龍の肝ほど苦いものは無い
病に罹ること数百年。古臭く不便な時代を生きていると、現代はなんて便利なのだろう。体はおろか心の成長も横這いのまま、衣は着物からセーラー服へと移ろっていた。普通の、八十年ほど生きて死ねるような限定的寿命を抱えた女子達に囲まれる生活は退屈しない。主体性を変化させてきた女子はスカートを膝丈までたくし上げ、肌をルースパウダーでコーティングし、武装を覚えて生きている。自分もまたその時代に合わせて容姿を変え、言葉遣いも整えて溶け込んだ。何時だって少女だった。何時だって少女にしかなれなかった。
彼女達が好きなアイドルに溜め息を吐く昼休み、曇りがちな空の下で弁当を頬張っていた。不死であるが故に腹も空かず、食べずとも生きていけるが、学校という環境で女子高生として擬態するには食事することを忘れてはいけない。焦げ目のきつい玉子焼きを頬張っていると、背後の出入口から金属の重苦しく軋む音が響き、薄暗い空間から長い髪を後頭部に高く結わえた少女がランチバッグを揺らして背後へとやってきた。
随分と上背な彼女はスカートの丈を膝下十センチを厳守としており、風にもはためかぬ鉄壁を見上げると、黒いはずの瞳が此処からでもよく見える。――瞳の奥では菫の花が幾重にも咲いている。スカートの奥には尾が生えている。彼女も謂わば似て非なる者だった。
「竜胆ちゃんもお弁当?」
「ええ、そうです。今日は購買でラスイチの焼きそばパンを勝ち取ってきました」
「うわぁ、すごいね」
竜胆と出逢ったのは七十年ほど前だろうか。あの時は戦時中で爆撃を受けてバラバラになったものだが、瓦礫の影で再生する肉体を見詰める女がいた。あの時の彼女は少女ではなかった。大人の女が飛び散る体を見るなり「可哀想に、死ねないのですか」と吐き捨てたのは今でも忘れやしない。
龍の化身。自分の病の核がそう告げる。世界の循環器官の役割を担う龍の肝を喰らえば病から――不死から解放される。内なる誰かが囁いてから七十年、何故か永き人生を共にしていた。稀に同じ屋根の下で暮らしたこともあった、何年も会わないこともあった。その間に何度肝を狙ったのか、何度阻まれては体をバラバラにされたのか。あの痛楚たるや、益々死への憧憬を加速させるだけだった。
「鶏頭さんは料理上手ですね。私にも分けてくれませんか」
「レバーのソース煮はどう? 竜胆ちゃんは何時も顔色が悪いから」
「まぁ……。それは元からですよ」
そういって彼女は焼きそばパンを大きな口で齧り、頬を膨らませては隣へと腰掛ける。晴れとも曇りとも言い難い空の下での食事はぱっとしない。かといって天気にこだわりがあるわけでもない。たとえ雨が降ろうとも彼女の力なら雨を止ませ雲を裂くくらいは容易いだろう。しかし此処では彼女もまた女子高生の端くれに過ぎない。彼女のお気に入りはいちご牛乳だし、友人もいる。若手俳優の好みだってある。
人ではないが人らしい。自分を擬態と称するなら、彼女は同化。何時か龍であることを忘れてしまうのではないかというくらいに自然であるからこそ、そこに綻びを見出したくなる。
「ねぇ、竜胆ちゃんも死なないなら肝くらい分けてよ。さっさとこの病をどうにかしたいのよ。解るでしょう、不死が何を齎すかを」
喪失。命は単独では生きてはいけないと、死ねぬ体を得ては痛感した。何故あの娘は歳を取らぬのか、あれは化け物だ。いちゃもんをつけて石を投げる村人。それでも守ってくれた家族は殺された。唯一生き残った母は匿ってくれたが死んだ。仲良しの友達らは挙って老人となって土へと還る。自分を知る者は消える。何度繋がりを得たところで軈て忘れ去られる。不死は実質は死と変わりがないのに、主観が生き残ってしまう。
小娘の自分にも恋人がいたこともあった。若いままの自分を捨てた者もいれば、それでも愛していると身も心も結んだが、種が芽吹くことはない。不死に終わりがないということは繁栄の必要もないということ。
滅茶苦茶にされたのだ。それでも生きていけたのは心も成長しないから。常にリセットされて生まれ変わるからこそ、玉子焼きは何時だって上手く焼けない。当て付けのようにレバーを食べ続けてしまう。しかし彼女が表情を変えたことすら、ない。
「何を齎すか、ですか。さぁて何でしょう」
ソースのついた唇を舐めるや否や、丸みを帯びていた舌は尖り、伸びては先端が二股へと分かれる。パンを包む手のひらからは花咲くように鱗が一面へと浮かび上がり、青緑の色彩が一気に逆立った。
最早人の輪郭すら失った異形は首を傾げ、自分の腹部を撫でている。その奥にあるもの、不死の痛みを癒す龍の肝。しかし彼女は冷淡な虎目石を眼孔で転がし、中央で咲き続ける菫を覗かせていた。
「鶏頭さん、病というものは身を蝕み心を砕くものです。しかし不死とは永遠の恒常を意味します。何も変わらないんです。ですから病と定義するには少し、違和感を覚えますね」
「竜胆ちゃん、でもそんなの聞き飽きたのよ」
「そんなに欲しければ奪うことです。それでも貴女は私から肝を引き摺り出せないことでしょう。何故だか解りますか? 貴女には死はおろか、生すら投げ打つ覚悟がない。貴女の不死たる理由を見い出せない限りは」
頭部すら龍そのものとなった彼女は大きな口を開け、焼きそばパンも、私と弁当箱すら一口で丸呑みした。どろりと生温い粘膜は今まで見てきたどの闇よりも深く濃い。実は闇すらそこにはなく、一点の無だけが彼女の内側に根付いていた。
彼女に呑まれるのは初めてではない気がした、しかし思い出せない。舌に転がされる感触も、喉を通過する息苦しさも覚えているはずなのに、それから先は何も、何も思い出せやしない。唾液滴る粘膜に包まれる中、底へと落ちる私に彼女がそっと語り掛けた。
「たとえ不死を手放せたとしても、何処だって阿鼻の世界でしょうね」
私は知っていた。阿鼻がどんな世界かを。死者でもない者が行き着けられる唯一の地獄を。どんな地獄? 可笑しい、思い出せない。それでも私は知っているのだ。
何処かの世界で必ず産み落とされてしまう絶対的な少女であること。不死の根源にすら近付けぬ永遠の少女であること。私がそんな少女であることも、竜胆が少女の姿を選んだ理由だけは知っているのに、彼女に呑まれる度に私は事実を置き去りにして、少女のままの人間のとして、玉子焼きが下手くそで肝臓ばかりを求めるしかない鶏頭へと生まれ変わってしまう。
それが業であるのだと、竜胆が喉を震わせた。告げた喉元は死生を奪い去る入口でしかない。私は落ちるしかない。
肝に触れるということは、輪廻を脅かすということはそういうことなのだと、内側の誰かが語る。その声が誰のものかなんて、未だに想出できそうにない。
龍の肝ほど苦いものは無い