昨今の萌え漫画よりも
私は趣味で漫画を描き、それをとあるサイトに投稿している。
なんだか人気が出てきたようで、徐々に閲覧数が増え、コメントも増えた。それは大変嬉しい限りなのだが、その中にどうにも気になるものがある。それは批判コメントや作品の何かを巡って口論するようなコメントではなく、「昨今の萌え漫画よりも面白いです!」という私の漫画を褒めてくれているとわかるコメントだった。「面白い」という文言はこれ以上にないほどの褒め言葉なのだが、それに付属されている「昨今の萌え漫画よりも」という言葉が気になって仕方ない。それは歯に何かはざかっているような微妙なもやもやだった。
私はなぜこのコメントに対してこんな複雑な感情を抱くのかを考えた。
まず自分の漫画の作風について考えてみる。私の漫画の作風は、自分でもいうのもなんだが、かなり硬派であることは自負している。この作者は手塚治虫や藤子不二雄が描くような昔ながらの漫画を愛しており、その影響を漏れなく受けていると、少しでも漫画という媒体が好きな人間なら気づくような作風だった。確かにそういう漫画は、今の萌え漫画と呼ばれるジャンルの類とは相容れないものだろう。しかし、ジャンルが違うのなら、余計に比べるのはおかしいのではないか? 私のもやもやの根底はここにある。
そうだ、同じ土俵ではないのだ。それは私の方が硬派だから上だとかそういうことではなくて、ようは私の漫画の作風が相撲だとすると、萌え漫画はプロレスなのである。とどのつまり同じ格闘技でも、競技自体が違うのだ。相撲とプロレスを比べて、どっちが素晴らしいかなんて議論をしても、不毛な水掛け論にしかならない。
そもそもよく萌え漫画を批判する連中は、萌え漫画に対して「中身がない」と主張するが、では漫画において中身とは何か。それは読者が求めているものによって変わってくるのではないか。例えば読者が重厚なストーリーを望めば、その重厚なストーリーが中身になるわけだし、読者がただ可愛いキャラクターだけを望めば、その可愛いキャラクターだけが中身になるのである。つまり需要と供給だ。これを逆に考えてみれば、重厚なストーリーを望む読者からすれば可愛いキャラクターなんてただのゴミであり、また可愛いキャラクターだけを望む読者からすれば重厚なストーリーなど不要なおまけなのである。だから萌え漫画に対して「中身がない」と批判するのは、こういう需要の多様性を度外視してしまっている行為なのだ。
そもそも可愛いキャラクターに萌えたい、尊いと思いたいという願望を持つ読者が一定数いなければ、世の中にこれだけの萌え漫画は出回っていないし、また萌え漫画を嫌って批判してくる人もいないのだ。
そこを考えると、「昨今の萌え漫画よりも面白い」という褒め言葉に私が疑問を感じるのは、漫画が必ずしも「面白い」ものでなければならないという錯覚が見られるからだ、という答えに至る。創作は「面白い」ことがすべてではない。胸が熱くなるような物語が正しいわけではないし、人の涙を誘うような物語が絶対的な正義というわけでもない。可愛いキャラクターたちが中身のない会話をしているだけの世界を創りあげることも、創作の境地の一つなのだ。
だから私はこうやって萌え漫画と比べられて「面白い」と褒められることには釈然としない、という遠回しな結論に達した。そんな公園のベンチの上だった。
気づけばもう日はかなり西へと傾いている。
次のエピソードを投稿しなければ、と私はベンチから立ち上がって公園を飛び出し、自宅へと帰ると、すぐさま準備していた漫画を投稿した。
しばらくしてからコメント欄を覗くと、今回も評判はなかなか上々のようだった。しかし、その中に珍しく批判コメントがあった。
『手塚や藤子の作風をなぞってるだけ。ただ硬派ぶってるだけで中身からっぽ』
なんだか少しほっとした。
昨今の萌え漫画よりも