散りゆく桜の花のようにそっと 2
夕暮れの光と友達との話、そしてこれからのこと
☆
久美子が手伝ってくれたこともあって、引越し作業は夕方頃にはほぼ片付いた。あとは細々としたものを片付ければいいだけだ。狭い部屋だと思っていたが、それでも荷物が片付いてしまうと、やけに広々として感じられた。
カーテンの隙間から、紅の色素が濃くなった太陽の光が差し込んできていて、それは部屋のなかに入り込むと、淡く溶けて半透明の紅の色彩に空間を染めていった。蝉が突然鳴き始めたかと思うと、思い直したようにすぐに鳴きやんだ。
「ありがとう」
と、わたしは久美子の顔を見ると、微笑んで言った。
「おかげで助かったよ。これなら明日の引越しには十分間に合いそう」
久美子はわたしの科白に何も言わずにただ微笑んだ。それから、久美子は荷物が片付いて、がらんとした部屋に改めて視線を向けると、
「だけど、ほんとにいなくなっちゃうんだねぇ」
と、言った。
そう言った彼女の口調は、前回とは違って、いくぶん名残惜しそうにも感じられた。わたしは彼女に誘われるようにして、自分の部屋に視線を向けてみた。一刻もここから早く出て行きたいと思っていたはずなのに、久美子の言葉を耳にしたせいか、急に寂しさのような感情がこみ上げてきた。
東京に来てから十年近い歳月を、この部屋で過ごした。この部屋で随分色んなことがあった気がしたし、逆に何もなかった気もした。よくわからなかった。心のなかにはぼんやりとした、ちょうど夕暮れの光のような感情の塊があった。
わたしたちは部屋を出ると、近くで外食をすることにした。
わたしのアパートは繁華街から離れた場所にあるのであまり大した店はないのだが、それでもファミレス系の店なら近くにいくつかある。わたしたちは少し悩んだ末に、アパートから徒歩十分くらいの距離にあるうどん屋に行くことにした。
うどん屋は、まだ夕方の早い時間帯ということもあって、比較的空いていた。わたしたちは店員に奥の窓際の席に通されて、向かい合わせに腰かけた。
わたしは店員にカツ丼とうどんのセットを注文し、久美子はてんぷらそば注文した。注文した料理はすぐに運ばれてきて、ひどく空腹だったわたしたちはほとんど無言で料理を食べた。味は特別美味しくもないし、不味くもない。
「実家に帰ったあと、どうするの?」
久美子は麦茶の入ったコップを口元に運びながら尋ねてきた。
「さあ」
と、わたしは自嘲気味に口元を綻ばせると首を傾げた。
それから、わたしはなんとなく窓の外に視線を向けてみた。時刻はもう六時を過ぎていたが、夏の日差しは長く、外はまだ明るかった。紅というよりは水で薄めたような淡い黄色の色彩に包まれた世界がそこにはあった。
「さあって、何も決めてないの?」
と、久美子は不思議そうに言った。
わたしは視線を久美子の顔に戻すと頷いた。
「でも、それもいいかもね」
と、久美子は労わるように優しい目でわたしの顔を見ると言った。
「しばらく何もしないっていうのもいいかも」
「だけど、いいなぁ美樹は」
久美子は微笑すると、羨ましそうに言った。
「もう、仕事いかなくてもいいんだもんね」
わたしは久美子の発言に苦笑すると、
「久美子は明日は仕事?」
と、尋ねてみた。すると、久美子は短く頷いた。
「明日はオープンからだから、六時半から」
「大変だね」
と、わたしは軽く笑って言った。
「まあね」
と、久美子は微苦笑すると、仕方がないというふうに軽く肩をすくめた。
「いっそ、久美子も辞めちゃえば?」
と、わたしが冗談半分に言うと、
「わたしも辞めちゃおうかなぁ」
と、久美子は軽く笑って言った。
「この仕事って結構体力使うしねぇ。立ちっぱなしだから腰も痛くなるし」
久美子は頬杖をつくと、大袈裟にうんざりした表情を作った。それから、
「だけど」
と、久美子はそれまで浮かべていた明るい表情を打ち消して、
「仕事を辞めちゃったら辞めちゃったで、生活していけなくなっちゃうしねぇ」
と、軽く眼差しを伏せながら、どこか思いつめたような口調で言った。
「・・・わたしに何か特別な才能でもあれば良かったんだけど」
久美子は独り言を言うように少し小さな声で言った。
わたしは久美子の科白に適当な感想が思いつかなくて少しのあいだ黙っていたけれど、
「大庭くんは?」
と、ふと思いついて言ってみた。
大庭くんというのは、久美子が現在付き合っている恋人のことだ。
久美子はわたしの問の意味がわからなかったのか、なんのこと?というように眼差しをあげて、わたしの顔を見つめてきた。
「大庭くんと結婚して、彼に養ってもらえばいいじゃん」
わたしは冗談めかして言った。すると、久美子は、
「だめだよ。あいつは」
と、頬杖をつくのをやめて、小さく笑った。
「あいつは最近までフリーターやってて、やっと就職したばっかだもん。わたしのこと養う余裕なんてないよ」
「そっか」
と、わたしは曖昧に微笑して頷いた。
久美子の恋人である大庭くんは、一年前くらいまでわたしと同じでアルバイトをしながらミュージシャンになることを目指していた。でも、今はその夢を断念して、やはりわたしと同じようにそのままアルバイトをしていたパチンコ店に就職した。
「大庭くんはどう?仕事頑張ってる?」
わたしはなんとなく尋ねてみた。わたしは過去に一度だけ、久美子と一緒に大庭くんと飲みに行ったことがある。大庭くんは明るくて、冗談をたくさん言う面白いひとだという印象があった。
「さあ、どうだろう」
と、久美子は小さく笑って、首を傾げた。
「たぶん、適当にやってるんじゃないかな。アイツが真面目に働いてるところなんて想像つかないし」
久美子はそう言ってから、愉快そうに笑った。つられようにしてわたしも曖昧に笑った。
少しの沈黙があって、その沈黙のなかに外の通りを走り過ぎていく車の音やバイクの音が聞こえた。それから、どこか近くの公園で騒いでいるらしい子供たちの歓声も微かに聞こえてきた。気がつくと、日の光は急速のその輝きを失いはじめていて、辺りには淡く透き通った闇が静かに広がり始めていた。
「・・・でも、なんかみんな夢を諦めていくね」
と、わたしは自分も音楽の道を目指していたせいか、就職した大庭くんのことを考えると、妙に感傷的な気分になって言った。
「年齢的なものもあるし、それはしょうがないことなんだろうけど」
「そうだね」
と、久美子はいくらか気遣わしげにわたしの顔を見ると、小さな声で同意した。
「大庭くんって今いくつ?」
わたしは気になって尋ねてみた。
「二十八」
と、久美子は短く答えた。
「二十八か」
わたしはなんとなく久美子の言葉を反芻した。そしてふと天上のあたりを見上げてみた。天井の隅の方には蝶々のような形をした黒い染みがあった。
「わたしたちのあいだで誰かひとりでも、夢を叶えたやつっているのかなぁ」
わたしは顔を天上の方に向けたまま、ぼんやりと呟くように言った。
でも、そう言ったわたしの言葉に、答えは返ってこなかった。代わりに、
「・・・美樹も、確か、昔音楽やってたんだよね?」
久美子は訊いてきた。
わたしは天上に向けていた顔をもとに戻すと、久美子の顔に視線を向けて、
「昔のことだよ」
と、苦笑して答えた。
「聞いてみたかったな。美樹が作った歌」
久美子は微笑してからかうように言った。
「たぶん、がっかりするだけだと思う」
わたしは軽く笑って答えると、首を振った。
☆
店を出ると、わたしは駅まで久美子を送っていった。
「明日、見送りにいけなくてごめんね」
と、久美子は駅の改札近くで立ち止まると、わたしの顔を見て、申し訳なさそうに言った。
「明日、仕事じゃなかったら行ったんだけどね」
わたしは微笑んで短く首を振った。わたしは明日の朝、東京を立つ予定でいた。
「ありがとう。でも、気持ちだけもらっとくよ。なんか改まって見送られたりすると、寂しくなっちゃうし」
「実家に帰ってもときどき連絡ちょうだいね」
と、久美子は笑顔で言った。
「うん、もちろん。たまには東京来ることもあるし」
わたしは微笑んで言った。
久美子はわたしの科白に黙って頷いた。
「じゃあ、また」
と、久美子は言うと、スイカを自動改札にかざして、改札の向こう側へと歩いていった。
「今日はありがとう」
わたしは改札を抜けていく久美子の後姿に向かって声をかけた。久美子はわたしの言葉に立ち止まると、わたしの方を振り返った。
「大庭くんによろしく」
と、わたしが言うと、久美子は可笑しそうに口元を綻ばせて、頷いた。それから、
「またね」
と、手をあげて言った。
「また」
と、わたしも手をあげた。
それから、久美子は再び前に向き直ると、エレベーターに乗ってわたしの視界から消えていった。わたしは久美子の姿が見えなくなってしまってからも、しばらくのあいだ同じ場所に立ち尽くしていた。
そしてだいぶ経ってから、もと来た道をゆっくりと歩き始めた。
散りゆく桜の花のようにそっと 2