はじまり

玄関で飼っている
犬の鼻先は黒々と湿っている
「犬は鼻が濡れてると健康なんだよ」
母親が犬の鼻先をちょんちょん触りながら言う
「どうして?」
ぼくは訊くけれど
答えは返ってこない
「よしよし、健康だねぇ」
犬は母親の顔を少し迷惑そうに見る

あれからもう
20年以上が経ったわけで
健康だった犬は死んでしまったけれど
わたしは今でも犬の鼻先が濡れていると
「健康だな」と当たり前のように思う

たった3回しか
会わなかった親友に
「黒柴がいちばん好きなんだ」と言ったら
「前に会った時も言ってたよ」と笑われた
彼女はまだ覚えているだろうか
わたしは今は覚えている

彼女に連れられて
はじめて入ったちいさなBARで
コアントローのカクテルを飲んだ
ほろ苦いアクエリアスみたいな味がした

19歳ではじめて読んだ
江國香織さんの小説に出てきた
コアントロー味のシュークリームは
主人公をあっという間に幸福で満たしていた

ぼくの鼻先を
「犬みたいだね」と笑いながら触った
ぼくのはじめてだった人は
犬のマグカップをくれたっきり
連絡をとっていない

眠れない夜に
インスタントの珈琲を飲みながら
自分の鼻先をちょこんと触ってみる
ただひんやり冷たいだけの鼻先

わたしのはじめてたちを燻らせながら
時間と指先を持て余す

はじまり

はじまり

  • 自由詩
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-12

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