はじまり
玄関で飼っている
犬の鼻先は黒々と湿っている
「犬は鼻が濡れてると健康なんだよ」
母親が犬の鼻先をちょんちょん触りながら言う
「どうして?」
ぼくは訊くけれど
答えは返ってこない
「よしよし、健康だねぇ」
犬は母親の顔を少し迷惑そうに見る
あれからもう
20年以上が経ったわけで
健康だった犬は死んでしまったけれど
わたしは今でも犬の鼻先が濡れていると
「健康だな」と当たり前のように思う
*
たった3回しか
会わなかった親友に
「黒柴がいちばん好きなんだ」と言ったら
「前に会った時も言ってたよ」と笑われた
彼女はまだ覚えているだろうか
わたしは今は覚えている
彼女に連れられて
はじめて入ったちいさなBARで
コアントローのカクテルを飲んだ
ほろ苦いアクエリアスみたいな味がした
19歳ではじめて読んだ
江國香織さんの小説に出てきた
コアントロー味のシュークリームは
主人公をあっという間に幸福で満たしていた
*
ぼくの鼻先を
「犬みたいだね」と笑いながら触った
ぼくのはじめてだった人は
犬のマグカップをくれたっきり
連絡をとっていない
眠れない夜に
インスタントの珈琲を飲みながら
自分の鼻先をちょこんと触ってみる
ただひんやり冷たいだけの鼻先
わたしのはじめてたちを燻らせながら
時間と指先を持て余す
はじまり