あかるい、迷い道 vol.2(連載)
【道草のススメ。】
ここ3年の間に今回で5度目となる京都散策。六月の新緑まぶしいこの季節にぼくは新幹線に乗りこみ西へと向かった。
ぼくは京都が大好きだ。散策では毎回違う顔を街はのぞかせ、 同じ場所でも季節ごとに味わいが移り変わる、赴く度に新たな一面を発見してはその奥深さを感じ、何度行っても飽きることはないからだ。
ただ、今でこそこういえるのだが、中学時代の修学旅行で訪れて以来、何年もその機会のなかった京都への旅が、なぜ今になってこうも増えたのか、疑問とも迷いともつかない少し不思議な気持ちでぼくはいた。
単に時代物が好きだからと言われればそうかもしれない、古くから残る趣きのある街並みが好きだらなのかもしれない、どの理由も間違ってはいないのだが、同時にどれもしっくりこないでいた。
石畳に格子戸の茶屋が並ぶ花街の風情が楽しめる祇園白川。初夏の季節には紫陽花が咲く白川の流れは観光客はもとより、京都市民にも親しまれている。
僕にとっては京都らしさを感じさせてくれる場所の一つだ。
その賑やかな祇園白川のほとりで休んでいると、一瞬「しん」と辺りが静まりかえり、穏やかな川のせせらぎにだけが聞こえるという、珍しいであろう瞬間にぼくは出会った。気がつくと問いかけが頭をよぎり、ふとそう昔ではない自分を振り返っていたのだ。
いま、ぼくはウェブデザイナーを生業としている。しかし、インターネットやデザインの学校で技術を修業してきたわけではない。独学と制作経験の積み重ねをさせていただいたことで、今日のぼくが成り立っている。生粋のデザイン育ちというわけではないのだ。
ゆえにウェブサイトのデザイン、あるいはアクセス解析やウェブマーケティングを扱うWeb屋として、高い純度を持ち続けようと"なるたけブレずに"、"なるたけ余計なものにコミットをせずに"と、ただひたすら突き進んできた。そうでなくては周りにはとてもついていけない、そう感じていたからだ。それ自体は間違っているわけではないだろう。仕事に対し、純度や精度を求め「こうでありたい」と強く願うことは、それほど悪いこととは思えないからだ。
貫くために知識と共に経験を繰り返し、その大切さもわかってきた。新しい技術があれば、それをいつでも使えるようと、触れては技術を手に入れようとしてきた。
確かに自力はついた。仕事でも時としてそれが有効に働いた場合もあったかもしれない。かわりに、駆け出しのころに味わった、同士と向き合い切磋琢磨し、ともに目標達成するという圧倒的に豊かな人との繋がりを、失ってしまった。もちろん自分でが望んでやってきたことだから、文句はない。しかし、ぼくはいまふと気がつく。なにも生きる方法はひとつだけではない。ブレずに生きることだけが唯一無二の答えではないということに、ふと気がついたのだ。
ぼくがこうしたことに気がつけたことは、勿論たまたまであり、ただの偶然であって事実でしかない。しかしなんとも晴れ晴れとした気持ちになったことも事実である。
都が平安京に遷都しようとも、争奪戦が何度も行われ、どんなに大火で焼失しようとも京都はずっとそこにある。ただ、そこに変わらず存在し続けてきた事実が、訪れる人を楽しませる。変わるのも変わらずにいることも受け入れているのだ。
新しい発見で変わっていくのか、あるいは変わらないかもしれない。ぼくが受け入れることのできる全ての事象の何がよくて、何が悪いことなのか、ぼくたちにはわからないのだ。
誰もが選択肢を選べる人生なわけじではない。
そのかわり諦める必要もない。時間に限りはあるものの、何かを始めるにあたって、遅すぎることなどないのだ。決めるのはいつも自分でありそれを活かすことも選ばないことも、すべて自分次第なのだ。
人はひとつの人生しか選べない。二つのことを同時に選んで進むことなど不可能だ。そのかわりに、ひとつの道筋を選んで、もし間違いだと感じたのなら切り替えて進むことも許されいいとも思うのだ。
それぞれの人が進む道は一本道だけが正解ではない。
そう、人生は時にはジグザグに、時には道草を喰うことを選べる豊かさも、きっとあっていい。
そのことを確かめるために、ぼくは京都を旅するのかもしれない。
文 (そうま・けんじ)
あかるい、迷い道 vol.2(連載)
Webデザイナーとして今まで過ごしてきた自分の今を振り返ってみました。