連載 『風の街エレジー』 9、10、11

9 「這闇」

 
 いい加減にしてくれ。そう叫んだのは、銀一達を迎えに出て来た西荻平助だった。若い刑事に、追い返されたばかりだと窘められたのもその筈で、成瀬はほんの十分前に屋敷から出ていけと使用人から怒鳴られたとの事だった。
 何でも、容体が悪く玄関まで歩いて出て来れないという、家主・幸助の状態を成瀬が不服としたのが原因らしい。わざわざ話を聞きに来たのだから顔ぐらい見せろ、それが無理ならこちらから出向く。成瀬の言い分に、当然追い払えと指示を受けている使用人は首を縦に振らない。話にならんと土足で上り框に靴を乗せた瞬間、この家の用心棒が出て来て成瀬は摘まみ出された。警察である成瀬はそれでも納得がいかなかったが、立入り捜査の命が出ているわけでもない一般市民の家に、拒否されたにも拘らず上がり込んで良い、という法律はない。
 西荻家の用心棒の名は、難波と言った。
 銀一と春雄が玄関に現れた時応対に出たのもこの難波で、彼らは顔見知りだった。難波は今でいうハンデを負った二十代後半の青年で、体は大きいがあまり難しい事を理解出来ない。ただシンプルな命令に対しては、愚直なまでに完遂する徹底姿勢を示す事で有名だった。例えば、目の前の男を倒せ、という指示を家の人間に出されようものなら、相手が降参しようが逃げようが、『ぶっ倒す』まで止めない怖さが彼にはあった。
「平助、いる?」
 と春雄が難波に尋ねると、難波は何も言わずに頷いて家の中に引っ込んだ。近くにいたと思われる平助が救われたような笑顔で現れるのと、騒がしい成瀬が舞い戻って来るのは同じタイミングだった。平助は使用人から話を聞いていたらしく、成瀬の顔を見た瞬間、いい加減にしてくれと叫んだ。
「難波! この方を麓まで送って差し上げろ!」
 難波は何も言わずに頷いて、玄関に降り立った。成瀬の顔が歪む。
「待て!違う!小便がしたいんじゃ!待て!ワシは!…あー!」
 喧騒が去るのを待って、銀一は平助の顔を見つめた。平助は照れたように笑って、すまんな、と言った。
「調子、悪そやな」
 春雄が言うと、平助は頷いて、
「最近まともに喋れてないわ」
 と答えた。春雄は首を横に振る。
「お前や。俺はお前の話をしとるのよ、平助」
「幸助さんと話をしようとは思うとらん。お前と話ができりゃあ、それでええんじゃ」
 春雄の言葉を受け継ぐように銀一がそう言うと、溜まっていたものを吐き出すように、平助は溜息と涙を零した。青白かった顔に、赤みが戻った。
「何があった。全部話せ」
 銀一の言葉に、平助は泣きながら何度も頷いた。



 西荻家の二階、平助の自室で話を聞いた。
 机も座布団もない部屋の真ん中に三人は胡坐をかいて座り、額を突き合わせる。
 父・幸助変貌の発端は、バリマツこと松田三郎の死を、女房であり三郎の姉でもある静子から聞かされた事が原因ではないかと、平助は思っているようだった。確かにその後幸助は一日中険しい顔で考え事をする時間が増え、かと思えばそわそわと上の空である事も多かったという。不安定と言えば不安定だった。しかし平助の目を見て話をする事は出来たし、「ストレスが溜まっているのだろう」という印象の範疇を越えはしなかった。幸助のもとへ今井という警察官が現れたあの夜までは、今程ひどい状態ではなかったが、明らかに変化が始まったのは、バリマツの訃報以降なのだ。
 幸助の抱えていたストレスは、平助にも思い当たる節があった。
 父である平左とは違い、この一年近く幸助は自らで農地に出ようとせず、俗に言う寄生地主のような状態だった(地代徴収の話ではなく、全てを他人任せにするようになった)。しかしそれは体調面からくる理由ではなく、恐らくは和歌山へ出向いて仕事を探してる事が大きく関係していたのだ。あまり大きな声では言えなかったが、既にこの土地を国に買い取らせる方向で幸助達家族の意向は固まっており、具体的な詳細を聞かされてはいなかったが、その為の準備を水面下で進めている事だけは、平助も知っていた。
「普通に、外に出歩けてたんか」
 意外そうに銀一が問うと、平助は大きく頷いた。
「気持ちの悪い話をするようやが、なんやったら身の振り方決めてからは前より元気やったくらいよ。母ちゃんと二人して出かけては、夜遅うなるまで戻らん日も多かったけ」
「言うな、言うな、そういう事をお前」
 春雄が下世話な想像をかき消すように手を振って、そう言った。
 だが実際は和歌山まで足を延ばして、移住の為の地固めに励んでいたのだとすれば、涙ぐましい努力だ。幸助の女房、静子の実家が和歌山にあるとは言え、西荻に嫁いで既に二十年以上の月日が流れている。親兄弟や親戚筋を除けば、縁故などは全て途絶えたに等しい。しかも静子の弟は他府県まで名前の聞こえた、あのバリマツである。故郷でありながら、いかんせん不利な立場だった。そんな場所で新に生活の場を切り開いて行かねばならぬ上、もちろん赤江の住民である事実を明かせば、鼻を摘まんで煙たがられる事も、当然幸助達には分かっていただろう。
「もう明日、明後日にでも出ていけるぐらい、準備が出来てたんか?」
 銀一のその問いには、平助は首を振った。
「全然よ。気持ちは固まってたけど、さてそっからどうしようかて、もうほんまその程度。だから、疲れはあったよ、そういう意味では」
「おばさんはどうなんや、元気にやってんのか」
「母ちゃんは、今、和歌山帰ってる」
「…そうか」
 水面下で推し進める、と言っても話は簡単ではない。西荻の所有している土地は広大で、農地解放で田圃のほとんどを失ったとは言え、計算の出来た西荻平左は自分の土地を全て同じ用途で使用する事を以前より嫌っていた。もちろんGHQの介入により、農地をタダ同然で買い上げられる事があらかじめ分かっていたわけではない。単純に、大規模な所有地を全て田圃、全て畑、全て工場として使い切る事に馬鹿馬鹿しさを感じ、立地と需要を考慮して目的別に使用できる人間に貸し与える方が、効率的で賢いやり方だと誰に教えられるまでもなく己で判断が出来ていた。西荻がこの荒くれた土地において長年栄えて来た理由として、そうした平左の聡明さも関係していたわけだ。そのおかげで今尚、繁盛してるかは別にしても、赤江には西荻が所有する土地の上に、いくつもの工場が建ち残っている。
 加えて、西荻は解放対象にならなかった山林までも抱えている。これらの土地を一気に引き払うなど、思い付きや勢いでなせる事では到底なかった。ましてや、誰の目から見ても幸助は平凡な男だった。
 ぼりぼりと頭を掻きながら、春雄が言う。
「そらまあ、よう分からんがこの土地の人間やもの、思うようにはなかなかいかんのじゃろうなあ。俺は実際にこの目で見たわけじゃないから聞くんやけど、幸助さん、どの程度悪いんや。竜雄に聞いた話じゃあ、完全に塞ぎ込んでるみたいに言うてたぞ。仕事とか、あれこれやれてんのか、今」
 すると平助は、神妙な面持ちでまたも首を横に振った。
「もっと悪いわ。ただ黙って寝込んでくれとったらええんやがな。あれはなんやろうな。何かに憑り付かれてるような、そんな気ぃするわ。せやけど、バリマツさん。…三郎叔父さんが死んだって話を聞くまでは、なんてことない、何事もない日常やったんやけどな」
「じいさんがあんな目にあってるんや、何事もってことはないやろう」
 気を使って銀一がそう言うと、平助は苦笑いを浮かべた。
「そうは言うてもお前、じいちゃん死んで一年やさかいな。そりゃあ色々辛い思いはしたけど、ようやくここへ来て少しは立ち直りかけてたんや。普通に笑える日かて、そらあったよ」
「ああ、まあ、そういうもんなんかな」
「すまんな、気使ってもろて。ただ、三郎叔父さんが死んだって聞いた時も今程やなかった。やっぱりトドメ刺したんは、あいつや」
 奥歯を噛み締めながら言う平助の言葉に、銀一と春雄は身を乗り出した。
「それはその、警察官ってのがここへ現れてからか?」
 と春雄が尋ねる。
「そや。あのオッサン、ほんま腹の立つ」
「今井っていう名前なのか?」
「なんで、春雄が知っとるの?」
「今朝、竜雄と喋った」
「ああ、ああ、そうかそうか。ありがとうな、礼も言うてなかったな」
「そんなんええわ。平助も喋ったか? その、今井ってオッサンと」
「喋ったっちゅうか、玄関でちょっとやわ。オトン呼んで来いって、忠告しに来たんじゃあ言うて」
 銀一と春雄は顔を見合わせた。銀一が尋ねる。
「その忠告とやらの内容を、幸助さんからちょっとでも聞いたか?」
「話せる状態やないよ。もう完全にブルってもうて」
「そんな、いきなりか? その日、今井に会ってすぐか?」
「そうや。何を言われたんやろうて、俺かて不思議よ。何か悩みみたいなもんはもともとあったんやろから、あとは引金みたいなもんなんかなあとも思うがよ」
「例えば?」
 と、春雄。
「いや、それはわからんけど」
「そうか」
「今度会ったらマジで逃がさんわ。いくらオマワリやろうがカタ嵌めたる。あいつのせいで、家ん中がグチャグチャじゃ」
 銀一と春雄の背中をゾッと悪寒が駆け上った。今、平助はなんと言った?
 今度会ったら? そう言ったのか?
「平助」
「何や、銀。怖い顔して」
「…今井っていうそのオッサンな」
「おお」
「三日前に、殺されたってよ」
「…え?」
 その時だった。平助の部屋の扉が、少しだけ開いていたらしい。当然誰もその事を知らなかったし、開いた隙間から人が覗いていた事にも気づいていなかった。突然ガタガタと人が走り去る音がして、三人は飛び上がる程に驚いた。
 平助が立ち上がって外へ出る。
「父ちゃん!」
 と平助が叫んだ。銀一と春雄も立ち上がって、後を追った。
 部屋から顔を出すと、毛布を頭から引っかぶった人影が廊下の角を左へ折れるのが見えた。
「おいおい」と思わず春雄が口走り、銀一は唾を呑み込んだ。
 塞ぎ込んでいるとか、そういう状態でないのは明らかだった。
 (完全におかしくなっとるじゃないか)
 それは銀一達の目にも明らかだった。見れば平助の部屋の前から、幸助が駆け抜けた廊下の曲がり角まで、小便の川が出来上がっていた。
 後を追って廊下の奥へ消えた平助に続いて、銀一達も部屋を出た。
 階段を下りてすぐの玄関で、難波がおろおろと頭を振っていた。既に幸助と平助の姿はない。
「どっち行った!? 外か!?」
 銀一が聞くと、難波は黙ったまま泣きそうな顔で、外を指さした。
「お前も手伝え!幸助さん捕まえろ!絶対捕まえろ!」
 そう吐き捨てて、銀一と春雄は家の外へ飛び出した。



 家の前には誰もいない。庭を抜けて敷地の外へ出れば、あの七面倒くさい成瀬という老刑事に捕まるだろうと思うと、躊躇われた。
 待てよ、と銀一は目を凝らす。門扉は閉ざされたままだ。見れば先程までぼーっと突っ立っていた庭師の姿も見当たらない。
「どうする、裏手に回るか」
 辺りを見回しながら、春雄が言った、その時だった。
「こちらです!」
 言われて振り返ると、屋敷玄関脇の左手奥から庭師がこちらへ走って来るのが見えた。銀一達が向かうと、庭師は踵を返して奥へと先導する。
 平助が倒れているのが見えた。地面に横たわり、脇腹を抑えている。屋敷に面した、裏山へ通じる脇道だった。
「どないした!」
 しゃがみ込んだ銀一の背後で、「うお」と春雄が声を上げる。
「お前それ、血か? 刺されたんか!?」
 脇腹を押さえる平助の右手の下から、赤黒い滲みが見る間に広がって行く。
「大丈夫や」
 と真っ青な顔で平助が答えた。医者を手配します、と庭師が屋敷へ走る。
「父ちゃん、山へ入ってしもたわ。…銀一、お前裸足け?」
「そんなんどうでもええ! 山て、そこの裏山か? お前は病院連れてってもらえ、俺が探してくる」
「マジで言うてんのかお前」
 と小声で春雄が言った。
「春雄、医者が来るまで平助頼んだぞ」
「はあ? いや、お前、え?」
 春雄の返事も待たずに、銀一は靴を履きに屋敷へ向かった。
 銀一が平助達の元へ戻ると、難波が側心配そうな顔でしゃがみ込んでいた。
「銀一、難波を連れて行け、役に立つ男や」
「分かった。ほな行こか」
「銀一」
「なんや」
 平助は全身をガタガタと震わせながら、すがるような目で銀一を見た。
「父ちゃん、包丁持ち出しとるわ。気を付けろ」
 見たら分かるわい。
 そう軽口を叩きかけて、銀一はやめた。びびっていると思われたくなかったのだ。
 銀一と難波が山へ入ってほんの十分も経たぬうちに、救急車のサイレンが聞こえて来た。後に聞いた話では、春雄が外に摘まみ出された成瀬刑事を名指しで呼びつけ、手配させたとの事だった。成瀬は終始大声で暴言を吐き続けたが、仕事は早かった、と春雄は語った。
 日暮れにはまだ時間があるというのに、切り開かれていない山に踏み入った瞬間から辺りが暗い事に、銀一は気が付いた。手ぶらで来た事を後悔していたが、与り知らぬ他人の家で懐中電灯を探す時間などなかったのだ。
 山に詳しくない銀一は、しっかりとした足取りで前を行く難波の背中を頼もしく感じた。しかし、彼がどこに向かっているのか分からず、ただ闇雲に歩き回ってるんじゃないのかいう焦りに似た不安もあった。もたもたしている内に、すぐに日が暮れるだろう。そうなっては人探し所ではない。遭難する恐れもあった。
「難波」
 先を行く男を呼び止めた。難波は振り返るものの、言葉を発しない。
「二手に別れよか。その方が早いやろ」
 銀一が言うと、難波は首を横に振った。
「何でや。…離れん方がええか?」
 難波は何度も強く首を縦に振った。
「そうでもお前、当てはあるんか?」
 銀一の問いに、難波は尚も首を縦に振った。そして自分の両目を右手の指二本で差し示し、やがてその指を山頂の方へと向けた。
「…何を見たって?」
「んお、んえ」
 難波は頭の上に両手を持ち上げ、三角形を作って見せた。滑稽なポーズだったが、銀一には理解出来た。
「家か?…小屋か? 小屋があるんか? この上にか?」
 難波は嬉しそうに笑顔で頷くと、また前に向き直り、踏み分けられていない獣道をずんずんと登り始めた。



 日はすぐに暮れた。時計を持っていないため正確な時間など知る由もないが、体感としては山に入って三十分も経っていないように、銀一には感じられた。
 前を行く難波が、時折自分の顔や膝を打ってくる枝葉を煩わしそうに叩いている声と音だけが、今の銀一には道標だった。
 正直に言えば、銀一は山に入った事を少し後悔していた。平助の手前格好付けてみたものの、特別山に強いわけでも詳しいわけでもないのだ。時折雲間から顔を覗かせる月のおかげで段々と目が慣れて来たとは言え、それでも暗闇の中を彷徨っている事に違いはない。難波には道筋が見えているのかもしれないが、銀一には識別出来るものが難波の存在意外何もないのだ。
 やがて難波が目指していた小屋が、月明かりの中で薄っすらとそのシルエットを浮かび上がらせた。まずは本当に小屋があった事に安堵する。見た所小さな作業小屋で、寝泊まりするような設備ではなさそうだった。林業に携わる人間しか使用しない倉庫のような場所なのだろうか。外から見る限り、なんの気配も感じられない。
 銀一にはその事が却って不気味に思えたのだが、難波は何も感じていないような足取りで入口に向かうと、無造作にドアの取っ手を掴んで回した。ドアは簡単に開いた。
「おい、気をつけろ!」
 明かりも付けにずに体半分を小屋に入れた難波に、三、四メートル後ろに立つ銀一が声を掛ける。
 難波はしばらく中を観察してが、やがてドアを閉めて、申し訳なさそうな顔で首を横に振った。
 どうやら難波はこの小屋に幸助が隠れていると確信していたようだが、当てが外れてしまったようだった。
 現状、手詰まりだ。
「おらんか。どうしたもんかの。他にこういう小屋はないんか? ここだけか?」
 銀一の問いかけに、難波は小さく頷き、俯いてしまった。
「そうか。ただでも、一直線に登って来たからな。幸助さんより俺らの方が早くついたんかもしれんぞ。ちょっとここで休憩するか」
 ちらりと後ろ姿を見ただけだが、幸助が今何かを目指せるような精神状態にあるかすら疑わしい。気休めとは思いながらも銀一が声を掛けると、難波は少しだけ笑って頷いた。
 小屋の前の少し開けた場所から離れて、木陰に身をひそめるような位置に座り込むと、銀一はズボンのポケットを上から押さえて舌打ちした。そう言えば、煙草とライターは春雄にくれたやったのだった。隣に腰を下ろした難波に、煙草はあるかと聞いた。難波は首を横に振った。
 どのくらい時間が過ぎたか分からないが、自分達以外人の気配がない事が、やはり銀一には心細かった。すぐそばに屈強な男がいると分かっていても、灯りのない夜の山は怖かった。
 それと同時に、味わった事のない恐怖も、銀一は感じていた。
 自分が一体何を相手にしているのか、全く分からないのだ。
 誰の意志で、何をしているのだろうか。
 単なる人探しか? 今はそうかもしれないが、何故こんな事になったのか。
 幸助は一体、どうしてしまったのか。その原因は、何なのだ。
 彼の父、平左は何故無残な殺され方をし、希代のヤクザ『バリマツ』までもが殺されたのか。
 そして警察官である今井という男の死と、脇腹を実父に刺された平助の青白い顔。
 幸助は今、この闇に飲み込まれた夜の山中で、たった一人で何をやっているんだ?
 それとももう、とっくに山を出て麓に降りたのだろうか。
 ヒヤリと冷たい想像が、銀一を襲った。
 得体のしれない何かが、暗闇の中からうねうねと這い寄って来るような恐怖だった。
 まさかな。幸助さんまで、殺されたりしないよな?
 …俺は?
「があ」
 突然難波が謎の声を発し、立ち上がった。銀一は小さく「んな」と声を漏らして立ち上がった。
「どうした、幸助さんか?」
 小声で尋ねる。
 二人の正面、五メートル程前方で背の低い木立が、ガサガサと揺れている。ぐっと目を凝らすと、明らかに風とは違う動きで左右に騒めいているのが見えた。
「なんじゃあ」
 と銀一が囁いた時、小さな猪が鼻を鳴らして出て来た。
「なんじゃい!」
 と銀一が声を荒げると、驚いた難波が肩をびくりとそびやかし、ウリ坊も一目散に逃げていった。


 それからどのくらい経っただろうか、探す当てのない銀一は一度麓に降りて、幸助が戻っていないかだけでも確認するべきだろうかと思い始めた。
 小屋の側を離れて、登って来た道とは反対側の山の斜面を二十分は歩いていた。
 声が枯れる程幸助の名を呼ぶが、全て闇に吸い込まれて終わった。
 段々と静かな山の気配にも慣れ、正体の掴めない恐怖にも慣れて来た頃だった。
 難波が不意に立ち止まり、月明かりでお互いの顔が見れる場所へ移動すると、身振り手振りで何かを伝えようとし始めた。
「何」
 難波は右手の人差し指を空に向け、そして両手で何かを握る真似をして、野球のバットを振りぬくような動作をして見せた。
「…何や、と場か? ああ、そら、明日もあるよ」
 銀一の返事を受けて、難波はうんうんと頷く。
 明日も仕事があるのか、と聞いているのだ。
 難波は少し考えて、自分のこめかみをポリポリと指で掻くと、とん、と銀一の肩を押した。
「何や、何の真似や、危ないやろ」
 銀一が言うと、難波は苦笑いを浮かべて自分の胸をどんと叩いた。
「お前、まさか俺に帰れなんて言うてないよな? お前一人で探す言うてんのか?」
 若干の苛立ちを分からせるような口調で銀一が言うと、難波は鼻息を荒くして頷いた。
「あほか。平助に約束したんは俺じゃ。お前だけ残して帰れるかいや」
「んがあ!」



 そこで、銀一の意識は途切れた。

10 「赤暗」

 瞼を開くと強い日差しに一瞬視界の全てを奪われた。朝か、昼かも分からない。
 自分に何が起きたのか分からず、銀一は目に映る背の高い木々と隙間から覗く太陽の光に眩暈を覚え、再び意識を失いかけた。
 首筋に違和感がある。仰向けに倒れているせいか、後頭部も少し痛む。
 ゆっくりと上体を起こして辺りを見回すと、まだ幸助の探索へと入った山の中にいるようだ。日が昇っているということは、山中で一晩を越したという事か。
 他に体に痛む箇所はないか注意しながら立ち上がる。山の斜面に倒れていたせいで、ふらりとよろめく。…難波はどうした。あいつはどこだ?
「難波!」
 大声で叫んでみたものの、思った程声が出ない。もう一度呼んでみるも、こだますばかりで返事はない。相変わらず、人の気配もない。
 銀一は山の斜面を頂上まで登り、昨晩立ち寄った山小屋を目指した。混乱していたせいで方向感覚が失われていた。もう二度と山になんぞ入らん、と銀一は自分に誓う。三十分程彷徨った後小屋を発見し、扉を開けて中を覗いたが、難波の姿も幸助の姿も見当たらなかった。やはりただの倉庫だった。ロープや脚立、段ボール等が隅の方に転がっているだけで、人が隠れていられそうな場所すらない。使われなくなって久しいらしく、中はどこも埃だらけで立ち入るのは無駄だと感じた。あまりの人の気配の無さに、空恐ろしくさえあった。
 玄関の位置から自分が登って来たであろう道に当たりを付け、今度は下っていく。
 麓へ戻れているという確信は全くなかったが、留まる事がとにかく嫌だった。怖かった。
 倒けつ転びつ一時間程駆け続け、ようやく西荻の屋敷の屋根が見えた時、危うく銀一は涙を零しそうになった。
 ノンストップで山を駆け続けた銀一は、屋根を見下ろしながら両膝に手を置き、全身を上下動させて息を整える。こめかみの脈動と、ゼエゼエと喘ぐ喉がうるさい程であった。
 屋敷をぐるりと囲む庭まで降り、ほっと一息ついた所へ、銀一の名を呼ぶ声が二つ聞こえた。春雄と和明であった。
「銀! 心配したんやぞお前! 今までどこにおったんじゃ!」
 春雄はそう言いながら駆け寄ると、心から安堵したような溜息を付いて、銀一の側で地面に座り込んだ。
「…平助は」
 か細い声で銀一が言うと、
「病院へ運ばれたっきり…」
 と、春雄は首を横に振った。和明はゆっくりと近付いて来ると、無言で銀一にコップに入った水を差しだした。
「ありがたい。昨日から何も飲んで…、何で酒じゃ!」
 日本酒だった。この時ばかりは酒豪の銀一ですらベッと吐き出した。人が散々夜の山中で幸助を追って駆けずり回る間、この男はコップに日本酒を入れて待機していたのか。そう思うと味わい慣れた腹立たしさと可笑しさが同時にやって来て、銀一は和明の脛を蹴った。和明は寸前で飛び退ってそれを交わした。
「元気そうやないのー。まあ、良かったわ。水持って来たるよ、待っとって」
「あいつ、殺したろか」
 飄々とした軽やかな動きで屋敷へと戻る和明の背中に、銀一は吐き捨てた。
「まあ、そう言うてやるな」と春雄。「あの酒かて別にこうなる事を想定して準備しとったわけやないよ。昨日は昨日で大変やったんやぞ」
 聞けば、こちらも修羅場だった。
 春雄が成瀬を名指しで呼びつけ、平助の為に救急車を手配したまでは良かった。相変わらず留まる所を知らぬ勢いで捲し立て続ける成瀬を、初めのうちは春雄も適当にあしらっていた。「お前らみたいなボンクラどもが」。「エッタのくせして流す血は赤いんじゃの」。「一人くらい間引きされた方が御国の為にもなるじゃろが」…。
 成瀬の横に突っ立っている若い刑事は、名前を榮倉と言った。段々と成瀬の相手をする事に嫌気のさして来た春雄は、その怒りを榮倉に向けて吐き出すようになる。「ヤクザばっかり相手にしよると、オマワリもヤクザと見分けがつかんようになるの」。「これからの時代を支えて行くんはこういう差別と偏見のない、榮倉ちゃんみとーな男前にお願いしたいもんじゃ」…。
 特に問題を起こしていない段階から春雄を罵倒し続ける成瀬の手前、榮倉も困った顔をしながら黙ってそれを聞いていたのだが、事態が急変したのは日が暮れて、騒ぎを聞きつけ馳せ参じた和明が西荻の家に到着してからだった。
 坂道を洋々と登って来た和明は、門扉を挟んで西荻家の内と外でやり合う春雄と成瀬を見るなり、こう言い放った。
「なんじゃいこの皺くちゃのヨボヨボ。おからかい、酒カスかい」
 そのまま横を通り過ぎようとした和明の尻に、成瀬が正拳月突きをお見舞いする。そこからはちょっとした乱闘騒ぎだった。もちろん相手が警察だと分かると和明も本気で殴りには行かないが、成瀬のハンチングを奪って白髪頭をぺちぺちと叩いた。真っ赤になってやり返す成瀬をなだめようとする榮倉に、痺れを切らした春雄が「お前も口ばっかりやのう。尻に敷かれとらんでガツンと言うたれや」と口を滑らせた。もちろん若いとは言え、榮倉も歴とした刑事だ。「何じゃいお前はさっきからコラ!」となり、二対二の乱闘へ。
「…何をやっとんだ、お前らは」
 呆れた様子で銀一はそう漏らし、手で顔を覆った。
「それでも心配して、今までに寝ずにお前が戻るのを待っとるんやぞ。一昨日の番遅うに海へ出てから、今までずっとやぞ」
 春雄の言葉に、銀一は黙って頷いた。
「所で、難波はどこや」
 銀一がそう言うと、春雄は口をぽかんと開けたまま、銀一の背後に視線を向けた。
「どこて何。お前ら一緒に山入ってったやろが」
「え…」
 銀一の全身を、唐突な震えが駆け巡る。
「え、お、ウソやろ! 戻ってないんか!」
「知らんやんけ! 後からゆっくり降りてくるんちゃうんかい! それかもう屋敷の中へ…」
「違う、違う、そうや!いや! 俺! 俺は!」
「何や、銀、おい、どうした!?」
 嘘偽りなく、銀一はその事を今の今まで忘れていた。遭難せず無事に下山する事だけを考え、無我夢中で山中を走り続けたからだろうか。それとも、春雄と和明の顔を見て安心し切ってしまったせいだろうか。飛び掛かって来た恐怖に現実を取り戻した銀一は、またもや混乱する。目の前が真っ暗になる気配がして、先に自らの両手で視界を覆い隠した。
 そうだ、自分は、突然意識を失い、気が付けば、朝になり、山小屋を探し、誰もおらず、不安で、あの時自分は…。難波はどうなった。あいつはあの時、確かに何かを言おうと…。
「難波!」
「おい! おい! 和明!」
「なんや、どないした!」
「分からん!手え貸せ!銀が!」
「おいおいおい!」
 戻って来た和明の手から、水の入ったコップが滑り落ちた。
 二人掛かりで動転する銀一の体を抑え込む。
「難波! 難波!」
 銀一は羽交い絞めにされたまま、屋敷に向かって何度も声を上げた。しかし、難波が現れる事はなかった。



 銀一と春雄が西荻家を訪れた翌日の、昼である。
 銀一は落ち着きを取り戻すと意を決し、昨夜自分に起きた事を春雄と和明、そして成瀬と榮倉にも説明して聞かせた。
 話を聞く間、成瀬が一言も罵詈雑言を吐かなかった事が、却って皆の恐怖心を煽った。
「幸助がおかしいなっとる言うのは、ほんまやったみたいじゃのう。恐ろしい話やないけ。我が子である平助を刺したんがほんまに幸助やと言うなら、いよいよこの家は終いじゃ」
 成瀬の言いように、銀一達は腹を立てた。立てたが、言い返しようもなかった。
 成瀬は黄色く濁った眼で銀一を睨み付け、言う。
「所でお前は。…お前はなんじゃ。このワシにも全くわけがわからん」
 その言い方も怖い。だが怖いとは言えず、銀一はむすっとした顔で成瀬を睨み返した。
「念のために聞くんやけどな、銀、お前、難波に殴られたっていう事はないんか?」
 言い辛そうな顔で春雄が銀一に確認する。それは銀一も考えた。しかしあの時難波は銀一の正面に立っていたのだ。仮に難波が殴りかかって来たとして、気付かない事などありえない。
「ないわ。そういう奴と違うやろ」
 銀一の代わりに、和明がそう答えた。銀一も頷いて見せた。
「ああ、念のためや」
 冷静に状況だけを考えれば、銀一は何者かに背後もしくは横から襲われて意識を失った。そして翌朝目が覚めた時には同じ場所に銀一の姿しかなく、難波はいなかった、という事になる。
 春雄が危惧したように、難波は以前から、時折他人には理解不能な行動をとると言われていた。しかし、昨晩一緒にいて銀一はそんな不審な様子を微塵にも感じる事はなかったし、ましてや何者かに襲われて難波一人が逃げる事など、想像も出来なかった。肉体労働で鍛えた銀一よりも、難波の体はずっと大きく、怖いもの知らずなのだ。
 腕組みをしたまま、成瀬が言った。
「昨晩はずっと、ワシらは屋敷の前で貼り込んどった。救急車呼んだった後も、お前らがいつまでたっても出てこんからワシらも帰るに帰れんで、老体に鞭打って徹夜じゃ。断言したる。昨晩は、西荻幸助も、その難波ゆうボンクラも、敷地からは一歩も出とりゃあせん。少なくとも、あの坂を下って街へ出たっちゅう事は、絶対にありえん」
 幸助は依然として行方不明、平助は包丁で刺され病院へ運ばれた。
 本来であれば主のいない西荻家にこれ以上留まる理由はない。しかし、平助に向かって父親を探すと約束した以上、銀一はこの場を離れる決心がつかなかった。
 実は、平助に付き添って病院へ向かった使用人から連絡があり、出血が酷く手術が長引きはしたものの命に別状はないとの報告が、昨日の夜の内には当家に入っていたそうだ。しかし現当主が異常をきたして謎の失踪、その息子が刃物で刺されて病院送りとあって、残された家の者達も陣頭に立つ人間を失い大わらわだった。加えて昨晩の春雄と和明は、ともて話しかけられる雰囲気ではなかったそうだ。
 聞けばそんな致し方ない理由で、昼になってようやく遅い知らせを庭師から受けた銀一と春雄、和明の三人は、ほんの少し胸を撫で下ろした。しかしそれも一瞬だ。全く好転しない事態に考えの持って行き場を失い、所在なく玄関前に立ち尽くした。
 銀一は一体何者に、どのような襲撃を受けたのか。銀一には、気配すら感じる暇なく意識を飛ばされた経験など一度もなかった。話を聞いた春雄と和明も信じられない様子だった。例え二人がかりで何十発殴った所で、猛り狂った銀一の意識を奪う事など出来そうにないと思ったからだ。
 そして難波はどこへ消えたのか。連れ去られたのか、はたまた銀一を襲った人間を追ったのか。
 西荻家の玄関先で考えているだけで答えが出るとは、到底思えない事件だった。



 制服を着た警察官が一人、成瀬の側にやって来て耳打ちした。「なんじゃ」と成瀬はもう一度繰り返すように促し、沈黙の後、
「時和じゃぁ!?」
 とダミ声を張り上げた。成瀬が勢いよく振り返り、その場にいた全員の視線がそれを追う。
 門扉の前で、庭師と立ち話に興じる志摩太一郎の姿があった。
 銀一達は顔を見合わせる。なんで志摩がいる?
 元はと言えば、警察組織に睨みを効かされ思うように動けない時和会・志摩の代わりに、銀一達が西荻家を訪れた側面もあるのだ。もちろん平助から相談を受けていた竜雄の為でもあったが、どちらにせよ志摩がこの場所へ顔を見せるのは明らかにおかしい。
 榮倉が、側に立つ春雄に尋ねる。
「お前ら、知り合いか?」
「え、なんで?」
「同じ穴のムジナじゃろう」
 と成瀬が割って入る。
「なんなんこいつ」
 と呆れた様子で和明が失笑し、
「ほっとけ」
 と銀一が釘を刺す。成瀬の前蹴りが銀一の太腿に飛ぶが、銀一はそのままにさせておいた。痛くもかゆくもないからだ。
 こちらの様子に気が付いた志摩が、誰ともなく全員に向かって手招きをしている。銀一達は顔を見合わせ、代表して和明が言った。
「お前が来い!」
 すると志摩は情けない顔で身をよじり、両手を使って大きく手招きをして見せた。一言も喋らない。庭師が気を利かせて門扉を開けたが、志摩は敢えてその門をそっと閉じた。
「なんじゃあ、あいつ。あんなんでほんまに時和の看板背負うとるんか」
 と、成瀬が思わす一人ごちる程、確かに志摩の行動は不可解で、滑稽であった。
「行ってええかい?」
 と春雄が榮倉に聞くと、「まあ、喋るだけなら、かまわんけども」と渋々後ろへ下がった。
「こっちの話はまだ終わっとらんぞ。ワシらも出る。下りながら話せ」
 そう言った成瀬の、どこまでも食い下がる執念に銀一達はついには観念し、溜息をついて頭を振りながらも、ほんの少しだけ感心した。
 警察の人間を二人も連れて来た銀一達に、志摩は大袈裟に顔を歪めて見せたが、それでも逃げようとはしなかった。やがて、
「お疲れさまですー、時和会のチンピラですー」
 と頭を下げて上目遣いに志摩が言うと、榮倉が前へ出て志摩に相対した。
「そんなんええから、お前も来いや。今からもう降りるから、敷地ん中には入るなよ」
「へ? そうなん? なんで?」
「ええから来い。一人か? お前、時和会の志摩やろ。取り巻きどないした」
「そんなんおりません。しがないチンピラ、やらせてもろてます」
「お前のそういう物の言い方、自分の価値下げよるぞ。芋臭いやっちゃのう、まだ藤堂の方がそれらしゅう見えるわ」
 意外にも口の達者な榮倉の言いように、思わず春雄は口笛を吹いた。その時、ギシッと音を立てるように榮倉を睨み付けた志摩の目付きを、銀一は見逃さなかった。やはり昔から志摩と言う男は、見たまま通りの男ではないと思わせられるのだ。付き合いは長いが、今一つ信頼しきれないのはこういう部分に理由がある。本心を常に後ろへ下がらせている。そんな男なのだ。
 志摩を含めた六人で、西荻の屋敷を後にした。長い坂を連れ立って歩く奇妙な顔ぶれの一団はしかし、機嫌を損ねた志摩のせいで言葉数が少なかった。なんじゃい貴様ら、早ようだらだらしょうもない事喋らんかい、と成瀬が追い打ちをかけるも、先頭を歩く志摩は振り返りもしなかった。
 銀一が隣を歩き、
「なんで来た」
 と声を掛けた時だけ、
「まあ、色々あって」
 と志摩は答えた。
 だがその『色々』がとんでもなかった。一行が坂を下りて街へ戻った所へ、怒声を張り上げながら十数名の男達が駆け寄って来た。どこから湧いて出たと思う暇なく、待ち構えていたようなタイミングであっという間に囲まれてしまった。西荻家の坂を下りて三分も経っていない。見ればドスを握っている者も何名かいる。
「なんじゃい、このクソ虫どもは」
 全く怯む様子のない成瀬が一番に毒づいた。慌てて榮倉が、庇うように成瀬の前に立った。
「お前ら、どこのもん?」
 と、呑気な声を上げたのは和明である。銀一もそうだが、誰一人して、突如現れた男達の顔ぶれに見知った者がいなかったのだ。
「四ツ谷組のもんじゃ、お前ら全員時和か!?」
 集団の中から声が上がる。誰が叫んだかは、分からない。
「阿保抜かせ」
 と成瀬。彼はこの中では極端に身長が低い為、何を言っても注目され辛いという特権があった。さっきから誰が文句言うとるんや?という顔で、四ツ谷組の人間も首を伸ばしてこちらを窺っている。
「四ツ谷?」
 バリマツの死以外思い当たる節の無い銀一らが、首を傾げた時だった。先頭に立っていた志摩が両手を開いて見せ、
「おおい、お前らええんか? 後ろに控えおろう方々を知らんとは、この期に及んでそんな無粋な事は言わせんよお?」
 と言い放った。
 うわ、こいつ。全員がピンと来た。狙われてるのはこいつや。志摩太一郎や。自分一人では捌き切れない人数を相手に、銀一達を巻き込むべくわざわざ警察の前に姿を現したのだ。
「お前ふさけんなや」
 と言って和明が志摩の後頭部を叩いた。ように見えた。志摩は後頭部に目でも付いているのか、それをすっと躱して振り返った。
「ちょっと力貸したってよ。今ここでこんなボンクラどもにカタ嵌められとる場合やないんよ、俺は」
 目に力が漲っていた。理由は分からないが、おそらく志摩は相当頭にきている。銀一達は肌でそれを感じ取り、眼前のヤクザ、背後の警察という究極の板挟みに溜息を洩らした。
 銀一が志摩に耳打ちする。志摩は鼻から吹き出して笑う。
「おう、オドレ何言うた?」
 と成瀬が息巻いた。銀一が無視してぐっと前に出ると、春雄と和明は顔を見合わせて頷いた。
「お前ら、本気か? 昼間っからヤクザ相手に大立ち回りか」
 と榮倉が聞いた。誰も答えない。志摩が更に両手を開いて、自身に注目を集める。
「おいおい、四ツ谷の皆さんよお。調子こいて殴り込みは勇ましいが、頼むからそこにいらっしゃる成瀬刑事だけには手を出さんでくれよ。もう老い先短いからの。興奮させたら一発て逝ってまうどー」
 銀一達が笑いをこらえるように下を向くのと、成瀬が怒り狂って罵詈雑言を志摩に浴びせかけるのと、四ツ谷の面々がぎょっとするのはほぼ同時だった。成瀬刑事? 刑事? 警察がおるんか?
 四ツ谷組にしてみれば誤算以外の何物でもない。自分達が相手にしているのは時和会のニューエースのはずだ。となれば当然一緒にいる連中も、時和の構成員だと思い込む。仲間が数人増えた所で、こちらはドスを構えた者も含めて十人からいる。これは勝てる喧嘩だ、そう誰もが思っていたのだ。…警察だと?
 四ツ谷組の急速な尻込み具合が、銀一達にも伝わって来た。このまま引き下がるかもしれない、とそう思った瞬間だった。
 志摩が飛び出した。そのまま大きく振り上げた右足で一番前に立っていた男の首を、刈り取るように蹴った。
「やめんかい!ほんまに全員しょっ引くぞ!」
 成瀬が叫ぶのと、志摩に蹴られた男が昏倒するのは同時だった。倒れた男はピクリとも動かず、握っていたドスがカランと地面に落ちた。
「お前コラァ!」
 叫び声と共に、四ツ谷組が雪崩れ込んで来た。榮倉が成瀬を庇って後ろへ下がらせる。
 銀一達は二、三回肩の筋肉をほぐすと、一発、二発と近場の人間を殴り、蹴り飛ばして行く。相手が振りかざす拳やドスを、顔の前で悠々と受け止め、掴み、そのまま相手の体を引き寄せ、殴る。そして蹴る。それだけで相手は地面に転がって、中には血を吐く者もいた。
 大人と子供の喧嘩のようだと、榮倉は思った。これまで何度もヤクザを相手にしてきたが、ここまで他を圧倒する喧嘩を見た事はなかった。田舎とは言え、最近のヤクザはすぐに拳銃やドスを抜きだがるものだが、そんな後手に回った反撃や脅しではどうにも覆せない歴然とした力の差があった。赤江の人間は、ここまでステゴロが強いのか? 榮倉は正直、勝てる気がしないと思った。少なくとも、ヤクザ相手になんの躊躇なく喧嘩が出来る人間など身の回りにはいない。
 ものの五分と経たず、四ツ谷組の人間全員が地面に転がった。
「お前ら動くな!全員確保じゃ!」
 成瀬が興奮して喚くが、榮倉は正直、勘弁してくれと思った。たった二人でこの猛者四人を相手に捕り物など不可能だ。
 昨日ならば、西荻家周辺に多くの警察官が配備されていた。しかし夕方の段階で解散になっているし、成瀬と榮倉が今この場所にいるのは完全に成瀬の独断でしかなく、イレギュラーな事なのだ。
「今は無理です、日を、改めましょうね」
 と榮倉がやんわりと諭す。成瀬が言葉にならない喚き声を叫び散らす。
 銀一が志摩の側によって、小声で言った。
「何で今、お前が四ツ谷と揉めとるんや」
 志摩は汗一つかかないすっきりとした笑顔で、
「兄貴に格好付けさせるためよ」
 と答えた。
「藤堂さんか? どういう意味や」
「四ツ谷の人間と話し合いの場をもったんやがな。やっぱりその場で『黒』の名前は出せんかったようでな。せやからうちとしてはただただ、バリマツ殺しには関係ないっちゅう立場を貫くしかないわけや」
「実際違うんやろ?」
「そこはほれ、きったはったの世界や。ブラフでもなんでも、使える嘘は使うがな」
「藤堂さんが、自分がやったって言うたんか?」
「直接はよう言わん。ただそういう可能は捨てきれん、例えそうならなんですのん、とな。そういうニュアンスを出したわけよ」
「…なんでや」
「分からんやろうなあ、素人さんには。色々あるんよ、使えるカードは多い方がええ。そういう話」
「そいでお前は、尻拭いかい」
「泣けるやろ? 負けるわけにはいかんがなあ」
「ガッツリ巻き込まれてるけどな」
「助かったわ、貸し一つくれたるわ」
「ヤクザの貸しなんぞいるか。後片付けはせんぞ」
「分かってるがな。そこにええのんおるがな」
 志摩はそう囁くと、今だ喚き散らしている成瀬と榮倉を指さして、笑った。



「銀一さん!警察の方々!」
 呼ばれて振り返ると、今しがた降りて来たばかりの坂を、西荻家の庭師が駆け下って来るのが見えた。
「戻って来ました!難波が!戻って来ました!」
「ほんまか!」
 叫んで銀一が走り出した。しかし腕を捕まえて引き戻された。
 志摩だった。その瞬間、銀一は全てを忘れ去る程に驚いた。
 何故今、自分は止まったのだ?
 銀一は志摩の顔を見据えながら、これでもまだこの男を見くびり過ぎているのかもしれないと、思った。この細い体のどこに自分を止める力があるのだと、心底驚いた。ひょっとしたらこの志摩は、あの藤堂よりも手強いのかもしれない。「暴れ牛」という異名を持つ巨漢の藤堂ですら、ここまでの威圧感を見せつけては来ない。
 その志摩が言う。
「話があるんよ。西荻の事で聞いておきたい話がな。あと、こっちからもお前に言うておきたい事あるからよ。ゴタゴタが片付いたら、ちょっと顔貸してーな」
「…おう。手ぇ放せ」
「お、すまんすまん、痛かったの。ほな」
 取り乱した庭師の姿。行方知れずだった難波の帰還。地面に転がるヤクザ達。荒れ狂う成瀬。
 しかし混沌とした場を作り上げた張本人である志摩は、片手を挙げて小さく挨拶をすると、風のように去って行った。
 黙ってそれを見送る銀一は、春雄から肩を叩かれ我に返り、元来た西荻家への坂道を全速力で駆け戻った。


 

11 「殴蹴」

 西荻家の門扉に手をかけ、敷地内の庭が目に入った瞬間、銀一は難波の名前を絶叫した。
 全身が赤黒く変わり果てた難波の姿が見えた。
 裏山へと続く屋敷の脇道を、難波は幼子程の頼りない速度で歩いていた。
 両腕で己の体を抱き、大きな体は震えて縮こまり、左足を引き摺っている。
 銀一達に気が付いた難波は少しだけ歩く速度を速めたようだが、気持ちばかりで実際にはほとんど変化は見られない。
 銀一達は急いで駆け寄ったが、誰も声を掛けられなかった。
 両目は腫れて塞がり、唇は裂け、頬骨は黒ずみ、全身が刃物による裂傷とみられる傷で血を吹いていた。昨晩銀一と山へ入った時に来ていたシャツは所々が破け、至る所に血が染みついている。この街で堂々たる体躯を誇る労働者は多いが、時和会の藤堂とこの西荻の用心棒難波が頭一つ抜けて大きかった。その難波が、今や見る影もなく小さく委縮してしまっている。
 銀一は歩くのも辛そうな難波をせめて座らせようと、腕を掴んだ。
「あかん!」
 そう叫んだのは春雄だったか、和明だったか。
 銀一が難波の手首を手前に引いた瞬間、彼の腕の隙間からズルリと内臓が零れ出た。
 場所が腹部の為恐らくは腸だ。しかし体にこびり付いていた血と絡み合いながら出て来たおかげで、一見何が出たのか分からなかった。と場で毎日牛豚の内臓を扱う銀一ですら、鮮血や綺麗な内臓を見慣れている分、時間と共に黒く変色した血や傷口が余計に惨たらしく見えた。
 和明が無言で踵を返して走り去った。おそらくは屋敷に救急車を呼びに行ったと思われる。
 銀一が懸命に腸を難波の体内へ押し込んだ。すると難波は地鳴りのような呻き声を上げて、口から血を滴らせた。
 春雄が難波の背後に回り、両脇に自分の手を差し込むと力任せに後ろへ引き倒した。銀一は難波の体に馬乗りになり、真上から腹の傷を両手で抑え込んだ。三十分や一時間前に出来た傷ではない事は明白だったが、漂ってるく便の匂いからその傷は内臓にまで達していると分かる。難波は常人ならとっくに死んでいてもおかしくない傷を抱えたまま、主の屋敷へと戻ってきた。銀一も春雄も、掛ける言葉すら見つからないが、泣きそうな程感動していた。
 難波が銀一の服を掴んだ。
「じっとせい!」
 銀一はその手を掴んで引き剥がした。
 難波が血走った目で銀一を睨みつけ、震える右手、二本の指を銀一の鼻先に持ち上げた。
「銀、何か言おうとしとんやないか」
 と春雄が言った。
「なんじゃ!難波!なんじゃ!言うてみい!聞いたるぞ!言うてみい!」
 銀一は難波の右手首を掴んで、彼の顔を覗き込んだ。
「み、あ」
 と難波は言った。
「みあ。み、あお」
「…見た? な、何かを見たんか!? 何を見たんじゃ! お前をやったんは誰じゃ!」
「み、あ。うう、い…あ」
「誰を見た!何を見た!難波!」
「ううう、うううう、ぐうああああ」
 最後の絶叫はもはや言葉ではなく断末魔だった。
 難波の口から血が迸り、銀一の掴んだ右手首がガクガクと震えた。待て、行くな、と何度も銀一達は叫んだ。
 難波は銀一の目を見ず、その向こうの空を見つめているようだった。
 眉間に張り付いていた険が不意に取れ、優しい表情を浮かべたかと思うと、難波はそのまま息を引き取った。
 戻って来た和明が、事切れた難波を見て叫んだ。
「何でじゃ!どうなっとるんや!何でじゃ!」
 春雄は放心したような顔でへたり込み、何も言えずにいた。
 銀一も同様に、左手で難波の腹を押さえ、右手で彼の手首を握ったまま動けないでいた。
 二人とも共通して言えるのは、恐怖で固まっているわけではない事だ。特に春雄などは職場の環境上、怪我や事故による人の死を何度も間近で見て来た。人間の死が衝撃だったわけではないのだ。難波の死に様が、あまりにも唐突過ぎたのだ。
 狭い街の住人同士だから、難波の事は子供の頃から知っている。十歳近く年が上の筈だが、ハンデの事もあって幼く見える分、後年は銀一達にとっては親しみやすい友人のように感じていた。情緒が安定していなかった難波の子供時代はあまり他人と接する事がなかったらしいが、西荻家の用心棒として住み込みで働くようになってからは、いつも平助の側に張り付いていたおかげで銀一達と話す機会も増えた。会話は上手く成り立たない事がほとんどだったが、それは上手く言葉を発音出来ない生まれ持っての障害が原因であって、難波が馬鹿だからではない事を、銀一達は大人になってから知った。
 その難波が、突然死んだ。
 西荻平左に始まり、バリマツこと松田三郎、今井という警察官に続き、この街で四人目の殺人事件の被害者だ。いまだ行方が分からない西荻幸助の安否も懸念されるし、病院へ運ばれた平助は命に別状がないとは言え、大きな括りで見れば彼も関連事件の犠牲者なのかもしれない。
 救急車とパトカーのけたたましいサイレンの音が、麓から聞こえてくる。集まって来る音が一台や二台ではない。四ツ谷組の構成員がゴロゴロ転がっているのだ。冷静に見ればただ事ではない。
 しかし銀一達は誰一人そちらに意識を向けようとはしなかった。出来なかった。難波が目の前で死んだ。殺されたのだ。もしかしたら、難波の代わりに転がっていたのは自分だったかもしれない。銀一はそう考えて、目をぎゅっと閉じた。



 二日が経過しても、巷では時和会と四ツ谷組の抗争話が、世間話の筆頭として住民の口に上っていた。
 西荻幸助の失踪と、用心棒難波の死はまだ公にはされていない。難波殺しの犯人の手掛かりが全くない以上、いたずらに住民を不安がらせる事はないとう配慮だったが、このまま何の手掛かりも得られずに時間だけが過行くようであれば、情報を提供して公開捜査に切り替えられるだろう。と、春雄が榮倉から聞いて来た。
 難波の死後、銀一達は一人ずつ警察に呼ばれて事情聴取を受けた。
 自分と体を触れ合わせたまま逝った難波の死から立ち直れていない銀一は、難波の死の原因どころか無関係としか思えない話まで延々と問い詰められて、どん底に気落ちしたまま帰路についた。
 しかし休日を利用して帰省している春雄は、もう二、三日もすれば東京へ戻らねばならない焦りもあって、自分からあれこれ質問して担当の刑事を閉口させた。事情聴取と言っても任意で話を聞かれ、資料作成に使われるだけだ。本来ならこちらが事件について何を質問しようが、警察が答えるえわけがないし、向こうにはその理由がない。
 だが春雄は口が達者だった。本来お喋りな人間ではなかったが、相手の心理を突く事に長けていたのだ。例えばこうだ。
「西荻平左が殺された日、お前はどこにおった、何をしとった」
 と刑事が聞く。すると春雄は、
「一年前ですね。東京におりました、仕事しとったと思いますわ。ただね、刑事さん。僕思うんですけどね、あれはただの殺しやないですよね。だってね、いくら憎かろうが、老人を屋根から放り投げるなんて真似は、今日日親の仇でもしませんよ。いくら僕が東京におって色んな人間の生き様を見てきたとは言うてもですね、あんな酷い殺しはちょっと見た事ないですわ。刑事さんどないです? ねえ、そう思いません?」
 といった具合に、聞いていない事までベラベラとよく喋った。聞けば、ただの感想である。しかし事件について誰もが思う疑問点を突いてくる為、一瞬は刑事も情に訴えかけられ、気を緩めてしまう。
「そ、そんなん今聞いてないじゃろ、なんじゃあ、お前は。そしたらは、バリマツの事、どんだけ知ってるんや?」
 と刑事が聞けば、
「そら、ヒーローでしたわ。刑事さんも職業柄苦々しく思うてはったでしょうけどね、そんなん全部取っ払ってあの男の生き様みてくれはったら分かりますわ。刑事さん正義感強そうな顔したはりますけど、僕らに言わせたらバリマツもそうやったんですよ。あの人も、僕らみたいな差別されて生きてきた人間と似たような環境の人ですわ。学が無い分社会に向かって暴力で歯向かったのはいかんかったにせよ、でも、あれはあれで、僕らみたいなボンクラにしてみたら一種の正義の旗ですよ、ほんまに」
 と答える。
「うるさい!お前は何じゃほんまに! ベラベラと!」
 と刑事は怒るのだが、心のどこかでは共感している部分もあって、複雑な表情を顔に浮かべていた。やがて、顔見知りを装い春雄が榮倉の名を出すと、春雄の演説につき合いきれなくなっていた刑事が「それなら担当を変えてやる」と席を立ったわけだ。
 ここまでが、春雄の計算である。相変わらず眉毛をへの字にしながら現れた榮倉から、春雄は色々な話を聞き出した。
「そもそも、不思議やと思わんかった?」
 春雄の切り出した問いに、榮倉は早速好奇心をくすぐられる。
「何を」
「今井って警察官と、西荻のじいちゃんが繋がってる事」
「いや。街の巡査長やからな。西荻は言うてみりゃ赤江の権力者や。言い方は悪いが、そこのトップと地元の警官が仲ええのは、昔からどこでもある話よ」
「ほおん。殺される少し前に、幸助さんの所へ来てるんやけど、それでも?」
「よう知ってるな。それはちょっと妙やなとは思うけど、別に不思議とまでは言わんな。たまたまにしては気味が悪いなあて、その程度やな。それかて今思えばこそであって、実際当日は交番勤務の後輩に、西荻へ行くと言付けて巡回に向かってるからな。隠し立てしてコソコソ何かをやりよったとか、そういう話ではないんよ。問題は幸助がおかしなった方よ。今井が警察官である事よりも、今井が何を吹き込んだのかっちゅう事の方が、重要やわ」
「なんか聞き出せた?」
「お前見とったやろう、俺らが摘まみ出される所」
「なるほどな。俺がこないだの、あいつ、銀一いうんやけど」
「先生んとこの息子やろ? 貫禄あるなあ、あいつ」
「せやろ。翔吉の倅!いう感じするやろ」
「喧嘩、強いんか?」
「それこそこないだ見た通りよ」
 先日の、四ツ谷組を相手にとっての大立ち回りである。本来なら暴行傷害の現行犯だが、当時は警察組織にも義理人情が法律の手前に来る昭和な一面が、ままあった。成瀬は銀一達に対して、守ってもらったなどと思ってはいなし感謝もしていないが、形だけでも貸し借りを作るのが嫌で、不問にする事であの場で清算したつもりでいるのだ。
「そうは言うけどこっちはご老体抱えて、色々気を使わなあかん場面でもあったしやな、そこまでぐーっと銀一ばっかり見てないがな。まあまあ、他の人間らとは違うなと思うたよ。それはお前も含めてな」
「それはどうも、ご丁寧にお褒め頂いて。ただ銀一と、こないだはいてなかったけど池脇竜雄っちゅう男がおるんやけど、この二人はまあ、えげつない喧嘩しよるよ。ステゴロで言えば今の世代ダントツで強いんちゃうか」
「竜雄てあの長距離(トラック)乗ってる? 竜仁さんが親父さんか?」
「…なんなん。榮倉さんて、赤江のファンなん?」
「なわけあるか。竜仁さんも有名やで。あの人昔県警の柔道大会に招かれてな。まあ強いのなんの。ただ当時はあの人が赤江出身やて知らん人間も多くてや、どんどん勝ち進むんはええけど途中で出自がバレてもた。そんなもん周りの目もあるさかいどぎつい差別はようせんけど、内心面白く思わん連中も上にはようけおったわけだ」
「成瀬みたいな奴やろ。よう聞く話やわ。わざと負けろ、あとで金やるわーってな」
「呼び捨てすな。金やる言うだけマシや、そんなん。でも竜仁さんはそんなもん聞き入れへんし、何言われてもお構いなしや。決勝でもズバーン相手を投げ飛ばして一本勝ち。ただしその場で帯も柔道着も全部脱いで、『反則してすんません、ほな、帰ります』いうて裸で帰ったんや!」
「わははは!」
「最高やろ。いまだにファン多いで、うちの中でも。ただなあ、そうかあ、息子はやっぱりごんたくれか」
「そんなもん街の人間全員がそうよ。上品な人間なんかおらんて。まあ、…昔はおったけど、今はおらんな」
「あいつは? あの細っこい男前。成瀬さんとしばきあいしてたな」
「和明か? あいつは二、三本頭のネジないからな。腕力ではそら銀やら竜雄に及ばんけど、いざ喧嘩始まったらイの一番に殺しに行きよるんはあいつや、和明や」
「お前、俺が警察の人間やて忘れてないか?」
「聞くからよ、そんなもん」
「ただお前知らんかもしれんけど、昔から赤江の若い連中で一番要注意人物やったんは、春雄、お前やぞ」
「ウソ言え」
「ほんまやで。お前昔、時和系列の親分刺してるやろ…」
「…なんで知ってるん」
「だからお前、俺刑事やで?」
「昔の話よ、やめてくれ。俺武勇伝とか喋る輩嫌いなんよ。恥ずべき事やと思うわ」
「なんも言えいうとらんがな。とっくに調べはついてるさかい、今更どうでもええわ。言うて十二、三歳の頃やしな。ただまあ、そういう事よ。今の世代でまたなんかやらかしよるとしたら、狂犬・神波春雄が一番やばいと言われとった。実際は東京行ってしもたから、マークは外したけどな」
「ほおん」
「そんなお前となんでまた先生の倅が、今頃んなって西荻に? あっこの息子とも友達なんか? あ、そこで今井の話聞いたんか」
「友達言うか、街の似たような年の連中はほとんど喧嘩ばーっかやり合ってきたよ。そういう仲。腐れ縁というか、そんなん」
「呼ばれたんか? それとも自分らから首突っ込みに行きよったんか?」
「さっき言うた竜雄が西荻の倅から相談受けとって、よう分からんから、何があってんて、それだけ聞きに行ったんよ。まさかあんな事なる思わんて」
「倅て幸助か? その息子か?」
「ああ、平助。殺されたじいちゃんの孫やわ」
「ああ、そらそうやわな。やっぱり、難波も知り合いなんやろ?」
「挨拶ぐらいはするけどな。年は十ぐらい向こうが上やから、友達でもないよ。ただ、衝撃はあるよ。付き合い自体は長いから」
「…辛いな。二十歳そこそこのお前らが、目の前でツレが死んでも気丈に振舞ってるのを見よると、俺までなんか辛いわ」
「同情なんぞいらん。はよ犯人捕まえてくれ」
「ごもっともで」
「難波、むちゃくちゃ喧嘩強いらしいわ、銀が言うてたけど。せやし余計にあの死に様は受け入れられへんわ。熊に襲われたて思いたいくらいよ。あの難波をあんな風に出来るやる奴が、この街におるんやろ?」
「今もおるかはそら知らんけど、あん時はそういう事になるな」
「しかも幸助さんかて、まだ見つかってないんやろ?」
「まだやな。目撃情報もないしな、難波があの状態で山から下りて来たのを考えると、もうあかんのとちゃうかって、皆思うてる。その事もあって、今は逆に捜索範囲狭めて、山中心に死体探しよるようなもんよ」
 榮倉の沈痛な面持ちとは裏腹な、薄情とも思える正直な語り口に、春雄はいよいよ話の核心を突く決心をした。声を落とし、じっと榮倉を見据える。
「こんなん聞いてええか分からんけどよ。平助のじいちゃん、平左さんな。あん人が殺された時、やっぱ街中が噂しよったらしいわ。あの殺され方はおかしいぞって。その後、時期は知らんけどバリマツと今井っちゅう警官も殺されたと聞いたけど、その事は銀達街の人間は全く知らんかったって言うてた。それはやっぱり、俺が思うに、殺され方が同じやから、あるいはよう似てたから、あえて公表せんかったんと違うんかって」
 榮倉は体を引いてパイプ椅子に背中を預けた。春雄は一瞬、タイミングを間違えたかと思ったが、榮倉の表情を見る限り、そうとばかりも言えなかった。明らかに驚き、そしてどう返答したものか迷っている顔だった。
「お前、このまま黙って東京帰るつもりないやろ」
 と、榮倉が言った。
「帰るよ、仕事穴開けるわけにいかんしな、代わりはなんぼでもおるって、いつも言われてるから。ただ、置き土産ぐらいは考えとるよ、さすがに」
「正直やな」
「その方がええかな思て」
 榮倉は黙り、間を置いて、話し始めた。
「ご明察や。その通り、西荻平左、松田三郎、今井正憲。この三人には人間関係にも繋がりがあるし、その死に様をもってしても、連続殺人やと、ウチはハナからそう決めて捜査しとるよ」
「ちゅう事は、首へし折られて、高い場所から投げ捨てられとるんか…」
 春雄の言葉に、榮倉は彼を見据えたまま頷いた。
 もともと警察は表向き、今井殺害の件で聞き込みを行う事を建前に西荻家を訪れていた。しかし立て続けに起こる手口の酷似した怪事件を受けて、バリマツや身内である今井の線で解決の糸口を追うよりも、西荻家にこそ事件の鍵があると、成瀬が警察内部に強く進言していたと言う。強引な接触を試みたせいで門前払いを食らいはしたが、本来成瀬の狙いは今井に関する事よりも、殺された平左の話を家の者から聞き出す事にあったのだという。
 そんな警察内部の事情を初めて知った春雄は、どんぴしゃに嵌った自分の推理に驚いていた。確信があってした質問ではなかった。どちらかと言えば、突拍子もない話だと思っていたのだ。
「いやいや、その今井さんは知らんけども、…あの、バリマツやぞ?」
 春雄の言葉に、榮倉は首を傾げた。
「普通に考えたら、それは別に大した事やないよ。やりようはある。何らかの形で殺して、その後首の骨を折って投げ落としたいんなら、やろうと思えは俺でも出来るわ」
「…は」
「問題は、その儀式めいた方法を、自己アピールのように現場で残すって事がヤバイんや。連続殺人犯が、犯人は同一人物です、この俺です、って警察に挑戦するような真似やらかすと思うか? そんなもん、江戸川乱歩の小説やあるまいし、頭イカレてるやろ。ましてや犠牲者のうち一人は警察官や。普通の執念やないわ。例えば春雄。ガキの頃から警察にマークされるような危険人物であるお前が、何らか目的を持って人を殺したいと思ったとせえや。そん時お前、こんな事するか? こんな事考えつくか?」
 言われて春雄は、黙った。
 正直、人を殺したいと思った事は何度もある。しかしただの一度も、連続して誰かの首をへし折ろう、屋根の上から投げ落とそうなどとは思わなかった。殺意とは衝動だと春雄は思っている。しかし今回の一連の事件は明らかに計画性があり、衝動的ではない理性を感じる。その怖さを、榮倉は言っているのだ。
「ないやろ。お前ですらないんや。そんなもん、相手がバリマツやろうが誰やろうが、ひとたまりもないわ。正直俺は怖いよ。もし犯人が分かったとして、この手で追い詰めたとして、目の前のそいつをどうこう出来る自信が俺にはないわ。お前らくらい腕っぷしが強ければまだやりようはあるんかもしれんけどな。…十五年刑事やって来て、こんなに真っ黒い悪意は、感じた事がない」
 春雄は榮倉の言葉に、はっとして顔を上げる。
「なあ、一個聞いてええかな」
「何」
「連れの和明がよ、地元で漁師をしとる。そこでおかしな噂を仕入れてきた」
「どんな?」
「平左さんをやった犯人がまたこの街に戻って来とる、て」
「…ははは!」
 春雄の言葉に榮倉はぽかんを口を開け、そして声を上げて笑った。
「なんやその素人臭い与太話は!」
「まあ、言うてそうかもしれんけどな。ただ榮倉さんに向かってする話やないけど、港の人間はいわゆるそのー…情報通というか、な」
「ヤクザと関わり合い深いもんなあ」
「言い方」
「つまる所は時和からそういう話が回って来とるんやろう。人の口に戸は立て掛けられんとは言うけどな。そんな阿呆臭い噂話、お前が信じるなよ」
「阿保臭いかどうか、俺には分からんよ。素人やもの。それに火の無い所になんちゃらて言うやないの」
「お、学あるやんかいさ。ただでもお前、それはあれやろ。バリマツ殺しがあったから、面白おかしゅう言うとるだけやろ」
「俺はその噂話聞いた時、バリマツが死んでるて知らんもの。ああでも、あれか。手口が、同じやからか…」
「警察は公式に発表してないけどな。その話がヤクザもんの世界に出回る出回らんて議論してる方が、まだ現実味はあるよ」
「もう一個ええかな」
 と、春雄は体をぐっと前に倒して聞いた。
「ええよ、笑わしてくれ」
 余裕をかます榮倉に向かい、春雄は本当に尋ねたかった事を聞いた。
「警察は、黒の存在を認めてるんか?」
「黒て…。巣の事か?」
「ス?」
「『黒の巣』と呼ばれとる連中の事やろ?」
「お、おお。そういう言い方も聞くな。赤江やと、黒盛会とか言うとるな」
「知ってるよ。認めるってなんや? おるかおらんかで言うたら、そら公式には警察は認めんよ、絶対に」
「そうなんか」
「お前らが巣をどういう風に聞いてるかしらんけど、アレはいわゆる団体じゃない。時和会とか四ツ谷組みたいに看板を掲げてるわけやないし、どっかに本部があって支部を設けて、みたいな組織じゃないんや。怖い事言うようやけど、ここにも、お前んとこにもおるぞ」
「こ…警察にもか?」
「ああ、余計な事言うてもうた」
 榮倉は本気で後悔を滲ませ、唇を噛んだ。
「という事はつまり、知らん間にすれ違ってるかもしれんていうことか!?」
「でかい声出すな」
「えええ…」
「ただ絶対に自分から身バレするような真似はせんし、尻尾なんか掴ませへんで。どらい政治家とか警察組織のトップ中のトップみたいなんが裏で手を回して、権力闘争や揉め事の切り札として最後に使うんが黒の巣や。まあ、人消し、殺しの依頼やな。そういう存在は昔っから名前を変えてずっと存在はしてきてる。ただお前、おると分かってても実際、どないも出来んわ」
「どういう連中なんや。警察が手出しできんて」
「俺も成瀬さんから聞いた話でしかないけどな。その世代でホンマに黒を名乗れるのは、二人か、多くても三人程らしいわ。噂とか色々出回ってるらしいし、地下組織みたいなん想像してる奴多いけど、全然違う。親から子へと仕事の技術を継承する職人みたいな感じで、群れる事なく、途絶える事も無く、殺しを生業として連綿と生き続ける奴らの事を、黒の巣と呼んでるらしいわ。今この時代におる黒が寿命やなんやで死んでも、また別の奴が育って、出て来よる。だから、巣なんやと」
「なんじゃその話。ほんまか? 揶揄ってんのか? それこそ漫画みたいや」
「実際は、黒は各自何人かの使える手駒を持ってて、目くらましや諜報活動に使役しとるって話も聞くな。警察にも、赤江にもおるっていうんはそういう意味や。息のかかった奴がどこに潜んどってもおかしない。ただ、もちろん名乗りはせんけどな」
「まじかいや…」
「春雄は、今回の事件黒の巣が絡んでると思うとるんか?」
「という噂を聞いた。その程度やけどな」
「お前、黒ちゃうやろな?」
「俺が難波殺すんかい。ええ加減にせえよ」
「はは、悪い悪い。聞いたお前も悪いわ」
 春雄は、目の前で笑っている榮倉こそが黒なのではと疑い、冷や汗が止まらなかったと、後に銀一達に語った。もし榮倉の語る『聞いた話』が真実ならば、こんなに怖い話はないと思った。
 春雄は警察を後にし、この榮倉の話を銀一達に語って聞かせるまで、疑心暗鬼に陥り誰とも口を利かなかったそうだ。

連載 『風の街エレジー』 9、10、11

連載 『風の街エレジー』 9、10、11

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-09-10

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  1. 9 「這闇」
  2. 10 「赤暗」
  3. 11 「殴蹴」