おやすみ

すごろく

 だだっ広くて何もない、薄暗い場所だ。天井も壁もない。
 私は適当なところに胡坐を掻いて、首を痛めそうなほど顔を上げて、夜空を見ている。
 夜空には薄い星の明かりがいくつか瞬いていて、三分の一くらい欠けた月は赤らんだり青ざめたりしている。
「やあ」
 すぐ近くで声が聞こえた。妙に甲高い声だ。無視した。
「やあってば」
 声は少し苛立たしげになった。まだ無視した。
「やあって言ってるだろ」
 声があからさまにキレた口調になったところで、私は顔を下ろした。
 そこには一匹のネズミがいて、不満げに私を見上げていた。
「何で無視するんだ」
「無視なんかしてないよ」
「してたじゃないか。聞こえてたくせに」
「夜空に見惚れてたんだよ」
「まあいいさ。僕が君に声をかけたのは、こんなくだらない水掛けをするためじゃない」
 ネズミは不機嫌そうに長い尻尾を振る。
「僕は君に質問がしたいんだ」
「私は辞書じゃないけど」
「専門的なことを訊きたいわけじゃないよ」
「じゃあ一般常識? 雑学?」
「何で君とクイズなんてしなくちゃならないんだ」
「じゃあ何が訊きたいのさ」
「それを今から言おうとしてたところなんだよ」
 ネズミは少しもったいつけた調子で、咳払いを一つした。
「君はここで何をしてるんだい?」
「何かしているように見えるの?」
 私はネズミに食い気味で訊き返した。
「質問を質問で返さないでくれ」
「いや、だって純粋に疑問だったから」
「何かしているように見えないから訊いてるんだよ」
「だったとしたら何もしてないとしか答えようがない」
「何もせずに夜空を見上げてたのかい?」
「そういうことになる」
「だったら答えは夜空を見上げてたでいいじゃないか」
「でも夜空を見上げてなんてのは一目でわかることでしょ」
「何が言いたいの?」
「私が夜空を見上げているのを見て、何もしていないように見えたからその質問をしたんでしょ? だとすると、夜空を見上げてる行為はあなたの中では何かしている行為に入らないということになるわけで、それを踏まえたうえで答えたつもりなんだけど」
「なんだい、その屁理屈」
「勝手に質問をしてきて、答えろと抜かしてきたのはそっちでしょ」
「あーあー、君はなんというか――」
 ネズミは呆れた様子で何か言いかけたが、急に押し黙って逡巡するような仕草をしたかと思うと、少し落ち着いた調子で言った。
「質問を変えよう」
「どんな風に?」
「まずさ、桃太郎はどこから来た?」
 不意な質問に少しだけ戸惑って口ごもったが、わりとすぐに答えた。
「桃の中に閉じ込められて、川の上流から」
「アリスはどこへ行った?」
「不思議の国か鏡の国」
「ジョバンニとカンパネルラは?」
「銀河鉄道に乗った」
「グレゴールザムザはどうなった?」
「虫になったまま死んじゃった」
「じゃあ君はどこから来て、どこへ行って、いったいどうなる?」
 ネズミがそう質問してきてから、私はほんの数秒黙った。ここまで間髪入れずに答え続けてきたので、妙な沈黙が私とネズミの間を埋めた。ネズミがなんだか嬉しそうににやりと笑った気がして、それがどうにも気に食わなかった。
 だからネズミが望んでいないであろう答えをしてやった。
「どこからも来てないし、どこへも行けやしないし、どうにもならないよ」 
 案の定、ネズミは不服そうに尻尾を地面に打ち付けた。
「君は本当につまらない」
 ネズミはそれだけ言い残すと、とてとてと目の前から走り去っていた。ネズミの足は存外速くて、あっという間に薄闇に紛れて見えなくなった。
「つまらないねえ」
 罵られたのになぜか愉快な気分で、ごろんとその場に大の字の形で寝転がった。
 夜空は相変わらず、しょぼい星がいくつか輝いているばかりだった。
 ネズミとへんてこりんな問答をしただけだけれど、だんだんと眠たくなってきた。
「おやすみ」
 誰もいないのに、ふと口から零れた。誰もいないからこそ、それはよく響いた。
 遠くでりーんと鈴が鳴るような音が聞こえた。

おやすみ

おやすみ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted