カーター・ピーナッツ・ラーメン

       「カーター・ピーナッツ・ラーメン」

               (1)


 かつて、アメリカ合衆国第39代大統領だったジミー・カーター氏

(在任期間1977~1981年) は、退任後の1990年に広島県

甲奴(こうぬ)郡甲奴町(現三次市甲奴町)の山間の過疎の村を訪れまし

た。それは、彼が1986年にジョージア州アトランタ市に設立した

研究機関「カーターセンター」に、当時の在留邦人から梵鐘を寄贈さ

れ、それを玄関前に置いていたところ、後にわが国の国会議員がその

施設を訪れた際に、梵鐘に「備後州小童村円通山正願寺」と刻まれて

いることを確認し、梵鐘が広島県三次市甲奴町小童(ひち)の円通山正

願寺(しょうがんじ)のものであったことから始まります。

 余談ですが、この「小童(ひち)」という地名はたとえ地元の者であ

っても覚えがなければまず読むことはできません。謂れを尋ねれば諸

説あるようですが、その一説には、その地には古くから素戔男尊(ス

サノウノミコト)を祀る須佐神社があり、地元では「祇園さん」と呼

ばれていますが、記紀にも記されているスサノウノミコトの八岐大蛇

(ヤマタノオロチ)退治の神話で、犠牲(いけにえ)に供されようとして

いた未だ幼い櫛名田比売(クシナダヒメ)を、彼は「小童」と呼び、ス

サノオはクシナダヒメの姿を櫛に変えて髪に挿してヤマタノオロチを

退治しました。スサノウノミコトは、

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」

と詠んで、これは日本で最初の和歌とされていますが、クシナダヒメ

を娶りました。そして彼女は「小童」の地で成長したのでその名が付

いたというのです。また、調べてみると「小童」と書いて「ひじ」と

読む苗字の方がいらっしゃるようです。

 さて、そもそも広島県三次市甲奴町小童(ひち)の円通山正願寺の梵

鐘が、どうしてアメリカ合唱国ジョージア州アトランタ市の「カータ

ーセンター」の玄関前に置かれていたのかということですが、正願寺

に残されている「鋳鐘建立記」によると、この梵鐘は、文政三年(1

820年)に十三世孝麟住職の代に鋳造されている。孝麟住職は「打

鐘に三種の高徳あり、一には諸賢聖来降す、二には聴者の罪苦を減す

、三にはよく衆魔を退散させる」と記し、建立を呼び掛けている。こ

れに応じて約310戸から米銀の寄付がなされ、鋳造は「勅許東大寺

方惣御鋳物師備後惣大工職家御調郡宇津戸住 丹下利右衛門艸部延良」

と記されている。丹下利右衛門は、記録から、鎌倉時代に東大寺の梵

鐘を鋳造した丹下一族の子孫であって、勅許を得た大変優れた鋳物師

で、したがって、長年に渡って築かれた鋳造技術の元に造られた梵鐘

で、どこに出しても恥じない梵鐘である。

 やがて昭和の時代になると日本は戦争に突入していきます。そして

戦争は長期化し、元来資源に乏しい日本は兵器や弾丸を作成する金属

類が不足し、昭和16年(1941年)、政府は金属類回収令を公布し

ました。それは様々な金属類、家庭用品、美術品ともいうべき刀剣類

までも、更には結婚指輪なども供出されたとのことです。そしてお寺

の梵鐘も例外ではありませんでした。正願寺の梵鐘も昭和17年に砲

弾の資材として呉海軍工廠に供出されました。兵器として溶かされる

運命にあった梵鐘は、何故か溶かされることなく、英国に渡りました

。あの時代、兵器の材料として供出された多くの貴金属や刀剣類が溶

かされることなく、行方知れずになったという話がありますから、こ

の梵鐘もこうしたものの一つであったのでしょう。

 英国に渡った経緯は終に判明しませんが、梵鐘は英国人のテーラー

氏のもとに一旦は落ち着きます。その後、1982年にテーラー氏の

子どものミロス・テーラー氏が梵鐘と共に米国のフロリダに移住し、

その3年後に英国に戻ることとなった時に梵鐘を売りに出します。こ

のことを知った当時のアトランタの日本人商工会議所と日本国総領事

館が寄付を募集し、当時の日本円で約75万円を支払ってこの梵鐘を

購入し、カーターセンターに寄贈しました。

 かつての梵鐘が米国のカーターセンターに「平和の鐘」として保管

されていることを知った正願寺は、梵鐘を保管するカーターセンター

が平和を追求する団体であることを歓迎し、ふさわしい場所での保管

を了承しました。正願寺は、平成2年(1990年)に二代目の梵鐘「

友愛の鐘」を鋳造しました。そして同年10月には、要請に応えたカ

ーター元大統領夫妻が正願寺を訪問され、その鐘を突かれました。以

来、甲奴町はアトランタ市とアメリカス市(カーター氏の地元)との交

流を重ね、遂には、甲奴町に市民施設「ジミー・カーターシビックセ

ンター」が造られ、メインストリートは、とは言っても山間地の過疎

の村ですから閑散としていますが、「ジミー・カーター通り」と命名

され、更に「ジミー・カーター球場」までも出来ました。そして、そ

もそもはピーナッツ農家であったカーター元大統領は、自らが栽培し

ているピーナッツの種、日本にはないランナー種で小粒だが味が濃厚

、を来日の際に友好の証として甲奴町に贈り、カーター・ピーナッツ

は今や甲奴町の特産品になっている。

 ところで、正願寺の「友愛の鐘」の記念碑にはカーター元大統領

の次の言葉が刻まれている。

「人間一人ひとりが、平和と相互理解のために努力する責任がありま

す。甲奴町の正願寺所蔵の梵鐘は、現在アメリカ合衆国ジョージア州

アトランタ、カーター・センターに永久的に保存されております。

この記念碑とアトランタにある梵鐘は、人類平和のために、たゆまぬ

努力を続けることを、常に我々に教えてくれるでしょう。

           アメリカ第39代大統領 ジミー・カーター」

                         (つづく)

             (2)


 カーター元大統領から贈られたピーナッツの種は、春に播種して秋

に収穫を迎えます。そして乾燥して煎られて晩秋にはジミー・カータ

ー・シビックセンターに隣接するドーム広場で毎年恒例の収穫祭が催

されます。それも今年で14回目を数え、その日は大勢の人がやって

来て、地元の若者が演じるステージのパフォーマンスを楽しみながら

、カーターピーナッツを使った様々なアイデア料理の味を競い合うグ

ランプリ大会が行われます。私は、去年そこで都会の生活を諦めてこ

の地で就農したひとりの青年と出会い言葉を交わしました。彼は都会

生れで、もちろん農業経験などまったくなく、今はひたすら経験を積

むためにハウス農家の下で軟弱野菜の栽培に勤しんでいました。私は、

「農業をする前は何をしていたの?」

と、年上特有の上から目線で不躾な質問をすると、彼は、

「飲食です」と言ったあと、すぐに私の質問を先回りして「ラーメン

屋です」と答えた。私は別に彼の身の上にまったく関心はなかったが

、それでも、

「何で辞めちゃったの?」

と訊いた。すると、

「なんか、狭い厨房の中で気ばかり使うのが鬱陶しくなって」

「つまり人間関係ってことだろ?だけどそれは雇われていれば農業だ

って同じだろ」

「ええ、だから早く自立したいんです」

「自営するにしたって生産性が求められる仕事は効率主義からは遁れ

られないさ」

「でもね、効率化は経営者サイドの案件でしょ。仮に、機械化できて

効率化すれば、人件費コストの削減はそのまんま経営者の利益になる

けど、それとは反対に従業員は職を失う。つまり、効率化は従業員に

とって何も得ることがない。なのに従業員にだけ効率化を委ねるのは

経営者が無能だからでしょ」

詳しいことは分らなかったが、どうも上司とうまく行かなかったよう

だ。間もなくステージのスピーカーから耳を塞ぎたくなるほどの大音

量の曲が流れてきて、会話は途切れた。

                         (つづく)

             (3)


 そのあと再び彼と会うこともなく年が変わった。今年の冬はいつま

でも寒気が居座って幾日も鼠色の雲が日射を遮り寒い日が続いた。そ

して、寒さにうんざりした時分に大雪が降った。地球温暖化なんてフ

ェイクだと叫ぶ何処かの大統領の肩を持ちたくなるほど寒い冬だった

。関東以北の者は、広島にはスキー場が10以上あることなど誰も信

じないかもしれないが、冬の中国地方の山間地で暮らすには四駆車と

冬タイヤは必需である。深夜になって降り始めた雪は朝には止んで、

雲一つない空には久しぶりの朝日が白銀の世界を煌めかせていた。職

場へ向かうために車に積もった雪を適当に払い除けて、早朝の凍結し

た農道を避けて、広い道をゆっくり走らせていると、前方の工事現場

の門の前に一人のガードマンが、通り過ぎる車両には目もくれずに、

紅白の旗を両手から垂らしたまま肩をすぼめて立っていた。私も彼に

は気にも掛けずに運転に集中しながら通り過ぎようとした時、俯いた

まま立っている彼の顔を一瞬覗いた。その男はあの時に言葉を交わし

た就農者だった。私は彼の前に車を止めて、助手席側のパワーウィン

ドウを少しだけ下ろして、「ようっ!」と声をかけた。彼はすぐには

気付かなかったが、窓に残った雪のせいで薄暗い車内の中を覗き込む

ようにして私と視線を合わせた。そして彼は、

「あっ、どうも、久し振りですね」

私は身体を助手席に投げ出すようにして、

「何で、農業、やめちゃったの?」

「いやいや、ほら今は農閑期だから」

「ああ、そうか」

そうなんだ農業はこれがあるんだよな。冬の間はいくらハウス栽培と

いっても収穫がない、つまり収入がない。同情はするが、それも彼が

選んだ仕事だらか仕方ない。

「っまあ、風邪ひかないで、ガンバんなよ」

と言って、アクセルを踏もうとしたら、彼が、

「あのう、ちょっとまたお話聞いてもらっていいですか?」

「ああ、別にいいけど、今は無理だけど」

そこで、ラインを交換して別れた。

                       (つづく)

              (4)


 その日の夕時になって、さっそく彼からラインメールが来た。

「ラーメンの麺を作ったので、試食してくれませんか?」

そう言って、たぶん彼が作ったと思われるラーメンの画像も添付され

ていた。私は、

「君が作ったの?美味しそうだね」

と等閑(なおざり)に返すと、彼は、

「もし、今日会えませんか?」

私は、別に予定があるわけではなかったが、そんな気にはならなかっ

た。

「え、今夜?」

「ええ!」

「何処で?」

「ぼくの家に来てくれませんか?」

彼は、就農の際に役所が手配した空き家に暮らしていた。

「ちょっと考える」

ほとんど断りのつもりで送った言葉を、彼は本当に考えてると誤解し

た。その後、おざなりにスル―していると何度も、

「もう考えました?」

と催促のメールが届いた。私は仕方なく、

「分った、仕事が終わったらまた連絡する」

と、彼の執拗な誘いに根負けしてしまった。

 すでに人工物に上に積もった雪は融けて、運よく木々や枯野の上に

堕ちたものたちだけが夕暮れにひときわ鮮やかな白を映していた。車

を走らせながら、「そうか、彼はラーメン屋に居たんだ」と思いなが

ら、教えられた道を飛ばした。

 彼の家は、まあここら辺りでは何処にでもある農家の一軒家で、た

だ独りで暮らすにはあまりにも広すぎた。私が家の前に着くと、わざ

わざ通りにまで出て迎えてくれた。彼は私の逡巡などまったく気に掛

けずに、私を家の中へ誘った。ただ家の中は広すぎて寒かった。そし

て、しばらく空き家だった民家は、もちろんそれが彼の趣味だとは思

えないが、台所の茶箪笥の硝子戸の中には全国各地の民芸品が並べら

れ、知る術のないかつての住人の在りし日の息を感じた。私はその前

を通って板張りの食堂のテーブルに案内された。既にコンロには青い

火が鍋の底を温め、立ち上がる蒸気が黴臭い部屋をいっそう息苦しく

していた。住み慣れた彼は、私の戸惑いを気にも掛けずに、

「ほら、あの時、ピーナッツ祭りで色んなアイデア料理があったでし

ょ」

「ああ」

「あの後、ちょっと閃いたんですよ、ピーナッツをラーメンの麺に練

り込んだら、面白いんじゃないかって」

そう言いながら、その麺を私に見せてから、鍋の中へピーナッツを練

り込んだ麺を投げ入れた。

「これは、あくまでも試作なので、市販の中華スープを使いますが、

できたら麺だけの感想を訊かせて下さい」

そして器に中華スープの素と塩を入れて熱湯を注いでかき混ぜた。間

もなくして麺が揚ると、彼は慣れた手つきで平ザルで掬って湯切りを

して器にしずかに泳がせた。

「スープは無視してくださいね、麺だけですよ、麺だけ」

「ああ、分った」

その麺は、本来の中華麺よりも茶色掛っていて如何にもピーナッツが

練り込まれているのが窺えた。私は、その麺を箸で二三本持ち上げて

啜った。するとピーナッツの香りと濃厚な麺の食感に、これまでの所

謂「麺」との違いに多少の違いを感じたが、

「うん、もうこれはラーメンとは言えないけど、でも美味しい」

そう言いながら、空腹だった私は、カーター・ピーナッツ・ラーメン

をすぐに完食した。

「どうです?売れませんか?」

「売れるかどうかは分らないが、新しい味なので食べてみたくなるこ

とは間違いない。で、これをどうするつもり?」

「できたら、秋のピーナッツ祭りに出したいと思っているんですが」

「ああ、それは面白いね」

「まだ試作段階なんで、ピーナッツペーストの割合だとか水加減だと

か、いろいろ究めなければならないことがいっぱいあるんですけど」

彼が言うには、練り込んだピーナッツは湯煎すると油が流れ出てしま

って思い通りの麺にならないらしい。その割合を決めるために何度も

試行錯誤を繰り返して、やっとここまでたどり着いた。そして、どう

しても製麺所に頼んで量産したいんだけど。私は、彼の言葉を遮って

「つまり、出資して欲しいんだろ?」

「お願いできませんか?」

「いったいどのくらい要るんだ?」

私は、彼の申し出を快く引き受けた。そして、彼が作ったカーター・

ピーナッツ・ラーメンの商品化に協力することになった。

「まずはピーナッツ祭りに出せるように仕上げないとな」

                        (つづく)

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 就農者の青年は、農閑期の間だけ警備員の仕事をしていたが、その

警備会社の社長こそカーター・ピーナッツ協会の会長だった。青年は

そのことを知った上で会長の会社で働いていた。そして、すぐにピー

ナッツ・ラーメンのことを相談すると、会長自身もこれまでに需要を

増やすためにピーナッツを使った様々な6次化への取り組みを考えて

いて、ピーナッツの練り込み麺もすでに製麺所に頼んで試みてはみた

ものの、「どうも上手くいかなかったみたい」と青年は言った。私は、

「君は出来たのにどうしてプロが出来なかったのかね?」と訊くと、

「他人に任せても、多分モチベーションまでは伝わらないんでしょ」

「なるほど」

そこで彼が配合の割合を思考錯誤して作った麺を会長に試食してもら

うと、「美味い!」と言って忽ち乗り気になった。心強い理解者を得

た青年は、さっそくカーター・ピーナッツの栽培を出来る限り増やし

て、秋には収穫したピーナッツで、カーター・ピーナッツ・ラーメン

を甲奴町の特産品として売り出そうと意気込んでいる。

                         (おわり)

カーター・ピーナッツ・ラーメン

カーター・ピーナッツ・ラーメン

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-30

Copyrighted
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