聖十字に恋して      栗本はるこ

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聖十字に恋して

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       1

 《アンカ・ルース歴元年、初春》

 冬が長いほどに春の訪れはかぐわしく、また喜ばしい。
 幼心にして、この言葉の意味を知ったのは、彼女が六歳のときだった。生まれてからずっと、彼女が育ってきた町、カレス。港の見える小さなこの町が、あれほど華やかに、また賑わしく沸き立ったのはただの一度きりだ。
「隣町のオルドの主教座に、新しい主教様が叙階なさったそうだ!」
「今度の方はすばらしく賢いお方よ!」
 町じゅうの人間が、その姿をひと目見ようと、こぞって表に飛び出していく。町で唯一の教会の前には、白い絨毯が敷き詰められ、聖堂の鐘楼からスミレの花びらが、視界が霞むほどに降り注ぐ。数え切れないほどの人間が教会の入り口を取り囲み、その中を、一人の少年が歩いていくのが見えた。
 アデレード・クライスラーは、その様子を自分の部屋の窓から眺めていた。四階建ての、町の中だけではそこそこの豪商の家。教会は彼女の住む家の斜め向かいにあり、彼女は窓際のベッドの上によじ登り、その様子を見つめていた。今日は新しい大司教の、お披露目の訪問。
 少年は、白い法衣を身に着けている。聖職者らしい金糸の刺繍の衣装を身にまとい、手には儀杖を持っている。お付きの僧侶らしい人間を引き連れ、集まった人たちに顔を見せているのだ。
(あれが、主教様)
純白に近い銀の髪。紫色の瞳がまばたきしている。いっそ白すぎるくらいに白い肌に、春の光がきらきら輝いているのが見えた。
(なんて素敵なひとなんだろう――)
 そう、この日から、私の心はあの人に釘づけになった。

  《十一年後 アンカ・ルース歴十一年、初夏》

「長旅も疲れたでしょう? もうじき到着しますよ。外を御覧なさい」
 馬車の窓の向こうから、御者が呼びかけてくる。普段から滅多に乗りなれない乗り物に揺られながら、アデレード――アデルは、いいえ、と首を振った。相手には中の声が聞こえていないらしい。ガラガラと馬の足音が響いており、騒音に紛れて届かないのだ。窓を開けて、もう一度繰り返してやる。
「全然。まだ平気よ」
「もうじきオルドの町が見えますよ」
 褪せた草原の向こうに、灰色の建物の塊が見えている。ちょっとした緩やかな丘地になっており、皿に乗せた特大のオムレツみたいな形だ。教会領オルド――遠目に眺めながら、アデルは溜息をついた。「巡礼者」の町。聖ベルタン信仰のこの町に、信者たちは皆こぞって訪れる。神の奇跡に預かろうと――いや、教会の恩恵に授かろうと。悩みある者は、一度は訪れる、救いの町。
 なのに、この気分はなんだってのよ? アデルは溜息を吐き出した。そんな気分ではいられないのだ。こちとら、呑気に神に救いを求める暇など持ち合わせていないというもので――なんたって、ここに来たのは命賭けなのだから。
 この二ヶ月間で、彼女の人生が決まるのだから。
 数日前、突然両親に居間に呼び出され、「あれ」を告げられたときのことをアデルは思い出した。人生最悪の一瞬。もとより、予感は有ったのだが。一週間ほど前に、父がいやに着飾って出かけて行ったとき――(豪族とは言っても、所詮は商売人にすぎないのだから、仕事がらみの話に、いちいち盛装などするはずがないのだ) ピンと来たのだった。父が何の用事で出かけたのかを。何故盛装したのかを。
「お前の夫が見付かったよ」 と、父は帰って真っ先に言った。普段は滅多に付けない他所行きのコロンを匂わせている。「喜べ、アデル。相手はなんとローヌ地方の代官だよ」
 アデルは父の抱えている肖像画を見た。太っちょの、コテコテ頭のいかにもスケベそうな男だ。年もふた回り以上は離れており――アデルは絶句した。冗談じゃないわよ!
「イヤよ、絶対嫌!」 アデルは叫んだものだった。「これならブタの脇腹とでも結婚した方がマシ!」
「言うとおりにおし、アデレード!」
 母のクライスラー夫人が叫んだ。そこから後は愁嘆場だった。使用人を全員表に叩きだし、家中を転げまわって取っ組み合いをした挙句、父は最期の手を打ちに出たのだ。「お前は俺たちに何もかも失わせるつもりか!」
 アデルは呆然とした。そう――それが全てだったのだ。潰れかけの商家の娘。はしくれとはいえ、没落した者が生き長らえるためには、結局この手しかないということを。
「代官には私たちから承諾しておく。これでもし断るというのなら、お前はこれきり、勘当だ!」
 アデルは地面に座り込んでいた。両親は、黙っている。二人ともひどい息切れをしており――アデルは目を閉じた。
「――判りました」
 判ったわよ、アデルは内心毒づいた。所詮はコレでしょ? 金が命。繋ぎになるためなら娘の運命だって知ったこっちゃ無し。でもね――でもこれで引き下がるほど、こちとらヤワな育ちじゃないのよ。
「なら、せめて巡礼に行かせて下さい」 と言った。「最後のわがままよ。それくらい、聞いてくれてもいいでしょ?」
古臭い習慣だが、良家の娘は結婚が決まれば、巡礼の地に赴き、二ヶ月――長ければ半年間の修道生活を送る。そこで、戒則に守られた生活に身を置き、己を律し、また自らを知るのだ。
 両親はあっさり快諾した。
 オルドの町が近付いてきている。草原に、牧草地がわりに羊が点々としており、僧侶らしい人間が枝を持って羊を追って居るのが目に見えた。町の頂上に――頂あたりに、槍のように尖った鐘楼を構えた教会が見えている。鐘楼のてっぺんに、太陽の光を受けてキラキラ光るものが見え、御者が馬車の屋根で言った。
「あれがベルタンの正十字ですよ」
 そう――アレよ。アデルは密かに唇を噛んだ。狙いはアレ、教団のシンボル、黄金の正十字。
 アレさえ掴みゃあこっちのもんなのよ?
 別名、聖女の正十字。あれが彼女の運命を変える切り札なのだ、アデルは思った。猶予は二ヶ月、その間に、どんなことをしたってアレを手に入れてみせる。
私が洗名者(ミザラ)になってみせる。
馬車がオルドの関所を潜り抜ける。主教座の空気を肌で感じながら、アデルは膝の上で拳を握り締めた。

       2

『オルドの町は聖なる要塞、身持ちの良い淑女の佇まいを思わせる小さな都市国家――』
 とはよくも言ったものだわ。巨大な旅行鞄を手に、アデルはしみじみそう思った。地方独特の灰色の石壁の街づくりに、繊細なデザインの建物が点々としている。緩やかな丘状の、頂上がまさに主教の牙城――主教座の聖堂が構えており、その足元に集うようにして、教会施設、市役所、市場、家々が肩を寄せ合っているのだ。町の中心の頂に、主教座のシンボル、聖ベルタン教会の正十字。
「ようこそ。この門をくぐり、ここに立つ者は、皆わたくしたちの家族です」
 修道院に辿り着いたアデルを、迎え入れた修道女は最初にそう言った。年かさの女性で、痩せた体をゆったりとした修道着に包んでいる。「私はここの院長、モリー。荷物を持ってこっちへ」
アデルは女子修道院の一角に案内された。石造りの建物で、部屋にはベッドと書き物机、ジャグと洗面台しかない。簡素な部屋に少女がひとり佇んでいる。モリーと名乗る院長は言った。
「ここに居る間は、教会が私たちの家であり、私たちは姉妹であり、家族です。全ての仲間と財産を共有し、外の世界を忘れなさい。清貧であり、貞潔であり、上長の方々の姿に神及び聖女の姿を見出し、倣い、これに従う、従順の精神をけして忘れぬよう」
 ベッドの上に、修道着が置かれている。と、相部屋の少女がパッと口を開いた。
「あたしローザ。二週間目よ」
 アデルは荷物を持ったまま振り向いた。髪の毛の見えないタイプのベールから、燃えるような赤毛が少し覗いている。「アデレード」 アデルは言った。「アデルでいいわ」
「何でここに志願したの?」 ローザはニッと笑った。「当ててあげる。見たところ、良いとこのお嬢様みたいだから、結婚前の習慣てやつ?」
「半分正解」 アデルは顔を顰めた。「逃げ出すためにここに来たのよ」
 ふふん、相手は妙にニヤニヤしている。まるで(いつまで持つかな) というような顔をしており、「まあ、いいわ。今にあんたもここがどういうところか知るわよ」
 午後三時からは、決まりでは「日課の時間」となっている。教会に来た限りは、祈らされるんでしょうよ、と気軽に構えていたアデルは、それが本当にまったくの見当違いなことを知った。表に引っ張り出され、クワと厚手の手袋を渡される。
「あの、これは一体…」
「労働です」 モリー院長はこともなげに言った。「言ったでしょう? 外の生活を忘れると。頑張って下さい、アデル」
 修道院の裏には、広大な田畑が広がっている。僧侶も、修道女も一同になって働いており、クワを振り回して居る者、牛の首に鋤をくくりつけて畝をおこしている者、たすきがけにした袋から種を撒いている者――様々だ。アデルは絶句した。
「だから言ったじゃん…」
 なんでイキナリ野良仕事なのよ! アデルは泣きそうになった。やけっぱちにクワを振り回すアデルを見てモリー院長はニコニコしている。わざわざ教会に来て、土にまみれて家畜のフンの始末に汗だくで肉体労働? 冗談じゃないわよ!
「お、お祈り――は?」 ヘトヘトになりながら、アデルは訊いた。楽をするコツを心得ているらしく、ローザはアデルの耕した後から石を拾ってポンポン外に投げ出している。「あるわよ。朝と、昼過ぎと、食事前に一回。あと深夜に一回叩き起こされるわ」
「そうじゃないのよ」 アデルは唸った。獏としているが、まがいなりにも教会にイメージを持っていたのだ。町の中心の教会で、おごそかな礼拝。もう十年以上前に見たきりになるけれど、若い主教様が法衣を着て祝祷を行う。ひょっとしてもっとカッコよくなってたりして――
「ある訳ないじゃん」 ローザはきっぱりと言った。「こっちは、一日働くのが主な仕事だもん。そもそも、教会と修道院は建物が別で完璧に分かれてるのよ? どうやって会うのよ」
 アデルはうっかり卒倒するんじゃないかと思った。
「まあ、会えんこともないけどね」 ローザが不憫そうな顔をして笑う。アデルの顔を見て、流石に哀れんでいるのだ。「週に一回、水曜日に教会で礼拝があるわ。チラッと遠目に見られるんじゃないの。あと、深夜の二度目のお祈りは、私たち女は免除されてるけど、希望さえすれば行けるから――」
「……それ以外は?」
「無いね」 ローザは鼻の頭を擦った。「まあ、悪けりゃ一週間と持たないのがザラよ。ここはそういうとこ。花嫁修業、頑張りなさいよ」
 人生暗転決定。アデルはその場にしゃがみこんだ。



                     【試し読みはここまで】

聖十字に恋して      栗本はるこ

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以前なんとなく書き下ろしたものなのですが、えん●め大賞様で二次まで通過し「ちょこっ」とご注目頂きました。何よりの評価です笑

聖十字に恋して      栗本はるこ

アデレード・クライスラーは商家の娘。何不自由ない生活を送る日々。そんな彼女は、ある日両親からとんだ宣告を受ける 何と見知らぬ男の元へと輿入れさせられることになったのだ! お相手はローヌ地方の代官貴族。年も親ほどに違うわ、スケベそうだわ……追い詰められたアデルはある奇策に出る。十年前、ひと目見て憧れた主教、ラルス大司教の元へと花嫁修業に行くと称して逃げ出したのだ!稀にだが、教会は女性に叙階を施すことがある。聖女の洗名と称して主教に仕え教会を支える身となるのだ。死んでも嫌な結婚から逃れるにはコレしかない!かくしてアデルの奮闘が幕を開けるのだが…… 教会を舞台にした恋愛ファンタジー。

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更新日
登録日
2018-09-08

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