キャラ変
いったいこの世には、どれほどの人生があるのだろう。一人の人生、春夏秋冬、年を重ねる毎にキャラは変わることもある。
それを笑うな、それを嘆くな。願うは、あとに続く者の幸せ。
自分のキャラは、好きで変えたわけじゃない。
「〇〇ったらさ、2時のゼミを直前になって2時半にするだって、なんなの、あれっ」
「よくあるよ、〇〇。30分位、なんとも思ってないみたい。前もあったし―」
「マジむかつく。30分あったら他に時間つかうってーの。なにあのキャラ」
弘明は、駅からの歩道をいつもの速さで歩いていた。だがその二人は、狭い道幅の所をカツカツと靴音も高らかに、瞬時に弘明を追抜いて行った。彼女達が放つ言葉は明らかに東京のそれで、風に乗って漂う香りは若さに満ち溢れていた。
(あのキャラって先生なのか)と、弘明は自分に問いながら二人の後を行った。
二人は黒のタイトスカートにハイヒール、そして色違いのコートを羽織っている。学生らしいバックを除けば、その道の女性にも見える。似通った色の髪は高そうなコートの背に靡き、小春日和の下、キラキラと光っていた。
彼女達が憤っている相手が先生であれ誰であれ、年寄りに対する文句であろう。だが別に年寄は好き好んでキャラを変えた訳じゃない。弘明はむきになっている自分に気がついた。思い直して、おもむろに歩みを緩めた。
弘明は、昼時に山の手線をお茶の水で降り、やたらギターの店が並ぶ通りを歩いていた。朝の便で神戸から羽田へ飛び、まずは品川の顧客を訪ね、午後のアポに移動中だった。
(これまでに何度、上京したことだろう)
目的地には早めに着くという習性に倣いながら、思いは過ぎ去った月日に移っていた。
弘明は64歳。30歳の時に中途で入った会社も満60歳で定年となり、それから嘱託で4年。今から思えば、本当にあっと言う間の出来事でしかなかった。明けて誕生日にはお役御免となる。これが営業人生最後の年末の挨拶周り。そう思うと、どこか晴れがましい思いもするのであった。
都会程人の歩く速さが早い。しかしこれ程までに時間を気にする人種は、世界広しといえども東京だけではないか。電車も人も物も全てが秒単位で動く。こんな街は他にない。弘明は眩しい程の高層ビルの隙間に広がる青空を見上げながら、そんなことを思った。
弘明が初めて上京したのは20歳の夏。東京の大学へ通う友人を頼り1週間都内に滞在した。
弘明は工学系だったが、いざ就職となると難しかった。昭和48年のオイルショックで世情は混沌とし、普通の私立大学では就職もままならなかったのである。あれから40数年、中途入社の会社も終わりかと思うと、やはり足取りが重くなるのであった。
そんな時、上着の内ポケットに入れたガラケイのことを思い出した。バッテリの残量が少ないのである。スマホの時代になっても、弘明はガラケイに固執している。流行りのバックパックを背負い、中にパソコンを入れて持ち歩いていても、携帯はガラケイに限る。それが弘明の矜持だった。
いつか、切りそこなった電話から相手の捨て台詞を聞いて、スマホは止めた。相手に憤る前に自分のミスが怖かった。そんなキャラになったのはいつからか、ふと疑問が沸いた。会社のため?家族のため?いや本当はどうだったのか。
だがその前に携帯のバッテリが心配だった。道路を挟んだ左右の店を見ながらコンビニを探した。
緊急時にコンビニで充電器を買い、救われたことも度々。東京ならコンビニの数に心配はない。弘明は歩みを速めた。
小さなコンビニがあった。楽器店に挟まれた間口の狭い十坪程の店。目当ての物は入口近く。そう決めて入ると案の定すぐの陳列棚にあった。だが目的の品ではない。並ぶ品名はスマホ関係ばかり。左右上下どう見ても違う。棚の上、高さの三分の一程がそれらしき品物なのだが、ガラケイに供する物はない。
しばらく探して、弘明はレジへ向かった。
「すみません、これ用の充電器、ない?」
目の細い小柄な女の子に声を掛けた。入店の際、レジの奥でテキパキと動く制服姿の彼女に目を付けていた。弘明の問いに、案の定彼女は明確な答えを返してきた。
「うちはスマホだけ、他、置いてイマセン」
胸ポケットの名札にひらがなの名。彼女の言葉のイントネーションは明らかに外国人だった。
(この街じゃガラケイを使う俺が他所者か)
それが弘明の正直な感想だった。それから他を探して約20分。訪ねた店は3軒。それぞれで同じ質問を繰り返した。弘明は駅からの道を下りながら、コンビニのキャラを考えた。学生相手のコンビニにガラケイ用がある筈もない。そう思うと、少し気が楽になった。
まずは目的地に辿り着き、昼飯の店を探そう。そう目論んだ弘明だが、残り時間が心配になってきた。
表通りを避け一歩裏通りへ。中年のサラリーマンが居着きそうな路地、それを探して歩いた。
東京と言う土地は路地を一つ挟めば街のキャラが一変する。少し歩いて鄙びたかな、と思った路地の角にコンビニを発見した。
(あったあった)と、レジへ並びながら時計を見ると、アポまであと一時間半。この辺で昼食をとり、まずは充電、ネットで目的地を再確認、と弘明は次の段取りを考えていた。
見上げる程の高層ビルに囲まれた街の中に、一種ジブリの世界が広がった様な一角、そこに誠に平面的な平屋の蕎麦屋があった。
(これは学生の頃、確か立寄った店・・・)
弘明の脳裏に昔の情景が浮かんだ。工学部へ入ったものの好きな文学が忘れられず、ゼミで知った小説に入れ込んだ。結局一週間の滞在で、東京は自分に合わないと結論を得たのだが、二十歳の頃の貴重な思い出だった。
それはともかく、腹が減ってはと弘明は蕎麦屋へ渡る交差点へ歩みを進めた。時間は12時半。昼食で混む時間帯だが(きっと座れる)と、変な自信が湧いてきていた。サラリーマンに取って出張時の数少ない楽しみの一つは、お昼ご飯。訪ねる街毎で、港々に女ありではないが、色々な美味に出会うことである。
関西で生まれ育った弘明も、粉もんには大阪へ軍配を上げるものの、他では東京に勝てるものはない。
老舗の蕎麦屋は、代々店を継いで味を残す。例え時代が変われども味は守る。それがなんだと言われれば、どうも上手く応えられない。しかし格別の食べ物が居並ぶ東京でも、蕎麦はまた別格、弘明はそう信じで疑わない。
若い女達の会話に対する憤懣も、ガラケイに対する東京の冷たい仕打ちも忘れ、弘明は蕎麦屋に入ってなにを注文するか、という新しい課題に向かって歩みを進めた。
弘明は蕎麦屋の暖簾に手を掛け、格子状の桟が入ったガラス戸を開けた。店内は思った以上に狭かった 。左は壁に面したカウンター。奥に小ぶりの四人掛け、そして土間には六人掛けのテーブルが、狭いなりに並んでいた。弘明は店が込み合う時はたいてい敬遠する。だがこの店は違った。戸を開けるや否や、涼やかな声が掛った。声の主を見ると、賄いの入口にスッと立つ、小さっぱりした顔立ちの女性がいた。
弘明は迷わず店内へ体を進めた。
(小股の切れあがった)とはこういう女のことを言うのか、と想うほど、彼女は正に江戸風の女だった。
後ろ手に扉を閉めると、いかにも女将風の別の女性が奥の中ほどの席へ弘明を誘った。
「お客さん、お相席をお願い致します」
女将の物言いは至極丁寧なのだが、相手には有無を言わさぬものがあった。鉢物の蕎麦を頬張ろうとしていた先客は、眼のやりどころに迷いつつ、蕎麦を口にしたまま頭を上下させたのである。
「すみません・・・」
と、一言断った弘明に、今度は眼を白黒させながら男は首を上下させた。
(やはり関西とは違う。女将も客も東京や)
そう思いながらバックパックを降ろし、コートを脱いで奥の椅子に預けた。すると最初の声の主が、ほうじ茶であろう湯気の立つ大振りの湯飲みと、おしぼりを置いてくれた。
「ご注文がお決まりになったらお呼びを」と、あくまで丁寧なのである。
込み合った店内で立ったまま注文を聞く昨今 、それは格別だった。弘明はテーブル上の品書きを手に取ると、その品数の多さにワクワクするのであった。
蕎麦を待つ間、弘明は店内を見回した。まず眼に入ったのは玄関正面の壁に掛った神田明神の熊手。他に招き猫、行燈風の照明、六角形の壁掛け時計、そして天井から吊るされた簾。恐らく明治以降も生き残ってきた風情が、江戸風の雰囲気を醸し出していた。
「娘がさあ、サンタはいつ来るのって・・・」
突然、入口の席に座る二人連れの会話が耳に入ってきた。見たところ中年のサラリーマン風である。
(晩婚なのかな・・・やはり娘は愛おしいものなのか)
弘明は、人の幸せを妬んでいる訳ではなかった。子を思う親の心に想いを馳せていた。
(親は子が出来ねば己の不幸を恨み、子が出来れば出来たで、きっと人生に苦しむ)
ある時弘明は、己の血はもう誰にも繋がらないのかも知れない、と悩んだことがある。悩んでも仕方のないことである。だが痛烈にそれを思った時期もあった。だが生きるということは、人生が自分の思うままにはならないということに他ならない、と学ぶことがあった。
それは、1995年1月17日午前5時46分のことである。
神戸が未憎悪の大震災に襲われた。その時弘明は、荒れる海でもがく船の中にいる夢を見ていた。だがそれは夢ではなかった。弘明は外へ飛び出し、余震が続く中で明けゆく空に黒煙を見て、神戸がこれならきっと日本は全滅したと思った。しかし被害は淡路から阪神に集中し、あくまで局地的なものだった。
それは神戸に住む者に取って、人生を一変させるには過酷過ぎる出来事であった。人間、物理的な破壊はある程度取り返しがつくものの、受けた心の傷は残りこそすれ、消えてなくなることはなかった。
(あの時、俺はキャラを変えたのか・・・)
その声は、事ある毎に弘明の心を責めた。その都度これしか生きる道はなかったと己に言い聞かせてきた。だが歳を追うごとに、本当に他の生き方はなかったのかと反芻している自分がいた。人生過ぎ去ればすべてが想い出として美しい、とは言えない。ある面、人生は辛いことの連続なのかも知れない。それに、思い返せば他の生き方もあったかも知れない。
だが、キャラを変えてでもこの人生を生き抜こうとしたのは、間違いなく弘明自身のキャラであり、おのれが決めたことであった。
弘明は男達の会話を聞くでもなく、じっと注文の蕎麦を待ちながら、通りで出会った女学生の憤りを改めて反芻していた。そして、若い二人のこれからの人生に想いを馳せるのであった。
(君達も、きっと乗り越えて行ける・・・幸せになれよ)と。
(了)
キャラ変
1995年1月17日、震災を被災した人々は皆、人生が激変した。多くの命が失われた。その分、生き残った者は是が非でも生きねばならない。
その為には、キャラを変えねば生きられない人もいた。その後も各地で災害は常に起こり、多くの人々が被災している。皆、キャラを変えて頑張る。
今それを笑っている若者も、きっといつかキャラを変えねばならぬ時が来る。しかし、それを叱るまい。それは、自分も歩んできた同じ道だから。