ラムネ水の夕べ

夕立のあとの空気は、哀しいくらいに清らかな感じがする。排気ガスや大気中の埃も、人々のどろどろとした感情も、夕立は全て押し流してくれるような気がする。穢れを嘆く、叩きつけるような涙と、清らかなるものを穢す、人間へ対する怒号のような雷によって。
 夕立が通り過ぎたのを見計らって、僕は夕方の街に繰り出した。道の凹凸に溜まった水溜りは、薄紅色に染まりはじめた空を鏡のように映している。まるで、空が大地に落ちてきたようだ。その水面を、どこからやってきたのか、アメンボが静かにかき乱す。波紋が広がる、あちらの水溜りでも、こちらの水溜りでも。鮮やかな緑の樹々は、雫を滴らせてきらきらと光る。雨の降ったあとは、むっとむせ返るほどに、草木の匂いが濃く香る。
 なんの目的もないまま、ふらふらとさ迷うように歩いた。時折吹く、ひんやりとした風が頬に心地良かった。そして、気づくと僕は来たこともない道に迷いこんでいた。山沿いの、舗装されていないじゃり道。反対側には、青々とした水田が広がっている。民家どころか、人ひとりいなかった。それでも、不思議と焦ってはいなかった。はじめて来た場所なのに、なぜか懐かしい気がした。
 しばらくは、ずっと緑色の景色が続いた。頭上を覆う、樹々の枝葉。まだ実をつけない、稲の海。単調な光景だったけれど、飽きることはなかった。それは、本来自然が持つ優しい色だからだろう。だから、人工的な鮮やかな緋色が緑の間に垣間見えたとき、すぐに目についた。
 鮮やかな緋色の正体は、駄菓子屋の暖簾と緋毛氈の掛けられた腰掛だった。近寄ってみると、暖簾は少し色あせていることがわかった。やや古ぼけた店のたたずまいに合わせているかのように。一方で、腰掛の緋毛氈はとても鮮やかで、目に眩しかった。腰掛けの隣には、氷水につけたラムネが入ったたらいが置いてある。透き通った水色の容器は、見るからに涼しげで、僕の興味をそそった。
「すいません、これをください」
気づいたときには店の奥に向かって、声をかけていた。
「はいはい、どうぞ」
奥から出てきたのは小柄なおばあさんで、どういうわけか僕を見て、少し驚いたように目を見開いた。
「・・・どうか、しましたか?」
僕がそう問うと、いえいえと首を振り、人懐っこい笑みを浮かべた。
「いえね、いつも来ている顔馴染みのお客さんかと思って。どういうわけかこんな夕立のあとに、ふらりと現れるお客がいるんですよ」
と彼女は、まるで少女のように笑い、僕はそんな彼女をかわいらしいなぁ、と思った。
 僕はおばあさんに百円玉を一枚渡し、キンキンに冷えたラムネを氷水からすくいあげた。緋毛氈の腰掛けに腰かける。行儀が悪いけれど、ビンのまわりについた水滴をTシャツで拭う。噴出してこないように用心しながら、ラムネ開けでラムネ玉を押し込んだ。ことん、とラムネ玉はゆっくりと落下し、括れた部分に引っ掛かる。しゅわしゅわと立ち昇る泡が、なんとも幻想的で美しかった。僕はビンを傾け、ごくりごくりと一気にビンの四分の一ほどを飲み干した。炭酸が喉を焼く感覚が、すっと心地良かった。ビンの中をぷくぷくと上っていく泡に、また見とれた。その泡のように、僕の心の内にも、ぷくぷくとどこからともなく懐かしさがこみ上げてきた。
「千代ちゃーん、ラムネ一本もらうよ」
本当にどこからともなく声が聞こえて、どこからともなく現れた男が、いきなりどさりと僕の隣に腰を下ろした。男は承諾を得る前に、たらいからよく冷えたラムネをかっさらい、慣れた手つきで開け、ごくごくとラムネを飲み、そして盛大にげっぷをした。呆気にとられて、僕は男の横顔をまじまじと見つめてしまった。
「おっと失礼」
と、男はにやっと笑う。ラムネは、四分の一に減っていた。
「いいえ、別に」
じっと見つめてしまった気まずさから、僕はぱっと顔を逸らした。きっと、先ほどおばあさんが言っていたお客なのだろう。なんとまあ、と思った。よく言えば天真爛漫なのか、と。僕は気を取り直して、ラムネを飲むことにした。こくり、こくりと味わうように。
「よくげっぷもせずに、ラムネがのめるなぁ。我慢してるなら、無理しなくていいぞ」
気づくと、隣の男が僕の顔をおもしろそうに覗きこんでいた。しばし唖然。
「・・・そりゃ、どうも」
と、僕は盛大に顔をしかめた。しかし、男は機嫌が良さそうに笑っている。なんなのだろう。鬱陶しいなぁ。
 黙っていれば、それなりに端整な顔である。目は釣りあがっていて細いが、切れ長で涼しげだ。鼻筋も通っているし、薄めの唇も形が整っている。あっさりとした上品な顔立ちだが、どことなく狐に似ており、上品さもどうやら顔だけであるようだ。
 男はにやにやと僕の顔を見る。からかわれているようで、腹が立った。
「なんですか?」
不機嫌さを隠そうともせずに、僕はつっけんどんに言った。男は気を悪くするふうもなく、相変わらず僕をじろじろと見た。
「お前、人間だろう?」
珍しいものを見るように、男は僕の顔を見た。
「当たり前じゃないですか。人間以外の何者だっていうんですか?」
一体、この男はなんてことをきくのだろうか。軽く睨みつけてやったが、まるで意に介した様子はなく、楽しそうに笑っている。
「はるばるこんな所までやって来たんだ。おもしろいものを見せてやろう」
恩着せがましくそういうと、
「おい、お前の持っているラムネを、夕陽に掲げてビン越しにラムネ水を見てみろ」
と、自分のやっていることが、絶対的な善行であるかのように命令した。その勢いに押されて、僕はおそるおそる言うとおりにした。
「何が見える?」
「・・・炭酸の泡が」
と、言うと男は、違う、もっとよく見ろ、と言った。もう一度、目を凝らして集中する。でも、何も見えない。こんなことをしている自分が馬鹿らしくなった。僕はこの胡散臭い男にからかわれているだけじゃないのだろうか・・・。もうやめよう、と思ったときに、ビンの中のラムネ水の中に、何かがよぎった。もっと、集中して見る。こぽこぽという炭酸の泡の中に、魚のひれが、鱗が見えた。そして、次の瞬間には魚の全体像が・・・。きらきらと青みがかった銀の鱗を輝かせて、魚が二、三匹戯れるように泳いでいく。その光景は優雅でとても美しかった。うっとりと魅入ってしまう。魅入られてしまう。僕も、そこで共に、戯れたい・・・。
 カランカランカラン。僕はその軽く涼しげな音で我に返った。ふと隣を見ると、男が空っぽになったラムネのビンを振っていた。音の正体は、ビンの中のラムネ玉だった。
「確かに見ろと言ったが、魅入られ過ぎるなよ」
と、男は悪戯っぽく笑った。僕はなんだか惚けてしまって、ああとか、うんとか、よくわからない返事をした。男はにっと笑うと、
「千代ちゃーん、勘定。ここに置いとくな」
といって、毛氈の上のラムネのビンの隣に、銀色の硬貨を一枚置いた。
「じゃあな、また会えるといいな」
と、言って去っていった。僕は呆然とその姿を見ていたが、思うところがあって、すぐにその後を追いかけたが、もう姿は見えず、去っていった方角には長い長い石段があった。まさか、この短時間で上りきれるはずがあるまい。僕は釈然としないまま、また店へと戻った。
「まったく慌しい人だこと」
店先には千代さんが立っていた。
「あのう、あそこの石段の上には何があるんですか?」
なんとなく気になって、僕はそれとなく尋ねてみた。
「あの上には、稲荷神社があるのよ。そんなに大きくはないんだけれど、聞くところによると、ご利益は抜群だそうよ」
と、千代さんはおかしそうに笑った。
「さっきの人、よくここにくるんですか?」
「ああ、気が向くとふらっと現れるのよ。なんだかんだで、もう百五十年くらいの付き合いにねるかしらねえ」
と、千代さんは朗らかに笑んだ。
 千代さんに見送られて、僕は来た道を辿って行った。頭の中には、先ほどのいろいろなことが渦巻いていた。狐顔の人を食ったような男、優しそうな千代さんの笑顔、ラムネ水の中の魚・・・。
「魅入られ過ぎんなよ」
耳元で、からかうようなあの男の声が聞こえたような気がして顔を上げると、そこはよく見知った街だった。だいぶ時間が経ったはずなのに、まだ橙色の太陽は沈みきっておらず、大地をやわらかな光で染め上げていた。
 千代さんが言っていた百五十年という年月は、本当かもしれないなぁ、となぜだかそう思った。先ほどの出来事が夢ではないことを確かめるかのように、僕は振り向いた。しなやかな夜がはじまろうとしていた東の空の下には、やはり見知った街が広がっていた。

ラムネ水の夕べ

ラムネ水の夕べ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-01

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