聖十字に恋して      栗本はるこ

ふく

聖十字に恋して      栗本はるこ

聖十字に恋して

       1

 《アンカ・ルース歴元年、初春》

 冬が長いほどに春の訪れはかぐわしく、また喜ばしい。
 幼心にして、この言葉の意味を知ったのは、彼女が六歳のときだった。生まれてからずっと、彼女が育ってきた町、カレス。港の見える小さなこの町が、あれほど華やかに、また賑わしく沸き立ったのはただの一度きりだ。
「隣町のオルドの主教座に、新しい主教様が叙階なさったそうだ!」
「今度の方はすばらしく賢いお方よ!」
 町じゅうの人間が、その姿をひと目見ようと、こぞって表に飛び出していく。町で唯一の教会の前には、白い絨毯が敷き詰められ、聖堂の鐘楼からスミレの花びらが、視界が霞むほどに降り注ぐ。数え切れないほどの人間が教会の入り口を取り囲み、その中を、一人の少年が歩いていくのが見えた。
 アデレード・クライスラーは、その様子を自分の部屋の窓から眺めていた。四階建ての、町の中だけではそこそこの豪商の家。教会は彼女の住む家の斜め向かいにあり、彼女は窓際のベッドの上によじ登り、その様子を見つめていた。今日は新しい大司教の、お披露目の訪問。
 少年は、白い法衣を身に着けている。聖職者らしい金糸の刺繍の衣装を身にまとい、手には儀杖を持っている。お付きの僧侶らしい人間を引き連れ、集まった人たちに顔を見せているのだ。
(あれが、主教様)
純白に近い銀の髪。紫色の瞳がまばたきしている。いっそ白すぎるくらいに白い肌に、春の光がきらきら輝いているのが見えた。
(なんて素敵なひとなんだろう――)
 そう、この日から、私の心はあの人に釘づけになった。

  《十一年後 アンカ・ルース歴十一年、初夏》

「長旅も疲れたでしょう? もうじき到着しますよ。外を御覧なさい」
 馬車の窓の向こうから、御者が呼びかけてくる。普段から滅多に乗りなれない乗り物に揺られながら、アデレード――アデルは、いいえ、と首を振った。相手には中の声が聞こえていないらしい。ガラガラと馬の足音が響いており、騒音に紛れて届かないのだ。窓を開けて、もう一度繰り返してやる。
「全然。まだ平気よ」
「もうじきオルドの町が見えますよ」
 褪せた草原の向こうに、灰色の建物の塊が見えている。ちょっとした緩やかな丘地になっており、皿に乗せた特大のオムレツみたいな形だ。教会領オルド――遠目に眺めながら、アデルは溜息をついた。「巡礼者」の町。聖ベルタン信仰のこの町に、信者たちは皆こぞって訪れる。神の奇跡に預かろうと――いや、教会の恩恵に授かろうと。悩みある者は、一度は訪れる、救いの町。
 なのに、この気分はなんだってのよ? アデルは溜息を吐き出した。そんな気分ではいられないのだ。こちとら、呑気に神に救いを求める暇など持ち合わせていないというもので――なんたって、ここに来たのは命賭けなのだから。
 この二ヶ月間で、彼女の人生が決まるのだから。
 数日前、突然両親に居間に呼び出され、「あれ」を告げられたときのことをアデルは思い出した。人生最悪の一瞬。もとより、予感は有ったのだが。一週間ほど前に、父がいやに着飾って出かけて行ったとき――(豪族とは言っても、所詮は商売人にすぎないのだから、仕事がらみの話に、いちいち盛装などするはずがないのだ) ピンと来たのだった。父が何の用事で出かけたのかを。何故盛装したのかを。
「お前の夫が見付かったよ」 と、父は帰って真っ先に言った。普段は滅多に付けない他所行きのコロンを匂わせている。「喜べ、アデル。相手はなんとローヌ地方の代官だよ」
 アデルは父の抱えている肖像画を見た。太っちょの、コテコテ頭のいかにもスケベそうな男だ。年もふた回り以上は離れており――アデルは絶句した。冗談じゃないわよ!
「イヤよ、絶対嫌!」 アデルは叫んだものだった。「これならブタの脇腹とでも結婚した方がマシ!」
「言うとおりにおし、アデレード!」
 母のクライスラー夫人が叫んだ。そこから後は愁嘆場だった。使用人を全員表に叩きだし、家中を転げまわって取っ組み合いをした挙句、父は最期の手を打ちに出たのだ。「お前は俺たちに何もかも失わせるつもりか!」
 アデルは呆然とした。そう――それが全てだったのだ。潰れかけの商家の娘。はしくれとはいえ、没落した者が生き長らえるためには、結局この手しかないということを。
「代官には私たちから承諾しておく。これでもし断るというのなら、お前はこれきり、勘当だ!」
 アデルは地面に座り込んでいた。両親は、黙っている。二人ともひどい息切れをしており――アデルは目を閉じた。
「――判りました」
 判ったわよ、アデルは内心毒づいた。所詮はコレでしょ? 金が命。繋ぎになるためなら娘の運命だって知ったこっちゃ無し。でもね――でもこれで引き下がるほど、こちとらヤワな育ちじゃないのよ。
「なら、せめて巡礼に行かせて下さい」 と言った。「最後のわがままよ。それくらい、聞いてくれてもいいでしょ?」
古臭い習慣だが、良家の娘は結婚が決まれば、巡礼の地に赴き、二ヶ月――長ければ半年間の修道生活を送る。そこで、戒則に守られた生活に身を置き、己を律し、また自らを知るのだ。
 両親はあっさり快諾した。
 オルドの町が近付いてきている。草原に、牧草地がわりに羊が点々としており、僧侶らしい人間が枝を持って羊を追って居るのが目に見えた。町の頂上に――頂あたりに、槍のように尖った鐘楼を構えた教会が見えている。鐘楼のてっぺんに、太陽の光を受けてキラキラ光るものが見え、御者が馬車の屋根で言った。
「あれがベルタンの正十字ですよ」
 そう――アレよ。アデルは密かに唇を噛んだ。狙いはアレ、教団のシンボル、黄金の正十字。
 アレさえ掴みゃあこっちのもんなのよ?
 別名、聖女の正十字。あれが彼女の運命を変える切り札なのだ、アデルは思った。猶予は二ヶ月、その間に、どんなことをしたってアレを手に入れてみせる。
私が洗名者(ミザラ)になってみせる。
馬車がオルドの関所を潜り抜ける。主教座の空気を肌で感じながら、アデルは膝の上で拳を握り締めた。

       2

『オルドの町は聖なる要塞、身持ちの良い淑女の佇まいを思わせる小さな都市国家――』
 とはよくも言ったものだわ。巨大な旅行鞄を手に、アデルはしみじみそう思った。地方独特の灰色の石壁の街づくりに、繊細なデザインの建物が点々としている。緩やかな丘状の、頂上がまさに主教の牙城――主教座の聖堂が構えており、その足元に集うようにして、教会施設、市役所、市場、家々が肩を寄せ合っているのだ。町の中心の頂に、主教座のシンボル、聖ベルタン教会の正十字。
「ようこそ。この門をくぐり、ここに立つ者は、皆わたくしたちの家族です」
 修道院に辿り着いたアデルを、迎え入れた修道女は最初にそう言った。年かさの女性で、痩せた体をゆったりとした修道着に包んでいる。「私はここの院長、モリー。荷物を持ってこっちへ」
アデルは女子修道院の一角に案内された。石造りの建物で、部屋にはベッドと書き物机、ジャグと洗面台しかない。簡素な部屋に少女がひとり佇んでいる。モリーと名乗る院長は言った。
「ここに居る間は、教会が私たちの家であり、私たちは姉妹であり、家族です。全ての仲間と財産を共有し、外の世界を忘れなさい。清貧であり、貞潔であり、上長の方々の姿に神及び聖女の姿を見出し、倣い、これに従う、従順の精神をけして忘れぬよう」
 ベッドの上に、修道着が置かれている。と、相部屋の少女がパッと口を開いた。
「あたしローザ。二週間目よ」
 アデルは荷物を持ったまま振り向いた。髪の毛の見えないタイプのベールから、燃えるような赤毛が少し覗いている。「アデレード」 アデルは言った。「アデルでいいわ」
「何でここに志願したの?」 ローザはニッと笑った。「当ててあげる。見たところ、良いとこのお嬢様みたいだから、結婚前の習慣てやつ?」
「半分正解」 アデルは顔を顰めた。「逃げ出すためにここに来たのよ」
 ふふん、相手は妙にニヤニヤしている。まるで(いつまで持つかな) というような顔をしており、「まあ、いいわ。今にあんたもここがどういうところか知るわよ」
 午後三時からは、決まりでは「日課の時間」となっている。教会に来た限りは、祈らされるんでしょうよ、と気軽に構えていたアデルは、それが本当にまったくの見当違いなことを知った。表に引っ張り出され、クワと厚手の手袋を渡される。
「あの、これは一体…」
「労働です」 モリー院長はこともなげに言った。「言ったでしょう? 外の生活を忘れると。頑張って下さい、アデル」
 修道院の裏には、広大な田畑が広がっている。僧侶も、修道女も一同になって働いており、クワを振り回して居る者、牛の首に鋤をくくりつけて畝をおこしている者、たすきがけにした袋から種を撒いている者――様々だ。アデルは絶句した。
「だから言ったじゃん…」
 なんでイキナリ野良仕事なのよ! アデルは泣きそうになった。やけっぱちにクワを振り回すアデルを見てモリー院長はニコニコしている。わざわざ教会に来て、土にまみれて家畜のフンの始末に汗だくで肉体労働? 冗談じゃないわよ!
「お、お祈り――は?」 ヘトヘトになりながら、アデルは訊いた。楽をするコツを心得ているらしく、ローザはアデルの耕した後から石を拾ってポンポン外に投げ出している。「あるわよ。朝と、昼過ぎと、食事前に一回。あと深夜に一回叩き起こされるわ」
「そうじゃないのよ」 アデルは唸った。獏としているが、まがいなりにも教会にイメージを持っていたのだ。町の中心の教会で、おごそかな礼拝。もう十年以上前に見たきりになるけれど、若い主教様が法衣を着て祝祷を行う。ひょっとしてもっとカッコよくなってたりして――
「ある訳ないじゃん」 ローザはきっぱりと言った。「こっちは、一日働くのが主な仕事だもん。そもそも、教会と修道院は建物が別で完璧に分かれてるのよ? どうやって会うのよ」
 アデルはうっかり卒倒するんじゃないかと思った。
「まあ、会えんこともないけどね」 ローザが不憫そうな顔をして笑う。アデルの顔を見て、流石に哀れんでいるのだ。「週に一回、水曜日に教会で礼拝があるわ。チラッと遠目に見られるんじゃないの。あと、深夜の二度目のお祈りは、私たち女は免除されてるけど、希望さえすれば行けるから――」
「……それ以外は?」
「無いね」 ローザは鼻の頭を擦った。「まあ、悪けりゃ一週間と持たないのがザラよ。ここはそういうとこ。花嫁修業、頑張りなさいよ」
 人生暗転決定。アデルはその場にしゃがみこんだ。

 その晩、ざわついた食堂のテーブルで、アデルはスプーンを手に凍りつくことになった。食事は毎回、院内の食堂で揃って頂く事になっている。本日のメニューは、オート麦のお粥に、レンズ豆とカブの芯入りのスープ、パンとチーズの切れっ端だけ。
「運が悪かったわね」 斜向かいに腰掛けている修道女がせせら笑った。「今日は食事を制限する日なの。ゆっくり味わって、食べることね。じゃないと明日まで体が持たないから」
 ぐうぐう鳴るお腹を抱えて部屋に戻る。ベッドの枕は麦穂を細かく切ったものが綿の代わりに入っており、布団は石を通り越して岩だ。ベッドに突っ伏して、流石に呆然としてしまった。
 ――高嶺の花なのかも
 そう思うと、涙も出てこなくなる。食事中、せめてもの話題に華を咲かせようと、先輩たちが話していたのを耳にしたのだ。「主教様、ますます素敵になられたわよね!」
オルドの町は、教会の持ち物だ。主教座聖堂(――大司教が居る教会だ) が占めるということは、この町の長は教会の長になる。つまり、ラルス大司教その人だ。
 年若の主教さま。アデルは思った。子供のころ見た姿しか知らないが、雪のように白い方だと思った。紫色の切れ長の目に、純白に近い銀の髪。「ここにいらっしゃるんですか?」
「教会の方にね」 女たちは言う。「勿体無いよねえ。聖職者は妻帯できないんだから」
 つまり結婚出来ない、ということだ。
 チャンスは週に一回。アデルはベッドから顔を上げた。ローザは風呂上りの髪をせっせと梳いている。水曜日の礼拝に、一度だけ。幸いなことに明日がその水曜なのだ。
「あんた、なんでそんなに必死なの?」
 ローザが投げかけてくる。アデルは聞こえないふりをして布団に潜りこんだ。慣れない畑仕事で、こちとらクタクタなのだ。喋る気力もほとんど無い。
「お休み」 アデルは言った。こんな布団で安眠できるかは分からないけれど。ローザが返事の代わりに蝋燭をひとつ吹き消してくれた。
「お休み」 と言う。「シッカリ寝なさいね。どうせ深夜に叩き起こされるんだから」
 アデルは黙って目を閉じた。

       3

 怒涛の生活とはこのことだ。翌朝、アデルは文字通り院長に叩き起こされた。枕元に、ものさしを持ったモリー院長が立っている。布団を思い切りひっくり返しながら「起きなさい! シスター・アデル!」
 フラフラになりながら、教会に連れられる。院長様はカンカンだ。昨日の夜、さんざ起こそうとしてもアデルだけが起きなかったらしく(おまけに、布団をはがそうとした院長の脇腹を蹴っ飛ばしたらしいのだ) 労働疲れよ、アデルは思った。勘弁してちょうだい…
 ベルタンの聖教会は、今朝は大勢の人間が集まっている。町の中心の教会に、下層に住んでいる一般の人たちが詰め掛けているのだ。こればっかりは特権というもので、アデルは祭壇の近くに押しやられた。厳かな空気の中、すし詰めの礼拝を行う。
「立ったまま寝ないでよ、アデル」
 ローザが耳打ちする。昨日の疲労が抜けきらず、アデルは半分死にかけで突っ立っていた。法衣を着た司祭たちが、つらつら話を繰り返しており、余計に眠気を炸裂させる。退屈、面倒、だるいの三重苦。ああ、早く朝ごはんにさせてちょうだい――
 だが、次の瞬間にアデルの眠気は吹っ飛んだ。意識不明の寸前になって、ラスボスならぬ大トリが現れたのだ。純白の法衣に、長い金糸の肩掛けを羽織った若い男の姿。なんだかそこに一輪だけ花が急に咲いたみたいな――
 夢なんじゃないの、と思った。
 あの少年だ、アデルはまばたきした。一斉に修道女全員がカッと目を見開く。祭壇の前に、主教が立っている。背が伸び、すらりとした身体つき。整った容貌。物腰柔らかで、品行方正の看板を首からひっかけたみたいな男前だ。祭壇の前に進み出て、祈祷を行っている。紫の瞳が信者の姿を横切った。
 十年前見たあのときの少年が、すぐ側に立っている。
「――祈り、信ぜよ、ともに歩めよ。すすみて重荷を負い、退けられ、また苦しみを背負うものは神の子なり…」
 ラルス大司教。アデルは棒立ちになっていた。ローザはデレデレしている。いや、修道女全てがほとんど例外なく同じ顔をしており、冷や汗でだくだくになりながらアデルは思った。
 そりゃ難しいとは思っていたけども。高嶺の花とは承知の上だったけれど。
 でもいくらなんでもここまでなんて。
 これは、マズいことになったわ……

 食事のあとは、僅かな自由時間を挟み、早速朝の労働になっている。昨日の大寝坊の罰ということらしく、アデルはにしんの干物作りに回された。修道院の端がそのための作業場となっており、昨日の田園が目の前に広がっている。
 麻布の上に広げられた、生乾きのにしんの開きを、一枚一枚手でひっくり返していく。粉を吹いているものもあり、これがとんでもなく生臭いのだ。相部屋のローザも共同責任を担わされ、にしん係に回っている。鼻に栓までして「あんたのせいよ」 と唸った。
「起きられないんだもの!」 アデルはしおれた。「勘弁してよ」
一時間もしないうちに、アデルはにしんの臭い漬けになった。通常、交代のある仕事なのだが、今日は罰ということでそれもなしだ。昼過ぎに休憩を挟み、ようやく仕事場から開放される。
 ぜいぜい言いながら、建物の外に飛び出す。女子修道院の目の前は、背の低いぼろ壁に囲まれており、隣の男子修道院と共同で作った収穫物を仕出しするための積荷場になっている。幌付きの荷車や、手押し車に、麻袋が積み込まれており、奥でずきんを被った修道僧たちが肉体労働に励んでいる。アデルはそっと溜息を洩らした。
(こんなので上手く行くのかしら…)
 だが、悪いことばかりとも限らないのだ。院回りを眺めていたアデルは、積み荷場で、馬に跨り指示している若い町人の息子に気付き、きょとんとした。小柄な馬に乗り、紙の切れっ端を手に怒鳴っている。アデルと同い年くらいの、ちょっと目立つ容姿の男。
「蜜酒三樽、ビネガー七十本、甜菜の苗二百、豆十袋!」
 フェルトのジャケットの背中に、オルドのマークが入っている。服装の刺繍が鮮やかなのは、町人の息子の意味だ。「フィッツ?」 アデルは叫んだ。「フィッツじゃないの!」
 途端に相手は振り向いた。その勢いでうっかり馬からずり落ちそうになる。フィッツだ。昔アデルの故郷の近所に住んでいた、幼馴染のフィッツ・ローナン。オルドに越してから、商人の父が出世して町長になったと聞いていたけど、まさかこんなところで会うなんて!
「アデル!」 相手は駆け寄ってきた。ちょっと癖のある髪を肩で切りそろえている。「信じられない! どうしてここに居るんだい?」
「嫁入り修行よ」 アデルは鼻で吐き捨てて笑った。「逃げ出してきたの。帰ったらもう一度両親と喧嘩してみるわ」
 相手は目をぱちぱちした。昔遊んだときのままだ。家が商家同士で、当たり前のように一緒に育ってきた男。背もアデルよりぐんと伸びているけれど――
「家は越して今は町の最下層に居るよ」 とフィッツは笑った。「中古の屋敷だ。是非寄ってくれ。何かあったら、遠慮なく頼ってくれよ」
 フィッツを見送り、積み荷場の横手に引っ込む。世間はつくづく狭いものだ――アデルはぼうっとしてしまった。
 主教とは、週に一度のペースでドッキングだ。礼拝のある時しか、修道女は教会には顔出し出来ない。問題は深夜の礼拝だが――こんな調子で、行けるかどうか…
その時、アデルはふと嗅ぎなれた匂いに目を上げた。
微かだが、辺りに煙が漂っている。
 アデルはしかめた。幌付きの荷車の影から、煙が流れてくるのだ。試しに嗅ぎまわってみて、もっと仰天した。馴染みの匂いがする。それもそのはず、これは――これは、安物の葉巻煙草の匂いだ。
 積荷の裏に、煙が立ち昇っている。覗きこむと、荷台にもたれかかり、修道僧らしい男が一服やっているのが見えた。僧らしい汚れた衣服に、まぶかに頭巾をかぶり、葉巻をプカプカやっている。アデルは積荷の陰から飛び出した。
「あんた、何してるのよ?」
 すると、相手は返事の代わりに咥えていた葉巻をひょいと傾げた。教会は、煙草や香水、アルコールの強い酒など嗜好品は一切禁止だ。こんなところで一服やっているということは違法も違法で――僧侶は言った。
「何だよ、お前――臭うぞ」
 アデルは飛び上がりそうになった。さっきのニシンの匂いだ。フィッツは何も言わなかったけれど――だが、相手はだらしなくにやつくと、煙草をあろうことか井戸の中に放り込んだ。せせら笑うような物言いをする。
「少し清潔にしたほうがいいんじゃねえか」
 アデルはうっかり絶句した。言わせていただくが、相手もそうとうな格好なのだ。顔じゅう、まるで灰で顔を洗ったみたいな炭だらけだし、おまけに汗だく。だが、男はのそりと背を向けると、足を引きずり再び仕事に戻ってしまった。
 これは私の匂いじゃないのよ! アデルは叫びそうになった。もうその背中は人ごみに紛れている。あちこちに、修道僧が立ち働いており、ボロ布のような格好はどれがどれだか見分けも付かず、アデルは地団太踏んだ。
 何なのよ? 何よアイツは? こんなところでタバコをやって、堂々とサボって、おまけに臭うですって?
(少しは清潔にした方がいいんじゃねえか)
 いくら修道女姿でも、乙女捕まえて清潔に、だなんて――
 ふざけるんじゃないわよ、あん畜生!

       4

 その夜、アデルの機嫌は最悪だった。夕飯をかっこみ、部屋に駆け戻る。ここには贅沢な浴槽がなく、入浴と言えば、大き目の盥のような金属のおけに、湯を張りその中に座り込んで湯を使うのだ。
 匂い取りに、ローザは隠し持ってきた香水をぺたぺたやっている。わずかな談話時間をはさみ、このあとは読書に瞑想だ。海綿で体を洗いながらアデルは訊ねた。「ねえ、なんでローザはここに来たの?」
「あんたと同じ理由」 ローザは答えた。「ウチは硬くてさ。相手が敬虔な信者だったもんだから、半年先までここに居ろだって。あんたはあと二ヶ月でしょ?」
 香水を掌に分けてもらう。水に薄め、体にすり込みながらアデルは頷いた。
「まあ、せめてもの逃げ場かもね」 と、ローザは続けた。「心の準備ってやつ。私の婚約者なんかさ、冴えな~いヒョロ長の男なの。親が勝手に決めてくれちゃってさ、ここを出たら、そいつに嫁入りだもんねぇ」
「……」
「あんたの相手ってどんなの?」
 アデルは身体を擦る手を止めた。その顔を見て、ローザが顔をしかめ唇をへの字に曲げる。「…そんなにイヤなら出家しちゃえば?」
 大方そのつもりだったのだ。アデルは黙っていた。部屋の壁に、地面に跪き、手に十字架を持って佇んでいる少女の姿を彫り込んだ金属のプレートが飾られている。アデルは呟いた。「黄金の、正十字……」
 途端にローザは浮かべかけていた笑いを引っ込めた。「聖女の洗名のこと?」
 アデルの顔を見ると、冗談でしょソレ! と叫んだ。
 ベルタン教会では、神とそのしるしを受けた聖女の信仰にのっとり、何十年かに一度、女性の叙階が行われる。主教が任命中、ひとりだけ選ぶというもので、指名された修道女は洗名者(ミザラ)と呼ばれ、終生、神の導きとして、主教の隣で助役を行うのだ。祭壇の十字架を手に従う教団の聖女。
「嘘でしょ!」 ローザは叫んだ。「無理よ、ダメダメダメ、絶対ムリ!」 メッタ切りとはこのことだ。「第一、ミザラって年配の修道院長とかが選ばれるのよ? そんなの常識じゃん!」
「だから駄目もとって分かってるの!」 アデルは叫んだ。好きでもない男となんて結婚出来るものか。「主教様って結婚出来ないのも知ってんの?」
「ああ、うるさい!」 アデルはバケツをひっくり返した。たとえ結婚できなくたって、本気で憧れた好きな人の側に居られるならそれでいい、そう思ったのだ。「とにかく、是が非でもなるって決めたの! でなきゃここを出て死んでやる!」
 ローザは硬直している。口があんぐり開いており、ここまで痛けりゃ…というような顔をしている。ややあってから、唸った。
「……分かったわよ」 と、考え考え言う。「そこまで言うなら、やってみたら? ただし失敗しても知らないけど」
 しょうがないから、手伝ってやるわよ、とローザは言った。
「じゃあ早速だけど作戦開始だわ」 ローザは手を叩いた。「いい? 言っとくけど明日は昼抜きよ」
 なんでそうなるっての? アデルはぽかんとした。

 修道院とは、邪まなものにつくづくガードが緩いものだ。洗濯物を取り入れながら、アデルは思った。翌日の労働は、洗濯係だ。重いわ、大変だわ、洗濯は最も嫌われる仕事のひとつなのだが、アデルとローザはあえてそれを志願したのだ。院長はにこにこしている。「よい心がけです、二人とも」
 乾いた修道服を、籠の中にばさばさ取り入れていく。男物の衣服を、ふた組かっぱらうチャンスはこれしか無かったのだ。どさくさに紛れ、盗品の衣服を部屋に持ち帰る。「どうすんの? コレ」
 教会には、僧侶は立ち入っても修道女は基本的に立ち入れないのだ。女性が叙階されないのもそのひとつで、つまるは男社会。急いで普段の女物の修道服の上に男物の修道着を着込む。「いいからついて来なさいよ」
 お昼の時間は、ここに居る人間全員が、唯一例外なく食堂に集まる時間だ。難なく外に出ると、二人は坂を歩き出した。主教座の聖ベルタン教会は、町の頂に位置しており、教会の前庭にちらほらと僧侶が散歩している。頭巾の下から辺りを覗きながら、アデルは訊いた。「どうするのよ」
「恋の基本は敵の調査よ」 と、ローザは言う。「どんなタイプの人間を、主教様が選びたがるのか、実際に調べなきゃ」
 教会は、奥行きのある長方形になっており、内陣と廊下状の側廊に分かれている。突き当たりの奥が祭壇だ。純白の壁石に光が反射して、内部は静寂な空気に包まれ、法衣姿の男が点々と行ったり来たりしている。皆が自由に黙想しており、二人を見ると会釈した。
 祭壇の前に、贅沢な法衣を着た高位の司教たちがうろついている。問題のラルス大司教は、今日は誰かとやり取りしていた。手前に、短かな外套を着たちょび髭男が立っている。
「教会に、この町が一年で収めた税収を、我々にも提示していただく義務がある」
 アデルは立ち止まった。
 代官だ、アデルは男の格好を見て悟った。領主に代わって税金を取り立てる代官たちは、みな揃いのサーベルを腰にさしている。普通は町にうろついている連中だが、なぜこんなところに?
 ちょび髭の男の斜め後ろに、背の低い男が立っている。髪の毛を少女のようにカールさせており、下男か何かのようだが、あまり好感の持てない感じの男だ。手に主人の書簡を持ち、鼠のような顔をして主人の様子を伺っている。
「教会領は独立しています」 と、大司教――ラルスは答えた。「我々が、どのような形で教会を賄おうが、あなた方には関係のないこと」
 アデルはピンときた。オルドは、教会の持つ領土であり、世間一般の勢力からは独立している。普通なら、町や村を収める領主が王に代わって徴税を行うが、この町だけは教会が税金を徴収しているのだ。つまり良く言えば独立。悪く言や孤立。
「この町の信仰を支えるのは、私たちのかき集めた教会税ということも忘れてはおられまいな!」 代官は怒鳴った。肩までのくせ毛の男で、苛々と靴のかかとを踏み鳴らす。「見たところ良い生活をされていることには違いないが」
 おっとりと、主教は笑った。それはまるで、たまたま見かけた不躾な子供の所業を見ないふりしてやる大人のような目だ。「教会の、不入権に異議申し立てするのであれば、オルドではなく法王庁へ申し上げるのがよろしい」 アデルの方に視線を投げる。「ここが豊かに見受けられたということについては、我らから法王にお伝えしましょう。税の開示を考慮に入れて下さるやも」
代官が目を吊り上げた。下男が尻をもじもじさせている。帰りましょう――男が言う前に、代官は鼻を鳴らすと踵を返した。「うわべばかりは腰が低いな!」
吐き捨てて去っていく。早くしろ、うすのろめ! 下男の腰をサーベルで打ち、ローザがそれを見て舌を出した。
「ヤなタイミングで来ちゃったわね……」
 どやどやと人の群れが動き始める。主教はもう背を向けており、これ以上長居は無用だ。アデルはそっと踵を返した。

       5

 昼からは、アデルたちは菜園の世話を任された。初めての楽な仕事だ。昼食時間に、姿を現さなかった二人に対するご褒美であるらしく(清貧に従い、部屋でお祈りしていました!) キャベツを抱っこしながらアデルは言った。「税金ねえ」
「まあ、分からなくもないけどさ」 ローザが頷いた。菜園は綿も育てており、開きかけた綿の先に薄いガーゼをくくりつけている。「この町と、法王庁だけが、自由に町を運営できる。それって特権だもんね」
 つまり領主たちと睨み合いになってしまっているのだ。
「主教様も、頭が痛いでしょうね」 と、ローザが言った。「こりゃ、聖女の選出どころじゃないかも…」
夕方に、フィッツが教会に来ていたのを見た。敬虔らしく、父親と揃って礼拝に向かったのだ。馬に跨り、父の乗り込んだ家紋の入った馬車の横を歩いており、アデルを見るとにっこりした。「元気かい、アデル」
 あんなことが有る日に、町長が息子と揃って主教座を訪れるのは、良くないことなのだ。アデルはそっと腕組みした。もう五十年ほどそんな話は聞いていないが、いざとなれば、教会も武装蜂起する権限がある。町長や裁判官は結集の際の筆頭で――何事もないと良いけれど…
 いいことをする時は、誰かが見てるところでやりなさい、とはよく言ったものだわ。その晩アデルはしみじみと思った。深夜の三時過ぎに叩き起こされ、祭壇のある部屋に引っ張り出される。夜間の祈りらしいが、大半がほぼ死にかけており、いびきをかいている人間も居れば、祭壇に額を押し付けるふりをして爆睡しているヤツも居る。眠い目を擦り、アデルは思った。こんな時間、せっせと祈っても神様だって起きちゃいないわよ?
 修道女たちは、夜間の祈りは一度きりで免除されている。男たちや、上位の祭司たちは五時過ぎに再び祈祷するらしく、アデルはあくびを噛み殺し部屋に戻った。ローザはいびきをかいて眠っている。ベッドからずり落ちかけており、クタクタなのだ。
(聖女、か)
 どんな人が任命されるのかしら、と思った。やっぱりモリー院長あたりだろうか。誓願を守り、神に仕えることを旨とする女性。あたしじゃムリなんでしょうけど…
 ベッドから起き上がり、床を這い出す。寝巻きを着替えると、アデルはポンポンと頬を叩いた。
 そういえばローザは言っていたっけ。女たちは、二度目の夜の祈りを免除されるが、希望すれば参加してもいい、と。夜間の二度目の祈りは教会で行われる。
 教会とは、すなわちベルタンの主教座教会だ。
 行ったろうじゃないの、と思った。

 深夜の教会は、灯りが少なくしんとしていた。日中も静かだが、夜間は輪をかけて静かになっている。息すらも押し殺し、建物全体が夜明けを待ち続けているみたいな――
蝋燭を節約し、最低限に絞っているので、照明はアデルの持つ蝋燭と外の明かりだけだ。奥の祭壇は夜通し灯りが点いているが、人気が見られない。手前の、内陣にある小さな祭壇の前で司祭たちが起立し祈りを捧げていた。誰一人として、眠ってはいないらしい。深くうなだれて手を組み合わせ、祈りを唱えている者もいる。
(流石体力が有るわね…)
 中心で、若い男が跪いている。両手を広げ、祭壇を見上げた状態で静止しているのだ。ああ、ラルス大司教様だ。アデルはすぐにそう思った。流石だ、堂々たる聖職者の姿。
 紫色の視線は真っ直ぐに、祭壇のブロンズ像に注がれている。ベルタンの聖女像のやわらかな頬の線へと。思い切って、アデルは近付いてみた。
「……お隣を、よろしいですか」
 呼びかけてみる。だが返答は無く、相手は微動だにせず、神を仰ぎ見たままだ。アデルはそっと立ち去ろうとした。
(やっぱりムリよね)
 その時、相手が顔を振り向けた。
「好きに祈りなさい」 と言った。「神は拒みも、咎めもしません」
 喋った、アデルは思った。そりゃ人間だし当然なんだろうけど。〝パーフェクト〟の微笑みを浮かべると、「感心です」 と言った。とても静かな静かな喋り方だ。
「ここに来たのは、君が初めてだ」
アデルは棒立ちになった。

その日の昼、アデルは異常なほどの働きっぷりを見せた。修道院は、自治機能も備えているため、院内に大概のものは揃う施設が整っている。チーズ作りの係に回され、アデルは走り回った。巨大なオールのようなヘラを手に錫製の大鍋をかき混ぜる。
「何か良いことでもあったの? アデル」 と、ローザは言う。半分呆れており、また、部屋の暑気に参っているのだ。温めた牛乳に、レモンと、牛の第四胃の胃液を入れ掻き混ぜる。撹拌させるのが大変で、施設の中は蒸気地獄だ。
「まあ、ちょっとね」 と、アデルは笑った。「ちょっとは手ごたえありって言うか…」
 機能の係が、作り上げたチーズを紙に包んで外に運び出す。あんなに沢山作っても、ほとんどは下層にある市場や町の外に回してしまうのだ。ちょっとくらいは、積極的にここで消費すべきだと思うんだけど…こちらだって、いち人間なわけだし。
 石臼ほどの丸いチーズを、手押し車に乗せて倉庫へと向かう。本当は、ひとかけくらい齧りたいところなのだが、綺麗な円形をしており、齧るとすぐにバレてしまうのだ。倉庫は、男子修道院の中にあり、そこから表の積み荷場に運び男たちが運び出し、荷台に乗せる役目を担う。倉庫の前に来たところで、アデルは足を止めた。
 倉庫の前に、男が腰掛けている。ひどい猫背で、口に何かを含んでおりクチャクチャ噛んでいるのだ。手に赤いボールのような物を弄んでおり、アデルはピンと来た。あいつ、この間の破戒僧じゃない?
「ねえ、ちょっと――」
 相手は顔を上げた。相変わらず、灰まみれのような顔をしている。体型の見えない修道着だが、結構背は高く、アデルよりも少し上くらいの年だ。「今度はチーズ臭かよ」 と笑った。
「うるさい!」 アデルは怒鳴った。「何食べてるのよ? しかも、それ菜園の桃じゃない! あんた違反よ。院長様に言い付けてやるから」
「味見だよ、味見」 と言う。「もの欲しそうなツラすんなよ」
誰がよ! アデルは言い返そうとした。だが、宙をポンとボール状のものが飛んでくる。とっさに受け取ったアデルは、絶句した。木から採ったばかりのネクターだ。
「いらないわよ!」
だが、健康な体とは嘘がつけないものだ。桃はいかにも美味しそうな色をしており、思わず顔をそらそうとした途端、折悪しくお腹が――それも憎らしいことに特大の音量でぐうっと鳴った。

      6

倉庫の中は、収穫物や穀物で山積みになっている。中に隠れて桃を食べ終え、ひと心地ついたアデルはようやく外に顔を出した。相手は倉庫の前で座ったままでいる。
「サボり? ねえ、あんたさっきから何を噛んでるのよ」
「マガクボ」 と、男は言った。「いいヤクだー」
 アデルは絶句した。マガクボは麻薬性のある植物だ。教会どころか、この国全体でもおおっぴらには禁止されており、葉の部分を畳んで口に含む医薬品だ。「なんでそんなモノが!」
「ウチで作ったものだぜ」 男は面倒臭げに言った。「味見すんのは当然だろ」
「そんなもんが教会の菜園に有るわけないじゃないのよ!」
 アデルは今更ながら、とんでもないことをしたような気がしてきた。こんなヤツに、ネコババした食べ物を握らされて、おまけにそれを食べちゃうだなんて? いくらお腹が空いていたといっても――
「お前、名前は」
「……アデル」 アデルは低く唸った。「あんたは?」
「何でここに来た」
 アデルは睨んでやろうとした。関係ないでしょ! 叫ぶために息を吸い込む。だが、その途端、まだ未練がましく口に含んでいた桃の種を飲みそうになり、慌てて咳き込んだ。マズい、喉が詰まる!
「バカかよ」 男は心底呆れたように鼻を鳴らした。「何やってんだ」
 種を吐き出し、アデルは今度こそ思い切り睨んでやった。男はまだ葉をもぐもぐやっている。「花嫁修行?」
 アデルは吐き捨てた。「近いけど、違う」
「じゃあ死刑囚」
 認めたくないが、ここには、稀にそんな人間が混じっている。死刑を宣告された罪人が、特別な理由でここにやってくるというもので――でもいくらなんでもそれはないでしょ!
「……黄金の正十字」 アデルは低く言った。
「あのメッキの十字架が何だってんだ?」
「……聖女を、目指してるの」 アデルは段々我慢がならなくなってきた。教会の人間には思えない傍若無人ぶりだ。「あんたには関係ないでしょ」
「マジかよ!」 途端に男は跳ね起きた。「正十字の乙女? このクソ貧乏な教会で、一生結婚出来ない男のパシリ役の。正気かよ!」
「良いのよ」 アデルは頑張った。「それでも好きな人と一緒なら」
 言ってしまってから、今度こそアデルは蒼白になった。口が軽いと本当に馬鹿を見る――相手はポカンとしており、だが、ややあってから、男は突然ニヤニヤし始めた。「へーえ、ふうん。そうかよ」
「何なのよ!」
 男は完全にニヤけてしまっている。噛みかけの折りたたんだ葉を歯の隙間から覗かせ、唇の片端がひん曲がっている。おまけに葉っぱには涎が付いており、これ以上下品な笑みも無いもんだわ――アデルが思ったとき、男は言った。
「じゃあ、良い事を教えてやる。もう少し胸周りを成長させとけ」
 アデルはうっかり胸を押さえてしまった。体型にそう自信はないほうだけれど、ゆったり目の衣服に隠れて安心していたのだ。「何で?」
「何でも何も」 男はニヤリとした。「主教様は巨乳好きよ。男はみんな胸が好き、聖女は胸の肉付きで決まる」
 そう言って手で宙に『理想の体型』を描いてみせる。アデルは全力で荷車のチーズを投げつけると駆け出した。

「朝はご機嫌だと思ったら、今は最悪。あんたって変だわよ…」
 ローザは顔をしかめてしまっている。戻ってからというもの、アデルの機嫌は最悪だった。今日はアデルたちが食事を作る当番なのだが、周りの修道女たちも怯えてしまっている。包丁を手荒に扱いながらアデルはむっつりした。「胸ってそんなに大事?」
「なんでよ」 ローザは眉根を寄せた。「まさかここに来てバストが減ったとか?」
「大事よ」 と先輩のひとりが重く頷く。密かに傷ついているところに、更なる追い打ちだ。「神の御心は心臓で感じるものですもの」
 好きなメニューを作れたら、それに越したことはないのだけれど。アデルは思った。生憎と材料、メニューは定められており、せいぜい好きに出来ることと言えば塩とコショウの多さぐらいだ。いつもより、少し濃い目の味付けを、院長は敏感に感じており、当番を睨むと言った。「次からは気を付けなさい」
 食事を済ませ、部屋に駆け戻る。早々に布団に潜り込むアデルに、ローザは不満そうだった。「ねえ、ポーカーしようよ」
「ダーメ」 アデルは断った。「今日から早起きすることにしたのよ。聖女の第一歩」
 はあ、ローザは訝っている。やっぱり本気なのね――諦めてトランプを鞄にしまいながら、「でも、それは難しいかもよ」
「知ってるわよ」 アデルは背中で言った。「そう簡単じゃないってこと。でも、少しは見込みが――」
「そうじゃなくてさ」 ローザは口篭った。俯き、何かを言い渋っている。アデルは寝返りするとローザのベッドのほうを向いた。「何?」
「……聞いちゃったのよ」 ローザが顔を上げた。「言っとくけど、ホントかどうかは知らないからね。主教様なんだけど…」
 ひと呼吸置いてから、ローザは続けた。
「主教様なんだけど、ひょっとしてもう決まった方が居るんじゃないかって。中庭で、凄い美人の人と歩いてるのを見たって聞いたの。でもただの噂かも――でも本当よ」
 アデルは背筋が凍りつくんじゃないかと思った。

       7

週末は、聖人の慣わしに従い食事が豊かになる日になっている。いつもは質素な食卓には、牛乳、卵を使った食事が心持ち多めに並び、お腹を空かせた信徒たちに僅かな希望を与えるのだ。ヨモギ入りのオムレツにルッコラのクリームスープ。
「アデル、元気出しなって」 ローザが励ました。「まだそうと決まった訳じゃないんだから」
 あれから数日間、アデルはずっとへこみっぱなしだった。深夜の礼拝にも、行けそうになくて、沈みきりだったのだ。モリー院長は、アデルをホームシックだと解釈している。「すぐにここの生活に慣れますよ」 と微笑んだ。「私たりとて、家族を恋しく思うときはあります」
 一週間の間に、新しい友人が出来た。アデルよりふたつ下の少女、レオノールだ。彼女は両親がここの施療院に入っているらしく、真面目に日課をこなしている。「医療費も払えないもの」 と、分厚い眼鏡をごしごしした。「それでも養って下さってるんです――せめてこれくらいは、お返ししなきゃ」
 食事の際に、かっぱらったニシンを噛みながら昼のお祈りをする。肉を禁止された環境で、食卓に並ぶものといえばニシンの干物だけだ。教会は菜食でなければならないなんて、誰が決めたのかしら、と思った。動物の肉を食べることと、信仰心とは関係ないんじゃない?
「甘いものが食べたいわぁ」 ローザはしきりと零している。酒や煙草はおろか、ここはほんの少しの甘みですら厳禁だ。「ケーキとまでは言わないから、ミルクに浸したウェハースが食べたい」
「蜂蜜が恋しいよねぇ」
 先輩たちもぼやいている。アデルは同感だった。ああ、こればっかりは町の生活が恋しい――
「ねえ、もう一回確かめに行ってみない?」
 ローザは言った。「確かめ」とは、例のラルス主教のゴシップの一件だ。「見てみなきゃ、分からないわよ。それにひょっとして「聖女候補」なんかじゃないかも」
 それでも無理矢理、彼女を引っ張り出すような口実が回ってきた。頂の教会に、院で作った食料を運ばねばならない話が回ってきたのだ。理由は簡単、女子修道院の方が男子修道院より教会にまだ近いからで――アデルは干上がった。ローザがそれをすすんで引き受けてしまったのだ。
「さあ、行くわよアデル!」
 主教座に運ぶ食料は、流石に一級品ばかりになっている。牛乳、小麦に始まり、燻製されたチーズ、泥の微塵もついていない野菜。蜜蝋に果物――全部を荷車に乗せ、教会の前庭まで引っ張って行く。比較的短距離だが、道が傾斜していると地獄の重さだ。
 ひいひい言いながら、前庭に辿り着く。庭では老齢の司祭たちが待っており、アデルたちを見るとご機嫌に笑った。「ご苦労。よく頑張ったね」
 教会の内陣に、ラルス主教の姿が見えている。アデルは気付かないふりをして積荷を降ろしていた。「何か他に必要なものがあればお申し付け下さい。お持ち致しますから」
「では蝋燭を」 と、声がした。「出来るだけ長いものがいい。二百ほど、夜までに内陣に持ってきて貰えますか」
 アデルは穴が有ったら入ってしまいたいと思った。ラルス主教だ。それも――それも、アデルの真後ろに立っている。
「勿論ですとも!」 ローザが鼻息荒く言った。「大至急お持ちします。さあ、アデル急いで!」
 アデルは凍りついていた。主教は質素な法衣を身に着けている。上品な香の香りが漂っており、「君はあの夜の修道女か」 と微笑んだ。
 アデルは逃げだそうかと思った。人違いです、そう叫びそうになる。だが、主教はにっこりと唇を吊り上げると、子供に洗礼をほどこすようにアデルの聖帽に手を当てながら言った。
「遠慮は要らないよ。いつでもおいでなさい。神も、我々も、君の夜明けの祈りを待っています」

「ああ――」
 アデルは深々と唸っていた。積み荷場は、今日は修道僧でごった返している。汗だくで半裸になっているものもおり、横目に見ながらアデルは思った。筋骨隆々、これじゃ僧侶というよりも労働者みたいだわ?
「何だよ」 と、いかにも不機嫌そうに「不良僧」は低く言った。手前の荷車に、片っ端から野菜を積んでいるのだ。釘で止められた木箱に入ったレモン、お茶の葉を乱暴に荷台に放り込みながら「枕の蚤が耳から脳にでも入ったか?」
「あんたにゃ死んだって分からない悩みよ」 アデルは言ってやった。「主教様と、お話したの。やっぱり素敵だなって」
「まだ言ってんのか」 僧侶はペッと地面に唾を吐き出した。「あんな白髪の、運動不足のムッツリスケベのどこがいいんだ? 結婚出来ないってことは大っぴらにヤることも出来ねえし、長年法衣に押さえつけられてあっちの儀杖も役立たず、考え直せって」
「大っぴらにヤるヤツぁ居ないわよ」 アデルは睨んだ。「主教様を悪く言わないで!」
 あーそうかい、僧侶はうんざりしたような顔をしている。と、奥で笑い声が上がった。
「主教様のお話かい」
 アデルは顔を上げた。幌馬車の向こうに、ひときわ体格のいい男が立っている。中年ぐらいだろうが、同じく僧侶らしい頭巾を被っており、腕も丸太のように太い男だ。「ギュスタン」 と、僧侶は言った。
「ラルス様はそりゃ素晴らしいお方だよ」 相手は頷いた。「教会だけじゃなく、この町をどう支えようか一生懸命になってる。身を呈して仕えてるのさ。神だけじゃなく、この町の人間全員に」
「祭壇の前で完璧に目を開けたまま寝る技を心得てるヤツがか?」
「それも知恵よ」 と男は大らかに笑う。「俺たちはみんな主教が大好きさ」
 アデルは黙って聞いていた。ね? 悪く言うのはあんただけなのよ、小声で言ってやる。「ギュスタン――さん」 アデルは訊いた。「主教様のこと、何か知ってますか?」
「何かって?」 男は顎を手でじりじりした。五時の影がもう下りはじめているのだ。「例えば、大事な人とか」
「そりゃあないだろ!」 初老の男はたまげたようだった。「妻帯出来ないんだ。そんなことすりゃ」
「破門か杭打ちの刑」 不良僧は答えた。「知ってるか? 聖職者の妻帯は厳罰、つまり死刑だ。色恋沙汰はご法度」
「……」
アデルは黙っていた。おおいに知ってるわよ、内心ぼやく。それにそんなのが狙いじゃ…
「主教だって男だぜ」 僧侶は続けた。「そんな真似するかよ」
「…どういう意味よ」
「食料庫で断食するヤツは居ねえだろ」 僧侶は唸った。「それと同じだ。わざわざ、好き好んで若い女を聖女にすると思うか?」
 アデルは気付くと側にあった金盥で相手を殴りつけていた。

       8

 夕方、アデルは頼まれていた蝋燭を教会に届けに上がった。ラルス主教は不在らしく、代わりに祭壇の掃除をしていた僧侶たちに預ける。「明日はもう少し長いものを」
 とぼとぼと、修道院に帰って来る。門前の木には葡萄のつるが巻きついており、若い実がたわわになり始めている。近くの施療院で、蜜蝋でも配っているのか、甘い香りが風に乗って流れてきた。
 甘い物はもう随分と口にしていない。あの日、あのバカ修道士が盗品のモモを分けてくれたきりだ。お腹がすくと、余計に惨めになるもので、アデルは足元の石を蹴飛ばした。何よ、あの破戒僧。
 主教は妻帯出来ない。それは、充分すぎるほどに知っているつもりだ。恋愛出来ないということは、どんなに側に居ても、想いを寄せても、けして届くことはないということだ。きっと悲しくなる日がやってくる。今よりもっと、切ない日がやってくる。
「……でもそれしかないんだもの」
 それでも、好きでもない男と結婚させられるよりはマシだ。アデルは心の中で繰り返した。一生気持ちを隠し続けても、最後には幸せになれるはず。今は若いけれど、年をとって、アデルがしわくちゃになったとき、憧れ続けた人と長い時間を過ごしたということに、いつかは納得できるはず。
 それなのに…
(わざわざ若い女を聖女にすると思うか?)
 アデルは足元の石を拾い上げた。あのクソったれの、デリカシーゼロの大馬鹿野郎。さんざバカにして、笑いものにして、あんなことまで言うなんて。煙草はやるわクスリはやるわ桃は盗むわ、人の心は安全靴で踏みにじるわ。
 思い切り石をぶん投げる。石は塀を軽々と越え、菜園のほうへ飛んで行った。石の消えた方向を眺めながら、アデルは息を吐き出した。ちっとも気持ちが晴れないわ。
(どれもこれもあいつのせいよ。今度会ったら、文句言ってやる)
 ゆっくりと深呼吸をする。泣きべそ顔を悟られないよう、アデルは腕で盛大に顔を擦ると修道院に入って行った。

四日後は、年で最初の染料作りの日だ。ほとんどのことを自力で賄う修道院では、身に着ける衣類や、食べ物、身体を洗う石鹸までがすべて手作りされる。菜園から染料のもととなる木の実や草葉をとってきたアデルは、怪しい魔女かなにかになったような気がした。大ナベに修道女がヘラを突っ込み、どす黒い液体をかきまぜている。「クサビの実とススキの根の粉を混ぜると、この修道服の黒めいた茶色の色が出るのよ」
 機織りは、楽な仕事で、ベテランの修道女たちの仕事だ。摘み取った綿のごみを取り、細くひっぱり糸紡ぎで紡いで、糸を作り、それを織り一枚の布へ。汚れず、気楽な座り仕事。差別はこんなところにも存在するのだ。
 口に覆いをし、染料に布を漬け込む。茹で上がったべちょべちょのヌタヌタを何度も水で洗い、踏んで絞って物干しへ。なんて仕事なのよ、とアデルは思った。ローザも同感らしくヘコ巻いている。「爪が黄土色! ひどいんじゃない?」
 交代制なのが唯一の救いで、アデルは午後からは掃除係に回された。金網を持って、水汲み場の朽ち葉を取る役目だ。まあ楽には違いないけどさ、アデルはうんざりした。「厳しい仕事のご褒美は楽な仕事。つまりは、休みはナシ」
「休憩が欲しいよね…」
水汲み場は、教会のふもとになっている。大きな正円の噴水のようなもので、そこに湧き水と――(といっても、微量なのだが)、雨水を溜め込んでおくのだ。飲み水以外の水は、大概ここから運ばれてくるもので、トイレや掃除、野菜の水やりはここの水でほとんどまかなっている。「どうせ捨てるんだから掃除なんていらないじゃない?」
「それでも、一応ってことでしょ」 ローザが引き取った。「あれも試練これも試練。もうウンザリよ」
 水路の横に荷車が停められている。院内で作ったシードル(りんご種)を、瓶に積め、仕出しするところなのだ。「ああ、お酒飲みたい!」
 ローザが足を鳴らし唸った。アデルは頷いていた。水汲み場のへりに立ち、棒のついた金網で水面の葉っぱをかき寄せる。教会の前庭が見え、ひとかたまりの司祭たちが掃除の様子を眺めているのが見えた。
「ねえアデル、まだあのこと考えてんの?」
 ローザが投げかけてきた。あの、とは聖女のことだ。「ええ」 アデルは頷いた。「限界までは諦めないつもり」
「限界って…」
 今日でアデルがここに来て半月目、期間の四分の一だ。ここに居られる日付は、残すところ四十五日。まだなんとかなる。
「本当に死んじゃったりしないでよ」 ローザが上目遣いに言っている。「あんたがここを出てすぐにさ、連絡が来て「私たちの姉妹、アデルが天に召されました。皆で家族のご冥福をお祈りしましょう」 とかなるのヤダよ。聞いてんの?」
 アデルは聞いているつもりでいた。だが、返事が出来ずにいたのだ。大いに文句を言ってやるつもりでいたのだが――急に耳が遠くなったみたいに。
足元がぐらついている。ここ数日、そうだったのだが、ふとした時に立ちくらみすることが増えていたのだ。大方、毎日の激務と少ない食事と甘いもの断ちのせいなんでしょうけど――
「アデル?」
 水面が顔に近付いた。あっと言う間もなく、ドボンと音がする。どこかで悲鳴が響き渡り、金網が気が違ったように頭のすぐ側でかき回されているのが見えた。(アデル! アデル!)
 アデルは水面を眺めていた。息が出来ない――だが、少しも苦しくなく、むしろ楽なのだ。水面がキラキラ輝き、瞬いている。まるで――天国みたいに。
 ああ、水に落ちたのだ。水汲み場の中に。
 時間が遠のいていく。アデルは薄目を開けていた。天ってこんなのかしら。それとも、もっと綺麗かも。そうだきっと比にならないくらい――
 そのとき、目の前に太い泡の柱が立った。

       9

「アデレード! アデレード・クライスラー!」
 呼び声を聞いて、アデルは目を覚ました。ぼんやりした明るみに、無数の顔がのぞきこんでいる。見慣れた聖帽に修道衣が見えており――年老いた顔に若い顔。
「アデル!」
反射的にアデルは飛び起きた。「院長様!」
夜間の祈りだ、アデルは起きた途端に冷や汗をかいた。そんなつもりはないのだが、また寝過ごしていたのだ。「すぐ向かいます」 と、アデルは言おうとした。「お許し下さい!」
 ううっ、と突然院長が口を両手で覆った。途端に背中を丸めてしまう。「ああ、神様!」
 仲間が院長の背中をなだめている。アデルはあっけにとられていた。見慣れた景色だ。アデルの部屋のベッド、質素な部屋に、何の飾り気もない内装。
「もう、バカ!」 ローザが声を張り上げた。ほんの少し涙ぐんでいる。院長はすすり泣いており、アデルは辺りを見回した。
「ねえ、ここ…」
「寝惚けないでよ」 ローザが噛み付くように言った。怒っているのだ。「死んでないわよ! あんた、水汲み場におっこちたのよ。貧血起こして」
 枕元に、冷えてはいるが、美味しそうなスープが置かれている。特例らしく、ボルシチのような汁に肉団子がふたつ入っており、厚手のチーズにパンが四つ。ワインが少量。アデルはうっかり生唾を飲み込んだ。
「私はあなたに険しすぎたのでしょうか」 院長が涙を擦った。「今夜はゆっくり休みなさい、アデレード」
 さっきから、口の中がほのかに甘い。気付けのために、甘いものを取らされたのだ。院長たちが引き上げてしまうと、ローザは背中でドアを閉め食事を指さした。「食べなさいよ」
 ローザと食事を半分に分ける。スプーンを口に運びながら、アデルは事情を聞いた。「あんた、上がっても来ずに漂ってたのよ。水の中でふわーっとドザエモンみたいに」
 アデルはチーズを咥えたまま動きを止めた。そうだった。動く気もなくて、変に心地よくて。
「主教様が、来てくれなきゃホントに死んでたわ」 ローザが睨んだ。「飛び込んで引き上げて下さったのよ。あんた、息してなくて、おまけに痙攣起こしてて」
 もうストップ、アデルは手を上げた。自分でも気味が悪い。「その話ナシにして」
「主教様がシードルを飲ませて下さって、やっと息吹き返したの」 ローザはうんざりしたように言った。「もう、あんた……せめてもうちょっと遠慮しなさいよ。ホントなら追い出されてるわよ、今頃」
 そりゃ、大通りで修道女が酒かっ食らやあね…アデルは独りごちた。人の生存本能とは凄いものだ。「ラッパ飲み?」
「いや、何ていうか……」
 ローザが言い渋ったので、アデルは訝った。まさか一瓶飲んで酔いつぶれたとか? ローザは人目をはばかった。ドアの外に、人が居ないかどうか確かめているのだ。
「流石に大胆よ」 ローザは唇を尖らせた。「あ――謝っときなさい。主教様、窒息しかけてたし」
 唇を指さすと、言った。
「口移し」
 いっそ死んでたほうがマシだった、とアデルは思った。

 翌日、アデルはとんでもなく楽な仕事に回された。菜園のお茶の葉の剪定作業だ。ローザはあいにく開墾に回されており、しきりとぶうぶう言っている。クワを手に「ズルいわよ、アデルだけ!」
 四列に並んだお茶の苗から、新芽や若い葉の部分だけを手で摘み取る。お茶といっても、薬用の苦い茶で、施療院の人たちに配られるものだ。首から下げた布袋のなかに、摘み取った葉を入れていく。日当たりはよく、菜園は静かで最高だ。
 お茶を摘んでしまうと、籠に移し変え、男子修道院まで持って行く。基本的に肉体労働を行う男子修道院には、食べ物を保管する倉庫や、持ち重みのする酒造用の作業場が並んでおり、ワインの空樽や瓶が並んでいる。どこに持って行けばいいかしら、探していると、後ろから声をかけられた。
「おお、アデル」
 アデルは振り向いた。先日の、筋肉質な初老の男がこちらにやってくる。両手にひっこ抜いた雑草の入った袋を手にしており「もういいのか?」
 アデルは思わず赤面した。してみると、件の騒動を知っているようなのだ。「え――ええ」 と、何とか頷いた。「色々と、ご迷惑をおかけしまして…」
 主教が心配していたぞ、と言う。「謝るこたあない。よっぽど無理が祟ってたんだろう」
 こんなとき、教会の人間は本当に神の使者みたいに思えてくるものだ。アデルは内心祈りを捧げた。白昼に、道のど真ん中で主教様に吸い付いたなんて、生き恥以前に死にたいというか…
 それに主教様も悪いのよ、アデルはそっと思った。いくら、相手に毛ほどの恋愛感情が無いと言っても、普通やるか? 脈ナシは分かっててもここまで来ちゃあ…
「タコっ毛」 と、声がしたのでアデルは目を上げた。倉庫から、酒瓶を咥えた僧侶が顔を出す。今度は酒をくすねているらしく、「もう復活か」 と言った。
「うるさい!」 アデルは怒鳴った。(クワバラクワバラ) ジュスタンが去っていく。「これはクセなの!」 髪の毛を切ると外に跳ねるのがアデルの癖で――「あんた、今度は飲酒?」
「今年の初物だよ」 僧侶は笑った。「穀物酒って知ってるか。雑穀から造る酒」
 どっちみち教会では作らないものだ。アデルは唸った。「あんたみたいな下品な破戒僧と関わってる訳にはいかないの! こっちゃ、天下の一大事なんだから――」
 言ってしまってから、沈んでしまう。男はウイッとしゃっくりをした。「そうかい。生理でも止まったか?」
 アデルはどんと足を踏み鳴らした。だが、代わりに側に置いてあった空き樽の上に腰掛ける。今日ばかりは暴力を振るう機にならないもので――アデルは腰を落ち着けると、ほっと溜息を吐いた。「止まりそうかも」
「マジかよ」 男は目を丸くしたようだった。「火遊び失敗? 嫁入り前だろ?」
 アデルは溜息を洩らした。もう怒鳴る気力さえない。
「…あんたさ」 言ってみた。こういう、芯から下品な人間が相手だと、少しばかり言いにくい話も出来るものだ。「あんたなら、どうする? もし――もし、知らない間に」
 僧侶はちょっと瓶を引っ込めた。
「知らない間に、そうね、好きな人とキスしてたりしたらどうする? あんたなら、平気? 無かったことにする?」
 僧侶は黙っていた。頭巾の下から、顎だけ覗かせ瓶を傾けている。暫くしてから、こう言った。「ヤるな」
 アデルは静止した。僧侶は瓶の口を舐めなめしている。酔いが回っているらしく、若干ふらふらしており――
「暗がりに連れ込んで、二、三発ヤるな。藁束の上にでもとりあえず押し倒して」
「あんたに聞いた私が馬鹿だったわ……」

 深夜の礼拝は、修道女にとり苦悶の時間だ。だが、慣れとは偉大なもので――アデルは、朝四時過ぎに難なく目を覚ました。五時の礼拝はもうじきだ。早いうちから、灯りが点され始める。
院を飛び出し、足早に教会へと向かう。どうしても、ひとこと(といっても、そんなことをしても取り返しはつかないのだが) お礼を言わずにはいられなかったのだ。教会の内陣は、既に薄明かりが灯っている。手前の祭壇に、司祭たちがめいめい祈りを捧げており――
「主教様」
 アデルはそっと言った。祭壇の前に、男が座っている。背筋を伸ばし、両手の掌を上に向け、祈っているのだ。今日は目は閉じられ、眠っているようにも見える。静かな礼拝姿勢。
「主教様」
男はぱっと顔を上げた。アデルの顔を見て、細かくまばたきする。「君は――」 と、言った。「この間の」
「アデル」 とアデルはやっと言った。「アデレード・クライスラーです」
主教は唇の端を吊り上げた。「アデル、体はもう良いのかい?」
アデルは口篭った。いざ言おうとなると、言葉が上手く出て来ないのだ。「あ――ありがとう、ございます」 と言った。「助けて頂いて」
 主教様は微笑んだだけだった。「神がそう命じたことだよ」
 それきり、祭壇のほうを向いてしまう。黙って隣に座り、祭壇を仰ぎながら、アデルは思った。神が命じたこと、か。
 ふと、もし聖女になっても、こんな思いをするんだろうか、と思った。今はあまりに遠すぎるけれど、本当に、聖女になることが出来たら、いつもこんな景色を見るのかな、と。
 自分の姿なんて、少しも映っていない瞳をした人の側で、ただ佇んでいるのかな、と。
「……どうすればいいか判りません」 アデルは口を開いていた。主教はまだ前を向いている。色白の肌に、紫の瞳。その目には、目の前の聖像以外は他に映っていない。「どの道を選んでも、自分に嘘を吐かねばならないのだとしたら」
 主教はこちらを見た。
「せめて自分が心地よいと思うほうの嘘を選ぶのは、罪になるのでしょうか」
 ラルス主教は黙っている。アデルの目を、じっと覗きこむような顔をしている。しばらくしてから、唇を微かに吊り上げた。ほんのわずかな、見えないほどの表情の変化だ。
「主は御自身に対する嘘を嫌うものです」
 アデルはまばたきした。主教がこちらを見つめている。
「神は人の子の苦しみを無碍に望みませんよ」
 アデルは目を見開いた。

       10

 週明けの土曜日に、町から荷物が届いた。月に一度、外の世界から隔離されている教会が、唯一内部に荷物を取り込む日があるのである。静礼祭の前の日がそれで、アデルは院の裏門に呼び出された。「アデレード、これがあなたの荷物です」
家族からの仕送りが、次々に届いてくる。中には酒や菓子が詰められているものもあり、こんなものは、隠し持っていてもあとから院長様が没収するのだ。荷物が無い人間もおり、アデルは少し気の毒になった。完全にここの住人の人も居るものね。
 ローザとレオノールに手伝ってもらい、荷物を部屋に運び込む。アデルの荷物は大きな商人用の木箱に詰められており、釘でがっきと蓋が打たれている。足で蹴飛ばして蓋を緩めながら、アデルは言った。「好きなもの持っていっていいわよ」
「マジ?」 ローザが目をキラキラさせている。本当に厳しい家らしく、ローザは全く仕送り無しだ。レオノールは両親がまだ施療院におり――「中身は何ですか?」 と訊いてきた。
「どうせ菓子とか服とかそんなんじゃない」 アデルは言った。開けなくても、贈り物の半分は誰からか予想がついているのだ。「ウザい手紙とか入ってたら見せる前に破って」
 箱の中身は、衣料品と菓子だった。やりぃ! 院長が来る前にとローザが袋を開けてしまう。「急いで食べて! 食い尽くせば分んないわよ」
 案の定菓子には手紙がついていた。家紋入りのチョコレートだ。胡桃がコートされているらしいが、アデルは反吐が出そうだった。「普通お菓子に紋章入れる?」
 衣類をレオノールにあげてしまう。大き目のものばかり入っており(修道着の上に、着ろと言うことなのだろう) 質素だが軽くて暖かいものだ。「お父さんたちにあげたら。冬が楽よ」
 枕の中の藁を捨て、ローザが菓子を半分隠してしまう。院長には残り半分を渡し、ローザはほくほくした。「アデル、あんたも食べなさいよ」
「要らないわ」 アデルは顔をしかめた。「未来の花嫁よ、なんてメッセージの書かれた菓子なんてウンザリ。胃がやられるわ」
 院の前では、今日は大勢の僧侶たちが集まっている。小麦や、酒などのとりわけ重いものを積んだ荷車を、町の下まで届けるのだ。山積みにした荷物を積んだ荷車はぴくりともせず、十人単位で僧たちが車を押している。じりじり動く、鉄のような車輪を掛け声付けて――
「せえの!」 しゃにむに押しては、一休みする。僧侶の中にギュスタンが混じり、大汗をかいていた。「少し減らした方がいいんじゃねえか」
「馬鹿抜かせ」 不良僧が言った。「二度も往復はゴメンだぜ。そら!」
「減らす事をオススメするわ」 アデルは言ってやった。男たちは必死に荷車に取り掛かっている。「う――るせえ」 と、男は唸った。汗だくになっている。「サボりかよ? 愛しの主教様にバラすぞ」
「やってみたら?」 アデルはふふんと鼻で笑った。こっちはそれより大きな秘密を握っているのだ。「酒にタバコ、クスリに桃。分が悪いのはどっちよ?」
 ゴゴン、車輪が動き始める。表に出るまでが勝負で、あとは楽なのだ。坂になっており否が応でも車輪は滑ってくれるので――
「これ、食べたら」 アデルは修道着の懐に小分けにした菓子を突っ込んだ。例の荷物だ。「甘いものは好きでしょ?」
 ギュスタンさんも、今度はちゃんと相手のポケットに入れる。扱いも相手によっては異なるもので、ギュスタンはにっこりした。口元に大きな笑い皺が浮かんでいる。「おお! ありがとう――」
 緩やかな坂を荷車が転がり出て行く。見送ってから、アデルは教会に向かった。
 明日からは、一週間の静礼祭が始まる。何も言わず、誰とも話さずだんまりを決め込む日で、とにかく静かにする日なのだ。沈黙のうちに自らを見つめなおすというもので――でもそれで何か意味でもあるっての?
 一週間も主教様とお話出来ないのだ。アデルはせっせと道を急いだ。あれから、幸い教会に蝋燭を持って行くのはアデルの仕事のようなものになっており、内陣に顔を出したアデルは、側に居た司祭を捕まえた。「今日は何本ご入用ですか?」
「奥のものが切れかけているから、七十ほど」 司祭は答えた。「それと、御神灯用に短いものを二箱ほど持ってきてくれるかね」
「主教様は?」
「奥にまだいらっしゃる」 司祭はにこりとした。「今日はいつもより長く祈られているよ」
 日中は、基本的に用のない限りは女人禁制だ。アデルはがっかりして外に出た。暗黙のうちに定められた「遠慮」 という名の秩序は面倒なものである。いいけど、また、夜に来ればいいわけだし。
 沈黙の日までの最後の祝いだ。アデルはその日一日盛大にお喋りに花を咲かせた。談話室では、先輩格たちがめいめい好きなことをして寛いでいる。読書に編み物、押し花を作っている者もおり、ほとんどが〝本職〟というよりは、アデルと同じ〝志願期〟の者ばかりだ。堅苦しいことを抜きにして盛り上がる。
「それでね、こっそり枕の中にアーモンドの袋を隠し持ってたら」 先輩は笑った。「部屋に帰ったら、枕が勝手に歩いてるの! 中にネズミが群がってて、六匹ぐらい」
 ぎゃあ、全員揃って悲鳴を上げた。ローザは目尻を拭っている。笑いすぎて涙ぐんでいるのだ。「布団の中にも居たわ。おかげで、眠れなくなっちゃった」
 みんな同じような思いをしているのだ。アデルは頷いた。ここに来たとき、最初はなんて生活だと思ったけれど、それはみんな同じ。一緒に大変で、堅苦しさを感じていて、お腹が空いているのだ。ちょっぴり寂しい思いを仲間同士で紛らわせているのだ。
「それを考えたら、主教様は立派よねえ」 と一人が言う。「精進祭なんて、十日も断食で、魚どころかまともに野菜も食べられないでしょ? 労働はないけど、みんな飢えでフラフラのクラックラ。でも主教様だけは、いつもと変わらずのご様子だったもの」
「並大抵じゃ、ああはならないよね」
 アデルは黙って聞いていた。年に一度、十日ほど(本当は、もっと長いのだが、ベルタン教会は極端にそれを絞っているのだ) 食事断ちをするシーズンがあるのである。水とわずかな野菜だけで飢えをしのぐ、意味不明のシーズン。
「強い方なのね」 と、仲間の一人がしみじみする。「物静かで、穏やかで、腰が低くて。でも必要なときは毅然とされてて」
「それに格好良いし」
 結局はそこだ。ローザはさっきからニヤニヤしている。アデルはそろそろ退散しようとした。どの道、こうなれば降って来る話題は見え透いている。
「そろそろ寝ましょうよ」 アデルは立ち上がった。「院長様が、呼びに来るかも」
「ねえ、そういえばさ!」 ローザが手を打った。「主教様って、何か運動でもされてるのかしら? この間アデルが水におっこちたとき、ビックリしたのよ。片手で女一人担ぎ上げて」
 アデルは目が回りそうになった。ローザ、裏切ったわね!
「ありゃ凄かったわね」 仲間が呆れ半分、同情半分の顔をする。「そんなにお腹が空いてたの? あんなことが起きたのって、前代未聞よ」
「身体つきが意外とガッシリしてたの」 ローザはニマニマした。「言っちゃなんだけど、教会の人間って、偉くなればなるほど仕事は少なくなるから、どうしても太ったりするもんじゃない? 召し出しとか、有るみたいだし」
 つまりは賄賂だ。アデルは睨んでやった。
「勘違いよ」 と言ってやる。「法衣を重ね着しててそう見えたんじゃない? そもそも、主教様が部屋でスクワットでもやってるっていうの? 砂袋吊り下げて殴ってたり」
「さあねぇ」 ローザはまだ笑っている。人をからかう気満々だ。「そういえば、変なことはあったけど」
 アデルは立ち去りかけていた足を止めた。
「手にね、傷があったのよ」 と、ローザは言った。「棘が刺さってたの。色アザミの葉の棘が掌に」
 色アザミは、染料の材料の一種だ。修道女の聖帽をクリーム色に染めるためのもので、棘の部分を摘んで煮詰めて使われるのだが、うっかりすると指に刺さってしまい抜けなくなるのである。鯨用のモリみたいにギザギザになっているためで――
「色アザミって、うちの庭にしか生えてないのよ」 と、腕組みした。「女用の衣料のものでしょ? 女子修道院には、男子禁制。なのにどうしてそんなものが主教様の手に付いてたんだろうって」
「………」
 それはつまり、そういうことだ。その場の居る全員が息を飲んだ。

       11

 その晩、アデルはろくに寝付けなかった。ローザの「疑問」が引っかかっていたのだ。ひっかかったなんてもんじゃない、投網レベルだ。頭からばっさり網をかけられて動けない獣みたいに。
(刺さっていた。ここにしか無い色アザミが、主教様の手に)
 ということは、やっぱりあの噂は本当だったということだ。ローザは昏々と眠っている。寝息が平和に響いており、何事もなかったみたいに。だがアデルは固まっていた。
(つまりここにやって来ていた――)
 数日前、ローザが持ってきた噂をアデルは思い出した。とても綺麗な人と、前庭を歩いていた。ひょっとして「聖女」 の候補じゃないかと思って、随分ショックだったんだっけ。それがまた思いも寄らないところで降ってきた。
 仲間の中に、そんな人が居るのだ。アデルはそっと寝返りを打った。主教様が会いに来たいと思うほど、近しい誰か。きっと「この人なら」と選ぼうとしている誰かが。
 綺麗な人――
 尼僧の格好は、みんな同じものだ。髪の一切見えないタイプの聖帽に、質素な黒ずんだ青の修道着。ふっくらとしており、体型もみんな目立たなく、人の個性をきれいに消してしまうものだ。それでも分かる美人な人とは…
(フィジカ様かな) アデルは考えた。先輩の中でとりわけ綺麗な女性だ。(それともリリ様。まさかモリー院長ってことは無いかと思うが…)
 起き上がり、ベッドを抜け出した。部屋前の廊下は冷たく、しんと冷え切っている。靴を履き、寝巻きのままアデルは廊下を歩き出した。外に出よう。これじゃ寝られそうにもない。
 院の外は、今日は良い月明かりに恵まれている。瞑想用の遊歩道の脇に赤い花が咲き、ひどく綺麗だ。まるで、どこかの庭園みたいに。大昔の神様が住んでいる神殿の庭みたいな。
 綿の菜園に行こう、と思った。あそこなら、誰かが来ても文句は言われまい。綿なんて食べられはしないから、誰かに見咎められても、盗み喰いの嫌疑はかけられないし、もし誰かと出くわした場合は「摘芯をしに来ました」 とでも言えばいいのだ。昼間の風で綿が気がかりでしたから。
 菜園に滑りこむ。キャベツがひと畝、花を咲かせており、残りはみな綿の畝になっている。ぽこぽこと咲きはじめた綿の花から朽ち葉を取りながら、アデルはそっと思った。これも、ここの生活の思い出にはなるかな。この先、綿を見るたびに思い出すのかしら。
 こうしてこんな思いで、ここに佇んでいたことを――
 そのとき、がさんと音がして何かが床に散らばった。

 アデルはうっかり悲鳴を上げそうになった。誰もいないはずの菜園に、人影がふたつ立っているのだ。しかも頭巾を顎まで被り、ぼさっと突っ立って。
「タコっ毛」 と闇の中で相手は言った。あいつだ。うっかり尻餅をつきそうになる。隣で立っているのはギュスタンで、同じくアデルを見てポカンとしている。「何やってるんだ、アデル?」
「ギ――ギュスタンさん」 アデルは、どうにか声を出した。もう一人は呼んではやらない。「何してるんです? ここ、女子院よ?」
 足元の袋には、何か大きな塊がごろごろ入っている。近くの菜園で摘んで来たものらしく、またネクターか何かだろう。アデルは咳払いした。「ここまで盗りに来てんの? おまけに、ギュスタンさんまで!」
「いやいや」 ギュスタンは慌てたように手を振った。「こりゃ桃じゃない。もっと別のものだ」
「退けよ、タコっ毛」 男は睨んだ。「こっちは忙しいんだよ。お前らが寝てる間に作業するのによ」
 馬鹿言うんじゃないわよ、この阿呆。アデルは噛みついた。何を盗る気か知らないが、なんていい草だ。「何するつもり? ここには、トウのたちかけのキャベツしか無いわよ」
「バカが」 男は舌打ちした。「トウのたちかけはお前一人で充分なんだよ。邪魔すんな」
 アデルはとっさに側に刺してあったシャベルを引っこ抜いた。ギュスタンがげっと悲鳴を上げる。「謝れ! 大将」
「退けよ。摘芯が出来ねえだろ」
 アデルはちょっと息を吸い込んだ。あわよくば、そのままシャベルで殴ってやろうと思っていたのだ。「摘芯?」 顔をしかめた。「こんな夜中になんでよ?」
「お前な」 男は心底呆れたようだった。「お前らがちまちまやってる摘芯で、追いつくと思ってんのか? シーツを一枚作るには、最低でも綿の花が二百個必要なんだよ」
 分かったら退け、と、剪定ばさみを懐から出した。
 アデルは黙って脇に退いた。ギュスタンが、男と一緒に摘芯に取りかかる。確かに素早く的確で、アデルはじっと眺めていた。へえ、なかなかやるじゃない?
「さっさと寝ろ」
「イヤよ」 アデルは舌を出した。「私の瞑想を邪魔したバツよ。ねえ、シーツって、どうしてシーツなの?」
「施療院」 ギュスタンが答えた。「夏は汗をかくだろう。汚れたままだと、患者の治りが悪くなるのさ」
「……」
「患者の数は四百人」 男は言った。「シーツが足りなくて、二人で一枚使ってる。それでもマシなほうだ。悪けりゃ板の間。気の毒だと思わないか?」
 アデルはちょっと唇を吸い込んだ。修道院は、それでもひとり一枚シーツは使っている。週に一度しか取り換えられないけれど、それでもまだ恵まれていたのだ。
「…鋏を貸して」
 すると、男は顔を上げ意外そうな顔をした。ギュスタンも、似たような顔をしている。アデルは腕まくりした。
 どうせ今からなら、眠れはしないのだ。それならこの際働くまでよ。
「貸しなさいよ」 重ねて言った。「突っ立って瞑想すんのも手ぇ動かしてやるのも同じよ。摘芯、手伝うわよ」
 返事の代わりに鋏が飛んできた。

       12

 翌日からは、一週間の静礼祭が開始される。とにかく、言葉数を少なくするというもので、お祈り以外は本当に寡黙に過ごすのだ。朝食の時間も、労働の時間も、お昼の祈りも、みな無口。談話の時間は読書か瞑想に限定されており、ついでに身辺整理をするものも居る。静けさの中に、自らの普段の行いを見直すというもので、アデルくらいの年齢の少女には厳しい取り決めだ。
(廊下も田園も、ムチャクチャ静かなの。不気味なくらい)
 ローザがこぼしている。たしかに、こうも不自然にしんとしていると、いっそ悪魔か何かに揃って取りつかれでもしたみたいだ。無言のうちに人間が(足音を立てないためだ) フラフラ、ソロソロ。余計に気持ち悪い。
「こうすると、逆に思いっきり喋りたくなるわね…」
 作業場で、ジャムを瓶詰めしながらローザは言った。ジャム作りは、甘いものをくすねられる唯一の時間だ。味見、と称して、甘いジャムを口に出来るのである。「アデル、これ頼んでいい?」
 アデルは顔をしかめた。ジャム作りは、メリットもあるがデメリットもあって、出来上がって瓶詰めしたジャムを保管庫に運ばねばならないのだ。しかも、手押し車ではなく、手で持ち上げるトレイで運ぶのがならわしで、つまるところ「重い」 のだ。アデルは手を交差させバツにした。
「ダメ。修行と思って、あんたも付き合いなさい」
 二人でひいひい言いながら表にジャムを運び出す。保管庫は修道院の一番表側にあり、引取りに来た人間が一番受け取りやすい場所になっている。表通りがすぐそこの倉庫で、鍵がかかっており、ローザが鍵をこじ開けた。
「この鍵、もうちょっとマシなのにならないのかしらね」 とこぼす。「サビサビで、開けにくいったら無いのよ、もう!」
 ジャムを保管庫の中に入れる。戸締まりをし、表に戻ってきたところで、アデルは立ち止まった。
 修道院の前を、馬車が歩いていく。道は緩やかな坂になり、舗装路をガラガラと黒塗りの車体が上がっていくのだ。窓ごしに、先日見た代官が乗っているのが見え、二人は顔を見合わせた。先日よりも嫌味な髭が伸びている。
「あれ、代官よね?」 ローザが言った。「隣のミストの代官だわ。また来たの?」
 アデルは黙っていた。なんとなく、嫌な予感がしたのだ。車の脇腹に、ミストの領主の家紋が入っている。普通、代官は、領主の小使いみたいなもので、任務の際には徒歩でやってくるのだ。それが領主の馬車借りだって?
しんとした町中に、大きな車輪の転げる音がいやに大袈裟に響いている。屋根に荷物を積んでいるのは、代官が長旅をしてきた――もしくは、予定している証拠だ。先日の下男が荷物を抑えるようにして抱えており、御者の横にへばりついている。「鞄を落としたら鞭で打ち殺すぞ!」
教会に行くのだ、アデルは思った。静礼祭は、ひとことも喋られぬ日。不必要な会話や、まして争いは絶対に避けねばならない日だ。そんな日に、代官がやってきた。旅支度で領主の馬車をわざわざ借りて。
「ローザ、ついて来て!」
 アデルはスカートの裾をかりあげると駆け出した。

「御機嫌よう、主教ならびに司助祭諸君」 代官は言った。赤い徴税人独特の外套を身につけており、手には丸杖を持っている。いつもより万倍も偉そうな様子で、胸とついでに顎を反らしながら訊ねた。「今朝は随分と町が静かですな?」
(ふざけんじゃないわよ、根性悪) アデルは内心毒づいた。先日かっぱらった、修道着に身を包み柱の横に立ち様子を伺う。最初から知っていてここに来たのだ。今日が自分にとって格別分のいい日だと分かっていて。
「御機嫌よう、代官殿」 いつもより万倍静かな声で主教は微笑んだ。「静礼の祝いにようこそ」
「いつもはもっと賑わしいので驚きましたぞ」 と代官は言う。「何か――良くない知らせでもあったのでないかと」
 主教は、慇懃に唇を吊り上げただけだった。代官は唇の端を上げ応じた。
「なるほど、では私も言葉少なに」
 言いながら、懐から手紙を一枚取り出した。
「ミスト並びに、北の領主三方からの伝言です」 と、中身を取り出した。「教会の徴税権に対して、税の開示及び、その分配の要求を申し上げたい」
 途端に内陣にどよめきが走った。
「嫌とは言わせませんぞ」 代官は、勝ち誇ったように唇を捻じ曲げた。「これは法規に基づく要求です。アンカ・ルースの王室に保管されているれっきとした法案だ。『七百エーク以上の土地を所要するもの、または、年に樽五百樽、絹一千反、鉄及びガラス三百枚、その他年間にして銀二万リノ以上の生産を見込む土地を保有するものには、身分・出自のいかなるを問わず、同盟領主に税額を提示し、また同盟者の平均収益に並ぶ額の、銀または硬貨を、五年に一度同盟者に寄付せねばならない』
「なんということを!」 側に居た僧侶が叫んだ。
「教会を何と思っておられる」 と、司教のひとりが言った。背の高く、肩幅のがっしりした司教だ。「あなたは教会を世俗のものと並べておいでか!」
「とんでもない!」 代官は負けじと言った。「聖職者は我々とは住む世界の異なるものです。教会法によれば、唯一、神のしもべと並ぶのは、無謬のお方法王そのひとだけ。法王庁に税の開示など求めておりませんぞ!」
 やられた、アデルは歯噛みした。その手があったか。大昔の、しかもノミに食われたかも分からない法案を持ってきて、法王以外の教会人に、俗人としての枠組みに当てはめ、徴税を迫ってきたわけだ。くやしいことに否定する理由が無い!
「ふざけるな!」 怒号が飛んだ。僧侶が喚き始める。「ここが教会領である限りは、領主からは独立したものであるはずだ! 税を納める理由が無い!」
「黙れ! 黙れ!」 代官は叫んだ。今にもその手は腰のサーベルに伸びかけている。「どうですかな?」 無理やり、声音を和らげ代官は言った。「主教殿は、この事実を否定されまいな?」
「否定は致しませんが」 と、主教はやんわりと口を開いた。「賛同も、致しかねますな」
「ほう!」 代官は片眉を吊り上げた。涼しげな声とは裏腹に、眼は血走り青筋が浮いている。「それはなぜです?」
「まず」 主教は代官に向き直った。「お察しの通り、この土地は七百エークもありません」
 代官は黙っている。主教は相手が飲み込んでのを見て、更に続けた。
「分配の条件だが、これは暗黙のうちに、税額の開示が前提となりますな」 主教は手紙を流し見た。「樽五百樽、絹一千反、鉄及びガラス云々、その他年間にして、銀二万リノ以上の生産を見込む土地を保有するもの、とありますが、我々がこれだけの収益を上げているとどうしてお分かりです。そも税の開示をしていないのに」
 代官は目を見開いた。
「よって、この条文には、どうやら我々が含まれてはいないようだが――」 主教は指でポンポンと手紙を叩いた。「なるほど、おっしゃるとおり、神に並ぶのは我らが父、法王聖下のみです。身分出自のいかなるを問わず、法案に従わねばならぬのであれば、応じねばならない。法王庁にお行きなさい。法王庁以下に並ぶ教会領に対し、徴税の義務があるから、よって収益の開示と分配を求めると。町の主たる者が我々俗人でも、ここは法王のもの、教会領です。我らの自治は法王の自治、父が頷けば従いましょう」
 代官は手紙をひったくった。
「よろしい!」 と叫ぶ。獣が唸るように、「ではそのお言葉忘れられまいな! 法王が、従えば、もう拒絶する理由はない。失敬する!」
 足早に去ってしまう。踵を返したとき、背中で代官がこう言った。
「法王庁の畜群どもめ」
 その瞬間、アデルはとっさに足を出していた。なぜそうしたかは分からない。だが、気がつくとそうしていたのだ。アデルの足に蹴つまずき、代官が床に転がった。あっと声が上がった。
「貴様、おのれ!」
「黙られよ!」
 気が付くと、アデルは叫んでいた。ローザが凍り付いている。立ち上がった代官を頭巾の下から睨みつけ、アデルは叫んだ。
「静礼の沈黙を破り、祭壇に背を向けられる気ではあるまいな?」 アデルは言った。「法に従うのであれば順ぜられよ! 〝ベルタンは我らが国教であり鎖である〟先の国法をお忘れか!」
 そうよ、アデルは思った。家が一時期あまりにうるさくて、法文の書き取りばかりさせられていたことがあるのだ。旧国法と今の国法をさんざ書き取りさせられて「アデル、十七条目に書かれた言葉は何でしたか?」
 代官は血反吐を吐きそうな顔をしている。顎がしゃくれており、目は赤く濁り、手はわなわなと震えまるで発狂寸前のようだ。
 代官は片足を軽く曲げ礼した。祭壇の前には主教が立っている。殺しかねない勢いでアデルを睨みつけると、腰のサーベルを整え、代官は足早に立ち去って行った。

       13

「信じられない! 考えられない! あんたムチャクチャよ、死にたいの?」
 ローザが頭のてっぺんから叫び声を上げた。ふたりは自分たちの部屋に戻っている。脱ぎ捨てた修道着を枕の中に詰め込みながら頭を振った。「斬り殺されるところだったのよ!」
 それどころか私は火あぶりだわ、ローザは顔を覆った。教会は、男装を険しく禁じている。修道士の格好をして、勝手に紛れ込んでいたなんて、見付かろうものなら魔女扱いのうえ軽くても投獄だ。「もうあんたに付き合うの止めた! 死んじゃうわ!」
「落ち着きなさいよ、ローザ」 アデルは呟いた。「いいじゃない、死ななかったんだから」
「代官を転ばして怒鳴りつけるなんて!」 ローザはまだ言っている。身体を両腕で抱きブルブルしながら「おしっこ引っ込んじゃった!」
 また出るわ、アデルは唸った。考えてみれば、自分でもとんだ真似をしたものだ。男みたいに低い声を出して喧嘩を売るなんて。
「もう、イカれてるとしか言えないわよ」 ローザはベッドに潜りこんだ。午後の労働は完全にサボりだ。フテ寝する気らしく、枕に顔を押し付けている。「あんたとは、一週間は絶交!」
 じゃあ丁度良いわ。アデルは溜息をついた。静礼祭が終われば絶交が解けるのだ。アデルは黙ってベッドに入った。
 ますます悪い事になった。アデルは腕組みした。代官が、領主たちが教会に本気で課税をしようとしている。それも今度は法王庁に殴り込む気だ。
 今はまだいいけれど、本当に、法王が要求を飲んでしまったらどうするつもりだろう? アデルは思った。そうなれば、本当に聖女どころではなくなるのだ。悪ければ、教会が武装蜂起することだって…
「働いてきなさいよ」 とローザがふてくされたように言う。「お腹が痛いって、院長には言っといて」
 はいはい、アデルは溜息を洩らした。絶交って言ってたのは、どっちなのよ? 部屋を出て、足早に作業場へと向かう。厨房はもう空っぽになっており、ほとんどの修道女たちは田畑に出てしまっていた。作業をままサボったことになるのだ。
 日が傾いている。労働は、あとほんの少しで終わりだろう。修道士が、早めにクワをかついで帰って来るのが見えた。
(どうなるのかしら。法王は、どう答えるだろう。教会はどうなるのだろう)
 終了を知らせる鐘が鳴った。アデルは諦めて、部屋に戻った。

 その夜、アデルは食事のあと院長に呼び出された。昼間の行方不明の一件を、誰かが伝えていたのだ。物差しを持ってきた院長を見て、アデルは悟った。お仕置きだ。それも二本。今日は恐ろしいくらいに怒っている。
「アデレード! ローザ!」
 レオノールが心配して扉の隙間から見守っている。アデルはどうにかドアの向こうに追いやった。見ないほうがいいから、あっちにお行き。
「昼間は何をしていたのですか!」 院長は怒鳴った。静礼祭の沈黙を破る大声だ。「まま一刻半も戻らないとは、恥を知りなさい!」
「ローザの具合が悪かったのです」 アデルはうつむいたまま言った。「お腹が痛いというので、側に居ました。彼女は悪くありません」
 院長は目を見開いている。驚きではない、怒りで目が零れそうなのだ。ローザはアデルを訝っており――昼間の侘びよ、アデルは目くばせした。「ですからサボったのは私です」
 予想していたとおり、鞭打ちならぬ物差し叩きの刑にあうことになった。廊下に立たされ、壁を向いて「気をつけ」 させられる。昼間の教会での一件が伝わっているのか、院長は機嫌が悪い。「祭儀の初日に、労務をサボるなど、懺悔なさい!」
 十ほど背中をぶたれ、部屋に戻る。そのままベッドに倒れこみ、アデルは目を閉じた。ああ、こんな程度の折檻には慣れてたけどさ。でもここでもぶっ叩かれようとはね――
「アデル、あんた」 ローザが顔を伏せてしまっている。「ごめん。あたしだけかくまわれちゃうし……ごめん」
「いいのよ」 アデルは投げやりに言った。「馬用の鞭か、竹ムチで尻を叩かれるよかマシだわ。余裕よ」
 アデルはそっと目を上げた。壁の上に、まだ聖女のレリーフが飾ってある。あいかわらず、清爽たる表情をしており、アデルはちょっと笑った。聖女って、あんなのかしら?
「アデレード」 ドアがノックされたので、アデルは顔を上げた。院長様だ。ローザが代わりにドアを開けた。「院長様…」
「お客様がお見えです」 と、院長は言った。その顔が、どことなく強張っている。起き上がり、それが緊張から来ているものと知った。ひょっとして親が気が変わって迎えに来たとか?
「遊歩道でお待ちです」 と、院長は続けた。「急ぎなさい」
 ブーツをつっかけ、かかとを踏みながらアデルは続いた。院長はせっせと歩いていく。その足取りも、固くたどたどしく、アデルは訊いた。「誰なんです?」
「主教様です」 院長は、立ち止まり振り向いた。一体何事、とも、何をしたのですかとも言いたそうな顔をしている。「ラルス大司教が、ここにお見えなのです」
 アデルは月まで意識がブッ飛ぶんじゃないかと思った。

       14

 主教様は、修道院の遊歩道で待っていた。回廊上の短い廊下になっており、ここでは、自由時間に修道女が瞑想するのである。文字通り、行ったり来たりするための歩道で――アデルはゼエゼエ息を鳴らして立ち止まった。「お、お、お待たせしました」
 主教は花を手で弄んでいる。ツツジに似た花を掌に乗せて立っており、アデルを見ると、顎を少し引き唇を吊り上げた。「アデレード、昼間の礼を言いに来た」
 アデルは「は」と言いそうになった。主教は少し様子が違っている。いつもはもっと、ありえないくらいに物静かで、物腰が柔らかなのに、今日はやや声音がしっかりしている。まるで、ちょっとばかりお説教でもしてやりに来たというような…
「何の――ことでございましょう」 と、アデルは訊いた。「私、何もしてはおりませんが…」
「日中の修道僧は君だね」 と主教は言った。その目が真っすぐアデルを向いている。彼女の目の中を、覗き込むような顔をしており、アデルは一挙に蒼白になる気がした。ああ、厄日よ! 頭の中に稲光が閃く。男装がダメな場所でおまけに主教に見付かって詰問とは!
「ありがとう」
 アデルは眩暈をどうにか抑えた。足がぐにゃぐにゃのタコみたいだ。男装は魔女扱い――つまりは火あぶりだ。それとも重しをつけて水にドボン? アデルはもう一度「は」と言った。
「こんなことは、有ってはならないが、いささか救われたよ」
 アデルは黙った。今更だが、主教様はいつもと違う言葉遣いで喋っている。アデルは相手の顔を見上げた。
「だが、もう二度としないように」 主教は念押しした。「誓願だけでなく、我々の掟をもまた守りなさい。自らの身を危険に晒すような真似は、金輪際慎むように」
「………」
 アデルは俯いた。やっぱり厄日だ、と思う。他に出来ることも、しなければならないこともなく、アデルは呟いた。「お許し下さい…」
つと、アデルの肩に主教の手が触れた。首筋に手が触れる。うなじの位置に、聖帽のベールの部分の側に手を置くと、主教は言った。「大分叱られたようだね」
 何でまた、アデルは言いそうになった。地が出そうになって慌ててこらえる。「ミミズ腫れが出来ているよ」 と、主教はやっと微笑んだ。「これは物差しか」
 アデルは黙っていた。初めて触れる主教の手は、少しざらっぽい。細いが荒れていて、乾いた感覚。アデルは笑った。「平気です」
「手当てをしてあげたいが――」 主教は手を離した。「困ったね、主教座はここからは遠い。部屋に帰ったら薬を貰いなさい。今夜は安静に」
 いや、そういう問題じゃねえだろ…アデルは思わず突っ込みそうになった。手当てをするには、このダボタボの服を脱いで、下着の背中の紐をゆるめて、お尻のところまではだけねばならないのだ。いくら主教とはいえ、疎すぎるのもどうなの?
「おやすみ、アデル」
アデルは笑いを引っ込めた。主教はもう背中を向けようとしている。「主教様!」
主教は立ち止まった。やっぱり花のようなお方、と思う。思わず呼び止めてしまったものの――他に言う言葉もなく、アデルは言った。「おやすみなさい」
主教は去って行く。その背を見て、アデルはそっと思った。
(ホントに天然だし、まるで女とも聖女候補とも思われてないみたいだけど)
でもその背中、アデルは唇を吊り上げた。絶対追いついてみせるわ、主教様。

       15

静礼祭の間、アデルは気味悪いほどのご機嫌だった。食事が少なくとも、何を申し付けられようとも、満面の笑みで引き受ける。
「アデル、水を汲んできてこのかめを満たしておいて頂戴」
「はい」
「ヒツジの毛を漉いてきてくれない」
「はい」
 何を言ってもふたつ返事のアデルに、仲間はみな首を傾げるを通り越して気味悪がっている。しまいには、「牛の糞をこの手押し車一杯にしてきて」 という要望にも、笑顔で答えるアデルに、妙な噂が立ち始めた。「あの子、ひょっとして変な趣味があるんじゃない」
「院長様に叩かれてからこうなの」 と先輩が顔をしかめている。「もしかして、叩かれてヘンな趣味に目覚めたとか……」
 静礼祭は明日でちょうど終わりだ。これが開けたら、みんなで盛大にお祝いをするのである。聞くところによると、特大のオムレツを焼いて、洋ナシとモモを合わせたケーキに、蜂蜜で梳いたクリームをかけたものを振舞われるのだとか。下町はお祭り騒ぎになり、それは賑やかな――
 修道院の前庭は、今朝から大仕事のため僧たちが詰め掛けている。今年の初物の、ワインを町に降ろすのだ。次から次へと運ばれる樽を積み荷に積み上げ、みな大汗をかいている。ごわごわした生地の頭巾の首筋まで汗が滲むくらいだ。
「皆さん、手伝う事はない?」
 修道女たちが、コップに入れたお茶や冷えた水を運び声をかけている。年で一番の大仕事で、僧侶たちは大騒ぎだ。ほとんど下町の地が出でおり、まるで大工みたいな掛け声を上げている。「せえっ!」
「頑張って」 アデルは呑気に手を振った。ギュスタンが青筋を浮かべて車を押している。不良僧もおり、「クソ、息合わせろ!」
「ビクともしないわね」 ローザも唇を尖らせている。「やっぱり、三十樽は一気に無理よ。坂を転がり落ちたらどうするの?」
「タコっ毛」 僧侶が言った。「手伝え!」
「嫌よ」 腰に手を当ててやる。「男の仕事は女はしないの。これも主教様のお達しよ」
 少し前の、水汲み場事件以来、この僧だけはアデルをタコっ毛呼ばわりしている。アデルは鼻を鳴らした。切ると伸び、毛先が外に広がっていく、このクセのせいでアデルがどんなに苦しんだことか。最近はレジスタンスの精神もなくしてしまって、とにかく神の思し召しのままにさせているのだけれど。だから死んだって手伝ってやらない。
「手伝って欲しけりゃ、ちゃんと名前で呼びなさい。さんを付けてね」
 返事の代わりに男は地面に唾を吐いた。なんて下品! 呆れるアデルを無視して怒鳴る。「押せ!」
 どうにか門の前まで車を押して行く。門に辿り着く頃には、全員バテており、ギュスタンは地面に仰向けになってしまった。「あ――ああ」 と唸る。「力みすぎて、息がしにくいな、畜生」
 不良僧も座り込んでしまっている。「――クソ、夜になるぞ、これじゃ」
 水を配りながら、アデルはふと気がついた。不良僧の周りだけ、とりわけひどく汗がぽたぽた零れているのだ。まるで水にでも頭から飛び込んだみたいな。
「大丈夫?」 アデルは訊いた。息切れが酷く、口もまともに利けないらしい。「み――水」 と言った。「寄越せ。あっちに行ってろ」
 どっちなのよ、アデルは顔をしかめた。運動不足なんじゃない、と言ってやる。だが返事はなく、再び全員よろよろと起き上がると荷車に取りかかった。「押せ――」
 アデルは荷車を押し始めた。ローザがげっと声を上げる。ちょっと! 女たちの中から奇声が上がった。「何してんの、アデル!」
「押せ!」 アデルは怒鳴った。「手ぇ空いてんでしょ!〝共に歩き荷を担えるものは楽園を得る信徒とならん〟よ! 手伝いなさい!」
 あんた、おかしいんじゃないの! ブーイングしながらも次々修道女が混じり始める。院長まで(仕方ない) 腕まくりしており、ズリズリ動き始めた荷車の下で、僧が薄笑いを浮かべた。
「まるで聖女だな…」
 アデルは無視した。相手に出来なかったのだ。荷車は徐々に坂道に向かっており、少しずつだが楽になっている。日は傾き始めており、これがあと二往復残っているのだ。アデルは叫んだ。「押せ! 押せ! 押せ――!」

       16

 その夜、アデルたちは特別に夜間の祈りを免除された。院長も白目をむいてしまっている。腰をやられたらしく、折れそうに細い腰を老婆みたいに曲げて歩いていた。イタタタ、おおイタタ。
汗でずぶ濡れになった服を脱ぎ、風呂に入る。背の低い桶にしゃがみこみ、ローザに背中に水をかけて貰いながら、アデルは目を閉じた。「凄い仕事。修道士は凄いのね」
「力仕事がメインだもんね」 とローザが言う。もう洗った髪をふきふきしながら「あんた、本気なんだね」
「何が?」
「聖女よ」 ローザが言った。「詩篇まで引用しちゃってさ。〝手伝いなさい!〟だもん。ホントになりたいのね」
「そりゃ」 アデルは笑った。「なりたいわ。やっぱりなりたい」
 ここの仕事を始めて、分かったことがある。教会は、中で生活するのは本当に大変だけれど、活き活きとした所なのだ。暗くて、澄まして、単に偉そうなことを言ってたらいいってもんじゃない。必死で働いて、考えて、それでも神様の元に居たい人間が集っている。
「それでも私は神様が目的じゃないのよ」 アデルは笑った。「下心。それでも、いいなって気がしてきたの。本気で好きな人が追い求める世界なら、一緒におっかけてもいいかなって。そりゃ女だし愛されたいわ。見つめられたいし、多分――抱かれたいって思う日もいつか来るかも。でもそんなの関係ないわ。側に居て、同じもの追い求めて一緒に苦しんで、喜んで、笑っていられたら、私はそれで幸せよ」
 ローザは黙って唇を吊り上げている。大きな目がぱちぱちしており、綺麗だな、と思った。ここに来て得た、大事な友達。
「あんた聖女になるかも」 と、ローザは言った。「なんとなく、でもあたしそんな気がするよ。頑張れ、アデル」
「ええ」
 風呂の湯を捨て(面倒なのでいつも窓からだ)ベッドに潜る。今日は朝までゆっくり眠れそう、と思った。これだけ疲れてりゃあ、熟睡出来るでしょ。
 そしてその勘は正しかった。お休み、言う間もなく、アデルはすっかり眠ってしまった。

 その夜、アデルは夢を見た。
 主教が祭壇に立っている。いつもと違う法衣を身に着け、こちらに背を向けている。純白の法衣に、金糸の刺繍の最高衣。本当に大事な祭事の時にだけ身にまとう聖衣だ。
(アデレード)
主教は言った。囁くような声だ。いつもより万倍主教様が格好良く思えるわ、綺麗だわ、アデルは棒立ちになった。洗名を与える。その場に跪きなさい。
ああ、アデルは目を閉じ、夢の中で手を合わせながら思った。私もついに聖女。この人の側で、生涯神に仕えるのね。アデルの額に手をかざし、主教は十字を持っている。夢に見た聖十字。そして聖女には新たな名前が与えられる。叙階のしるしとして、称号が。
 アデレード、愛しているよ。主教の唇がそう囁く。君に相応しい名はおよそ思い浮かばない。しかし、許されるなら、敢えてこの名前を授けよう――
 そしてこう言った。
(タコっ毛)
次の瞬間、アデルは上げられるだけの悲鳴を上げた。

      17

「イヤ―――! イヤ、絶対嫌あ―――!」
 叫びながら、ベッドから転がり落ちる。それでもまだアデルは叫び続けていた。ローザが悲鳴を上げている。足音がして、まだ背中を曲げた院長が飛び込んできた。「何事なのです!」
アデルは泣き叫んだ。あまりのことに院長は――仲間たちは硬直してしまっている。「私が悪うございました! ですから、神様どうぞご勘弁下さい!」
泣きむせぶアデルを院長は呆然と眺めている。ローザがアデルの頬を押し、無理矢理腕を引き剥がした。彼女に抱きついていたのだ。「何なのよあんたは!」
 結局、騒動が済んでからアデルはどん底に落ち込んでしまった。仲間たちは全員腹がよじれるほど笑っている。静礼祭開けの、最初の笑いだ。「ホントどうにもならないのね、あんたって!」
 食卓には、今朝は少し量の多い食事が盛られている。いつものお粥にパンふた切れ、ミルクが一杯だが、夜は豪勢らしいのだ。「やっと適量って感じね」 ローザが耳打ちして笑った。「聞いてよ、ここに来てから私ふたまわりも腰周りが痩せたの。ダイエット成功ね」
 もそもそと食事を摂り、礼拝室に向かう。祭壇の前では久々に談笑が繰り広げられており、いつもより明るさを感じる空気が漂っている。「アデレード」 と、ひとかたまりの修道女が声をかけてきた。「今朝はどうしたのよ?」
 レオノールと、彼女の友達だ。「大丈夫だったの?」 と尋ねて来る。本気でそう言っているのはレオノールだけだ。「もう凄い声。化かされたみたいな。何の夢なんです?」
「聖者が悪魔に化ける夢を見たのよ」 アデルは唸った。まさにその通りだ。夢に出て来てまで人の恋路の邪魔をする。本物に報復してやらねば……
 祈りを済ませ、各自のわずかな時間を過ごすと、アデルは早速田園に出た。さあ、今日でここに来て丸一ヶ月。げんの悪い夢を見てしまったことだし、働いて吹っ切らねば。
 昼過ぎまで進んで開墾作業をする。相変わらずしめたもので、ローザは後ろからスコップ片手に畝作りだ。「アデル、凄い機嫌ね」
 小休憩は、各自で適宜取れることになっている。お手洗いや水分の補給がそれで、水飲み場の井戸は男女とも共同だ。クワを担いだまま、井戸に行ったアデルは足を止めた。ここで会ったが夢の敵。
 男は、今朝は井戸水で何かを洗っている。近付いてみてアデルは、それがカブラでも細ニンジンでもない、石ころの塊だということを知った。「何? それ」
「またお前かよ」 と、うんざりしたように言う。「石だよ。水路の脇に散らす色石の」
 アデルはポカンとした。教会の横には水路が流れているが、頂の教会に近い部分だけ、鮮やかな色石が散らされているのだ。町では高価なものだが、それをどうしてこんなところで?
「たまに塊が見付かるごとに、拾って砕いてる」 と男は続けた。「お前、またサボりか」
「水が欲しいの」 アデルは首を傾げた。「退いて下さる?」
 男は黙って退いた。屈みこみ、手桶の水をすくって口に運ぶ。少々濁っていても、疲れると気にはならないものだ。喉を潤してから、アデルは振り向いた。
「ねえ、あんたは何でここに居るの?」
「居ちゃ悪いか」
 アデルは顎を引き睨んでやった。「名前は? まだ知らないわ」
「聞いてどうする」
 大いに聞くわよ! アデルは怒鳴った。「あんたのせいで、折角の良い夢が台無しなの! あんたがタコっ毛、タコっ毛っていうからとうとう夢にまで――」
「アスカム」 と男は切って捨てるように言った。「良い夢って、主教に抱かれる夢でも見たのか? で、運動不足ですぐ中折れした」
 アデルは相手の顔を見た。男は、鼻の先で笑っている。頭巾の上からでもわかる、いかにも根性が悪そうに唇がひん曲がり、八重歯がまるで悪魔みたいだ。アデルは思い切りその足を踏んでやった。飛び上がる男を前に胸を反らす。
「天罰よ」 と言ってやった。「いい? これから、私の前で主教様をバカにしないで! 分かった?」
「知るかよ!」 男は片足を上げながら叫んだ。「お前、一体何なんだ!」
「タコっ毛もなしよ」 アデルは更に続けた。「次言ったら、今度は――」
 アデルは側に転がっている石を横目で見た。さっき男が洗っていた石だ。男があとじさり、その拍子に後ろに置いてあった手桶につまずきひっくり返った。
 アデルは腰に手を当てた。男はそのまま仰向けに倒れたままでいる。腰を打ったらしく、白目をむいているのだ。「これも天罰」 と言ってやった。「悪いと思ったら、主教様にお侘びしときなさい。じゃあね!」
 言い置き踵を返す。水浸しの中ようやく起き上がった男を尻目に、アデルはずかずか去って行った。

       18

 静礼祭明けの宴は華やかなものだ。晩餐の食事を前にアデルは溜息を洩らした。故郷では、それでももっと贅沢なものが当たり前だったけれど、ここでは何でも量が多ければ豪華だ。まだ湯気の立ち登るシチューに、玉ねぎとカボチャの入ったスープ。こんもりと盛られたジャケット・ポテトに、特大のヨモギ入りオムレツ、そして夢にまで見たプラムとリュバブのクリームケーキ。
「ああ、幸せ」 スプーンを咥えながらアデルは涙ぐんだ。お腹一杯食べられるって、本当に幸せよね、ローザとしみじみ語り合う。自由にお喋りが出来て、せめて満足出来るだけの味付けと料理のレパートリーがあれば、お洒落なんて一生しなくてもいい、とすら思う。いや、ソレはソレでまた後々困るのだけど…
「明日は久々に教会礼拝よ」 と仲間が言っている。「主教様のお声、久しぶりだわ」
 うん、同感。アデルは満足して頷いた。あれから一週間、夜間の礼拝にはこまめに訪れていたけれど、主教はおろか司祭や僧たちはみな完璧なほどまでに無言だったのだ。普段から静かな主教様は、喋らないと、まるでよく出来たお人形のようにも見える。
「アデル、何ニヤけてんの?」
 アデルは顔を上げた。レオノールが、眼鏡の奥で目をぱちぱちしている。「考え事?」
「どうせ変な妄想してんのよ」 ローザが歯をむき出して笑った。「主教様のお声が恋しい? アデレード、久しぶりだね、なんて。今夜辺り押しかけたら」
「押しかけるってどういうこと?」 仲間が叫んだ。「あんたまさか主教様のとこに行ってんの!」
 結局、言い逃れを必死でさせられる羽目になってしまった。ケーキを食べる時だけは、それでもお代わり狙いで何を聞かれても無言でがっついていたけど。まったく、ローザめ、本当に敵か味方かどっちなのだろう?
「まあ、頑張りなさいよ」 ローザが手荒に肩を叩いた。「あと一ヶ月。当たりとしてそう悪くは行って無いわよ」
 そうだ。アデルは改めて気を引き締めた。あと残り時間は一ヶ月。それはつまり、首吊りか、首ったけかまであと三十日ということ。
「やあ、アデレード」
 例によって、蝋燭を抱え教会までスッ飛んで行ったアデルに、主教はそう言った。今朝は珍しく司教冠をかぶっている。蝋燭をアデルの手から受け取りながら「毎日感心だね。神は喜んでおられるよ」
 半分スキップして修道院に戻る。グニャグニャの顔を見て、ローザは呆れた。「何考えてるか丸判りよ、あんた」
 あれ以来、代官たちは音沙汰無しだ。寝る前のベッドを整えながらアデルは思った。大方、法王庁に馬を走らせているのだろうが、どうなるのだろう。あの敵意に満ちた表情と言い、濁った目つきと言い、ろくなことは考えていなさそうだが…
「アデル、洗面用の水汲んで来て」
 就寝前、ローザが言ったので、アデルは流石に顔をしかめてやった。もう三日目なのだ。毎日、洗面用の水は寝る前までには水飲み場から貰ってくるのが決まりで、いつもは交代なのだが、ここのところ彼女はいつもこうだ。「頑張ってきてよ、ね? 言い情報流してやるから、聖女候補」
「明日は起こしてやらないから」
 空のジャグを手に外に出る。水飲み場は、昼間の井戸がここからは一番最寄りになっている。修道僧もやって来る井戸で、小さな屋根の付い汲み上げ式の井戸だ。
 その横に、僧侶が立っているのが見えた。
 アデルは様子を眺めていた。昼間の、あのクソ僧侶だと思ったのだ。だが、相手はそれとは違った格好をしている。紫のような衣を身にまとい、頭巾の下の顔に包帯を巻いており――
 アデルははっとなった。らい病患者だ。
 修道院には、ごく稀にらい病の患者が施しを受けにやって来る。みな、らい病と周囲に判らせるための鈴のついた杖をつき歩いており、施療院や教会の前で施しを求めるのだ。彼らだけは、許された場合のみ院内に出入りし、菜園の木の実や果物を自由に採る権利が許されている(どっちみち、ほんの数粒なのだ)。男は衣にリンゴを持っており、井戸の前に佇んでいた。
「…あの」
 アデルは呼びかけようとした。背格好からして中年の男だ。井戸の底にある桶を上げようとしているらしく、紐を引っ張っている。苦労してやっと桶を引き上げた。井戸のヘリに置き――
 そして、衣の袖から瓶を取り出した。
 この井戸は、飲み水だけではなく洗い物も行われる。薬瓶でも洗うのだろうか、思っていたアデルは、次に目を疑った。桶に瓶の中身を落とし込み、その手桶を井戸に放り込んだのだ。バシャン、下の方で音がして、男は衣に瓶をしまいこんだ。そしてその場を離れようとして井戸を離れ、こちらを見た。
「……」
 相手は静止した。視界の分だけ漉かされた包帯の下で、目が見開かれる。充血もしていない、濁ってもいない健康な瞳だ。
アデルは逃げ出そうとした。
ジャグを放り出し、駆け出そうとする。だが、その聖帽の裾を手が掴み引き止めた。顎の下で止めた紐が解けヴェールがむしられる。アデルは叫んだ。叫んで助けを求めようとした。
いきなり殴打が来て、アデルは声を引っ込めた。腕をつかまれ、そのまま首に手が当てられる。二本の手が耳の後ろを締め付けるのを感じた。容赦ない力が加わり、叫ぶ彼女を一秒でも早く黙らせようと――
「アデル!」
 その時、声がして腕が引き剥がされた。床に転がり、嗚咽する。白濁した視界の中で、誰かが誰かを殴り付けるのが見えた。一発、二発、連続してもう一発。
「ギュスタン!」
 どすん、音がして壁に男が叩きつけられた。修道服の男がらい病の身なりの男を宙吊りにして壁に叩きつけたのだ。どすん、どすん、ついでに男を投げ飛ばしてしまい、牛のようにギュスタンが体全体でこちらを振り向くのが見えた。「大将、無事か!」
 アデルは半目を開けていた。何があったのか判らなかったのだ。すぐ側に不良僧が屈んでおり、横になったアデルの首筋に指先を当てている。「大丈夫だ。こっちは生きてる」
「あ、あ」
 ギュスタンが井戸の水を汲んでくる。アデルはそれを眺めていた。井戸――そうだ、井戸だ。ギュスタンの背後でよろよろと男が立ち上がり逃げようとしており、アデルは止めようとした。ギュスタンさん、その水は駄目!
 ギュスタンが手桶を運んで来る。アデルは目を開けた。頭の横で、僧侶が手桶の前に屈み、水を手に取ろうとしている。
(駄目よ、駄目!)
 ほとんど飛び掛るようにして、アデルは相手の衣を掴み引っ張った。あっと言う間もなく僧衣を剥ぎ取る。もがきながら起き上がり、アデルは手桶の水をぶちまけた。「おい!」
 だが、次の瞬間にアデルは見た。零れて床を這い、敷石に広がった水が炉辺の雑草に及んだ途端、しゅっと微かな音がして異臭が漂ったのを。草の葉が見る間に変色し始めている。
ギュスタンが目を剥いた。
「ギュスタン、井戸を閉じろ!」 僧侶が叫んだ。間に合った、気が付いたのだ。ギュスタンが慌てたように木材を持ってきて、井戸にぶっちがいをし始める。「畜生、あの患者何をした!」
 あれは患者じゃない、アデルは言おうとした。だが、頭が朦朧としている。首周りだけが、火が付いたように熱く、アデルは倒れこんだ。あたし死ぬの?
「死ぬかよ」 僧侶は呻くように言った。こちらに背を向け、アデルが引っ張った頭巾を被り直している。「あの井戸一杯飲んでも生きてそうなお前が」
 アデルは笑った。そう、ここで死にゃ主教様のお膝元よね、思い付いて笑ってしまった。褒めてくれるかしら? 主教様は、良くやったって。飛び級で聖女なんて、まさかこんなオチとはね…
「アデレード」
 目蓋に手が置かれている。アデルははっとなった。主教様の手袋だ。ほんのり香る香に覚えがある。身じろぎするアデルに、声はこう続けた。
(よくやったね、君を誇らしく思うよ。じき手当ての者が来るから、今は気をしっかりと)
 バタバタと足音が聞こえて来る。釘と木材を持ってこい! ギュスタンの声を遠くに、アデルは闇に引き込まれて行った。

       19

(アデレード、アデレード・クライスラー)
 夢の中に、声が響いている。様々な顔が彼女を覗き込んでは、何か言いながら消えていくおかしな夢だ。院長様に、ローザ、半分泣いているレオノールに仲間たち、そして主教様。
(アデル) と、主教が呼びかけた。(弱ったね、もう三日になる。一度も意識が戻らないのかい?)
(呼んでも呼んでも駄目なのです) と、院長が目に涙を滲ませている。(まるで自分が死んでしまったと思い込んでいるみたいに、もう三日も)
(アデルさん) レオノールが手を握っている。(お願い、起きて下さい)
 ばたばたと足音が移動している。司祭が二人横に立っており、アデルの目蓋を引っ張ったり、顔を叩いたりしている。(主教様、事情を聞きだそうにも彼女がこうでは…)
(アデレード) 誰かが手を握る。なんだかもうサービスみたいな夢だ。(起きてお前の声を聞かせてくれ、アデル)
 うふふふふ、アデルは夢の中でうっすら笑った。いっそこのまま死んでもいいような夢。夢の中で司祭二人が顔を見合わせており、怪訝そうなとも――怪しんでいるとも思えないような顔をしている。(何かに憑かれているのでしょうか)
(アデル) 主教が耳元で囁く。(困ったね。夢を見ているのか。起きなさい、さあ――)
 アデルは目を開けた。ふと嫌な予感がしたのだ。枕の横で、どういうわけか主教が手袋を外し素手になっている。と、アデルを見ると目を見開いた。「アデレード!」
 アデルはむっくりと起き上がった。司祭が、おおと声を上げている。アデルはきょろきょろと辺りを見回した。ここ、私の部屋じゃない。何処なの?
「教会の賓客室だ」 と、司祭の一人が言った。朗々としたたくましい声だ。「よく眠っておったな。シスター・アデレード」
「アデレード・クライスラー」 主教が微笑んだ。「話は信徒から耳にしている。よくやってくれたね」
 アデルは自分の姿を見下ろした。真っ白い衣みたいな衣服に腰に組み紐。髪が首の横で交差するようにねじられている。
 顎から下に、首一面に包帯が巻かれている。手を当ててみて、アデルはぎょっとした。急いで包帯を引っ張り窓を覗き込む。首周りに、赤紫色に変色したうっ血跡が手の型を残しぐるりと付いており――窓に映った姿でアデルはうっかり目を回しそうになった。
「アデル」 主教が険しい声を出した「君の首筋には血膿が残っていなかった。つまり、犯人はらい病ではなかった。そうだね?」
 アデルは頷いた。
「四日前に、町の外でそれとおぼしき男が殺されておったのが見つかっている」 と、司祭が低く言った。「傷みが激しいが、らい患者だ。身の回りのもの――外套や杖だけが奪われていた。僧衣はそのままで」
「オルドの院はらい病や乞食への待遇が厚い」 主教が引き取る。「君を襲った男は、らい患者の姿であの前の日に院内に入り、ここで何かをしていた」
井戸の毒は酸性の薬物だったよ、と締めくくった。
「アデル、お前がもみ合ったとき、何を見たか覚えておらんか」 と司祭が言った。「何でもいい。あいにくと、顔に包帯を巻いておったらしく、情報が曖昧でな。目の色や、肌の色、なんでも構わん。覚えていないかね」
 アデルは思わずうなだれてしまった。そう言われても、これと言って何も覚えてはいないのだ。あえて言うならば、そう――微かなことしか。
「……目が、灰色でした」 随分迷ってから、アデルは言った。
「ほう、それから?」
「………肌は白かったと思います」 どうしても曖昧になってしまう。恐ろしい事を思い出すと、おのずと身は竦むもので――腕を抱きながら、アデルは目を閉じた。「ゆ、指が粉っぽかった」
「粉?」
 主教が顔を上げた。院長も同じ顔をしている。その隣の助祭は顔をしかめており、アデルは首を振った。「勘違いかも」
「続けて、アデル」 主教がアデルの手を包みこんだ。「どういう意味だい?」
「く――首を絞められたとき、変な感じがしたんです。いやにがっきと掴まれたっていうのか、包帯ごしなのに」
助祭は眉根を寄せている。アデルは縮こまりそうになった。相手の深い皺がまるで作りものみたいだ。
「――指輪をしていました」
「どんなものだ?」
 司祭のひとりが意気込んで訪ねた。今度こそ、アデルは小さくなってしまった。そんなに革新的なことは覚えていないのだ。「判りません。包帯の下だったから。けれど、締められていてそう感じた。ひどく痛かったんです。硬いものを首の右の筋に押し付けられてるみたいな」
「すると左手だね」 と、主教が言った。「良く思い出した、アデレード」
 司祭がぶつぶつ口の中で言いながら去って行く。君ももう少し休んだら、部屋に戻りなさい、言い置いて主教は立ち上がろうとした。
「待って下さい」
 アデルはその手を引き止めた。主教が黙って足を止める。アデルはベッドから身を乗り出した。
「し――主教様、あそこに来てくれましたか?」
 すると、主教はアデルに向き直った。思い出したのだ。数日前、アデルが襲われたとき、最後に声が聞こえたのを。(アデレード) そう言っていた。(もう大丈夫だ、よく頑張ったね)
「何処へ?」 と主教は訊ねた。
 アデルは俯いた。思った通り、ていのいい夢だったのだ。あんなとき、修道院の水汲み場なんかに、主教自身がのこのこ来てくれるはずがない。アデルは黙って捕まえていた手を離した。
「何でもありません」 呟いた。「お声がしたように感じたものだから」
 主教はじっとアデルの顔を見つめている。迷子の子供と出会ったような、その子供が、家も名前も分からないと言ったような――そんなときのように。
椅子を引き、もう一度ベッドの横に腰掛けると、言った。
「行ったと言ったら」
 その言葉に、アデルは思わず目を見開いてしまった。主教は笑っている。それでアデルは勘付いた。もう、お人の悪い――からかっているのだ。
「勘違いです。忘れてください」 
「行ったよ」 主教はもう一度繰り返した。「騒ぎが聞こえてね。でも、よく覚えていたね、アデル」
「……」
 もう忘れなさい、主教はアデルの前髪を撫でると言った。「悪い夢を見たと思えばいい。首の傷も、じき癒える」
 ええ、アデルは思った。でも多分一生忘れられないわ、心の中で呟いた。良い意味でも、悪い意味でも――
「おやすみ、アデル」
 言い置いて主教が去って行く。アデルは首の包帯に手をやると、そっと目を伏せた。

       20

「タコっ毛、調子はどうだ?」
 翌日、ようやく作業場に顔を出したアデルに僧侶はそう言った。今朝は田園で藁束を積んでいる。フォークのような農具を振り回しており、積み藁を作っているのだ。「まだ包帯巻いてるのか」
「痕になってるもの」 と、アデルはしおれた。「よく見たら凄いの。本当に、殺されかけてたんだって今更ゾッとする。ギュスタンは?」
「あいつは積荷場」 と僧侶は答えた。「伝えておく。どうせ礼だろ?」
「………」
 アデルは咳払いした。こんな時、急に素直になるのはどうも口幅ったく感じるものだ。「あ――あんたも」 と言った。「感謝してるわ。一応ね」
おう、と背中で男は返事した。
「ねえ、見付かったの?」 試しに訊ねてみた。「あの男。逃げたって聞いたけど…」
「服はな」 男は手を動かしながら答えた。「表の、溝の中に突っこんであった」
 あの男はらい病患者ではなかった。包帯の下から、僅かに見えた肌が綺麗だったのだ。荒れのない肌。お陰でらい病患者は数日前から門前払いされている。得られるのは門前の施しだけだ。
「ねえ、あいつ、何が狙いなのかしら?」
「さあな」 と、男はぶっきらぼうに答えた。「たちの悪い悪戯だろ」
「そんな単純なわけないわよ」 アデルは首を振った。「あんな込み入った手口で、危険を冒してまであんな真似したのよ? 何か目的が有るに決まってる。だったら、何が――」
「アデレード」
 俄かに厳しい声音で、男が言い放った。それはまるで、叱責のような口調だ。珍しく真っ直ぐにこちらを見ると、僧侶は言った。「この件はもう詮索するな」
「……」
 アデルはうっかり言葉を失った。だが、とっさにカッとなる。そりゃそうかもしれないけれど――「何であんたにそんなこと言われなきゃならないのよ!」
「お前の身のためだ」 と、僧侶は続けた。「当ててやる。どうせこの件を上手いこと片付けりゃ主教様への印象バッチリ! とかそんな所だろうが、甘いぜ。そんな事して主教が喜ぶと思うか? この件は――この件は、言っとくがもう一人死人が出てる」
 らい病患者のことだ。アデルは息を吸い込んだ。
「お前と同じだよ」 と、男は頭巾を目深にずり下ろした。「首を絞められて、ついでに頸の骨をへし折られて森の脇の古溝に転がされてた。見付かった外套はそいつのだ。どういうことか、判るな?」
「………」
「判ったら関わるな」 と、男は重ねて言った。「今度は痣じゃ済まない。万一のことが有ったら、主教が――愛しの主教様が、どれだけ嘆き悲しむか判るな。判ったら引っ込め」
 アデルはその場に棒立ちになってしまった。

 その晩、アデルは部屋に引きこもっていた。夜半の祈りを、先三日に渡って特別に免除されたのだ。本当は行きたいのは山々なのだが――先日の、不審者の一件で院内は必要以上にぴりぴりしている。これでのこのこ表に出て、頂上の教会まで行こうものなら、モリー院長に縛り首沙汰だ。
「酷い痣。あんた、ホントに死んだかと思ったわよ」
 ローザがアデルの首に薬を塗りこんでいる。うっ血した首筋に、薬湯をさすっているのだ。おまけに指輪のものか模様のような痕まで付いており、「三日間、主教様はお預けね。我慢しなさいよ、アデル」
「……」
 侵入者の噂はまたたくまに院内に広がっている。封鎖された井戸に撒かれた毒物は、どうやら正体つかめずのようらしい。一見すると、沼地のラッパズイセンから獲られる毒薬らしいが、だとすれば一口で痺れと嘔吐、全身麻痺を起こす。
「しっかしさ、ヘンなんだよね」 と、ローザが言った。「どうして修道院なのよ? 毒撒くなら、もうちょっと気の効いたところに撒いたほうが効果的なんじゃない?」
「効果的って?」
「――つまりさ、主教座とか」 ローザははばかりながら言った。「それ考えたら、悪質な悪戯みたいにも感じるけど。流石にはばかったってことでしょ? 上長に毒を盛るのはさ」
「……」
 アデルは俯いた。そう考えて良いものか、とは思いもするものの、昼間の言葉が耳から離れないでいたのだ。(判ったら引っ込め。関わるな、アデレード)
「しかもどうしてあんな毒なのよ? あれ、かなり貴重なのよ。しかも強酸性で扱いは危ないし――わざわざあんなの盛る?」
「…毒に詳しくないから」 と、アデルは呟いた。そう、だから余計に何かが引っかかっているのだ。何か見落としてしまっている――そんな気がしてらない、というのか。
 薬の知識は、もっぱら医師か商人の分野だ。しかも富裕な商人層でなければ、毒物の輸送と扱いは認められない。アデルの家は小さな商家だから、そんなものからはとんと疎遠で――
 いや、一人居る。アデルは思った。認めたくないし、死んでも関わりたくないけれど。約一名、そんな毒薬にも関わることの出来る人間が居る。
 アデルは立ち上がった。考えていても仕方がない。本音を言えば反吐が出るが、この際、背に腹は変えられまい? シブっているうちに、もし万一のことが有りでもしたら、悔やんでも追いつかないのだから。
「アデル?」
 アデルは鞄から紙束を引っ張り出した。ここに来る前に、家から持ち出して来たものだ。上等な質感の紙に羽ペンとインクが少々。クライスラー家の封印がひとつ。
 あの男に聞いてみるしかない、アデルは机に向き直った。

       21

 修道院は、外界との交流を基本的には禁止されている――
 翌朝、アデルは朝一番に院を抜け出すと、初めてふもとへ続く坂を駆け下りた。郵便は、坂のふもとの関所で預かりを許されている。門番に小銭と一緒に手渡してやるのが一番簡単なやり方だが、アデルはあえて素通りすると町まで飛び出した。朝一番の市の支度をする町を駆け抜け、町の下層にある町長の屋敷まで走りこむ。
「アデレード様?」
 修道女姿のアデルを見て、使用人はあっさりフィッツの所に通してくれた。彼は裏庭で愛馬の世話を焼いている。息切れしているアデルを見て、ピンと来たらしい。世話の手を止めると、フィッツはアデルに向き直った。「お願い――頼みがあるのよ、手を貸して、フィッツ」
「何でもどうぞ」 とフィッツは笑った。「幼馴染の頼みだよ。言ってくれ、アデル」
隠し持ってきた手紙を彼に預けると、アデルは院に慌てて帰った。幸い誰にも見咎められず部屋に戻る事が出来る。「ホントに調べる気なの?」 ローザが顔をしかめており、「うん」 とアデルは頷いた。やっぱり、一晩考えてみたけれど、手を引けと言われても簡単には引き下がれないのだ。大切な人の命が関わっているなら、なおのこと。
『親愛なる御方、トゥーズのいと高貴なるベルナンド卿閣下殿。素晴らしいお手紙と頂いた贈り物のお返事を差し上げるのが遅れた事を、悔いておりますわ。院を訪れてはやひと月、故郷の空気を恋しく感じております。昨日、私の身を預ける修道院に不穏な出来事が有りました。何者かが、井戸に得体の知れぬ毒薬を投げ込んだのです。恥ずかしながら、小さな商家の無智ゆえに、医薬に関する知識もなく、私はただ怯えるばかり。お会いする前にこの身を傷められてはと思うと夜も眠れぬ心地です。封に揃えて閉じましたのは、その汚された忌まわしい井戸水です。浅ましいお願いとは存じておりますが、この医薬に関する知識と警告を、私に授けては頂けないでしょうか。ベルナンド殿の深いお心と知恵をお借りしたく祈るばかりでございます。貴方の妻、アデレードより』
「よくもまああそこまで並べ立てたもんよね」 ローザは唸った。「見るのもご免なチョビ髭のクソ成金野郎だなんて言っといて」
「必要なら幾らでも並べ立ててやるわよ」 アデルは睨んだ。「命がかかってるのよ。体裁はナシ」
 教会は、今朝はしんとしている。件の一件で、おのずと警戒態勢に入っているのだ。主教はいつになく無表情な顔をしており、空気全体が固まったように重苦しい。アデルは諦めて院に戻った。
「ギュスタンさん」
 院の外で、今日もギュスタンは積荷仕事をしている。がっしりと鍛えた背中をむき出しにしており、穀物の入った麻袋を荷台に整えて居るのだ。アデルを見るとニッコリした。「おお、アデレード」
「この間はありがとう」
 すると、ギュスタンは汗で濡れた顔をぴかぴかさせた。「もう聞いたよ」 と笑う。「改まることはない。大切な仲間だ」
 アデルはそっと頷いた。
「例の薬の件、どうでしたか」 思い切って訊いてみた。「院では、その噂で持ちきりなんです。どうして院に撒いたんだろうって」
 すると、ギュスタンは途端に笑顔を引っ込めた。
「怒らないで」 アデルは重ねて言った。「危ないから、あいつが手を引けって。判ってます。でも心配なのよ。主教様に、何事もないかって。それが一番心配なの。私――私」
「アデル、お前さんは何か勘違いしてるようだな」
 アデルは思わず顔を上げた。ギュスタンは穏やかに唇の両端を吊り上げている。「主教のために、俺たちが居るんじゃないぞ」
「……」
「主教が一番心配してるのは、俺たちだ」 と、ギュスタンはアデルを指さした。「修道院、施療院の患者たち、町の人間、巡礼者。むしろ主教座に毒が出なかったことに、あの人は一番心を痛めとるんだ」
井戸のことは心配要らん、ギュスタンは大らかに笑った。「番人を雇って、新しい水桶を用意させた。大丈夫だ。町では子供が悪ふざけして中で遊んどるよ」
 アデルは黙っていた。ギュスタンは積荷を楽々と積み上げしている。「判ったら、もう気にするな。主教も――そう願っとる」
 主教座の外壁に白いタピスリーが翻っている。まるで、主教様が一緒に頷いているみたいだ。これ以上話を続けることも出来ず――アデルはそっと頷くと、黙って修道院に踵を返した。

       22

 それから数日間、一見穏やかに院内の生活は進み始めた。
 変わったところといえば、せいぜい、門前にはっきりと素性の知れた僧侶や修道女が立ち並び、院内に出入りする人間をチェックするようになったことくらいだ。それも緩やかなもので、あくびをしながら監視している者もいる。もとより、誰も死ななかったから、いいじゃないというのったりとした空気が漂っており、良くも悪くも教会の特徴なのね――アデルは思った。神学論以外に関しては、ことごとく認識の疎い集団。
「アデレード、手紙が届いていますよ」
 三日後の昼、院長様に呼び出され、アデルは封書を受け取った。早馬でやりとりする速達は、通常、どんなに早くても十日で往復がざらだ。三日って…ヨレヨレの手紙を手に、アデルは嫌な唾を飲み込んだ。まあ構うまい。こういう情報は、早けりゃ早いに越した事が無いもんよ。
 熱烈なラブレターの部分を綺麗にすっ飛ばし(腸捻転でも起こしそうだ)目的の趣旨を拾う。「解析の結果、あの毒は特殊なもので、一般の港には着けておりません。ラッパズイセンに酷似した反応を持つ、ウィンダナミアのサルスベリの皮から抽出される即効性の強酸性毒物です。解毒の有効な対処無く、実に危険。水に溶け込ませればキツネ臭が消えるため、気付くのは困難。対策としては、クエンの葉の成分を加えると青く変色することであり、従ってクエンは点眼薬に含まれているため、数滴それを垂らしてみるとよいもよう。万一服した場合は、即座に真水で胃を洗い、薄めた牛乳で口を漱ぐこと」
「やるわね、あの成金」 アデルは指を鳴らした。「あの偽らい病患者は、オルドの外からだけじゃない、これが手に入るウィンダナミアの方面から来たのよ」
 夕方、アデルは思いっきりドアノブに右目をぶつけて叫んだ。目がぁ! 目がぁあ! 悲鳴を上げるアデルに院長はうんざりしている。「何をやっているのですアデレード!」
 しこたま点眼薬を手に入れ、くまどりの付いた目で教会に向かう。祭壇の前では、主教が祭具を整えており、アデルを見るとポカンとした。「アデレード」 と言う。「どうしたんだい、可哀相に」
 主教は今朝は珍しく左手に包帯を巻いている。滅多に怪我するはずがないのに、おまけにどこか痛そうだ。アデルは訊ねた。「主教様、お怪我が」
「段差を踏み外してね」 と、主教はのほほんとするように笑った。「法衣の裾を踏んで転んでしまった。年は取りたくないものだよ」
 そして、アデルの頬を大事そうに撫でると言った。
「点眼薬を貰いなさい。可愛らしい顔に、傷をつけてはいけないよ。今夜は大事に」
 アデルは口を開けていた。やっぱり品行方正だ。揺れる前髪のひとつまで、完璧の風体。主教は身を屈めると、アデルのくまどりにそっと唇を当てた。
「君の怪我が早く治るよう神にお祈りしよう」
 ああ、こんな思いが出来るのなら両目に痣くっつけても幸せ――
 おかげでアデルは言うべき事をすっかり忘れて帰って来てしまったのだ。

 翌朝、アデルは遅くに起き出した。教会には、平日も休日もあるようで無い。いつも通り、苗の入った箱を担いで院の外に出たアデルは、広場の水汲み場で人だかりが出来ているのに気付き、ポカンとした。悲鳴のような声が上がっている。
「どうしたの?」
 レオノールが、アデルに気付き走ってくる。その顔が蒼白に引きつっており、アデルはピンと来た。「町長様の息子が」 とレオノールは言った。「馬が、馬が――」
 なんですって? アデルは苗を放り出し駆け出した。人だかりを押しのけ、無理矢理群集の中にねじ入る。
「フィッツ!」 アデルは叫んだ。町長の息子と言えば、彼以外は他に居ないのだ。鋭い嘶きが上がり、群衆からキャーッと悲鳴が上がった。「下がれ! 馬に蹴飛ばされるぞ!」
「フィッツ!」 アデルは前に飛び出した。水汲み場の横に、小柄な馬が倒れている。胸周りがぜいぜい上がっており、苦しんでいるのだ。アデルに気付き手前の青年が振り向いた。「アデル、来るんじゃない!」
アデルは構わず駆け寄った。倒れているのは彼の馬だ。主教が必死で人ごみを押し返している。「下がれ! 下がりなさい!」
水汲み場に誰かが毒を投げ込んだんだ! 野次馬のひとりが悲鳴を上げた。途端にパニックが生ずる。「ここから今朝施療院に水を持っていったんじゃないのか!」
アデルは反復していた。ウィンダナミアから来た毒物。あの偽のらい病患者。またか――アデルは視線を飛ばした。きっとまだこの近くに居る!
「真水を!」 アデルは声を限りに叫んだ。「レオノール、牛乳を――何でも良い、ヤギでもヒツジでも何でもいいから持ってきて!」
再び馬が足を横に蹴り上げた。必死にフィッツが馬の脇を押さえようとしている。「帰りしな水を飲ませた途端これだ! 畜生、何を盛った! バルト!」
 レオノールが転びそうな勢いで乳を持ってくる。背に腹は変えられない、アデルはそれをジャグごとバルトの口に流し込んだ。途端に吐き戻し、暴れが酷くなる。「飲むのよ! バルト」
二回、三回、嘔吐のごとに馬は少しずつ大人しくなり始めた。フィッツが目に涙を浮かべている。バルト、可哀相に――死んでしまうのだ。だが、アデルはそのとき呼吸が落ち着いてきているのに気が付いた。
「……アデレード」
 主教が棒立ちになっている。ややあってから、馬はよろりと身を起こし起き上がった。
「……どうなってるんだ」
 フィッツが呟いた。足元に、馬の吐き出した乳が固形化し始めている。チーズのようで、毒と融和して乳酸が固まったのだ。アデルはポケットから点眼薬を取り出すと水汲み場に投げ込んだ。みるみるうちに水が薄青く染まり始める。
「……!」
 今度こそ、パニックは待ったをきかなかった。誰かが声をあげ、途端に町人が金切り声を上げて後じさった。蜘蛛の子を散らすようにばらばらと逃げていく。
 レオノールがショックで卒倒してしまった。騒ぎを聞きつけたローザが、変色した水を見て呆然としている。すとんと座り込んでしまったアデルを、主教が抱き寄せた。
「アデレード」 と主教が言った。酷く低い声だ。周囲をはばかるように耳打ちすると、彼は言った。「すぐに私の部屋まで来なさい――いいね?」

       23

 主教の部屋は、ベルタン教会の建物の裏側、一番奥手の小さな庭に面した場所に有った。丁寧にツル性の植物が糸に絡められ、滝状になって窓にすだれを作っている。思ったより簡素で大人しい部屋にアデルを招き入れると、主教は怖い顔で言った。「どこで知った?」
「……」
「アデル、君はあの毒が何かを知っていたね」 と、主教は言い直した。「オルドにはあの成分の毒薬は見られない。あの毒は、強酸性のスイセンのものではない――どこでその知識を手に入れた?」
 アデルは思わず声を失ってしまった。数日前の、主教の手の包帯は、そのせいだったのだ。調べようとして、誤って酸で火傷をした。
「アデレード」
これまでに聞いたことのないほど厳しい声だ。緊張を堪え、アデルはそっと言った。「て――手紙で、知人に尋ねました」
「手紙?」
「私の家は商人なんです」 アデルは目を伏せた。明け方、抜け出して速達で手紙を出したこと、その返事に、毒薬の正体が書かれていたこと、全てを話すと主教は目蓋を抑え深々と溜息を吐いた。呆れ返ったような、困りきった顔をしている。
「心配だったんです」 と、アデルは続けた。どうしてか、目尻がひどく熱くて仕方無い。「友達にも――僧侶です。ギュスタンさんにも、危ないから嗅ぎまわるなって言われました。でも、不安で」
「……」
 ポケットに念のため入れていた手紙を手渡すと、主教は顔を上げた。
「アデレード」 と、アデルを叱るような目で見る。「お前は事態が分かっていないね。あの毒薬は、このオルドでも、ミストでも、北方領主の治下にも無い毒物だ。平たく言うと、密輸されたものだよ」
「………」
「誰も知るはずの無い毒薬だ」 主教は続けた。「お前だけがあの状況下でそれを知っていた。つまり、真っ先に疑われるのは、お前自身なんだ。教会の嫌疑は異端審問の対象になる。君はここを魔女として出て行きたいか?」
 大粒の涙が零れ落ちた。
「アデレード」 主教は溜息を吐いた。「君は当面この部屋に居なさい。可哀相だが、私の身辺整理を命じる。今日の事はどうにか誤魔化しておくから、君は暫くの間――十日ほど、修道女ではなくこの館の下女だ。わかったね」
 聖女には修道女しかなれない。つまり、どんなに近くに居てもアデルは当面こま使いということだ。
 他にどうしようもなく、アデルは頷いた。

 数日振りに修道着から離れると、奇妙な感覚がするものだ――
 それから、一時的にアデルは部屋を開け、主教座で生活することになった。やることは普段と似たようなものだが、険しい労働や祈りがまるで無い。掃除をし、洗濯をし、料理をつくり、ただ働き、寝る前までに全ての寝具を整え、明かりを灯して引っ込むだけの本物の下女扱い。
 薄い桃色のスカートに、髪を隠さなくてもいい三角巾。ローザは主教の仕打ちにカンカンになっている。レオノールも、意外なことに院長も同感らしく、院への立ち入りを一時的に禁じられたアデルを見ては溢している。「どうしてなのよ? 死人が出るところを救ったって言うのに」
 あれ以来、ほとんど全てのオルドの町人が、点眼薬を常備するようになった。幸いなことにアデルの名前は漏れておらず、たまたま居合わせた博学な修道女が町を助けたということになっているらしい。井戸の前で点眼薬を売る人間まで現れ――さあ、命の管理に目薬だ。買った、買った!
 しばらくの間、アデルは町を自由に行き来出来るようになった。俗世を忘れなくても良い下働きだ。下町には、ごまんと人が溢れ返っており、市の賑わいや大道芸、子供のはしゃぎ声から喧嘩で盛り上がっている。綺麗なアクセサリーをこっそり買うのも有り、いやらしい会話に華を咲かせる男達や、酒臭い飲み場で雷のような笑い声と喜劇を立ち聞きするのもお咎めなし。自由時間の多い一週間。
だが――
アデルはこれ以上無いほどにどん底だった。主教は、この数日間、アデルと口もきいてくれない。下女は仲間――教会関係者でもなければ、女でもないというのが定義らしく、おやすみなさい、と挨拶しても返事はなしだ。アデルはすっかり萎んでしまった。好きな人に無視されるのは身を切られる苦しさだ。
 フィッツの居る町人の館は、下女姿のアデルを隔てなく迎えてくれた。気になっていたのだが、フィッツの馬は――バルトは、大分元気になっているらしい。手当てが早かったのが幸いした、とフィッツの父親が言ってくれた。「賢くなったな、君は町を救ったんだよ。アデレード」
「主教様には古今東西の馬鹿と思われてるみたいです…」
町の監視はあれから強化しているという。客間に通され、甘いお菓子とお茶を手に、フィッツは言った。「今回の件は、本当に助かったよ。言い方は――良くないけれど、最初の発見者が、人間でなく馬で良かったとも思ってる」
それでも大分無理しているのだ。アデルは黙って首を横に振った。
 主教に無視され続けていること。今だに、どうも怒っているらしいこと。とつとつと溢すと、フィッツは笑顔になった。「それは主教なりの考えがあってのことだよ。万に一つでも君が疑われて、審問に引き出されるよりは、自分の側で庇って隠しておいたほうがいいと踏んだんじゃないか?」
「……」
「恨むなよ、アデレード」 フィッツは笑っている。「君だってどうせ結婚するだろ。それまでに何か有ったら、身柄を預かっている主教もいたたまれない。あの人は賢い人だよ。身なりはああでも」
「どうせなら息子の妻になってくれば言う事が無いんだがな!」
 町長である父親が豪快に笑いながら去って行く。そうしたいわよ――内心、アデルは思いながら屋敷を後にした。とにかく、早く修道女に戻らなくては。本当に期日は迫ってきている。
 オルドの酒場は蜜酒と穀物酒で溢れている。とぼとぼと、見かけた花を買って帰路に着こうとしたアデルは、酒場に見知った顔を見つけ足を止めた。
 あの不良僧だ。
 テーブルに車座になり、男は酒を傾けている。ギュスタンらしい男が笑っており、こんなところでサボっていたのだ。アデルは扉をくぐった。
「ちょっと、ねえ――」
 すると、相手は顔をあげ面と向かって酒を吹き出した。おかしいのではない、大方驚いたのだ。「タ――タコッ毛」 と言った。「謹慎乙女、何やってる」
「それはこっちの台詞よ、くそったれ」 アデルは毒づいた。暫くの間あんなところで無理をしていたものだから、悪い刺激が来るとタガが外れるのだ。テーブルの上の蜜酒を取り上げ、「何、こんな所でシケこんでんの?」
 ギュスタンが、あっけにとられている。不良僧と顔を見合わせており、アデルはそのまま陶製の瓶をラッパ飲みするとしゃっくりをした。「美味い。ここのお酒って良い出来なのねぇ」
「……タコッ毛」 僧侶が言った。「お前、飲めるのか?」
 アデルはどんと足を鳴らした。ついでに隣の男の口から煙草を取りあげてくゆらせてやる。「当然でしょ? 商家の娘なんて、それが生き甲斐よ。昼はお洒落して、読書するフリして、したくもないゴシップ話に花咲かせて、夜は酔っ払って賭けをする。誰か私の特技見たい奴居る?」
 ニヤニヤして男が数名手を上げる。「マッチ貨しな」
 何を――僧侶たちは半分引いている。手近な酒を口に含むと(おあつらえ向きのリキュールだ) アデルはマッチを擦り、出し抜けに思い切り天井に向かって火を吹いた。悲鳴と同時にどっと歓声が上がる。
「アデレード!」
 ギュスタンが悲鳴を上げている。おい――止せ! 止めようとした僧侶の頭巾に思い切り火を吹きかけ、アデルは叫んだ。「ふざけんじゃないわよ! 恋したあたしが馬鹿だった!」
 誰の為だと思ってんの? 違反して、手紙まで出して嗅ぎまわって! アデルは気が付くと叫んでいた。「あの天然鈍感の白髪野郎、もう五日もシカトよ、シカト! したくもない結婚から逃げ出して、ガラにも無い仕事して、もう限界。女としてじゃない、ありがとう、くらい人として言えないっての? 骨盤に穴さえ開いてりゃ人間ですら無いなんて女ナメてんじゃないよ!」
 僧侶が頭巾を脱ぎ捨てた。アデルが吐き出した火が引火して収まらなかったのだ。ギュスタンがすかさず自分の頭巾を男に被せた。
 アデルは、その時男の素顔を見た気がした。煤にムチャクチャに汚れたような顔、だが、その髪は灰色だ。まるで、主教が頭から灰でも被ったみたいな――
「いい加減にしろ」 男は舌打ちして唸った。「フラれた憂さでクダ巻いてんじゃねえよ」
 だが、酔った勢いとは怖いものだ。アデルは遠慮なく相手を凝視すると、叫んだ。「そのツラが今はムカつくのよ!」
言うなり渾身の力を込め、思いっきり僧侶の横っ面を張り飛ばす。ガッシャーン! 勢い余ってテーブルの上にもんどり打つ僧侶を尻目に、ボトルを鷲掴みにすると、アデルは悠々とその場を後にした。
 
       24

 翌日――
 アデルは昼過ぎまで、床で唸る羽目になった。久々に飲んだアルコールが脳天を突き抜けたのだ。酒臭いアデルを、不干渉で主教は放って置いてくれ(もはや呆れて言葉も出来なかったのかもしれない) 夕方にアデルはフラフラになって主教の部屋に行くハメになった。箒がけはともかくとして、ベッドメークだけは行わなくては。
 主教は、今日は書き物机の前にいる。聖書を手に何か記しており、アデルを見るとちょっと笑った。だが、いつも通りあとは無表情だ。仏頂面とも言える無視の空気。
 ベッドを整え、ついでに枕カバーを取り替える。ジャグの水を持ってきたものと取り替えると、アデルはそっと言った。「おやすみなさい」
「おやすみ」 と、主教は言った。「ここ六日間、よく頑張ったね」
「……」
 アデルは顔を上げた。主教はこちらを向いている。アデルは俯いた。「ありがとうございます」
「今夜からは院に戻りなさい」
 アデルはポカンとした。主教は久しぶりに笑っている。「神の元の生活に戻りなさい。少しは息抜きになったかい」
 アデルは思わず目を見開いた。
「やはり修道女として、働く方が君には合っているよ。話し相手が居ないのは私も寂しい」
 アデルは黙っていた。主教はじっとこちらを見ている。その顔は、いつもの主教様の顔だ。優しい、品行方正な主教の顔。
「…はい」
 どうしてか涙が出てきそうになって、アデルは堪えた。どうして――こう完璧なんだろう? たまに憎らしくなる。本当は、さっぱり嫌いになりたいのに、そっぽを向きたいのに、それを許さず引きとめる主教の笑顔。
「戻る前に祭壇に祈りなさい」
「はい」
「それと」 主教は付け足した。子供の悪戯をとがめるような笑顔だ。「もう飲酒は慎むように、アデレード」

「アデル! アデルじゃない! お帰り!」
 久々の修道着を着て、部屋に戻ると、ローザは歓迎のコールを行ってくれた。隣室の先輩や仲間たちまで飛び出してくる。「どうだったのよ、主教の世話は?」
「最低」 アデルは舌を出した。「あんなのもう二度とごめんだわ。私はこっちの方が合ってる」
「そうでしょうとも」 とローザは鼻に皺を寄せて笑った。「あんたが居ない間に、こっちは色々と盛り上がってたのよ。たんまりゴシップ集めておいたわ」
 レオノールがにこにこした。「たまには役に立ちました」 と言う。「施療院で聞いたの。主教様は、双子だそうです」
 アデルは思わずあっけにとられた。
「うりふたつの双子の兄弟が居るんですって。レオノールの親がそう言ってた。私たち、昨日まで施療院係だったの」
「親も大分良くなりました」 とレオノールは笑った。「アデルさんのチョコレートのお陰ね、少し太ってます」
 アデルは思わず微笑んだ。そういう話題はありがたいものだ。明日はアデルが施療院に行く係だという。「暗くて、正直、ちょっと恐いイメージがあったけど、患者さんたちはみんな良い人たちよ」
「シーツも増えてきてる」 と、先輩が言った。「誰かが綿を増やしてくれてるんですって。この分だと、今年の冬には、一人一枚のシーツと毛布が行き渡りそう」
 あいつ――アデルは思った。あの不良僧。あの日思い切り酒場で張り倒して来たけど、意外と頑張っていたのだ。深夜に摘芯をして、綿の花を増やそうと頑張って。火まで吹きかけてきちゃったけど、悪いことしたかしら?
「主教様には謝ったの?」
「ううん」 アデルは首を振った。「自然に許してくれたみたい。それとも、みんなわざとだったのかも」
 ローザはきょとんとしている。アデルは窓の外を見た。
「……それと、もう一人謝らなきゃいけない人間が増えたみたい」 と、アデルは呟いた。

 破戒僧は、今日はどこにも居なかった。ギュスタンはアザミをせっせと摘んでいる。菜園に二人分の籠は転がっているのに、あの男の姿は見当たらず、思い切ってアデルは訊いてみた。「あいつは…?」
 先日の件で軽蔑されていると思っていたが、ギュスタンは大らかだった。呑気に笑い、作業している。「今は街まで出とる。日課だよ、この時間はいつも飲みに行くのさ」
 呆れた、アデルは眉を下げた。謝ろうと思ってきたのに。
「アデル、お前もたまには抜け出すと良い」 と、ギュスタンが言った。「ここじゃ良くも悪くも、規則、規則の一辺倒だからな。たまには思い切り笑って、怒って、自然な表情をしてくるといい。お前はその方が魅力的だぞ」
「……」
 ギュスタンでなければ、皮肉に聞こえる言葉だ。頷くと、アデルは院の外に出た。夕闇に紛れて、ベルタンの聖堂が輝いている。金十字が輝いており、アデルはその足で坂を登り教会へと向かった。
 教会の前は、今は閑散としている。奥から歌のような詩篇が聞こえており、司教たちがみな夕べの祈りを捧げているのだ。風にのって流れて来る詩篇を聞いていたアデルは、はっとなった。
 主教が前庭に立っている。
 教会の前庭は、下から見ると、わずかにせり出しのようになっており、前庭の隅に居れば、立っている人間の姿がはっきりと判る。法衣を翻し、佇んでいるのだ。やっぱり堂々とした聖職者――
だが、その横に、アデルは見慣れない姿を見た。
女性が立っているのだ。夕日に紛れ髪の色は判らないが、素晴らしい美貌の女性。毛先の巻いた髪を結い上げており、裕福な家の女性のようなドレス姿で佇んでいる。遍歴の貴族だろうか。
 その女性が、主教の頬に手を伸ばしているのを見た。
 アデルは呆然としてしまった。二人は、こちらに気が付いていない。まるで、恋人同士のように身体を寄せ合っている。女性が背伸びして、主教の頬に口づけしたのが見えた。
 あとは何も見ていなかった。無意識のうちに踵を返し、走り出す。見付からないうちに、院の門に飛び込み、アデルは木陰で座り込んだ。
(もう主教様には決まった人が居るんじゃないかって、中庭で歩いてたのを見た人が居たわ、本当よ)
 まさか――まさかとは思っていたけど、本当だったなんて?
 言葉が出てこない。アデルはそのままその場にしゃがみ込み、顔を覆ってしまった。

       25

 それから三日と言うもの、アデルは食事と言う食事が喉を通らなくなってしまった。
 覚悟はしていたけれど、ダメージが大きかったのだ。フラフラになりながら説明したアデルの言葉に、ローザはあっけにとられている。労働も黙々とこなし、言われた事は諾々と従うが、食事ばかりがてんで駄目だ。まるで、ぴしゃりと体が受け付けなくなってしまったみたいに。
「死ぬわよ、あんた!」
 特別に許可を貰い、部屋に持ち込んだ食事を差し出し、ローザが喝を入れている。レオノールは心配を通り越して半泣き顔だ。どん底の反面、こんなに弱いとは思って無かったけれど――いやに冷静に、アデルはそっと自分を静観していた。木々の葉が冬枯れしてこそげ落ちるように、衰弱するような感覚だ。ただ強い鐘のように、振動が体から抜け切らないまま響いているみたいな。
 不良僧は、ここ数日間、積み荷場で乾燥したトウモロコシの粉を袋詰めしている。袋落ちした粉末を、鳩が集まってつついており、賑やかな限りだ。四日後の夕、仕事を抜け出し顔出ししたアデルは呆れてしまった。また懲りずに一服やっている。耳にも煙草を引っかけており「タコッ毛、やるか」
「貰うわ」 アデルは答えた。黙って耳から煙草を取りあげ、火を掠める。「疲れちゃったわ、なんだか」
「禁欲にもそろそろ限界か」
 男はニヤニヤしている。先日、思い切り殴ってやったので、幾分恨んでいるかと思えば変わらずだ。「酒も甘味も遊び禁制。聖女なんて妄想は解けたろ」
「うん」
 男はちょっと顎を引っ込めた。アデルの顔を見て、途端にうんざりしたような顔をする。「何だよ。また問題か。愛しの主教様?」
「そんなものじゃなかったわ」 とアデルは言った。
 足元を、鳩が小麦をついばみながらうろついている。つま先でかき集めてやりながら、「酒も甘味も遊びも、主教様は禁止なんかされてなかった。聖女なんて作り話よ」
 すると、男はぷっと吹き出した。返事の代わりに麦袋を担ぎ上げる。「進歩だな。主教も所詮は人間だよ。酒だってやるし、食い物もがっつきゃ女遊びもする。聖女なんて、所詮格好付けた人柱だ。お前みたいな奴が居るから、主教が真面目で完璧に見えるのさ」
「……」
「教会で麻薬作ってる理由が判ったか」
 アデルは顔を上げた。それはちょっと――違うんじゃないの、と言おうとする。「この町でどんだけ物が生産出来るか分かるか。市場を潤すのに、最低で年間酒三百樽、絹五百反、ガラス百五十枚が必要になる。ここで生み出せるのはそのおよそ二割以下だ」
(年に樽五百樽、絹一千反、鉄及びガラス三百枚、その他年間にして銀二万リノ以上の生産を見込む土地――)代官の言葉を思い出した。
「神の名のもと、僧侶たちにクズを食わせ穀物を搾り出し、教会の名のもとそれをかき集めて町の外に流出する。信徒たちに限界を強いて回るのがこの町、オルドだ。施療院の運営に町の自治。生きてくためにそれを選んだのさ。禁欲なんて嘘っぱちだってな」
 アデルは顔を上げた。どういうわけか、急にむかっ腹が立ってきたのだ。何なのよ? 普段ミソクソに言うくせに、今日に限って知ったような口をきいて。
「じゃあこんな町詐欺の塊になるわ」 アデルは言ってやった。「資金不足で、主教が法律で禁止された煙草を作って、麻薬を育てて町の外に売り出してる? なら女は何よ? そんな心の憂さを晴らしてくれる癒しの糧なの? ならきっと町には教会運営の娼館が有るはずだわ、笑わせないで」
 ばさんと男が袋を放り出した。
「何よ」
「そうだ。ここは詐欺の塊だよ」 男は吐き捨てるように言った。背を向けてしまう。「主教はその頭だ。期待するな。判ったなら、早くお前の故郷に帰れ、アデレード」
 それきり持ち場を離れてしまう。後ろ姿を見送りながら、アデルは呆然とした。

 その晩――
アデルはベッドに潜り込んだまま考えていた。ローザもまだ起きているらしく、喋りはしないがじっとしている。ここに来て、ようやく四十五日。アデルがここに居られるのはあと十日ちょっとだ。
(期待するな)
 あの男が言ったのは、人間として期待するな、ということだったのだ。アデルは寝返りを打った。主教はお前の抱くパーフェクトな人間じゃない、と。
 主教様。
 あの日、前庭で女性と立っていた主教の姿を思い浮かべた。特別な人間に、ごく稀に見せるような穏やかな表情。きっとあの女性が聖女候補なのだろう。品行方正な、主教に相応しい心の聖女。
 主教だって人間だ。アデルは思った。そも、人間的でない、逸脱した人間だと相手を仮定して――一方的な恋心を持って傍に居たいと願った方がおかしかったのかもしれない? それで予想が裏切られてがっくり落ち込んでいる? なあんだ、話が違うわよ、と。
 虫のいいのはこっちのほうだ。アデルは思った。そんな程度で諦めがつくということは、その程度ということ。聖女になれるかどうかは判らない――相手に好きな人が居ることも知っている。でも、それでも諦められないなら、どうしてもと心が叫ぶならどうしたらいい?
 アデルは起き上がった。ベッドの脇から旅行鞄を引っぱり出す。隠し持ってきた、化粧品入れとブラシを取り出すと、アデルは久々に鏡の前に立った。ここに来てからとんと忘れていた、身だしなみ。
「アデル?」
 靴を突っかけ、アデルは部屋を出た。その足で修道院の外に出る。夜明けは近く、じき二度目の礼拝が始まるのだ。アデルは教会目指して坂を歩き出した。

       26

 教会の礼拝堂は、今朝は相変わらず静かだった。複数の信徒たちが、めいめい跪き祈りを捧げている。立ち入ったアデルは、佇んでいるうちに、低い寝息やいびきのような声を聞き、少し吹き出した。なんだ、どこも一緒なのね。
 祭壇の前に主教は今日も佇んでいる。目を閉じ、うなだれているのは、他でもない、眠っているのだ。こんな特等席でも堂々と居眠り。手は完全に組み合わされロザリオを握っているのに、頭は深い眠りの中だ。もう少し早くに気付くべきだったかもしれない。
「――アデレード?」
 主教が目を開けた。ナチュラルに口を開く。さも瞑想していたように見えるのが秀逸なところだ。隣に座り、アデルは唇を吊り上げた。「おはようございます、主教様」
 主教は目をしばたいている。様子が――アデルの姿がおかしいことに気付き、やっと認識したのだ。「アデレード」 と笑う。「ヴェールを忘れているよ。神の御前にその姿は」
「主教様」 アデルは遮った。聖女なんてもういい。関係ないわ、そう思った。ここに来て、ただ必死で追いつきたい人の背を追った、それで良いじゃないの、と。ただもう本気で恋をして、一生分くらい誰かを想って苦しんだ。夢中でそのまなざしを捕らえようとした、それで良いじゃない、と。
「あの日、カレスの教会で見た時から想っておりました。アデレード・クライスラーは、あなたを愛しています」
 主教は目を見開いた。
 それは予想だにしない、明らかな衝撃。動揺が主教の目に浮かんでいる。もう――アデルは黙って立ち上がった。もうちょっとまともな反応をしたらどうなの。恐れおののくみたいな顔をして。
教会を抜けて立ち去る。唯一全てを眺めていた昇りたての日を見て、アデルは微笑んだ。(もうここには来ないわ)
主教様、最後に心の中で囁いた。洒落込んだ言い方をしたけど、これが私の本音。今もこれからも、きっとアデルの心の底に響いている言葉。
大好きよ、主教様――

 部屋に戻ると、ローザが起きていた。何があったのか大方悟ってベッドに座っている。アデルを見ると「おかえり」 と言った。「踏ん切りついたみたいだね、あんたも」
「ええ」 アデルは笑った。本当は、少しだけ涙が出ていたけれど、それも心の軽さに比べたら随分と楽なのだ。旅行鞄を開け、院長に見付かる前に化粧を落としてしまう。「ねえ、ここを出てからも友達?」
「そうしようと思えば」 アデルは答えた。「女は家庭に入ったら大変よ。二十年も経ってから、偶然どこかで鉢合わせて、お互いデブデブに太ってて「あらまあ!」なんて」
「いいかも」 と、ローザは笑った。「落ち着いたら会おうよ。あんたの故郷、カレスの港だっけ? 家継ぐんでしょ? それとも――」
「分からない」 化粧水で頬を叩きアデルは言った。「もしかしたら家を出るかも。手紙を寄越すわ。ローザ、鋏貸してくれない?」
 ローザは立ち上がった。髪なんてここで切るの、止しなさいね、と言う。書き物机の引き出しを引っ張り「ああ」 と唸った。「また。この間滑り粉付けたところなのに…」
ほとんどひっぺがすようにして引き出しを抜き出す。出てきた鋏にまで粉がついており、アデルは顔をしかめた。「ローザ、ちょっとは家事をしなさいよ」
「下男がみんなするんだもの!」 ローザは憤然とした。あんな気持ち悪い粉、手で受けるなんて絶対嫌。直接瓶からかけたら引き出しの中に充満するし、これでも息で大分吹き飛ばしたのよ」
「これは滑り粉じゃなくて滑り止めの粉よ。チョークって言って、重いものとか、ガラスだとか、滑りやすい陶製の瓶だのを持つときに手に付けて滑りにくくするものなの」
 アデルは諦めて鋏を指の腹で拭った。チョークが指に付きざらざらになる。服のスカートで叩いたアデルは、ふと手を止めた。
「どうしたのよ?」
(首を絞められたとき、変な感じがしたんです。いやにがっきと掴まれた、包帯ごしなのに)
 アデルは旅行鞄を振り向いた。ふと、漠然と思いついた事があってそうしたのだ。鞄には、家を出るときアデルが詰めてきたものが収めてある。こんなこともあろうかと思って、必要そうなものをあらかた持ってきたのだ。アデルは鞄をまさぐった。
 包帯を取り出す。手の甲にぐるぐる巻きにすると、アデル鋏を手で綺麗に拭ってやった。ついでに机の引き出しの中もそれで拭ってやる。
「何よ? 何してるのよ。掃除?」
 アデルは手を叩くと、試しに左手を右手で掴み引っ張ってみた。思ったとおり、包帯を多重に巻いているため右手が包帯の下でつるつるする。アデルは顔を上げた。
 チョークだ。
「チョークよ」 アデルは呟いていた。「首を絞められたとき、包帯越しなのに、いやに強く締めつけられたみたいな感じがした。チョークが付いてたんだわ、あの男の、手の包帯に」
 ローザが口を閉じた。
「包帯だけじゃない、外側の包帯だけに付いてたなら、何か掴んだときこんなふうに下で素手が滑るはずだわ。なのに手は滑りもしなかった。男の手にも――付いてたのよ、チョークが。滑り止めの粉が」
 普通なら、一家庭では岩塩や練った小麦粉なんかを代用する。本物の滑り止めを使う人間は滅多に居ない。チョークを使う人間は、ごく僅かに限られており、重たい、それも傷付けてはならない高価な荷物なんかを取り扱う上級商人か、硬貨を数える町役人、主人の荷物を扱う使用人だけだ。
「チョークを使う人間、それもこのオルドに、恨みを持っている人間でこんなものに触れる可能性があるもの」
 答えはおのずと浮かび上がった。あの代官の、ネズミに似た下男だ。あの日最後にオルドにやって来たとき、山積みの荷物を馬車に積んでいたっけ。積み紐が解けないよう荷物に貼り付いていた。
「アデル、あんた…」
「ごめん、院長に下痢したって言っといて」

       27

 オルドの町は、朝方一番から騒然としていた。町の中の空気が、どこか落ち着かず、張り詰めたように感じる。結局一緒に付いてきたローザが、アデルに素早く耳打ちした。「どうするつもりよ?」
「旅籠を当たるのよ」 アデルは答えた。久々の普段着姿だ。レースのあしらった余所行きのドレスに、そこそこの商家の娘らしい身なりの帽子。旅籠を覗くと、アデルは主人を掴まえた。
「静礼祭の明けの日あたりに、この町で宿泊したお偉方はいなかった?」
あっさりと主人は答えてくれた。「ミストの代官だろう」
アデルはローザに目配せした。やっぱり。予め持ってきた〝婚約者〟の贈り物の(男性ものだ)ブローチを手に乗せて見せる。「道でこんな物を拾ったの。純金だし、これほど高価なものは、高貴な方じゃなきゃお持ちにならないって」
 主人はははあと頷いた。「なら渡すかい。四軒隣に居るよ」
 ローザがギョッとしている。アデルは微笑んだ。「そうさせて貰うわ、ありがとう」
 四軒隣の旅籠には、確かに見覚えのある馬が表に繋がれていた。馬車は裏手らしく、アデルは堂々と玄関から入って行った。「御免下さい。ここに、ミストの殿方がおいでになっていると。お会い出来ない?」
 答えは当然、ノーだ。予想通りの答えにアデルはにっこりした。「じゃあ使用人でいいわ。落し物をお渡ししたいのよ」
 旅籠の裏は狭い馬車置き場になっている。宿の人間に呼ばれ、使用人はすぐにやって来た。あの小柄な鼠みたいな感じの男だ。アデルたちを見て意外そうな顔をする。
「突然の訪問をお許し下さい。私はクライスラー。カレスの商家の娘です」
 すると相手は顎を痙攣させるようにして素早く挨拶した。用心しているのだ。アデルは手の中のブローチを見せた。
「道でこんなものを拾いましたの。とても高価なもののよう。てっきりミストのお代官様のお持ち物だと思っておりましたけれど――」
 男はアデルの手のブローチを見た。飴状に磨いた宝石がちりばめられ、かなりの高級品だ。欲しているらしく、一目でそれが伝わってきた。「けれど、どうやら家紋が違うよう? この馬車の紋とは違いますわ」
 アデルの後ろに、あの馬車が止められている。数日前、修道院の前で見たものだ。指で家紋をなぞっているアデルを見て、「それは主のものではありません」 男は言った。「お――王のお預かりものです。だが、そちらは主の紋のようだ」
「まあ本当?」 アデルはブローチを差し出した。相手はそれを受け取り、確認するような顔をする。アデルの思惑など知るはずも無く、「確かにそうです。これは――僕からお渡ししておきますよ」
「ありがとう」 アデルは微笑んだ。当然こいつがぽっぽないないだ。「では――」
 ここで、アデルはちょっぴり言葉を切ってやった。身分の低い者が、高貴な人間に何か功績を働いたときは、当然ながら何かお目こぼしが貰える。アデルの視線に勘付いたのか、男は「ああ」というような顔をした。すぐに中指の指輪を引き抜く。
 それは見るからに安物の銀のリングだ。安っぽい模様の彫刻に、青い石が付いており、せいぜい飲み屋のツケに流すくらいの値打ちしかないようなもの。だが、アデルは受け取るとにっこりした。「肩の荷が下りましたわ。御機嫌よう」
 ローザが焦るようにしてあとを付いてくる。旅籠を出て、歩き出すとローザが耳打ちした。「いいの、あんた!」
 いいも何も尻尾は掴んだのだ。アデルは頷いた。滑り止めのチョークは、目が細かいため何処にでも飛散する。漆やガラスなどつるつるしたものの肌には、ぴったりくっついてしまうので、家ではよく使用人たちが布で品物を拭っていたのだ。あの馬車には、思った通りにあの粉が付いていた。肉眼で、はっきりと見えるくらいまで。
 そして――
 アデルは指輪を握り締めた。この指輪、間違いない。包帯で包まれたアデルの首には、指輪の腹に刻まれた模様がはっきり付いていた。唐草模様みたいな、そしてその証拠こそがこの指輪だ。
 その足でフィッツの居る町長の屋敷に向かう。私服姿のアデルを見て、フィッツは仰天した。
「アデル――そんな格好で、上に知れたら」
「フィッツ、お願い」 アデルは言った。「ホシは割れたわ。井戸に毒を投げ込んだのはミストの代官の下男よ!」
 滑り止め粉のこと。馬車にそれがついていたこと。話すと、フィッツは黙って首を横に振った。「そ――それだけじゃ、証拠にはならない。アデル、この町で滑り粉を使う人間はどれだけ居ると思う? 商人だって、使用人だって、うちだって」
「あの毒はウィンダナミアのものなのよ!」 アデルは被せるようにして叫んだ。「ウィンダナミアの船が寄航するのは、カラクの港だけ。ミストの真横だわ!」
 まだ言わないフィッツに、首の痣を見せてやる。くっきり付いた唐草模様。ついでに指輪を突き出し、アデルは黙った。
「……」
 ローザが固唾を呑むようにして見守っている。フィッツは黙っていた。考えている、迷っているのだ。随分迷ってから、彼は言った。
「……君の家の港の取引き先は、カラクだったね」
 頷いた。詳しくて当たり前だ。長年、毎日家の仕事を眺めてくればそれくらいは分かるわよ!
「分かったよ、アデレード」 とフィッツは苦笑した。根負けしたのだ。「可愛い幼馴染みの頼みだ。代官の、下男を見張れば良いんだね?」
 フィッツ――アデルは感謝の溜息を洩らした。「ありがとうフィッツ!」
「注意するよ」 と重ねて言った。「だが、その代わりにこっちのいう事も聞いてくれ。アデレード、これは警告だ。ここ十日以内に出来るだけ早く町に帰りなさい」
 アデルはあっけにとられてしまった。ローザも同じ顔をしている。「北方の三領主が武装していると、知らせが入ったんだ。税の開示の件で、法王庁が反発して使者をふたり破門にした。それで昨夜から代官はこの町を留守にしているんだ。早馬と一緒に、ミストに帰ってる」
 ローザが手を上げて口を覆った。今朝から町の空気が刺々しく感じたのは、そのせいだったのだ。
「誰にも言わないでくれよ。いずれ皆の耳に入る。こちらも法王に昼には知らせをやる。アデル、約束できるね」
 アデルは首を横に振っていた。いやなのではない、それしか出来なかったのだ。武装蜂起、そんなことになればとんだ事態になるのは見え透いている。オルドの町人は皆戦士として借り出されるはめになるのだから。
フィッツが身を屈め、アデルの背中を抱き寄せた。こめかみにキスをする。本当に親愛の情のある友にだけ交わす挨拶だ。アデルは黙っていた。
「大丈夫」 フィッツは笑った。「アデレード――アデル、幸運を祈るよ」

       28

 フィッツの家の人間に連れられ、院に戻ると、院長が走り出てきた。ドレス姿のふたりを見て蒼白な顔をしている。「フィッツ殿が」 と、使用人は言づけられた嘘を耳にした。「どうしても会いたいと、偽の急病の知らせをこの二人に。どうぞご勘弁下さい」
 逃げるようにして部屋に引っ込み、服を着替える。院長の尋問に会う前に、庭に飛び出すと、院内のほとんどの人間が寡黙なことに気が付いた。おおよそ噂が伝わり初めているのだ。壁一枚を隔てれば、町なのだから――
「どうしよう」 とローザが言った。「手紙を書いたほうがいいかな? 怖いわ、半年もなんてこんな所に居られない!」
「落ち着きなさいよ、ローザ」 アデルは首を振った。「もしもの時はうちに来れば良いわ。父も、きっと数日後には噂を聞きつける。早めに迎えに来ようとするに決まってる」
 主教座教会は、どことなくざわついている。知らせに驚いているのだ。町全体が、中心から動揺しているのがアデルにははっきりと判った。オルドの顔は主教座教会。町の柱がうろたえればすぐにそれは周囲に伝わる。
 僧侶たちは普段どおり積み荷場で働いている。だが、今朝は積み荷場に荷物はひとつもなく、空の馬車や荷車がすし詰めに停められているだけだ。ギュスタンを捕まえ、アデルは訊いた。「ギュスタンさん、あいつはどこ?」
「ア――アデル」 と、相手は微かにうろたえたようだった。「いや、今朝から見とらん。それより早く持ち場に帰りなさい。ここには来ちゃいかん」
「どうしてよ!」 アデルは叫んだ。ギュスタンが目を見開いている。「知ってるわ、フィッツに聞いたの。北方領主が武装し始めてるって。代官も昨日からミストに帰ってるわ! ここを落とす準備してるのよ!」
「アデル!」
 アデルはひるまなかった。ギュスタンにしがみ付く。「もしそうなったら皆出て行くんでしょ? 僧侶も、ギュスタンさんだって戦に行かされるんでしょ? 嫌よ! そんなこと許さない、私――私、これ以上大事な人を無くすのは嫌なの!」
 ギュスタンがアデルを抱き寄せた。アデルの両手よりも大きい手ですっぽりと彼女の頭を包む。孫にするように撫でながら、笑った。「心配要らん。こけ脅しに過ぎんだろうから、これから主教が直接ミストに出かけて行くよ。お任せすればいい。あの人は賢いから、これしきのことなら大丈夫だ」
 アデルは涙を飲み込んだ。私の身体つきを見てみろ、とギュスタンが笑っている。こんな筋肉質をそうそうぶっ倒せる奴が居ると思うか? 心配要らんよ、アデル。
 アデルは目をこすりながら積み荷場を離れた。菜園にも、倉庫にも、酒置き場にもどこにも居ない。ガチョウ小屋にも、羊の囲いの中にも見当たらない。あいつ――アデルは思った。どこ行ったのよ?
(早く帰れ、お前の町に)
 あの下品な、横着もののデリカシーゼロ。口が悪くて適当で、ずぼらで嫌味でスケベな破戒僧。あいつにも、知らせてやらねばと思ったのだ。あんたこそさっさとここから逃げなさい、と。なのにどこで何をしてるのよ!
 灰みたいな泥まみれの顔を探す。粉土でも被ったみたいな頭。酒場で一度だけ顔を見たっけ。くすんでいたけど、主教みたいな純白に近い銀の髪の――
 主教様、みたいな……
 そのとき、アデルの頭にふとおかしな答えが浮かんだ。
 それは、探していたものが、あまりに思わぬところに転がっていたのを見つけたような感覚だ。こんなところにあるはずがないのに、そんなふうな。アデルは足を止めた。
 そう言えば、顔を見たのはあれが一度きりだ。修道士なんて、みんな同じ格好で、背格好と動作や会う場所なんかでアデルは人を見分けていたのだ。ここではみんなそんなもの、それが院内の人付き合い。
 主教に期待するな、最後に言われた言葉が頭に響いている。さも当人を知っているような口ぶりだった。およそ、あの主教様からは想像も出来ない、似ても似つかぬ有様だけど…
(主教様は、双子らしいのよ。そっくりな双子の兄弟がいらっしゃるの)
 それはつまり、そういうことだ。アデルはその場に立ちすくんだ。

 急いで積み荷場に戻ると、ギュスタンの姿が消えていた。確かめたかったのだ。あいつが、ひょっとして主教の兄弟じゃないかということを。積み荷場はしんとしており、人気が無い。まるで、こぞって人がここから出て行ってしまったみいに。
 アデルは院の表に飛び出した。
 修道院の前の道を、既に過ぎ去り、坂の下に向かって馬車が走っていく。白塗りのオルドの主教の馬車だ。皆が外に出ており、それを見送っている。モリー院長が背を屈めしきりに祈りを唱えている。これからミストに出向くのだ。
「アデル!」
 ローザが飛びついてきた。下に居る町の人間も、様子を伺っている。誰一人言葉を発さず、連なって走る四台の聖職者の馬車を見送っている――
(主教は大丈夫だよ、心配要らん)
 主教様。
 アデルはそっとスカートの裾を握り締めた。もうお会いしない、決めたはずなのに――
(アデレード)
 ギュスタンすらも居ない。耳の奥の声を振り払うように、アデルはローザの頭に頬を押し付けると、消えていく馬車の姿を見送った。

       29

 オルドの町はそれから騒然とし始めた。
 主教座が動揺し、おまけに空になったので、町全体がにわかに殺気立ち始めたのだ。普段は固く閉ざされ、容易な出入りが禁じられている修道院も、厳格な空気を取っ払ったように雑然としている。「武装蜂起だ!」 町では早くに火種がくすぶり始めており、「こっちも備えておくに越したことはねえ!」
「主教様が交渉に行ってるんだから」 と、酒場の女主人が嗜めている。こっそり紛れて町に出ては、アデルは心臓が縮まるような思いだった。怖い――漠然とした危機感が背骨の芯を舐め続けているみたいに。「構わねえ! やっちまえ!」
 フィッツの家は本当に蜂起の準備を始めている。布の掛けられた、中身が何か知れたものが屋敷の倉庫から運び出されては、空の荷車を引いて帰って来るの繰り返しなのだ。フィッツは馬で町じゅうを偵察しており、ミストの代官の下男はとうとう逃げ出してしまった。朝方に部屋が空になっていたという。
 弓や槍、鍬など農機具までもが家の入り口付近に目立つようになった。篭城用らしく関所には木材や石が積み上げられている。たいまつの芯が飛ぶように売れ、市は静かになった。賑わいは消え失せ、限界の緊張が閉鎖された町の中で徐々に高まっていくのだ。
 六日目にとうとうそれはやって来た。
 主教が出て六日目の朝、単身で逃げ帰るようにして教会の人間が戻ってきたのだ。馬を蹴倒すようにしてベルタン教会の前に乗り捨て、「武装蜂起を!」
アデルはそれを教会の内陣で聞いていた。主教の居ない教会で、いつものように蝋燭を運びに行っていたのだ。男は内陣に転げ込むや否や叫んだ。「ただちに蜂起を! ラルス大主教が、斬られました!」
アデルは祭具を取り落とした。ローザが口に手を当てて凍りついている。「代官です! ミストの話し合いの末、口論になって――早馬が今法王庁へ知らせを!」
 雷鳴のように、知らせは一瞬で町に伝わった。町が一斉に激昂する。それはまるで、油が炎に取り落とした途端引火するように。怒号が、叫び声が町を包み込んだ。火を灯したたいまつがオルドのぐるりを取り囲み、全ての男が例外なく武器を手に表に飛び出して行く。私服のもの、兜だけ持ったもの、剣を持つもの、院内の馬は全て町に駆り出され門にはかんぬきがかけられる。
施療院の門には木材が交差され、入居者は中に押し込められた。女たちは、家族を連れ町の頂上へ押し寄せている。子供を、老人たちを、頂の主教座聖堂にかくまうのだ。フィッツが甲冑を身に固め馬で列を追いやっており、悲鳴のなか避難させていたアデルは、誰かに名前を呼ばれ顔を跳ね上げた。
「アデレード!」
 アデルは振り向いた。すぐそこに、フィッツの父親が立っている。後ろに馬車を控えており「乗りなさい!」 と叫んだ。「家の迎えだ!」
 アデルは唖然とした。院の門前では、修道士たちが守りのための石材や木材を片っ端から運び出している。万一のために防壁を築こうとしているのだ。修道女が坂を駆け下りており、早すぎる――アデルは刹那悟った。フィッツだ。アデルの父に連絡を一足先に寄越していたのだ。
「嫌です!」
 腕をつかまれ、アデルは列の中から引きずり出された。道は避難する町人で溢れ返っている。頭を抱え込み修道着のまま中に押し込められ、「離して!」 アデルはもがいた。「まだ期日じゃないわ、離して!」
「朝には領主が来るぞ!」
 誰かが叫んだ。馬車の扉が閉められる瞬間、驚いたような顔をして僧侶が振り向いたのが視界を掠めた。あいつだ。車が走り出し、扉に外からかんぬきがされている。避難する住民を、担架を蹴散らし、馬は正反対に狭いオルドの坂を駆けていく。
「降ろして!」
 アデルは叫び続けていた。気が違ったように、ドアを叩き続けていた。窓の外で、掲げられた武器が林のように目を掠めて消えた。フィッツがわずかに顔を上げ馬車を見送る。最後の外出客だ。釘の打たれかけている関所の門をぎりぎりすり抜け――その途端真後ろで扉が叩き閉じられた。
「主教様!」
 アデルは振り向いた。馬車の後ろの通気口から、オルドの町が見えている。主教座は本当の空だ。たいまつに囲まれ、炎の明かりを受けて、主の居ないベルタンの教会の正十字が、血のように赤く閃いているのが見えた。

       30

 それから二週間――
 アデルは、ほとんど廃人のようにして家で日々を過ごした。鍵付きの部屋に閉じ込められ、医師だけが顔を見せる。修道着姿のままで、放心したように帰ってきたアデルを見て、両親は絶句していた。「可哀相に――危機一髪だった!」
 夢の中でアデルは何度も同じ光景を見た。切りつけられ、地面に倒れている主教の姿だ。何度も何度も、見たはずのない光景をアデルは繰り返し見た。首を、時には腕を、胸を。
(ああ、どうか神様――)
 ひと月後に、アデルはしびれを切らしてオルドの情報を聞いた。法王庁の援軍が(ベルタンの、同盟領主だ)一足先にオルドに駆け付け、結局はミストを除いた北方三領主と睨み合いになった末、和解したらしい。オルドに上がった火の手は四つ、いずれもが、外襲ではなく、慣れない事態に民衆が自ら起こした小火だった。
 主教は一命を取りとめた。
 サーベルが肋骨に止められ、致命傷を免れたという。代官は破門された(つまりは、法の守りを解かれて無法者になったのだ)。町は少しずつだが平穏を取り戻し始めているという。時間はかかるが、穏やかで少し寂しい巡礼の町オルドに。
 秋を過ぎ、空気が乾燥し始める頃、アデルは手紙を受け取った。ひとつは少なくとも吉報だった。来年の春に向けて、あれから着々と結婚の準備を進めていた婚約者のベルナンド卿が、なんと教会に無期限謹慎を命じられたというのだ。父親は、アデルの母は手紙を見て絶句している。飛び上がって狂喜したいのを押し隠し、アデルは訊いた。「なんで? どうしたのよ」
「き――教会が」 父親は白目と黒目を器用に入れ替えながら口をはくはくした。「寄進の礼として、寄越したカキに、当たったそうだ。法王庁の召しものに毒気を覚えるとはけしからんと。教会が許すまでは結婚出来ないと」
 もう一通は、アデル宛ての手紙がオルドからだった。封蝋で厳重に固められており、ぱっと見に重要書類そのものだ。開けてみたアデルは、唖然とした。中にはミミズののたくったような汚い字で、一言だけこう書かれている。『さっさと来い』
 犯人は、およそあの男なのだ。アデルは再び、家を出てオルドに向かうことを許された。ろくに挨拶もしないで、おまけに逃げ帰ってしまったこともお詫びしないと、いつまでもベルナンド殿の謹慎が解けないに違いない、と説き伏せたのだ。少し冬枯れの始まった景色の中、再び馬車でオルドの関所の門をくぐる。
 町は穏やかさを取り戻していた。
 アデルは頂上の教会まで呼び寄せられた。オルドの顔、主教座聖堂であるベルタン教会は、今日も頂に金十字を抱き輝いている。私服のまま、内陣に入っていったアデルは、一番奥の祭壇の前に立っている懐かしい人影を見、足を止めた。ラルス大主教だ。純白の法衣を着て、儀杖を持っている。
「アデレード」
 相手は振り向き、ちょっと顎を引くと微笑んだ。主教の隣に、あの女性が立っている。あの日、教会の――この教会の前庭で見た、美しい女性だ。甘い白銀の髪をきつくカールさせ佇んでいる。ああ、アデルは思った。これからこの人は聖女になるのだ、と。背後に、特別な折にだけ持ち出される教会の聖櫃を持った司教が控えている。
 あいつはこれを見せたかったのだ。この瞬間を見て、「とっとと振り切れ」 そう言いたかったのだ――
「久しぶりだね、アデレード」 主教は言った。それはあの時見たのと変わらない、優しくて物腰柔らかな、完璧な表情だ。「私の顔に何か付いているかい?」
「ご――ご無事で」 アデルは言った。そんなつもりは無かったのだが、感極まって、うまく言葉が出なかったのだ。「何よりです。主教様」
「見ての通り生きているよ」 主教は軽く笑った。「サーベルが、肋骨に当たって刃が止まってね。全ては神のご加護だ」
 アデルは頷いた。良かった――目尻を擦る。アデルは気をとりなおすと、なんとか言った。「し、主教様。お訊ねしたいことが。あの男は――」
 すると、主教はポカンとした。やっぱりうっすら鈍い天然っけあるの表情だ。「主教様の双子の弟御は、今どちらに?」
 あいつに、礼と文句が言いたくて、わざわざここまでやって来たのだ。汚ねぇ(字の)手紙まで寄越してきて、おまけに最後まで余計なおせっかいを焼いて人の恋路を邪魔までして。
 すると、主教はふふふと笑った。「ああ――」 と、背後を振り向く。「まだ紹介していなかったね。アデレード、私の双子の妹、アラネアだよ」
 アデルは、思わず目を剥いてしまった。女性はこれ以上無いほど上品な微笑を浮かべて笑っている。膝をかがめると、「はじめまして」 と言った。「お話は聞いておりますわ。シスター・アデレード」
 なん――だって? アデルは目がぐるぐるしてきた。主教には双子の兄弟が居たんじゃなかったか? 兄弟――それは、つまり兄妹という意味だった――
 なら、あいつは? アデルはどうにか我に返った。あのクソッタレ野郎は?
 妹が離れ、僧侶から何かを受け取った。彩られたベルタンの聖典だ。主教がアデルの手を取ると引き寄せた。「懐かしい顔だね、近寄って、もっとよく見せてくれ」
アデルの身体を抱き寄せる。恋人にでも会ったみたいに。子供にするように額を抱き、アデルの髪に唇を寄せた主教は、ややあってからこう言った。「いい加減気付けよ、タコッ毛」
 アデルは絶句した。頭の頂点を、特大の分厚い氷で思い切りぶん殴られたみたいに。衝撃でものが言えなくなっている彼女に、主教はあくどい笑いを浮かべてみせた。
止まりかけの駒のように、回った意識が戻ってきた。特大の鐘の中に閉じ込められて、思いっきり外から叩かれたように。アデルはわななく口で言おうとした。「あ、わ、な――」
「馬鹿か」 主教は完璧な表情のままあざ笑った。「鈍いんだよ。アデレード・クライスラー?」
「………」
 あの破戒僧。アデルは思った。酒はやるわ、煙草はやるわクスリはやるわ、下品で口が悪くて、喧嘩っ早くて横着でどうしようもない、それがあの主教様ですって?
「家紋入りのチョコなんざ送ったのが災いしたな」 主教はせせら笑った。「一発で身元が割れたぜ。トゥーズのベルナンド卿、腹下しの天罰で教会命により無期限謹慎だ」
 アデルは口を半開きにした。つまりは主教のさしがねだったのだ。わざわざあたったカキを送りつけて、言いがかりを付けるなんて――なんて人なの!
「アデレード、お前を聖女にする」 主教は顔を上げはっきりと言った。「ベルタンの柱、主教の右腕、神の道を歩む信徒のよすがとなり、終生の貞潔をここに捧げよ。跪きなさい」
傍らの司教が櫃から十字架を取り出した。ギュスタンさん、アデルは悟った。たくましい身体を楚々とした法衣に包み、笑っている。修道着姿のローザが、レオノールが、いつの間にか側に立っており、狭い内陣はいつしか人で満たされている。先輩たち、モリー院長、フィッツ、町の人たちまでもが集まってきたのだ。
「今後が大変だぜ」 主教が耳打ちした。「ジリ貧の町の運営にヤクの密造。法王はオルドの自治を再確認したよ。クソ領主どもとの小競り合いに、過労と不眠症、欲求不満との闘いだ」
 アデルはぷっと吹き出した。まだあるわよ。ついでに肌の手入れと日焼け防止。それから、口の悪い不良主教様のお世話もね。
「アデレード・クライスラー!」 フィッツの父親が拳を上げ叫んだ。「ベルタンの新たなる聖女に幸あれ!」
本気だな、主教が最後に笑った。「アデレード、君に洗名を授ける。この運命を担う覚悟があれば、主教の手から正十字を受け取りなさい」
それは夢にまで見た金の十字架だ。想像とは違っていたけれど。崇高なメッキの金十字、主教の笑顔も金メッキ。でもソレが何?
アデルは十字架を掴んだ。がっきと掴み、ついでに肩に担いでやる。
「アデレード」 主教が声を張り上げた。「聖女よ、神の御前に誓いを!」
「やってやろうじゃないの」 と、アデルは笑った。


                                                        了

聖十字に恋して      栗本はるこ

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以前なんとなく書き下ろしたものなのですが、えん●め大賞様で二次まで通過し「ちょこっ」とご注目頂きました。何よりの評価です笑

聖十字に恋して      栗本はるこ

アデレード・クライスラーは商家の娘。何不自由ない生活を送る日々。そんな彼女は、ある日両親からとんだ宣告を受ける 何と見知らぬ男の元へと輿入れさせられることになったのだ! お相手はローヌ地方の代官貴族。年も親ほどに違うわ、スケベそうだわ……追い詰められたアデルはある奇策に出る。十年前、ひと目見て憧れた主教、ラルス大司教の元へと花嫁修業に行くと称して逃げ出したのだ!稀にだが、教会は女性に叙階を施すことがある。聖女の洗名と称して主教に仕え教会を支える身となるのだ。死んでも嫌な結婚から逃れるにはコレしかない!かくしてアデルの奮闘が幕を開けるのだが…… 教会を舞台にした恋愛ファンタジー。

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