連載『風の街エレジー』 3 、4、5

3 「割瓶」

 結局銀一の風呂は後回しになり、三人は夜の繁華街へと出た。
 土地柄、仕事柄、よその街へ出ると差別や偏見から揉め事起こす事も巻き込まれる事も多かった。それは彼ら自身はっきりと自覚していたが、それでも仕事終わりに美味い酒を飲むという欲望には抗えない。酒はもちろん地元でも飲むには飲めたが、決して美味くはなかった。
 顔馴染みの居酒屋があり、彼ら三人が会う日は大抵、あるいはもう一人の幼馴染とで四人が顔を揃える日には必ず、その店を利用していた。
 赤提灯、『雷留』という名前の店だった。
 意気揚々と店の暖簾をくぐったまでは良かったが、この日は運悪く、普段からあまり絡みがなく相性の悪い土建屋の若い衆達と勝ち合ってしまい、注文を通す前から小競り合いになった。地元では見ない顔ぶれながら、銀一が「と場」で働いている事を知っているらしく、顔を見た瞬間から鼻を摘まんで臭い臭いの大合唱が始まった。
 今年二十一歳の銀一は、今の仕事について既に八年になる。小学校を卒業すると中学にはろくに行かずと場に出入りし、遊び感覚で見習いをしながら仕事を覚え、こつこつと腕を磨いて来た。年齢で言えばまだ職人としては若い部類に入るが、『仕事人間として』は真面目な彼は現場長からも一目置かれ、同僚からの信頼も厚い。その事を銀一自身誇りに思っている。自然、彼は人々から忌避されるような職業であった屠畜についてを隠そうとはしなくなり、その代わり他人にはほとんど興味を示さない男に成長した。
 こういう場に出くわしてもそうだ。居合わせた無関係な人間が迷惑そうな顔をしているのを見ても、申し訳ないと感じる常識的な良心は僅かにしか顔をもたげない。しかし同様に自分や自分の仕事を揶揄されるからと言って、別段傷つく事もなかった(それが友人や家族の事となれば話は別だが)。
 それが差別からくる物だという明確な自覚が、当時の銀一にはあまりなかったのだ。特に銀一の場合、と場という職業を鑑みるに、血と内臓の匂いが猛烈な熱気と共に立ち込める環境を思えば、人々が自分から顔を背けたがる理由がそこにあると考えるのは極自然な事だったし、実際それは的外れとは言えない。だがそれ以上に、義務教育をまともに受けようとせぬまま狭い世界で生きた事と、銀一自身が己の人間的な欠陥を強く自覚していた事の方が、彼の人格を形成するにあたっては重要な要因だった。自分の周りに幼馴染以外の人間がいないのは、自分が馬鹿な欠陥人間だからだと銀一は思っていたし、そういった意味では出自からくる差別や偏見での苦労を味わわないまま、大人になったのだ。
 もちろん己の出自を隠したがる周りの連中もいるし、気持ちは理解できる。そうする事でしか嫁の貰い手がない近所の姉ちゃん連中をよく見知っているから、逆に色々と言われる立場にいる事は当然他所の土地の人間よりも痛感している。しかし朝起きてから夜眠るまでの大半を赤江で過ごす銀一にとっては、他人の野次など「うるせえなあ」程度にしか、既に思えなくなっていた。
 直接手を出してくるわけではないが、大声を張り上げてからかって来る若い衆が四名、銀一達の注文を邪魔してくる。
 親の世代から顔馴染みである店長の留吉は、揉め事の匂いを感じて煩わし気に顔をしかめかながら銀一達の側まで来るのだが、土建屋の若い衆達が大声で上書きしてくる為に銀一達の注文が聞き取れない。
 一旦座敷に腰を下ろした和明が立ち上がった。竜雄が手を引いて止める。
「とりあず飲ませろ。な、一杯飲んで、それからでええじゃろ」
 竜雄が言うと、それもそうだと頷いて和明が腰を下ろした。
 何とか堪えてビールだけを頼み留吉を下がらせると、さっきからアヤを付けて来る若い衆の内一人が、黄色い液体の入ったコップを持って銀一達の席まで寄って来た。
「すんませんなあ、これでも飲んで許したってよー」
 そう笑顔で言うと、コップを置いて仲間の元へ戻っていった。どっと笑いが起きる。おそらくはよくある手口の、小便だ。
 おしぼりで手を拭いている銀一の顔に変化はない。竜雄の表情を見れば、既に我慢の限界を超えている。和明は厨房を見つめて膝をガタガタと揺すっている。
「留ちゃん、早よ持って来い。早よ持って来い」
 そう言う和明の意識はもはやビールでなく、兄ちゃん連中に飛び掛かる合図の到着を待っているに過ぎなかった。留吉もそれが分かっているらしく、たかがビール瓶三本の注文をなかなか持ってこようとしない。銀一はなんとなくその空気を感じ取って、一人でほくそ笑む。
 そこへ追撃のような若い衆達の声が飛んだ。
「おーおーおー!流石!ヨッツともなるとなかなか酒も届かんなー!」
「ヨッツと言うか、三人やけ、ミッツやね!」
 それらの言葉に血相を変えて留吉が飛び出してくる。
「ええ加減な事言うなボケ!そんなつもりあるかい!」
 しかし留吉の震え切った声よりも、
「なんじゃいグラァ!」
 と叫んだ和明の声がはるかに上回って狂暴だった。竜雄は黙って立ち上がるや否やふた組の団体客を踏み越えて兄ちゃん達に殴りかかった。踏まれた客達も口々に文句を言うのだが、まだ側で仁王立ちしている和明の顔面を一目見るなり押し黙った。ああ、こいつは完全に狂ってる。関わってはいけない、と誰もが目を逸らした。他二人よりも線が細いとは言え、形相だけ見れば一番の気性の荒さに思えたのだ。先程銀一達に見せた爽やかな笑顔など微塵にも感じさせない、まさに鬼のような顔だった。
「やめてくれ!頼む!外でやってくれ!」
 オロオロと留吉はそう言うが、竜雄も和明も聞こえてはいるが止める気など毛頭ない。敵の真っ只中に飛び込んで行った竜雄を追うように和明も乱入し、テーブルにあった箸で手近な兄ちゃんの太腿を刺した。ぎゃあと悲鳴が上がり周囲の意識がそちらへ向くと、好機とばかりに竜雄が灰皿でもう一人の頭をぶん殴る。量販店に並んでいる軽いトタン灰皿ではない。団体客用の重たいガラス製品である。殴られた若い衆は鮮血と泡を吹いてぶっ倒れ、居合わせた客達は放射線状に逃げた。
「お前ら頭おかしいんか!? ちょっと揶揄っただけじゃろが!」
 完全に腰の引けた状態で、残った二人の内の一人がなんとか気勢を上げるものの、こうなってしまった竜雄も和明も全く耳を貸さない。
 血気盛んな若者の多いこの界隈において、ヤクザ者同士の喧嘩を見飽きているこの店の常連達ですら、常軌を逸した二人の暴れっぷりに、次第に野次すら飛ばさなくなっていった。
 ああ、これは何人か死ぬな。抗争でもないのに人が死ぬな。誰もがそう思い、固唾を飲んで目を逸らした。
 コラアだとかオリャアだのと叫んでいたのは最初だけで、四人いた若い衆達は強烈な先手を打たれて押し返す勢いを失ってしまった。最早この喧嘩は一方的だった。
 留吉が銀一の側に駆け寄り、「はよ止めんかい!」と詰め寄る。「頼むからやめさせろ、外へ行け!」
 だが銀一はあぐらをかいて座ったまま、「ビールは?」と言い放った。留吉は慌てて厨房へ引っ込み、ビール瓶の栓を抜きながら駆け戻って来た。「はよ飲め!はよ止め!」
 銀一はそれを受け取って立ち上がると、音を立てて隙間を開けたふた組の客達の間を悠々と歩いた。途中立ち止まってビールを一気飲みする。一瞬で瓶は空になり、銀一は無言でひっくり返し飲み口を握り直した。
 それを見た留吉が顔を覆って、しまった、と嘆いた。
 馬乗りになって若い衆をメッタ打ちにする和明。隣で別の若い衆の後頭部を掴んで机に叩きつける竜雄。泡を吹いてひっくり返る三人目。残された四人目は青ざめた顔で銀一を見上げた。小便の入ったコップを持って来た男だった。
「ご返杯だ」
 そう言って、銀一はビール瓶を振り上げた。



 同和対策審議会の答申(同対審答申)が提出されたのは四年前、昭和四十年であり、同和対策事業特別措置法(同対法)が制定されたのは正しく昭和四十四年、この年の事であった。全国的に部落解放や同和対策が叫ばれ始めた時代であったが、若い世代への影響はいまだないに等しく、いわゆるエタやヨッツ(四本指)といった差別的な表現や部落に対する忌避などは、まだタブーにすら思われていないのがこの街の現状と言えた。
 同和地区内での諸環境に対する改善を進める国策として始まった事業ではあったが、本来優先されるべき差別の撤廃という大前提よりも、金銭的な特別措置や生活環境の改善・向上に力を入れて行われた結果、周辺地域との軋轢や不平不満を煽るなどの課題も多く、利権に絡んだエセ同和問題などと合わせて次第に疑問視されていくようになる。
 歴史上、赤江という土地が古来よりの被差別部落であるという正式な証拠は存在しない。
 しかし時代がそういう側面を押し付けたと言っても、過言ではない。
 好景気と共に需要の高まった牛肉食を支えたのは銀一達「と場」の人間が行う屠畜、精肉業であったし、読み書きの儘ならない人間が半数を占めるこの街においては、一般的な公務員などよりはるかに収入の良いこの職業に就く事は、もはや必然と言えた。昔から屠畜、屠殺、皮革業などは部落産業と呼ばれて蔑まれる対象とされて来た。柄の悪い土地としても有名で、よそで仕事にありつず食い扶持のない人間や、生まれ故郷からワケありで逃げて来た人間が最後に流れ着く、ごった煮のような街だった。その事もあって、近隣地域からは特に赤江の食肉業従事者は毛嫌いされる傾向が強かった。しかしそこには固定観念や親から教え込まれた差別意識も当然あったが、実際この地にはヤクザ者や銀一達のような粗暴な人間も多かった為、反面、身から出た錆と言える部分も理由としては大いにあった。
 幼馴染の竜雄と和明が別々の職に就いたのは、単にそれぞれの好奇心が別の方向を向いたからであり、同じ生き方をするよりも色んな世界を見れた方が話のネタが増えるだろう、その程度の考えしかなかった。特に夢があったわけでもなく、食うに困らぬ生活が出来るのであればその方法には頓着しなかった。もちろん同じ街で生まれ育った彼らの間に差別意識などある筈がないし、銀一だけが人々から嫌悪される状況は、竜雄達にしてみれば到底我慢出来る訳がなかったのだ。
 銀一達は皆、子供の頃から喧嘩をするなら殺す気で行け、と教え込まれて育った。もちろん両親からも、祖父母からも、強きを挫き弱きを助けという正義の思想を教わっては来た。ただし『それでも、やるとなったら殺す気で行け』、という鍵括弧付きである。この辺りの生来の気性の荒さは赤江の土地柄とも言える。
 地元の人間同士笑顔で話をしていても、次の瞬間刃物を腰に構えて追いかけ回すなどの光景を当たり前に見て育ったし、相手がよそ者で仲間内を愚弄するというなら躊躇う理由などどこにあろうか、というのが彼らの言い分だった。



 この日、たまたま赤江の隣街に組事務所を構える暴力団、時和会の若頭が子分を連れて飲みに来ていなければ、銀一達は本当に若い衆を殺していたかもしれなかった。
 時和会はこの界隈で賭場を仕切る博徒系のヤクザたが、若頭を任された藤堂義右はまだ二十七歳と若いながら相当な腕っぷしと噂され、「時和の暴れ牛」と称される男だった。間に入って喧嘩を止めたのはその子分で、まだ銀一達と年の変わらない志摩太一郎という男なのだが、実はこの志摩の妹で響子という名の十七歳の娘とは、浅からぬ関係が皆にはあった。
 どこから手にしたのか、空の鍋とお玉で激しく音を鳴らしながら、その志摩が喧嘩のど真ん中へ立ち入って来た。ポマードで髪の毛をオールバックに寝かしつけたキザな男であったが、顔は確かに男前の部類に入った。銀一と、銀一に殴られ額から血を流す若い衆の丁度間に立って志摩は声を荒げる。
「はいはいはいはい、終わり終わり。この喧嘩はここで終わり。あとはうちの兄貴が買い取りまーす」
 聞き慣れた志摩の声に、竜雄も和明もぎょっとして振り返る。座敷の一番奥で、ビール瓶を掲げている藤堂の腕だけが見えた。すぐ近くに立っている銀一に向かって、志摩が低く声を掛けた。
「春雄はどうしたん。おらんで良かったのぉ。それよりお前、ちょっとその右手の危なっかしいもん、捨ててくれる?」
 銀一は俯いたまま、握っていたビールの空き瓶をその場に落とした。ビール瓶は、割れて猛り狂った王冠のような形状に変化しており、そのまま座敷の畳に突き刺さった。トス、というその音と共に、銀一は志摩に対して一応会釈で返した。とは言え傍から見ればただ頷いたようにしか見えない。
「多分じゃが、これ、うちと関係ある連中なんじゃないかのお」
「え」
 志摩の言葉に銀一は顔を上げ、そして転がっている四人の若い衆達を見やる。作業着の左胸あたりに、微かに時任建設の名前が見てとれる。堅気とは言え半分時和会に片足を突っ込んだ人間である事に、この時初めて気が付いた。竜雄も和明もそれを確認して一瞬バツの悪そうな顔をしたが、ひっくり返っている若い衆の頭をバシンと叩いて、
「作業着くらいちゃんと洗え」
「汚のうて全然見えんじゃろうが」
 と、あくまでも憎まれ口を叩いた。
 志摩は若い衆達の側にしゃがみ込んで、いけるか?と聞いている。竜雄と和明が立ち上がり、銀一の側まで来た。
「まずいぞ。あそこ、藤堂さんじゃろ」
 そちらを見ないようにしながら竜雄が小声で言うと、
「挨拶せんわけには、いかんよな」
 と和明も同調した。銀一は視線を志摩に落としたまま、「なるようになんだろ」と笑った。
 志摩は自分の声が届いているのか分からない若い衆達の頬を叩きながら、おーい、おーいと何度も呼んでいる。太腿を箸で刺された男は痛みからうーうー唸り声を上げている為意識があるのは丸わかりなのだが、それでも目を閉じたまま志摩の声には答えずにいた。ゴ!と音がした。志摩がその男を殴ったのだ。
「なんで答えんのよ。お前らな、あんまりこっちまでは聞こえてこんかったけど、どうせまたこいつらの事エタだのヒニンだの言うてからかっとったんじゃろ。お前らもここいらで仕事任されとんなら赤江の四兄弟くらい知っとるだろうが。相手を選んで喧嘩せんお前らの勢いは買うてやるがよ、火種としちゃあ今回はお前らの分が悪いわ。こっちはこっちで、きちっと俺と兄貴で締め付けとくから、もうここらでお前らは手を引け。な」
 銀一達は黙って志摩の言葉を聞いていたが、上手いもんだなと感心した。赤江の四兄弟などと言われたのは今日が初めだが、頭のおかしな四人が赤江にいるという噂がある事は、前々から知っていた。そこを上手くおだてに使って、コテンパンにされた若い衆の気持ちを静めたわけだ。喧嘩は良いが、理由が良くない。おまけに相手は頭のおかしい狂犬なんだ、相手にするなと、そういうわけだ。
「返事は!」
ひっくり返って喋れる状態ではない四人も、ここは頷く他なかった。



 喧嘩の後の酒は美味かったが、正面に座る男の圧力が煩わしくて、面倒だった。
 明らかに身長が百八十センチ以上あるその男は、と場で鍛えた銀一ですら敵わない胸板の厚みと腕周りの太さが特徴的だ。騒動が治まるのを待って、藤堂が自分の席へ銀一達を呼んだのだ。関連会社の若衆を四人も潰した手前、断るわけにはいかなかった。
 志摩がもう一人の子分と共にビール瓶をケースごと抱えて戻ってきた。
「正座せんかい馬鹿タレ!」
 志摩の怒鳴り声に、銀一らはあからさまに顔をしかめた。彼らの興奮はまだ収まりきっていない。
「今日はええわ、面白いもん見たしなあ。お前らはほんま、いつ見ても喧嘩ばっかしとるのお。なんでお前らがいつまでも堅気なんか、全然理解出来んわ」
 愉快そうに日本酒を煽る藤堂の右手親指は、第一関節から先がない。事故ではない。若い頃に犯した失態の責任を取る為、小指ではなくいきなり親指を詰めたという話だ。
「お」
 お前が言うな、と竜雄が言いかけて口を噤んだ。
「まあ、飲め。飲んでちょっと話を聞いてくれりゃあ、帰ってええ」
「兄貴、ええんですか」
 志摩は藤堂の隣に腰を下ろしながら、少しだけ不安そうな顔をした。
「ああ。別にこいつらの口からサツに話が漏れ出る事はないやろ」
「そりゃあ、まあ、そうだとは思いますが…」
 事情の呑み込めない三人は首を傾げて、とりあえず飲めるだけ飲んでやろうとビールの一気飲みを開始した。舐め切ったその態度に志摩は腹を立て、机をぶっ叩いて「おい」と叫ぶ。しかし三人はまっすぐに志摩を見据えたまま、ペースを落とさない。藤堂は確かに面倒だが、志摩一人が粋がった所で怖くもなんともない。三人はまるで水みたいにビールを飲み、空瓶を後ろへ放り投げていく。初めの内は本物のヤクザを相手に、一応の礼儀として大人しくしていたつもりだが、喧嘩の後の空きっ腹にビールを流し込むうち、やがてはどうでも良くなってきた。
 だが、
「西荻の話なんだがよ」
 と、藤堂がそう言った瞬間、三人の動きが面白いようにピタリと止まった。

4 「黒団」


「どうもに、クロが絡んでるという、噂やな」
 相手の顔色を窺いながら言う藤堂のねちっこい言葉に、銀一達は顔を見合わせ、飲みかけのビール瓶を机の上に戻した。志摩が片頬を吊り上げ、揶揄う。
「巻き込まれるんはごめんやと、顔に書いたーるぞ」
 竜雄は片膝を立てて「帰るか」と後の二人に声を掛けた。
「最後まで聞け」
 藤堂の押さえつけるような声に、しぶしぶ竜雄は膝を折る。
「新聞なんてもんを読んだことのないお前らでも、西荻の家で殺しがあった事ぐらいは知ってるやろ。それに関連して面白ろうない話があってやな。どうもこれは、クロが絡んでいるらしいぞと、こういうわけや。確かに証拠みとーなもんはない。そりゃあお前、相手がほんまにクロの連中なら証拠なんて残すわけがない。だがどういうわけか、名前だけはしっかりと俺の耳にも届いてきやがるんよな、これが」
 銀一達は聞こえない振りを決め込み、俯いている。
 ただ仕事帰りに美味い酒が飲みたかっただけなのだ。それなのに、ボンクラみたいな兄ちゃん達に難癖を付けられるは、ヤクザに首根っこ掴まれるは、挙句には「クロ」なんて名前を聞かされる始末だ。今日は厄日かと思う程に運がない。傍らに転がるビール瓶を睨み付けながら思う。
 (ひとっ風呂浴びるのを我慢してまで、こいつを選んだってのによ…)
 銀一は正直腹が立って仕方なかったが、藤堂相手にブチ切れるには、まだ酒の量が足りていなかった。
 昔から、色々な呼ばれ方があった。黒盛会。黒巣会。黒の巣。黒の団、そして黒。そのどれもが不正解であり、正解だった。正しい名前が何かという事は重要ではなく、誰の話をしているのかが分かればそれが正解と言えた。
 この界隈で「黒」関連の名前を出せば、誰もが耳を塞いで首を横に振る。あっちへ行けと手の甲を振り、ヤクザすらその話題には眉をひそめる。昼間からドラム缶の上でバクチに興じる呑兵衛達がたむろする比較的明るい路地ですら、黒の名前を出すと酔いから醒めたような顔で相手を睨み付ける。以前この土地の生活を取材に来た新聞社の人間は、たまたま耳にした聞きかじりの「黒盛会」という名前を口にした瞬間、問答無用で金的を蹴り上げられた程である。
 暴力団に対する指定や、それらの基準となった暴対法などが施工される前のこの時代、ヤクザとも愚連隊とも違う「黒」という存在が、裏稼業の間では当たり前のように認知されていたようだった。一説によれば江戸時代後期から日本の裏側で暗躍する何でも屋で、ポジティブな通称とは裏腹な本来の意味は、請負殺人を生業とする営利団体と言われている。もちろん看板を掲げた会社組織とはわけが違う為、当然その実態は謎に包まれている。一般人にしてみればそれこそ都市伝説だと思うかもしれないが、赤江のようなヤクザ者を当たり前に内包して成り立っているような街では、大昔から身近な恐れの対象として危険視されて来た。本物の裏家業人が存在を断言するのだ。いないと考える方が難しい。
「時和会の藤堂さんが出張っていけば、万事解決なんじゃないすかねえ」
 竜雄がそう言うと、志摩が気色ばんで膝立ちになる。
「お前さっきからええ加減にせえよ!生意気言うな!」
「ええがな。確かに、俺が出て行けば大抵の事はなんとかする。ただ今度の件、何をどうすりゃええのか、皆目見当がつかんのよ」
「そもそも、藤堂さんは会うたことあるんですか? その、奴らに」
 竜雄の問いに、藤堂が腕組みをして黙った。痛い所を突かれただとか、何とかごまかそうとか、そんな腰の引けた感情が読み取れる顔ならまだ救いはあったのだが、質問した竜雄自身が唾を飲み込む程藤堂の表情は険しかった。
「多分…あると思う」
 その言い方が、怖かった。
 自慢でも、思い込みでもない。明らかに実体を伴ったシルエットを思い浮かべながら答えているであろうその声色と言葉が、銀一達三人を俯かせた。どこかで、そんな集団なんぞ存在しないんじゃないかと思っていた三人の希望が、音もなく砕けた。
 「政治的な何かじゃないんすか。金銭とか、土地とか、あと分からんけど、国とか」
 努めて、自分達には関係のない世界の話だと考えながら思いつくままに和明が言うと、藤堂は意外そうに目を丸くして、「お前、こっちの素質あるのお」と笑った。
 志摩が面白くなさそうに和明を睨むと、和明は振り返ってそこらへんに転がっているビール瓶を一本拾って握り締めた。すかさず銀一がそれを取り上げて首を横に振る。面白そうにそれを見やりながら、藤堂が続ける。
「金と土地な。ただお前、そんな簡単な話なら俺が出んでも、こいつに片付けさすわ。土地転がしの教科書なんぞ、ようけ持ってる。お前らもその気になったらいつでも言うてこい。なんぼでも販売したるさけ。ただお前、よう考えてみ。西荻を殺して今誰になんの得がある? 現にお前、開発事業がストップしてもーとるやないの。国がそれを望む事はないわな。黒に仕事を依頼した奴がおったとして、それは国やないな」
 確かに、と三人は考える。
 藤堂は、「それにや」と言う。
「何が原因やったか今となっては分からんが、仮に土地に関する揉め事をスムーズに流したいんであれば、俺ならば殺さん。どこぞへ拉致って、嫌でも首縦に振らす方法、知ってるからな。じゃあ、この街のもんか? それこそお前、よそならまだしも、こんなドブ街の人間が開発を止めたい理由なんか、あるけ?」
 理由なら、あるだろう。
 西荻から土地を借りて生活している者達ならば、開発を止めたいと思っても不思議ではない。それこそ磯原のような人間が、そうだ。例えば雇い主とも言える西荻の名前が『山田さん』にすげ変るとして、その山田さんが磯原達労働者をそのままの雇用形態で引き続き雇い続ける事はない。そもそも国が買い上げ区画整理された土地に、工場だけ以前の状態で残されるはずがないのだ。
 長距離トラックで日本中を走っている竜雄は、経済成長とともに様変わりしていく土地を多く目の当たりにしている。恐るべき速さで街並みが変化していくのだ。赤江だけ例外などと言う話はありえない。
「仕事や家を追われるかもしれん人間かて、いてるやないですか」
 と、銀一が言った。
「こんな街出て行ける人間は出て行けばええし、それが無理な人間は職を変えるしかないな。住むトコなんぞ、なんとでもなるやろ。うちに言うてこいや。お前らならいつでも世話したるぞ」
 藤堂はそう答え、黄色い歯を見せてにやりと笑った。
「いや、まあ、…はあ、遠慮しときます」
「わはは!それにお前、家なんか『隣』になんぼでも空き家があるがな」
「まあ、…そうっすね」
 藤堂の言った『隣』とは赤江地区に隣接する住宅街の事だが、これについては別の機会に触れる。
 「この街の事で藤堂さんや時和会が知らない。もちろん西荻のじいさん殺しに関わってるわけでもない。…だからって、それが黒の仕業やと?」
 と、銀一が聞くと、
「ちゃうがな。消去法じゃないんや」
 と、藤堂は唸るように言った。
「お前らは知らんやろうし、別に知らんままでもかまわんけどな。実際殺られてんのは、西荻だけやないぞ」
「え?」
 急に、正体不明な怖気が三人を襲った。
「だから簡単やないんや。殺されたんが西荻のじいさんだけなら、土地の問題抜きにしたって理由はなんぼでもこじつけられる。この街で古うから踏ん反り返っとる地主様やでな。大小含めて、ドス持ってポーンと突きに行きたい恨み持った輩なんか、なんぼ程おる思てんねん。…けどなあ」
 三人には初耳だった。恨み云々の言い回しは藤堂の勝手な偏見だとしても、確かに西荻の家はこの街に知らぬ人間などいない大地主だ。ましてや孫の平助は銀一らと同年代であり、子供の頃はよく取っ組み合いの喧嘩などして遊んだものだった。彼の祖父が無残な殺され方をしてからというもの、街中で色々な噂話が囁かれ、内心銀一達も面白くはなかった。平左自身には何も恩義を感じないが、それでも青白く変貌した平助の顔は見るに堪えなかった。
 ましてやそんな状況で、平左以外にも殺された人間がいるなどと街の者が知れば、今頃は大騒ぎになっていても、何らおかしくはない。
「誰ですか」
 少し声を落として、和明が聞いた。藤堂は一瞬考える表情を見せ、
「誰にも言うなよ」
 と念を押した。
「二人おる。まず一人は、お前らも名前くらいは聞いた事あるやろ。四ツ谷組の、松田や」
「え、バリマツですか!?」
「死んだんですか、あの人」
 思わず竜雄と和明の腰が浮いた。隣県で今最大規模の暴力団が四ツ谷組であり、まだ三十歳そこそこながら数々の武勇伝で名を馳せた『バリマツ』こと松田三郎は、銀一達世代の中では最も有名なヤクザ者と言えた。
 十代の頃、敵対組織の事務所に向かって当時まだ珍しかったマシンガン(バリバリと呼ばれた)を武器に単独でカチコミを血行したという。しかもその理由は「一番近くにある敵事務所だったから」である。当代きっての気狂い武闘派で知られた男であった。
「四ツ谷は今大騒ぎや。まあ、うちの親っさんとこにも話がくるぐらいじゃ。それこそ血眼んなって犯人探してるやろ。ただ、俺は見つからんとふんどるがよ」
 藤堂は話を続けるも、銀一達はバリマツが殺されたという衝撃が強すぎて、耳に入って来ない様子だった。彼らとバリマツの年齢は十歳程しか離れていない。義務教育もまともに終えていない三人にしてみれば、隣県とは言え自分達より頭のおかしいやんちゃがいるという事実には妙な親近感があり、赤江の同世代においては共通のヒーローであった。悪事は悪事として認識していたものの、それでもまだ子供だった銀一達にしてみれば、頭一つ抜け出た存在は格好良く思えたのだ。時代背景もあっただろうが、人の生き死にが割と近い存在だった事も一つの要因かもしれない。結局一度も会う機会はなかったが、噂だけはいつも聞いていた。いつか自分達がバリマツのような生き方をする事になるかもしれないと、そういう可能性はどこかで感じていたのだ。
「…それで、あと一人っていうのは」
 銀一がそう尋ねるまで、竜雄と和明は見た事もないバリマツの去り行く背中を空想し、ずっと見送っていた。
「まあそっちは、名前を言うても分からんとは思うが、今井っちゅうおっさんや」
「イマイ…」
 確かに、三人とも苗字を聞いただけでは誰の事なのか見当もつかなかった。
 藤堂は息を止めて、机の上に身を乗りだした。
「言うなよ…。制服や」
 一拍置いて、
「警察ですか!?」
 と竜雄が叫ぶ。
「おい!」
 と志摩が竜雄の頭を殴る。本来なら黙っていない筈の竜雄は全く反応せず、ゆっくりと銀一を振り返った。銀一は目を閉じ、和明は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「何や、知ってたんか? 知りあいか? ひょっとして」
 三人の反応に、藤堂が食いついた。観念したように、竜雄がボソボソと話し始めた。



 西荻平左の孫、平助から聞いた話である。
 平左の死後、家督を継いで気丈に振舞っていた息子の幸助が、しばらく経つと様子がおかしくなりだした。
 幸助は自身の受け継いだ土地について、初めは開発事業に乗り気でも反対でもなかったという。幸助にしてみれば、先祖代々という感覚すらピンと来ておらず、どちらかと言えばこれまで注目される機会に恵まれなかった分、色々と世話を焼いてくる周囲の反応を楽しんでいるにすぎなかった。国から交渉を持ち掛けられれば笑顔で応じ、土地を追われては敵わない雇われ労働者達が押し寄せては神妙な面持ちで話を聞いた。まだ幾らかも経たぬうちは、それでも家督を継いで悪戦苦闘しているのだと好意的に捉えられていたのだが、時間が経つにつれてどっち付かずの態度を四方八方から責め立てられるようになった。
 よくよく考えてみれば、幸助としてはどちらでも構わないというのが本音だった。結果この街を出てゆかねばならないとしても、平左亡き後自分の人生がこの家に縛られる謂れなどないと感じたし、まとまった金が入るならそれも良いじゃないかと思うようになった。
 女房の静子はもともとよその土地の出身だった事もあり、その金を元手に故郷へ帰りたいと言いだした。息子の平助が成人している事もあり、余生は差別や偏見のない穏やかな生まれ故郷、和歌山で過ごしたいというのが言い分だった。
 なるほど、幸助もだんだんとそれが良いように思えて来た所へ、男が現れた。その男は四十代から五十代といった風体の警察官で、勤務時間ではないであろう夜中に制服を着たまま一人でやって来た。
 聞けば生前平左と懇意にしていたらしく、忠告に来たのだと言う。最初に玄関で対応したのは平助で、男の言う忠告の意味が全く理解出来なかった。言われたままに父である幸助に来客を告げると彼も怪訝な表情を浮かべたが、相手が公僕である以上追い返すわけにもいかず、女房を叩き起こして家の中へ招き入れたという。
 平助はこの男の事をよく覚えていた。
「下の名前は聞いてねえ。ただ顔にな、大きな火傷の跡があった。新しいもんじゃねえ。もしかすっと、戦時中のもんかもしれねえな」



「忠告て、なんや」
 と、藤堂が尚を身を乗り出した。
「それは分からん。平助も、それは聞いとらんのだって」
「なんでタメ口じゃワレ!」
 と志摩が竜雄の額をはたいた。和明が膝立ちになって志摩の頭頂部に拳骨を落とした。
「いたー!」
 とひっくり返る志摩。
「夜中に一人でやって来た制服…。その男が、今井なんか。…これはこれは」
 藤堂は身を引きながら右手で顎をさすって、そう言った。
 その今井という男が、藤堂の言う殺された警察官だという事なのだろう。
「このご時世よ。堅気もヤクザもよっぽどの事が限り、好き好んでサツは殺さんよ」
 嫌でも、先っぽの無い親指が銀一達の目に入った。だがそれよりも、藤堂が頬に浮かべた微笑みの方が、銀一達にとっては何倍も気持ちが悪かった。
「いよいよ、奴らの気配が濃厚やのう…」
 藤堂の目が、ぬらりと光り輝いた。

5 「絡流」

「何で親指かと言うとやなあ。知ってるか、小指を詰めると、拳を握った時に上手く力が入らんのや。なあ、分かるか、試してみ」
 既に日の暮れた夜道を、銀一、竜雄、和明の三人が歩く。月の出ている明るい夜である。
 その後ろから、先程店で別れた筈の志摩が付いてくる。
 垂れている講釈はつまり、なぜ藤堂義右が小指ではなく親指を詰めたのか、である。
 雷留を出た三人は繁華街を抜け、赤江へ戻って来た。平日の夜であり、翌日銀一の朝は早い。竜雄も午前中には仕事でトラックに乗って街を出る為、浴びるように飲みたい夜ではあったが、諦めて帰路についていた。
「何でお前、付いてきよんじゃ」
 明らかに嫌そうな声で和明が言う。
「護衛だよ、護衛」
 笑って志摩がそう言うと、三人は立ち止まって一斉に振り返った。
「そんな怖い顔すな。冗談じゃろが」
 狼狽える志摩に舌打ちした後、三人はまた歩き始める。
「藤堂さんに付いとらんでええんかい。あの人こそやばいやろ、何度も何度も黒黒言うとったじゃないの。攫われてもしらんよ、俺ら」
 意地の悪い声で和明が言うと、志摩は少しだけ怖気づいた顔で、
「おま、お前そういう事言うなよ。俺はお前、兄貴が付いてろって言うからよお」
 と、しどろもどろだ。
「何で俺らに付く必要がある」
 振り返らずに銀一が尋ねると、志摩は鼻から溜息を逃がして、こう続けた。
「俺はそこまで考えとらせんけども。…どうやら兄貴は危機感持っとるみたいよ。赤江、やばいんじゃないかー、言うて」
 三人がまた立ち止まって、志摩を振り返る。
「赤江が?」
 竜雄は全く理解が及ばないという顔で銀一達の顔を見、志摩に問いかける。
「どういう意味」
「まあ、まだ全部は言えんけども、うちの組も隣街言うたって実際は我が街くらいには思うとるからな。ここがやばい事になりでもしたら、そら平気ではおられんよな」
「だからお前は、何の話をしとんだって」
 と竜雄。
「なあ、春雄はどこにおるん?」
 きょとんとした顔を斜めに傾けて志摩がそう言うと、
「お前、ええ加減にせえ! 話す気がないんならついて来るな、クソが!」
 竜雄がそう怒気を吐いて、志摩の襟元を掴み上げた。
 酒の席とは打って変わって、今の志摩にはやり返すだけの意気込みは感じられない。
「もしよ。春雄と連絡取れるんならよ、しばらくは、帰ってくるなて、言うとけ。そいで、…響子をちゃんと見とけて、言うといてや」
 三人は顔を見合わせ、首を捻りながらも内心は納得していた。わざわざ志摩が付いて来た理由はこれだと思った。彼の妹の響子は、銀一らの幼馴染である神波春雄と恋仲なのだ。普段は肩で風を切るように街を闊歩するこの男が、本来なら年が近いというだけで銀一達に気を許したりはしない。可愛い妹と彼らの関係があってこそ、堅気とヤクザ者がこうして肩を並べているのである。
 だがそうなると、雲行きはますます怪しくなってくる。
「お前、マジで知ってる事があんなら吐けや」
 竜雄が言うと、志摩は片目を瞑ってせせら笑い、
「ヤクザみたいな物言いすんなや」
 と言った。
「お前が言うとほんま、シャレに聞こえんのよ」



 志摩の話はこうだ。
 時和会としては西荻と今井の関係までは知らなかったが、殺されたバリマツこと松田三郎と西荻平左の間には関係がある事を以前から把握していた。と言うのも、松田の姉は名を静子と言い、平左の息子・幸助の女房である。つまり西荻と松田は姻戚関係にあたる。昔から赤江の裏事を取り仕切っているのは志摩が席を置く時和会だが、その赤江の地主である西荻の家には隣県最大組織である四ツ谷組の身内がいる事になる。これは西荻にとっては悩みでもあり、大きな後ろ盾とも言えた。時和会と四ツ谷組は敵対組織ではない為表立って衝突する事はないが、お互いの看板を巡って牽制する位の睨みは、普段から効かせ合っている。
 志摩は言う。
「四ツ谷にしてみりゃあ面白くはないわ。バリマツと言えば俺らの世代じゃ大スターや。そのスターの身内が、うちの息のかかった赤江におる言うだけでも話ややこしいのに、その身内の親が殺されて、おまけにバリマツ自身もいてこまされた。初めは息巻いてうち(時和会)に突撃掛けたろう思たらしんやけど…」
 言葉を切る志摩に、今井か、と思い立ち、三人は息を呑んだ。
「せや。もう一人、オマワリまで消された。これは正直、アカンとなった。分かるか?」
 無言で三人は頷いた。むろん、分かる。
 四ツ谷組の思惑としては、バリマツを殺した犯人を血眼で探すのはもちろんの事、この機に乗じて時和会へ攻め入る口実をでっち上げる事も出来たわけだ。だが、いつもならその先陣を真っ先に切るバリマツ本人が墓の下とあって、勢いがなかった。二の足を踏んでいるうちに機会を失い、そして警察官が殺された。警察は組織の威信をかけ、身内の被害に対しては鬼のような初動で犯人を追う。
 西荻平左が死に、その姻戚である松田が死に、さらにそれらと関わり合いのあったらしい警察官が死んだとあっては、四ツ谷組も勇んで抗争をおっ始めるわけにはいかぬ、というわけだ。
 尚も志摩は続ける。
「例えその警察の今井何某が西荻となんら関係のない男やったとしてもや、バリマツ殺しの周辺でオマワリなんぞにウロウロなんかしてほしないわいや。そこへ来てお前、実は西荻と繋がりがあったと知れてみい、お前そんなもん…」
 事情を全く知らない警察組織にしてみれば、この件に関して一番怪しいのはどう考えても時和会である。殺された登場人物達と関係者を並べてみた場合、唯一被害を出していないのは時和会だけなのだ。自分達の縄張りで殺しがあった。彼らにしてみれば、それだけである。
 世にも恐ろしいものを見るような顔で話をする志摩に、銀一は飲みの席にいる間からずっと気になっていた疑問を投げかけた。
「いつなんだ?」
「え?」
 呆けたような顔で志摩が聞き返す。
「その、平助ん所へ現れたオマワリが死んだのは、いつの話や」
 志摩ははっとした顔で息を呑んだ。
 西荻平左が殺されて、既に一年が経つ。もちろんこの一年の間で、他にも殺された人間がいた事を銀一達は今日初めて知ったわけだが、ここへ来て急にそれらの情報が耳に入って来た事に、偶然とは思えないキナ臭さを嗅ぎ取っていた。
 藤堂は先程「四ツ谷は今大騒ぎや」と語った。その口振りから察するに、バリマツが殺されたのはごく最近の事だと思われる。四ツ谷が時和に対して抗争を起こさなかったのが、志摩の言うとおりタイミングの話であるならば、今井という名の警官殺しもまた、最近という事になりはしないか。だがもちろん、そんな重大な事件は誰も聞いた事がなかった。
「いつや?」
 と竜雄が同じ質問を口にする。
「絶対に言うなよ」
 と志摩は言う。夜だからか。顔が、真っ青に見えた。
「…おとついや」
 おとつい? 嫌な汗が三人の背中を滑り落ちていく。いくら何でもそこまで最近の話だとは、誰一人思ってもみなかった。
 雷留に向かう道中、竜雄は銀一達に対して、平助から聞かされたという話をしてみせた。その中で最も謎に包まれ薄ら寒い気持ちにさせられたのが、平助の父親・幸助がうわ言のように繰り返す、「次はワシの番や」であった。
 今井という警察官が殺されたのが一昨日だとして、竜雄が平助から相談を受けたのは昨日だ。平助の口ぶりから察するに、幸助が塞ぎ込んでおかしくなり出したのがここ二、三日とは考えにくい。ならば、幸助は忠告に現れた今井という警察官が殺される事に、予測がついていたのではなかろうか。あるいは今井自身が、幸助に身の危険について語って聞かせた可能性もある。
 そして、和明が漁港で仕入れて来たという噂話もある。『西荻平左を殺した犯人が、またこの街に来ている』。
 これらのパーツ一つ一つが何を意味しているのかは全く分からない。その事が却って三人を気味悪がらせた。まだ目の前に時和会のドンが仁王立ちしている方が、何倍もマシだと感じていた。
「平助の所には行ったんか?」
 と銀一が尋ねる。
「西荻の家か? いや、今はよう行かん。それこそオマワリがわんさとおろうが」
「なんで」
「今井っちゅう男と西荻に関係がある事は、そら足取りを追えばそのうち警察も勘付くやろ。ただでさえ今うちはなんやかんやで監視の目厳しいからな。よう行かんわ」
 銀一がそれとなく竜雄を見やると、竜雄は彼を見返す事なく頷き返した。昨日彼が平助と話をしている間も、何人かそれらしい人間の出入りを目撃している。
「勤務外やったろうに、わざわざ夜中に制服着たまま西荻の家に現れたんやろ? そんなもん、ワシ警察ですねんて宣伝してるやんけ。…まあ、あえて目撃させたんかもしれんな。備えとったらほんまに憂いがやって来た、ってな所かの」
 志摩の言葉には説得力があった。銀一は感心しながら頷いた。
「ただー、やっぱりー、行かんわけにはー、いかんなぁ」
 芝居がかった志摩の言葉の真意を測りかねて、三人は黙った。
「なあ。明日にでも、なあ」
 と、尚も志摩は言って銀一の顔を見た。
「…仕事じゃ」
 勘付いた銀一がそう返事をすると、巻き込まれたくない和明が間に割って入る。
「お前、ヤクザもんのくせして堅気に危ない橋渡らせるつもりか?」
「そやかて、と場は朝早いけど、日によっちゃあ昼で終わる事もあるそうやないの」
 志摩ははぐらかすように見当違いな答えを返し、そのまま、
「ほな和明は? 明日は何?」
 と矛先を彼に向ける。
「…マグロ」
 そっぽを向いて和明が返事をすると、志摩は明後日の方向を向きながら声を張り上げる。
「遠洋漁業かい! ひと月かい! 一年かい! 経済成長てほんまやのお!儲かりまんなあ!」
「うっさいのう!」
 思わず和明は志摩の膝を蹴り上げる。
「いた! なんやお前はさっきから、荒んどるのお! わしがヤクザでお前ら堅気じゃろが! ちったー、大人しいせえよ!」
「銀ちゃん付き合う事ないぞ、こんなもん、放っとけ放っとけ」
 漫才のような掛け合いの後、和明は真顔で銀一にそう言った。顔が、本気で心配していた。銀一は苦笑いを浮かべて頷いて見せたが、実際この時点で関わり合いになる気など毛頭なかった。相手が悪すぎると、この街で暮らして来た人間なら誰もがそう思う。相手はヤクザ者さえも振え上がらせる地下組織だ。二十歳そこそこのチンピラ風情が粋がった所で何が出来るわけでもないし、それこそ目を付けられたら命がいくつあっても足りない。
 銀一は黙って竜雄の横顔を見た。子供の頃からの付き合いだ。口数の少ない彼が何かを抱えている事は、なんとなく分かっていた。

連載『風の街エレジー』 3 、4、5

連載『風の街エレジー』 3 、4、5

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

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  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-26

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  1. 3 「割瓶」
  2. 4 「黒団」
  3. 5 「絡流」