何もなければいいんだけど。
「何もなければいいのだけれど」
坂道の途中にあるななめな坂を見下ろせるカフェは、その町の人気な場所、ビジネス街や、商店街、富裕層のすむ地域のはざまにあるから、いろんな人がやってくる、コーヒーに肥えた客は、その店オリジナルのブレンドや、自分ごのみの分量を指定して、居心地のいい清潔な店内で、思い思いのひとときをすごす、そこに居場所なさげに座る人がいた。彼女の前には何もない、誰もいない、誰も話しかけない。だけど彼女は笑顔を絶やさない。
一度彼女の前に座った人間がいた、それは彼女の記憶の中に、確かに一度、深く接した人間であるように思えた、その人と、その男とキスをしたような、言葉をかわしたような、一緒に旅をしたような。
彼女がなぐさめると、彼は安心したように、急に元気になってカフェをでた、それ以来彼はここに来ない。彼女はなぜこのカフェにいるのかわからない。記憶がないのだ、だが、店の裏手の家に、自分の写真が飾られているのを知っている、それは仏壇だ。
彼女はいつもそこにいて座る、客のいない座席のあるとき、雨の日、人の少ない午前中、そこにすわって自分の服が、店員の服と全く同じだという事を想う、彼女が待っているのは、彼女を見る事の出来る人ではなかった、お祓いは、何度も断った。彼女は、ただ待っているのだ、坂道の綺麗な景色をながめながら、その向こうの都会の景色をながめながら、毎日違うものや、毎日同じもの、情報を手帳にメモしては、ポケットにしまう。あの時の男性のように、因果や理屈はなぞでも、私が救える人間は、救いたい……そう考えているのだ。
何もなければいいんだけど。