
抜くな
[下の茸を抜くな、いや、抜けるわけはない]
そう書かれた看板の下に、三センチほどの黄色い茸が生えていた。傘に白い筋があり、柄の部分はエンタシスで、誰かの足のようでかわいい。
こんな小さな茸が引っこ抜けないわけはない。強い毒でもあるのだろうか。触れてすぐ影響のでる茸は一つだけ知っている。火焔茸である。触ると汁により皮膚がただれる。猛毒茸といわれても、ほとんどが、たくさん食べるか、体の調子がおかしい時でないと、なかなか死には至らない。苦しむかもしれないが。
彼は茸の分類を専門としている。茸はあまりにも種類が多く、とてもすべての茸を知ることも、調べることもできない。しかし、少なくとも、自分の生まれた県、市、町、いや村でもいい、そこに生えている茸はすべて写真に撮り、分類できないか、そう考えて、彼は五十五歳になったとき、勤めていた大学を早期退職して、生まれた村に住むことにしたのである。
毎朝、近くの山に登って、茸の写真を撮り、ノートに記録した。
そのようなことを始めて五年になる。ということは今年還暦である。周りの茸の生える傾向はかなり分かってきた。特段面白い茸には巡り会わなかったが、やはり勤めているときよりは多くの種類の茸の写真が撮れたし、珍しいものではなくても、形がおかしくなっている物や、多量に生えた状態にぶつかったときには胸をときめかしたものである。
今年も春になり、見ることの出来る茸の数も増えてきた。今日は久しぶりに、村のはずれのおにぎり山に来てみた。一つぽこんと周りから孤立している、おにぎりの形をした山である。本当の名前は篠葉山である。そのあたりは篠葉地区というが、昔からあるこの山から名付けられた。東側の麓には小さいながらきれいな篠葉川が流れており、時期になると蛍が飛ぶ。
おにぎり山は、小高い丘のようなもので、なだらかな道が林の中をうねって頂上の見晴らし台まで続いている。老人も子供も散歩によく来る。
中腹まで登ってきて、人があまり入らない脇道にそれ、しばらく歩いたところに、草原があり、その真ん中あたりに、その「その茸を抜くな、いや、抜けるわけはない」という看板が立っていたわけである。
まず、その文章であるが、わざわざそう書いたということは、注意なのか、それとも、挑発なのか迷うものである。それに看板の下の黄色い茸のことを言っているのか、ほかの茸かよくわからない。茸は一週間ほどで萎れる。もうなくなった茸のことかもしれない。数センチの小さな茸など、指でつまめばすぐ抜ける。
彼は看板の写真を撮り、茸の写真を撮った。そのあと、茸の詳細をノートに記載した。高さ三・五センチ、傘は直径が三センチ、傘の高さ一・五センチ、黄色で表面には細かな柔らかい毛が一面にはえており、ビロードのような感触があり柔らか。柄は中程が膨らんでいるエンタシス。径はおよそ一センチ、色は白、やはりビロードの感触。
彼は黄色い茸を少し引っ張ってみた。おや抜けない。土は湿っており、堅いようには見えない。壊れそうで力を入れることができない。
彼はもう一度引っ張った。全く抜けない。持っていた携帯用のシャベルで茸の周りをちょっとばかり掘って、柄を持って引っこ抜こうとした。しかし抜けない。崩れてはいけないと思いまだ手加減をしている。だが普通なら壊れている。
今度は両手で茸を持つと思い切り引っ張った。ちぎれてもよいと思ったのである。しかし茸は抜けなかった。触ると弾力性があり、曲げると、くにゃっと曲がって、ピコンと元に戻る。まるで丈夫なゴムや人工繊維でできているようだ。
彼はしゃがんで周りを掘り始めた。五センチほど掘ったが、茸の柄がまだ地下に続いている。周りをさらに深く掘った。三十センチも深く掘ったが、直径一センチほどの茸の柄は続いている。
周りも掘り返し、とうとう、一メートルほどの深さになった。
いったいこの茸はどんなに深いところに菌糸を発達させているのだろう。傘の形態からすると冬虫夏草ではない。冬虫夏草ならかなり深いところにいる虫からでることもあるが、それにしても一メートルもあるものは知らない。
彼は手を休めて、ペットボトルの水を飲むと、また周りの土を掘り返した。ときどき引っ張るのだが、壊れもしないし、引き抜くこともできない。
かなり珍しい茸だろうと思うようになり、一生懸命掘った。還暦を迎えた彼に、穴掘りはそれなりに重労働である。二時間も掘ると疲れてしまった。穴の幅は自分が入れるほどになり、深さも背丈ほどになっただろう。
彼は写真だけ撮って、その日のところはあきらめた。明日またこようと思い、そのままにして家に戻った。
書斎の棚には茸の図鑑類が並んでいる。日本のばかりではなく、フランスやイタリアの本もある。開いてみると、確かに柄の長い茸もあるが、あの黄色い茸のようなものは見あたらない。地上に出ていた部分だけで見ると、形としてはイグチのようである。結局名前はわからない。それにしても、誰がどうして、抜くな抜けないと、わざわざ看板を出したのだろうか。その人もやってみたのだろうか。だが掘った跡はない。
次の日、彼は少し大きなシャベルを担いでおにぎり山に登った。茸はそのままの形で立っていた。彼はもう一度おもいっきり引っ張った。しかし抜けない。
掘った穴の中に入ると、彼の背が隠れてしまう。茸を押すと曲がるが、すぐにぴんと、もとにもどる。こんな茸があるのだろうか。切ってしまうのは惜しい、丸ごととりたい。
彼はまたせっせと掘った。上を見上げると、周りの木が青空にそびえ立っている。それにしても、いっこうに茸の根本にたどり着かない。穴は直径二メートル近くになっている。
彼は上を見てため息をついた。
その時である。穴より三センチほど上にでていた茸の傘が、ぶわーっと広がった。彼が入っている穴を塞いでしまった。穴の中が薄暗くなった。
彼は茸の傘を持ち上げようとした。ところが全く持ち上がらない。破れるかと思ってシャベルで突っついたのだが、一向に壊れない。穴から出られなくなったのである。こうなったら仕方がない。傷つけたくないので丁寧に扱っていたが、柄を切る他はないだろう。彼はシャベルを茸の柄に振りおろした。ところが、シャベルは跳ね返されてしまった。
なすすべがない。彼は疲れて穴の中にしゃがみ込んだ。
やがて夜になった。半分透き通っている茸の傘はさすがに星の光は通さない。
彼はしゃがんだまま見上げた。傘の襞から黄色い胞子が落ち始めた。彼の顔にまとわりつき、鼻の穴に入ってくる。耳の穴にもつまった。どんどん降ってくる。胞子は穴の中にたまり始めた。とうとう彼は胞子に埋まってしまった。
明け方近くなると、胞子から菌糸が伸びてきた。菌糸は彼を包み始めた。
彼の意識がなくなり、一週間ほど経った時、菌糸から茸の芽が出て、掘った穴の壁に穴をあけ上に向かって延びていった。やがて、彼の掘った穴の周りに顔を出した茸たちは、小さい黄色い傘を開いた。土を覆っていた黄色い茸の傘はとろけて穴の中に埋もれた。
一月経つと、周りに掘り出されていた土が彼の掘った穴に落ち込み、穴はすっかり埋まってしまった。草も生え、そのあたりはいくつもの黄色い茸が生えているだけになった。
女の子を連れた父親がやってきた。
「ほら、たくさん生えただろ」
「今日はごちそうね」
女の子は金きりばさみをバスケットから取り出すと、黄色い茸を切り取ってバスケットにいれた。
「パパ、十個もとれたよ」
「よく数えることができたね、えらいよ、明日も生えてくるから採りに来よう」」
父親は「その茸を抜くな、いや、抜けるわけはない」と書いた看板を引き抜くとかついだ。
家に戻ると、女の子は茸の入ったバスケットを母親に渡した。
バスケットの中をみた母親は「ずいぶんたくさん採れたわね」
「明日も採れるんだって」
「そう、パパ、あとどのくらい採れるの」
「一週間かな、そのあとは、茸を一つ残して、またこの看板を立てておくよ、だけどなかなか掘ってくれないからな」
「そうね、でも、久しぶりだったわね」
「うん、もっと若いのが掘ってくれると、この倍くらいの茸が生えるのだけどね、お爺さんだったから、このくらいしか採れないよ」
「でも、パパいい茸見つけたものね、これ一つ食べると、一年間なにも食べなくてもいいのだから、すごいわね」
「うん、それに年をとらないんだよ」
「パパ、今いくつなの」
女の子が聞いた。
「パパは百五歳、ママは百四歳」
「あたしは七十五歳」
「あの茸が生えている限り、ずーっとだよ」
「冷凍したのが、あと九十個あるから、私たち三十年間は年とらないわね」
「うん、今度はあと二十個ぐらいとれるよ」
父親と女の子は毎日黄色い茸を採りにおにぎり山に登った。茸が最後の一本になったとき、父親があの看板を立てた。
「次の人はいつ来るかな」
「どうだろうね、一年か二年でくればいいけどね」
「あたし、パパとママとずーっとこのまま暮らしたいな」
「茸があれば大丈夫だよ、二百歳でも三百歳でも」
父親と女の子は手をつないで家に戻っていった。
抜くな
私家版第十二茸小説集「万茸鏡、2022、267p、一粒書房」所収
茸写真:著者 長野県富士見町 2016-9-16