重い日の景気づけ。

 景気づけにはアルコール?食事?映画を見る?自分は昔から変わった行動をとる。
それは、おどりだあ。おどりなのだあ。おどろくべきおどりなのだ。
「元気とは消耗品なのだ」
と自分は考える、母のように宗教に逃げなかったし、父のようにカルトに走らなかった。サブカルチャーにはどっぷりだがそれには立派な理由がある、というのは嘘だ。
 
 夜寝る時元気を蓄えて、あさ使える分を整理する、夜中までに消耗してしまったら、次の朝の事を考える、これで万事が万事問題ない。だがそれでもだめなときは、踊る、たとえばいろんなノルマがあるだろう、学生なら宿題、社会人なら勉強、趣味をする人は趣味のための準備、忙しい事ばかり、でも忙しいということでむしろ合理的である部分が損なわれるときがある、そういう時に自分は踊る。
 「これでもかー」
自分の狂人的性質は常に居場所を持っている。それは自分が自分を許し、肯定し続けるための手段なのだ、ある意味カルトよりもカルトで宗教よりも宗教じみてるといえるかもしれない。だが考えてほしい、これで誰も損はしないのだ、自分は自分が常に狂気を宿し、ひるまその狂気を隠している、あるいは誰もがそうだとしったときに、世界のすべてを知ったつもりになるのだ。

 誰もが何かを作りたがっていて生みたがっていると思う事がある。それは物質的なものではなくても、簡単なものでは、ナルシズムのようなもの、承認欲求のようなもの、持っていないものへのあこがれ、ただ自分はそこにひとつブレーキを持っている。それは踊りだ、踊りは常に私をみていて、私は常に踊りをみている。絵描きも、歌手も、作家も、ありとあらゆる人間も、何かを生みたくて、作りたくて仕方がないと思う、それが美しいものだと感じるのには、自分なりの理由がある。

 すべてははったりなのだ、今この瞬間、この話が自分によって作られたでっち上げだとしても自分はそこに意味を感じている、それが受け取ったものの力になればいいと思う、たったそれだけの行為の中に、表現できない団結を感じるので、同じようなつまらない、お話を作り続けるのだ。

重い日の景気づけ。

重い日の景気づけ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-01

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