ケダモノ屋

     1

「毎度のことながら……見事な腕の冴えだな! いやあ、ご苦労様!」
 黒沼久馬が深々と頭を下げたので浅右衛門は思わず微苦笑した。
(お前に例を言われるいわれはないが……)
 江戸は小伝馬町の牢獄。
 中庭の榎の大樹の影に二人は立っている。
 頭を下げたの男は、黒紋付の巻羽織からわかるように同心、南町配下の定廻りである。
 一方、苦笑したのは、七代目山田浅右衛門。俗に言う、代々科人(とがにん)の首打ちを生業としている〈首斬り浅右衛門〉だ。

 元来、〈首打ち〉は首打ち同心のお役目である。これには町奉行所勤務の一番新任の者が当たった。
 だが、首を打つ行為は精神的にも技術的にも生半な腕ではできかねる。
 そこで勢い〈山田浅右衛門〉の出番となるのだ。
 いつの頃からか首打ち同心は礼金を払う形で山田家に〝仕事〟を回してきた。当の山田家では代を重ねてこの首打ちを請け負って来たわけだが、当然ながら、一刀のもとに首を打ち落とすその技量には神韻が宿った。

 黒沼久馬も例に漏れず金二分を払って首打ちを依頼して以来、この七代目と懇意になった。
 と、言うより──
 久馬の方が一方的に浅右衛門を、それこそ兄の如く慕って付き纏っていると言った方が正しい。
 浅右衛門はこの人懐っこい同心をどう扱って良いかわからなくなって今のように苦笑を抑えられないのだ。
 だいたい〝兄の如く〟と言うが実際は二人は同い年、当年取って二十二歳の独り者。背格好も似ていてともに長身痩躯。
 だが、似通っているのはそこまで。
 二人は色々な意味で対照的だった。
(一体、久馬はそこの処に気づいているのかどうか……)
 浅右衛門の方が互いの差異を強く意識せずにはいられなかった。
 同心が一代限りというのは今や建前で、嫡子相続が慣例化して久しい。父が同心なら息子は一四、五で〝見習い〟という形で父について回り仕事を憶える。そして、父の引退とともに入れ替わりでその役職を継ぐのだ。余程の失態がない限り一生安泰。幕臣としての位はともかく、町奉行職は身入りも良い。そのためか一人息子の久馬も苦労知らずの鷹揚さが匂った。
 それとも、この明朗さ、屈託のなさは生まれつきのものなのだろうか?
 片や、七代目浅右衛門は名乗っても、山田家は実際は徳川家に仕官してはいない。あくまで身分は〈浪人〉のまま、〈首打ち〉は副業として承って来た。元は将軍家縁筋とはいえ、表向きには地位も名誉も認められていない、云わば日陰家業の自分と久馬では所詮済、世界が違う。
 と、思いつつ、キラキラする初夏の木漏れ日を浴びて眼前に立っているこの男を嫌いになれない自分に驚く浅右衛門だった。
 まるで、何処かにうっかり置き忘れたもうひとりの自分のようにさえ思える。見た目ほど腕が立たないのも、またご愛嬌である。
 精悍な容貌に反して実は久馬は剣術はからっきしなのを浅右衛門は知っていた。
(待てよ、ということは……こいつ、俺を用心棒代わりに利用しているのかも知れん。)
「実はな、浅さん。今日、出向いて来たのは他でもない、ぜひ同道してもらいところがあるのだ」
「ほう? 同心殿に護衛に護衛を頼まれるとは身に余る光栄だな?」
 だが、首打ち人の皮肉など全く通じなかったと見えて久馬は頬を上気させて一気に言ってのけた。
「気になる事件がある。それでどうしてもこの目で検分したいのだ。ほら、〈ケダモノ屋殺し〉の件さ。七日前に、しかも近所で起きた事件だから浅さんも知ってるだろ?」

     2

 天保13年、六月朔日。
 麹町は平河町のケダモノ屋に押し込みがあった。
 ケダモノ屋とは獣肉を商う店のことで、平河町三丁目から山元町、森木町界隈まで、軒を連ねたその一画が人呼んでケダモノ横丁。
 この時代、肉食は無論、御禁制であったが表向きは病人に精をつける〈薬〉として中々繁盛していた。
 そのケダモノ屋の一軒、〈山奥屋〉に夜半、賊が押し入って番頭を斬殺した──
 とはいえ、今をときめく大店……呉服商や両替商、米問屋等々を襲って蔵に積み上げてあった千両箱を残らず盗み取った、などと言う派手さはないのでさほど江戸っ子の噂にはならなかった。
「被害の方も大してなかったんだろう? 奥座敷に寝ていた主人夫婦は無事だったし、金品が略奪されたわけでもない。まあ、番頭には気の毒なことだが、肉の塊の一つや二つ盗られたくらいか?」
「だからさ、却って気になるんだ」
 久馬は、渋好みの銀鼠の滝縞の襟をしきりに引っぱって、
「これはひょっとして……労咳を患った老母のために孝行息子が泣く泣く犯した事件かも知れねえぜ?」
 いかにも久馬らしい発想だと浅右衛門はまた青葉風の中で苦笑する。

 件のケダモノ屋〈山奥屋〉は平河町三丁目にある。
 山田浅右衛門の自邸は同じ麹町は平河町一丁目。ワラ店通りと呼ばれる筋に面していて実際目と鼻の先である。
 二人が連れ立って牢獄の表門から出たとたん、声が掛かった。
「もし、黒沼様であらせられますか?」
「そうだが?」
 見れば年の頃一六、七。白梅の凝ったような若侍である。
 涼しげな紗綾形の白の小袖に縹色の袴。腰には細身の大小を落し差しにして、瑠璃か珊瑚か揺れる根付も艶冶(えんや)の極み。
「こちらと聞いてご無礼を承知で待っておりました。私の名は三島鹿内。薩摩藩で小姓組に勤めております。他でもない、過日の辻斬りの件でお願いがございます」
 怪訝そうに眉を寄せる久馬に若侍は必死の形相で詰め寄った。
「去る六月二日、京橋川は比丘尼橋であった辻斬りの件です。その際、斬り殺された者は私の知己なのです」
「あ、それか──」
「新九郎は示現流を遣う剛の者。容易に辻斬り風情に討たれるような男ではない」
 若侍の顔は無念さに歪んだ。
「黒沼様が検死をなさったと伺いました」
 三島鹿内は流れるような美しい所作で頭を下げた。
「どんな些細なことでも構いません。この件に関して何か情報が入った折は、ぜひともこの私にもお聞かせください。私自身も出来る限りこれに纏わる詳細を聞き歩こうと思っております。勿論、私が得た全ては黒沼様にお知らせいます」
 身内でない以上仇討ちは叶わない。ならばせめて友を殺めた輩を捕らえるお手伝いがしたい。と若者は言うのだ。
 その初々しい悲憤に久馬は大いに心動かされた。
「承知しました。何かわかったら、その際は必ずそちらにお知らせします」
 同心の返答に安堵の表情を浮かべて三島鹿内は再度深々と頭を下げると去って行った。
 その後ろ姿を眺めつつ少々からかいを込めて浅右衛門は訊いてみた。
「おい、久馬さん。あんたの鼻にはあっち、辻斬りの方はケダモノ屋ほどには臭わなかったようだなあ?」
「まあな」
 久馬は正直に認めた。
「ありゃあよくある辻斬りだ。とはいえ、斬られたのが友人となればじっとしていられない若者の気持ちはわかるってもんさ」
 仕事柄、久馬が抱える事件は常に一つや二つでは済まなかった。

     3

 商いの方は休業状態ではあったが、ケダモノ屋〈山奥屋〉の店内は既に整然と取り片付けられていた。
「番頭の徳蔵は本当に可哀想なことをしました。誠実を絵に書いたような真面目な男で、三十になる今年は世帯を持たせてやろうと女房とも話していた矢先でした」
 ささやかな葬式を済ませたと言ってから店の主人利兵衛はやや脅えた顔で、
「しかし、改めてお調べとは──何か不審な点でも?」
 事件の翌日、一通りの検死は終えている。だが、当日、久馬はその場にいなかった。ちょうど前後して起こった別の事件の方に出張っていたせいだ。
 後になって、立ち会った同僚からこっち、ケダモノ屋の話を聞き、何処か引っかかってどうしても自分の目で確かめたくなった。
 事情を話すと主人は安心したらしく、後ろを振り返って暖簾の向こうを呼びやった。
「おーい、清吉! ……そういうことなら私よりこの清吉の方がお役に立ちましょう。なにせ、この子はあの夜、あの場に一緒にいたんですから」
「え?」
 目撃者がいたとは意外だった。調書にはそのことは記されてなかったから。
(これだから……)
 自分の目で見ることの大切さを改めて痛感する久馬だった。
「精吉と言ったな? おまえは賊を見たのか? 何故、そのことを先のお調べの際話さなかったんだい?」
 暖簾を分けて奥から出て来たのは年の頃十一、二。小柄で色の浅黒い、目の大きな少年だった。その目をクリクリ動かしながら、先のお調べの時は自分は玄庵先生の処で手当を受けていて店にいなかったからです、と淀みなく答える。
「そうして、店に戻って来てからはもう誰にもそれについて聞かれなかったんです」
「手当って──怪我をしたのか?」
 なるほど、肩から巾で吊った右腕が痛々しい。
 それまで久馬の傍らで影のように黙って佇んでいた浅右衛門。ここで初めて口を開いた。
「賊に斬られたのか?」
「いいえ、違います」
 きっぱりと首を振って清吉が言うには──
 あの夜、賊が押し入って来たのは亥の刻。番頭の徳蔵さんは真っ先に応対した。自分はそんな番頭さんにやや遅れて駆けつけた。店内の明かりは徳蔵さんの掲げる手燭だけで周囲は暗かった。
「それが幸いしてか、賊どもは背の低い私には気づかなかったようです」
「賊どもと言ったな。何人いた?」
 これは足跡から割り出して調書にも記されていたのだが、改めて久馬は〈真の目撃者〉に確認した。
「私が見た限りでは五人かと。でも、そんなに長く見てたわけじゃないからもっといたかも知れません。私は徳蔵さんに続いて店に出るには出ましたが押し込みと知ってもう怖くて怖くて……すっかり震え上がって……咄嗟に近くにあった俵に飛び込んでしまったんです」
 俵とは米俵のことで、平生、肉を入れて配達の際使用している。
 小柄な清吉はすっぽりと隠れることができた。が、よっぽど気が動転していたのだろう、妙な角度で腕を捻ってしまった。臂の骨にヒビが入っていると玄庵先生に言われた。
 とはいえ、その時は痛みなど感じる暇はなかった。時を移さず、すぐ傍で徳蔵は喉を掻き切られ、吹き出した血が、それこそ両国橋の花火みたく幾千もドドッと清吉の隠れている俵の上に降って来た。
 久馬は膝を折ると少年の肩にそっと手を置いた。
「怖い思いをしたなぁ、清吉。それで、賊と徳蔵のやりとりなんぞは聞かなかったか?」
「猪肉の行方について話しておりました」
「猪肉?」
「はい。『朝方、甲州街道から運び込まれた猪肉は何処だ?』と聞かれて番頭さんは『もうない。お得意様の薩摩のお屋敷にとうに配達した』と答えた。言い終わるやいなや徳蔵さんは叫び声を上げて──」
 そこまで言ってケダモノ屋の小僧は身震いして歯を食いしばった。

     4

「中々見所のあるボウズだ」
 店を出てから久馬は感心して褒めた。
「利発でしっかりしている。ありゃ、きっと、一角(ひとかど)の商人になるぞ!」
「全くだ。それに趣味の方ではもう一端(いっぱし)の通人だよ」
「?」
 浅右衛門の意外な言葉に思わず久馬は足を止めた。
「ふふふ、あの小僧の繃帯がさ、洒落てた。あの色……憲房染めかね?」
 いつものことだが、浅右衛門の目の付け所には驚かされる。この男は久馬の知らない世界を知っているのだ。
 実際、山田家にとって〈首打ち)はあくまで〝副業〟に過ぎない。
 〝本業〟こそ御試御用(おためしごよう)。
 将軍家の佩刀から、諸大名へ賜る刀、諸大名から献上される刀に至るまで、それら差料の斬れ味を試す──
 山田家の名を継いだ浅右衛門は剣技同様、刀剣の鑑定眼(めきき)も鍛えられていた。
 当然、研ぎ澄まされたその双眸は差料のみにとどまらず、万の美しい品々に敏感に反応する。
 日頃無口な浅右衛門が時折りボソッと漏らす独白にも似た〝品定め〟を聞くのが久馬の密かな楽しみだった。
 愚直一筋に勤め上げ、役を息子に譲るとすぐ病を得て死んでしまった父が唯一愛したのは桜草の育成だったが。父が丹精込めて咲かせた花を浅右衛門に見せたらなんと言ったろう?
「浅さん。薩摩藩邸に行ってみようじゃねえか! 賊がそれほど気にしていた猪肉について、俺達も聞いてみる価値がありそうだ」

 だが、この日、黒沼久馬と山田浅右衛門は三田にある薩摩藩上屋敷には行き着けなかった。
 二人が連れ立って、ちょうど片門前から将監橋を渡ろうとした矢先、
「黒沼様ーーーっ!」
 凄い勢いで駆け寄って来たのは、見るからに年季の入った岡っ引きだった。
 深川は森下町の松兵衛親分、人呼んで〈曲がり木の松)は久馬の父の代からの十手持ちである。
 当人はそろそろ倅の竹太郎に引き継がせたいと思って仕込んでいる最中なのだが、この息子、名親分と言われる父に似ず腑抜けの遊び人でとても岡っ引きなんざ勤まりっこない。(と影で誰もが言っている。)
 それで、この〈曲がり木の親分)、未だに老骨に鞭打って八百八町を駆けずり回っている次第。
 尤も、松兵衛は若い時分からこの名で呼ばれた。せっかちで足が異様に速かったせいだ。普通に歩いている松親分など見た試しがない。頑丈でちょっとやそっとでは折れそうもない体ごと通りをブッ飛ばして行く。それが、枯れ木のように年取った今でも不思議と足だけは衰えないのである。
 まさに、曲がり木……曲がっていて柱にゃならない……走らにゃならない……
「ここで会ったが百年目! ちょうど良かった! 今しがた倅の竹に八丁堀まで呼びにやったところでさぁ。実は例の事件でちょいとばかり出てきやしたんで、これは是非とも黒沼様のお耳に入れねばと思いやしてね」
「例の事件とは?」
「や! これは山田様! またご一緒で? お仲がよろしいですなあ」
 慇懃に頭を下げてから、
「あれれ、山田様はお聞きになっていませんので? 六日前の夜、深川で別嬪が立て続けに三人、斬り殺された事件でさあ」
 このせいで久馬はケダモノ屋の検死に立ち合えなかったのだ。
「それがね、今日になってもう一人、こっちは柳原の夜鷹なんだが、やっぱり殺されてるのがめっかって──春庵先生の見立てではどうも先の三人と同じ頃、殺られたらしいと」
「何だと!」
 若い定廻り同心は目を瞠った。
「すると……四人もか? 四人も同じ夜の同じ頃合いに殺されたと言うのか?」
 それだけじゃなくて、と老十手持ちは顔を顰めた。よくよく調べてみると死体におかしな類似点がある……

     5

 ケダモノ屋の件はひとまず脇に押しやって、久馬と浅右衛門は老親分に導かれるまま深川は菊川町にある裏店に入った。
 路地の奥、小粋な格子造りの二階屋の主の名は文字梅。曲がり木親分の娘である。
「コイツが話したほうが話が早えや。何しろこのネタは全部コイツが仕入れて来たんでさあ」
 自慢したいのか恥じ入りたいのか、松兵衛は白くなった鬢をしきりに掻いた。
 それもそのはず。日頃から、こっちが息子だったら俺はどんなに安泰か、とボヤいでいる通り──優男の弟と違い姉の文字梅は頭脳明晰、度胸満点。器量も気っぷも申し分ない傑物と評判なのだ。
「ホント、我が娘ながら常磐津の師匠にしとくの勿体ねえや」
「馬鹿言わないでよ、お父っつあん。それより──黒沼様、あたしゃ、どうしても腑に落ちないんですよ」
 殺された別嬪達は皆、玄人筋の女だった。
 辰巳芸者の千菊と汐見。それから、両国の水茶屋の看板娘、おりん。
 千菊はお座敷帰り、おりんは湯屋帰りの道すがら、汐見の方は置屋の自室で殺された。
 芸者同士とはいえ千菊と汐見は置屋も違うし友人というのでもない。つまり、殺害された三人が三人とも何一つ関わりを持たない者同士だった。
 だが、その死体には明らかな共通点があった。それこそ──
「髪料をつけてないんです」
「────?」
 久馬も浅右衛門も意味が分からず一様にキョトンとした顔になった。
「いやさ、もっと言えば、簪の類をしていない」
「いやあ! あっしも娘(コイツ)に言われるまで気づきもしませんでした。流石、女の目だね! 言われてみれば──そうなんですよ。皆、商売柄、人より綺麗に着飾ってて当然だ。新たにめっかった柳原の夜鷹にしたって、そりゃナリは粗末だが、それでも簪くらいは、ねえ?」
「そうですとも」
 藍地に白の立湧(たてわく)も粋な中型(ゆかた)の膝をグッと乗り出して文字梅は言う。
「女が簪をを付けないなんてありえないね」
 男の久馬も浅右衛門もそのことがそれほど重要とは思えなかった。
「下手人が余程生活に窮していて……それで簪を奪い取ったというのではないのか?」
「嫌ですよ」
 常磐津の師匠は笑った。その顔たるや牡丹が風に戦(そよ)ぐの如くだな、と浅右衛門は内心思う。
「それほど窮してるんなら、櫛も持っていくはずでしょう? 私はこの目で見てきましたが、実際一人の櫛なんざ螺鈿のそりゃ見事な細工物でござんした。でも、その櫛には手をつけていない……」
 父親も頷いて、
「コイツの言う通りでさ。それに金目の物が目当てなら、羽織だって着物だって帯だって──それこそ身ぐる剥ごうってもんだ」
「これが簪だけってのが、私は妙に引っかかるんですのさ」
「うむ──」
 世の中には簪好みの追い剥ぎがいるのかも知れない。
 思いつつ、久馬は首を傾げて師匠を盗み見た。白い項に映えて文字梅の今日の簪は瑠璃の蜻蛉玉。誰に貰ったものやら……

 結局、その日はもう陽も落ちたので薩摩藩邸へ逝くのはやめにした。
 あれこれ理由をつけて久馬は浅右衛門を組屋敷内にある自邸に引き入れて遅くまで酒を酌み交わした。
 その夜は同宿して、翌日──

     6

 晴れて二人は三田の薩摩藩上屋敷に赴いた。
 用件は〝猪肉〟なので、裏門から賄い方に直行する。
 厨房を仕切る料理人の銀次は一見地味な感じの三十男だった。
 久馬が、去る六月一日の昼前、〈山奥屋〉から配達された猪肉のことで聞きたいのだがと切り出すと、案の定、料理人は目を丸くした。
「へえー!」
「妙なことを聞くと思うだろうが、御用の筋でどうしても知りたいのだ」
 だが、料理人が驚いたのは別の理由だった。
「いやあ、よく聞かれると思いやして……」
「とは?我々以外にその肉についておまえに聞きにに来た者がいたのか?」
「へい、おりやした」
 銀時は首に垂らしていた手拭いで顔を拭ってから、
「〈山奥屋〉さんから配達されて、すぐその夜に聞かれましたっけか。どうして憶えているかって? ヘヘッ、こっちの方を馳走になったんで」
 銀時は右手を猪口の形にした。
 銀時は独り者で藩邸内の中間長屋に寝泊りしている。件の夜、仕事を終えた後、材木町界隈の居酒屋に一杯やりに出かけた。月に何度かそういう夜があるのだ。いつもの様に一人で気楽に飲んでいると、隣に男が座った。
「見るからに浪人風のこの御仁がね、富くじに当たったとかで一緒に飲もうって酒を奢ってくれたんですよ。そのうちに〝お国ぶり〟の話になって……そのお侍の言うには、薩摩は肉食の伝統があるから藩士が皆、強壮で血気盛んなのだろう、ってさ。なるほどねえ、それを聞いてあっしも大いに納得するところがありやした」
 最初の印象に反して料理人は話し好きらしく喋り出したら止まらない。戸板に水の如く喋り続けた。久馬は何とか割って入って、
「それで、〝猪肉〟の話になったんだな?」
「え? あ、そうそう。そうでさぁ。 薩摩のお屋敷では活きのいい肉を一体何処から仕入れてるのかと聞くんで、平河町の〈山奥屋〉だ。あそこはケダモノ横丁でもいっち活きがいい。それこそ甲州街道ブッ飛ばして来る獲れたての猪肉には定評がある、と教えた次第で。それで、何だね、あっしがつらつら思うに──」
 遮って久馬、単刀直入に訊いた。
「肉について訊かれたのは仕入先の店名だけか?」
「いや。その日の肉の状態についてもえらく知りたがっていました。だから、あっしが思うにあの浪人、よっぽど強くなりてぇんだ。富くじで当てた金、いやさ、本当は博打かも知れやせんがね、だけど、そんなこたぁどうでもいい。とにかく、これからは薩摩のお侍さん並みに肉をわんさと食らって、筋肉隆々、意気盛ん、士官の口もできようってもんだ」
「その日の〈山奥屋〉の猪肉はどうだった?」
「ええ? いつも通り新鮮でよかったですよ。新鮮も新鮮、文句のつけようがねえ──いや、待てよ、獲れたて過ぎても文句は言えるか?」
「いつもと違うところがあったんだな?」
 久馬の目が煌めいた。
「へい。鉄砲玉がね、入ってたんで。肉を捌いてたら包丁の先にカツンときて、吃驚しやした」
「それをどうした? 今、何処にある?」
 おまえが持っているのか、と問い質すと、料理人は呆れて首を振った。
「例の浪人にも訊かれましたがね。どっこい、んなものあっしはもっちゃあいませんよ。ちょうどあの時、通りかかった成田様が素早く横から捥ぎ取るじゃありませんか。この成田様ってのは大変な食通でして、ちょくちょく厨房を覗きに来られるんです。それも大の肉好きだから、あの日もいい猪肉が入ったと聞いて覗きにいらしたのでしょう」
「それで?」
 忍耐強く久馬は先を促した。
「だから、その成田様がすぐ水で濯いで、こりゃ面白い、体中から玉とは奇瑞だ、くれ、とおっしゃった。こっちはそんな鉄砲玉、邪魔っけなだけでハナから捨てるつもりだったから、どうぞどうぞ、でなもんです」
「黒沼様? 黒沼様ではありませんか……!」

     7

 だだっ広くて薄暗い武家屋敷の御台所に響く、迦陵頻迦の声とはこのことか。
 振り返ると今しも駆け寄って来たのはあの白梅の化身、前髪の若侍三島鹿内だった。
「我が藩邸にわざわざお越しくださるとは……ありがとうございます! 辻斬りの件で何か進展があったのですね?」
 鹿内は喜びに破顔した。白い頬が薄らと朱を刷いて今や紅梅の風情。
「……そうだった! 三島殿は薩摩藩と言っておったな?いや、これは、嬉しがらせて申し訳ない」
 慌てて久馬は手を振った。
「私が今日こうして赴いたのは、全く別の要件なのだ」
 手短にケダモノ屋の番頭殺しについて説明した。
「そういうわけで、本日は猪肉を捌いた折、傍にいたという御家中の──成田殿にお会いしてさらに詳しく話をお聞きしたい。三島殿、どうかその御仁を呼んで来てはくださらぬか?」
「それはできかねます」
 三島鹿内は唇を歪めた。笑っているのか起こっているのか、いずれにせよゾッとするほど凄艶な表情だった。
 久馬は苦笑して、
「今回は貴殿のご期待に添えず申し訳なかった。辻斬りの件は新しい情報が入り次第、必ずやお知らせします。だから、そう意地悪しないで成田殿に会わせてください」
「意地悪ではござらぬ。会わせるのは無理と言っているのです。何故なら、成田殿はもうこの世にはおられぬから」
 長い睫毛に縁どられた双眸を伏せたまま若侍は言った。
「お捜しの成田新九郎殿こそ……先日、比丘尼橋で果てたその人です」
「あ、────」 
「〈江戸の三男〉、花の同心殿のご多忙は私も存じ上げております。されど──いかに忙しいとはいえ、よもや犠牲者の名も憶えておられないとは。たかが辻斬り。黒沼様にはその程度のものだったのですね?」
 久馬は一言もなかった。
「黒沼様のこのご様子では永遠に待ったところで新しい情報など届くはずはなかったのだ。それを真剣に……それこそ一日千秋の思いで過ごしていた自分が浅はかでした。御免」
 凍った一礼の後、衣擦れの音を残して鹿内は去って行った。

     8
 
「そう落ち込むなよ、こういうこともあろうさ」
 ずっと朝から一緒にいて、久々に聞く浅右衛門の声だった。
 俗に言う、薩摩屋敷の七曲がり。堀沿いの川縁に先刻来、久馬は膝を負ったまましゃがみ込んでいた。
 巻羽織りの内側、背に差した赤い房付きの十手が突っ張ってさぞや居心地悪かろうに、その姿勢のまま凝然と水面を見つめている。
「たかが辻斬り、珍しくもない。と軽んじたのは事実だぁな」
 改めて久馬は思い出す──
 六月三日の朝、京橋川は西の端に掛かる比丘尼橋の袂へ自分を呼びに来たのは八代州河岸の権三親分の下っ引きだった。
 筵を剥いで死体も確認した。その際、既に身元は割れていた。比丘尼橋近くには山鯨を食わすので名の知れた店がある。そこの常連で、薩摩藩御書院番士・成田新九郎、二二歳。
 だが、忘れてしまったのだ。
 その後すぐ、今度は曲がり木の松親分がやって来て、例の深川の別嬪達の死体の方へ引っ張って行かれた。
 こっちは立て続けに三人。(その後、4人になったが。)
 そうして、それら複数の殺しの中で、自分が一番興味を持ったのが、仲間づてに聞いた麹町のケダモノ屋の件だった……
「不思議なもんだな? 同心なんかやってると人の死に無感覚になるらしいや」
 久馬は乾いた笑い声を立てた。
「死に優劣を付ける。順番を当てる。興味の度合いで推し量る。自分で自分が嫌になっちまう。気づかぬ内に俺は冷てぇ人間になっちまったかな?」
「いちいち心を入れていたらやりおおせない仕事もあるさ。突き放すしかやりようがない、何処までも交わることのない道を歩き通す心構えが入り用な仕事も、な。そういうのは〝冷血〟というのとは少し違うだろう……」
 死刑執行人である己のことを言っているのかと、ハッとして久馬は友を見やった。
 浅右衛門の横顔はあくまで涼やかで、周囲の川水よりも透き通って見えた。
 この先に芝の海がある。
「要は、いつ何時も曇りのない目を維持して行くことが大切だろうよ」
「うん、俺だって……たった一つきりの殺しならもう少し慎重に扱ったさ。だが、この処、多かったから──」
 そこまで言って久馬は突然黙り込んだ。
(そう、多過ぎるんだ──)
 全ての事件があまりにも接近し過ぎている。
 実際に事件が起こった順番に整理して考えてみると──
 まず、ケダモノ屋の番頭殺しが六月一日の夜、あった。次に未明の京橋橋川比丘尼橋の辻斬り。そして、その夜に連続して女達が四人。
 最初の番頭と薩摩藩士は〝猪肉〟という点で繋がりがあるのがわかった。
 甲州街道直送の新鮮な猪肉。〈山奥屋〉はそれを薩摩の上屋敷に配達し、調理していた時、近くにいたのが成田新九郎で、彼は肉から出た異物──料理人曰く〝鉄砲玉〟を抜き取った……
「────」
 やおら久馬が立ち上がった。
 川に石を投げていた浅右衛門が振り返る。ちょうど浅右衛門の手を離れた小石は三、四、五、と川面を叩いて九つまで数えて水中に沈んだ。
「久馬さん、どうした?」
「わかったぞ! 浅さん。どうやら、問題はそれ、石、いやさ、玉なのだ!」

     9

 深川は六間掘りの舟宿の二階。
 座敷には既に老親分と文字梅師匠が神妙な面持ちで座している。
 掘に面した窓の前には、やはりこの日も何のかんのと引っ張って来られた山田浅右衛門。
 最後に到着した三島鹿内が座るのを待って久馬は徐ろに口を開いた。
「今日集まってもらったのは他でもない。今度の事件の真相についてはっきりさせたいと思ったからだ」
「と、おっしゃるてえと──別嬪殺しの下手人がわかったんで?」
「別嬪殺し、ですか? 私の──辻斬りの件ではなくて?」
 久馬は腕を伸ばして一同を押し留めた。
「三島殿、こちらの松兵衛親分と文字梅師匠は深川界隈で起きた四人の女殺しを調べてくれてるんだ。この事件は貴殿のご友人成田新九郎殿が辻斬りにあったと同じ夜、立て続けに起こった……」
 まずはこちらから説明しましょう、と南町配下の定廻り同心は言う。
 女達(辰巳芸者二人、水茶屋の娘、柳原の夜鷹)合計四人がほぼ同時刻、但しそれぞれ別の場所で斬り殺された。お互いの繋がりは皆無だが、押し並べて、女達の髪から簪がなくなっていた。
 ここで若侍も怪訝そう首を捻った。
「……簪?」
「それも身につけてたものだけじゃござんせん」
 文字梅が改めて調べてみた結果、それぞれの所持品の中からも平打ち以外の簪が一切合切奪い取られていることが判明した。
「さて」
 絽の黒羽織の袖を振って腕を組むと黒沼久馬は、
「ここで辻斬りに話を戻そう。斬り殺された成田殿は藩邸で料理人が猪肉を捌いていた折、近くにいたことがわかった。つまり、ここにもうひとつの事件、ケダモノ屋番頭殺しとの繋がりが浮かび上がって来る……」
 老親分、常磐津の師匠、若侍、異口同音に、
「……猪肉……ですか?」
 久馬は力強く頷いた。
「これは私が、押し込みのあった当夜、居合わせた店の小僧から直接聞いたのだが、ケダモノ屋〈山奥屋)の番頭得蔵は賊に斬り殺される前、その朝、甲州街道経由で入荷した猪肉の配達先を問われて『薩摩上屋敷』と答えたとか。そして、上屋敷の料理人も肉を捌いたその夜に、正体のわからぬ浪人風の男から、猪肉に変わった点はなかったか聞かれている。実際、件の肉には異物──料理人は鉄砲玉だろうと言う──が混じっていたそうだ。実は、この猪肉の出荷元こそ重要なのだ!」
 甲州と言えば武田法性院・信玄公の昔より金の湧くところとして名高い。
 爾来、隠し金山探索のため公儀隠密が派遣されているお国柄である。
 ひょっとして、と久馬は隠密同心等の筋を頼って内々に聞いてみたところ──
 果たして、最近、当地の内偵役からパッタリと連絡が途絶えて物議を醸しているとのこと。早々に新たな人員を派遣すべく決定がくだされた由。
「私の推察はこうだ」
久馬は声を低めた。
「最近、公儀隠密は懸念の〝隠し金山〟を発見したのではあるまいか? そのことを伝えようとした際、国許の甲府は府中城の面々の妨害に会い、やむなく〝隠し金山〟の地所を記した地図なり、文なりを、江戸表へ出荷すべく準備されていた特産品──猪肉──の中に隠したとしたら? 
 無論、そのことに気づいた甲州勢は必死で取り戻そうとするだろう。〝隠し金山〟の在処が御内府に漏れ伝えわるのを許すはずはないのだから。
 しかるに、猪肉は既に江戸に送り出されたあとだった……!」
「では、黒沼様は〈山奥屋〉の猪肉に混じっていたソレが〝隠し金山〟の在処を記したモノだとおっしゃるんで?」
 思わず固唾を飲んだ文字梅に、若い薩摩藩士の悲痛な声が重なった。
「何てことだ……知らぬこととは言え、そんな曰く付きの珠を得たがために新九郎殿は命を落とされた・……」
 三島鹿内の端整な顔が引き攣って見る見る蒼白になった。
 一方、老親分は、はたと膝を打って、
「なるほど! 結句、甲州勢はそのお武家を殺して珠を取り戻したってぇ寸法ですな?」
「いや、違う」
 久馬は首を振る。
「成田殿を殺しても連中は肝心の珠を取り戻せなかったのだ。だからこそ──女達が四人も死ぬ破目になった」
 いったん言葉を切って、久馬は窓際の浅右衛門に目をやった。
 世襲の首打ち人は静かに話を聞いている。
 再び一同に視線を戻すと、一言一言噛み締めるようにして言い切った。
「甲州勢に襲われた時、件の珠はとうに成田新九郎その人の手元にはなかった……」

        +

 深更。比丘尼橋の袂。
 若侍は、朱鞘、無反りの大刀を抜き払って大喝した。
 ──── 薩摩藩、御書院番士・成田新九郎と知っての狼藉かっ!
 ──── 問答無用!
 黒尽くめの男達は微塵も怯む気配がなかった。ジリジリと間合いを縮めて来る。数にして十一、十二・・・
 ──── 速やかに猪肉から得た物をこちらに渡してもらおう。
 ──── あれか?
 豪気にも薩摩隼人は呵呵笑った。
 ──── 猪肉の腹ん中から出た、あの奇瑞の珠のことでごわんそか? フン、そんな物、とうになかと。
    美しか珠ばってん錺職人に無理ば言って仕上げてもろうて・・・とっくに愛しい人にくれてやったと!」

        +

「女達の簪が狙われた理由はそれですか!」
 再度、岡っ引きは膝を叩いた。
「殺された女達は皆、その成田ってお侍といい仲だったってことですよね? それを調べ上げて甲州勢は片っ端から──」
「秘密を刻んだ珠を奪還するために罪のない女達を四人も殺めるとは・・・何という・・・過ちを・・・」
 鹿内はキリリと朱唇を噛んだ。
「ほとんど時間差なく女達が殺されてる点からも連中は一人や二人ではなくかなりの集団と見た。徹底した非情なやり口といい、情報収集能力といい、これは並の盗賊の比ではない」
 黒沼久馬は結論づけた。
「鍛錬された隠密衆なればこそ、今回の一連の事件は可能だったというわけさ!」
「これで全て納得いたしやした!」
 曲がり木の松親分は膝を揃えて唸った。
 その娘も心底うっとりしたした、婀娜っぽい声で、
「流石です、黒沼様!」
「いや、流石ではない、私にできるのはここまで」
 言って久馬は、先刻より石化したように固まって座している若侍に向き直ると両手をついて頭を下げた。
「三島殿、貴殿のご友人を殺めた下手人は突き止めたが、それを取り押さえることは私にはできかねるようです。申し訳ない」
「黒沼様が頭を下げるにはおよびません」
 掠れた声ながら鹿内はきっぱりと言った。
「私は友の死の真相が知りたかったのです。ただの辻斬りではない。人数に勝る隠密衆にも臆することなく立ち向かったとは、いかにも新九郎らしい。そんな友の最期がわかって・・・私は満足しております」

     10

 岡っ引き父娘が帰って行った後で、久馬は改めて三島鹿内と向かい合った。
「三島殿には今暫く残っていただきたい。さっきの簪の話には実はまだ続きがあります」
 声の調子がちょっと変わった。
「六人も尊い命を奪ったというのに甲州勢は現時点では未だ問題の珠をその手中に収めてはいない」
 真っ直ぐに三島の双眸を見据えて、
「どんなに簪の類を奪ってみたところでそこにはないからです。何故って? 珠は貴方がお持ちだから」
 久馬の指は眼前の中奥小姓の腰に揺れている根付を指している。
「それこそ、成田新九郎殿よりもらったものでしょう?」
 申し訳ないが、と黒沼久馬は定廻り同心の乾いた声で言う。
「それはこちらで預からせていただきます。この内に何が仕込んであるか調べねばならない」
「もちろんです」
 鹿内は即座に紐を解いて珠を久馬の膝前に置いた。
 今は形見となってしまったが、この珠の来歴を知った上は、言われるまでもなく自分から差し出すつもりだった、と断った後で、
「それにしても──何故、私が持っているとわかったのですか?」
「これも〝お国柄〟というヤツですよ」
 久馬は漸く少し表情を緩めた。
「お宅の藩邸の料理人も言っていたのですが、引っ詰めれば今回、全ての謎を解く鍵は、この〝お国柄〟だった。ほら、甲州街道を運ばれた新鮮な猪肉から甲府と来て、金山に行き着いた。同様に、薩摩の〝お国柄〟は肉食と、そしてもう一つ、衆道。
 成田殿が手に入れた貴重な奇瑞の宝物を最愛の人に渡すは必定。たまたま袖振り合ったが他生の縁、の遊び相手ではなく・・・ね?」
 鹿内の頬が朱に染まった。
 知ってか知らずか、久馬の舌は滑らかだ。
「甲州の隠密どもの情報収集能力がいかに迅速で優れていようと、所詮、連中は馴染みの女達にしか目を向けなかった。そこがしくじりのモトさ!」

     11

「おい、浅さん、俺の名推察ぶりを褒めてくれんのか?」
 久馬は満面の笑顔で浅右衛門を振り返った。
 例によって、最初から最後まで一言も言葉を発することなく端座していた友を見て、木下闇のような男だな、とつくづく思う。
「いや、流石だと敬服して聞き惚れておりました」
 浅右衛門は浅右衛門で、久馬の得意顔が全然鼻につかないのを不思議に思うのだ。
「では早速コレを与力殿に届けて来るとしよう。俺の名推察も物証あってこそ、だからな」
 嬉々として黒沼久馬は猪舟(ちょき)に乗り込んだ。
 舟宿の前でその後姿を見送った浅右衛門だったが。
「・・・しょうがねえなあ」
 呟くと踵を返した。
 自宅には戻らずケダモノ屋横丁を曲がって行く。
 〈山奥屋〉に入るなり小僧を呼んだ。
「あ! これはこれは先だってのお侍様? いらっしゃいませ。本日は何のお御用でしょう? 当店自慢の新鮮な猪肉をお求めですか?」
「それを」
 浅右衛門は迷わず小僧が腕を吊っている巾を指差した。
「え?」
 驚く小僧の、怪我をしていない方の手に四朱を握らす。
 清吉は大きな目をパチクリさせて、
「こんなにはいただけません。それに・・・これは拾ったもので・・・とてもお売りできるような代物では・・・」
 浅右衛門はこの男には稀な、微笑らしきものを煌めかせた。すると片笑窪ができる。
「時に聞くが。これは例の──甲州産の荷の中にあったものだろう?」
「よくご存知で。その通りです。猪肉に敷いてあったんです。手を捻った折、近くにあったので咄嗟にこれで縛りました。使い勝手が良いのでお医者に診てもらった後もそのまま使っております」
 本当にお金を頂いてもよろしいのですか、と少年は念押しした。
「どうせ私の方はもう吊り巾なんぞいらないくらい良くなっているんです。だから、タダでお譲りしてもいいんです。それをこんなに・・・」
「おまえさんは商人だろう? 商人は値打ちのあるものにはちゃんと代金を取らなきゃならねえよ」
 清吉は訝しんで、
「へえ? これはそんなに値打ちのあるもので?」
「ある人にとっちゃあな」
 浅右衛門は手渡された巾を広げて裏表をためつすがめつしつつ、
「知ってるか、ボウズ。これは呼び名はともかく──隠密が使う万能巾だよ。おまえさんがやったみたいに傷を吊るしたり縛ったりできて便利だろう? 荷も包めるし、汚れた水を濾過する際にも使う。そもそも、この染め自体、殺菌作用がある薬草で染めてあるのだ」
「はあ・・・」
 ケダモノ屋の小僧はわけのわからぬ顔で聞いていたが、商人の卵らしく気を取り直して大声を張り上げた。
「毎度ありがとうございます!」
 
     12

 通りに出たから改めて浅右衛門は陽の下で巾を広げた見た。
 暗い地色に一層暗く血の滲んだようなシミがある。
 が、よくよく見ればそれらは何やら文様・・・地図めいていた。
「ひょっとして、と思ったが、やっぱりこっちだったか」
 黒沼久馬が語る推察を聞いている間、浅右衛門はずっと疑問に思っていた。
 それこそ、追っ手に追われている、一刻を争う状況下で、珠なんぞに細工できるかどうか、という点だった。
(応急の場合、珠なんかより、例えば巾などの方が手っ取り早かぁねえか?)
 実際、〝隠し金山〟の在処を記したのは、こっち、巾で、珠はあくまで目晦ましに過ぎなかった。
 江戸行きの荷──この場合は〝猪肉〟──に何か隠したらしいと知ったら、誰だって見つけ難いところを探す。自分がモノを隠す際、見つからないようにそうするから、自然、探すのが困難なところに隠してあるものに目が行く。
 そういう人間の心の働きを逆手に取った、いかにも隠密のやりそうな仕業ではある。
「こういうのを自分に仕事に徹した、〝見事な技の冴え〟と言うのさ。そこへ行くと、久馬さん、あんたはまだまだツメが甘めぇや」
 とはいえ、上司の前で、珠に細工がないとわかった時の黒沼久馬の狼狽ぶりを思うと偲びなかった。
「・・・届けてやるとするか」
 燃え始めた夕陽を背負って浅右衛門は八丁堀に向けて歩き出す。その耳に笛の音が賑やかに響いて来た。
 六月一五日の天下祭りが近いのだ。
 元より、武士は出門禁止の町人祭りではあるが、江戸に生まれ育った身としては、今年もまた象や猿の作り物が練り歩くかと思うとそれなりに心弾んでくる浅右衛門だった。
「フフ、『祭りにもケダモノを出す麹町』か・・・」


                         《    了   》


 



 

ケダモノ屋

ケダモノ屋

ケダモノ屋とは江戸時代の〈肉屋〉の総称です。当時肉食は禁じられていましたが薬として売られていました。 そのケダモノ屋への強盗事件に妙な匂いを嗅ぎとった若い同心と友人の首打ち人七代目浅右衛門・・・ いたってスタンダードな時代推理短編小説です。 でも、どっちがホームズなんだろう?

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-09-27

Copyrighted
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