愛と命

第一章  初恋の花

 細波が寄せる浜辺の道を制服を着た一組の男女が微笑みながら歩いて行く。ともに中学二年生の、藤堂千佳と池田達也であった。ふたりは家が隣どうしということもあって、幼い頃からまるで兄弟のように育ってきた。達也は4年前に最愛の母を亡くして,今は市会議員の父と二人暮らしである。ともに一人っ子という点では千佳も達也と同じであったが千佳には両親も祖父母もいた。父は順調に会社を経営していて、母は家事に専念していた。父方の祖父は、外資系会社の役員として今はカナダで祖母と共に暮らしている。二人ともいわゆる裕福な家庭で育ち、特に千佳はそういう面では何不自由なく今の年齢を迎えていた。ともあれいつもこの二人が肩を並べて歩いていても、街に住む誰もが不思議には思わなかった。いや、むしろ一緒でない方が不自然にさえ感じていた。
『兄妹でもああはいくまい』と二人の爽やかな笑顔は人々の目に、現在(いま)多くの若者たちが失ってきた何かを蘇らせてくれた。
今日もまたいつものように夕陽を受けた二つの影がその身長の倍ほどの長さで地に並んでいた。
その短い方の影が止まった。
『ね、たっちゃん久しぶりに砂浜に降りてみない!?』
千佳は頬に特徴的な小さなえくぼを浮かべて言った。
『そうだね』
達也は笑顔で頷き、さっさと石段を降りて行く千佳に続いた。達也には気がつくはずもなかったが、千佳にとって今の達也はもはや、幼友達の感覚ではなかった。いつ頃からなのか、千佳の心の奥深くには、達也に対する「愛」がそっと芽生えていて、淡い初恋の香りが清純な千佳の心の中に漂っていた。砂浜に降りると海を渡ってくる夏の名残を含んだ潮風が千佳の髪を優しく揺らしていった。太陽は、今日の思い出を運んでいくように、今その姿を隠そうとしている。千佳は小石を海に向かって投げた。千佳がここに来ると必ず見せる仕草である。小石はまるで
今の千佳の心を物語るようにあくまでも透明な海水に揺れながら沈んで行く。
海面には小さな波紋が広がりすぐに消えた。
千佳は気づいていた。自分の達也に対しての「愛」に。しかしそれが「恋」であることには、まだ気づかなかった。
「愛と恋」この微妙な言葉の違いさえが今の千佳には必要だった。ただそのどちらにせよ確かに千佳はこの年代に相応しい女性としての心の扉を開こうとしている。そして千佳の、決して早くはない初恋の相手が達也であることは至極自然であった。
今日まで物心がついてから幾年(いくとせ)千佳と達也の間には何事も隠し事をしないといった不文律のようなものが自然と生まれていたが、千佳は少しだけその約束を破っていた。
千佳の性格からして今更、達也に向かって 「好きになったみたい」などとは言えなかったのである。
しかし、この時、もし千佳の精神がもう少し大人に近かったら、それとも、もう少し思いのままを言える子であったなら今、この日暮れの浜辺はその心の一部分を告白するにふさわしい情景であった。だが千佳はそのどちらでもなかった。
「もうすぐテストだね。今度の数学は範囲が広いからいつも以上に苦しみそう」
千佳が海を背にして、手についた砂を払いながら達也に言った言葉が、この場での会話の始まりだった。
「そうだね。特に中2の2学期のテストは僕達にとって一番大切な時だもんな」
「たっちゃんは大丈夫よ。頭いいから!普通にやっておけば、何てことないじゃない」
千佳が達也に近づきながら言うと
「そうはいかないよ。
もうそろそろ全国を見なければいけないし………。学校での成績が良ければいいっ てもんじゃないだろ?」
達也は千佳の眼差しに向かって言った。 
「あら、それって私たちの学校のレベルが低いっていうこと!?」
「そうじゃないよ」
達也は、はにかみながら近づいてきた千佳の頭を軽く叩いた。
「痛っ!!」
千佳は大げさに飛びのき
「ふふふ………。たっちゃんは本当に冗談が通用しないんだから」
「悪い冗談だよ」
達也は強い口調で言った。「たっちゃんもしかして怒ったの!?」
千佳が心配そうに達也の顔を覗くと、
「ははは、怒ってなんかいないよ。けっこう千佳も冗談通じないじゃないか」
「もう、たっちゃんの意地悪」
千佳は、達也の肩を小突いて
「でもたっちゃんはあんなに陸上でも活躍しているのだから、どこかの学校に誘われるんじゃないの!?」
「それは分からないけど………。でも、楽はしたくないんだ」
「楽ってことはないと思うは、誘われるって事は他の人より頑張ってきた証拠だし今からも頑張るってことでしょ?」
千佳の言う通り達也は、は県内の陸上大会において、中学生の短距離部門で好成績を残していた。
達也は、少し間を置いて、意を決したように
「もう、陸上は辞めようと思ってるんだ!」
千佳は驚いて
「えっ。たっちゃんあんなに頑張ってたのに急にどうしたの?」
千佳は怪訝そうに聞いた
「東西高に入るには何かを捨てなきゃあならない。僕には捨てるものといえば陸上しかないからね」
更に
「このままじゃ、どっちもどっちということになってしまいそうだし、先のことを考えると、僕の場合は陸上をやめたほうがいいと思うんだ」
「それじゃあやっぱり東西校を目指すの!?」
「うん。お父さんの希望でもあるしね」
「そう。大変だよね」
「でも東西校に入ってしまうと、お父さんが一人になってしまうだろ。少し心配なんだ」
千佳は二度頷いて
「たっちゃんの優しさね」
「お父さんは寂しがり屋だから」
「そうね、おじさんの仕事が仕事だし………。それでおじさんは何て言ってるの」
「だからお父さんは、東西高が希望だって言ってるじゃない」
「あっ、そっか。テへ」
千佳は舌を出して笑った。そして気を取り直して
「なら、何の問題もないじゃない」
「簡単に言うよな千佳は、でも僕にとっては結構深刻な問題なんだぜ」
達也は苦笑しながらも、千佳のさらっとした言葉は好きだった。いつでもそうである。千佳が誰かと同じ言葉を言っても、その響きは他人(ひと)とは何かが違っていた。
「お父さんが早く再婚でもしてくれれば心配しなくてもいいけど、何だかそんな気はまだなさそうだし………」
千佳は目を輝かせて。
「ね、たっちゃん、名案があるわ」
「ん………?」
「私がおじさんのお嫁さんになるのよ」
「そりゃ名案だ………!って、アホ!!
「やっぱりダメか」
「何、考えてんだよ」
「おじさんなら私、お嫁さんになってあげてもいいわ。たっちゃん、私がたっちゃんのお母さんになったらどうする?」
「千佳、テレビの観すぎだよ」
二人は声を出して笑った。
「何でもいいけど、茶化すなよ。こう見えても、僕にとってはけっこう深刻な問題なんだぜ」
「ごめんなさい。それにしても、おばさんは綺麗だったし、おじさんと超仲良しだったから、忘れられないのよきっと。生意気なようだけど、なんだか私にもおじさんの気持ちがわかるような気がする」
千佳は元気な頃の達也の母の姿をを鮮明に思い出していた。達也のの母、 静江 は町内でも屈指の美人で、達也の自慢の母だった。千佳も自分の母親と同じように懐いていたし、静江もまた達也の父がそうであるように、千佳を我が子のように可愛がっていた。その静江を若くして胃がんで失った達也の父、高志は当時、悲惨な落ち込みようで、周りの人を心配させていたが、一方で母を失ったまだ小学生だった達也の気丈な振る舞いは、多くの人たちの涙を誘っていた。千佳はその全てを目撃していたのである。そして達也を慰めるように、
「おじさんだってまだ若いのだし、そのうち良い人が現れると思うわ。
それに、後のことは心配しないで!私たちがいるから大丈夫よ。ちゃんとするから」
「ありがとう」
達也は千佳の思いやりが嬉しかった。口にこそ出さないが、達也は自分にとって母のいない日々を千佳やその家族によってどれほどに救われ、勇気づけられてきたかを十分に認識していたし、感謝もしていた。
「ところで、やっぱり千佳は獣医を目指すの!?」
「うん。できたらそうしたいけど、
でも今の私の成績じゃ無理かもね」
千佳は手を後ろに組んで、足元の砂をそっと蹴る仕草を見せた。
「本当言うとね、少し迷ってる。私はお馬さんが好きだから、その道に進みたい気持ちもあるし、結構その方面の勉強もしてるんだ!」
達也は笑みを浮かべて
「そうだったよな。千佳の動物好きは有名だし、特に馬の話になると話が止まらなくなるものな」
「でも、お馬さんの話をしても誰も喜んでくれないわ」
「ハハハ。それは仕方ないよ。趣味の問題だし………。でも、千佳はどうしてそんなに馬が好きになったんだ?」
「分からない。気がついた時には好きになってた」
「うん。好きになるってそんなものかもしれないな。でもそんなに馬のことが好きなら、騎手にでもなれば!?」
「今更それは無理よ。私、運動神経良くないし。それに私にはお馬さんを叩くなんてできない」
「そうだよな。運動神経はともかく、千佳らしいよ」
達也にはその理由がおかしかったが、それ以上は触れなかった。
「お馬さんに乗らなくても、お馬さんに関わる仕事はたくさんあるわけだし………。私のしたいことがそのうち、きっと見つかると思うの」
「そうだね。まだ時間は十分にあるんだし………。でも、千佳は偉いよな。
もう将来に目的を持って進んでいるのだから」
「そうかなあ。私は、ただ好きなことをしたいだけ。たっちゃんこそ、大きな目標があるじゃない」
「僕は今のところ東西高って言うだけだし大したことない。それに、その先はまだ見つけてないし、千佳とは比べ物にならないよ」
「ううん。そんなことない。東西高ってだけでもすごいことだし、たっちゃんならその先だってきっと大丈夫よ」
「ハハハ、まだ分からないよ。ほんと、千佳と話をしていると、なんだかその気になりそうだな」
「でも、たっちゃんと離れるのは少し寂しいな」
「少しだけ!?………。だけど、たまに会うのもまた、新鮮でいいかも」
笑顔の達也が言ったが、それは、今の千佳には達也の心ない一言だった。千佳は「泣いちゃうかも」という言葉が喉元まででたが言えなかった。涙が出そうになった。「たっちゃんのバカ」千佳は心で叫んで、達也から顔を背けた。複雑な乙女の心境と言わざるをえまい。普通なら「いっぱい寂しい」と言えてた。1ヶ月前までなら。いや、昨日までなら。
 やがて太陽は完全に姿を消し、深まりゆく秋を象徴するかのような筋雲が、黄昏時の空に複雑な模様を描いていた。日の入りと共に風も一変して、肌に冷たくさえ感じられた。千佳にはこの短くて平凡な会話の一つ一つさえが、心に芽生えた愛を育てていったのである。その愛はまさしく千佳の小さな胸に咲いた初恋の花のつぼみであった。
「少し寒くなってきたね、帰ろうか」
「そうだね」
達也も頷き、二人が語り合った証拠を示すように、白い砂地に付いた賑やかな足跡を残して薄暗い石段を上がって行った。
千佳と達也の家は、海沿いの道を少し上がったところに並んで立っていて、達也の家は近代的であったが、千佳の家はいかにも旧家らしい佇まいを見せていた。
その達也の家の玄関先に来て、千佳は
達也がドアの鍵を開ける姿を何気なく見つめていた。達也はそんな千佳に、
「千佳、どうしたの?」
「えっ。ううん何でもない。じゃあね」
千佳は慌てて、振り向いた達也に照れ隠しをするように、胸の前で手を振り足早に自分の家の木戸を入って行った。
千佳の家の庭は広く、千佳の家らしい様々な種類の花や野菜が植えられていた。
「お母さんただいまぁ」
千佳が明るい声をかけると、
「お帰りなさい。遅かったね」
母、陽子の声が台所から聞こえた。
「うん。たっちゃんと少し寄り道してたから、ごめんなさい」
千佳はすぐに制服を着替えて、母の居る台所へ入って行った。
「お、肉じゃがじゃん、どれどれ」
台所に入った千佳は、いきなり鍋の中の芋を手で掴んで口に入れた。
「またお行儀の悪いことをする。いい加減になさい………。これ達也君に持って行って」
陽子は、今、出来たばかりの料理を器に入れて千佳に渡した。千佳がそれを達也の家へ届けた時、達也はちょうど食卓テーブルに向かって即席のラーメンを食べ始めるところだった。それを見た千佳は、
「おっとっと、待った。またそんなものを食べてる」
千佳は持ってきた肉じゃがをテーブルの上に置いて、まるで我が家のように食器棚から茶碗にご飯をよそい、達也に出した。
「ありがとう」 
わずかに微笑みを浮かべた達也は、
「いただきます」と、言って、うまそうにそれを食べ始めた。千佳は達也のこのような光景を度々目にしていたが、今更ながら、おばさん、こんなたっちゃんを残してなぜ死んでしまったの。と恨まずにはいられなかった。
「たっちゃんは頭もいいし、性格もいいけど、この方面だけはまるでだめだよね。一体何度言ったらわかってくれるの?大切な時なんだから、面倒でも頑張ってちゃんとしたものを食べなきゃあ」
千佳の思いやりのある小言であったが達也は箸をを手にしたまま、
「たまたまだって」
「そう?そのたまたまを私は何度も見かけるわ」
「……………。」
「たっちゃんにはまだ料理なんて無理なんだから、お母さんの言う通り、夕食だけでも私たちと一緒に食べればいいのよ」
確かに、以前、千佳の父、繁が、そのことについて、達也の父、高志と話しあったことがあったが、高志は、
「いくら親しくてもけじめだから」と、断った経緯があった。達也にも祖父母はいたが、仕事の関係上、東京を離れる事は出来なかった。高志の帰りはいつも遅く、達也は必然と、一人で食事をすることが多く,近くの食堂で夕食を済ませる事が多かった。 
「それにしてもおばさんの肉じゃがは最高なんだよね。悪いけど千佳には絶対に出せない味だよな」
千佳はムッとして、
「たっちゃん聞いてるの?」
達也の正面に座り口を尖らせて言った。
「何を?」
「何をって………。呆れた」
「分かったよ。明日からちゃんとしたもの食べるから」
「それに何よ、私には絶対出せない味って」 
「だってほんとだろ?」
「そんなこと言うんだったら、私、もうたっちゃんに何も作ってあげないから」
達也はニヤリとして頭を下げ、
「はい、ごめんなさい」
「あっ、本気で謝ってないし………」
千佳も吹き出しそうになりながら怒った。
達也が食べ終わり、千佳が洗い物を終えて、
「それじゃあ私、帰るね。お風呂入れとくから」
「ありがとう」
「ね、たっちゃん背中流してあげよっか!?」
千佳が精一杯の冗談を言った
「ついでに一緒に入ってもいいよ」
達也の返しの方がきつかった
「キャーッたっちゃんのエッチー!!」
千佳は顔を真っ赤ににして、玄関を出ようとした。が、達也に振り返って
「ね、たっちゃん、テスト終わったら映画観に行かない!?」
「何の映画?」
「別に何でもいいの」
「オッケー」
「約束よ」
話しは簡単に決まり、千佳は達也の靴を揃えて、玄関を出て行った。

第二章   父からの贈り物

達也の家を出た千佳は、そのまま家の中には入ろうとせず、縁側に腰をかけて両足をぶらつかせながら空を見ていた。千佳は夜空を見るのが好きだった。静かな宵に、虫の競うような鳴き声が絶え間なく千佳の耳に入ってきた。星は満天を覆っていて、誇らしげにその身を輝かせていた。千佳はただ静かに、宇宙の神秘を見つめていた。しかし、やがて襲ってくる千佳への運命のいたずらを、今この時この星たちは気づいていたのか。この瞬間、千佳の気持ちは、ただ、訳の分からない達也への、複雑な思いでいっぱいだった。今、達也と別れたばかりなのに、もう会いたくなっている。「この気持ちはいったい何?」と、考えてもわからないもどかしさに、そうつぶやくしかない千佳であった。千佳は中学生になってから毎日欠かさずに日記帳を書いていたが、ここにきて、その内容にも明らかな変化が現れていた。今までの千佳の日記帳には、「苦しみ」や「悲しみ」の文字はなかった。それほどまでに、この島に降る太陽の光は、千佳の身も心も、すくすくと育ててくれたが、その太陽も千佳の初恋についてまでは関わりたくなかったようである。果たして、今の千佳の日記帳には、達也への慕情を意味する言葉でそのほとんどが埋められていた。そんな千佳ではあったが、少なくともまだ苦しんでいる様子はなく、その麗しい瞳は星の光を映しながら、澄んだ秋の夜空を旅しているようだった。
どれほどの時が過ぎたのか、やがて繁が帰ってきた。繁は縁側に座っている千佳を見つけると
「ただいまあ、千佳、どうした?」
「あっ。お父さん、お帰りなさい。星が奇麗だから見てたの」
「星!?」
繁は空を見上げて、千佳に視線を移すと、
「恋でもしたのかい!?」
冗談っぽく言った。
「お父さんどうしてわかるの?」
繁は本気に驚いた様子で、
「なんじゃ………??」
「フフフ。冗談に決まってるじゃない」
千佳は縁側から立ち上がり繁の鞄を手に取った。
「脅かすなよ」
「あら、どうして驚くの?私が恋をしたって別に不思議じゃないでしょ?」
千佳が真顔で言うと、
「そりゃそうだけど、いきなりそんなこと言われるとびっくりするよ」
「そんなに驚くなんて、何だか、先が思いやられるなあ」
千佳の本音だった。
「娘の父親ってそんなもんだよ」
「心配しないで。好きな人が現れたら、お父さんに一番に報告するから」
千佳は、小さな嘘をついた。
根の明るい繁は、
「お父さんのような恋人をみつけるんだね」
千佳は、
「うわあ、出たあ」
と、二人は笑いながら、肩を並べて玄関を入っていった。
言うまでもなく、繁にとっても、千佳は命そのものであった。
繁は、家に入ってすぐに風呂に入った。風呂場から繁の歌う、尾崎豊の曲が聞こえてくるのは、いつものことであった。
千佳と、陽子が食事の準備を終えた頃、繁も風呂から上がり、三人は食卓に着いた。
陽子が繁にビールを注ぐと、繁はそれを美味そうに一気に飲み干した。繁は、空になたコップをテーブルの上に置いて、千佳に向かって言った。
「千佳、すごい話があるんだ」
千佳は、ご飯の箸を止め
「なあに、スゴイ話しって?」
陽子は、千佳に向かって、
「千佳、期待しない方がいいわよ、お父さんのスゴイは大したことないんだから」
「それもそうね」
千佳もわざと無視するかのように笑って箸を取った。
「いや、本当にすごいんだって」
繁がいつになく真剣なので、陽子は
「なら、勿体ぶってないで早く、言ったらどうですか?」
繁は憮然とした表情を浮かべて、
「言おうとしたら、君たちが話しの腰を折ったんじゃないか」
繁のふくれ面に、陽子は、千佳に向かって笑った。
「ごめんなさいお父さん。ね、そのスゴイ話し教えて」
繁は気を取り直して、
「真面目な話し、今日ね、長野の武次おじさんから電話があって、馬を飼ってみないかと言ってきたんだ」
「馬!?」
千佳と陽子は、ほぼ同時に声を上げて、目を合わせた。
「馬って、本当の馬?」
陽子が、聞くと、繁は
「決まってるじゃないか。正真正銘の本当の馬。おもちゃの馬とでも思ったのかい?」
繁が、誇らしげに言うと、陽子は、
「そうじゃないけどあまりに、唐突なものですから」
「だから、最初から、スゴイ話しだって言っただろ」
「………。」
千佳と陽子は顔を見合わせた。
その千佳は、再び箸を置いて、
「ね、ね。どういうことなの?」
特に千佳はあまりの偶然に驚いた。つい先ほどまで、達也とその話をしていたのだから。
「それって、おじさんが馬をくれるっていうことなの?」
陽子が訪ねると、繁は
「もちろん、そういうことみたいだよ」
「何でまた、おじさんにとって、そんな大切なものを?」
「うん。それなんだけど、なんでも一歳のサラブレッドで、ジェンヌという名前の雄馬で、そこそこの血統馬らしいんだけど、生まれつき前脚のバランスが悪くて、競走馬としてやっていくのは難しいらしいんだ」
「ジェンヌ。いい名前ね」
千佳が呟いた。繁は、
「君たちは知らないと思うけど、競走馬の世界は、とんでもない良血でない限り、実績のない馬は、種牡馬になることはできないし、ましてや、一度も走ったことのない馬に、種付けを依頼してくる馬主なんて、あり得ないからね」
陽子は、
「つまりは、どういうことなの?」
「この世界では、生きてゆけないって事だよ」
「じゃあ、その馬はこのままだとどうなるんですか?」
「千佳の前だから言いたくいね。でも走るために産まれてきた馬が、走れないんではね………」
繁は言葉を濁したが、千佳は、
「私、知ってるわ。最悪の場合、殺処分になるんでしょ!?」
「………?」
陽子は、
「難しいことは分からないけど、なんだか可哀想。それであなたに?」
「うん。うちは庭も広いし、賢そうな馬だから、飼ってみないかと言ってきたんだ。それに、以前、長野に遊びに行った時、千佳が馬にスゴく興味を持っていたことを、おじさんが覚えていたらしくてね」
陽子は、
「変なことを覚えていたのね………。それであなたはどう返事したんですか?」
「もちろん、僕だけで決められないし、家族と相談してからと、言っておいたんだけど、おじさん、急いでるらしいんだ」
陽子は、
「経験も無いのに、私達に馬なんて飼えるかしら?」
と、繁に再びビールを注ぎながら言った。
「いや、僕の学生時代に、少しだけおじさんの牧場でバイトをしたことがあってね、全く経験が無いわけでもないんだ。それに、おじさんの話しでは、今では、餌も簡単に手に入るし、適当に運動さえさせてくれたら良い、って言ってるんだけどね」
黙って繁と、陽子の話しを聞いていた千佳は、
「私、欲しい、絶対ほしいわ。ね、いいでしょ?」
繁は、苦笑しながら
「千佳の気持なんて、聞かなくても最初から分かってるけど、陽子は?」
「………!?」
「お母さんの協力が無ければ、飼えないからね」
千佳は、
「私、お馬さんに関わるお仕事に就きたいと思ってたし、ちょうど今日、たっちゃんと、お話もしたところなの。ね、お母さん、いいでしょ?」
千佳の、めったに見せないおねだりだった。
陽子は、口を開いて、
「でも千佳は、これから、入試を控えて、いろいろと大変なのよ」
「わかってる!分かってるわ。私絶対、お父さんやお母さんの期待は裏切らないから」
陽子は千佳に視線を向けて、
「千佳のことはお母さん、信じてるけど。そんなことより、千佳。お父さんの顔を見てみなさい」  
「お父さんの顔??」
陽子は、
「千佳、以外と鈍いわね」
「何が?」
「この、お父さの顔は、もう飼うことを決めてる顔よ」
千佳は、繁の顔を覗き込みながら、
「そうなの?お父さん」
繁は苦笑しながら
「まあね。普段忙しくしてるから、千佳に、最高のプレゼントになると思ってね」
陽子も、反対の意思を示さず、
「あら、美味しいこと言っちゃって」
「じやあ決まりね。お父さん、お母さん、ありがとう。最高のプレゼントよ」
千佳は嬉しさのあまり、食事さえ忘れていた。
「お礼なら武次おじさんに言うんだね」
「はい。今度おじちゃんに、電話しとくね」
千佳が言ったが、
「後でお父さんが、おじさんに電話するから、その時言えばいいよ」
陽子は
「それで、お馬さんはいつ頃来るんですか?」
「そうだね、馬となると、庭の整備などもしなきゃあならないし、二ヶ月後くらいかな」
「楽しみだわ~!」
千佳の目は、父からの思わぬ贈り物に、星のように耀いていた。
千佳には、馬に関わるエピソードがかなりある。例えば、
千佳が小学校2年生の夏休み、一家は武次の経営する長野の牧場を訪れたことがある。その牧場には10頭ほどの競走馬達が飼育されていた。ある日、千佳たち3人は、広々とした牧場を武次に案内してもらった。そこには産まれて間もない馬の親子が揃って歩いていた。基本的に、母馬は、仔馬に近づくことを極端に嫌うものである。飼い主の武次でさえ、仔馬に近づく時は細心の注意を払っていた。千佳はそれを見つけると、スタスタと仔馬の方に近づいて行こうとした。当然、武次は止めようとしたが、繁が制して、
「おじさん待ってください」
と、千佳の行動を見つめていた。
千佳は仔馬の傍へ行くと、仔馬に抱きついて、首のあたりを撫で始めた。
武次はハラハラとしながら見つめていたが、母馬は、武次の意に反して、千佳の周りをくるくる回りながら、千佳の腕を舐め始めて、甘える仕草さえ見せた。
「こりゃびっくりしたなあ。あり得んことじゃ」
武次の声だった。
千佳は母馬の顔も撫でて、平然とした顔で、唖然として、千佳の行動を見つめていた武次たちの元に戻って来た。武次は千佳の頭を撫でながら、
「千佳ちゃんは、人とはちょっと馬との接し方が違うようじゃの」
千佳は、嬉しそうに、
「お馬さん、もっと遊んで!って言ってたよ」
「………。」
「仔馬さんが?」
陽子が笑いながら聞くと。
「ううん、お母さんの方」
武次は、真顔で
「千佳ちゃんは不思議な子じゃ」
と、繁に向かって言った。
 もうひとつのエピソードは、これも千佳が小学校2年生の春のことである、阪神競馬場では桜の咲く中、4月の日曜日には毎年一度、三歳の牝馬の祭典、桜花賞が開催される。千佳たち3人は、その阪神競馬場に行った。そして、いよいよ桜花賞のパドック(馬の下見所)に、今年選ばれた18頭の牝馬の精鋭達が列をなして歩きだした。千佳は。一番前の列で食い入るように馬達を見つめていた。
パドックの周回も終わりに近づいたころ、
「千佳、一番走りそうな馬わかるかい」 
繁は、専門紙を片手に笑いながら聞いた。
「うん、分かるよ」
「えっ!?」
予期せぬ返事に、繁は驚いた。
「7番か14番」
千佳はサラッと言った。
「何でそう思うの?」
「だってそう見えるんだもん」
千佳がそう言った以上、繁は買わないわけにはいかなかった。パドックを去った後、勝馬投票券のマークシートの馬連の欄に7と14に印を入れた。
果たして、スタート直後、馬群の中に居た、7番と14番は4コーナーを回って、直線を向いた途端に、二頭とも馬群から抜け出して、正に、千佳が言った二頭のマッチレースになった。結果7番が一着になり二着が14番で馬連の払戻金は、3300円の中配当になった。もちろん、その時は、繁も、陽子も偶然だとしか思わなかったが、その日の夕食が豪華な物になったことは言うまでもなかった。
と、いうように千佳の馬に関するエピソードを語れば、両手の指が必要だった。
ともあれ、そんな千佳の元に馬がやってくる、千佳は嬉しさのあまり、幼子のようにはしゃいでいた。

愛と命

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  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-06

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