Fate/Last sin -14

 天文台の、大きな天窓から最後の使い魔が帰ってきたとき、ちょうど背後のドアがノックされた。
「入りなさい」
 ムロロナ・ルシオンはドアの向こうに向かって声をかける。少し間が開いて、控えめな幅でドアが開き、その隙間から見慣れた金髪の頭がのぞく。彼女、すなわち妻であるクララ・ルシオンは、いつも通りドアの隙間から体を滑り込ませ、素早く扉を閉めた。施錠をするのも忘れない。
 クララがムロロナに向き直った時、ムロロナは口を開いた。
「一月二十三日、午後二時二十八分だ。かなり予定からずれたが、昨夜の全体の様子の報告と、今夜の目標行動の提案をする」
「はい」
 クララは従順に頷いた。普段は当主である夫に対しても堂々と渡り合う妻が、この時ばかりはそれらしく畏まっている。
 ムロロナは顎を引き、先ほど帰投した使い魔、三つの大粒の宝石を全て机の上にばらまいた。
「まず昨夜の偵察の報告だ。勢力は最初、主に三つに分裂した。アーチャー対アサシン、ライダー対ランサー、バーサーカー対キャスターだ。しかし深夜になってこれが大きく変動する。最も変化が大きかったのはライダーとランサーだ……途中、バーサーカーのマスターの襲撃を受け、急遽同盟を組んだらしい。昨夜の戦闘でバーサーカーが突然消失したのは、これのマスターによる令呪使用の為だと思われる。……ここまでで何か?」
「はい、セイバーの動向が不明です」
「セイバーはアサシンのマスターを聖堂教会へ誘導しようとしたが、失敗した。以降はアーチャー陣営に取って代わられ、目立った動きはない」
 淡々とした説明に、クララは納得したように小さく頷く。ムロロナは続けた。
「昨晩で脱落したサーヴァント及びマスターはいない。負傷したのはバーサーカーのマスターのみ。私たちは包囲魔術式に傷をつけられたが、工房は全く被害を受けなった。それを踏まえて」
「……バーサーカーを?」
 的を射たクララの答えに、ムロロナは満足げに目を細める。
「今、最も消耗しているのはバーサーカー陣営だ。マスターは負傷し、サーヴァントに十分な魔力供給が行えていない可能性が高い。加えて、キャスターの宝具はバーサーカーの戦闘方式に非常に有利をとっている。叩くなら今しかないだろう」
「では、どうやって? また此処に誘い込みますか?」
「それも悪くないが」
 ムロロナは天文台の床に敷かれた赤い絨毯を音もなく踏みしめながら、使い魔の宝石をつまみ上げる。
「この工房が二度も火の海になるのは感心しない。……だが他所なら別だ。丁度、バーサーカーとそのマスターを疎ましく思いつつ、巨大な工房を持て余している陣営が、この風見の最北端に一つ存在する。バーサーカーを撃墜させる舞台になった代償に、ほんの少し工房の中枢機能が破壊されてしまっても文句は言えまい」
 クララはわずかに目を開いて、その言葉の意味を理解した。それから美しい妻は、少し笑った。
「周到ですね」
「打てる手は打ち尽くすくらいが丁度いい。簡単に調べたが、この聖杯戦争という最高規模の魔術儀式に参加したマスターは誰も彼も三流が良いところだよ。だが油断できない部分もある。他が容易いからこそ、あらゆる危険は取り除くべきだ、そうだろう」
「ええ」
 夫の言葉に、妻はまた首肯する。だが一つ、言葉を付け足した。
「けれど忘れないでくださいね。聖杯戦争は何が起こるか分からないもの――前回、十一年前に風見で行われた聖杯戦争はたった五日で関係者が全員失踪しているし、そもそも前回から十一年という短い歳月で聖杯が出現することが不自然ですもの……」
 声を小さくしていくクララに、ムロロナは難しい顔をした。
「それは重々承知だ。ロンドンを発つ前、あれほど調べ上げただろう? 前回の聖杯戦争については不確定要素が多い。けれど、今回の聖杯が二〇〇七年の聖杯と何かしら関係があると断定されたわけではない。関係があったとして、私たちが聖杯に直接対処できるのは聖杯が顕現してからだ。それまでは順当に勝ち残っていく以外手はあるまいよ」
 そう諭した夫の言葉に、しかし妻は表情を曇らせたままだ。ムロロナは片眉を上げ、「ともかく」と言葉をつづけた。
「最優先事項はライダー・ランサー陣営と合流し、ランサー陣営の敷地にバーサーカーを誘い出すこと、それでいいかね?」
「……はい。その通りに」
 ムロロナはその返答を聞くと、すぐに三つの宝石の内の一つを手に取って天井へ軽く放った。手のひら大の石はそのまま空中で人工衛星が開くように変形し、天文台の天窓から流れるように外へ出て行く。衛星はそのまま、北の方角へと飛んで行った。
「何か不安があるなら口に出して言いなさい」
 衛星を見送ったムロロナは、天窓からクララに視線を移して言う。クララはばつが悪そうな表情で「いいえ」と首を振る。
「何も……私はあなたの勝利を信じていますもの」
「私が欲しいのは信仰ではなく合理的な意見だよ」
「……私は……」
 クララは若い頃より薄くなった唇をぎゅっと閉じて、深く息を吐いた。彼女が、何かとても言いにくいことを口に出さねばならないとき、こういう風に溜息を吐くのをムロロナは良く知っていた。
「……私はやっぱり、少し怖いわ。この儀式が本当に正しいものなのか、確信がないまま進んでいる気がするの……だけどそれは、きっと私が弱いからなのよ。わたしはあなたの勝利を信じたいのに……」
 彼女の語尾がどんどん小さくなっていく。翳った妻の表情に手を伸ばそうとしたそのとき、重い天文台の扉が二度、規則正しくノックされた。
「……誰だ」
「私だ。キャスターである」
 ムロロナは軽くため息をついて「入れ」と促した。間が悪いが、正直ほっとしているのがクララに悟られていないか気にかかる。
 キャスターはそんな主の心情など意にも介さず、重く巨大な扉を堂々と開け放ってずかずかとムロロナ達に歩み寄った。
「何の用だ。会話なら念話で十分だろうに」
「ところがそうもいかないのだよ、マスター。私のような曖昧模糊とした英霊との対話においては殊更に」
 キャスターは相変わらず感情の浮かばない謎めいた真紅の目でそのマスターを見た。そしてふわりとムロロナの目の前に立つと、改めてその薄く乾いた唇を開いた。
「報告することがある。私はマスターより与えられた地下工房で、昨夜から再開した作業を終えた」
 いやに改まったキャスターの言葉に、ムロロナは訝しがりながらも頷く。
「ああ、仕事があるとか、何かを視るとか、そう言っていたな」
「そうだ。そしてその作業とは、私が持っているごく限定的な千里眼のスキルを用いて、この聖杯戦争における自身の末路を見定めることだ」
「な―――」
 ムロロナは目を見開き、絶句した。クララも同様に息を呑む。キャスターは構わずに、淡々と続けた。
「私は、私自身の末路を極めて限定的ではあるが、観測することが出来た。その結果、ごく利己的ではあるが一つの判断を下したよ」
「ま、待て、キャスター」
 急いた口調で横やりを入れたムロロナを呆気なく無視して、キャスターは告げる。
「私は聖杯戦争を降りる」
 天文台の中は、まるですべてが消え去ったかのような沈黙に包まれた。キャスターの目はどこまでも冷え切った色で二人を見下ろす。二人の魔術師はたった今下された宣言を受けて、雷に打たれたかのように静止してキャスターを凝視していた。
「どういう……ことだ」
 静寂の重い膜を破ったのはムロロナだった。絞り出すようにして発した声も、キャスターの前であっさりと力を失う。
「どういう? どういう事か、私がわざわざ説明しなくても分かるのではないかね? 私は私の結末を確認した。そしてそれに付随する、ほんの少しの未来を視た。その結果を踏まえて最善の判断を下したに過ぎない」
「それでは何の説明にもなっていない。何を見て、どういう結末を知り、何故その判断に至ったのかマスターである私に説明できないのならば、令呪を以て従わせても構わないが」
 詰問するムロロナに、キャスターは呆れたように息を吐いた。
「全く臆病でどうしようもないほど高慢な魔術師の鑑だな。私が視た未来だと? 本当に君は分からないのかね? 君は魔術師だろう、そして私も魔術師だ。錬金術師であり、一度は世界の全てを理解し、人類を安寧の地に導くため根源にさえ触れた」
「待て。……すでに根源に到達しただと? それも生前に――」
「話を最後まで聞きたまえよ、マスター」
 キャスターの声色が、初めて苛立ちに似たものを含んだ。
「私に『生前』など無い。何故なら私は、過去の人間たちの妄信と祈りのみによって生まれた幻だからだ。クリスチャン・ローゼンクロイツは根源に到達し、自然の理を支配し、人間の魂の救済方法を得た、そう信じたい人間たちの都合の良い捏造に過ぎない」
「……」
「しかし何の偶然か、私という幻想は現実の世界に肉体を得てしまったのだ。 そして私は、私という存在を望むすべての人々の期待に、祈りに応えなければならない。すなわち、クリスチャン・ローゼンクロイツは、根源に到達するという結末を得なければならないということだよ、分かるかね、マスター」
 ムロロナは固唾をのんで自身のサーヴァントを見た。魔術師の全てが望むこと、それをキャスターである彼もまた当たり前のように望んでいる。そして彼と同じことを、自分自身も望んでいることを思い出した時、ムロロナの顔から血の気が引いた。
「まさか、お前が見たのは―――」
「その通りだよ、我が主。そして自分の望みの為にいずれ私を殺す男、ムロロナ・ルシオン」
「―――ッ」
 自分の想定の甘さに、ムロロナは壊れるくらい歯を食いしばった。握りしめた右手が震える。まさかこれほど早く気づかれるとは。いや、それ以前に、自分が自分のサーヴァントを制御しきれなかったという事実に、煮え滾るほどの屈辱感を抱く。
 このサーヴァントは、視たのだ。
 自分のマスターが聖杯を手にし、そして根源に到達する為に、自分を自害させる命令を下す瞬間を。
「なるほど……それで、自分の望みを聖杯に託す余地がないお前は、早々に見切りをつけて聖杯戦争を降りるという算段か」
 ムロロナは歯ぎしりをしながらキャスターに一歩踏み込んだ。背後に立つクララは微動だしない。
 キャスターは少しも凪ぐことのない水面のように表情を変えない。先程わずかに滲んだ苛立ちも既に消え去った顔で、
「そういうことだ。やっと理解してくださったようで光栄だよ」
 と口にする。その一言で、ムロロナは腹を決めた。
「そうか。では仕方あるまい。残念ながら最後の手段に出るしかないようだ」
「ちょっと、まさかあなた……」
 クララが後ろで動揺した声を上げた。だがムロロナは揺らぐことなく、右手に嵌めていた白い手袋をするりと捨て去る。白く筋張った手に浮かぶ赤い令呪が、脈のように波打ったのがクララにも見えて、彼女は小さく息を呑んだ。
「聖杯戦争を降りるだと? マスターに従わねばこの世で息をすることもできない英霊の複製物如きが大した口を叩いたものだ。その度胸は褒めてやろう」
「……臆病な穴倉の鼠に何と言われたところで、春の微風にも及ばん」
 キャスターの明確な挑発に、しかしムロロナはピクリとも表情を変えなかった。冷酷に徹した魔術師の表情で、右手を静かに持ち上げる。
「伝承の上でどれだけ強力な魔術師だろうと、私の従者である限り貴様は永久に私の思惑通りに動くしかない。そのことをもう少し自覚してもらいたいものだ。……最後に問おう、キャスター。私に従順に、尚且つ懸命に、無条件に隷従(れいじゅう)する気はあるか?」
 沈黙が降りた。その間、誰もその唇を開かなかった。呼吸さえ抑圧されて止まったかのような数秒の沈黙の間、キャスターは一度もムロロナの顔から目を逸らさなかったが、終ぞ口を開くことは無かった。
「……残念だ。君は折角、『ルシオン家が聖杯を手にし根源に至る』という最上の予言を与えてくれたのに」
 その瞬間、キャスターがわずかに唇を開きかけた。だがサーヴァントが声を発するよりも先に、マスターが鋭く宣言を下した。

「令呪を以て命ずる! ―――私に従属し、己の最大の力を行使して私に予言通りの結果をもたらせ!」

 音も無く、白い閃光が眼前で弾けた。網膜を焼くかのような一瞬の光に、その場にいた誰もが瞼を閉じる。
 やがて鮮烈な光が消え、強く焼き付いた残像が薄れていき、視界が元の曇り空の下の天文台へと戻った時、キャスターは床に両膝を就き体をくの字に折って、「ふ」と一言、息を漏らした。
「……何かおかしいか」
 ムロロナは三画のうちの一画が掠れて消えた令呪を再び白い手袋で覆いながら、キャスターを睨む。睥睨(へいげい)された魔術師は体を折ったまま、ただ、「いや?」と答えた。
「令呪というのは実に強力な装置であるということを、身を以て実感したまでだ。あれだけ雑な命令がこうも強制的に発動するのだから、やはり君は恐ろしい魔術師だ、全く――――」
 老獪な青年魔術師はそう呟いて、顔を上げた。白く細い前髪の隙間から、力を失った赤い虹彩がムロロナを見上げる。
「良いだろう。君の命令は強制的に、尚且つ確実に遂行される。君は言った。――己の最大の力を行使しろ、と。その言葉を、後になって悔やまないことだ。君は特別、肝の小さい貴族の坊ちゃんのようだからな」
 不吉な予言のような言葉にムロロナは一瞬たじろいだが、すぐに目を細めて眼鏡越しにキャスターを一瞥すると、何も言わずに机上の使い魔の宝石を二粒ひったくるように取って足早に天文台を出て行った。クララはうずくまるキャスターを気にしながらも、夫の後を追ってパタパタと扉の前へ歩いていく。
 その背に、不意にキャスターの声がかかった。
「マスターの妻―――クララ・ルシオンと言ったな」
 クララはびくりと肩を震わせ、立ち止まる。だがキャスターの方を振り返ることはせず、扉のドアノブに手をかけたまま、
「何かしら?」と、か細い声で答えた。
「一つ忠告をしよう」
 キャスターは提案した。
 クララはそれを、小さく首を振ることで拒否した。細い金髪が、ゆらゆらと波打つように揺れる。
「いらないわ。……私は、迷わない。どんな形であれ、キャスターが私達に与えた予言は、私達にとっての救いだもの。私は彼の勝利を信じる」
 それから少しの間があって、
「……あなたにとっては不本意で屈辱的な事ね。けれどごめんなさい。私達はあなたを足蹴にして進むしかないの」
 そう言ってクララは静かに天文台を出て行った。
 一人残されたキャスターは床にうずくまったまま、瞼を閉じた。
「……その言葉を、決して忘れるな」





 自分の心臓より奥底に仕舞いこんだものが、マスターの令呪を受けて少しずつ、少しずつ漏れ出て、足元へ、足元から天文台へ、天文台からこの屋敷へ、そして屋敷の外へ――波紋のように伝っていくのが分かる。
 キャスターは瞼を閉じた暗闇の中で、その波紋の中心に立っている自分を想像した。
「もう少し抵抗した方が、真実味があっただろうか?」
 そんな事を独り呟いたが、答える人間はいない。
 自分の足元から湧いた波紋の先で、何かが波を被る気配がした。虚ろだった自分の指先が、急に確かな肉を得たような感覚に陥る。
 さらにまた遠くで、誰かが波を被った。弱弱しかった骨が、確かに質感をもって存在するのが分かる。
 さらに遠くで、誰かが波を被った。自分の記憶が、まるで手に取るようにはっきりと明快になる。
 キャスターはゆっくりと目を開けた。
「全てを救う方法を知っているなら初めからそうしている」
 言い訳をする。再び長く目を閉じたら少し前に見た自分の結末と、それに付随するほんの少しの結果をまた目にしてしまいそうで、キャスターは目を開いたまま天文台の中に、塔のように立ち上がった。
 これはささやかながら、自分が視た未来に対する叛逆だ。いや、そう言えるほど大それたものでもない。ただの悪足掻きだ。こうなった上での展望などまるで無いし、この聖杯戦争において何が最善なのかも分からない。
 だがこのまま停滞していては意味がないのだ。最悪から遠ざかるように足掻くためなら、どんな手段も厭わない。
「出来るだけ前に。そして出来るだけ遠くへ。出来るだけ想定外を。そのために、そのために私は―――――」
 キャスターは天窓を見上げた。白く輝く冬の曇り空が視界を塗りつぶす。
 またどこかで、誰かが波を被った。

 

Fate/Last sin -14

Fate/Last sin -14

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-06

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