亡霊カメラマン
僕は、僕の生活の中で、突然、まれに亡霊の世界を垣間見る事がある、こういう話をするときっと恐れられるか。危ない人間として距離を置かれることだろう、だけど亡霊はいつもそこにいて、僕らの反対の世界で常に、彼ら自身の正常な日常を行っているのに、僕らは自分たちの生活の基準が当たりまえだと思い過ぎている、これでもきっと納得しないだろうか?それでも、そもそも第一僕はこの話を人にしたことがないし、するつもりもないのだから、僕が人に理解を得る努力をしないその非は僕にある。
僕は写真を撮る、空き時間、移動時間に、ただ自、あるいは休日に思う存分写真を撮る、一度だって彼等を完全に写したことはない、楽しいから撮るわけでもなく、悲しいからでもなく、オカルト趣味である、いつか彼らの姿をきちんとおさめて雑誌に、というのは嘘だ。実はそれがかなったときには、その写真は、それまでの自分の写真がそうだったように、自室の額に飾って大切にしたいと思うのだ。
初めから、生まれた時から、シャッターを下ろすタイミングから、僕の写真は、僕のただの趣味であって、それ自体が人の興味を引いたり、評価を得るためにやっている事ではない。そんな事いって、一人で行う趣味は退屈なのに、という人もいるだろうし、そうなのだ、といってもそうだろうという人がいるのもわかる、だからこそ、亡霊も、写真趣味も人と共有しない。なんだってそうだ。どうしたって受け入れがたいものは距離を置くし、その性質が見えていて、どう考えても、その欠点について見えてしまう僕は、むしろそこに非日常性を感じてしまうのだ。僕は、それとは距離をおく、僕はその距離感がなければ、僕としての存在を半分失う事になる。
僕は、そんな僕の居場所が、あの非日常世界の向うの日常にあるのではないかと思っている、生まれるとき、それを向こう側に置いて行かれたような。ついでにいえば僕は、絵画を眺めるのも好きだ。それもマイナーなものが好きだ、その趣味をも誰かと共有する必要がないと思っている、只僕が、僕の過去について調べ、あるいはいつか幽霊の完全な正体を写真に収めるときのための、訓練のためなのだ。
僕は今漫画喫茶にいて、カメラのメンテナンスや、SNSをいじりながら、空想をいくつか考えている。僕は僕について知ろうとするときに、僕がたまに見かける事のある亡霊について考える、彼等の存在を、肯定もせず、否定もせず、ただ、そこにあるものとしてとらえる事ができたとき、その瞬間にシャッターを押す事ができたなら、それが僕の中でも、物理的にさえ、力を持つような可能性を感じてしまうのだ。
亡霊カメラマン