午後四時の出来事

すごろく 作

 今日の大学での講義の内容がほとんど思い出せない。ただなぜか構内で見かけた同じ大学生の鞄にぶら下げられていた、某美少女アニメキャラのストラップが脳裏にちらついていた。
 空は嫌というほど晴れて全身を蒸してくる。平日の夕方に差し掛かる駅前のバス乗り場では、主に老人たちが、あるいは井戸端会議をしながら、あるいは仏頂面で新聞などを読みながら、自分が乗るべきバスを待っている。中途半端な時間帯なので背広姿の人はあまりいないし、学生も疎ら。僕は両隣を老人に挟まれて狭いベンチに腰かけている。
 また今日の講義の内容を思い出そうとしてみる。やはり某美少女アニメキャラのストラップが邪魔をしてくる。頭の中に最近観たホラー映画のおどおどろしいBGMが何の脈絡もなく流れてきて、記憶を掘り返そうとするほど疲れてくるので、早々に諦めた。
 ぼんやり考えることをやめていると、何やら人が群れをなして騒いだり叫んだりしている声が耳に入ってくる。
 そちらに顔を向けると、いつの間にいたのか、『アベ政権打倒』と書き殴るような字体で書かれたプラカードを掲げた一団が高らかに声を上げていた。どうやら署名活動をしているらしい。「アベ政権打倒のために!」と騒いでいる。
 多くの人は気味悪そうな顔や鬱陶しそうな顔をして通り過ぎていくのだけれど、何人かが立ち止まって署名に参加している。本当にその思想に共感しているのか、単に押し切られただけなのか、はたまた面白半分なのかは判然としない。
 僕はその光景を見て、よくやるなあと思った。それは嫌悪とか呆れとかの類ではなくて、感心に近かったけれど、かといってあのよくわからない間抜けな署名に参加する気は更々なく、ただその一団の奇怪な活動を眺めていた。
 と、急に駆け足で一団に近寄ってくる人が見えた。年は四十代の前半か五十代の後半くらいに見える、頭が少しばかり禿げ上がっているおじさんで、全身を青いジャージで包み込んでいた。
 署名に参加するのかと思いきや、そのおじさんは唐突にプラカードを掲げる一団の一人に掴みかかり、何やら喚き散らし始めた。
「お前らな、こんなことしても何にもならんとは思わんのか」
 おじさんの声は、まるですぐ横で言われているようにはっきりと聞こえてきた。
「こんなこと無駄なんだ。何を主張したって何も変わりゃしないんだ。わからんのか」
 おじさんは掴みかかった一団の一人ともみくちゃになっている。一団の他の連中も止めに入るのだけれど、おじさんの力がかなり強いのか、手をこまねいている様子だった。
「希望は捨てろ! この世は無だ! 生まれたら死ぬだけだ!」
 ついには交番から警官が走り寄ってくるのが見えた。そこで待っていたバスが到着した。
 バス乗り場のアナウンスが、バスに乗るように促してくる。
 僕はバスに乗り込んだ。バスの車窓から、警官と何やら激しく言い争っている様子のおじさんが見えた。一団はまたいつの間にか撤収していて、何枚かのプラカードだけが殴り掛からんばかりに口論するおじさんと警官の周りに散らばっていた。おじさんが何を言っているのかは、もう聞こえなかった。
 バスが発車する。バスの中は自分以外には数名の老人だけ。
 あっという間におじさんと警官は見えなくなった。なんだか自分の目の前を一瞬で通り過ぎていく竜巻を見たような気分だった。
 しかし通り過ぎてしまえば、やはりなんてことはなかった。
 僕は座席に深くもたれかかって、天井に貼りつけられた広告の、内容は頭に入れずに文字の表面だけを目で追う。
 改めて今日の講義内容を思い出そうとする。相変わらず某美少女アニメキャラのストラップが揺れていて、ホラー映画のおどろおどろしい音楽が鳴り響いていた。

午後四時の出来事

午後四時の出来事

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-09-03

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