ネコミミ

すごろく

 朝、目覚めて朝食を食べる。焼いた食パン一枚だけれど。
 その後歯磨きをして、服を着替え、これからの仕事を想像して溜息をつきながら家を出る。
 自動車に乗って職場を目指す。私の職場の方に向かって自転車に跨って道路を遮る学生の自転車の群れに、私は密かに貧乏揺すりをしながら舌打ちをする。
 道端で何に轢かれたのか、内臓の飛び出した血塗れの女性の死骸が転がっていたが、その女性の死骸には猫の耳と尻尾が生えていたので、「またか」とだけ呟き、それ以外は特に何も思うところも感じるところもなく、通り過ぎる。
 職場である中学校に着いたら駐車場に自動車を停め、降りて裏口の方から校舎に入り、職員室に向かう。廊下の途中で何人かの生徒と擦れ違う。
 私は教師なので挨拶を述べたが、返したくれたのは一人か二人くらいだった。大体は聞こえていないふりをして無視する。まったくもって可愛げがない。ムカつく生徒ばかりだ、この学校は。
 職員室に着くと、すでにほとんどの職員が出勤している。
「おはよう、斉藤先生、今日も遅かったな」
 自分の席に座るなり、隣の席の同僚の沼崎雅裕が声をかけてくる。
「道が混んでたんだよ」と、私が言い訳すると、「またそれかー」と沼崎は笑った。
 沼崎はただの同僚ではなく、この会話を見れば察せられるだろうが、友人だ。
 友人が職場にいるというのは正直居心地が悪い。だがこいつはそうは感じていないようで、よく話しかけてくる。おまけにこんな風に他人のことを茶化すのが大好きな男だ。
 こちらはこれからの仕事が憂鬱で憂鬱で堪らなくてテンションが低いから、そんなテンションの高い茶化しはよして欲しいのだが、私の願いを聞いてくれたことはない。それでも友人なわけだが。
 程なくしてホームルームの時間。毎朝の恒例の教頭の挨拶もそこそこに、担当の教室に向かう。私が担任を務めているのは二年B組。教室のドアの前に立つ。ドアの向こうからは男子と女子のものが混ざった喜々としている騒がしい声。また溜息が出る。
 ばっくれたい。ばっくれて家に帰って眠っていたい。そんな考えが脳裏に過って、すぐに消えて。キーンコーンカーンとチャイムが鳴った。私はガラガラとドアを開ける。「ほら、ホームルームだ!みんな席に着け!」と無理に明るく大きな声を出しながら、教室の中に進む。
 私はこの瞬間が苦手だ。だって教室の中にいる生徒全員が、一斉に私の方を見るから。「何だ、もうおまえが来る時間か」と、そんな目で見るから。邪魔者を見るような目で。
 生徒たちは水を打ったように押し黙り、無言で自分の席に着く。
 私は出席名簿を持って黒板と教卓の間に立つ。これも嫌いだ。圧迫感があるから。
 出席名簿を開き、出席番号順に生徒の名前を読み上げていく。
 出席順番順に呼ばれた生徒は、出席番号順に「はい」と返事をしていく。大体の生徒は如何にもやる気なさげな気の抜けた声で、たまに明るく元気な声で。
 返事を聞くたびに生徒の名前の横に○の印をつける。生徒が出席している印だ。
 返事が聞こえなかったら、名簿から顔を上げ、その生徒がいないかその生徒の席を見やる。
 空席だ。誰も座っていない。
「おい、誰か田島が何で欠席か知らないか?」
 そう呼びかけると、奥の席の一人が手を上げる。田島と仲の良い生徒だ。
「田島くんなら風邪だそうです」
「そうか、風邪か。なら事前に学校に連絡するように言っといてくれ」
 その生徒は「はい」と頷き、席に座る。私は再び出席番号を読み上げる作業をする。
 ようやく終盤に差し掛かったとき、また一人返事がない生徒を見つける。
 その生徒の席に目を向ける。その席は空席だった。また、空席だった。
「湯川は今日も休みか」
 今度は誰かに訊ねたりはしない。欠席の理由は知っているから。正確には知らないけれど、知っておく必要はないから。
 何せその席の湯川春斗は数か月前から一度も学校に来ていない。
 まぁ概ね無事にホームルームが終わり、私は教室を出ていく。
 ドアをぴしゃりと閉めた途端、ドアの向こうから生徒たちの騒ぎ声が聞こえてくる。
 私は本日三度目の溜息をついて、職員室に戻った。

 授業やら放課後やらをどうにかやり過ごし、気づけばもう帰る時間。
 この瞬間ばかりは幸福な気分になる。何かから解放された気分だ。
 しかし、また明日の仕事のことを思うと、すぐに絶望的な気持ちになるのだが。
 明日のことを考えるよりもまず帰ろう。帰って飯を食って糞をして風呂に入って眠ろう。
 荷物をまとめて席を立とうとしたとき、沼崎に呼び止められる。
「斉藤待ってくれ。あのさ、今日あそこ行かないか?」
 手を合わせて哀願してくる。私は今日すでに何度目かもわからない溜息。
「またかよ。この前行ったばっかじゃねぇか。ちょっとくらい我慢しろよ」
「我慢できないんだよ。今日は絶対に行きたいんだよ。な? いいだろ?」
「よくねぇよ。大体さ、おまえ家で飼ってるんだろ?じゃあそいつを愛でろよ」
「そりゃうちの子は可愛いけど、他の子を触りたいって気持ちもあるんだよ」
「俺には理解できないな」
「そりゃおまえはそうかもしんないけどさ――」
 沼崎の姿はまるで駄々を捏ねている子供のようだ。
 なぜこんなやつの友人をやっているのか、自分でもよくわからない。
 だが、こうなるとテコでもこいつは願いを取り下げないだろう。私が首を縦に振るまで、恐らく家までついてくるんだろう。そうわかっているので、私は頷かざるを得なかった。
「わかったよ。一緒に入ってやるよ」
「マジで? ありがとう、一生の恩に切るよ」
「はぁ、まったく。俺が一緒じゃなくとも一人で行けるだろうが」
「男一人で行ける場所かよ、あそこが」
「男二人でも行きづらいだろうよ。俺だって恥ずかしんだからな」
「恥ずかしい場所じゃないぞ、あそこは」
「おまえ言ってることが矛盾してるぞ」
「あれ? そうか?」と沼崎は誤魔化すように笑う。本当にこいつは――。
 私は眩暈がしてくるような憂鬱を、とにかく溜息をついて紛らわせる他なかった。

 渋々沼崎の頼みを聞いた私は沼崎とともにある場所に向かった。
 それはそこそこ栄えた街並みの中に、ぽつんと建っていた。
 『ほんわかネコミミ喫茶』そう記された看板が店先に立てかけられた店。
 私と沼崎はその店に入る。ドアにつけられた鈴がチリンチリンと音を鳴らす。
「いらっしゃいませ!」眼鏡をかけた男性店員が笑顔で出迎えてくる。
「あぁ、沼崎さんと斉藤さんですね。ご贔屓していただき、ありがとうございます」
 私と沼崎はもう何度もこの店に来店しているので、店員とはすっかり顔馴染みだった。
「いつものコースでよろしいですか? 一時間の」
「はい、それでよろしくお願いします」
「それでは、もうご案内も必要ないでしょうが、こちらにどうぞ」
 店員に案内されるままに店の奥に進む。そして『1―A』と書かれたドアを店員が開ける。
 そのドアの先には幼稚園みたいな部屋が広がっている。ようは壁に子供が描いた絵がたくさん貼られていて、マットレスの敷き詰められた床には角のない玩具が転がっている。
 しかし、幼稚園と決定的に違うのは、その部屋で遊んでいるのが子供ではなく、たくさんの全裸の女性であることだ。
 その女性たちの頭には猫の耳が、尻の方には猫の尻尾が生えている。そしてその丸っきり猫のような仕草をして、猫のような動作でボールを追いかけたり覆い被さって蹴ったりして遊んでいる。
 とある知識がないとギョッとするところかもしれないが、私と沼崎は動じない。別にここは非合法な店ではない。ちゃんと法律的に認められた店だ。
「それではごゆっくりどうぞ」
 店員は笑顔を崩さずに部屋を出ていった。
 私の隣に立つ沼崎は早くも目をキラキラさせてやがる。気色悪いにも程がある。
「ほらよ、とっとと愛でろ」
 そう私が言うまでもなく、沼崎はその中の一人――いや一匹に飛びついている。
 その一匹の首にかけられた首輪には『あきにゃ』とその一匹の名前が記されている。
「よしよし、可愛いな、おまえ」
 沼崎はテレビに出ているペット大好きタレントよろしく、猫撫で声で一匹の『あきにゃ』を撫で繰り回す。
 人馴れしているのか嫌がることはなく、『あきにゃ』はごろごろと喉を鳴らしてみせる。
 男が全裸の女性に飛びついている姿は、一見、というかどう見てどう考えても犯罪の匂いしかしないわけだが、別段私には何も感じることはない。
 何度も言うがこの店は合法なのだ。そして沼崎の行為も合法。見ているだけの私も合法。
 何せ撫でられている女性――いやこのメスは人間ではない。
 俗に『ネコミミ』と呼ばれる、人間と猫の間のような別の生物だ。
 法律でもちゃんと認められた、誰でもペットにできるような愛玩動物だった。
 特徴は人間の容姿でありながら頭には猫の耳が、尻には猫の尻尾が生えていること。
 知能は人間よりも猫に近く、仕草も猫に近く、人間と似ているのは本当に容姿だけの生物。
 ただ本当に人間にそっくりなため、あまり『ネコミミ』の存在を知らない人間が見れば、猫耳をカチューシャと尻尾の玩具をつけてコスプレした人間に見えるだろう。しかし、あの猫の耳と猫の尻尾は、つけているのではなく、しっかり内側から生えているのだ。
 まぁ、この世界で『ネコミミ』の存在を知らない人類なんてもう一人もいないだろうが。
 私は沼崎がネコミミたちを戯れているのを眺めている間、煙草が吸いたくなってきて、沼崎に断ってからその部屋を出、さらに店の奥にある喫煙スペースに向かった。ネコミミに煙草の煙は毒だとかで、あのネコミミの部屋で煙草を吸うのは店側が禁止していた。
 透明なガラスに囲まれた喫煙スペースには、すでに先客がいた。
「あれ? またご友人の同伴でこられたんですか? あなたのご友人も好きですねぇ」
 先客である初老ぐらいの男性は、私が喫煙スペースに入るなり、そう声をかけてきた。
「えぇ、まったく困ったやつですよ。一緒に来てくれないと恥ずかしいとか抜かしまして」
 私は急に話しかけられたことに物怖じせず応じる。何せ顔見知りだからな。
「はっはっは、でもちゃんと一緒に行ってあげてるんですから、ご友人も感謝してますよ」
「本当にそうならいいんですけどね・・・・・・」
 初老の男性は快活に笑い、私は苦笑いで返事をする。
 この男性の名前は佐村さんという。この店の近くに住んでいるらしい。
 佐村さんと知り合ったのは、この喫煙スペースでのことだ。沼崎とともにここに来るようになってもうかれこれ一年にはなるが、佐村さんは私が喫煙スペースに行くときに高確率でそこにいた。
 私は元来、見知らぬ人とあまり話をするようなタチではなく、隣に立って黙って煙草を吸うだけだったが、そのうち向こうから声をかけてきてくれて会話をするようになり、今ではこうやって自然に会話ができる程度の仲になっていた。
 佐村さんにはお孫さんがいて、そのお孫さんはネコミミが非常に好きらしく、そのためよくせがまれてこの店に来るのだ、と佐村さんは優しげな笑顔でこの店に来る理由を説明した。
 見た目も中身も、本当に穏やかなご老人、といった感じの人だった。
 私は煙草の箱から一本煙草を取り出し、ライターで先端に火をつけて、吸う。
 煙がぶわっと口の中に溢れてきて、そして吐き出す。この瞬間が日々の生活で一番落ち着く。
「最近は喫煙者には辛い時代になってきましたね」
 佐村さんがそう口を開く。私は煙草の灰を、用意されている灰皿に少し落としながら頷く。
「まったくですよ。やれ禁煙だ、それができなきゃ分煙だって、煩い時代ですよ」
「まぁ吸っていて身体に良いことがないのは事実ですけどね」
「だって自分の身体ですよ。自分の身体をどう酷使しようと自分の勝手じゃないですか」
「それだけじゃなく他人様にも迷惑かけますしね。副流煙とか」
「だからこうやって、こんなところで隠れて吸ってるわけじゃないですか」
 また大きく煙草の煙を吸って吐く。もう一度、吸って吐く。灰を落とす。
 まったくもって喫煙に関しては住みづらい世の中だ。テレビでは毎日のように禁煙を訴えるコマーシャルが流れているし、職場の学校にもその手のポスターが何枚も貼られている。野外で吸えば周囲の人間は非国民を見るような目で見てくる。最近は吸わない方が多数派になりつつあるせいか、喫煙者への風当たりがさらに強くなってきている気がする。
「最近、煙草に対する風当たりが強くなった気がしますね」
 私が丁度思っていたことを佐村さんが口にし、頭の中を覗かれたのかと少しドキリとする。
「ここだけの話、ネコミミ保護協会っていうが煙草への注意喚起を強化してるそうですよ」
「ネコミミ保護協会? ってあの、ネコミミに人権を、ってコマーシャルの?」
「それで有名ですね、あそこは。デモ活動とかもやってるそうですし」
「何でまたネコミミ保護協会なんかが煙草への注意喚起なんかするんですか?」
「何でも煙草の煙はネコミミに害を及ぼすとかで――」
「そんなこと言い出したらどんな動物にも害があるじゃないですか、煙草は」
「さぁ? まぁネコミミ保護協会ですからね。ネコミミのことしか考えていないんでしょうね」
 ネコミミ保護協会は、ネコミミが発見されてから数か月も経たないうちに結成された民間団体だ。ネコミミを保護することを活動の第一とし、ネコミミに害を及ぼすものへの注意喚起や取り締まり、ネコミミを保護するための資金の募金などを行っている。
 近年はテレビでコマーシャルが流れ、そのコマーシャルに出てくるフレーズ、『ネコミミに人権を!』は流行語大賞にノミネートされるほど巷で流行った。
 実際にはネコミミは生物学的にも法理的にも畜生の類なので、人権なんかは当然ない。しかし、ネコミミ保護協会はネコミミの人権を訴え続けている。「ネコミミは知能は低いが人間にそっくりな容姿であるため、人類に認定すべきだ」と、それがネコミミ保護協会の主張だった。
 もちろんそんなのは暴論というのが世間の感想で、コマーシャルも苦情を殺到したため、すぐにテレビから姿を消した。
 だが、その騒動の結果、『ネコミミに人権を!』のフレーズは爆発的に広がり、ネコミミ保護協会の名も有名になった。ただ私を含めてあまり良い印象を持っている人はおらず、ネット上では密かに「ネコミミ保護のために、危険なテロ活動を計画している」とか、「ネコミミに危害を加える者を抹殺している」など、悪の秘密結社かよとつっこみたくなるような、荒唐無稽な噂が囁かれている。
 しかし、現にそんな新興宗教にも似た危なっかしさと怪しさを漂わせ、正体不明で悪い噂が立っても仕方がないような団体、それがネコミミ保護協会だった。
 先程でも述べたが、私はネコミミ保護協会に対して良い印象はない。理由は特になく、漠然とした嫌悪感というか気持ち悪さがあるだけだが、とにかく良い団体だとは思えない。
 そんなネコミミ保護協会が最近の喫煙者の取り締まり強化に関わっているとあらば、より強固に嫌悪感を抱かざるを得ない。私は眉を顰め、少し何かを責めるような口調になる。
「大体何でネコミミを保護するんでしょう? ネコミミなんて今や世界中に溢れてるじゃないですか? 一時期の野良猫と同じくらい。あまりにも数が多くて田畑や民家が襲われる例があるから、駆除する動きがある地域もあるのに。今朝だって通勤のとき、道端で車に轢かれたネコミミが死んでいるのを見つけましたよ。もうカラスと一緒ですよ、あいつら」
 私の愚痴とも嫌味とも取れないようなくだらない文句を、佐村さんは口を挟まずに黙ってうんうんと頷きながら聞いてくる。そして聞き終わると、諭すような口調で私に言う。
「この国の法理だとまだ保護対象なんですよ、ネコミミは。たぶんそれだけだと思いますよ」
「変な話ですね。何よりも変なのがネコミミ保護協会ってところだ」
「どの辺が変だと思われますか?」
「すべてですよ。あのコマーシャルだって異常だったでしょ? ネコミミに人権を主張するって、つまりはネコミミに人間と同じ生活をさせろって言ってるわけですよね? でもそれは無理ですよ、だってネコミミは人間と同じような社会性を持ってないじゃないですか。やつらは人間そっくりの見た目をしてても、しょせんは畜生。中身は猫なんですよ」
「おやおや、しょせんは畜生とは、この店に来る客のものとは思えない台詞ですね」
「私はネコミミが好きなわけじゃないですから。友人の同伴ですので」
「いえ、ちょっとつまらない話を振ってしまいましたか? 不快になられたらすいません」
「いや、私こそ申し訳ない。佐村さんとは和やかな会話をしたいだけですよ」
「まぁこんな話題を提示しておいて、和やかも何もありませんけどね」
 佐村さんの吸っている煙草の最後の灰が、灰皿の上にぽたっと落ちて崩れる。
「私はここらへんでお暇しますね。それではまた今度、お会いしたときに」
 佐村さんは煙草の火を揉み消すと、吸殻を残して喫煙スペースから出ていった。
 取り残された私は、またしばらく自分の口から吐き出される煙をぼんやり見つめていた。
 そのうち私の煙草も燃え尽き、喫煙スペースを出て沼崎のいる部屋に戻った。
 沼崎は大勢のネコミミに囲まれてにやけ面を晒している。
 まるで全裸の女性をはべらせているようだが、それが性的なものではないことを私は知っていた。だから取り乱すこともなく、引くこともなく、何も感じることはなかった。
 そうこうしているうちに約束の一時間が経つ。先程の男性店員が呼び出しに来る。
「もう終了のお時間ですけど、延長しますか?」
「いえ、結構です」と沼崎が返事する前に、私が返事をする。
 沼崎は名残惜しそうな表情でネコミミたちを見つめていたので、無理やり引っ張り出すように部屋を出ていかせた。会計を済ませ、「またのご来店を」の声を背に店を出る。
 外界は日が沈んですでに真っ暗。貴重な時間を無駄遣いした気がして、治まっていた溜息が再び口から漏れ出す。野良ネコミミの一匹が目をらんらんと光らせてこちらを見ていたかと思うと、目が合った瞬間にどこかの民家の塀をひょいと飛び越えて消えてしまう。
「ほら、さっさと帰るぞ、おまえのせいでこんなに遅くなっちまった」
 沼崎にそう文句を言ったが、本人はネコミミの余韻に浸っていて、話を聞いていなかった。
「おい! 沼崎! ちゃんとの人の話を聞け! 沼崎!」
 何度か呼びかけると、ようやく我に返ったらしく、沼崎はキョトンとした顔で私を見る。
「何だよ、そんなに怒って」
 本気でそんなことを抜かすので、頭を軽く叩いてやった。
「もー何だよ」
「もーじゃねぇよ。帰るぞ。おまえの家のネコミミも待ってるだろ」
「あ、そうだった、サチに餌あげないと。じゃあな、斉藤」
 沼崎は唐突に私を置いて走り出した。途中で振り返って私に向かって手を振った。
 まるで小学生みたいな一連の行動に心底呆れたが、せっかくなので振り返した。
 が、私が手を振り返した頃には沼崎は前を向き、再び走り出してあっと言う間に姿は見えなくなった。
「忙しいやつだな、ほんと」
 もとい面倒臭いやつだ。
 私は軽い頭痛に少し立ち眩みをしながら、車に乗り、自宅への家路についた。

 道中でコンビニに寄って弁当を買い、賃貸マンション1LDKの我が家に帰還する。
 ただいま、と言っても返事はないので無言での帰宅。
 暗くて何も見えないリビングに電気を点け、すっかり癖になった手つきで、すぐさまテレビの電源も点ける。
 時刻は八時二十分。音楽番組を放送している。電気代の無駄とも思えるような煌びやかにネオンに照らされたステージできざったらしい下手糞な歌手が得意げに歌っている。
 食欲が失せるような映像なのでチャンネルを変える。
 変えた先では討論番組が放送されている。私はチャンネルをそこのままにして、背広の上着を脱ぎ、ネクタイを外す、腹が減っているので着替える前にビニール袋から弁当を取り出し、プラスチックの蓋を開ける。
 そこで割り箸が入っていないのに気づき、「あの店員、入れ忘れたのか」と舌打ちをし、台所から箸を取ってくる。そして「いただきます」も言わずに、弁当の冷たくて固い飯を頬張る。
 三口くらい食べて顔を上げ、何とはなしにテレビに映っている討論番組を観る。
 議題は『ネコミミについて』。ようは最近指摘されているネコミミの問題について討論されているようだった。
 出演者は六人。一人は有名芸人の司会者で、一人はテレビ局の女性アナウンサーで、二人はセットの机の上に置かれているプレートに研究者と評論家という肩書が、もう二人のプレートには、肩書のところに『ネコミミ保護協会』とだけ記されていた。
 どうやら研究者と評論家という肩書の二人と、そのネコミミ保護協会の二人が討論しているようだった。今討論しているのは『ネコミミはこれからも保護していくべきかどうか』。
『ネコミミは保護していくべきです』
 ネコミミ保護協会側の一人、髪を不自然に七三分けにした男が言った。
『なぜならネコミミはこの地球上の貴重な財産だからです』
 それに対して、薄っすらと白髭を生やした研究者が鼻で笑う。
『貴重? 財産? この世に五万と点在している動物の何が貴重な財産だと?』
『そうやって数の増えたモノを切り捨て、数の減っているモノのみを保護しようとするのは、人類の悪癖ですよ。いい加減そんな不毛な論法を振り翳すのはやめた方が良い』
 七三分けとは別の、もう一人の丸坊主の男が手を組んで偉そうに言う。
『ふん、論点のすり替えだな。今はそんな話をしているんじゃない』
 今時珍しい丸眼鏡をかけた評論家がそう一蹴する。そしてこう続ける。
『以前なら確かにネコミミは保護対象だったでしょう。発見された当初の数の希少な状態なら。しかし今や、ネコミミは全世界に分布し、爆発的な増加の一途を辿った。あまりにも数の増えてしまったネコミミのせいで、田畑や民家が荒らされたり、人が怪我をしたという報告まである。このままネコミミを野放しにしておくわけにはいかないでしょ』
『ネコミミは基本温厚で無害な生物だ。自主的に人に危害を加えることはない。ネコミミが人に怪我を負わせたというのなら、それは人の方に問題があったんだろう。きっとネコミミの嫌がることをしたんだ。大きな音を鳴らしたり蹴ったりしたんだろう』
『だとしても何だというんだ。ネコミミが人に危害を加えたことには変わりはない』
『それはネコミミを扱う人間が悪いのであって、ネコミミが悪いわけではない』
『悪くないから何なんだと言っている。ネコミミを保護することにメリットはあるのか?』
『ある。メリットはある』
『ほぅ、例えばどんな?』
『我が協会の独自の研究によれば、ネコミミには特殊な抗体があり、ガンにならないことが判明した。ネコミミを保護して研究すれば、人類からガンを永遠に葬れる可能性だってある』
『出鱈目を言うなっ!』
 研究者が突如顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。
『私も長年ネコミミを研究してきたが、そのような研究結果は、たった一度も出たことはない。ネコミミの抗体は人間とほぼ同じだ。出鱈目を公共の電波に乗せるんじゃない』
『それはあなたが無能な研究者だからでしょう』
 七三分けと丸坊主、ともに見下したような目をする。
『あなたが無能だから研究結果が出なかった。それだけではないですか?現に我々の協会の優秀な研究者たちはそんな世紀の発見に成功した。無能なあなたと違ってね』
『何だと、貴様ら――』
 研究者は怒りに震えた声を発し、今にも飛びかからんばかりの殺気を漂わせて、がたっと席から立ち上がる。司会者が慌てて『抑えて、抑えて』と研究者を宥める。
『その研究結果を学会なんかの公の場所で発表しろ。そしてそこで認められなければ、私は絶対に認めない。発表できるだろ? 正しいと確信のある研究結果なら』
『えぇ、正しいですよ。正しいですとも。だが公の場所では発表しない』
『何を――――』
『あなた方はネコミミを駆除したい。だから私たちの研究結果が邪魔になるはずだ。この研究結果が認められれば、民衆は必ずネコミミを保護する方向に傾きますからね』
『つまり我々が研究結果を隠蔽すると?』
『別に断言はしてませんよ。可能性の話です』
『心外だ! まったくもって失礼なやつらだ! そんな言い逃れなど通じないぞ! 研究結果などないんだ! だからそうやって苦しい言い訳をする。見苦しいのも甚だしい』
『それこそ心外だ。誰が何と言おうと我々の研究結果は正しいんだ!』
 そして睨み合う両者。
 弁当を食べ終わった私は、呆れた気持ちで頬杖をついて観ている。
 何とまぁ不毛な言い争いだ。こういうのを水掛け論というのだろうか。
 これ以上観ていても何の実りもなさそうなので、またチャンネルを変える。
 動物番組を放送している。画面の端っこに表示されているテロップ曰く、『ネコミミ特集』。
 またネコミミかよ、とチャンネルを変えようとするが、まぁ先程の討論番組のような不毛な口喧嘩を観ずとも良さそうだろうと、何となく変えずにリモコンを置く。
 ワイプ画面に芸能人の必要もないオーバーリアクションを映しながら、編集されたVTRが流れている。ネコミミの歴史についてのVTRだった。
 VTRによれば、そもそもネコミミの祖先は人間だという。
 アフリカのある一部の村で猫と交尾をするという、いわゆる獣姦の風習があり、そこでたまたま産まれたのが人間と猫の間の新種生物、ネコミミだったという。
 ただ一匹が生まれた時点では村人たちが隠したために発覚せず、また村人たちはなおも風習を続けた。その結果、嗅ぎ付けた研究機関が押し入ったときには、ネコミミは村人の数よりも多く誕生していたという。
 そのネコミミは、貴重だということで全匹保護され、研究機関で大事に繁殖させられた。
 そしてそのうちネコミミを購入する動物園が現れ、金持ちの顧客のために高価なネコミミ売買が行われるようになり、さらには並外れた繁殖能力でぐいぐい数を増やしたネコミミの価値はどんどん下がっていき、最終的にはペットショップに普通に並び、ネコミミとごく自然に触れ合えるネコミミ喫茶も次々とオープン。
 捨てる人間が現れ、野良ネコミミなどが増加。実害が発生しつつあるため、政府は早急な対応していくべきだろう、というのがそのVTRの締めくくりだった。
 じつをいえば、ネコミミの歴史はそれで初めて知った。
 ネコミミ好きの友人とネコミミ喫茶に頻繁に行っているとはいえ、私自身はネコミミにほとんど興味がなく、むしろ野良ネコミミや車に轢かれたネコミミの死骸を邪魔に思っているくらいなので、歴史を知ろうなんて考えは毛頭浮かんだことがなかった。
 VTRが終わるとスタジオに三匹のネコミミが現れ、それをネコミミ好きを自称する芸能人たちが戯れる。三匹のネコミミは三匹とも女性の容姿をしている。あのVTRにはなかったが、ネコミミは全匹人間の女性の容姿をしている。
 必ず女性の容姿のネコミミしか生まれない。男性の姿のネコミミが生まれたという報告は今のところどこにもらないらしい。だが、ネコミミは全匹メスというわけではない。かといってオスがいるわけでもない。
 そもそもネコミミに性別の概念はない。いわゆるカタツムリなどと同じく両性だ。人間の女性の姿をしていながら、両性なのだ。両性のため、どのネコミミとも交尾が出来、また交尾をした二匹同時に子供を身ごもり、二匹同時に産むという。人間や猫と同じ、哺乳類特有の妊娠出産で。
 なぜ人間と猫の間にこのような不可解な生物が誕生したのか、今でも研究は続けられているそうだが、未だにわかっていることは少ないらしい。
 まぁネコミミの生態が詳しく判明したところで増えたネコミミが減るわけでもなく、私は心底どうでもいいことではあったが。
 口から欠伸が出る。眠い。テレビなんか観ていないで明日のためにも早く寝てしまおう。
 私はテレビを消し、背広を脱いで寝巻に着替え、電気を消し、寝室のベッドの上に寝転がる。
 すぐに目を瞑り、何も考えずに無心で瞼の裏側を眺め、気づけば夢の奥へ。
 眠りに落ちる瞬間、明日の仕事のことがまた過り、いつものように憂鬱な気持ちで眠った。

 翌朝、普段通りに起き、普段通りに身支度を整え、普段通りに車に乗って出勤する。
 職員室に入るなり、頭の禿げた教頭先生が私に声をかけてくる。
「あ、斉藤先生。沼崎先生を知りませんか?」
「知りませんけど、沼崎先生がどうかしたんですか?」
「いえ、ちょっと用事があって。いつもならこの時間に来てるんですけどね」
「確かに今日はまだ来てないっぽいですね。でもまぁ、そのうち来るでしょう」
「そうでしょうね。焦るような案件でもないので気長に待ちます」
 教頭先生が引っ込み、私は自分の席につく。隣の沼崎の席は空いている。
 珍しいな、沼崎のやつ、教師になってからは一度も仕事を遅刻したことがないのを、よく自慢していたのに。いや、まだ遅刻ではないけど。時間の管理だけはちゃんとした男だったのに。
 でも、すぐに来ると思っていた。「いやー、サチと遊んでたらつい夢中になっちゃって、遅れちまったよー」と呑気に笑いながら来るものだと思っていた。思っていた――。
 しかし、始業のチャイムが鳴る頃にも、沼崎のやつは来なかった。
 社会人が無断欠席ってどうなんだよと思いながら、朝のホームルームを済ませた。
 その後、一時間目が終わり、二時間目が終わり、それでも沼崎は来ず、三時間目が終わり、四時間目が終わり、昼休みになっても沼崎は来ず、五時間目が終わり、六時間目が終わり、放課後になっても沼崎は出勤して来なかった。丸々一日、無断欠席だった。
「沼崎先生、どうしたんでしょうね?」
 教頭先生がまた私に話しかけてきた。
「さぁ? あいつ、ああ見えてこんなことは学生時代にもなかったんですけど――」
 私も戸惑っていた。言葉通り、私の知る限りでは、沼崎がこんな失敗を犯したのは初めてだった。
「沼崎先生に連絡は取ったんですか?」
「それが、沼崎先生の携帯電話にかけても一向に繋がらなくて」
「家の電話の方は?」
「お恥ずかしい話、沼崎先生の家電の電話番号は知らないんですよ」
「わかりました、私はかけてみますね」
 私は自分の携帯電話を取り出し、沼崎宅の電話番号に電話をかけた。呼び出し音が耳元で何度も鳴ったが、沼崎が出る様子はなく、二十回目のコールで一端電話を切った。
「出ませんね、沼崎先生」
「どうしましょう? これ本当に緊急事態なんじゃないですかね?」
「ちょっと待ってください。沼崎先生の実家の方にもかけてみます」
 今度は沼崎の実家に電話をかける。電話帳に登録していたが、かけるのは初めてだった。
 コールが十回目ほど続いて、これもダメかと思った矢先、ピッと誰かが電話に出る。
 もしもし、と言おうとして、電話口から泣き声が聞こえてくるのに気づき、ギョッとする。
それは女性の泣き声だ。中年か初老くらいの女性の泣き声。そして聞き覚えのある声。
「もしもし?沼崎先生――いや沼崎の――――お母さん?」
それは沼崎の母親の泣き声だった。沼崎の母親は泣きながら話し出す。
『あ、斉藤くん? 斉藤くんなの? あのね、斉藤くん、雅裕がね――――』

 沼崎雅裕が死んだ。
 死因は突発的な心臓発作。一人暮らしの自宅で倒れ、そこを管理している大家に発見されたときにはすでに意識不明の重体だったらしい。
 まだ息がある状態で救急車に乗せられ、病院に運ばれたが、あえなく死亡。沼崎の両親が病院に駆けつけ、息子の遺体を確認し、泣き崩れている最中に、空気も読まずに私が電話をかけてきた。そういうわけだった。
 ようやくそのことを知った私も、その病院に駆けつけた。
 看護師に案内されて霊安室のような部屋に連れていかれた。そこに沼崎の遺体があった。
 沼崎は冷え切った土色の肌で、でも眠っているような安らかな死に顔だった。
 今にも血色を取り戻して起き上がってきそうな、生き返りそうな、そんな――。
 私は――私は呆然としていた。悲しいとか寂しいとかではなくて、ただ呆然としていた。
 脳裏は真っ白で、何も考えられず、眼球は実感もなく、からからに乾いていた。
 翌日、さっそく沼崎の通夜が行われた。私はもちろん参列した。
 あいつには迷惑をかけられていたが、曲がりになりにも友達だったのだという想いがあった。ここでもまだ頭は呆然としているだけで、悲しいという感情の実感がなかった。
 僧侶のお経を正座で聞き、線香と焼香を上げ、棺桶の中の沼崎の死に顔を拝む。
 そのときにふと、本当に何の前触れもなくふと、目から涙が零れた。
 悲しいと思った。こいつは死んだのだという実感が湧いてきて、悲しいと思った。
 思えば、なんだかんだで沼崎との付き合いは小学生からだ。小学生の頃からずっと友人でいた存在なんて、沼崎以外にはいなかった。
 沼崎は昔から面倒臭いやつで、迷惑なやつで、切れるなら切りたい腐れた縁故だって自分は常々前から思っていたが、そう思って笑っていたが、これもなんだかんだで、私はこいつを友人として、じつはとても大切に想っていたということか? いつの間にか涙が止まらなくなっているのは、そういうことだろうか?
 私は最終的に、転んで怪我をしたガキのような、ぐちゃぐちゃの汚い泣き顔で通夜を終えた。
 さらにその翌日には葬儀が執り行われて、沼崎の遺体は火葬場で焼かれた。
 私は相変わらず悲しかったが、その日は泣かずに火葬場の煙突から流れる煙を見送った。
 沼崎の葬儀が終わった後、沼崎の両親から「話がある」と沼崎の実家に呼び出された。
「斉藤くん、単刀直入で申し訳ないが、雅裕が飼っていたネコミミをもらってくれないか?」
 沼崎の父親がそう頭を下げてきた。
「沼崎の飼っていたネコミミって――あのサチっていう?」
「そうだ。そのサチというネコミミを斉藤くんに飼ってもらいたいんだ」
「あの――てっきりご両親が引き取るものだと――」
「我々もそうしたいのは山々なんだが、如何せんもう歳でね。生き物を飼える経済的な余裕も体力的な余裕もないんだ。不躾で失礼なお願いなのは重々承知なんだけどね」
「いえいえ、それより頭を上げてくださいよ。心苦しいですから」
「それに――――」
「それに?」
「雅裕の遺言でもあるからね、これは」
「え?」
「以前に雅裕が漏らしていたことがあってね。自分が死んだら、サチは斉藤くんに引き取らせたいって、そう言っていたから。遺言と捉えるには無理があるかな」
「いや――そんなことは――」
 確かに、沼崎は私自身にもこんなことを言っていたことがある。
「自分が死んだらサチはおまえが預かってくれ」と――。
 酒の席での冗談めかした口調の発言だったから、冗談だと受け取って「縁起でもないことを言うな」と笑ったが、あれは本気だったのか? 本気で私に自分の飼いネコミミを託したかったのだろうか?
「どうかね? 斉藤くん、サチをもらってやってくれないか? この通りだ」
 沼崎の父親はさらに頭を深く下げる。母親も同じようにそうする。
 私はあわあわと「やめてくださいよ」と言いながら、どうしようか逡巡する。
 私はネコミミを飼ったことがない。実家で飼っていたこともない。
 ましてや猫や犬すら飼ったことがない。夏祭りに掬った金魚くらいだ。
 そんな自分がネコミミなんて責任を持って飼えるのだろうか?
 いや、近年はネコミミを飼う人口が激増しているらしいから、飼おうと思えば飼えるのか?
 そうこう考えあぐねているうちに、襖を隔てた隣の部屋から「にゃー」と鳴き声がした。
 それは猫が鳴いているというよりも、人間が猫の鳴き真似をしているような声だった。
「あぁ、サチをもうこっちに連れてきてるんだよ。見てみるか?」
 沼崎の父親の申し出に、とりあえず私は頷いた。
 沼崎の父親が襖を開けると、沼崎のネコミミ、サチがこちらの部屋に入ってくる。
 サチは薄茶色の短髪の女性の姿をしたネコミミだった。
 スタイルも良く、顔立ちも整っている。本物の人間ならさぞかしモテる容姿だ。
 見知らぬ私を見ても落ち着いていて、大人しそうなネコミミだった。
 このネコミミを私が飼う――のか。想像してみようとする、このネコミミとの生活を。
 といったって、一度も飼ったことがないのだから想像のしようがない。
 でも、友人の両親にこんなに頭を下げられ、生前の友人の言葉もあって、それでも断れる度胸は私にはなかった。
「わかりました。サチちゃん、引き取ります。引き取らせてもらいます」
 私の返答はそれ以外にはなかった。
 かくして、サチが我が家にやってくることになった。
 たまたまペット可のマンションに住んでいて良かった、とホッとした。
 まずサチを飼うに当たり、色々と買い揃えなければならない。
 ネコミミ用トイレ、ネコミミ用ゲージ、ネコミミ用餌皿etc――。
 ペットショップで一気買いした。ペットショップには犬コーナーと猫コーナーに続いてネコミミコーナーが設けられており、四角いゲージの中でまだ赤ん坊のネコミミが毛布に包まって寝ていたり、ボールで遊んだりしている。それを女性や子供が中心に囲うように集まって、「可愛い、可愛い」とネコミミたちを愛でてはしゃいでいた。
 準備を怠っていないか念入りにチェックしてから、サチを迎え入れる。
 サチは初めて来た家に落ち着かないのか、始終そわそわしていた。
 気も立っているようで、頭を撫でようとしたら、「しゃーっ」と怖い顔で威嚇された。
 気を取り直して餌をやろうとしたが、餌皿にネコミミフードと呼ばれるキャットフードみたいなネコミミ専用の餌を盛っても、知らんふりをして一向に食べようとしない。
 どうしたもんかと困っていたら、ふとあることを思い出して押し入れを探る。
 じつはサチと一緒に沼崎の本棚にあった本も引き取っていた。それを詰め込んだ段ボールを押し入れの中に入れていた。その本の中に、確かノートが――。
 段ボール箱から本を出して確認していくと、果たして段ボール箱の底にそれはあった。
 『サチの飼育日記』と、そのノートの表紙には下手糞な字でそう書かれていた。
 文字通りサチについて記した沼崎の日記で、沼崎の形見の一つとも言えた。
 その何ページ目かに、サチの餌について記されていた。
 それによると、サチは特定のネコミミフードしか食べない偏食だとのことだった。
 私がサチにやろうとしていたネコミミフードは、そのノートにあるネコミミフードではなかった。
 さっそくペットショップでノートにある通りのネコミミフードを買ってきた。するとサチはあっさり餌を食べた。黙って大人しく餌を食べる姿は、なんだか可愛かった。

「斉藤先生、ちょっとよろしいですかね?」
 サチを飼い始めてから一週間が経過した。友人が死のうとも、その友人が飼っていたものを引き取ろうとも、生活は続く、金を稼がなければならない、働かなければならない。だから今日も私は中学校の職員室にいた。そして教頭先生が声をかけてきた。
「どうしたんですか?」と訊ねると、ただでさえ声の小さい教頭先生はさらに声を潜めて、「斉藤先生の受け持ちのクラスの湯川春斗くんのことでして」と言った。
 私にはそれだけで、教頭先生がなぜ私に声をかけたのかがわかった。
「あー、湯川春斗の不登校の件ですか?」
 教頭先生は小刻みにこくこくと頷く。
「そうです、湯川春斗くんにせめて保健室登校をさせてもらいたいんです」
「させてもらいたいといっても、私も何度か湯川春斗の家に電話をかけて交渉を試みたんですけどね、湯川春斗本人どころか親まで取り合おうとしなくて」
「直接ご自宅を訪問したことは?」
「それはまだしてないですけど――」
 あぁ、なるほど、教頭先生の言いたいことが見えてきたぞ。
 つまり電話ではなく、直接自宅に押し掛けて説得しろと命じたいのだ。
「わかりました、それでは今日にでも湯川春斗の自宅に行ってみます」
「そうしてくれると助かります」
 教頭先生はそれだけ言うと、そそくさと去っていった。
 私は今日も今日とて溜息をつく。正直なことを言えば湯川春斗の自宅に押し掛けるのは気が重い。
 別にそこまで面倒臭いわけではないし、教師としての情熱というものは乏しいが、自分の受け持っているクラスの生徒のことが気にならないわけでもない。ただ、何度か電話したときに、本当につっけんどんな扱いを受けたのだ。
 かけた回数は三回。うちの二回は母親が出て、一回は本人が出た。
 本人が出たときはすぐに電話を切られたし、母親が出たときは「うちの子は大丈夫ですから」の一点張りだった。現に不登校なわけだから何も大丈夫ではないのだが、やはりすぐに切れるし、再びかけても出ようとしないのでどうしようもない。
 こんな対応は電話口でされても気が滅入るのに、面と向かってやられたらどんな想いをするか。
 そんなことを考えると、溜息が出るほど憂鬱な気持ちにならざるを得なかった。
 仕方がない、こういうのも仕事だ。形だけでもやらないと。
 朝のチャイムが鳴る数分前に職員室を出、今日もホームルームのために教室に向かう。

 湯川春斗が不登校になったのは中学一年生の夏休み明けからだ。
 原因不明。湯川春斗本人に訊いても、答えようとはしなかった。
 当時の担任の教師も何度か湯川宅に訪問したそうだが、にべもなく追い返されたらしい。
 そしてずるずる一年生の間、まったく学校に来ず、二学期分の授業を受けずに二年生に進級した湯川春斗は、私の受け持つクラスに配属されたわけだ。
 湯川春斗は二年生になってからも一度も登校していない。だから私が訪問しに行く破目になるのだが。
 一年生のときの担任に聞くと、湯川春斗は典型的ないわゆる内気な大人しい生徒というやつで、休み時間は本を読むわけでもなく、イヤホンで音楽を聴くわけでもなく、ましてや同級生と仲良く談笑するわけでもなく、ただ自分の席に座ってぼーっとしていたという。
 いじめはなかったとのことだったが、これは教師の主観もあるし隠蔽している可能性もあるから判断しかねる。ただ、湯川春斗の不登校の理由が謎であることは事実だった。
 クラスメイトにも訊いて回ったが、何か知っている生徒はいなかった。
 というか、湯川春斗の友達を名乗る生徒自体が誰一人もいなかった。
 湯川春斗という生徒の人物像も思考も、私には何もわからないままなのだった。

 放課後、早めに仕事を切り上げさせてもらい、湯川春斗宅に向かった。
 予め電話をしたら「来るな」と言われそうなので、連絡をせずに来た。
 今すぐ踵を返して帰りたい衝動を抑え込んで玄関先のインターホンを鳴らす。
 しばらくすると、がちゃっと鈍間に、しかも狭くドアが開く。
 少しだけ開いたドアの隙間から中年の女性が睨むような表情を覗かせる。
「誰?」不愛想に言う。
「あ、あの、私、湯川春斗くんのクラスの担任教師の斉藤という者ですけども――」
 言い終わらないうちにドアが閉まりそうになる。私は慌てて咄嗟にドアの淵を掴み、力を込めて閉めさせないようにする。
 ただでさえ険しい中年女性の表情がさらに険しくなる。
「うちの子は大丈夫って言ったじゃないですか!」
 中年女性は怒鳴るような声を放つ。やはりこいつが湯川春斗の母親か。
「お母さん! 頼みます! ちょっとだけ湯川春斗くんと話をさせてください!」
「そういうのいらないですよ! 春斗も嫌がりますし!」
「ちょっと、ほんのちょっとだけでいいんで!」
 これも仕事なんで、と言いそうになったが、それは飲み込んだ。
 もう諦めて手を離そうかと思い始めた矢先、ふとドアを閉めようとする力が弱まった。
「・・・・・・ちょっとだけですよ」
 湯川春斗の母親は仏頂面でそう言うと、ドアを広く開けた。
「す、すいません」と私はどもりながら湯川春斗宅にお邪魔した。
「春斗の部屋は二階です。そこの階段を上がってすぐの部屋」
 湯川春斗の母親は廊下の奥の階段を指差す。
「早く済ませてください。まぁどうせ春斗はまともに話はしないでしょうけど」
 私は急かされるままに指差されたその階段を上った。
 その階段を上がった先の最も手前にある部屋、そこが湯川春斗の部屋のようだった。
 目印になるものはなかったが、ドアに「無断で入るな」と書き殴られた紙が貼られていた。
 そのドアを一度深呼吸してからノックする。次に呼びかけ。
「――湯川春斗くんかな?」
 返事はない。まぁ想定内だ。もう一度ノックし、呼びかけ。
「湯川春斗くん、私は君のクラスの担任教師の斉藤といいます」
 返事はない。まぁそうだろう。またまたノックし、呼びかけ。
「単刀直入で申し訳ないけど、学校に来ないか? 無理に教室に来ることはないよ。知ってるかもしれないけど保健室登校っていうのがあってね、誰にも会わなくていいし授業を受けなくてもいいよ。ただ放課後になるまで保健室にいてくれれば。どう?」
 ドアの向こうはずっと静寂。人がいる気配はあるし、微かな物音はするのだが。
 試しにドアノブを掴んで回してみるが、鍵がかかっているのか、回るには回るのだがドアは開きそうにはない。
「何か悩みがあるなら相談して欲しい。担任というのはそのためにいるんだから――」
 こんな話をしながら自分でも馬鹿らしくなってくる。そもそも何で自分がここにいるのかよくわからなくなる。
 ようは湯川春斗に不登校をやめて保健室登校をしてもらいたいわけだが、ただそうして欲しいだけで別段湯川春斗の抱えているかもしれない問題だとか悩みだとかは一切解決する気もないのに、「相談して欲しい」とか場当たり的な嘘を吐いている自分が、なんだか酷く滑稽な気がしてくる。段々と語気も尻すぼみに弱くなる。
「――ってまぁ、無理強いはしないけど、考えといてくれると有り難いな」
 最終的にお願いするような感じになってしまった。これでは絶対に来ないだろう。
 だが、今日はもう疲れたし、一階で母親が「早くしてくださいよ!」と苛立った様子で声を荒げているので、今日のところは諦めて引き下がることにした。また来るのも嫌だけど。
 湯川春斗宅を出たとき、母親は「もう来ないでください」と唾を吐き捨てるように言ってドアを閉めた。「私も来たくないですよ」と誰にも聞かれないように小声で愚痴った。
 結局無駄足になってしまった。仕事から、さらに倍増した疲労感を抱えて私は家路に着こうとした。
 ふっと振り返ってみると、湯川春斗宅の二階の窓のカーテンが少し揺れた気がした。
 あれ? もしかして湯川春斗が覗いていたのか?
 まぁ、どうでもいい。私は前に向き直り、改めて家路についた。

「ただいま」と言って帰宅する。
 以前は帰宅しても「ただいま」とは言わなかったのに、今は言う。
 なぜなら今は待っている人――ではなく生き物がいることを知っているから。
「にゃー」とその生き物――ネコミミのサチは私を出迎える。
 一見すれば猫の耳と尻尾をつけてコスプレをした全裸の若い女性。美人だしスタイルも良いしエロスを漂わせているような女性。でも欲情したりはしない。だってそこにいるのは人間ではないから。人間ではなく、ネコミミという人間とは違う生命体だから。
「餌だな、ちょっと待ってろ」
 私はサチがなぜ毎日私を出迎えてくれるのかを知っている。サチの目的は一つだ。
 私は歩くとサチは後ろから四つん這いでついてくる。リビングの隅の餌皿のところまで行き、その餌皿にサチお気に入りのネコミミフードを注いでやる。
 そのときのサチの表情は、何か大切な宝物を見つめる子供のようにきらきらと輝いている。そして注ぎ終われば、私が良しというのも聞かずに餌皿に飛びついて、そこに盛られた餌を平らげる。
 餌を平らげれば満足そうな顔で、何の名残惜しさもなさそうに私の元から離れていった。
 まったくもって現金なやつだ。思考は猫に近い生き物だから仕方ないが。
 私はソファに腰かけてテレビを点ける。旅行番組をやっている。
 テレビ画面に流れていく異国の地の映像を、眠気とともにぼんやりと眺める。
 ふと右腕に人間の素肌の感触。ドキッとしてそちらを向けば、サチが私の隣で丸まっている。
 こいつも随分と私に慣れたものだと思う。
 初めはそれこそ借りてきた猫で、毎日のように怯えていて餌の時間以外に私に近寄ろうともしなかったのに、徐々に慣れて今ではこんな風に無防備に近づいてくるようになった。
 それにしても、ネコミミという生き物はやはり自由なものだ。私が自分から構おうとしたり撫でようとしたら嫌がって噛みついてこようとすらするのに、私がそんな気分ではないときに限ってこうやって近寄ってくる。
 その人の顔色や空気を読まない自由な行動は、生前の沼崎を連想させ、思わず笑う。こんな美しい若い女性の姿をした生命体と、あんなむさいおっさんとを重ねてしまうとは。そんな自分の発想力に笑って、少し切なくなった。
 私はサチの頭を撫でる。サチはごろごろと喉を鳴らす。普通の猫と同じく、気持ちが良いというサインだ。
 面倒臭いし、うざいときもあるし、現金だけれど――なんだかんだで可愛いやつ。
 以前はネコミミには興味がなかったし、むしろ邪魔な存在のように感じていたし、ネコミミ喫茶に行ってもペットショップで見かけても何も感じなかったのに、感じなかったはずなのに、今はサチが愛しくて堪らない。こうやって無防備に撫でられているサチが。
 決して性的な意味合いではなく。性的な意味合いが挟まる余地などなく。
 純粋に家族として、そして沼崎に代わる友として、私はサチを愛していた。
 当時は不思議だったペットに夢中になる人間の気持ちが、今なら理解できた。
 異国の地に住むネコミミがカメラに映る。『可愛らしいネコミミですねー』と気の抜けたナレーションが流れる。私はもうテレビ画面は見ず、目を瞑り、サチの頭の毛触りを感じ、ごろごろというサチが鳴らす喉の音に耳を傾けながら、束の間の安らぎの一時を過ごした。

 ある朝、ホームルーム前に職員室で教頭から教師陣にあるプリントが配られた。
 『最近頻繁に目撃されている不審者のお報せ』というのがそのプリントのタイトルだった。
「えぇ、皆さん、最近この近くでよく不審者らしき人物が目撃されています」
 教頭がわざとらしく咳払いをし、厳かにしようとして失敗したような声音で言う。
「詳しくは配ったプリントに目をお通しください」
 そう言われたのでプリントに目を通す。
 そのプリントによると、最近この近所でネコミミが殺される事件が多発しており、その現場には必ずといっていいほど黒いフード付きのジャンバーを来て、そのフードを深く被った不審者が目撃されているという。そしてその殺されたネコミミは――。
 私はそれに続く文章を読んで面食らう。プリントを読む教師たちが小さくどよめく。
「あの、これ本当ですか?」
 誰かが教頭先生にそう訊ねた。
「これ? これとはどれですか?」
「その、ここのこの――殺されたネコミミはみんな犯された跡があるって記述――」
「はい、そうですよ」
 教頭は意図もあっさり認めた。
 ネコミミを殺す事件は言ってしまえば結構あるし、むしろ有り触れているとも言える。
 私には到底理解のしようがないが、やつらからしてみれば、ネコミミを殺すのは野良犬や野良猫を殺すのと大差ないのだろう。それか公園で屯しているホームレスか。
 一方で犯す事例となると――珍しい。いや、珍しいなんてレベルではない。
「――異常だ」教師の誰かがそう漏らすのを鼓膜の端で捉える。
 そう、異常だ。アブノーマルだ。いや、殺す時点でアブノーマルなのだが、そのアブノーマルの中でもさらにアブノーマルだ。
 見た目は人間の、しかも全裸の女性なのだから、そりゃ欲情してレイプする輩もいるだろうと、もしもネコミミをよく知らないやつがいたらそう思うかもしれないが、私からしてみれば、今この世界のこの時代に生きる人々にしてみれば、それはあり得ないことだった。
 なぜならネコミミは人間とは別の生命体なのだ。どれだけ外見が人間と同じだろうと、ネコミミは人間とは一線画す、獣の一種なのだ。
 獣を犯そうと思うか? いや、仏教にもキリスト教にも獣姦を禁止する教えがあるから、昔からそういうことをする輩というのは存在するのだが、こと現代において、そのようなことをしようという発想になるものだろうか? よりにもよって獣を犯そうという発想に。
 だが、現にそういう発想になるやつがいるらしい、このプリントを信じるなら。
「とにかくそのプリントを生徒にも配ってください。保護者に方にはPTA総会のときに渡すか、それに来られない保護者の方のところには郵送しますから」
 教頭に言われるままに、それと同じプリントの束を抱えてそれぞれ教師たちは受け持ちのクラスにホームルームをしに向かった。プリントを配ったとき、生徒たちは職員室の教師たちと同じように、いやそれ以上にざわつき、どよめいた。
「マジかよ、ネコミミをレイプするとか、そんなやついるの?」
「凄まじい変態だな」
「いやだー、きもちわるいー」
「アニメとか好きなキモいやつよ、きっと」
「早く警察に捕まんないかな、こんな異常者」
「ちょっと面白そうじゃん。俺も真似してみよっかな、なんつって」
「俺だったら犯して殺した後に、さらにそいつの上に脱糞してやるな」
「これってさ、ホーミンハーデス以来のネコミミ姦犯罪者じゃない? それか野呂洋一」
「誰それ?」
「いたのよ、過去にこれと似たようなことした犯罪者が」
 生徒は教卓の前にいる私のことを見向きもせず、口々に言葉を発する。
 これだけ騒ぐのは無理もないことだったが、「静かに、まだホームルーム中だぞ」と形式的に注意する。
 しかし、それでも静かになるまでには時間を要し、その頃にはホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、私は逃げるように騒がしい教室から出ていった。

 その日は何か行事があるわけでもないのに学校全体に浮ついた雰囲気が漂っていたが、特に大きな問題もなく、普段通り平穏無事に一日が終わり、私は帰宅した。
 自宅でも普段通りにサチが出迎えてくれる。私も普段通りサチに餌をやる。
 テレビを点けると流れてくるのはニュース番組。テロップにこの街の名前があって、私はつい二度見する。
 『H市でネコミミ大量殺戮』というテロップが画面の端に表示されている。
『先月より、H市でネコミミが強姦され、殺害されるという異例の事件が多発しています。また、事件が起きた現場の近くでは黒いジャンバーを着た男がよく目撃されており、警察ではその男が事件に深く関わっているとみて、調査を続けています――』
 ニュースキャスターがニュース映像に合わせてニュース原稿を淡々と読み上げる。
 そのニュース映像には私の知っている場所が結構たくさん映っていた。
 あのプリントに書かれたいたことは本当だったんだな、と私は唖然とした。
 本当にネコミミを殺すだけでなく犯すやつなんているのか。しかもこの近所に。
 私は今自分の膝の上で、頭を乗せてすやすやと寝息を立てるサチを見下ろす。
 この子だけは守らなければ。そんな使命感が湧く。
 自分の命に代えて――とまではさすがに言えないが、それでもサチは私の家族だから、死んだ友人の形見だから、絶対に守らないといけない。どんなやつからも、どんなことからも。
 私はサチの頭を撫で、そして起こさないように静かにギュッと抱きしめた。

 数日しても連続ネコミミ強姦殺害犯は逮捕されなかった。
 事件が起きなくなったわけではない。数日のうちに、二匹野良のネコミミが犯され、殺された。
 今や学校中の生徒の話題がそのネコミミ殺害犯のことで持ち切りだった。
 大した事件なんて滅多に起きないような平和な街だから、そんな異常な犯罪者が現れたことに、普段の日常に退屈している生徒たちは興奮を隠し切れないようだった。
 私たち教師はといえば、まぁ別段変わったところも変わるようなところもない。
 ホームルームも授業もいつも通り。書類作成や小うるさい保護者への対応もいつも通り。
 初めは心のどこかで今回の一連の事件の魔の手はサチにも及ぶのではないかとビクビクし、仕事が終わればすぐに飛んで帰っていたが、呆気に取られるほど何も変わらない毎日に、自分の心配もただの杞憂だったのだろうと思うようになった。
 結局、私も生徒たちと同様に浮かれていたのだ。柄にもなく何かを守ろうなんて変な使命感を持ってみたり、何かの物語の主人公になったような気分を味わってみたり、そんな風に浮かれていただけだ。
 蓋を開ければ何てことはない。しょせんは、私とは遠い事件だ。
 そう思っていた矢先、久々に意外な人物と再会した。
「あれ? あなたもしかして斉藤さんですか?」
 減ってきたサチの餌を買い足すために来店したペットショップで、そう声をかけられた。
「そうですけど」と振り返ると、見覚えのある初老の男性がにこにこ笑っていた。
「――佐村さん? あのネコミミ喫茶の喫煙所でよくご一緒した佐村さんですか?」
「そうですそうです」と佐村さんは嬉しそうに頷いた。
「奇遇ですね、こんなところで出会うなんて」
「佐村さんもお買い物ですか?」
「えぇ、家族で来てましたね。今みんなネコミミコーナーで仔ネコミミを見てるんですよ。飼うわけでもないし、うちに飼ってるネコミミの餌を買いに来ただけなんですけどね」
「私もうちで飼ってるネコミミの餌を買いに」
「おや? 斉藤さん、ネコミミ飼ってらっしゃったんですか?」
「いえ、その――つい最近飼い始めたんです」
 友人の沼崎が死んだことは伝えるべきかどうか迷ったが、しょせんはそんなに仲が良いわけでもない赤の他人だし、変に気を使わせてしまっても悪いから黙っておいた。
「そうだ、これからそこの喫煙所で一服どうです。久しぶりにお話ししたいと思いまして。家族はたぶんもうしばらく仔ネコミミを見ていると思いますし、斉藤さんの都合が合えば」
「いいですよ、私も忙しいわけではないですしね」
 私は佐村さんの誘いに乗り、ペットショップの喫煙所の中で二人並んで煙草を吸った。
 狭い喫煙所には私と佐村さん以外、誰もいなかった。
「喫煙への圧力が強くなってきたから、煙草をやめる人が多くなったんでしょうねぇ」
 佐村さんがふーっと煙を吐きながら、どこかしみじみとした調子で言った。
「じつは私も、最近は煙草あんまり吸っていなかったんですよ」
「へぇ、どうして?」
「ネコミミを飼い始めて、その――自然と手が伸びなくなったというか」
 それは本当だった。サチを飼い始めてから、煙草を吸いたくなくなった。
 サチが煙草代わりになっているというのもあるだろうし、単純にサチの身体のために煙草をやめようという意思が働いたというのもあった。
 とにかく最近は、めっきり煙草を吸っていなかった。そのせいか、久しぶりに吸った煙草の味はひたすら苦く、不味かった。
「あらら、それならお誘いしない方が良かったかな」
「いやいや大丈夫です。私も久々に佐村さんと再会できて嬉しかったので」
「こんな老いぼれに対してそんなことを言ってくれるとは、とても嬉しいです」
「やだな、まだ老いぼれなんて歳ではないじゃないですか」
「ははは、そういうこと言ってくれるのは斉藤さんくらいなものですよ!」
 私と佐村さんは笑い合い、そして次の言葉が思いつかず互いに黙って煙草を吸った。
「――ところで、最近この近くにも物騒な事件がありますね」
 そう口を開いたのは佐村さんだった。
「あぁ、連続ネコミミ強姦殺害事件ですか? ニュースでもしょっちゅう報道されてる」
「それです。まだ犯人捕まってないみたいで、本当に怖いですよね」
「でもまぁ、私たちは関係ないと思いますよ」
「なぜそう思うんですか?」
「だってニュースの中のことがそう簡単に身に降りかかったりはしませんよ」
「さぁ、どうでしょうか? そうも言い切れないと思いますが」
「というと?」
「テレビの向こう側のことだと侮っていたら痛い目を見るってことです。ましてやその事件はこの近くで起こっていることなんですよ? 危機感ぐらいは持っておいた方が良いかと」
「まぁ、それもそうですね」
 佐村さんに諭されて納得し、私は反省した素振りで同意した。
 しかし、やはり遠いことであるような感覚は拭えなかった。
「それからこの事件、妙な噂が囁かれていることは知ってますか?」
「妙な噂? どんな?」
「警察とは別に、ネコミミ保護協会の連中が今回の事件の犯人を捜索しているっていう噂」
「は? 何ですかそれ?」
「何でも、警察よりも早く犯人の身柄を拘束しようとしてるそうですよ」
「ちょっと待ってください。ネコミミ保護協会って民間団体ですよね?」
「そうですね」
「つまり民間団体が、国の公共機関である警察を出し抜こうとしてるってことですか?」
「そういうことになりますね」
「あっさり言ってますけど、何気に無茶苦茶なことじゃないですか?」
「だから噂なんですよ。何の根拠も証拠もないから噂なんです」
「大体、何のために犯人の身柄を警察よりも早く拘束するんですか?」
「処刑するんだそうですよ」
「はい?」
「犯人を自分たちの手で処刑するんだそうです」
 処刑という耳馴染みのない単語が脳に飛び込んできて、返事がだいぶ遅れた。
「ネコミミ保護協会は確かにカルト宗教に似た匂いのする民間団体だって、ネットでもテレビでも言われてますけど、まさかそこまで過激な団体なんてことは――」
「まぁまぁ、ただの根も葉もない噂ですから。面白半分に聞くのが一番ですよ」
「そ、そうですよね。ただの噂ですもんね」
「そうですそうです、噂です。でもね、この噂にはある裏付けがありましてね――」
「裏付け?」
「今回の連続ネコミミ強姦殺害事件にも、じつは前例があるってご存知ですか?」
「生徒がそんなこと言ってましたね。この事件には前例があって、これと似たような犯罪をした犯罪者が数人いるって話。あ、私、中学校の教師なんです」
「なるほど、先生でしたか。道理でしっかりなさってる」
「いえいえ、そんなことは――」
「その生徒さんはその犯罪者にどんな名前を上げていましたか?」
「えーっと、確かホーミンハーデスと野呂洋一という名前を聞いた気が――」
「二人ともこの手の事件の前例として真っ先に挙げられる犯罪者ですね」
「はぁ。ということはかなりの凶悪犯?」
「凶悪犯も凶悪犯、大凶悪犯ですよ」
 佐村さんは別に誰が聞いているわけでもないのに低く潜めた声を出す。
「まず野呂洋一の話をしますけど、こいつは日本で唯一のネコミミ強姦殺人犯と言われてましてね――いや今回の事件が起きたから日本で唯一ではなくなったんですが、とにかくちょっと前まではそんな風に言われていた男で、犯して殺したネコミミの数は三匹。一匹は野良でもう二匹は飼いネコミミだったっていうんですから驚きですよ。そういえば、今回の犯人はまだ野良しか殺してないらしいですね、これからどうなるかはわかりませんが――。まぁそれは置いといて、それでその野呂洋一は、自分がネコミミを犯して殺す姿をビデオに撮っていたそうですよ。裁判のときも、何か言いたいことはと訊かれて、あのビデオは宝物だから返してくれと抜かしたとか。いやはや末恐ろしい話ですよ」
 途端に饒舌になった佐村さんに私は面食らう。
 この人、こんなによく喋る人だったのか? というか、こういう話が好きなタイプの人だったのか。すごく喜々として喋っているから嫌いではなく好きだから話しているんだろうが。
 佐村さんは私が面食らっていることなんて知らんとばかりに話を続ける。
「そしてホーミンハーデス、こいつはこの手の事件の中でも大物中の大物――いえ、こんな言い方をしたら御幣があるかな? とにもかくにも有名なやつで、何と犯して殺したネコミミの数は百を超えるとか。とんでもない野郎ですよ。まぁ数値は概ねですけど、少なくとも数えきれない数であるのは確かなんですよ。しかもここだけの話、ホーミンはさらにネコミミを食ったとか。いやまぁ、ネコミミを食う習慣のある地域が中国なんかではあるらしいですから、それはそこまで変な話ではないんですけど。でも異常なやつであることは間違いないですよ。で、そんなやつはきっと警察に捕まったんだろうと思うでしょ? 思うでしょ?」
 佐村さんは私に迫るように訊ねてくる。圧倒された私はこくこくと頷かざるを得ない。
「それが捕まんなかったんですよ、こいつは」
「逃げおおせたと?」
「それとは微妙に違います。行方不明になったんですよ、ホーミンハーデスは。警察はホーミンハーデスの身元を割り出して、犯人だと目星をつけ、逮捕まであと少しのところだったそうですけど、そのギリギリのところでホーミンハーデスは行方不明になった」
「だからそれは逃げたってことじゃ――」
「ここからが、先程の噂の裏付けでしてね。いや、正確には噂の噂かな?」
「・・・・・・? どういうことですか?」
「ホーミンハーデスは消されたんじゃないかって」
「誰に?」
「だからさっきから話に登場させてる、ネコミミ保護協会に」
「消されたっていうのはどういう意味で?」
「言葉の通りですよ。この世界から抹殺されたってことです」
「何ですか、そのトンデモ陰謀論。根拠はあるんですか?」
「だから先程から噂だって言ってるじゃないですか。根拠なんかありませんよ」
「根拠もないのにそんな話――」
「信じられません? でもね、消されたって噂があるのはホーミンハーデスだけじゃない」
 佐村さんはぐいっと私との距離を詰めてくる。私はたじろぐ。
「さっき話に出した、野呂洋一もなんですよ」
「え? でも野呂洋一ってちゃんと警察に逮捕されたはずじゃ――」
「逮捕されましたよ。しかしね、以前のあなたがおしゃっていたように、人間の姿と同じ形をしているとはいえ、ネコミミもしょせん畜生だ。日本の法律で適応されるのは器物破損。何匹殺したって精々刑期は長くて五年。野呂洋一なんて言動が異常なわりにはたった三年の刑期で出所したんですよ。そんなの罪を償ったって言えますか? 言えませんよね? だから野呂洋一は裁かれた、ネコミミ保護協会に。現に野呂洋一は出所後、一週間も経たないうちに行方不明になってます。ネコミミ保護協会が連れ去ったんですよ」
「そんな荒唐無稽な――」
「だから噂だってね――」
 あぁ、ダメだ、このままではいつぞやテレビで見た議論と同じ、不毛な水掛け論だ。
「わかりましたよ、そういう噂があるんですよね。私は信じませんけどね!」
 少しつっけんどんな言い方になってしまった。
 佐村さんは「それでいい、それでいい」と謎の笑顔を浮かべて頷くだけだった。
「まぁ、ようは私が言いたいのは用心するのに越したことはないってことです」
「そんな話でしたっけ?」
「導入はそんな話だったでしょう」
 佐村さんはすっかり灰と化した煙草を灰皿に擦り潰す。
「さぁ、斉藤さんの煙草も灰になったでしょ、戻りましょうか」
 佐村さんに促されて、私は慌てて膝に落ちそうになっていた灰を灰皿に放り捨てた。
 結局のところ、久しぶりの顔見知りとの煙草は、妙な噂話を聞かされただけの結果になった。
何か釈然としない想いを残したまま、佐村さんとは別れた。
 佐村さんは十二分に仔ネコミミを堪能して満面の笑みの家族とともに、自身も満面の笑みを浮かべてペットショップを出ていった。その姿は先程までの頓珍漢な噂話を嬉しそうに捲し立てていた老人とはまるで別人のようだった。
 私はその後、サチの餌をまとめ買いしてペットショップを出た。
 別れ際、佐村さんからあるメモ用紙を渡された。
「これ、ネコミミ関係で何かあったときのために」
 そう言われて渡された。そのメモ用紙にはどこかの電話番号が書かれていた。
「これってどこの――?」
「ネコミミ保護協会の電話番号に決まってるでしょ?」
 私はもう面食らうのも億劫だった。そのメモ用紙と佐村さんの笑顔を交互に見比べる。
「――佐村さん、あなた何者なんですか?」
「何者って? どっからどう見ても、ただの冴えない初老のジジイですよ」
 佐村さんはそう言い残して、家族とともに帰っていったのだった。
「ただのジジイがこんなこと知ってるわけないだろ」と愚痴りながら家路につく。
 自宅に近づいてくると、自宅の前に誰かが立っているのに気付いた。
 遠目からは黒い服装を着ているように見え――ジャンパーか? 黒いジャンパー?
 一瞬ドキッと私の心臓は飛び上がる。黒いジャンパーといえば、今話題の連続ネコミミ強姦殺害犯の服装だ。まさか、サチを狙いに来たのか――。
 急ぐ気持ちとともに速足になる。近づくごとに胸の鼓動が耳元で大きくなっていく。
 そして黒いジャンパーを着たその人物に、数メートルのところまで接近した。
 そこまで来て、その人物が着ているのが黒いジャンパーではないことがわかった。それは紺色のジャンパーだった。遠目からはわかりづらかったが、近くで見ればわかった。
 案外早とちりだったかという安堵感とともに、無暗に人を疑ってしまったという罪悪感が湧いた。
 いや、しかしまだ安心できない。その人物は――恐らくその男は、なぜだか私の自宅の前で一歩も動かずにぼーっと立っているのだ。疑われても仕方ないほど怪しさ満点だ。
「あの、そこで何をしてらっしゃるんですか?」
 私は意を決し、声をかけた。襲ってくるかもしれないと少し身構える。
 紺色のジャンパーを着た人物は私の方を向く。やはり男で――なんと私の知っている人物だった。
 いや正確には――私が顔と名前だけは知っている人物だった。
「もしかして――湯川――湯川春斗、くん?君?」
 その人物――湯川春斗は無表情で静かに頷いた。
「ど、どうしたんだよ、こんなところで」
 驚きとクエッションマークで脳の中を占拠される。なぜ? なぜ湯川春斗が私の自宅の前に? 学校にも来ないような重度のひきこもりなのに。いや問題はそこではなく、なぜ私の自宅を知っている? というか私の自宅だとわかっててここに突っ立ってたのか? でも何でだ? 私の家だと知らなかったにしても、何でぼんやり他人の家の前で突っ立てるんだ?
 湯川春斗は私の混乱などどこ吹く風といった様子で腕を上げ、私の自宅の方を指差した。
「――ネコミミ――」
「え?」
「ネコミミが落ちそうになってる」
 朴訥に淡々と、ただ事実を伝えるような声音で湯川春斗は言った。
 湯川春斗が指差した方を見やると、それは二階のベランダだった。
 私は目を見張る。二階のベランダの窓が開いていて、さらにそこから出たのか、サチがベランダの手摺りを乗り越えようとしているではないか。このままだと落ちてしまう。
 私は慌ててドアにかけられた鍵を開けて家に飛び入り、階段を駆け上がって二階のベランダに出て、手摺りから身を乗り出しているサチを引っ張って下ろした。
 サチは「うーうー」と威嚇する泣き声を出しながら、どこかに逃げていった。
 やれやれ、危ういところだった――。
 たぶん窓の鍵を閉めないままで出かけてしまったのだ。にしても、サチのやつ、いつの間に窓を開けることなんて覚えたのか。しかしこれで一安心――。
 ――ではない、ではないな。しまった、今度はドアを開けっ放しにしたままだ。
 階段を駆け下りて玄関に舞い戻ったとき、果たしてサチは見当たらなかった。
 外に出てとりあえずドアを閉め、まだ先程と同じ場所に突っ立っている湯川春斗に訊ねた。
「ネコミミがここから出ていかなかったか?」
 湯川春斗はゆっくり首を横に振った。私はようやくドッと湧いた安心感に浸れた。
 しかし、謎がまだ解けていない。湯川春斗がここにいる謎が。
「サチが――うちで飼ってるネコミミなんだけど、そのサチがベランダから落ちそうになったのを教えてくれたのは助かったし感謝するけど、湯川くんは何でここに?」
 湯川春斗は少し俯き、そしてすぐに顔を上げて言った。
「たまたまです」
「は? たまたま?」
「たまたま歩いてたら落ちそうになってるネコミミ見つけて、それ見てただけです」
 私は湯川春斗の説明を聞いてもまったく府に落ちなかった。
 だってこんな偶然あるか? たまたま歩いていたらベランダで落ちそうになっているネコミミを見つけて、たまたまそのタイミングで飼い主が帰ってきて、たまたまその飼い主が自分のクラスの担任だなんて、そんな妙ちくりんな偶然がそう簡単に重なるものか?
「じゃあ、ここが私の家だってことは知らなかったのか?」
「はい。というか――あなた誰です?」
「え? 覚えてないのか? 以前に君の家を訪問した担任の斉藤だけど」
「担任? 訪問? あぁ、確かに前に誰か来てましたね。その方でしたか」
 湯川春斗は本当に気づかなかったとばかりに淡々と真顔で述べた。
 訪問までしたのに顔も名前も憶えられていなかったことに、ショックを覚えないわけでもなかったが、それ以上に、湯川春斗は本当のことを言っているのか疑問だった。
 もしかしたらあの訪問した日、湯川春斗はこっそり私の後をつけていたのではないか?何のために? サチを殺すためか? もしや連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人はこいつなのではないか? 黒いジャンパーを着ていると報じられているが、実際は紺色のジャンパーではないか? 私も遠目からは黒に見えたのだ。目撃者が見間違っても可笑しくはない。湯川春斗が犯人だとしたら、次のターゲットとしてサチを狙っているのか? だからここに来たのか、下見のために。
 何の根拠もなく、何の証拠もなく、ただただ疑惑と妄想が脳裏で膨れ上がっていく。
 不登校児が犯罪を起こすという例は珍しくない。だからこいつも――。
「あの、僕もう帰っていいですか?本当にただ単純に通りすがりだったんで」
 湯川春斗は気怠そうに言う。私の中に湧いた疑念にまだ結論は出ていなかったが、このままこいつを引き留めていても仕方ない。私は湯川春斗を帰すことにする。
「わかった、今日はもう帰れ。ただし、学校には来いよ」
「嫌です。行きません」湯川春斗はきっぱりそう言い残し、私に反論の言葉を述べる隙を与えずに小走りで去っていった。
 私は見えなくなるまで湯川春斗の背中をぼんやり見つめた。
 自宅に戻ると、廊下の奥からサチが呑気に「にゃー」と鳴きながら顔を出した。
「サチ・・・・・・心配かけるなよ・・・・・・」
 私はサチをギュッと抱きしめ、もしゃもしゃと頭を撫でた。
 サチは嫌がって逃げようとしたが、私はしばらく力づくでそうしていた。

 その後、案の定湯川春斗が学校に来ることはなかった。
 別に来ることは期待していなかったし、別段変わったことでも何でもない。
 しかし、あの日以来、確かに変わったと思うことを私は一つ感じていた。
 毎日、どの時間にどこにいても、誰かの視線を感じるのだ。
 どこから見られている? と辺りをきょろきょろ見回してみても、怪しげな人影も道具もない。
 だが、誰かには確実に見られている。その感覚は、日に日に大きく成長していった。
 そしてその見ている人物は、湯川春斗なのではないかという疑念に自然と行き当たった。
 きっと湯川春斗が私を監視しているのだ。何のために? サチを襲う隙を探すために。
 ただそれはやはり根拠も証拠もないので、ただの疑念以外の何物でもなかった。
 そのただの疑念が確信に変わったのは、とある日曜日。
 買い物に出かけていて、近所の小さな公園で湯川春斗がいるのを発見した。
 日曜日なのに誰もいない寂れた公園で、湯川春斗は錆びたブランコの前に蹲っていた。
 何をしているのかと恐る恐る近づけば、蹲る湯川春斗の前にネコミミが横たわっているのが見えて、私は戦慄した。そのネコミミは、足の付け根から血を流していた。
「何やってるんだっ!」
 つい怒鳴り声が口から飛び出す。
 湯川春斗は背中をびくっと揺らし、振り返り私と目が合う。
 目をぱちくりと瞬かせ、何で怒鳴られたのかわからないというような顔をする。
 その顔が妙にイラッとして、私はまた怒鳴り声を上げる。
「おまえ、今ネコミミを殺そうとしてるだろ!」
 湯川春斗はふるふると首を横に振る。
「違うのか? 何が違うんだ? こいつ足の付け根から血を流してるだろが」
 私は倒れているネコミミに駆け寄った。幸いにもまだ息があるようだった。
「その――殺そうとしたんじゃなくて――助けようと――」
「ぼんやりただ蹲って見てただけじゃねぇか」
「いや――どうやって助けようか考えてただけで――」
「まず怪我してるネコミミを見つけたらおぶって獣医へ。こんなの常識だろ」
「あ、ネコミミってやっぱり獣医でいいんですか?」
「は?」
「人間の姿だから獣医よりも普通の病院の方がいいんじゃないかって悩んでて」
「すっとぼけるな!」
「え?」
「おまえが連続ネコミミ強姦殺害犯の犯人だろ」
「いや、いやいやいや、違いますよ」
「その取り乱し方――犯人だからか?」
「違いますってば! 誰だって急に犯人扱いされたら取り乱しますって!」
「じゃあこのネコミミは? このネコミミは何で怪我してる?」
「知りませんよ! そんなこと! 頭の可笑しな人だな!」
 湯川春斗はそう罵声を吐き捨て、またもや小走りで公園から逃げ去っていった。
「待てっ」と私は呼び止めたが、無論聞く耳を持つ様子はなかった。
 湯川春斗の残像を目で追うのはやめて、地面に横たわるネコミミに向き直る。
 ネコミミは苦しそうな表情を浮かべ、荒い呼吸を繰り返している。
 とりあえず見つけてしまったからには見殺しにできない。助けなければ。
 私は手持ちのハンカチでネコミミの足の付け根を縛って止血し、おぶって近くの動物病院まで向かった。通行人が怪訝そうな目で見てきたが、気にしている場合ではなかった。
 動物病院に到着し、連れてきたネコミミを年配の獣医に診察してもらった。
 しばらく待合室で待っていたが、看護師に呼ばれて獣医がいる診察室に入った。
「このネコミミ、ナイフか何かの、とにかく刃物で切り付けられていますね」
 診察台の上に横たわるまだ苦しそうなネコミミを前に、獣医はそう冷静に述べた。
「刃物? つまり誰かが切り付けたってことですか?」
「そういうことになりますね」
 やっぱりか。やっぱり湯川春斗がこのネコミミを――。
 私はこのネコミミがサチだったかもしれない可能性を考え、また胴体や首を切り付けられていれば死んでいたことを考え、心底ぞっとした。
 いや、まだまだ安心できない。湯川春斗は、今度は私のネコミミを狙っているかもしれない。いや、絶対にそうだ。そうに違いない。
 怪我をしたそのネコミミは、保健所に運ばれていった。私は家に帰り、すぐに警察に通報した。
「連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人は湯川春斗です。早く捕まえてください」と。
 しかし、警察は私の通報に取り合おうとはしなかった。
 物証もなく状況証拠も曖昧なのに警察が動けるはずがない、と言われた。
 それはそうだ。それはそうだが、一刻も早く手を打たないとサチが――。
 そこで私は思い出した。佐村さんからもらった、あのメモ用紙のことに。
 どこにあったかと必死に探せば、それは財布の中に仕舞ってあった。
 私は一瞬躊躇したが、すぐに決心を固め、そのメモ用紙に記されている電話番号に電話をかけた。その電話番号にかけらば、ネコミミ保護協会に電話が繋がるはずだった。
『はい、こちら、ネコミミ保護協会の受付でございます』
 透き通った女性のはきはきした声が聞こえてくる。
 私は逸る気持ちと上擦りそうになる声を抑え、でも少し早口になりながら捲し立てる。
「あの、私、連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人に心当たりがあるんですが」
『お名前は?』
「斉藤竜彦と申します」
『斉藤竜彦様ですね? かしこまりました。少々お待ちください』
 女性の声がぷつんと途切れて、オルゴールのような音が代わりに電話口に流される。
 貧乏揺すりをしているうちに、その音もやみ、先程の女性とは違う、野太い男性の声が聞こえてくる。
『私、ネコミミ保護協会の捜査部の部長でございます』
「は、はい」
『単刀直入ですが、心当たりがある犯人とは?』
「湯川春斗という男子中学生です」
『根拠は?』
「じつは――」
 私は湯川春斗が犯人で思う理由を話した。ペットショップ帰りでのこと、公園でのこと。
 電話の向こうの捜査部の部長とやらは黙って私の話を聞き、聞き終わると警察のように「そうだけでは根拠になりません」と突っぱねずに、「わかりました」と言った。
『湯川春斗が犯人であるかどうか、こちらで検討させていただきます』
 そして私の何の断りもなく、呆気なく切れた。
 唐突な切れ方だったが、またかけ直そうとは思わなかった。
 ピーピーと電話口から鳴る甲高い電子音に耳を傾けながら、呆然としていた。

 それから数日後、学校の職員室に湯川春斗の母親から電話がかかってきた。
 私が出ると、湯川春斗の母親は私の鼓膜が裂けそうなほど大声で怒鳴り散らした。
『おまえっ! 春斗をどこへやったっ!』
 ノイズだらけで聞き取りづらかったが、湯川春斗の母親は確かにそう叫んでいた。
「どこへやったとはどういうことです? いなくなったんんですか?」
『とぼけやがって。おまえが春斗をどこかへ攫ったんだろ?』
「何のことですか? 私はあの訪問以来、春斗くんとは会っていません」
 嘘だった。嘘だったが、本当のことを言って疑われるのも癪だった。
『じゃあ春斗は一体どこに行ったっていうのよっ!』
「わかりません。少なくとも学校には来ていません」
『あんた担任教師でしょうが! そんな薄情な――』
「薄情も何も、担任教師でもわからないものはわからないし、知らないことは知りません」
『何をいけしゃあしゃあと――』
「警察に届けられては? 今の私にはそれしかお伝えできません」
 これ以上の対応が面倒だったから、私は強引に電話を切った。しばらく引っ切り無しに電話のベルは鳴ったが、じきに止んだ。
 教頭に呼び出され、数名の教師たちと臨時会議を開いたが、結局「学校側は何もできないので様子を見る」という無難な結論に落ち着いた。
 湯川春斗の母親は湯川春斗の失踪を警察に届け出たようだが、湯川春斗は一週間経っても二週間経っても発見されなかった。
 同時にネコミミ強姦殺害事件が途絶えた。あれだけ騒がれていたのが嘘のように、ぴったりと、初めからなかったように一件も起こらなくなった。
 やはり湯川春斗が犯人だったのだと、私の確信が正しかったことを知った。
 そして瞬間に正真正銘の安心感と安堵感が胸の内に押し寄せてきた。
 これでもう心配しなくていいのだ。サチの命が奪われる心配をしなくていいのだ。
 肩の荷が一気に下りて、どっと疲労感も出てきたが、それはむしろ心地良かった。
 あとこれは後日談だが、自分の受け持ちのクラスの生徒たちに、一応同級生だからと湯川春斗の失踪のことを伝えたが、元から不登校でいないも同然のやつが家からいなくなってもどうとも思うやつはおらず、騒ぎにすらならなかった。
 かくして私とサチとのくだらない平穏な日常は戻ってきた。
 毎朝憂鬱な気分で起きて出勤し、教師という七面倒臭い仕事をし、帰宅してサチを愛でる。
 そんな予定調和の日々が帰ってきた――――と思っていたのに。

 その日は夜中の七時まで学校に居残っていた。
 テストの採点を一気に終わらせようとしたら、こんな時間になってしまった。
 慌てて家路を走った。サチが私の帰りを寂しく待っているはずだった。
 自宅に到着し、玄関のドアノブを捻ったとき、異変に気付いた。
 鍵が――かかっていなかった。
 可笑しい。ちゃんと鍵は閉めて出かけたはずだ。それはきちんと記憶にある。
 それではなぜ鍵が開いているのか?緊張感が私の背筋を貫いた。
 不安感にびくびくしながらドアを開ける。真っ暗な空間が広がっている。
 電気を点ける。またしても異変に気付く。
 リビングに通じているドアが、ぱたぱたと開いたり閉じたりを不規則に繰り返している。
 ポルターガイストとかそんなオカルトの類のものではない。これは風だ。どこかの窓が開いていて室内に風が流れ込んできたり、逆に室内から風が流れだしたりしているのだ。そしてその風が流れ込んできている窓は、あのドアが動きからしてリビングの窓だった。
 私は恐怖心を押さえつけて、抜け足差し足でぱたぱた揺れるリビングのドアに近寄っていく。
 今すぐ逃げたいが、逃げる前にサチの安否を確認しなければならない。
 その不思議な義務感だけが私にリビングのドアを開かせた。
 そして私はその先に広がる光景を目にした。戦慄を飛び越え、凍った。
 初めは何が起こっているのか認識できなかった。いや、脳が認識を拒否していた。
 風がびゅーびゅーと耳元に吹き抜ける。視界がぼやけては鮮明になるのを繰り返す。
 今目の前の光景を一言で説明するなら、地獄だった。少なくとも私にとっては。
 引き出しや押し入れから氾濫した日用品や洋服、中途半端に開いた窓、そこから流れ込む風、その部屋の真ん中、リビングの中心に、月明かりに照らされる、二人分の人影。
 いや正確には――――人間一人とネコミミ一匹の影。
 その影は重なっていた。人間がネコミミの上に覆い被さる形で。
 何やってるんだっ、という怒鳴り声すら出なかった。身体のどこも寸分も動かなかった。
 ネコミミの影も動かなかった。それに対して、人間の影はよく動いた。腰を激しく上下に振っているように見えた。
 そして人間の影も動きを止めた。どうやら固まっている私を見つけたようだった。
 睨み合い、なのだろうか。人影はこちらを向いたまま動かない。私は動けない。暗くて表情はわからない。
 すると唐突に人影が駆けだした。動かないネコミミの影は放置して、中途半端に開いた窓に向かって。逃げようとしてるのだと気づいたとき、私も駆け出していた。
 それからしばらくの間、意識も記憶も途切れた。

 我に返ったとき、私は黒いジャンパーを着た男の上で馬乗りになっていた。
 その男の顔は誰かにぼこぼこに殴られて真っ赤に腫れ上がり、所々青痣ができていた。
 その殴った誰かが自分であることを、両拳の鈍い痛みと腫れが語っていた。
 しかし殴ったことよりも何よりも、私はその男が顔見知りの人物であることに驚きを禁じ得なかった。湯川春斗ではない。湯川春斗ではなくて、そう、名前は知らないが――。
「――――ネコミミ喫茶の――店員?」
 それはよく沼崎とともに通っていたネコミミ喫茶の、眼鏡をかけた男性店員だった。
「おい、おまえが――おまえが何でここにいるんだ?」
 身体を揺すって訊ねてみても、ネコミミ喫茶の店員は泡を吹いて気絶しているため、ウンともスンとも言わなかった。
 そうだ、サチ。サチは? サチはどうした?
 私はネコミミ喫茶の店員の身体の上から降り、横たわっているネコミミの影に近づいた。
 その影は案の定サチだった。ただ、すでに私の知っているサチではなくなっていた。
「おい・・・・・・嘘だろ・・・・・・」
 そこに転がっていたのは、サチの抜け殻、死骸だった。
 呼吸を確かめても息をしていない。脈を確かめても一度の鼓動もない。何よりも肌は血色が悪く、土色で、そして氷のように冷たかった。明らかに、どうしようもなく死んでいた。
 しかし私は認められなかった。認めたくなかった。
 そんな――サチが――サチが死ぬなんて――そんな――――。
「起きろ、サチ。私だぞ、私が帰ってきたぞ。腹空いてるだろ?飯の時間だぞ、起きろサチ」
 どれだけ揺すってもサチが目覚める気配はない。死の臭いが漂っているだけだ。
 サチの死骸の首に人の手形が二つくっきりと染み付いている。首を絞めて殺されたということか? そのあとに犯された、つまりは屍姦? 屍姦されたのか、サチは? ネコミミなのに、人間ではないのに。誰に? こいつにか? この男にか?
 私は改めて気絶している男に目を向ける。憎悪と嫌悪と殺意を込めた目を向けて。
 ――――殺してやる。ズタボロに殺してやる。
 私は拳を握りしめ、男に飛びかかった。が、後頭部に衝撃が走り、すぐに意識は暗転した。

 霞んで曖昧な意識の中、夢か現実かわからないが、少しだけ音を聞いた。
 人が自分の上や周りを駆けていく音、誰かの何かてきぱき指示を出しているような声、何か大きなものが引きずられていく音、風の音。しかし、すべてはそのうち聞こえなくなり、鼓膜を痛めつけるような静寂が私を包んだ。そして私の意識は暗闇の中にさらに沈んだ。

 意識がようやく戻ったとき、目を開けた瞬間に眩い光が眼球に飛び込んできて、目を細めた。
 その眩い光はカーテンの閉めていない窓から差し込む朝日のようだった。
 身体を起き上がらせる。後頭部と腰の辺りが鈍く痛む。
 ずっとリビングに転がっていたようだ。昨晩のことがよく思い出せない。記憶がとっちらかっている。
 昨日は夜遅くに帰って、玄関のドアに鍵がかかっていなくて、リビングの窓が開いていて、風が吹き込んでいて、誰かがいて、誰かがサチを犯して殺していて、その誰かはネコミミ喫茶の店員で、あーっと、えーっと、あとどうだったっけ? どうなってなぜ私はずっとここで寝ていたのだっけ?
頭痛が酷い。吐き気もする。思い出せない。どうしてこうなった?
というか――というか――サチはどうなった?
 私は室内を見回した。サチの姿はどこにもない。サチの死骸の姿もどこにもない。
 あの男の姿もない。それはどうでもいい。それよりもサチはどこだ?
 サチを探そうと立ち上がったとき、私の身体からひらりと一枚のメモ用紙が落ちた。
 どうやら寝ている私の上に乗っていたようだ。拾って目を通してみる。
 そこには概ねこんなことが記されていた。
『今回は急な任務だったため、斉藤竜彦様に危害を加えてしまったこと、お詫びを申し上げます。つきましては、お宅のネコミミ、サチちゃんのことですが、残念ながら亡くなっていたため、失礼ながらこちらが処理をさせていただきます。それからサチちゃんを殺した男ですが、そちらも私どもの方で処理致します。この度は、我々の至らなさのせいでサチちゃんを助けられず、改めて申し訳ありませんでした。なお、この件に関してましては、どんな質問も当機関に訊ねられても秘密保持のためお答えしかねます。ご了承ください。 ネコミミ保護協会より』
 それがこのメモ用紙に記されていた内容だった。
 私は文章が上手く頭に入ってこず、何度も読み返した。
 そうして全文理解したとき、私はその場に唖然と立ち尽くすしかなかった。
 サチが死んだ? 処理? どういうことだ?どういうことだ、これは?
 すべての真実を伝えるための文章のはずなのに、私の頭は混乱するばかりだった。
 私は出勤もせず、半日かけて家の中を隈なく探した。
 ゴミ箱まで引っ繰り返し、部屋の隅々まで目を皿にして、とにかくサチを探した。サチは死んでおらず、どこからか「にゃー」と呑気に鳴いて顔を出す気がした。
 だが、結局サチはどこにもいなかった。当たり前に、もうこの世にすらいなかった。
 私は泣いた。ぼろぼろ涙を流して泣いた。サチの餌皿にしがみついてだらしなく泣いた。
 泣いて泣いて泣き疲れて、気づけば日が暮れて夜になっていた。
 留守電が何件も家電と携帯電話に来ていた。ほとんどが学校からだった。
 私はそれら全部を削除して、眠った。サチとの昔を思い出しながら、眠った。
 そのせいか、夢の中でサチと逢った。サチは能天気にごろごろ喉を鳴らして私にじゃれついてきた。
 私はサチをギュッと抱いて、頭を撫でていた。いつまでもいつまでも、撫でていた。

 あれから数か月が経った。私の日常に別段変わりはない。
 今日だって朝早くに目覚まし時計に叩き起こされ、渋々職場の中学校へと出勤する。
丸一日分の無断欠勤はそりゃ途轍もなく怒られたが、どうにか免職はせずに済んだ。
 もしかしたら予めネコミミ保護協会が手回しをしてくれていたのかもしれないが、それはともかくとして、私の教師のままの生活は続くことになった。
 友人の沼崎も、友人の形見で大切な家族だったサチが死んでいなくなっても、私の生活は通常通り、何の滞りもなく現在まで進行している。
 最初の頃こそまだまだ悲観に暮れている時期もあったが、今やあの夜のことを思い出しても涙の一滴も目頭から溢れてこない。
 思えばサチが消えたところで、私の日常はサチを飼う以前の状態に戻っただけだったのかもしれない。それでも喪失感は残ったし、心の真ん中に穴が開いたような不快感はあったが、でもやはり、日々に漂う憂鬱によって、そんな感覚も紛れて掻き消されてしまった。
 あの夜のことを警察に通報したこともない。何となく、通報したところで警察はこの件に取り合わないだろうと思ったし、色々と訊かれるのが面倒だと思ったからだった。
 結局のところ、あの連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人だったのは湯川春斗だったのか、あのネコミミ喫茶の店員だったのかは、私にはわからない。
 普通に考えてサチを殺していた店員の方が犯人だったかもしれないが、それだったらなぜ、ネコミミ保護協会が私の通報を鵜呑みにして湯川春斗を処分したのかがわからない。
 もしかしたら二人ともかもしれない。二人とも犯人だった。正確にはまるで同一人物のように報じられていたが、その実、偶然同時期に同じ街で発生した異常犯罪者二人が切磋琢磨して競うようにネコミミを犯して殺していたのかもしれない。
 そんなご都合主義の偶然があるものかと思う。しかし、どう頭を働かせたところで真実を知るのはネコミミ保護協会だけだ。それに、今の私には真実なんかどうでもいい。いいや、むしろ邪魔だ。これからもくだらない毎日を送るには、余計なことなのだ。
 ネコミミ保護協会には一度電話をかけたが、繋がらなくなっていた。
 佐村さんとはまだ再開していない。同じ街に住んでいるはずだからいつかばったりどこかで会うだろうと思っていたが、もしや佐村さんはこの近くにはいないのかもしれない。
 まぁそれはそれでいい。むしろそれでいい。
 あの夜のことについて、私は何一つ知らなかった。それでいい。
 サチは勝手に逃げ出して行方不明になった。それでいい。
 私がその晩の翌日に無断欠勤をしたのはサチを探し回っていたから。それでいい――それでいいのだ。
 車での出勤の道中、道端で轢かれて死んだネコミミを見つけ、いつも通り平和なのを確認し、学校に到着すれば職員室に荷物を置き、そして今日もホームルーム開始のチャイムが鳴る数分前、私は受け持ちのクラスの教室のドアの前に立つ。
 教室の中からは生徒たちの嫌になるくらい騒がしい声。
 明日も明後日も明々後日も来年も、ずっとこんな感じなのだろう。毎日も、私も、ずっとこのままなのだろう。
 友人が死んでも、家族が死んでも、日常はどこまでも、どこまでも終わりなく続き、異常だったことが平常になり、慣れるわけないと思っていたことでも気づけば慣れ、忘れられないようなことも忘れ、死ぬまで続くのだ。生きている限り続くのだ。
 道端で何かが死んでも、身近な誰かが死んでも、大事な何かが消えても――。
 それは変なことではなくて、異常なことではなくて、平凡で、そして平穏なこと。
 すーっと溜息を吐いて、チャイムが鳴ると同時にドアを開ける。
「ほら、ホームルームだ! みんな席に着け!」
 生徒の気だるげな「えぇーっ」が、改めて今日が平和であることを告げていた。

ネコミミ

ネコミミ

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