イグノラムス・イグノラビムスの思索
Ignorams et ignorabimus
気がつけばそこには壁があった。
はっきりとは見えないけど、触れることは出来る。果たしてこれが何なのか知る由もないのだけれど、妙に気を惹かれるものだ。
ガラスのようだけど触れた感触が無いようで、だけど一定より先には手が進まない。
進まないと言うよりも、何か目視し難い壁によって僕の手はそれに触れるだけで止まってしまっている。夢でも見ているのかとふと考えてみた。僕ら誰しもが存在する世界を現実たらしめるモノ。そんなもの端から存在していない。そんな不安定な中で現実として皆は演じている。果たして演じているのか、操られているのか、それとも予定調和に沿っているのか。
すると僕の言語(コトバ)とは、虚構(ウソ)で真実(???)など何しも無い(ソンザイスル)という、薄氷(ゲンジツ)上の存在だったことに気がつく。不確かな現実(ユメ)の僕と君の区別すらつかない生物(ヒト)という不明瞭なヤツら(バンゾク)によって用いられる言語という概念(キョコウ)。
ところでベルリン大学教授の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンをご存知だろうか?
突然の人名、初の人物名に驚きを隠さなくて構わない。
―Ignorams et ignorabimus
(訳:我々は知らない、知ることはないだろう
彼はこの言葉を用いた。意図としては
―ある種の科学上の問題について、人間はその答えを永遠に知りえないだろう
そう、人間の限界性。皆々様物事には謎が付きまとうことをn年製の人間ならばご理解頂けるだろう。謎はどうやら調整される体質の存在だったことに僕は最近気がついた。
人間にはそれを殺し、何かしらを手に入れる事は不可能だ。何も残らないかもしれない。
謎は解き明かされるものとは誰も言えないし、それは誰にも否定すらできないはずだ。
Cogito ergo sum
Ego cogito, ergo sum, sive existo
ego cogito, ergo sum
Ego sum, ego existo
この四つの文はかの哲学者ルネ・デカルトの有名な、彼の代表的命題と言って差し支えないものであり、全て同じ意味となる。
―我思う。故に我あり。
この一節でおわかりいただけたはずだが、ここで1つ僕からの疑問。
僕が存在を仮に思索したとして、僕は「僕として」存在しているのか。
僕と「僕」は同一なのか。
まず、僕が存在を仮にも思索するに及ぶとして、その前提にあるであろうものにもつまづく。
この推論には一つだけ欠陥が見られた。
アンブローズ・ピアスによれば
我思う、と思う。故に我あり、と我思う。
と厳密に言うならばこうなる。
コギトに関して考える際、私は
・思索する私
・私は思索する
の意味であることの欠如である。
壁から手を離してみせる。目の前を見つめるけどやっぱり壁なんて目に映る。
よく良く考えれば目に映らないように見えて、あの先自体が壁画なのかもしれない。
僕はそれに気がつくと嗤いだしていた。
自分ではない何かに操られるべくして口は笑いを紡ぐ。狂気も僕の真実も笑いに溶かされて、僕は「奇人」の仮面を被った。
僕は嗤い止むとこう呟いた。
真実などとうに死んでいたよ。
君のすぐ横で。
僕はこの先は覚えていない。死んだのか
「奇人」を演じ続けているのか。
僕はあの中でまだいるのかすらも知らない。
……何も知らないのだ。
イグノラムス・イグノラビムスの思索
元ネタは
円城塔さんのイグノラムス・イグノラビムス
に寄ります。良かったらよんでみていただきたく。
僕も壊れないうちに生きるよ。