傘が咲く

 今朝は妙な夢を見た気がして目が覚める。朝だというのにやけに暗い。カーテンを開けて窓から外を眺めてみると、空を低く覆う灰色の雲が、糸みたいな細い水滴をぽつりぽつりと落としていて、窓ガラスをじっとり濡らしていた。
 テレビを点ける。ちょうどニュースで天気予報をやっている。各地で大雨と誰でもわかるようなことを言っている。僕はそれを横目に冷蔵庫を漁って、そこに袋ごと無造作に入れている冷たい食パンを生のまま食べる。消費期限は切れているけれど、カビなどは生えていなかったし、味も特に変に思わなかったから大丈夫だろう。
 時計を見やる。今日もぎりぎりで起きてしまった。テレビを消し、適当に歯を磨き、そこらへんに洗濯もせずにほったらかしにしている服を着て、教材やらノートやらをごちゃごちゃと突っ込んでいる鞄を背負って外へ出る。雨が降っているので傘も持っていく。小雨なので差さずに小走りで近場のバス停へ。ちょうどバスが来る。乗る。社内にはすでに背広姿のサラリーマン風やら同い年くらいの女性やらが何人か乗っている。後ろの隅の方の席に座る。無機質なアナウンスの声が聞こえて、バスが発車する。
 外に出てバスに乗っただけでどっと疲れたような気分で、席に腰を深く沈ませてふと窓を見る。家の窓と同様、ガラスに水滴がへばりついて滴っている。
 今日の講義を頭に浮かべる。自分が嫌いなものばかりだ。唐突にあーっと奇声を発して髪をかき乱したくなる。もちろんそんなことしないし、できもしないのだけれど。
 たまに、自分はここにいないのではないかと思う。ここどころかどこにもいなくて、自分というのは最初からどこにも存在していないのではないかと思う。こうやってバスに揺られていたり、講義を受けていたりするときは特に。自分が空っぽで、空っぽを通り越して虚無で、自分なんてこの世に産み落とされてすらいないような気分になる。
 バスはいつもよりのろのろと走っている。雨の日の朝はいつもこんな感じだ。多くの人間が雨に打たれるのを嫌がって車を使用し、交通が渋滞する。そんなことはどうでもいい。バスが遅かろうが早かろうが、大して変わりはしない。何もありはしない。
 車内の天井に貼られている広告を、読まずにぼんやり眺めながら、変な脱力感に浸かっていた。一秒、二秒、三秒、時間を数えていた。正確に測ろうなんて考えてはいなくて、ただひたすらに一秒、二秒、三秒と、何度も何度も頭の中で唱えていた。
 どれくらい経ったか。自分がいつも降りるバス停の名前をアナウンスが読み上げたとき、ふっと我に返る。他のバス停の名前は耳に入らないというのに、いつの間にか習慣になっていた。反射的に停車ボタンを押してしまうほど。
 バスが停車する。バスの運転手に定期券を見せて降りる。背後ですぐにドアが閉じて、バスは間髪入れずに走りだす。
 雨は少し強くなってきている。道行く人々が傘を差しだす。自分も差そうかと片手に持つ傘を持ち上げたとき、街頭の時計が目に入った。
 雨の影響で交通が混雑し、バスもそれに巻き込まれたのだろう。最寄りのバス停に着く普段の時刻をだいぶ上回っていた。今から走っていけば、講義に間に合わないこともないのだけれど――ふと思った、それは少し魔が差したというような考えだった。
 ――もう今日はサボってしまおうか。
 今まで講義を休んだことはない。最低出席数は足りていたけれど、何となく通っていた。それは休む理由が特になかったからだ。身体はいつも不調だったけれど、寝たきりになるようなものでもない。身内に不幸もない。何か特別なイベントもない。休んだところで何もすることがない。日がな一日中、硬くて冷たい床に寝転がって、ただぼんやりするぐらいだ。
 それなのに、なぜか今日に限っては休みたくて、休んでしまおうと考える間もなく決心している自分がいた。休むことを決めた瞬間、ふっと身体が軽くなって、視界が眩暈の直後みたいにふわっと浮いた。不思議な安堵感が胸の中を満たしていた。それは、初めて味わったような、久しぶりに感じたような、新鮮なんだか懐かしいんだか曖昧な感覚だった。
 僕は浮ついた足取りで歩き出す。どこへ行きたいという願望も、どこかへ行ける当てもなく。文字通りふわふわしていた。
 雨脚が強くなってくる。そこでようやく自分がまだ傘を差していないことに気づいて、傘を差す。そのときにふと自分が神社の前に立っていることにも気づく。正確には神社の階段の前だ。長い階段で、首を思いっきり伸ばして見上げないと鳥居が見えない。
 その神社に何か思い出があるわけではない。多少の見覚えはあるけれど、それは普通に道を歩いているときに見かけたりするせいだ。もちろん、この階段を上ったこともない。あの階段の上に立つ古びた鳥居の向こうに、どんなお社があるかも知らない。
 でも僕はなんとなく、その階段を上っていた。普段は死んでいる冒険心でも少し息を吹き返したのか。まあこの程度で冒険と感じる冒険心なんて大したものではないけれど。
 一段、二段、三段、電車の中で時間を数えていたときみたいに、階段の段数を数える。五十一段、五十二段、五十三段――百十四段で階段を上り切った。中途半端だなと思った。
 顔を上げる。鳥居の向こうには、階段と地続きで石畳が伸びていて、その先には二体の狛犬の像とお社がある。狛犬はところどころ石が崩れていて、お社も古ぼけて木材が腐ったような色をしていた。それらはさらに勢いよく降る雨に打たれて、なんだか打ち捨てられて忘れ去られたような惨めさがあった。
 たまのしょぼい冒険心で見てみた景色はこんなものである。僕は落胆するよりも、諦観と自虐が混じったむしろ少しだけ愉快な気分になった。
 さて、戻るか。さっと階段の方へと振り向いたときだった。
 神社の境内から見える景色は高くて、街の大通りを全体的に見渡せた。そして僕はそれを見た。僕はその光景に目を見張った。
 ――人々の上に、たくさんの傘が咲いていた。
 人が傘を差していたのではない。傘が人の頭上に咲いていた。中年サラリーマンの上に、小学生の上に、女子高生の上に、子連れの母親の上に、ちゃらい不良の上に、暗い顔をして歩く人たちの上に――赤、青、緑、ピンク、黄色、黒、白、灰色、透明――花柄、スプライト、ボーダー、水玉――色んな色の、色んな柄の傘が咲き誇り、くるくると回ったり、ひょこひょこと上下したりしている。
 僕はその鮮やかな景色が眩しくて、そっと瞼を下ろした。
 傘布を打つ雨音が嫌になるほどうるさくて、でも不思議と、しばらくそこから動く気にはならなかった。
 瞼の裏側に、あの咲いた傘たちの残像が躍っていた。

傘が咲く

傘が咲く

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-06

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