花瓶

 私が小学五年生だった頃、教室の隅に妙な空席の机があって、その上にはいつも花瓶が置かれていた。花瓶には毎日新鮮な花が生けられていたのだけれど、それを一体誰がやっているのか、誰も知らなかった。
 「あの花の花瓶は誰が挿しているのか」という話になっても誰も名乗り出てこないし、担任の先生に訊いても「誰がやっているかなんて気にすることじゃない」という答えにもならない返答が返ってくる。いよいよもって誰が花瓶に花を毎日生けているのか謎なわけで、そのクラスでは一時期その話題で持ちきりだった。
 現クラスの中の誰かがやっているのだけれど、恥ずかしいから黙っているとか、普通に担任の先生や学年主任の先生がやっているという現実的な意見から、宇宙人がやっているだとか、独りでに花瓶が動いてやっているだとか、オカルトというよりも間抜けなファンタジーのような突飛な話まで噂されていた。
 しかし、いくらそんな話をしたところで机上の空論である。そこでその正体を確かめるべく、何人かのクラスメイトが立ち上がったことがある。
『クラスの男子の何人かが、夜中の学校に忍び込んで確かめに行くらしいよ』
 その話はとある晩に友達のラインで回ってきた。私もその顛末を気になりつつも、どうせ大したものが見つかることはないのだろうと思って眠った。
 翌朝、学校へ行くと教室の中が騒然としていた。どうやら担任の先生が怒っているようで、異様にぴりぴりとした雰囲気だった。
「誰だ、昨日の夜、忍び込んだやつは」
 担任の先生の声は怒りで震えていた。その視線の先に目をやると、それはあの花瓶が置かれている空席の机で、その上にいつも置かれているはずの花瓶は粉々に割れていた。水が飛び散り、中に挿されていた花は萎れていた。この教室で初めて萎れた花を見た気がした。
「早く出てこい! 誰だ!」
 先生がもう我慢できないとばかりに怒鳴ると、何人かのクラスの男子がしゅんとした面持ちで先生の前に歩み出てきた。その子たちは別室へと連れていかれた。たぶんたっぷりと説教やらなんやらを聞かされたのだと思う。花瓶の破片の始末は先生から言い渡されていたけれど、みんな気味悪がって積極的にやりたがらなかった。仕方がないので、いつもは傍観者を気取る私も片付けるのを手伝ったが、その際に、ふと先生の言葉が脳裏を過った。「誰だ、昨日の夜、忍び込んだやつは」先生はそう言ったのだ。割れた花瓶を見て、「花瓶を割ったやつ」ではなく、「学校に忍び込んだやつ」を訊いたのだ。それがどうにも私の中で引っかかったが、その違和感の正体は上手く掴めず、また先生に訊くのはなんとなく怖くて、ただその引っかかりは私の中でぶら下がっているだけとなった。
 先生の説教から帰ってきた男子たちは、ずいぶんとこっ酷く叱られたのか意気消沈の様子で、あまり声をかけやすい感じではなかったが、花瓶について気になる何人かのクラスメイトが彼らに「昨日の夜はどうだったか」と遠慮なく訊ねた。私も聞き耳を立てた。
 その男子たちの話によると、昨日の夜は忍び込んだことは忍び込んだが、特に何もなかったのだという。夜中に来たときの教室の花瓶には、普通に古い花が挿さっていたらしい。しばらく教卓の陰に隠れたりして侵入者ごっこを楽しんでいたそうだが、そのうち飽きてきて、誰が言うでもなく帰ろうという雰囲気になり、ぞろぞろと全員が教室から出てきたとき、ばりんと強い衝撃で何かが割れるような音がし、急いで教室に戻ってみると、あの花瓶が割れていたそうだ。怖くなり、後始末も考えずに一目散に逃げ帰ってきたと、彼らはぶるぶると震えながら語った。
 翌日、花瓶は何事もなかったかのように復活していた。新鮮な花が生けられた状態で。
 それからあの花瓶のことはタブーみたいな扱いになって、誰も話題にすることはなくなった。進級してクラスが変わると、あの花瓶のようなものはなかった。今から思うと、あの教室だけが特別だったように思える。さらに卒業した後はどんどんとあの花瓶のこと自体が記憶から薄らいでいった。結局あの花瓶を生けていたのは誰だったのか、そもそもあの花瓶の正体は何だったのかはわからずじまいだけれど、なんとなく、あれは知らなくてもいいことだったのだろうと勝手に思うようになった。きっと世の中にはそういうことがたくさんある。先生が「気にすることじゃない」と言っていたように。
 でも今でもたまに、眠りに落ちる瞬間とかに意識の狭間を横切っていくことがある。
 新鮮な花が生けられたあの花瓶が、誰もいない教室の隅でただじっとしている姿が。

花瓶

花瓶

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-02

Copyrighted
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