茸塚

茸塚

茸幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。

 信州山奥の小さな町の話である。町に行くに中央線の駅から、途中のダムのバス停まで走っているバスに乗るしかない。町はバス停から歩くと一時間ほどかかる。住民たちは、みな車を使っており、そのための駐車場がバス停に接して完備されている。今では市に吸収されているが、その地域の人々は、自分のところを村と呼んでいる。
 その村の外れに茸塚と呼ばれる塚がある。かなり古いもののようで、土が盛り上がったその上に、高さ一メートルほどの、茸の形をしていたと思われる石碑がある。相当古いものであるらしく、かろうじで茸のに見える形が残っている。しかし、長い間風雨にさらされていたのだろう、茸塚という名前を知らないと、ただの円筒にしか見えないかもしれない。全面に刻まれた文字らしきものもほとんど読むことができず。あちこちに地衣類が蔓延(はびこ)って汚い緑色の染みのようになっている。この石碑には全体を覆うように屋根がかけられているが、それはかなり新しいものである。
 この村の起源は古い。川の両側に発達してきたところで、すなわち扇状地である。すでにかなり高いところであるが、周りはいくつもの山が囲み、山際には縄文人の住んだ岩穴がいくつもある。住み易いところとみえて、そのころから人が絶えたことのない。高いところにも関わらず、稲もよく育つことから、村ができ、町になり、今になっている。ダムの底に沈んでしまっているが、ここを支配していた豪族の家などがあったようである。そのようなことから、町の公民館には村の歴史の古文書が残されている。
 長野のこのあたりは、戦国時代に何度も戦場になったようで、支配者は入れ替わっている。そのおかげといったらいいのだろうか、住民たちの結束は強く、この村独特の産業や工芸技術が発達している。ただ、江戸時代になると、人の流出が多く、人口は減っている。
 茸塚のことだが、この町の歴史家がいろいろ調べたところ、古文書には必ず記載があるが、どれも謂われが異なっており、塚がいつからあるのか、どうして造られたのか分かっていない。塚だから、何かの墓か、何かの標なのかであろう。
 町役場の古くからの帳簿類に当たってみると、昔、茸塚の前でかなり大きな祭りが行われたようである。
 705年だから平安時代になるが、その頃のものと思われる木片が1960年に茸塚からみつかっている。その木の表面に、はっきりするものではないが、猫のような形の角のある動物が茸らしきものを咥えているような絵が描かれていた。おそらく朱で描かれたものらしい。そのころ、京とはほど遠い、こんな山奥に住んでいたのは、大昔から居着いていた人で、身近にいた生き物を描いたのだろうと、それを発見した専門家は書いている。住人たちは野山で茸や木の実をとり、獣を捕らえ、籾殻が近くからみつかっていることから、稲作もやって生活をしていたに違いない。
 それが見つかって少し経った1962年に、茸塚の脇に埋もれた小さな石がみつかっている。茸のような形をしていて、すなわち棒石のようであった。しかもそれは焦げていた。そこで火を焚いたのか、棒石そのものを焼いて埋めたのかわからない。
 棒石は男根を形どっているともいわれ、縄文時代に祭りに用いられたことから、茸塚ができる前に、この場所で神にかかわる祭式が行なわれた可能性もある。
 縄文時代から1400年半ば頃までの茸塚の記録というものはない。戦国時代になると、このあたりは戦場になっているようである。平泉の中尊寺がつくられたころ、すなわち、西暦1500年半ばに、この地で鉄が採られていたようである。規模は大きくなかったようだが、この地方としてはいい鉄鋼石が採れるところだったとされている。その奪い合いで、戦場となったことが記されている。茸塚は、そのころもなぜかそのあたりの人々の信仰を集めていたようである。茸塚は戦が起きた時も打ち壊されることなく、村人たちが大事に守り続けたようである。
 戦国時代が終わってすぐの頃の古文書に面白い話が載っていた。内容は戦国時代のこの地での出来事である。
 この地が戦場となったある日、茸塚から黄色い茸が一面に生えてきたとある。そのころ、村人たちはその黄色い茸が生えたら、そばには近寄ってはならぬという伝えがあり、そのあたりの三百人ほどの村人たちは山の上に避難をしたということである。ところが、その地を治める侍と、攻め込んできた侍たちは、茸塚あたりで大きな衝突をした。そこが戦場になったのである。茸塚の黄色い茸から白い胞子が大量に舞い、それを吸った侍たちはあっと言う間に死滅したとある。一日たって、自分の家に戻った村人たちは、死んだ侍たちの死体を山に葬り、武具と武器、生きていた馬も自分たちのものにした。それらを使って、自衛の組織をつくったとある。そういうことで、戦の場になったにも関わらず、茸塚は何事もなかったのである。
 それから、この地は忘れられたように、中央からとの関係は薄くなる。村人たちは年貢などを取られることがなく、平穏な暮らしを続けたようである。そのおかげか、秋の茸の季節になると、茸塚で鎮守の祭りがなされたとある。いうなれば秋祭りである。そのころはきれいな社を塚の上につくり、さらにその脇には、御輿をしまっておく、社が新たに造られていたようである。御輿と言うからには、神が祀られていて不思議はない。しかし、なにを祀っていたか書かれたものがない。
 社へのお供えものは茸である。それに、塚の周りで火を焚いたとある。通常、秋祭りは豊饒を祝い、お礼の祭りである。それが、鎮守であるのは、戦国時代の、黄色い茸による侍たちを駆除したことから始まったのかもしれない。ただいわれを書いたものはない。
 江戸時代になり、中頃になると、再び、この地の鉄鋼石が思い出されるようになったようである。かなりの山の中であり、それに、大きな村落ではないこともあったのであろう、それまではなぜか年貢を取られなかったが、納めるようにとの達しがきたのである。
 鉄を採る為に、侍につれられ、何人もの発掘職人がやってきて、長い間、村に逗留した。宿の施設などあるわけがなく、村の人々の粗末な家に泊まっていたとある。
 ある日、侍と職人が山にはいり、調査をして夕方戻ると、それぞれ泊まっていた家には、夕食の用意がしてあった。いつもは粗末な芋や、豆、野菜であったが、その日そこには岩魚の焼いたもの、それに米を炊いたものがあった。おまけにどぶろくもある。ただ、不思議なことに、村民は誰も家にいなかった。
 侍頭が泊まっている長老の家には、長老と若い衆が二人残っていて、侍頭に、「今日は村人たちの年に一度の星の日でございます、みな、山の頂で星が流れるのを拝むのでございます、誰もいなくなりますが、どうぞごゆるりとおすごしくださいますよう」と言った。
 「それはなにじゃ」という侍頭の問いに、「昔、昔からの仕来たりで、いわれはわかりません、しかし、我々には大事な行事でございます」と、長老は答えた。
 「明日は戻るのか」と聞かれ、「はい、夕方になりましたら、山から下りますので、申し訳ございませんが、朝と昼の米の結びと、漬け物は用意してございます。夕にお戻りになったときには、我々も家に戻っておりまする」
 「そうか、わかった」
 侍頭が頷くと、長老は二人の若い衆におぶさり、山に登っていった。
 そういうことが古文書に書いてある。
 次の日、調査に入った侍と山堀職人はみな死んでいた。茸塚一面に黄色の茸が生えており、朝早く黄色い胞子が大量に吹き出したのである。
 村の人々は、茸塚に黄色い茸が生え、次の日傘が開き、胞子が吹き出すことを知っていた。それで。山の上に逃げていたのである。
 村の長老は、若い衆を使いにやり、調査にきた方々が、山の毒にあたり、死んでしまったことを伝えた。すぐに、役人が来て調べたところ、数人の侍と、山堀の職人が現場で倒れているのをみて、山から吹き出す毒、いまでいう、亜硫酸ガスにやられたのだと判断した。それをもって、鉄鋼石の採掘は行われないことになったのである。
 ふたたび、その村は平穏な生活に戻ったとある。古文書が書かれた日付からすると、そのようなことが起きたのは江戸時代の半ば、1700年半ばだろう。その頃も、茸塚で秋の鎮守祭は行われていたようである。
 そのような歴史をもつ茸塚である。その黄色い茸というのはどのような種類なのか、しかるべき筋から専門家に調べてもらったのだが、一晩で成熟するところを見ると、一夜茸ではないかと想像できるが、記載のような形の一夜茸は知られていないとのことだった。さらに、胞子そのものに毒性のある茸は発見されていないそうである。したがって、茸塚に生えたのは本当に茸なのかどうかも疑わしいところである。
 茸塚に何があるのか、考古学的な調査は、何回かなされた。先にも書いたが、縄文時代からそこで祭祀が行なわれていたようであることから、その黄色い茸というものが生えて、周りの縄文人に危害を加えたのかもしれない。戦国時代までの間の記録がないので何ともいえないが、茸であるとして、毎年生えるのではなさそうである。
 記載があるのは1500年代、1700年代ということで、200年の間、なにもなかったのであろうか。もし、同じように茸が生えていたのなら、古文書にも、何らかの記載があってしかるべきだろうが、いっさいないということは、その間、黄色い茸は生えてなかったのかもしれない。とすれば、200年後に、何がきっかけで黄色い茸が生えたのだろうか。
 ある研究者が一つの可能性を示唆した。200年という周期で茸がでるのではないか、ということである。そんなに長い周期で生える茸はないだろう。だいたい、茸は温度湿度、土の成分、降雨状況、日照状況、実に多くの物理的化学的ファクターに影響される。もし200年周期とすると、1900年半ばに何か起きたという記録があってよいはずである。
 ところが、それがみつかったのである。第二次世界大戦の終わり頃である。それは1944年であった。その村では多くの男たちは戦争にかり出されて村にはいなかった。女性たちの多くも、もっと山の下の町に住まわされて、軍需工場で働かされていた。その村に残っていたのは老人だけである。その年疫病がはやり、多くの老人が病死したとある。栄養不足もたたったのであろう。病名は不明とあり、茸がでたということも書いていない。しかし、黄色い茸がでた可能性も否定できない。
 戦争が終わると、村の人が戻り、農作物、稲作をはじめたということであった。そのあたりは、山菜、茸類が豊富で、兎、鹿、猪、鳥がたくさんいた。下の町より、暮らしは楽であったのである。それから、今に至る間に、昔からの技術が回復し、織物、竹細工、など工芸品も有名になった。
 200年という周期を考えるとすると、2100年半ば、なにが起きるのか、茸塚を誰かが見つめていかなければならないのだろう。今、2017年であるから83年ほど後である。
 ここに記してきたことは、その村出身の大学四年生、Y氏の卒業研究の骨子である。考古学を専攻していたY氏は2017年大学卒業後、商社に入り、しばらくしてドイツに派遣され、ドイツ人と結婚をしてそのままドイツで暮らしていた。

 それからだいぶ時を経てからの話である。
 誰も茸塚の卒業研究に着目しなかったのであるが、2148年、その大学で人類学を専攻した大学院生が、Yの卒業研究に目を止めた。彼は縄文時代の人類に興味を持っていたことから、その学科の関係のある卒業論文から博士論文まですべて目を通した。そこで、その村のことを知ったのである。
 これからはその大学院生の活動記録である。
 彼はその村の現状をインターネットで調べた。信州の一つの市に属しているが、画像情報はなにもなかった。その町の人口は600人、昔の倍ほどにはなっている。農業が中心の町のようだが、竹細工織物などの昔ながらの手作り工芸品は昔と変わらず作られており、専門家にはなり好まれているようである。交通手段は全く昔のままで、ダムのところまでバスが走っているが、そのあとは自分で考えなければならない。茸塚のことに関しては記載がなかった。
 彼は夏休みを利用して、行ってみようと思った。
 八月には行った最初の月曜日、学割で中央本線を使って、その地に向かった。バスでダムのところで降りると、その村へいく市のバスが一時間に一本ほどあった。バスでダムまで来る途中にあった、市営病院やコンビニなどの店とその村をつなぐ市民バスである。それを40分ほど待ち、公民館前にやっとたどりついた。公民館前というのは都合がよかった。それにしても、百年以上前と交通の便は変わらない。恐ろしく取り残されている村である。今では浮遊式磁石電車、すなわちリニアモーターカーで東京から大阪まで一時間でいける。
 最後の市バスの時間を見て、公民館にいった。
 公民館の館長さんというのは市役所から派遣されている方だった。茸塚のことを知りたいというと、
 「私はここの出ではないので、よく知りませんのです、すいません、ここに保存されている古文書はご自由にお使いください、もし必要なら、老人を紹介しますが、はたして、新しいことはみつかるかどうかわかりませが」
 「いや、是非色々な方とお話ができるとありがたいのですが」
 ということで、彼は九十一になる竹細工の職人さんを紹介してもらった。六十五になる息子さんが後を継いでいるが、その老人もまだ作っているということである。
 小柄な人の良さそうな老人である。ただ、腕も太く、手の指は太くしっかりとしていて、いかにも細工を長い間してきた人の手をしている。
 「はあ、茸塚のことですな、もちろん知っていますし、考古学の人たちを案内したこともありますが、今では、誰が管理しているのかわからんほど放って置かれていますな、儂等の若い頃には、特に何もやっておりません、行ってみなさったかな」
 「いえ、まだ」
 「もう、社は朽ちて危ないので、とっちまったですよ、ただ、土が盛り上がって、石碑だけは立ってます。草が勝手に生えとります」
 「おやじさん、大昔の長老だったという家に何かないかね」
 息子さんがそう言ったのだが、老人は首を横に振った。
 「いや、あのうちの者は、そういったことに全く興味がなくて、古いものはみんなうっちゃっちゃったそうだよ」
 「茸塚に案内しましょうか」
 竹細工をしながら息子さんがそういったのだが、地図は持っているし、歩いて行けない距離ではないので、お礼を言ってお断りをした。もう、茸塚はこの村人たちの頭からはなくなってしまっているようである。
 田圃の中を歩いて、山際の斜面に、その茸塚はあった。
 三段ほどの石段があがると、五坪もないであろう、平らになっており、社を建てていただろうと思われる石がおいてあった。
 その真ん中の盛り上がったところに、石碑が建っている。崩れたような形になってしまっているが、茸の一字がどうやら見える。もっと細かな字も彫ってあるようだが、風化していてわからない。裏に回ってみても何か書いてあったにしても、全くわからない。石碑そのものの形も茸の形をしていたのかもしれないが、ただの崩れた筒のようだ。Y氏の卒業研究にかかれていた通りである。
 石碑の周りはクローバなどの草が覆っている。カラスノエンドウが細長い実をつけている。所々、草の間にシャツのボタンほどの黄色っぽいものがあったので、よく見たが、何かの芽生えのようでもあったが、草の名前はわからない。
 そんなことで、彼は大した収穫もなく、公民館に戻った。館長に、明日、朝から資料を見せてもらう約束を取り付けた。
 彼は中央線の駅の近くに宿を探したが、一軒のホテルしかなく、学生の身分ではちょっと高かったが、ともかく一泊することにした。
 明くる朝、ずい分たくさんの救急車のサイレンが聞こえてきた。
 枕元の時計を見ると、まだ6時だ。かなり大きな事故か火事だ。どこにいっても、サイレンはみな同じだ、自分のことではないのに、なぜか緊張する。
 シャワーを浴びて、朝食をとろうと、一階に降りると、フロントの中の女性がなにかそわそわしている。通り越してレストランにいくと、やはり、何かざわついた感じがする。働いている人たちの気持ちに、どこか集中力が欠けているようなのである。何かこのあたりで起きたのだろうか。
 朝食券をわたして、プレートをとり、バイキングに並んだ。4、5人いる。みんな早い。テーブルでもう食べている人たちもいる。食べている人たちに、緊張感はない。
 また、救急車のサイレンが聞こえてくる。
 彼はテーブルにつくと、通りかかったウェイトレスに「火事ですか」と聞いてみた。
 「いや、何か起こったみたいです」と、これから行くつもりの町の名前をだした。ちょっと身近に感じて、驚いたのだが、火事や事故はどこでも起こる。ただ、昨日会った老人が頭に浮かんだ。食事に身が入らなくなって、そうそうに引揚げた。
 彼がフロントで町の方にいくバスの時間を聞くと、中の女性が「え」っという顔をした。
 「今日、あそこにはいけません」
 道が崩れたりでもしたのだろうか。 
 「いえ、閉鎖されています」
 ヘリコプターの音が聞こえてきた。
 「どうしたのでしょうか」
 「すみません、駅に行かれるともっと詳しくわかると思います」
 こんな会話をして、彼は部屋に戻った。テレビをつけると、緊急ニュースがながれていた。あの村で原因不明の病気が発生したということが報道されていた。詳細は不明とのことで、鳥が急死する鳥インフルエンザが引き合いに出されていた。今、防疫隊がその町に入ったということで、その町への出入りは禁止ということである。昔、そのようはSF映画を見たことがある。ただ、鳥インフルエンザのようなものが人に起こると大変だということは聞いていたこともあり、ある程度想像がつく。
 きっと、何人かが亡くなったのだろう。昨日あった人たちは元気だったから問題はない。
 ちょっと駅に行って聞いてみた方がよいだろう。
 駅では、何事もなかったように業務が行われていた。早い通勤客だろう、いつもの様子で改札を通っていく。電車に遅れもなにもないようだ。
 バスのターミナルに行き、発券所にいって、様子を聞いてみた。あの町の方向へのバスは運休だという説明を受けた。保健所の方からも行くことを禁止されていますという話だった。
 ホテルの部屋に戻り、テレビをつけると、テレビ局も入ることをができないことから、写真で場所の説明をしている。ほかのチャンネルのニュースにまわした。そこでも同じようなことを言っていたが、救急隊が撮影したと思える映像を扱っていた。ちらっと映ったのは道ばたの草の中に黄色いものがみえた。昨日、茸塚の草の中で見たものと似ている。
 女性のアナウンサーが「なにの病気かわかりませんが、何人かの方がお亡くなりになったようです、保健所は鳥インフルエンザが人間にうつるようになった可能性を考えているようです、しかし、死んだ鳥は見られません」
 救急隊が撮った映像では、家の軒に止まっている雀を映している。
 「ペットや家畜にも影響がないようです、草や木にも異変はみられません」
 と、映像は畑の中を映し出した。そのとき、目に留まったのは草の中に、しおれた黄色い茸がかなり見られたことである。
 彼ははっと思いだした。Y氏の卒業論文に書かれていた茸塚の黄色い茸のことである。それに今、2148年は1944年からおよそ200年である。昨日茸塚で見た黄色いものが、Y氏が書いていた黄色い茸の芽生えだとすると、一晩で傘が開き、今朝胞子が飛んだはずである。
 彼は腕時計を見た。九時を過ぎている。もう公民館は開いているはずだ。村の公民館に電話を入れてみた。なんどか掛けたが誰もでない。忙しいのだろう。
 彼は、すぐに大学に戻ることにした。
 
 大学に戻った彼は、これらのことをPCにメモをした。もう一度、Y氏の卒業論文を開いてみた。黄色い茸は一晩で傘を開いて胞子をとばす。茸塚だけにのみ黄色い茸はでている。ホテルで見たテレビニュースでは畑にもしおれた黄色い茸らしきものがみえた。もし、黄色い茸が、町全体に広がっていたらどうなる。
 恐ろしいことである。
 しかし、それが現実になった。
 数日後、あの町の出来事が明らかになった。
 町の人は全員なくなっていた。ほかの動物たちには全く影響がなかったようだ。鳥インフルエンザではなく、感染性のものではないことがわかった。何らかが、人間の体に入り、細胞にアポトーシスという現象を起こさせることで、あっと言う間に死んでしまったらしいということである。アポトーシスとは遺伝子の問題だということであるから、人間の遺伝子だけに影響のある物質である。それは未知のものだということである。
 茸塚での祭りは、豊饒祝い、お礼の祭りではないとY氏は書いている。鎮守の祭りとある。黄色い茸が、その塚から広がらないように、祈ったのではないだろうか。茸を退治するため、石を熱して周りに埋めたのではないだろうか。それが、祭りとして伝わっていったのではないだろうか。よほど条件がよくないと発生しない茸だったのだろう。だが、200年という周期については専門家でないとわからない。
 大学院生の彼は、そのことを教授に言った。教授はまじめにその大学院生の言うことに耳を傾け、しかるべきところに、黄色い茸のことを伝えたのである。
 それをきに、茸塚の土壌中の菌糸について調査がはじまった。今の生命科学の進歩からすると、間もなく黄色い茸の正体が明らかになるだろう。
 ただ、国からその茸については他言してはならないと言われた。その毒性は化学兵器になりうるということであった。彼は国を信じることにした。
 その後、彼は茸塚の研究で学位をとった。
 彼はドイツにいるY氏の息子さんを探し、お礼の手紙を書いた。息子さんももう九十近いそうである。日本語で手紙を書いたのだが、誰かに訳してもらったようだ。ドイツ語で返事がきて、ドイツ語の先生に訳してもらった。父親の卒業研究が役立ったことを喜んでくれ、彼の学位取得を祝福してくれていた。Y氏は九十三でドイツで亡くなり、長い間、日本紹介の活動をしていたそうである。本当は人類学に進みたかったらしいということも書いてあった。
 

茸塚

茸塚

信州山奥の小さな町に茸塚とよばれる塚があった。そこに何十年に一度生える茸は死を呼ぶ茸だった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-07

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