蟻とバッタ
SFちっくで文学的な小説を、どうぞ。
窓枠の右上の角に、小さな蟻がいた。黒い軍隊から独り離れた、哀れな羊だと少年は思った。その蟻は、軍隊の行く道とは真逆の方向へ進んでいく。
彼らは窓際に置いた砂糖に群がるというのに、そいつだけは、はっきりと反抗する。
少年は立ち上がると、椅子を机の下に仕舞わず、ゆったりとした歩調で窓際に歩み寄った。そうして薄く笑いながら、砂糖に群がる蟻を、指先で潰していった。
少年は、蟻を潰しながらじっと考えていた。何故あの蟻は家出したのだろうか。僕に殺されるとわかっていたからだろうか。しかしそれならば、何故他の蟻にそれを伝えなかったのだろうか。
蟻は、ぷちぷちと潰されていく。窓の外は、いつもと変わらない庭が在るばかりだ。茂った芝生の上を、小さなバッタが跳ぶ。金木犀に巣をかけた蜘蛛は、それをじっと見つめる。バッタがいつこちらに来るか、じっと待ち伏せている。少年は、窓の外を横切る蝶を見て、そんな光景を思い浮かべた。
気づけば、蟻はいなくなっていた。家出した蟻も、もうどこかに行ってしまった。
「つまらないなぁ。」
退屈。退屈。持て余して、思いついた実験も、もう終いだ。少年は溜息を付くと、また椅子に腰掛けた。指先には、潰された死骸がいくつも張り付いている。少年は、気にする様子もなく、目を閉じる。
――外の世界はどんなものなのだろう。
かび臭い部屋の中、独り少年は物思いに耽る。
「やっほう、起きてる?」
快活な声に少年は目を覚ました。視界には、白い天井と、ぱっちりした瞳が写っている。白い肌、首元で切られたブラウン・ヘアー、それに調和した顔立ち。世辞にも美人とは言えないが、不細工とも言えない。強いていうならば中の上くらいだろうか。そんなことを考えながら、少年は重たい瞳を瞬(しばたた)かせる。
「なあ、君。人が安眠していたら、のんびり眠らせてあげようといった気配りはないのか。」
「や、さ。これでも十五分は待ったのよ? それでも起きないからさ」
「それなら仕方ない。待たせて悪かった、一葉(かずは)」
「そうだよー、もう」
頬を膨らませる。それでも一葉と呼ばれた少女の顔は明るかった。少年――カフカは、手の平に視線を落とした。未だへばりついた死骸を、彼は手を振って払い落とす。一葉は不思議そうに首を傾げた。カフカはなんでもない、と首を振る。
「さて、今日も話してくれるかい? 外のこと。」
「……うん、勿論。」
微笑をたずさえて、彼女は頷いてみせた。けれど、どこか陰があることにカフカは気づいていた。
「今日はね、学校の話をするね。」
「ガッコウ、か。高等小学校の話かな?」
「あー、……えと、義務教育が六・三制に変わったのは知っているよね?」
「ああ。――ああ、そうか、もうなくなってしまったんだったな。」
「うん。カフカは小学校とか行ったの?」
「いや、帝國大學には行ったが、それも中途で戦争が始まってな。知っての通りだ。」
「もしかして、親が?」
「ああ。一から全て教えてくれたからね。運の良いことに、飛び級でいけたよ。特例措置、だそうだ。ああいうところだけは、陸軍に感謝せねば。」
「ふうん。……凄かったんだねぇ。」
「まあ、莞爾(かんじ)先生に色々と教えてもらったからね。そこが大きい、かな」
「うーん、まあいいや。えっとね、今の中学校ではね、色んな人がいるんだ。勉強だけが得意なひととか、スポーツが出来るけれど勉強は苦手な人だとか、どちらもできるひととか、ね。そういえば、作家を目指している人もいたかな。」
「へえ、そりゃあ凄いな。個性的なやつもいるんだな。」
「そうだね、みんな個性的だよ。」
他愛のない話を、一葉はする。カフカにとってその何もかもが新鮮だった。自分が大日本帝國の遺産だというだけで、かび臭い家に一人隔離されている彼に自由はない。彼の最後の記憶は、あの忌まわしき東条英機と、敬愛する石原莞爾に見下されながら、微睡みの中に意識を放ったことだけだ。両親や親友、妹の姿も、もう見ることは出来ない。記憶のなかで生き続けるといったところで、すでにその輪郭すらぼんやりとし始めている。彼に与えられた世界は、この一葉という女性と、窓の外に広がる変わらない景色だけだ。
「……なあ、一葉。」
「どうしたの、カフカ。」
「君は、どうして僕の世話をするんだい?」
「どうして、って……」
カフカは、まだ二十歳程度の肉体を見ながら、独り言のように呟く。
「いい加減、僕もそろそろここから出されるはずだ。もう冷戦は終わった。僕みたいな、コールド・スリープから目覚めた帝國時代の異物が紛れ込んだとしても、世界は否定しないはずだ。君もお役御免になるだろう。けれど何を考えているのか、上白川家は僕を手放そうとしない。君は飽きないのかい? 僕なんかと話していて。」
「飽きないよ? 私はカフカのことが大好きだから、カフカと一緒にいることだけで幸せだもの。この一秒々々がなくなるくらいなら、死んでもいいわ。」
その言葉に、カフカは狂気のようなものを感じた。その瞳は正常で、いつもと変わらない。自分を好きと言ってくれたのも嘘ではない。だが、それとどうして死が繋がるのだろうか。
唐突に、カフカは、今朝見た蟻を思い出した。彼は自分に反抗した。自分を縛る鎖に反抗したのだ。動物的本能というものに、必死で抗っていたのだとカフカはようやく気づいた。己の宿命に抗おうとする心が、そこにあったとカフカは理解した。
「なあ、一葉。」
「なあに、カフカ。」
「俺、家出しようと思う。一緒に来てくれ」
異物としての宿命に、抗おう。彼女と、できる限りの反抗を、してみせようじゃないか。
蜘蛛の巣に気づいたバッタは、この芝生から出ることを決意した。
蟻とバッタ
今回の作品は、最近、蟻とバッタをよく見かけることから思いついたお話です。カフカの正体については、皆様色々とご思案ください。カフカとは変身するもの。一つの正体が全てではないのです。
「ある朝、グレーごる・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っていることを発見した。……」
――カフカ『変身』より(高橋義孝訳)