Suiran Fantasy

棹梶ホサヌ

~前書きだけでも真面目に~

この作品に興味を示し、閲覧していただきありがとうございます。
これが皆様の体育祭準備期間中の退屈しのぎの一助となれば、
そして願わくは退屈しのぎとか言わず、純粋に楽しんでいただければ幸いです。

また、本作を事前に読んでくれた皆さんにも、この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございます!
皆さんからの好評を経て、このような形での公開に踏み切ることができました。

この小説は体育祭色冊子のような一部の3年生にのみ伝わる個人ネタは含んでいないので、
1・2年生も安心して読んでください!
ただし、以下の内容は1年生には伝わらない可能性があります。
・数学の未習範囲の用語
・進路集会でまだ言われていない言葉

では固い文章はこれぐらいにして、
横浜翠嵐高校内輪ネタノベル『Suiran Fantasy』
ぜひお楽しみください!

α1  奇病

 目の前には長机が並んでおり、奥には壁がある。机には各3つの席が据え付けられており、壁には時計がかかっている。蛍光灯の明かりが薄暗い、殺風景な部屋だった。

 目を覚ますとそこは自分の机、時計は7時を指している。どうやら数学の予習をしていて寝落ちしたようだ。アドバンスト――正式には数学アドバンスト数学β2――とノートを鞄に入れて家を出た。
 僕の通う横浜翠嵐高校は三ッ沢の丘の上にあり、今はちょうど体育祭の時期である。僕も1年の時こそカワイコと呼ばれる踊りに精を出したが、2年となった今、やることは特に無い。非日常の近づきつつある中でも、僕は今日も悠々と日常を過ごす予定だ。小浜さんが今日も今日とて僕の前の席にいるから、きっと今日も平和なのだ。率直に言って、僕は彼女が好きなのだ。

 2Fの授業は数学だった。皆が静かに問題を解いている時、前の席の小浜さんの肩が小さく震え出した。何かを堪えているような、そういう揺れだ。しかし堪えきれず次第に揺れは大きくなる。そして、突然彼女は両腕でトゥエルを回しだした。教室が静まりかえる。それから次第にざわめき出し「何やってんだよ小浜」などの罵詈雑言も飛び交いだし、先生もトゥエルをやめさせようと注意した。しかしトゥエルは止まらない。
「私もやめたいんです。もう疲れました。でも、やめられないんです。誰か、止めてください!」
 彼女は叫んだ。数名が彼女の腕を抑え込むものの、彼女はそれを振り払った。いや、振り払えた。何もかもが不自然であった。素人であるはずの彼女がトゥエルをこんな長時間、しかもあんな速さで回し続けられるはずがないし、数名の取り押さえをあんなにやすやすと振り払えるはずもない。それになにより小浜さんはそういうことをするような人ではない。
「気にせず授業を続けてください」
 と彼女は言い、授業は続けられようとした。しかし、他にもトゥエルを回す人が出た。授業は続行不可となり、小浜さん達は保健室で休むこととなった。

 昼休み、僕は小浜さんの状態を確かめるため保健室に行くことにした。しかし、職員室前の廊下を長机が塞いでいる。にもかかわらず皆スイスイとそれをすり抜け、何も無いかのように一瞥もくれずに歩き去る。「幻か」僕はその現実を快く受け入れ同様に歩み去ろうとし、強かに太ももを打った。仕方がないので上を越えることにした。机に手をつく僕を奇怪そうな目で見ながら、人々は机をすり抜ける。障害物を越える僕は正常で、物質透過能力を持つ彼らが異常なのだ、そんな視線は気にしない。机を越えた所で背後から「そこの君」と呼ばれた。振り向くと校長が手招きしていて、そこに机は無かった。
「少し校長室に来なさい」と言われるままに足を運ぶ。校長、北沢玉一は温和なことで知られているが、今はいつになく顔が険しい。扉をピタリと閉め、窓が閉まっていることも確認してから、小声でこう言った。
「今、何をしていた?何を越えていた?」
 確かに学校の風紀を乱す行動ではあったかもしれない。でも、校長室に呼び出すほどのことだろうか。まぁ、正直に答えるしかないだろう。
「長机です」
「そうか・・・」
 校長の声にハリが無くなる。
「これは翠嵐高校の校長にのみ伝わる話なんだが――やめておこう。急に呼び出して悪かったな、帰っていいぞ」
 そう言って彼は僕を部屋から出した。いつもより大きな笑い声に少し無理を感じた。

 保健室につくと、そこはトゥエルを回す人々でいっぱいだった。もちろん人は多いのだが、それよりもトゥエルを回しているせいで距離を詰められないことが問題のようだった。もちろん保健室の先生にはどうすることもできないので背負えないリュックをおいて彼らは早退することになった。しかし、数分後、彼らは帰ってきた。校外でトゥエルを回すことの恥ずかしさに耐えられなかったのだ。トゥエルを回しながら駅まで歩いた猛者も、定期券をポケットから出せずに帰ってきた。

 その日の夜も数学の予習中に寝落ちして夢を見た。昨日の夢と同じ部屋に僕は居る。
「校長を問い詰めろ」
 突然声がした。
「明日、校長を問い詰めろ。翠嵐は虚構だ、FGを解体してはいけない、世界が危ない、お前は選ばれた者として多くの事を知っていなければならない」
 そして夢が覚めた。その時の感覚は昼に校長室から出されたときと少し似ていた。

 翌日、小浜さんは欠席だった。彼女の他にも数名欠席者はいたが、皆同じ症状だった。
「可愛子病・・・」
 誰かがそう呟いた。実際、それ以外に名付けようがなかった。他のクラスにも可愛子病は蔓延しており、感染者にはカッコイイはもちろん、トゥエルとは無縁のカワイイ、劇、小浜さんのような女子も多くいた。彼らは皆同じ病院に入院し、検査も受けたが、脳波に異常は見られず、その他の検査でも原因は特定できなかった。その症状、トゥエルにより可愛子病患者はMRIなど受けられない検査も多く、そのことがより原因の特定を難航させた。どんな名医にとっても、前例のない症状であり、治療のしようがなかった。彼らは両腕を自由に動かせないため食事などの日常の行動もサポートが必要となった。過度のトゥエルにより二の腕の痛みを訴える者が続出した。それでもトゥエルの速度は一切衰えなかったらしい。全て朝のホームルームで生徒に告げられた真実だ。
 その後も一人、また一人と可愛子病に蝕まれていった。

α2  秘史

 昼休み、僕は夢のお告げ通りに校長室に向かった。こういったオカルトチックなものを信じるタイプではないが、単純に昨日の話の続きを聞きたかった。昼休みにノックをせずに校長室のドアを開けると、そこで彼はトゥエルを回していた。
「あぁ、昨日の君か。どうしたんだい?」
「先生も、可愛子病になったんですか?」
「いや、違う。これは翠嵐を存続させるために最も大切な仕事だ。いっそのこと君には全て話してしまおうか」
 そして校長はこのように語った。

 かつて、藤山という男がいた。彼は異世界を作る力を持っていた。ある時は写真の題材を、またある時は映画のロケ地などを創造して生計を立てていた。
 かつて、翠嵐高校は今にもまして汚かった。それでも県は予算を渋り、決して改修をしなかった。学校全体が、現在の部室棟のように荒れたとき、当時の教員たちは考えた。「藤山に新しく翠嵐高校を作ってもらおう」と。
 これまで創った空間に人を呼ぶことはあっても、空間を現実世界に固定した事のなかった藤山は、初めはその依頼を断ろうとした。しかし翠嵐の荒廃ぶりを、そこで健気に暮らす翠嵐生を見て、遂に新たに翠嵐を作る決意を固めた。その夜、廃墟は常識的な綺麗さの施設にたちまち姿を変えた。彼は去り際に「『翠嵐空間』の維持に必要なエネルギーの供給は自分たちで行うように」と言った。動作を指定すれば空間がそれからエネルギーを勝手に取りだしてくれるのだとか。詳しい仕組みは分かっていない。

「これって本当の話ですか」
 あまりにも馬鹿々々しい話につい口を挟んでしまう。
「私も先代校長からこれを聞いた時には同じ事を思ったよ。でもちゃんと記録も当時の写真も残っていた、もう信じるしかないだろう」
「――分かりました、とりあえず信じますよ。あと、この際昨日言おうとしていたことも話してもらえませんか?」
「あぁ、それも代々校長に伝わる言い伝えなんだが、そっちには資料も何もないし、内容も突飛すぎる。私もこれに関しては嘘だと思っている」
「それでもいいです」
「なんでも、選ばれし生徒が見えない長机を見た時、世界は滅ぶとかなんとか」
 どう反応すればよいのか分からない。荒唐無稽なうえに「世界は滅ぶ」からは雑さしか感じない。
「ま、こっちは嘘に決まっている。昼休みは45分しかないんだ、早く翠嵐の歴史の話をしようじゃないか」
 
 エネルギー産出法として初めに考えられたのが『ゲッタン』だった。落下運動からエネルギーを取り出す仕組みだ。しかしゲッタンはできない人も多く、連発も一部の達人を除いてできなかった。十分なエネルギーを得られなかった翠嵐はまた汚れ始めた。
 次に考えられた技こそ『トゥエル』であった。一回あたりのエネルギー産出量はゲッタンの方が多いものの、トゥエルは練習すればたいていの人が出来たし、何より連続して行うことが可能だった。生徒は掃除の代わりにトゥエルを回した。そして、翠嵐を維持するためのノルマよりも多くのトゥエルを回した模範的翠嵐生は『トゥエラー』と呼ばれた。

「そしてその年最も活躍したトゥエラー数名に与えられた称号、それが――」
「――『花鳥風月』?」
「そういうことだ、分かってきたじゃないか」
「ふざけないでください。やっぱり嘘ですよね」
「まぁそう思うのも無理はないだろう。資料を見せてあげよう」
 そう言って校長は書棚から分厚いバインダーを取り出した。
「これが翠嵐の航空写真だ、ほら、変化前後で全く違うだろう。これがトゥエルの時間の様子、これが各月のクラスごとのエネルギー生産量をまとめた表、これが歴代花鳥風月の名簿と集合写真、まだまだあるぞ」
 歴代花鳥風月の写真を見ていると、そこに父の姿があった。花鳥風月だったなんて知らなかった。教えてくれればよかったのに、とも思ったがかつてのただの模範的翠嵐生としての花鳥風月だったなんて言っても、全く自慢にならないだろうと父の気持ちを察した。
「大丈夫です、もう信じました。それより花鳥風月の写真をもう一度見てもいいですか?ある年から構成するメンバーの雰囲気が全く違う気がします。何というか、その、カーディガンの色とか」
 今の話を聞いた手前、かつての翠嵐を維持してきた英雄達にこんなことを言う訳にはいかなかったが、当時の花鳥風月は見るからに暗い人間ばかりだった。確かに、黙々とトゥエルだけを回し続ける集団はカッコイイとは言えない。なら、何があって彼らは今のようなパリピ系ダンスユニットに昇格したのだろうか。
「あぁ、その話は今からしようと思っていた所だ」

 エネルギーが足りずに翠嵐が消えることを恐れた人々は過剰にエネルギーを供給し、結果として翠嵐空間は意志を持つようになった。いわゆる人工知能のようなオプション機能が翠嵐空間に付いたのだ。そして人々の思考回路を少しだけ操ることで自らの存続をより確実なものにしようとした。そこで翠嵐は『トゥエルはカッコイイ』という思考回路を翠嵐生に植え付けた。これにより、これまで嫌々トゥエルを回していた生徒もトゥエラーになるだろう、そう考えたのだ。
 こうして花鳥風月は一躍青春の表舞台に躍り出た。ダンスの技術こそ今の花鳥風月の方が上だが、トゥエルに関しては今の花鳥風月など足元にも及ばない。次の花鳥風月を目指してひたすらトゥエルを回す人もいれば、諦めてトゥエルを一切回さなくなる人もいた。トゥエルからは翠嵐の維持という本来の目的が失われ、男子はトゥエルにより『カッコイイ』人になろうとした。『回すトゥエル』から『見るトゥエル』への変化は、エネルギー産出量を減らしただけだった。エネルギーの減少で翠嵐の意志は消え、『トゥエルはカッコイイ』という思考回路だけが残った。

 こうして翠嵐はまた汚れ始めたが、今回は少し様子が違った。翠嵐の空間そのものが歪み、消滅に向かっていた。例えば歪みは立て付けの悪い扉や壁のヒビを生んだ。標準温度計も狂い出した。トイレがつまり異臭を放ちだした。自習室の蛍光灯に点かないものが出てきた。視聴覚室の席にネジが外れ傾くものが出てきた。さらにこの部屋は相対性理論云々で時間さえ歪み、時計も大幅に狂い出した。今、翠嵐高校が、神奈川県教育委員会が、これらの問題を修繕しない理由は時空の歪みを藤山以外は直せないからだ。そして藤山は行方が知れない。このままでは翠嵐は完全に消滅する、その打開策として考えられたのが『校長のトゥエラー化』及び『カワイコへのカッコイイの追加』であった。

「これで私がトゥエルを回していた理由も分かったかな」
 こうして校長による昔語りは幕を閉じた。まさかトゥエルの起源がかっこよさとは無縁のエネルギー生産だったとは思いもしなかった。

 放課後、僕達は何人かで可愛子病患者の搬送された病院に向かった。昨日、あるいは今日も普通に学校に通っていた友人が、片時も休むことなくトゥエルを回し続けている。中には寝ている人もいたが、それでもトゥエルだけは止まらなかったようだ。
 その中に小浜さんもいた。彼女は発症時刻からして可愛子病患者の第一号とされており、他よりトゥエルを回し続けている時間も長い分、腕の痛みも強そうであった。
「私、ずっとこのままなのかな、死ぬまで、ずっとトゥエルを回していないといけないのかな」
彼女はうわ言のように話しかけてきた。
「そんなことは無いよ。きっといつかは治るはずだよ」
「本当に?」
「きっと治るよ、治らなくても、僕が治してあげるよ」
 励ますために言葉を並べてみたものの、うまく言えた気がしない。でも、治るかもない、というのは本当に思っていることだ。僕は、可愛子病はトゥエルエネルギーが不足して消滅の危機にある翠嵐高校が、存続のために一時的に流行らせているもので、ある程度経てば自然と収まるものだと、今日の昼休みの話を聞いて思った。
「きっと治るよ、きっと」
 別れ際にそう言うと、小浜さんは少し笑った。
 帰り道、僕は今日の出来事を思い出しながら歩いていたから、背後から忍び寄る人影に気づけなかった。突然、後頭部を殴られ、僕は倒れた。薄れゆく意識の中で見た鈍器は、参考書の束のように見えた。

α3  結社

 気がつくと僕は小さなアパートの一室のような場所いた。出入口を除く全ての壁に本が綺麗にしまわれていた。どちらかと言えば、飾られている、の方が適切だろうか。本屋にある今月の売れ筋ランキングコーナーのように、整然と、丁寧に一冊ずつ飾られていた。その全てが参考書であった。さらによく見ると、いずれもZ会のものだとも分かった。最上段にはアドバンストが額に入れられていた。
 不意に、ガチャリと扉の開く音がした。
「お目覚めのようだな」
 入ってきたのは分厚い眼鏡をかけたいかにも真面目そうな男だった。
「私は『秘密結社Z』のトップ、跡馬という者だ。いきなり誘拐した事はすまないと思っている。我々は君に聞きたいことがあったものでな」
「それに答えれば解放してもらえますか」
「さぁ、それは分からない、なんせ我々は〝秘密〟結社だからな、その存在を知った者をそう易々と社会に戻すわけにもいかないのだ。それにお前はトゥエルについて知り過ぎたし、可愛子病を治すとも言っていた」
 男の口調はゆったりとしており、表情も動かなかった。
「株式会社Z会のことならもう皆知っています」
「否、我々は秘密結社Z!Z会の上位組織だ。あんなぬるい連中と一緒にされちゃ困る」
 どういうことか気になったが、さっきまで無感情だった男の言葉から少し怒りが感じられたのでこれ以上は聞かないことにした。
「我々が聞きたいのは、君が校内で他の人には見えない長机を本当に見たか、それだけだ」
「はい、見ました」
「そうか、ククク、ハハ、アハハハ!遂に始まった!世界の『アドバンスト化』が!」
 突然始まった高笑いに男の異常性を確信しつつ、そっとドアに近づき逃げようとする。
「まだ出るな!安心しろ、近いうちに『アドバンスト化』がある程度進んだら逃がしてやる」
「その『アドバンスト化』とは何のことですか」
「そうだな、お前は当分ここを出られないのだから、知っても問題ないだろう」
 そして男の独白が始まる。

 Z会の目的は参考書の出版による学生の偏差値向上であった。しかし日本の教育水準は依然として低迷している。そのことを嘆いたZ会の一部過激派は『秘密結社Z』を組織した。彼らは参考書の出版だけでは足りないと考えた。学生を自習室に閉じ込め、それを2巡、3巡と徹底的にやらせなければ、と。そしてある時実際に道行く学生を連れ去り自習室に閉じ込め、結果として実行犯が牢屋に閉じ込められた。これではダメだ、学生は多い、同胞は少ない、こんな計画など実現しない。
 次にZは、世界を自習室で覆い尽くすことを夢見た。でもそれはただの夢だ、そう思っていた所に現れたのが藤山だった。神奈川県立横浜翠嵐高等学校は彼が発生させたと知り、日本を覆い尽くさんばかりの自習室を発生させることを依頼したが、もちろん断られた。しかし彼らは諦めなかった。後日、現実世界には発生させなくてもよいから、と異世界に一つ自習室を創ることを依頼した。それぐらいなら、と藤山は承知した。
 同時に、秘密結社ZのうちZ会をまだ退社していなかった人々を中心に数学の参考書の制作が始まった。難易度は翠嵐好みの最難関だ。彼らの計画を露ほども知らないZ会も全面的に協力した。そうして出来上がったのが『数学アドバンスト数学α1~β3』の6冊である。
 秘密結社Zはこれに少し細工を施した上で翠嵐高校に売り込んだ。その細工とは、表紙の写真を藤山の創った自習室にし、翠嵐空間の維持のため生み出されたトゥエルエネルギーの一部をそこに送りこむことだった。そしてそのエネルギーを糧に自習室は藤山の空間を広がり、容量をオーバーするほどに広がった時、藤山の空間と現実世界の境目、翠嵐空間を中心として現実世界に溢れ出す。これが『アドバンスト化』である。

「たしか一度翠嵐が消滅に向かったことがあったな。あれは、我々が翠嵐からトゥエルエネルギーの一部を急に奪い始めたことが原因なのだ。持ち直してくれて良かったよ、翠嵐の消滅は我々の計画の破綻を意味するからね」
「じゃあ、今の翠嵐が異常にボロボロなのも全部お前たちの仕業なのか!」
 僕、いや、全翠嵐生の怒りも興奮した跡馬の耳には入らなかった。

 Zの計画はいよいよ大詰めとなった。しかし、ここで問題が起きた。自習室を現実世界に溢れさせるには、いまひとつ勢いが足りないのだ。ダムも決壊すれば水はとめどなく溢れ出すが、決壊させるには何かきっかけが必要である。そこで彼らは考えた。翠嵐生全員に無理やりトゥエルを回し続けさせれば良いではないか、と。そのための手段も練り、実行に移したのが昨日であった。

「可愛子病の蔓延もお前たちのせいだったのか!」
「いかにも、その通りだ」
「それならアドバンスト化が始まったら、可愛子病を治すのか」
「いや、アドバンスト化が始まった後も、彼ら可愛子病患者にはトゥエルエネルギージェネレーターとしての仕事が待っているからね、可哀想だが彼らはずっとあのままだ。ここまでの道のりは険しかった、しかしようやく我らの悲願は叶おうとしているのだ!」

 跡馬は部屋から僕が逃げられないようにしてから去って行った。あとには僕と僕の鞄だけが残った。時計を見るとまだ夜の10時だったが、することもなかったので寝た。

 夜中に目が覚めた。時計を見ると3時3分である。「勉強しなくちゃ」あぁ、こんな時にいったい僕は何を考えているのか。「知層を塗らなくちゃ」世界が滅ぶか否かの瀬戸際なのに。「数学の予習をしなくちゃ」誘拐されているのにこんなことを考えている。「ハゲミッ、ハゲミッ、ナカハゲミィ!」これが翠嵐の洗脳というやつなのか。「シューガクリョコカラカエターラニッヒャクパセントジュッケンセーイ!!」それとも気が狂ったのだろうか。
いや、そんなことはない。だって、

―――もうすぐ提出日だ―――

 暗がりで鞄を漁ってアドバンストを見つけ出す。僕がその表紙に触れた時、時計がちょうど3時5分を指した。

β1  祭典

 目の前には長机が並んでおり、奥には壁がある。机には各3つの席が据え付けられており、壁には時計がかかっている。蛍光灯の明かりが薄暗い、殺風景な部屋だった。

「お前は世界を救うに相応しい知識を身に着けた、ここに呼ぶために少し思考を操らせてもらったよ、ここに来るには夜中の3時5分にアドバンストの表紙に触れている必要があるからな。お前が以前ここに来た時も情けなく寝落ちして、閉じたアドバンストの表紙に触れていただろう」
 今日は謎の声が饒舌だ。
「お前はあの部屋から出たいのだろう、それなら後ろを向き給え」
 言われるままに後ろを向くとそこには1人の老人がいた。そして、長机が、椅子が、蛍光灯が、見渡す限り広がっていた。
「『アドバンスト界』にようこそ。わしが藤山権兵衛、翠嵐空間を、アドバンスト界を創り、世界をアドバンスト化に追い込んでしまった張本人さ」
 『アドバンスト界』なんて初めて聞いたが、意味は分かった。ここにトゥエルエネルギーが流れ込み、広がり、見渡す限りの自習室となっているのだ。
「分かっているなら貴方がアドバンスト化を制御してください、そして世界を救った後で良いので翠嵐を綺麗にしてください」
「それができたらやってるさ。私はもうこの空間の主導権をZの奴らに奪われてしまった」
「じゃあ、もう世界はアドバンスト化を受け入れるしかないんですか」
「そんなことはない、お前にはアドバンスト化を止められる」
「トゥエルエネルギーの供給を止めろ、ということですか」
「その通りだ」
「でも、そんなことをしたら翠嵐はいったいどうな――」
「あぁ、消えるさ!でも世界を救うには仕方のないことだ――このままではどのみち翠嵐も、いや、翠嵐がどこよりも早くアドバンスト化に侵される」
 翠嵐が消える、考えたこともなかった。古く、汚く、課題も山のように出る、嫌な学校と思っていたのに。「翠嵐が倒壊したら」そんな妄想でよく盛り上がったりもした。でも翠嵐こそ僕達が高校生活を送れる唯一の場所、それを自分の手で消すなんて出来るはずがない。
「まぁ、すぐに決心するのは難しいだろう。今はとりあえず家に帰って心を固めろ。ただし、あと少しのトゥエルエネルギーで世界のアドバンスト化が始まる。一度アドバンスト界が流れ込めば、それは現実世界をたちまち覆い尽くす。それを忘れないようにな」
「はい」
「なにか聞きたいことはあるか?」
「いえ、というより何を聞けば良いのか分からないので」
「では、今からアドバンスト界を通してお前を、お前の部屋のアドバンストから現実世界に帰す。世界を頼んだぞ」
 一瞬意識が遠のき、目を覚ますとそこは自分の机、時計は7時を指していた。

 体育祭前日の学校は賑わい、至る所でトゥエルが回されている。一時は可愛子病患者に対する配慮としてカワイコ、あるいは体育祭そのものを中止にするという話もPTAであがったそうだが、可愛子病患者が気にせずに体育祭を開催してほしいとの総意を告げたのだ。そのため今トゥエルが至る所で回されており、僕はそれを止めなくてはならない。そのために、警察沙汰にならないよう、誘拐を心配していた親に体育祭の準備で帰るのが遅くなったと嘘をつき、きつく叱られてから学校に来たのだ。
 それでも策を練りながらカワイコを眺めていると「カワイコに青春を捧げる人もいるのだ」と考えてしまう。僕は学業に追われる翠嵐生の束の間の青春を奪う気にはなれない。もし奪おうとしても確実に無理だろう。それに可愛子病患者の腕をきつく固定して動かせないようにするのもかわいそうだ。体育祭前にトゥエルを止めることは潔く諦め、体育祭後にトゥエルをすぐにやめるよう仕向けることにしよう。例えば「体育祭後もトゥエルを回していると友達が減る」なんて噂を流してみるとか。そうしようじゃないか。
 
 そして体育祭がはじまった。僕が出る唯一の競技は80m走だった。そのちょうど真ん中辺りで太ももを打ち足が止まる。前に進めない。その間に次々と抜かされていく。観客からは非難轟々、俯くとそこにあったのは長机であった。グラウンドを見渡せばあちこちに皆同じ向きで長机が置かれており、体育祭はそれとは関係なく行われていた。嫌な予感がした。
 その後、カワイコの応援に行くものの、さらに増えた長机が邪魔でよく見えない。クロハンなんて長机の下で動かれても何も見えない。最後、白組のカッコイイが始まった頃に長机が一斉に消えた。今回は事なきを得て安心しつつも、体育祭が終わったらすぐにトゥエルを禁止にする必要を感じているところに、どよめきが起きた。激しく踊っていたAメインの1人が脇腹を抑えて呻いている。傍には1つの長机がある。カワイコは中断され、心配して駆け寄る人々を邪魔するかのように、次々と長机が現れ始めた。今回は僕以外の人にも見えるし、触れるようで、どよめきは大きくなっていく。ある観客が叫んだ。
「ついに、ついにアドバンスト化が始まった!」
 振り向くとそこに居たのは秘密結社Zのトップ、跡馬であった。

「お前たち、トゥエルを回すぞ」と藤井が言うと観客のうち10名ほどがトゥエルを回し始めた。おそらく秘密結社Zのメンバーだろう。
「翠嵐生諸君もトゥエルを回したまえ、日々の練習の成果を見せるのだ」
 彼がそう言い手拍子を始めると、僕を除いたすべての翠嵐生と教員がトゥエルを回し出した――可愛子病である。それを満足気に眺め、彼は自分もトゥエルを回し出した。手拍子が止まっても一度可愛子病になった患者のトゥエルは決して止まらなかった。逃げ惑う観客の中を跡馬がこっちに向かって歩いてくる。もちろんトゥエルを回したままだ。
「可愛子病ウィルスが効かない翠嵐生がいるとは驚いた。おや、お前はこの前私達のアジトから逃げ出した翠嵐生ではないか。どうやって逃げたかは知らないが、それも無駄だったようだな。見よ、もうアドバンスト化は始まったのだ!」
 振り向くと、アドバンスト化は既にグラウンドの半分ほどを埋め尽くしており、床や2階も形成され始めていた。

β2  顕現

 家に帰りテレビをつける。メディアの反応は早く、もう大抵の局がたったの1時間前に三ツ沢の丘から始まった異変を報道していた。空からのライブ映像をみるとアドバンスト化はもう三ツ沢下町までたどり着きつつあった。地域の住民には避難勧告が出され、ブルーラインは全線停止を余儀なくされた。画面が横浜駅周辺の映像に切り替わる。リポーターがガラリとしたビブレの上階から人と車でごった返す駅前を見せる。横浜を通る路線も今にも全線停止しそうだ。車は渋滞を起こしうまく進めず、人々は交通機関に頼れず歩いて逃げていく。次にカメラはアドバンスト化を映し出す。幾重にもなった自習室が巨大なオブジェとなり横浜駅をも飲み込もうとしている。「では、我々もこの辺で避難いたします」との言葉を最後に横浜駅との中継は終わった。
「次のニュースです」
 ニュースキャスターはなおも続ける。
「神奈川県を中心に誘拐事件が多発しています。被害者は皆20~40代の男性で、警察の調査によると彼らは神奈川県立横浜翠嵐高等学校という高校の卒業生とのことです。本日見られた謎の現象も同高校が起点であったこととの関わりも視野に入れて警察は今後も調査を進めていく、とのことです。では、先ほどのニュースに戻します」
 そう言って映し出された上空からの映像に、もう横浜駅の姿はなかった。

 両親は幸いにも横浜とは反対方面で働いているので無事にいつもより早く帰ってきた。そして「逃げるよ」と言った。逃げても無駄、アドバンスト化は日本を、世界を、ひょっとすると太陽系をも飲み込むかもしれない。でも、そんなことは言えなかった。
 逃げる、と言ってもどこに行くのかと尋ねると母は箱根の実家と答えた。無理だ、恐らくもうじき箱根もアドバンスト化に飲み込まれる。それでも、最低限の荷物を持って僕達一家は家を捨てた。
 道中、僕は人の流れに逆らってスカスカの反対車線を走る一台の車を見た。映画の主人公がよくやりそうな行動に憧れを感じると同時に、アドバンスト化を止められなかった自分を顧みて胸が痛んだ。
 箱根の実家についても話題はその怪現象ばかりだった。ニュースは「怪現象は加速度的な広がりを見せている」「分析では日本全土がこれに飲み込まれるのにもう一週間もかからない」などと報じられている。

「あの妙な建物の大きさをy、怪現象が始まってからの時間をxとしよう」
 叔父が呟いた。
「そうするとY=X²の式が成り立つんじゃないか」
「でもあんたそれは摩擦も空気抵抗もない理想状態での話じゃないか」
 すかさず叔母が反論する。
「わしはY=log₂(X+1)だと思うが」
 祖父までそんなことを言い出した。
「すごいです、お義父さん、それならあいつの膨張はどんどん減速しますね」
 と、父が言う。
「じゃろ、ちゃんと(X+1)にして原点を通るようにしたのがポイントじゃ」
 その後も「Y=tanXじゃないか」「それだとある程度まで大きくなったら突然消えるのか」「X=(2n+1)π/2の時はどうするんだ」「もうその話はやめよう」「やめてくれって、ぼくが言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ちだした話じゃないか」「まぁまぁ落ち着けって、俺はY-1=2^Xだと思うぜ」「それじゃああいつの膨張はどんどん早くなってあっという間に月に届いてしまうじゃないか」「それは新聞紙を折った場合の話だ、まぁ、それに近いことが起こると思う」という会話がなされる。
 会話の内容がおかしい。もしかして、これもアドバンスト化の影響なのか?
ともかく、僕たちは「明日にでもさらに西に出発しよう」という結論に至った。この辺りでは交通機関にも影響はまだ出ていないらしく、急いだ方が良いとのことだった。

 その夜、一家が寝静まった頃、訪問者があった。訪問者、というよりも襲撃者と言うべきだろうか。彼らは呼び鈴さえ鳴らさず、実家が田舎で鍵をかけていないのをいいことに、勝手に家に上がりこんできた。手にはVintageやチャート式基礎からの新々総合英語を鈍器のように持ち、リーダーと思しき一人はあまつさえブリタニカを持っていた。止められるかどうかの前に、恐怖が先行して僕の家族は誰も立ち向かっていけない。そして彼らは父の姿を認めると、その手に持った写真を一瞥してから、連れ去った。そこでようやく僕たちはその不法侵入者を止めようとしたのだが、軽くあしらわれてしまった。彼らは父を車に押し込み去って行った。時刻は夜中の三時になろうとしていた。
 あいつらがZの戦闘員なのか?それならなぜZ会の参考書を武器に使わないのか?別の勢力の存在が頭をよぎる。もしそうだとしたら手に負えない。とにかく、参考書、これは何かの手がかりである気がする。ここ最近の記憶を辿り、参考書に対する引っかかりの正体を探る。
 ふと、監禁されていた部屋がフラッシュバックする。あそこにはZ会の参考書ばかりが丁寧に飾られていた。あいつらがそれを鈍器として使うか?いや、使わない。あいつらは恐らくZの戦闘員だ。まだ別勢力の可能性も捨てきれないが。
 いや、だからどうしたのだ。あいつらがZと同じ組織だろうと違う組織だろうと、もう僕の手に負えないことに変わりはないではないか。

 騒然としている家族をおいて、僕は部屋に戻った。そして鞄からアドバンストを取り出す。今さらアドバンスト界を訪ねたところで意味はないかもしれないし、家族にも心配をかけるだろう。それでも何か手掛かりを得られるかもしれない。世界のアドバンスト化が始まってしまったのは、僕の責任なのだ。
「父さんを助けてくる」と嘘の置き手紙を残そうとしたが、余計に心配をかけると思いやめた。3時5分、アドバンストの表紙に触れ、僕も家から姿を消した。

相変わらず殺風景な部屋に藤山は居た。
「すいません、アドバンスト化を止められませんでした」
「分かっている、ここに居ればそれぐらいの事は」
「もう、世界はアドバンスト化の完了を待つだけなのでしょうか」
「完了?アドバンスト化は完了などしない。際限なく広がり続け、やがて宇宙を飲み込む」
 もう、駄目だ。全ては僕のせいだ。
「まぁ、落ち着け、まだ手はある。翠嵐もアドバンスト界も元はわしの空想の世界、Fantasyだ。Zのやつらの計画を知ってから、アドバンスト化が始まってしまったら使う最後の手段を必死に完成させた。わしの空想の世界を制御するために生み出した道具、幻想統治機構『Fantasy Governor』、君も持っているはずだ」
 幻想統治機構?Fantasy Governor?そんな胡散臭いもの、持っているはずがない。今でこそこんな所に意図的に出入りするようになってしまったが、ほんの数日前までただの高校生だったのだ。
「いえ、持っていません。でも、それを探せばいいんですね。ありそうな場所を教えてください」
「いや、持っているはずだ。何せわしが全ての翠嵐生がこれを持つように仕組んだのだからな。『Fantasy Governor』その頭文字は何だ」
「F・・・G・・・?」
「その通りだ。もしかして、まだピンと来ていないか?『FG』の本当の名前は『Fantasy Governor』、『Focus Gold』は浮世を忍ぶ仮の名前。金色の標準、いかにも生徒に高い²目標を待たせたがるどこぞの数学科の好みそうな、いい名前だと思わないか?Zのやつらが翠嵐に罠を仕掛けたなら、こちらも翠嵐に救済措置を用意すべきだからね」

 FGがFantasy Governorの略称?そんなこと受け入れられるはずがない。それでも、もう受け入れる他ないのだろう。
「なぜFGが黒いかを知っているか?ブラックホールが黒いのと同様、多くの物を飲み込むためだ」
 あの黒い表紙にはそんな意味があったのか、ということは――
「FGを章ごとに分解する風潮、あれはFGの表紙の力を恐れたZが促しているもの、ということですか」
「わしも同じ事を考えていたよ。でも、違うだろう。もしZがそれに本当に気づいたら、奴らは翠嵐高校の数学教師として刺客を送りこみ、FGを携帯すべき、などと言ってFGの解体を義務付けるだろうから。わしは次の版からFGを解体できないようなハードカバーにしてもらおうとも思ったのだが、下手に動いてZにFGの力を勘付かれては元も子もないからな。では、続いての質問だ。なぜFGが数学の参考書なのか知っているか?」
「アドバンストのシェアを奪うため?」
「いや、アドバンストのそばにあり続け、この緊急事態下に置いて使いやすくするためだ」
「どうやって使うんですか」
「簡単だ。アドバンストを山積みにし、それにFGを叩きつけるだけだ。今、日本中のアドバンストが翠嵐高校跡にあるZの本丸に集められている。お前に翠嵐高校に入る『覚悟』はあるか」
「はい」

 嘘である。世界を自習室で埋め尽くそうとしている秘密結社も、そんな連中にたった一人で立ち向かうことも、正気とは思えない。それでも、アドバンスト化に侵された世界は、僕以外の全ての翠嵐生が永久にトゥエルを回し続ける世界は嫌だ。だから、もうそう答えるしかないのだ。ただ、ちゃんと翠嵐高校に入る前に『覚悟』を尋ねてくれた彼は優しいと思った。『覚悟』なんてもの、翠嵐高校に入った後に問われても、もうどうにもならないのだ。

「厳しい戦いになるかもしれないぞ」
「はい」
「いくら体育祭ニートのお前でも、今のZに立ち向かえばあっという間にトゥエルエネルギージェネレーターにされてしまうかもしれないんだぞ、本当にいいのか」
「はい」
「よし、ではZのやつらと戦うための技を教えよう」
 そして、特訓が始まった。――まぁ、簡単に使える技だったのですぐに終わったのだが。

「これでZのやつらとも戦えるだろう。今からお前を翠嵐高校に向かわせる。まず、翠嵐高校跡地という地の利を活かしてFGを入手し、それを持ってZの本丸に突入するんだ。敵は多いがアドバンスト界を消すにはもうこれしか手がない。やってくれるか」
「はい、この技さえあれば何とかなる気がします」
「そうか、では行くがよい」

β3  決戦

 静かだ。周りには誰もおらず、足元にはプリントに埋もれて見つけづらくなっていた1冊のアドバンストが落ちている。他にもFocus Gold、もとい幻想統治機構『Fantagy Governor』やメジアン、大学への数学、チャート式、プラチカといった本や翠嵐グングンのびるくんのシールが散らばっている。思うにここは数学準備室跡だろう。FGを数学の参考書にした理由がよく分かった。アドバンストとFGが近くにあるとそれだけ使いやすい。一番小さなI+AのFG、ついでにのびるくんのシールを1枚拾い上げた時だった。
「そこ、サボるな!」
 どこかから怒鳴り声が聞こえてきた。声のした方に向かうと階段があり、下が何やら騒がしい。降りてみるとそこには多くの人が並び、皆一様にトゥエルを回していた。その間を広辞苑、キャンベル生物学、ニッポニカといった分厚い本を鈍器のように持った人が数名徘徊している。状況は飲み込めた。つまりここはトゥエルエネルギーの工場なのだ。だとしたら徘徊している人々は秘密結社Zのメンバー。別勢力ではなかったことに安心する。
 黙々とトゥエルを回し続ける人々の中に際早く回す者がいた――父であった。たしか花鳥風月だったっけ、そう思うとつじつまが合う。神奈川中で起きた連続誘拐事件、移動中に見た対向車、あれは『カチョフ狩り』だったのだ。そして狩られた花鳥風月が今、ここに集まっている。

 周囲には敵と思われる人が三人、練習にはピッタリだろう。「おーい」と注目を集めると案の定三人ともこちらに向かってくる。花鳥風月達はその場に留まっている。向かってくる彼らの攻撃から、校門前の東進のビラを避ける要領で逃げながら、藤山との特訓を思い出す。――まず描きたい概形を思い浮かべろ――これはZの三人の周囲を囲うような円だ。そのためには3人が集まるまで逃げ続ける必要がある。前から、横からの攻撃を次々躱していく。よし、このぐらいでいいだろう。――そうしたら原点とx軸、y軸を決めろ――原点は三人の真ん中、キャンベル生物学のあいつだ。x軸、y軸は今回はどうでもいい。――そして叫べ!
「X²+Y²=1 あいつらを取り囲め!」
 現れた無機質な黒い円は腰の辺りで三人を囲い、上下には透明な壁が張られた。成功だ。
――アドバンスト界にあっても違和感のないものの形を念じれば、出現させることができる。Zはその自習室部分のみを抽出したが、アドバンストの表紙にはグラフや図形も描かれている。この技はそれを利用したものだ。そう藤山は語った。

「皆さん、もう自由です、トゥエルを回すのをやめてください!」
 そう叫んでも花鳥風月はなかなかトゥエルをやめない。トゥエルには依存性があるのかもしれない。体育祭が終わってもトゥエルを回してしまう人もいるぐらいだ。今目の前にいる花鳥風月たちは、きっと昼夜を通して飲まず食わずでトゥエルを回し続けさせられたのだろうから、そう簡単にはやめられまい。僕は花鳥風月の皆さんがトゥエルを回す必要がないことに自分で気づくまでそっとしてあげることにした。
 さぁ、アドバンストの集まるZの本丸に向かおうではないか。

 秘密結社Zの本丸は一階、グラウンド跡地だろう。やつらはまだあそこでトゥエルを回し続けているに違いない。数学準備室が三階だったことを思い出し一階に向かうと遠くにZと思われる人影が見える。慎重に近づくとそこには高く積み上げられたアドバンストがあり、彼らはそれに祈りを捧げるかのように周囲でトゥエルを回している。十人前後の中年男女がアドバンストを囲んで無我夢中でトゥエルを回す光景はこの世の終わりを思わせるに十分なものだった。
 うまいことアドバンストが固まっていたから、ぼくがすべきなのはそれにFGを叩きつけることだけだ。そこまでの接近法を考えた結果、適したグラフを思いついた。原点をアドバンストの束としてそこからこっちに向かってx軸をのばす。y軸はそれと垂直にする。
「Y²=(X+1)/100 道を作れ!」
 そう叫ぶとここからアドバンストの山まで道ができた。間には誰もいない。誰にも邪魔されずそこまで行ける。もうこっちの勝ちだ。グラフの中を、机の上をとびながらアドバンストまで向かうZの面々はうろたえ、さっきまで息をするように回していたトゥエルさえ回せなくなっている。
「落ち着け!こいつは私が止める。お前たちはトゥエルを回し続けろ!」
 跡馬がそう言っても混乱は収まらない。アドバンストまであと一歩のところで彼は叫んだ。
「X=1 あいつのFocusGoldを貫け!」
 それを聞いてとっさにFGを高く掲げたのでFGは無事だったが、腕をグラフがかすめた。「X=2 X=3 X=4・・・」と跡馬は攻撃を続ける。それに刺されまいと僕はもと来た道を戻っていく。ある程度戻ったところで藤井の攻撃は止まったが、アドバンストからはだいぶ離されてしまった。
「残念だったな」
 といつの間にかY²=(X+1)/100のグラフを隔ててすぐ隣にいた跡馬が言った。他のZの連中も落ち着きを取り戻し、またトゥエルを回しながら僕をじっと見つめてくる。不気味、その一言に尽きる。
「唯一の持ち物がそのFocusGoldだったから狙わせてもらった。やはりそれが大切なようだな。先ほど聞こえたこのグラフの出し方も案外簡単だった。次に変な動きを見せたら確実にそれを射抜くからな」
 さすがは秘密結社Zのトップというべきか、たった一度聞こえた数式だけを頼りにこの技を使いこなせてしまうとは。何とかして次の一手を考えるための時間を稼がなければ。
「お前はおとなしくここでアドバンスト化を見守っていろ、とはいえここからだと一面の自習室しか見えないだろうがな!こうしている間にも2階の旧花鳥風月、地下深くのトゥエルエネルギージェネレーターたる可愛子病患者たちが順調にトゥエルエネルギーを生み出しているのだ。この計画は――」
 跡馬は計画の成功を確信した安堵と高揚からかひたすら喋っている。どうやら時間を稼ぐ必要はなさそうだ。話を全て聞き流して作戦を練る。ようは、跡馬の口の動きさえ封じればこれ以上グラフを出される心配はなくなりまたアドバンストに近づけるのだ。しかし、さっきのやつらのように円の中に閉じ込めたところで口の動きは封じられないのだ。それに、描けるグラフはあと1つだけ、それで失敗したら2つ目のグラフを描く前に跡馬は攻撃してくるだろう。何か、奴の動きを止められる手段はないのだろうか。直線、円、放物線、楕円、指数関数、三角関数、対数関数、3次関数、双曲線・・・思い出せる限りのグラフを思い出しても、有効な手段は1つもない。図形と方程式だの軌跡と領域だの、思い出しても何にもならなかった。
 ――軌跡と『領域』
 そうだ、グラフばかり思い出そうとしていたからダメだったのだ。領域を使えばこのY²=(X+1)/100のグラフの外側のものの動きを全て止められるのだ。不等号の向きを間違えればただの自滅になってしまうが、落ち着いて考えれば大丈夫である。「Y²>(X+1)/100」と言おうとしたところで口が止まる。『>』これ、どう読むんだったっけ・・・『小なり』と『大なり』が頭の中をグルグルと回る。そんな動揺が顔に出てしまったのだろうか、跡馬が怪しんでいる。もう迷っている余裕はない。このままやられるぐらいなら、50%の確立に賭ける方が賢明だ。『大なり』こっちに決めた。
「Y²『ダイナリ』(X+1)/100 このグラフの外のものの動きを止めろ!」

 周りがどうなったかを見回してみる。いや、『見回すことができた』つまり、成功したのだ。すぐ横では跡馬が口を開けたまま、周囲にはZのメンバーがトゥエルの途中で止まっている。皆、腕の角度が揃っており、Zの統率の強さがよく分かる。僕はFGを手に跡馬の出したグラフをくぐり抜け、アドバンストへ向かう。そして、FGをアドバンストに叩きつけた。
 次の瞬間、周囲はアドバンスト界から翠嵐高校に戻った。僕と跡馬の出したグラフも全て消え、Zのメンバーはまた動けるようになった。一人で十人前後の大人を敵に回してしまったことが瞬時に分かった。絶体絶命だ。しかし、そこにさっきの花鳥風月たちが降ってきた。2階の高さから落ちてきたにもかかわらず、ゲッタンで難なく着地する。形勢逆転である。Zに対して集められた花鳥風月はあまりにも多かったし、そもそもの身体能力が違う。次々と捕らえられる秘密結社Z、勝負アリだ。

エピローグ

 かくして秘密結社Zの野望は阻まれた。あとのことは花鳥風月にまかせて僕は三ッ沢下町の駅に向かって誰もいない道歩いていく。本当にこれで全てが終わったのだろうか、可愛子病は治されたのだろうか。ふと、跡馬の言葉を思い出す。
「地下深くの可愛子病患者たちが順調にトゥエルエネルギーを――」
 何ということだ、僕はまだアドバンスト化を直してはいけなかったのだ。今頃この地面の下に皆が埋まっている・・・そんなこと考えたくなかった。駅までの道を一気に駆け抜ける。相変わらず道には誰もおらず、静かだ。
 三ッ沢の丘を下り終えると、駅の方からざわめきが聞こえてきた。なにやらすごい人だかりができている。皆、疲れたように腕をだらりと下げている。中には喜びに泣いている人もいるようだ。「高きに地を占め」横浜翠嵐高校校歌の一節である。皆、たまたま翠嵐から見た地下深く、つまり平地に連れて来られていたのだ。
 その中に加わるべく、僕は走る速度、ギアを上げた。だって、もう高2の夏休みはとっくに終わったのだから。

 そして、翠嵐高校は消えずに済んだのだから。

用語解説

 ネタバレを含む箇所があります。一度本編を分からない語を飛ばしつつ読み、その後分からなかった語を調べながら読むことを勧めます。

・『本作はカワイコネタが7割、参考書ネタが2割、その他の要素は1割でしかありません』…1年次の進路集会で言われる言葉『受験を決めるのは1年が7割、2年が2割、3年は1割でしかない』より。

・『ハードルを低く、いや、低く²』…こちらも1年次の進路集会で言われる言葉『目標は高く、いや、高く²(高く高く)』より。

・『カワイコ』…翠嵐の体育祭で行われるダンス。1年男子が女装して踊らされる踊ることからこの名前がついた。

・『数学アドバンスト数学』…数学の参考書。α1~β3まである。かなりハイレベルでアドバンストな内容も普通に載っている。作中では散々にいじっているが良書。書名に『数学』と2回入っていることを気にしてはいけない。

・『小浜さん』…小浜みどり。初めは『代小浜(よこはま)みどり』で考えていたがあまりにそのままなので『代』を消した。

・『トゥエル』…『カワイコ』で女装しない人達がする動き。肘から下をグルグルと回す。

・『北沢玉一』…初代校長『滝沢又一』に由来。

・『FG』…こちらも数学の参考書『Focus Gold』の略称。良書。ただし、あまりに分厚いので、章ごとに解体して使用する人もいる。

・『可愛子病』…作中では『トゥエルを延々と回し続ける病』のことだが、本来は『体育祭が終わっても体育祭気分が抜けずカワイコを踊っちゃう現象』を指している。

・『感染者にはカッコイイはもちろん、トゥエルとは無縁のカワイイ、劇、小浜さんのような女子も多くいた』…『カッコイイ』『カワイイ』はそれぞれ『カワイコ』における『男形』『女形』でいずれも1年男子が扮する。『カワイイ』は『トゥエル』を回せない。『劇』は『カワイコ』をストーリー仕立てにするべく作られた役職。女子は『カワイコ』に参加しない。よって『カッコイイ』以外が『可愛子病』に感染してるこの状況は危機的、ということ。

・『部室棟』…グラウンドの片隅に建つボロボロの建物。今にも倒壊しそう。そして現在の建築基準法には背いているため倒壊すれば2度と建てられない。

・『ゲッタン』…一度ジャンプし、着地時に片脚を曲げて片脚を伸ばして座る、こちらも『カッコイイ』特有の動き。多分柔軟性が問われる。

・『トゥエラー』…『トゥエル』をたくさん回す人。

・『花鳥風月』…現在は体育祭の後夜祭で踊るダンスユニット。『トゥエル』をいっぱい回す人。

・『カワイコへのカッコイイの追加』…『カワイコ』にはかつて『カワイイ』しか存在していなかったが、ある時『カッコイイ』も加わった。本作はある程度は史実に基づいている。

・『知層』…勉強時間記録表。1・2年次のノルマは「平日:学年+2時間 休日:学年+3時間」3年次のノルマは「やれる最大限」

・『ハゲミッ、ハゲミッ、ナカハゲミィ!』…先に述べた『受験を決めるのは1年が7割、2年が2割、3年は1割でしかない』は1年生以外には逆効果。2年次の進路集会では『1年生は入学したてだから励む。入試を控えた3年生も当然励む。2年生は中だるみの時期じゃない、中励みの時期だ。励み、励み、中励み』と言われる。

・『シューガクリョコカラカエターラニッヒャクパセントジュッケンセーイ!!』…こちらも2年次の進路集会で言われる言葉『修学旅行から帰ったら200%受験生』より。

・『目の前には長机が並んでおり、奥には壁がある。机には各3つの席が据え付けられており、壁には時計がかかっている。蛍光灯の明かりが薄暗い、殺風景な部屋だった』…1度目での言及は避けたが、アドバンストの表紙の写真のこと。なお、この時計が『3時5分』を指している。

・『体育祭後もトゥエルを回していると友達が減る』…体育祭直後に『可愛子病』の人を戒めるために流れる迷信。

・『Aメイン』…『カワイコ』には『メイン制度』なるものがある。Aメイン、Bメイン、Cメイン、場合によってはDメインまでランク付けがなされる。踊りの腕前ももちろん基準の一つだが、教えている先輩に気に入られているか、という基準も存在する。怖い。

・『会話の内容がおかしい』…翠嵐生はノリで会話の中に勉強ネタを入れることがある。『下校中にエントロピーが増大して怒られる』など。ここでは数学と現代文の『こころ』を用いた。

・『Vintage』『新々総合英語』…いずれも英語の参考書。

・『ブリタニカ』…電子辞書に入っている。紙媒体で使うことはそうそうない。

・『翠嵐もアドバンスト界も元はわしの空想の世界、Fantasyだ』…本作のタイトル『Suiran Fantasy』はこれです。やっつけでつけたタイトルじゃないです。

・『ちゃんと翠嵐高校に入る前に『覚悟』を尋ねてくれた彼は優しいと思った。『覚悟』なんてもの、翠嵐高校に入った後に問われても、もうどうにもならないのだ』…翠嵐生は新入生説明会で『覚悟プリント』を配られ戦慄する。ネットでもちょっとした話題を呼んだ。

・『体育祭ニート』…体育祭で何もしない人。体育祭アンチという類義語も存在する。

・『メジアン』『大学への数学』『チャート式』『プラチカ』…いずれも数学の参考書。

・『翠嵐グングンのびるくん』…翠色の上向き矢印を模した翠嵐高校の進路ガイダンスグループのある教員によるオリジナルキャラクター。

・『広辞苑』『キャンベル生物学』『ニッポニカ』…パッと思い浮かんだ分厚い本。『キャンベル生物学』に至っては電子辞書に入ってもいない。

・『校門前の東進のビラ』…登校時間に合わせて勧誘がなされる。たいていボールペンや消しゴムが同封されており、これらは高校生の間に使いきれないほどの量が手に入る。あとはシャー芯とノートを配ってくれれば何も買わなくてよくなる。0.3のHBと無地ノートがほしいです。

・『ギアを上げた。だって、もう高2の夏休みはとっくに終わったのだから。』…2年次の進路集会で、夏休みの終わりと修学旅行後に勉強のギアを上げるようにいわれる。

・『本作はカワイコネタが7割、参考書ネタが2割、その他の要素は1割でしかありません』…1年次の進路集会で言われる言葉『受験を決めるのは1年が7割、2年が2割、3年は1割でしかない』より。

・『ハードルを低く、いや、低く²』…こちらも1年次の進路集会で言われる言葉『目標は高く、いや、高く²(高く高く)』より。

Suiran Fantasy

~荒唐無稽な物語に意味性を~

 本作のキーワードの一つに『アドバンスト化』が挙げられます。『アドバンスト界』すなわち自習室が現実世界を覆い尽くす、という滅茶苦茶なものです。それもまぁ、フィクションの世界だから。
―――本当に、そう言いきれますか?

 受験生はあらゆる場所で勉強します。自習室はもちろん、教室、交通機関、飲食店、等々。歩きながら英語のリスニングをしている人もいるでしょう。単語帳1つで、いつでもどこでも勉強が可能になります。受験生にとっては、この世界のどんな場所でも『自習室』と成り得るのです。
 ある意味、世界のアドバンスト化はとっくに始まっているのかもしれません。

Suiran Fantasy

「見えない長机を見るものが現れたとき、世界は終わりを迎える」 横浜翠嵐高校の荒唐無稽な言い伝えである。 その実現と時を同じくして謎の奇病、『可愛子病』が流行り始める。 明かされていく『花鳥風月』の起源『トゥエル』の 秘密、そして陰謀。 そんな中、一人の翠嵐生がとある使命を託される。 彼は可愛子病を治し、世界を救えるのか。 ※一般の方へ この小説は某県立高校の内輪ネタ小説となっています。 意味の分からない語も多く登場するため、オススメできません。 ※内輪ネタの内側の方へ 本作はカワイコネタが7割、参考書ネタが2割、その他の要素は1割でしかありません。 ハードルを低く、いや、低く²してお読みください。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. α1  奇病
  2. α2  秘史
  3. α3  結社
  4. β1  祭典
  5. β2  顕現
  6. β3  決戦
  7. エピローグ
  8. 用語解説