本で最短5分で駆けつけさせて頂きます。こちらのサービスがお客様に大変好評です。その他にも多彩なサービスを用意させて頂いておりますので、こちらを見ていただくと恐縮です。ぜひとも、弊社を検討させて頂きたいと思います。」
はいと小さな声で頷いた。とても満足そうだった。
「失礼ですがおいくつですか?」
「17です。」
「そうですか。ぜひとも、ご家族の方に相談していただきますと恐縮です。あなた様にとってとても大事なことなのですので。あと、こちらのアンケートに記入していただくと全員にこちらの新幽霊大辞典をプレゼントさせて頂いています。幽霊の対象方法、幽霊とのコミュニケーションの取り方、幽霊に人気のおしゃれなお店の情報など大変お役に立てるものとなっておりますので、是非ともご記入を。アンケートはこちらの封筒に入れて切手は要りませんので、封をしてそのままポストに投下してください。本日はお時間を割いて頂きまことにありがとうございます。では、失礼致します。」
玄関の外に出てもう一度頭を下げて帰った。
ふうと息を漏らし、立ち竦んでいるとすぐに、またチャイムが鳴った。
「こんばんは、世界中央幽霊生命保険です。」
頭が痛くなってきた。玄関の扉閉めておけばよかった。
それから2、3人の相手を処理した。もう完全にマヒして、幽霊と言うのは地震と同じようなものなんだなあと、外に出て月に向かって呟いてしまった。そのとき、ポストがパンパンになって大量の紙が外に漏れていたのを見た。それらは全て幽霊保険会社の資料と名刺だった。それらを全て抱えて自分の部屋に持っていき机の上にぶちまけた。
そして、すぐに彼女に電話した。
すぐに出た、まるでいや分かっていたのだろう。
「もうしてきたの。早くない?まあ、明日でいい?放課後あなたの教室行くから。」
とても機嫌悪そうな声だ。
「あれは何ですか?幽霊保険って聞いたことないけど。」
「聞いている?今からお風呂入るの。じゃあね、バイバイ。」
一方的に電話を切られた。たった10秒で通話は終わってしまった。はあと大きなため息が漏れた。
死ぬようにベッドに倒れた。制服を着たまま布団の上で寝てしまった。
起きたらもうすでに日が昇っていた。とても身体が重たかった。まるで霊に憑りつかれたように。
「それなあに?トランプ?」
珠理ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「名刺。」
20枚の名刺を扇みたいに広げ持ったまま、ダラァと机に突っ伏した。本当に疲れた。
「知ってる。いつものことだもの。」
「いつものことなの。」
机に向かって言っているから、グモグモと彼女に聞こえているかどうか分からない。
「いつものこと。私に相談してくる人たちは、初めは必ず大量の名刺を見せて言うの。これ何って。」
とても楽しそうに聞こえる。それと同時に疑問が湧いて来た。
「あなたって一体何者なんですか?」
身体を起こしてかしこまって彼女に言った。
「私は、見習いの霊媒師。」
聞き慣れない言葉にポカンとしてしまった。それを見た彼女がううんって感じで頷く。
「何それ?」
僕が言った。
「幽霊と人を繋ぐ夢のような職業かな。それ以外は今は秘密。」
そう言って自分の唇に右手の人差し指を立てた。言えないというジェスチャーらしい。
「あ、そう。」
「何それ聞いておいて、私に興味ないの?」
顔を近づけて来た。しつこく聞いて来ると思っていたらしい。だったら絶対に聞いてあげない。
「ないと言えばウソだけど、別に秘密を無理に聞こうとは思わないからね。そんなことより僕って本当に幽霊見たの?」
「はあ、今さら何言っているの?そんなに現実が信じられないの?見たんでしょう。」
脅しのように聞こえた。はいと言わされた。
「見たけど、見ましたけど。でも、それ以来一切見てないし。何かの間違えじゃないかなあ。」
「なんて、甘い願望。いい、幽霊を見るには、いろいろと条件があるの。疲れていたら見やすいとか、見やすい場所とか時間帯があるとか、霊感が強い人と一緒に居るとか、そういうのが重なって見える場合があるの。たまたまそれが重なっていないだけよ。」
「じゃあ、僕が幽霊を見たのは、珠理ちゃんがいたから、偶然見えたんだ。」
嬉しそうだな、自分の声を聴いて純粋にそう思った。
「それは、あると思う。私は、普通の人の何十倍も霊感強いから、見えやすくなっていると思う。」
「やっぱり。」
なんか勝った気分だ。
「なに、笑っているの?言っておくけど、私と一緒に居て見えない人には絶対に見えないからね。見えるってことは、見えるってことなんだからねえ。」
彼女は興奮していた。何を言っているのかよく分からず、首を傾けた。彼女がさらに言った。
「それに、達也君が実際に幽霊を見えるかどうかが問題じゃなくて、見えることを知られてしまったことが問題なの。」
「何のこと?ていうか誰に。」
「幽霊たちに。」
にやっと彼女が笑った。いたずらに成功した子供のように悪そうな笑顔だ。
「いまさら聞くけど、私があなたは幽霊を見えるってなんでわかったと思う。」
じっと見てきた。目を逸らそうとするけど合わせてくる。あきらめて目を合わせた。白い歯を見せくちゃっと笑っているけど目だけは真剣だ。100点満点の作り笑いそう思った。気をつけないとその目に吸い込まれそうだ。
「僕の視線を見てだと思ったけど、その言い方だと、幽霊に教えてもらったの。」
真似して笑ったつもりが、贋作とすぐにばれただろう。
「うん。バカそうだけど以外に頭いいんだね。正しく言うと幽霊が話しているのを聞いただけどね。」
目を大きく開け驚いたふりをした。心の底から彼女は僕をバカにしてくる。話すのがとても嫌になる。
でも、彼女の世界に肩まで浸かりたいと思っている自分も居た。彼女は幽霊以上に不思議な存在だ。
「幽霊の声が分かるの?」
「分かるのは分かるの。あと、話せる幽霊もいるしね。達也君はそこまで霊感強くないから無理かもしれないけど。」
とても適切に答え、さらにこちらが話しやすいように冗談ぽく言う。完全に彼女のペースだ。
「別に、話したくないよ。幽霊なんかと。」
嫌々答える。話の内容が嫌なだけ、そう感じるようになってきた。彼女は心理学でも勉強しているのか?
そう思うぐらい感情をぐらぐらと揺さぶられ、思っている以上に気を許してしまっていた。詐欺師のやり方だ。僕はそう思った。
突然彼女が軽く叱りつけるように語尾を荒げて言った
「幽霊なんかとはなによ。膝の上に、幼稚園ぐらいの少女乗せているくせに。」
慌てて椅子から飛び立った。背もたれに足が引っかかりイスごと倒れ尻もちをついた。彼女も慌てて立ち上がり見えない何かを優しく掬った。ミニ柴を抱えるみたいな腕の形をして、何もない何かを見つめていた。
「もう、何しているの。可愛そうじゃない。」
軽く睨みつけて来た。大丈夫?と言ってくれるのを期待した自分が悲しくなってきた。
「何の話しているの?」
胸の前の体から少し離した所で手のひらを体側に曲げ組んでいた。腕は軽く曲げて肘から先は水平でそこに何か乗せることが出来そうだ。僕には何も見えずただ、腕と体の間には彼女のふっくらとした胸で膨らんだ制服が見えるだけだ。
ゆっくりとそのまま座った。左腕で何かを包み込んでいて、右手は顎の近くで手のひらを下にして浮いていた。
「言ったじゃん。膝の上に幼女が座っているって。急に動いて床に頭ぶつけたじゃん。大丈夫だよ。痛いの痛いの飛んでいけ。」
彼女は何かを撫でている。見えないけど分かった。
「え、そこに居るの?」
彼女の左腕のあたりに手を置こうとした。
「あまり、こっちに来ないでね。彼女あなたのことすごく睨んでいるから。噛みつかれるかもしれないよ。」
慌てて手を引っ込めた。
「幽霊ってそんなに怖いの。怖くないっていったのに。」
震える声で言った。彼女は北国の1月の風のように睨んだ。
「あなたが彼女を床に投げ捨てたからでしょう。そんなことして怒らない方が不思議だよ。幽霊のことあなた何も知らないし、それに知っているその知識ってほんの一部の悪い霊のことだけ。多くの幽霊たちは良いものなの。良いものっていうか純粋。本当に純粋。楽しい時は楽しく嫌なものは嫌。嘘をつけなく、全てを信じて何も疑わない。」
愛猫を膝の上に乗せているみたいに、手を動かし時折それを見ながら話した。ただ、僕にはそれが見えないのでただの奇行にしか見えない。さらに彼女が続けた。
「ひどい幽霊もいるけど、それは、人間も同じことでしょう。集団があればそこに悪いものは絶対にあるに決まっているわ。そこに良いものがあるから。それに一般的に悪霊と言われているのは、人間だったのが幽霊になった場合。それは、とても稀なケース。稀なケースだけど有名だね。多くの人たちの幽霊信じるか信じないとか、心霊スポットに居るのはこの場合のこと。その幽霊たちは強いからね。霊感がほとんどない人たちでも見えるときがあるから、そればっかり目立ってしまうの。」
その悲しそうな表情は幽霊に同情しているからだろうが、僕には一切理解できなかった。怖いものは怖いただそれだけだ。
「ほとんどの幽霊は私たちに何もしないよね。」
彼女がふふと静かに笑い始めた。そして僕の頭の上に視線を持って行った。突然すぎて憑依されたのかと思い、恐る恐る聞いてみた。
「後ろに誰かいるの。何笑っているの?」
「いや、後ろにおじさんが面白くて。私の話にずっと頷いているの。それで、頷くたびにあなたの肩の上に当たっているの。たぶん、わざとでしょう。私を笑わせようとしてね。」
全然おもしろくない。さっきから、鳥肌が止まらない。
「これで分かったでしょう。幽霊は見えない人には絡まないの。幽霊にも人間を見える幽霊と見えない幽霊もいるけど、こんなに絡んでいることは、達也君のことを確実に見えているってこと。幽霊が見えるのは霊感がある人だけ。今、達也君は確かに見えてないけど、幽霊に見えているってことは、分かるよね。」
分かりたくないけどそうしか考えられない。幽霊って思った以上に人懐っこいんだなあ。なんてカワイイんでしょうと思うことは到底できそうにない。
「まあ、こんなに絡んでくる幽霊は珍しいだけどね。よかったねえ。」
無邪気に笑った。嫌味で言っているのではなく、本当に良いことだと思っている顔だ。だからとても彼女は厄介だと思った。
「良くない。」
彼女を睨みつけた。八つ当たりだと思ったが特に彼女は何も反応しなかった。珠理ちゃんは相変わらず膝の上を不自然にあけて、手を動かしていた。
「ねえ、こっち来て。」
手招きした。そうされても一歩もイスから動かなかった。
「大丈夫よ。もう怒ってないから。ねえ。」
お願いするように、こちらに手を合わせてきた。そこまでされると心が動く。それに彼女がわが子のように大切に膝に抱えている幽霊に見て触れてみたいそう思っていた。
どうしようか迷っていると、早くしてと彼女に急かされたので慌てて立ち上げり彼女のところへ行った。
「気を付けてね。膝の上に彼女が寝ているから。」
彼女の後ろに周り込んだが何も見えない。全て彼女の演技なのではないのかと思っていると彼女が言った。
「私の肩に手を置いて。」
ダークブラウンのシュシュで肩甲骨まである長い髪を一束にした。
戸惑ったがここでぐずぐずしていると嫌らしい想像しているのと誤解されそうだから、すうと彼女の右肩に置いた。
制服の柔らかさが彼女の肌と温もりと勘違いしドキドキした。
「可愛いでしょう。チーちゃんだって。」
お母さんのような優しい声で言った。彼女の長く真っ直ぐなまつ毛の先に背中を丸めて彼女にしがみつきいている幼女が寝ているのが見えた。紺色と白の横の縞模様の半そでに、白と黒チェック柄の長ズボンを履いていた。
年齢は3歳ぐらいだろう。幽霊には見えない。ぷっくりとしたほっぺに赤みがあり、触れれば温もりを感じそうだ。
夏の太陽に干したてふとんと甘酸っぱい汗のにおいが混ざった香りが、鼻に染みてくる。その匂いに気が付いたころには、舐められそうなほど近くに彼女の耳があった。
勢いよく彼女から離れた。
驚いた様子でこちらを見る彼女の膝は不自然にスカートが折れているだけで先ほど見た彼女は居なかった。
珠理ちゃんと目が合った。最初から見てないみたいに黒板のシミをじっと見つめた。そっと下を向いた彼女を視界の端に入れながら。じんわりと耳が熱くなった。
「珠理ちゃんって大変だね。幽霊に絡まれて。」
沈黙がいたたまれずに言った。喉に何かが詰まって最初の5文字を言った後、一度咳をして言った。余計に緊張してしまった。
「こんなことは初めてよ。話しかけられることはたまにあるけど、こんなに触れ合ったのは初めて。」
何も変わった様子は声から感じなかった。別に彼女には伝わっていなかったらしい。ほっとしたがちょっと悔しかった。
「人間に触れる霊って少ないの。いくら、私が霊感が強くても。じゃないと学校の廊下なんて歩けないわ。もう帰らないと。学校にはたくさんいるからね。」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。チーちゃんはしっかり抱かれているのだと見えないけど分かる。こっちを振り返らず教室から出た。慌ててカバンを持ち、彼女が座っていたイスを元に戻して後を追った。
教室に出ると彼女は誰かと話していた。珠理ちゃんより少し背が高く体格が良い。決して太っているわけではなく女性らしく必要なところに適切な量だけ脂肪が付いている。形の良い耳が見えるほどのショートヘアーがとても似合っている。少し丸身を帯びた顔には高い鼻と薄い唇が最適な場所にある。目が猫のような形をしていて珠理ちゃんを見ているときの目力が強い。もし彼女を描いて説明するならば多くの人は、まずその目を一生懸命に書くだろう。あと、笑うと見える小さなえくぼも。
「綾香。」
珠理ちゃんが彼女の肩を叩いて、こちらを指さした。ふたりがとことこと寄って来た。
「あなたが、達也君?いいなあ、幽霊見えるんでしょう。私、珠理とずっと一緒に居るのに一度も見たことないの。」
思った通りの人懐っこい声で僕に話しかけてきた。話している間も僕をしっかり見て、彼女の瞳に落ちてしまいそうだった。
「いい時間だから。見えるかもよ。」
珠理ちゃんのその発言と笑顔に全身の毛が立った。綾香ちゃんは慣れているのだろう笑顔で応えていた。まるで今日あった楽しいことを聞いてあげているみたいに。僕たちはゆっくりと玄関に向かった。彼女たちが前を歩きその後ろをついて行った。ふたりが仲良く話すのがとてもよく見える。
「それより、何抱えているの?」
綾香ちゃんが言った。
「ああ、これ?少女の幽霊。すごくかわいいよ。ねえ、達也君。」
そう言って珠理ちゃんがこちらを見た。ドキッとしたがすぐに彼女が前を向いた。
「いいなあ。幽霊見たい。」
あのケーキおいしそうと聞き間違えそうなテンションで言った。
だったら変わってあげようかとは言えなかった。
「今、教室に何人いた?」
不意に珠理ちゃんが言った。
「え、ひとりだったけど。他に居た?」
僕が答えた。綾香ちゃんに同意を求めたはずだが応えてくれなかった。明らかに彼女の顔が曇っていた。もしかして誰も居なかったのか。
「何の話、教室って何?そこ、中庭でしょ。」
彼女の言葉に愕然とした。あふあふと口を動かしているのを珠理ちゃんが見てきた。何とも意味ありげねな含み笑いなこと。
「戻って見に行ってみれば。」
後ろを振り返ることも怖くてできない。幾分、綾香ちゃんよりを歩きだした。よく晴れた真冬の朝よりも身体が縮こまっているのが分かる。不意に誰かに後ろから声を掛けられたら、彼女たちに抱き着いてしまうだろうと本気で心配した。
「今まで幽霊なんて見たことないのなんで?」
恐怖と不満をぶつけるように珠理ちゃんに聞いた。
「今までは気が付かなっただけかもよ。それに今見えているのは私と一緒にいることと、あと時間帯かな。」
終業式終わりの小学生みたいに微笑みながら言った。
「私は見えないのに。」
綾香ちゃんが不満で口を膨らませて言った。その顔をやめてすぐに振り返った。
「達也君は幽霊が見えるんだね。」
目をキラキラさせて、彼女は僕を見た。むしろこっちがその目をしたい。いいなあ、見えなくて。
階段の踊り場には男子たちがたむろしていた。全員同じユニフォームを着ているから、部活終わりなのだろう。そこの横を通ると、制汗剤の鼻を刺すような臭いがした。
「学校って幽霊いっぱい居るのよ。今この廊下に10人ぐらいかなあ。何人見える?」
「5人。」
これには自信があった。だってさっきからチラチラと目が合っているのだもの。前を三人の女子生徒がこちらを時々見て、今ふたりのカップルの横を通った。
「ひとりも居ないよ。私たち以外に。」
また寒気がした。6月と言うのにカイロが欲しいぐらい。
「歩くの大変なの。ぶつかったりしちゃうからね。」
笑いながら彼女が言った。何がそんなにおかしいのだろう。
「珠理ちゃん。ときどき、変なことするよね。ときどき止まったり、壁にぶつかったみたいに突然吹っ飛んだり。私は知っているから大変ねえと思えるけど、知らない子たちは変な顔するのよね。しょうがないけどね。」
確かにこれだけ幽霊が見えてさらに触ってしまうと生活は大変だろう。見えない人たちには到底理解できないし、多くの人は幽霊とは触れられないものだと思っているだろう。幽霊と話しあやしている彼女の行動は他の人からしたら気味が悪いに違いない。
もし、僕も見えていないならば、そのうちのひとりだっただろう。そう思うと彼女の横顔を見て寂しい気分になった。
「私の友達は幽霊と幽霊を見える人だけ。」
ぼそりと彼女が言った。でも、彫刻で書かれたみたいに僕の心の中に届いた。
その中の一人になりたいと純粋にそう思った。
「私は見ないけど。」
えくぼを見せて言った。けど、慰めを求めているようだった。
「綾香は特別よ。親友だもの。」
わざとらしく、演技のようにも聞こえたが、それを言われて彼女の瞳はうるっときていた。綾香ちゃんは抱擁を求めたが、珠理ちゃんが慌てて避けた。彼女は空を抱きしめた。
本当にそこには何もなかった。
「何するの?」
その強い目で彼女を睨みつけた。かなり迫力があった。
「ごめん。でも、私、今女の子抱いているの。」
「そうだった。」
スイッチを押したようにパッと彼女の表情が明るくなった。どうやら納得したようだ。その一連のやりとりから彼女たちの仲の良さが伝わってきた。見ることが出来ないのにそれを一切疑わない。珠理ちゃんがそこに居るというから居るのだ。綾香ちゃんが疑う余地など全くない。果たして、それほど信頼関係の出来た相手は、僕には居るのか考えるまでもなかった。彼女たちに嫉妬を覚えたが、微笑ましく思えた。
ほんの少しだけ彼女たちに近づいて歩いた。
前から2人の女子生徒が話しながら歩いてきた。2人とも背が高くスタイルがいい。可愛さだけだと珠理ちゃんの方が上だが、雰囲気がとても派手でいわゆるイケてる女子だ。きゃきゃと猿のような高い笑い声を時折上げている。その空気に押されて綾香ちゃんが珠理ちゃんの後ろに行き少し乱れた1列になった。彼女たちが当たり前のように2列で横を通り過ぎた。
でも、何かがおかしい。直観だが確信はあった。
「どうしたの。あの子たち可愛かったよね。」
僕の様子に気が付いた綾香ちゃんが話しかけてきた。その声に反応して珠理ちゃんが足を止めてこちらを見てきた。何か言いたげな顔をしていたが無視をした。
「今、何人居た?」
綾香ちゃんに話しかけた。
「2人だけど。もっといた?」
「2人だけど。」
後ろを振り返った。もう一度彼女を見た。左の色白の彼女だ。舐めるように下から上へと目線を動かした。後ろから真冬の氷のように冷たく痛い視線を感じた。
「綾香ちゃんちょっといい?」
そう言うと身を少しかがめ彼女のスカートを触った。そして、スカートを見比べた。
「ちょっと何するのよ。」
そう言ったのは珠理ちゃんだった。慌ててスカートから手を離した。キレた鬼のような顔でこちらを見てきたが、やっぱり無視した。
「スカートが違う。てゆうかスカートが二枚。」
ひらひらと揺れるスカートが段段になっていて変にフリルが付いたように見える。それに派手そうに見える女子にしてはスカートが長い気がする。
よく見ると靴下の少し上の部分だけがまるで日焼けしたように黒い。それ以上は息を飲むような白さなのに。
「重なっているのよ。達也君にはスカートから下しか見えてないのよ。私には、学校の制服を着たもうひとりが彼女に重なってみえるけどね。見えない幽霊なの、人をね。こういうこと結構あるの。」
珠理ちゃんが言った。
「そんな偶然あるんの?」
僕が言った。自分の目が大きく開いたのが分かった。
「別にたまたまじゃないよ。見えてないけど、共鳴し合っているの。彼女はたぶん今までずっと幽霊と一緒にいたんだと思う。そして、これからもずっとねえ。何も害はないわあ。幽霊にも人間にも。互いに存在自体も知らない。それでも、一緒に暮らしている。」
そう言うと再び歩き始めた。彼女の言い方はとても説得力があり、不安で壊れそうな僕を支えてくれる。
もっと知りたいと思った。幽霊についても彼女についても。
「達也君も私たちの部活入るの?」
綾香ちゃんが話しかけてきた。フォーメーションは元に戻り前2の後ろ1だ。
「なんですか?」
「写真部。」
「どうして写真部なの?」
本当に疑問に思った。綾香ちゃんは良いとして、彼女はオカルト研究部以外入ってはいけない気がする。でも、彼女の存在そのものがオカルトで研究対象は珠理ちゃんか。そんな想像をしていると彼女が髪を触手のように揺らしながらこちらを振り返り言った。
「達也君私のカバンからカメラ取って。」
彼女が肩にかけているカバンをゆっくりと外した。なかなかの重さがあった。それを地面に置きチャックを開けた。
「これのこと?」
そう言って小型のミラーレス一眼を取り出した。傷が目立ちかなり使い古されていた。
「首にかけて。気を付けてね。」
珠理の首にカメラのストラップを掛けて、ゆっくりとカメラから手を離した。ストラップが伸び切ることなくカメラが浮いている。
「ありがとう。チーちゃん。」
そういうと何かを撫でた。チーちゃんを撫でた。
「達也君私のカバン広げて、チーちゃん入れるから。」
彼女に言われるまま、カバンを広げ持ち上げた。彼女のカバンには黒の革性の長財布と黒の手帳しか入っていなかった。教科書とか、ノートとか筆箱すら入っていない。
「全部置いてきた。いつものことだけどね。ちゃんと、持っててね。」
珠理ちゃんは広げたカバンの中に両手を入れた。そして、ゆっくりと手をカバンから出した。カバンは確実に重くなった。何かがそこに入ってきた。見えなくも分かった。
ひとつ息をはいて腕をぶらぶらさせている。重たかったらしい。
「おもしろいもの見せてあげる。達也君そこに立ってて。」
珠理ちゃんに言われるまま、廊下の中央に立った。彼女がカメラのレンズを覗きながらだんだん後ろに下がり、5メートルぐらいで止まった。彼女たちの姿が暗闇に消えそうなギリギリの距離だ。
「ピースして。」
彼女のカバンを左肩に掛けて頬の前右手でピースをした。カシャっと音がした。カメラの画面を綾香ちゃんに見せていた。怖いと笑いながらふたりで話している。
彼女のカメラの写真にははっきりと僕の薄い笑顔が写っていた。最新のカメラはこんなに暗くても昼間のように明るく撮れるらしい。たぶん。僕の肩にかけているカバンのチーちゃんは恥ずかしい屋さんなのか、小さな手をパーと広げてカバンから出している。両手でピースするなんてちょっと調子乗りすぎたかなあ。安い作り笑いには似合わない。それよりも後ろでハニカム中年男性は誰?
はっと後ろを振り返った。そこには誰も居なかった。
「こわい、こわい。」
顔の前で手をぶるぶる振りながら言った。
「ちょっと遅くない。鈍いよ。」
綾香ちゃんが僕の肩を一回叩いて言った。
「てか、手が多い。」
「ピースしている手ふたつともあなたの手じゃないよね。左肩にある手と比べて大きさが全然違うもの。それに、手を内側にしてピースしてたしね。」
「そうだよ。そうだよ。」
心臓がバクバクと吐きそうなぐらい活発に動いている。
「珠理ちゃんが撮る写真はいつも何か写っているの。それで、その噂が流れちゃって、部員が一気に減っちゃって3年生は私たち二人になったの。このままだと、廃部になりそうなの。」
綾香ちゃんが言った。
「幽霊の部員はいっぱいいるんだけどね。」
珠理ちゃんはキャッキャッ笑いながら言った。笑えない冗談だ。事実だから本当に笑えない。
「そんな時に、彼女が連れてきたのよ。見える部員たちを。もちろん幽霊を見ることができる部員をね。」
「幽霊が見える部員は写真部に来るの。」
なんと恐ろしい部活だ。幽霊が見えるという弱みを利用して集められるなんて。
「何人いるの?」
恐る恐る聞いてみた。
「私たちを除いて8人いるけど、4人は幽霊部員ね。幽霊の部員じゃなくて、幽霊みたいに消えた部員のことね。」
ややこしい。だが幽霊部員って本来そういう時に使う言葉だから。
「ていうことは、実際は4人なのか。」
「達也君が入るから5人ね。」
「勝手に入れないで。」
「入って方がいいよ。あなたは幽霊のこと何にも知らないから、私と一緒に居た方があなたのためになるでしょう。」
成績の良いセールスマンみたいな口調で言った。それが珠理ちゃんの部員を集めるときの常套句のようだ。こんなにも可愛らしい顔をしているからなおさら恐ろしい。
「それは、考えとくけど、期待はしない方がいいと思う。」
「まあ、よく考えなさい。」
その笑顔にただただ恐怖を感じると同時に、入部決定だと思った。
二人が嬉しそうにアイコンタクトしたのを見逃さなかった。
部活
学校から帰ってすぐにチャイムが鳴った。部屋に入りカバンを降ろす前に鳴った、まるで何処かから監視されているようで怖かった。しばらくじっとしていた。
でも、間髪入れずに何度も鳴らされたら、しょうがなく出ることにした。
ドアを開けると黒のスーツのビジネスマンと見るからにわかる長身の男が立っていた。訓練された精巧な作り笑いでこちらを見た。
「すみません。私、第一幽霊保険会社の田中田の申します。」
そう言って黒い名刺を渡してきた。そこには、白い文字で聞きなれない怪しげな会社名と名前が書かれていた。それを受け取ると隙間なく言った。
「佐藤達也さんでよろしいでしょうか。今少々お時間をいただきあなた様にとってとても大事なことなので、聞いていただきたいのですが。この度は、佐藤様が幽霊をご覧になったと伺いまして、ご訪問させていただきました。確認ですが、幽霊はご覧になりましたか。」
「まあ、ハイ。」
戸惑いながら体が勝手に反応した。
「どのような幽霊でしょうか。見た目や格好具体的に教えて下さい。」
何だこの人。どうしてこの人は僕が幽霊を見たことを知っているんだ、今頃なって気が付いた。彼に対して嫌悪感しかない。だがここは早く帰ってもらうために質問されたことをただ答えることにした。
「見た目は女性でした。とても綺麗で高校生ぐらいでした。あと、左右の靴下の長さが違いました。」
覚えていた限りのことを棒読みした。
「ありがとうございます。どうやら、女性の幽霊のようですね。」
まあ、そう言ったからね。見た目は女性と。彼は年をとった若手役者みたいな演技かかった言い方だ。
彼はカバンの中から、何か本のようなものを取り出してきた。ゼロから分かる幽霊保険の全て。とポップなデザインで書かれていた。
「弊社はその名の通り幽霊が起こしたこと専門の保険会社であり、多数ある幽霊保険会社の中ではおかげさまで顧客満足度が25年連続ナンバーワンであります。ところで、幽霊保険とはご存知でしょうか。」
僕は首を横に振った。
「誠に勝手ながら説明させていただきます。幽霊とはご存知の通り見える人見えない人がいます。あなた様のように見える人は残念ながら極少数でありまし、幽霊の存在を否定する人が多数いらっしゃいます。そのような方々には、幽霊に襲われて怪我を負わされた、家で幽霊が暴れだし大切な家具が壊れたと申し上げたところで、信じてもらえません。さらに慰謝料や賠償金は幽霊に請求するなんてことは叶いません。そこで必要となるのがこの幽霊保険です。」
そう言って週刊誌ほどの厚さがあるパンフレットを開いて見せた。
「弊社では様々なプランをご用意しております。まずこちらの基本プランですが、対物、対人保証に加えて除霊、占い、霊との意思疎通など私ども独自のサービスを用意させて頂いています。ちなみに、対物、対人とは幽霊から受けた被害だけでなく、通常のケガや病気にも適用されます。この基本プランに死亡保険をプラスすることもできます。その場合も幽霊以外にも適用されます。
さらに弊社独自のサービスとしまして、家族全員に適用される、幽霊家族プランと言うものも用意しております。こちらに入られますと家族全員が同じサービスを受けられるものとなっております。通常の幽霊保険会社ですと、幽霊を見ることが出来る本人様しかサービスを受けられませんが私どもは特別に国の許可を得ていますので、可能となっております。」
首を時々縦に動かしながら彼の話を聞いた。今まで全く何を言っているのか分からない。彼はさらに続けた。
「弊社はお客様がいつでもサービスが受けるよう24時間で対応させて頂いています。幽霊と言えば夜とイメージがあると思いますが、昼夜問わず心配が伴っています。そこで、24時間365日いつでもお電話一本で最短5分で駆けつけさせて頂きます。こちらのサービスがお客様に大変好評です。その他にも多彩なサービスを用意させて頂いておりますので、こちらを見ていただくと恐縮です。ぜひとも、弊社を検討させて頂きたいと思います。」
はいと小さな声で頷いた。とても満足そうだった。
「失礼ですがおいくつですか?」
「17です。」
「そうですか。ぜひとも、ご家族の方に相談していただきますと恐縮です。あなた様にとってとても大事なことなのですので。あと、こちらのアンケートに記入していただくと全員にこちらの新幽霊大辞典をプレゼントさせて頂いています。幽霊の対象方法、幽霊とのコミュニケーションの取り方、幽霊に人気のおしゃれなお店の情報など大変お役に立てるものとなっておりますので、是非ともご記入を。アンケートはこちらの封筒に入れて切手は要りませんので、封をしてそのままポストに投下してください。本日はお時間を割いて頂きまことにありがとうございます。では、失礼致します。」
玄関の外に出てもう一度頭を下げて帰った。
ふうと息を漏らし、立ち竦んでいるとすぐに、またチャイムが鳴った。
「こんばんは、世界中央幽霊生命保険です。」
頭が痛くなってきた。玄関の扉閉めておけばよかった。
それから2、3人の相手を処理した。もう完全にマヒして、幽霊と言うのは地震と同じようなものなんだなあと、外に出て月に向かって呟いてしまった。そのとき、ポストがパンパンになって大量の紙が外に漏れていたのを見た。それらは全て幽霊保険会社の資料と名刺だった。それらを全て抱えて自分の部屋に持っていき机の上にぶちまけた。
そして、すぐに彼女に電話した。
すぐに出た、まるでいや分かっていたのだろう。
「もうしてきたの。早くない?まあ、明日でいい?放課後あなたの教室行くから。」
とても機嫌悪そうな声だ。
「あれは何ですか?幽霊保険って聞いたことないけど。」
「聞いている?今からお風呂入るの。じゃあね、バイバイ。」
一方的に電話を切られた。たった10秒で通話は終わってしまった。はあと大きなため息が漏れた。
死ぬようにベッドに倒れた。制服を着たまま布団の上で寝てしまった。
起きたらもうすでに日が昇っていた。とても身体が重たかった。まるで霊に憑りつかれたように。
「それなあに?トランプ?」
珠理ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「名刺。」
20枚の名刺を扇みたいに広げ持ったまま、ダラァと机に突っ伏した。本当に疲れた。
「知ってる。いつものことだもの。」
「いつものことなの。」
机に向かって言っているから、グモグモと彼女に聞こえているかどうか分からない。
「いつものこと。私に相談してくる人たちは、初めは必ず大量の名刺を見せて言うの。これ何って。」
とても楽しそうに聞こえる。それと同時に疑問が湧いて来た。
「あなたって一体何者なんですか?」
身体を起こしてかしこまって彼女に言った。
「私は、見習いの霊媒師。」
聞き慣れない言葉にポカンとしてしまった。それを見た彼女がううんって感じで頷く。
「何それ?」
僕が言った。
「幽霊と人を繋ぐ夢のような職業かな。それ以外は今は秘密。」
そう言って自分の唇に右手の人差し指を立てた。言えないというジェスチャーらしい。
「あ、そう。」
「何それ聞いておいて、私に興味ないの?」
顔を近づけて来た。しつこく聞いて来ると思っていたらしい。だったら絶対に聞いてあげない。
「ないと言えばウソだけど、別に秘密を無理に聞こうとは思わないからね。そんなことより僕って本当に幽霊見たの?」
「はあ、今さら何言っているの?そんなに現実が信じられないの?見たんでしょう。」
脅しのように聞こえた。はいと言わされた。
「見たけど、見ましたけど。でも、それ以来一切見てないし。何かの間違えじゃないかなあ。」
「なんて、甘い願望。いい、幽霊を見るには、いろいろと条件があるの。疲れていたら見やすいとか、見やすい場所とか時間帯があるとか、霊感が強い人と一緒に居るとか、そういうのが重なって見える場合があるの。たまたまそれが重なっていないだけよ。」
「じゃあ、僕が幽霊を見たのは、珠理ちゃんがいたから、偶然見えたんだ。」
嬉しそうだな、自分の声を聴いて純粋にそう思った。
「それは、あると思う。私は、普通の人の何十倍も霊感強いから、見えやすくなっていると思う。」
「やっぱり。」
なんか勝った気分だ。
「なに、笑っているの?言っておくけど、私と一緒に居て見えない人には絶対に見えないからね。見えるってことは、見えるってことなんだからねえ。」
彼女は興奮していた。何を言っているのかよく分からず、首を傾けた。彼女がさらに言った。
「それに、達也君が実際に幽霊を見えるかどうかが問題じゃなくて、見えることを知られてしまったことが問題なの。」
「何のこと?ていうか誰に。」
「幽霊たちに。」
にやっと彼女が笑った。いたずらに成功した子供のように悪そうな笑顔だ。
「いまさら聞くけど、私があなたは幽霊を見えるってなんでわかったと思う。」
じっと見てきた。目を逸らそうとするけど合わせてくる。あきらめて目を合わせた。白い歯を見せ、くちゃっと笑っているけど目だけは真剣だ。100点満点の作り笑いそう思った。気をつけないとその目に吸い込まれそうだ。
「僕の視線を見てだと思ったけど、その言い方だと、幽霊に教えてもらったの。」
真似して笑ったつもりが、贋作とすぐにばれただろう。
「うん。バカそうだけど以外に頭いいんだね。正しく言うと幽霊が話しているのを聞いただけどね。」
目を大きく開け驚いたふりをした。心の底から彼女は僕をバカにしてくる。話すのがとても嫌になる。
でも、彼女の世界に肩まで浸かりたいと思っている自分も居た。彼女は幽霊以上に不思議な存在だ。
「幽霊の声が分かるの?」
「分かるのは分かるの。あと、話せる幽霊もいるしね。達也君はそこまで霊感強くないから無理かもしれないけど。」
とても適切に答え、さらにこちらが話しやすいように冗談ぽく言う。完全に彼女のペースだ。
「別に、話したくないよ。幽霊なんかと。」
嫌々答える。話の内容が嫌なだけ、そう感じるようになってきた。彼女は心理学でも勉強しているのか?
そう思うぐらい感情をぐらぐらと揺さぶられ、思っている以上に気を許してしまっていた。詐欺師のやり方だ。僕はそう思った。
突然彼女が軽く叱りつけるように語尾を荒げて言った。
「幽霊なんかとはなによ。膝の上に、幼稚園ぐらいの少女乗せているくせに。」
慌てて椅子から飛び立った。背もたれに足が引っかかりイスごと倒れ尻もちをついた。彼女も慌てて立ち上がり見えない何かを優しく掬った。ミニ柴を抱えるみたいな腕の形をして、何もない何かを見つめていた。
「もう、何しているの。可愛そうじゃない。」
軽く睨みつけて来た。大丈夫?と言ってくれるのを期待した自分が悲しくなってきた。
「何の話しているの?」
胸の前の体から少し離した所で手のひらを体側に曲げ組んでいた。腕は軽く曲げて肘から先は水平でそこに何か乗せることが出来そうだ。僕には何も見えずただ、腕と体の間には彼女のふっくらとした胸で膨らんだ制服が見えるだけだ。
ゆっくりとそのまま座った。左腕で何かを包み込んでいて、右手は顎の近くで手のひらを下にして浮いていた。
「言ったじゃん。膝の上に幼女が座っているって。急に動いて床に頭ぶつけたじゃん。大丈夫だよ。痛いの痛いの飛んでいけ。」
彼女は何かを撫でている。見えないけど分かった。
「え、そこに居るの?」
彼女の左腕のあたりに手を置こうとした。
「あまり、こっちに来ないでね。彼女あなたのことすごく睨んでいるから。噛みつかれるかもしれないよ。」
慌てて手を引っ込めた。
「幽霊ってそんなに怖いの。怖くないっていったのに。」
震える声で言った。彼女は北国の1月の風のように睨んだ。
「あなたが彼女を床に投げ捨てたからでしょう。そんなことして怒らない方が不思議だよ。幽霊のことあなた何も知らないし、それに知っているその知識ってほんの一部の悪い霊のことだけ。多くの幽霊たちは良いものなの。良いものっていうか純粋。本当に純粋。楽しい時は楽しく嫌なものは嫌。嘘をつけなく、全てを信じて何も疑わない。」
愛猫を膝の上に乗せているみたいに、手を動かし時折それを見ながら話した。ただ、僕にはそれが見えないのでただの奇行にしか見えない。さらに彼女が続けた。
「ひどい幽霊もいるけど、それは、人間も同じことでしょう。集団があればそこに悪いものは絶対にあるに決まっているわ。そこに良いものがあるから。それに一般的に悪霊と言われているのは、人間だったのが幽霊になった場合。それは、とても稀なケース。稀なケースだけど有名だね。多くの人たちの幽霊信じるか信じないとか、心霊スポットに居るのはこの場合のこと。その幽霊たちは強いからね。霊感がほとんどない人たちでも見えるときがあるから、そればっかり目立ってしまうの。」
その悲しそうな表情は幽霊に同情しているからだろうが、僕には一切理解できなかった。怖いものは怖いただそれだけだ。
「ほとんどの幽霊は私たちに何もしないよね。」
彼女がふふと静かに笑い始めた。そして僕の頭の上に視線を持って行った。突然すぎて憑依されたのかと思い、恐る恐る聞いてみた。
「後ろに誰かいるの。何笑っているの?」
「いや、後ろにおじさんが面白くて。私の話にずっと頷いているの。それで、頷くたびにあなたの肩の上に当たっているの。たぶん、わざとでしょう。私を笑わせようとしてね。」
全然おもしろくない。さっきから、鳥肌が止まらない。
「これで分かったでしょう。幽霊は見えない人には絡まないの。幽霊にも人間を見える幽霊と見えない幽霊もいるけど、こんなに絡んでいることは、達也君のことを確実に見えているってこと。幽霊が見えるのは霊感がある人だけ。今、達也君は確かに見えてないけど、幽霊に見えているってことは、分かるよね。」
分かりたくないけどそうしか考えられない。幽霊って思った以上に人懐っこいんだなあ。なんてカワイイんでしょうと思うことは到底できそうにない。
「まあ、こんなに絡んでくる幽霊は珍しいだけどね。よかったねえ。」
無邪気に笑った。嫌味で言っているのではなく、本当に良いことだと思っている顔だ。だからとても彼女は厄介だと思った。
「良くない。」
彼女を睨みつけた。八つ当たりだと思ったが特に彼女は何も反応しなかった。珠理ちゃんは相変わらず膝の上を不自然にあけて、手を動かしていた。
「ねえ、こっち来て。」
手招きした。そうされても一歩もイスから動かなかった。
「大丈夫よ。もう怒ってないから。ねえ。」
お願いするように、こちらに手を合わせてきた。そこまでされると心が動く。それに彼女がわが子のように大切に膝に抱えている幽霊に見て触れてみたいそう思っていた。
どうしようか迷っていると、早くしてと彼女に急かされたので慌てて立ち上げり彼女のところへ行った。
「気を付けてね。膝の上に彼女が寝ているから。」
彼女の後ろに周り込んだが何も見えない。全て彼女の演技なのではないのかと思っていると彼女が言った。
「私の肩に手を置いて。」
ダークブラウンのシュシュで肩甲骨まである長い髪を一束にした。
戸惑ったがここでぐずぐずしていると嫌らしい想像しているのと誤解されそうだから、すうと彼女の右肩に置いた。
制服の柔らかさが彼女の肌と温もりと勘違いしドキドキした。
「可愛いでしょう。チーちゃんだって。」
お母さんのような優しい声で言った。彼女の長く真っ直ぐなまつ毛の先に背中を丸めて彼女にしがみつきいている幼女が寝ているのが見えた。紺色と白の横の縞模様の半そでに、白と黒チェック柄の長ズボンを履いていた。
年齢は3歳ぐらいだろう。幽霊には見えない。ぷっくりとしたほっぺに赤みがあり、触れれば温もりを感じそうだ。
夏の太陽に干したてふとんと甘酸っぱい汗のにおいが混ざった香りが、鼻に染みてくる。その匂いに気が付いたころには、舐められそうなほど近くに彼女の耳があった。
勢いよく彼女から離れた。
驚いた様子でこちらを見る彼女の膝は不自然にスカートが折れているだけで先ほど見た彼女は居なかった。
珠理ちゃんと目が合った。最初から見てないみたいに黒板のシミをじっと見つめた。そっと下を向いた彼女を視界の端に入れながら。じんわりと耳が熱くなった。
「珠理ちゃんって大変だね。幽霊に絡まれて。」
沈黙がいたたまれずに言った。喉に何かが詰まって最初の5文字を言った後、一度咳をして言った。余計に緊張してしまった。
「こんなことは初めてよ。話しかけられることはたまにあるけど、こんなに触れ合ったのは初めて。」
何も変わった様子は声から感じなかった。別に彼女には伝わっていなかったらしい。ほっとしたがちょっと悔しかった。
「人間に触れる霊って少ないの。いくら、私が霊感が強くても。じゃないと学校の廊下なんて歩けないわ。もう帰らないと。学校にはたくさんいるからね。」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。チーちゃんはしっかり抱かれているのだと見えないけど分かる。こっちを振り返らず教室から出た。慌ててカバンを持ち、彼女が座っていたイスを元に戻して後を追った。
教室に出ると彼女は誰かと話していた。珠理ちゃんより少し背が高く体格が良い。決して太っているわけではなく女性らしく必要なところに適切な量だけ脂肪が付いている。形の良い耳が見えるほどのショートヘアーがとても似合っている。少し丸身を帯びた顔には高い鼻と薄い唇が最適な場所にある。目が猫のような形をしていて珠理ちゃんを見ているときの目力が強い。もし彼女を描いて説明するならば多くの人は、まずその目を一生懸命に書くだろう。あと、笑うと見える小さなえくぼも。
「綾香。」
珠理ちゃんが彼女の肩を叩いて、こちらを指さした。ふたりがとことこと寄って来た。
「あなたが、達也君?いいなあ、幽霊見えるんでしょう。私、珠理とずっと一緒に居るのに一度も見たことないの。」
思った通りの人懐っこい声で僕に話しかけてきた。話している間も僕をしっかり見て、彼女の瞳に落ちてしまいそうだった。
「いい時間だから。見えるかもよ。」
珠理ちゃんのその発言と笑顔に全身の毛が立った。綾香ちゃんは慣れているのだろう笑顔で応えていた。まるで今日あった楽しいことを聞いてあげているみたいに。僕たちはゆっくりと玄関に向かった。彼女たちが前を歩きその後ろをついて行った。ふたりが仲良く話すのがとてもよく見える。
「それより、何抱えているの?」
綾香ちゃんが言った。
「ああ、これ?少女の幽霊。すごくかわいいよ。ねえ、達也君。」
そう言って珠理ちゃんがこちらを見た。ドキッとしたがすぐに彼女が前を向いた。
「いいなあ。幽霊見たい。」
あのケーキおいしそうと聞き間違えそうなテンションで言った。
だったら変わってあげようかとは言えなかった。
「今、教室に何人いた?」
不意に珠理ちゃんが言った。
「え、ひとりだったけど。他に居た?」
僕が答えた。綾香ちゃんに同意を求めたはずだが応えてくれなかった。明らかに彼女の顔が曇っていた。もしかして誰も居なかったのか。
「何の話、教室って何?そこ、中庭でしょ。」
彼女の言葉に愕然とした。あふあふと口を動かしているのを珠理ちゃんが見てきた。何とも意味ありげねな含み笑いなこと。
「戻って見に行ってみれば。」
後ろを振り返ることも怖くてできない。幾分、綾香ちゃんよりを歩きだした。よく晴れた真冬の朝よりも身体が縮こまっているのが分かる。不意に誰かに後ろから声を掛けられたら、彼女たちに抱き着いてしまうだろうと本気で心配した。
「今まで幽霊なんて見たことないのなんで?」
恐怖と不満をぶつけるように珠理ちゃんに聞いた。
「今までは気が付かなっただけかもよ。それに今見えているのは私と一緒にいることと、あと時間帯かな。」
終業式終わりの小学生みたいに微笑みながら言った。
「私は見えないのに。」
綾香ちゃんが不満で口を膨らませて言った。その顔をやめてすぐに振り返った。
「達也君は幽霊が見えるんだね。」
目をキラキラさせて、彼女は僕を見た。むしろこっちがその目をしたい。いいなあ、見えなくて。
階段の踊り場には男子たちがたむろしていた。全員同じユニフォームを着ているから、部活終わりなのだろう。そこの横を通ると、制汗剤の鼻を刺すような臭いがした。
「学校って幽霊いっぱい居るのよ。今この廊下に10人ぐらいかなあ。何人見える?」
「5人。」
これには自信があった。だってさっきからチラチラと目が合っているのだもの。前を三人の女子生徒がこちらを時々見て、今ふたりのカップルの横を通った。
「ひとりも居ないよ。私たち以外に。」
また寒気がした。6月と言うのにカイロが欲しいぐらい。
「歩くの大変なの。ぶつかったりしちゃうからね。」
笑いながら彼女が言った。何がそんなにおかしいのだろう。
「珠理ちゃん。ときどき、変なことするよね。ときどき止まったり、壁にぶつかったみたいに突然吹っ飛んだり。私は知っているから大変ねえと思えるけど、知らない子たちは変な顔するのよね。しょうがないけどね。」
確かにこれだけ幽霊が見えてさらに触ってしまうと生活は大変だろう。見えない人たちには到底理解できないし、多くの人は幽霊とは触れられないものだと思っているだろう。幽霊と話しあやしている彼女の行動は他の人からしたら気味が悪いに違いない。
もし、僕も見えていないならば、そのうちのひとりだっただろう。そう思うと彼女の横顔を見て寂しい気分になった。
「私の友達は幽霊と幽霊を見える人だけ。」
ぼそりと彼女が言った。でも、彫刻で書かれたみたいに僕の心の中に届いた。
その中の一人になりたいと純粋にそう思った。
「私は見ないけど。」
えくぼを見せて言った。けど、慰めを求めているようだった。
「綾香は特別よ。親友だもの。」
わざとらしく、演技のようにも聞こえたが、それを言われて彼女の瞳はうるっときていた。綾香ちゃんは抱擁を求めたが、珠理ちゃんが慌てて避けた。彼女は空を抱きしめた。
本当にそこには何もなかった。
「何するの?」
その強い目で彼女を睨みつけた。かなり迫力があった。
「ごめん。でも、私、今女の子抱いているの。」
「そうだった。」
スイッチを押したようにパッと彼女の表情が明るくなった。どうやら納得したようだ。その一連のやりとりから彼女たちの仲の良さが伝わってきた。見ることが出来ないのにそれを一切疑わない。珠理ちゃんがそこに居るというから居るのだ。綾香ちゃんが疑う余地など全くない。果たして、それほど信頼関係の出来た相手は、僕には居るのか考えるまでもなかった。彼女たちに嫉妬を覚えたが、微笑ましく思えた。
ほんの少しだけ彼女たちに近づいて歩いた。
前から2人の女子生徒が話しながら歩いてきた。2人とも背が高くスタイルがいい。可愛さだけだと珠理ちゃんの方が上だが、雰囲気がとても派手でいわゆるイケてる女子だ。きゃきゃと猿のような高い笑い声を時折上げている。その空気に押されて綾香ちゃんが珠理ちゃんの後ろに行き少し乱れた1列になった。彼女たちが当たり前のように2列で横を通り過ぎた。
でも、何かがおかしい。直観だが確信はあった。
「どうしたの。あの子たち可愛かったよね。」
僕の様子に気が付いた綾香ちゃんが話しかけてきた。その声に反応して珠理ちゃんが足を止めてこちらを見てきた。何か言いたげな顔をしていたが無視をした。
「今、何人居た?」
綾香ちゃんに話しかけた。
「2人だけど。もっと居た?」
「2人だけど。」
後ろを振り返った。もう一度彼女を見た。左の色白の彼女だ。舐めるように下から上へと目線を動かした。後ろから真冬の氷のように冷たく痛い視線を感じた。
「綾香ちゃんちょっといい?」
そう言うと身を少しかがめ彼女のスカートを触った。そして、スカートを見比べた。
「ちょっと何するのよ。」
そう言ったのは珠理ちゃんだった。慌ててスカートから手を離した。キレた鬼のような顔でこちらを見てきたが、やっぱり無視した。
「スカートが違う。てゆうかスカートが二枚。」
ひらひらと揺れるスカートが段段になっていて変にフリルが付いたように見える。それに派手そうに見える女子にしてはスカートが長い気がする。
よく見ると靴下の少し上の部分だけがまるで日焼けしたように黒い。それ以上は息を飲むような白さなのに。
「重なっているのよ。達也君にはスカートから下しか見えてないのよ。私には、学校の制服を着たもうひとりが彼女に重なってみえるけどね。見えない幽霊なの、人をね。こういうこと結構あるの。」
珠理ちゃんが言った。
「そんな偶然あるんの?」
僕が言った。自分の目が大きく開いたのが分かった。
「別にたまたまじゃないよ。見えてないけど、共鳴し合っているの。彼女はたぶん今までずっと幽霊と一緒にいたんだと思う。そして、これからもずっとねえ。何も害はないわあ。幽霊にも人間にも。互いに存在自体も知らない。それでも、一緒に暮らしている。」
そう言うと再び歩き始めた。彼女の言い方はとても説得力があり、不安で壊れそうな僕を支えてくれる。
もっと知りたいと思った。幽霊についても彼女についても。
「達也君も私たちの部活入るの?」
綾香ちゃんが話しかけてきた。フォーメーションは元に戻り前2の後ろ1だ。
「なんですか?」
「写真部。」
「どうして写真部なの?」
本当に疑問に思った。綾香ちゃんは良いとして、彼女はオカルト研究部以外入ってはいけない気がする。でも、彼女の存在そのものがオカルトで研究対象は珠理ちゃんか。そんな想像をしていると彼女が髪を触手のように揺らしながらこちらを振り返り言った。
「達也君私のカバンからカメラ取って。」
彼女が肩にかけているカバンをゆっくりと外した。なかなかの重さがあった。それを地面に置きチャックを開けた。
「これのこと?」
そう言って小型のミラーレス一眼を取り出した。傷が目立ちかなり使い古されていた。
「首にかけて。気を付けてね。」
珠理の首にカメラのストラップを掛けて、ゆっくりとカメラから手を離した。ストラップが伸び切ることなくカメラが浮いている。
「ありがとう。チーちゃん。」
そういうと何かを撫でた。チーちゃんを撫でた。
「達也君私のカバン広げて、チーちゃん入れるから。」
彼女に言われるまま、カバンを広げ持ち上げた。彼女のカバンには黒の革性の長財布と黒の手帳しか入っていなかった。教科書とか、ノートとか筆箱すら入っていない。
「全部置いてきた。いつものことだけどね。ちゃんと、持っててね。」
珠理ちゃんは広げたカバンの中に両手を入れた。そして、ゆっくりと手をカバンから出した。カバンは確実に重くなった。何かがそこに入ってきた。見えなくも分かった。
ひとつ息をはいて腕をぶらぶらさせている。重たかったらしい。
「おもしろいもの見せてあげる。達也君そこに立ってて。」
珠理ちゃんに言われるまま、廊下の中央に立った。彼女がカメラのレンズを覗きながらだんだん後ろに下がり、5メートルぐらいで止まった。彼女たちの姿が暗闇に消えそうなギリギリの距離だ。
「ピースして。」
彼女のカバンを左肩に掛けて頬の前右手でピースをした。カシャっと音がした。カメラの画面を綾香ちゃんに見せていた。怖いと笑いながらふたりで話している。
彼女のカメラの写真にははっきりと僕の薄い笑顔が写っていた。最新のカメラはこんなに暗くても昼間のように明るく撮れるらしい。たぶん。僕の肩にかけているカバンのチーちゃんは恥ずかしい屋さんなのか、小さな手をパーと広げてカバンから出している。両手でピースするなんてちょっと調子乗りすぎたかなあ。安い作り笑いには似合わない。それよりも後ろでハニカム中年男性は誰?
はっと後ろを振り返った。そこには誰も居なかった。
「こわい、こわい。」
顔の前で手をぶるぶる振りながら言った。
「ちょっと遅くない。鈍いよ。」
綾香ちゃんが僕の肩を一回叩いて言った。
「てか、手が多い。」
「ピースしている手ふたつともあなたの手じゃないよね。左肩にある手と比べて大きさが全然違うもの。それに、手を内側にしてピースしてたしね。」
「そうだよ。そうだよ。」
心臓がバクバクと吐きそうなぐらい活発に動いている。
「珠理ちゃんが撮る写真はいつも何か写っているの。それで、その噂が流れちゃって、部員が一気に減っちゃって3年生は私たち二人になったの。このままだと、廃部になりそうなの。」
綾香ちゃんが言った。
「幽霊の部員はいっぱいいるんだけどね。」
珠理ちゃんはキャッキャッ笑いながら言った。笑えない冗談だ。事実だから本当に笑えない。
「そんな時に、彼女が連れてきたのよ。見える部員たちを。もちろん幽霊を見ることができる部員をね。」
「幽霊が見える部員は写真部に来るの。」
なんと恐ろしい部活だ。幽霊が見えるという弱みを利用して集められるなんて。
「何人いるの?」
恐る恐る聞いてみた。
「私たちを除いて8人いるけど、4人は幽霊部員ね。幽霊の部員じゃなくて、幽霊みたいに消えた部員のことね。」
ややこしい。だが幽霊部員って本来そういう時に使う言葉だから。
「ていうことは、実際は4人なのか。」
「達也君が入るから5人ね。」
「勝手に入れないで。」
「入って方がいいよ。あなたは幽霊のこと何にも知らないから、私と一緒に居た方があなたのためになるでしょう。」
成績の良いセールスマンみたいな口調で言った。それが珠理ちゃんの部員を集めるときの常套句のようだ。こんなにも可愛らしい顔をしているからなおさら恐ろしい。
「それは、考えとくけど、期待はしない方がいいと思う。」
「まあ、よく考えなさい。」
その笑顔にただただ恐怖を感じると同時に、入部決定だと思った。
二人が嬉しそうにアイコンタクトしたのを見逃さなかった。
生きる光
「じゃあね、また明日。」
綾香ちゃんと校門の前で離れて、珠理ちゃんとふたりきりで駅に向かった。
「肩大丈夫?代わろうか。」
と聞くと
「見かけによらず優しいのね。」
と返されただけだった。そのまま歩くことにした。
学校と駅の間にある橋を渡っていると彼女が急にはしゃぎ出した。
「うわ、きれい。ねえ、私の肩に手を置いて。早く。」
200mほどある長い橋のほぼ真ん中で車は横を通るが歩道には僕たち以外居なかった。太陽はすっかり山の向こうに消え、余韻のような明るさが広がっている。彼女の黒髪を触れないようにしながら、彼女の小さな肩にちょんと手を乗せた。もう慣れてしまったのか、すぐにできた。
「見える?」
彼女が指さした川上の方には街灯の明かりが見えた。もちろん、水の上なのだからそんなはずはないのだが。
「もっとくっついて。腕を回して右肩に手を置きなさいよ。早くしないと消えちゃうから。早くして。」
彼女に言われるまま、左肩から右肩に手を移した。さっきまで気にしていた彼女の髪が腕全体に触れる。彼女の顔がすぐ横にあり、息の音が聞こえる。彼女独特の干したての布団のような体臭が草の濡れたような独特の匂いと混ざって僕を刺激する。
何も考えないように意識して彼女に言われるまま遠くの水面を見た。
「きれいでしょう。」
自然にため息が漏れた。宇宙の終わりのような暗闇の中に無数の光が眩い美しさを放っていた。その一つ一つの光は太陽の何倍もの明るさがあるのに、六月の終わりのホタルのような淡く儚い光に見えた。その光は初め水面を踊るようにゆらゆらしていたがだんだんと上へ登っていった。ある程度の高さ以上には完璧な暗闇が広がっていた。消えてしまうと、まるでもともと存在していなかったかのように思えた。
「あれは。幽霊が死ぬところ。幽霊っていうのは未熟な魂のことなの。幽霊が死ぬってことは、新たな生き物が生まれること。」
耳元で囁いた。そう言われると、さらに美しく思えてきた。ひとつひとつ自分の意志で光っているだからこんなにも心が奪われるのだろう。愛情のような温かいものが頬をゆっくりと伝っていく。涙がこんなにも綺麗なものなのか始めてそう思った。
何分経ったか分からない。1時間と言われても1秒と言われても納得するだろう。ただこれだけは言えた。生きていて一番有意義な時間だと。
光が消えた後も彼女から離れられなかった。
車が後ろを通るたびに邪魔な光が目をくらましていたのだと気が付き、数日遠出をして帰ってきたみたいに、目の前の景色が久しぶりに感じた。
彼女が少しこちらに首を向けた。完全に横を向けると僕の頬にキスしてしまう。トントンと生まれたての子供を撫でるみたいに優しく僕の頭を叩いた。僕はゆっくりと彼女から離れた。
鼻の頭に付いた彼女の長い一本の髪の毛を右手でそっと掴んだ。それを大切にポケットに入れた。
何事もなかったように歩き出した彼女に感じた悲しさと欲求を帳消しにするために。
橋を渡り終えるとすぐに信号で止まった。さっきまでのあれは何もなかったことにしようと別に約束したわけでもないのに一切話さなかった。夢でもみたのかと勘違いするぐらい無かったことになっていた。乾いた涙が目尻にこべりつき、それを爪で取る痛みを感じた時に夢じゃなかったと実感できた。
感情が高揚してきた。とにかく何かを珠理ちゃんに話したくて仕方なかった。
咳をするみたいに勝手に話しかけていた。
「気になっただけど、どうして写真部なの?他にも、あると思うけど。それに幽霊が見える部員を集めたいならオカルト部が似合っていると思う気がする。」
彼女がこちらを見た。顔色一つ変えていない彼女を見て悲しかった。もう気にすることをやめた。彼女の言うことを頭の中にメモを取るように聞いた。
「別に、私は幽霊を見える人を集めたかったわけではないのよ。純粋に写真が好きで、みんなで写真を撮って見せ合いしたかったただそれだけ。」
「普通の女子高生みたい。」
彼女の発言があまりにも普通だったのでとても嬉しく思った。彼女自身は幽霊ではないんだなあと思ったからだ。
「ニヤニヤ笑って。気持ち悪い。そうよ。私は幽霊が見えるだけのごく普通の女子高生よ。」
「幽霊が見えるだけで普通じゃないけどね。」
ふたりでほほ笑み合った。信号が青になり歩き始める前のほんの少しだったが純粋に嬉しかった。
「昔から写真が好きだったの。」
「僕も写真は好きだよ。思い出をいつまでも残せて、思い出すこともできるしね。」
「そうそう。そこに居る幽霊たちがしっかり写るし、みんなで思い出が共有出来るしね。」
「え?」
驚きのあまり声が漏れた。
「え?」
なぜか彼女も驚いていた。
「また、幽霊?」
「私が写真のことを好きな一番の理由は、幽霊が見えない人に幽霊を見せられるからよ。」
そう言った彼女の横顔口元が緩んでいるのに何だか寂しそうだった。
写真を通してじゃないと、幽霊が見えない人と共有できないから。僕はそう思った。
彼女から駅で逃れて電車に乗った。珠理ちゃんと一緒にいるととても疲れる。初めて昨日会ったからではなく、今まで見えないものを見せられたからだ。あと行動がとても大胆で女子高校生とは思えないほど隙だらけだ。たぶん僕のことを犬かなにかと思っているからに違いない。そうだと気が付いているのにいちいち心と身体が反応してしまう。10年分のエネルギーを使い果たしたみたいだ。
いまだに肩に乗っている感覚がある。今まで気にしていなく見えていなかったのに、見えるって言われただけで、こんなにも感じてしまうのか。
いくら田舎であってもこの時間帯はすし詰め状態だ。同じ制服を着た人で一杯だ。
この中に何人の幽霊がいるのだろうか。僕には分からない。きっと珠理ちゃんにはこの何倍もの人がいるのかと思うと、かわいそうだ。
電車で30分ぐらい揺れると、席はスカスカだ。町からさらに田舎に向かう電車に乗っているから当たり前だが人がどんどん減っていく。古びた無人の駅が最寄駅だ。今日は僕以外に2人降りた。疑心暗鬼でこんな田舎に降りる人間は全員幽霊に思えてしまう。
古い家ばかりだ。ビルとかマンションはなく、この辺りで2階建て以上の建物は、お金持ちの石川さんの3階建ての一戸建てぐらいだ。
かと言って、自然にあふれているわけではない。クマや鹿が出てくることはない。居るのは野良猫、野良犬、ハクビシンぐらいだ。集落の周りに田畑があり、ちょっと離れたところの国道沿いの大型店が並ぶ、中途半端な田舎だ。何もないわけではないが、中途半端に存在する。いつもそう思いながら、家まで10分ほど歩く。
それぞれの家から、明かりが漏れる薄暗い路地を歩いて帰る。人は居るけど、ひとりである。今、この状況で幽霊に出会っても、頼れる人が居なく、家まで逃げ切らないといけないと思うと、とても怖い。そんなことを思うのは、自分以外の足音が聞こえている気がするからだ。
少し早歩きになり、珠理ちゃんのことについて考えた。別に珠理ちゃんではなくてもいいのだが、彼女のインパクトが強くて気を紛らわすには最強だと思ったからだ。
まずどうして彼女は、あんなにも可愛らしいのか。おめめがクリクリである。あんな子猫のキャラクターどっかで見たことがある。それにあの長く美しい絹のような髪、身長150㎝とくれば完全に美少女だ。しかし、同い年の人たちより経験値が高いことが分かる。人の何倍苦労してきたのだと一緒に居て痛いほど分かる。
彼女はときどき暗くなる。過去のトラウマを思い出したみたいに、そして、その暗さを隠すかのように、にこにこ笑いながら冗談を言う。まだ出会って、ほんの少ししか経っていないのに、ここまで分かってしまうのは、珠理ちゃんが純粋に感じたこと感じたまま行動に移しているからなのかもしれない。
もしくは、彼女の過去があまりにも暗いからかもしれない。
毎日どこでも幽霊が見えるなんて信じられない。例え、幽霊よりも人が怖いとしても。
いつの間にか家の鍵を開けていた。当たり前だが部屋は真っ暗だ。誰も居ない。家に帰るとまず電気をつけてすぐにテレビの電源を入れる。寂しいからだ。音量を上げて自分の部屋で着替える。しっかり笑い声が聞こえる。
昨日作ったカレーを温めテレビの前に座り食べる。これが日常だ。親が休みの日は、一緒に食べるのが落ち着かなく嫌だ。
もしもと考えるがそのもしもの想像ができない。これ以外の生活を生まれてこのかたしたことがないからだ。
カレーを食べ終え、皿を洗おうと台所へ向かおうとすると、チャイムが鳴った。その場で足を止め、音を立てないようにした。幸いにもテレビはニュースをしていてそこまでうるさくない。もう一度チャイムが鳴った。変わらずそのままいた。きっとまた保険の人だろう。
もう、珠理ちゃんのところの保険会社に入ったと言えば、帰ってくれるかもしれないが、まだ契約書を書いたわけではないから、また長々と話を聞かされるかもしれない。昨日みたいにポストに名刺を入れて帰ってほしい
ガチャっと音がした。
そして、ドアが開く音がした。
親が帰って来たのだと思ったが、そんなはずはない。鍵を持っているからわざわざチャイムを鳴らす必要はない。もしかして泥棒。手に持っていたカレーの皿をソファーの上に置いた。
「達也さん、佐藤達也さんいますよね。」
聞き覚えのない男性の声が聞こえた。逃げ切られるように部屋の窓を開けて、スマホを片手に玄関に向かった。
「どうも、達也さんですね。」
そこには背の高い男性が居た。話し方は腰の低いのだが、何かこちらを憎んでいるように殺気がある。
「すみません。鍵が開いていたもので。」
嘘である。鍵を忘れるなどありえない。靴を履いたまま家に入ってしまうよりありえない。怪しいより怖い。それにこの人ひとりじゃない。後ろに何かがいるようだ。
「今日は、娘が大変お世話になりました。」
優しく聞こえた。顔の表情がよく分からない。
「いえいえ、そんなことはありません。」
適当に応えてしまったが、誰の何を言っているのだか。脊髄を舐められたみたいに寒気が襲った。人ではない。そう確信した。となると娘というのは、チーちゃんのことなのか。幽霊に親はいるのかと疑問に思ったが、そうとしか考えられなかった。
「ところで、娘のことをどう思います。」
なんだいきなり、ここで答えを間違えると命を失う気がする。
「とても、可愛らしいと思います。」
震えながら言った。吹雪のように彼からの視線を感じるが、決して顔を上げない。彼の白と黒色のブランド物のスニーカーだけが目に入っていた。
「そうだろう。今が一番カワイイ時だ。」
とても嬉しそうだ。やっぱりチーちゃんの親だと確信した。
「そうですね。まだ幼いですね。」
たぶんまだ、間違えてないと思う。
「そうだなあ。」
空気が変わった。さっきまで真っ黒だった男性の後ろにいくつもの顔が見えた。笑っていたり睨んでいたり無表情だったり、顔だけが見えた。
「そんな娘にお前は何をした。」
胸ぐらをつかまれ壁に押さえつけられた。
殺される。生まれて初めて本気で思った。抜け出そうともがくも全然離れない。
「何をしたんだ。答えろ。」
彼が声を荒らげるたびに、空気が大きく振動するのが分かる。
「何もしてません。何もしてません。」
とても早口で言った。ぶるぶると唇が震える。
「嘘をつくなあ。正直に言えば許してやる。」
絶対嘘だ。しかし、このままだと片手で首を絞められる。
「彼女が膝の上に乗ってきたのに、気が付かなかったんです。床に頭をぶつけてしまって、すみませんでした。」
「お前の膝の上に乗せただと。」
「あと、カバンの中に入れたのは、僕じゃなくて友達で、それに娘さんも喜んでいましたよ。」
息継ぎせずに言い切った。
「カバンに入れた。」
ため息みたいに言った。静かになった。無音とはこのことを言うのだろう。耳が痛くなる静寂。それは一瞬だった。
「殺す。」
その言葉は直接、頭の中で言われたようだった。鬼のように睨みつけ右手を首に当てた。だんだん力が強くなって絞められているのが分かる。
もう死ぬのか。よく分からない幽霊に殺されるなんて、こんなことなら早く幽霊保険に入っていればよかった。死ぬ前というのは、こんなにも時間がゆっくり流れるのか。ゆっくり苦しんでいくのが分かる。
「やめて、パパ。」
彼の力が弱まり支えきれなくなった僕は、壁に沿ってゆっくりと崩れ落ちた。聞いたことがある可愛らしい声の方を見て、ゆっくりと目を閉じた。
「珠理ちゃん、どうしここにいるの。」
男は撫で声を出して彼女に甘えた。
そっちかと思い後悔した。遠くで彼女たちが話すのをニヤニヤしながら聞いた。
「達也君、ごめんね。」
はっと目を開けると彼女がいた。制服を着ていて何だか安心した。
「私のパパがごめんね。何か勘違いしちゃったみたいで。」
「何のこと?ていうかどうしてここに居るの?」
寝言みたいにムニュムニュ言った。
「話すと長くなるから明日話すね。パパが待っているの。いいよね。」
うんと頷くしかなった。そのまま玄関から出た。
忘れ物を取りに帰るように戻って来た。
「それとチ―ちゃんにお礼言っておいてね。そこに居るから。」
「そこにって、僕見られないから。」
疲れていて呂律が回らない。
「見えるでしょう。膝の上。」
重たい瞼を無理やり広げた。
「ホントだ。見える。どうして、何した?」
ただ、大声を上げた。徹夜明けみたいにテンションがおかしくなっていた。
「私?何もしてないけど、ただパパがねえ。ちょっと力出しちゃったから。このあたりの霊の強さが強くなっているの。」
良く見れば、知らないおじいちゃんがそこに立っていた。白い杖を突いた白髪のおじいちゃんだ。店のマスコットキャラクターみたいに扉を開けてすぐのところに立っている。
「大丈夫よ。2、3日で見えなくなるから。」
そういうことではないけど、何も言えなかった。頭が混乱していた。
「それにこれで分かるじゃない。誰が霊感を持っているかって、ハンコ押してもらってね。なるべく早く。」
じゃあねを押し付けて外に出て行った。
「ちょっと待って。」
彼女は笑顔で手を振ってドアを閉めた。
僕の混乱した顔が気に要らないのかチーちゃんは僕のほっぺを上に押し上げた。その真剣な顔がおかしくて笑ってしまった。
杖の付いたおじちゃんがまだ立っていた。こんなにもはっきり見えていれば幽霊と思わないかもしれない。でも、幽霊が見えない人には全く見えないらしいから、おじいちゃんに反応したら霊感あり確定だ。
たぶん、もう少しで帰ってくるはずだ。ドアにしっかり鍵をかけ、玄関で待つことにした。あぐらをかきチーちゃんを太ももの上に乗せる。足をばたつかせて、ときどきこちらを上目遣いで見る。かわいなあと思っていると、突然の睡魔が襲って、気を失うように寝てしまった。
気が付くと自分の体に毛布が掛けられていた。玄関の電気は消え周りは暗闇だった。相変わらず玄関にはおじいちゃんが立っていた。親は寝てしまったらしい。やっぱり思った通りだ。ハンコを貰うのはまだ時間がかかりそうだ。
ベッドで眠ろうと立ち上がるがずっとあぐらをしていたせいで足がしびれてよろけて壁に顔面をぶつけた。
腰が痛い。自部の部屋に行く前に、遺影に手を合わせた。いつもと同じ顔で彼女は応えた。
部屋に行くと電気もつけずにベッドの上に倒れた。そういえば彼女はどこに行ったのだろう。
ふと、枕の横にはいつもない何かがあった。とても柔らかくまるで生きているみたいだ。それを優しく抱え布団の中に入れた。お休みと言い彼女の頭に手を置いた。
幽霊保険