男は人を殺した。相手は恋人だったかもしれないし、友達だったかもしれないし、家族だったかもしれないし、見知らぬ誰かだったかもしれない。動機もなんでもいい。凶器もなんでもいい、が、ただ鈍器であったことは記しておく。男は重たくて硬い何かで、誰かの頭をカチ割り、殺した。
 その死体はとある山奥に穴を掘って埋めた。
 本人も杜撰な計画だったことを自覚しており、いつばれるのかと戦々恐々と怯えながら日々を暮らしていたが、運よく邪神でも味方してくれたのか、山奥から死体が掘り起こされることはなく、よって男の犯行が発覚することもなかった。
 男は罪から逃げながら、恋愛し、結婚し、家庭を築き、それなりに充実した生涯を送った。なかなかしぶとく長生きもした。そんな男にも、終わりを迎えるときが来た。
 男はとある病気で入院することになった。病名はなんでもいい。わかりやすく胃癌か、肺癌か、そこらへんにしておこう。男のそれはもうすでに末期で、薬物療法で死を遅らせることしかできず、男は病室でただ終わりを待つだけの存在になっていた。
 そんな最中、男はよく夢を見るようになっていた。自分が人を殺したときの夢だ。何度も、何度も男は夢の中で人を殺した。同じやつを殺しては、穴を掘って埋めた。その気がかりな夢から覚めるたび、男は背中に氷が貼りついたような寒気を感じ、恐怖を覚える。隣のベッドの患者のうるさい鼾だけが、そのときの男を安心させてくれるものだった。
 しかしとある晩、男がまた人を殺す夢からはっと目を覚ますと、いつもと病室の様子が違うことに気づいた。消灯された後の真っ暗な病室までは普段通りだが、隣のベッドの患者のうるさい鼾が聞こえてこない。それどころか、人のいる気配すらない。仕切りのカーテンを開けて確かめてみればいいのだが、怖くてそれはできない。男は上半身をゆっくり起こす。病室のどのベッドにも人の気配がしてこない。物音一つない。いや、病室だけではなく、病院全体が自分以外誰もいなくなったようにしんと静まり返っている。夜の病院とは静かなものだが、こんな虫の鳴き声も聞こえてこないほどだったか。男が疑問に思う間もなく、やがて物音は聞こえてきた。しかし、それは決して男を安心させるものではなかった。
 ――ずる、ずる、ずる、ずる、ずる――。
 それは重たい何を引きずるような音だ。それがだんだんとこの病室に近づいてきていることに男は気づく。
 ――ずる、ずる、ずる、ずぞ――。
 音が一瞬途切れたとき、男はなんとなく嫌な感じがして、病室の出入り口を見た。
 ――そこには、何か黒い影が横たわっていた。
 男は息を飲んだ。その影は明らかに異質だった。人の形をしているように見えるが、その輪郭は曖昧にぼやけていて、今にも空間に溶け出してしまいそうだった。そのくせ、なぜかこの暗闇の中でもはっきりとそいつが影だということがわかるのだ。
 壁で人に発見されたヤモリみたいにじっとしていたその影は、唐突にまた動きだす。
 ――ずる、ずる、ずる、ずる、ずる――。
 影は這うように動いて、病室の中へと入ってくる。
 男は目を逸らし、頭から布団を被りたくなるような恐怖心を抱いたが、どうにもそれはできず、影に目が釘づけになった。
 影はずるずると病室の中を徘徊し始める。ぐるぐる、ぐるぐると病室の中を這って回る。それは何かを――いや誰かを探しているような動きだった。
 こいつに見つかってはいけない、と男は直感的に思う。同時に、今動いたら見つかってしまうとも思い、男はその上半身を起こした姿勢で、じっと這いまわる影を凝視する。布団をぎゅっと握った手の内は、手汗で嫌になるほど蒸れている。
 影はいつまで病室を徘徊していたのだろうか。五分か、十分か、はたまた一時間か。じきに影は諦めたように病室から出ていった。ずるずると音を立てて這いながら。
 影が完全に視界から消えたとき、男はほっとして、布団を強く握っていた手を緩めた。
 その瞬間、がばっと何者かに腕を掴まれた。男はびくっと驚いて首を回した。
 ――黒い影が腕の周りを覆っていた。
 男はそこで目が覚めた。病室にはすでに日が差し込んでいて、「どうしました?」と看護師が心配そうに男の顔を覗き込んでいた。男は病衣が肌に貼りつくほど、全身から汗を噴き出していた。
 男はこの出来事から数日足らずで病状が悪化し、息を引き取る。
 この男が地獄に堕ちたのか、はたまた無に還っただけなのかは、誰も知りようがない。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-09-04

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